すれ違ったり、分かち合ったり

本日も、また雨である。

昨日は、小雨だった。

ちなみに一昨日は、曇りである。

暦は十一月に変わり、世間一般では洗濯物の大敵と呼べる季節が到来した。

でもうちはと言えばそうでもなく。以前まであった洗濯物が乾かないという悩みは、器用なクオーツのトロ火乾燥のおかげであまりなくなった──が。あまりなくなりはしたものの、人間、通算成績で一週間に三日雨だとやる気が失われていくと思う。最近で浮足立ったのはジークさんが夕飯を食べに来た翌日に、師匠が護符を新調してくれたことと、一気に衣装持ちになった日くらいだ。

別に前のに不具合もなかったし愛着もあったんだけど、師匠が言うには『あたしがそのデザインに飽きたのよ』という、如何にも師匠らしい言い分だったので気にしないことにした。

新しいものは前回までと同様に過剰防衛では? というような攻撃力を誇りつつ、こっちから師匠のいるところまで飛べるという機能がついていて、私が師匠にもらった魔力を同調させると引き寄せられる……らしい。要約すると〝大好きな師匠のところに行きたい! 今すぐ!〟みたいに念じれば飛べた。我ながら解釈が馬鹿っぽすぎる。コツを掴むまで魔力切れで鼻血を出すまで練習したのも、天才魔術師の一番弟子として情けない限りだ。

一応限定的なポータルに転移するための魔力構築の原理は説明されたけど、難しくていまいち分かっていないのだ。天才の所業は凡人には理解できない。ただ市場に出すとしたらかなり希少で高価な護符になるのかなくらいの予測はつく。

それに伴い幾らかクオーツの大きめな鱗が犠牲になった。でも何より新しい護符がもらえると、まだここにいて良いと言ってもらえているみたいで嬉……し、い……な!

「アリア、ジェキルの根を刻むのにいつまでかかってるの」

「いや、待ってくださいよ師匠。この根っこ鋼鉄製かってくらい、物凄く硬いんですけどっ、ちょっと切るの難しすぎませんっ……?」

「服と護符を新調してもらったから、新しい素材に挑戦してみたいって張り切ってたくせに。もう降参?」

「はあぁぁん? 降参しませんけど、これ、人体に使ってもいいやつなんですかっ……!」

今まで触らせてもらったことのなかったジェキルの根。見た目は黄緑色の細っこい根っこのくせして、やけに硬い。さっきからナイフの背を金槌で叩いて切っているのに一向に刃が入らない。ドラゴンのクオーツが小首を傾げて観察するくらい不思議な光景みたいだ。

すると額に汗をかき始めた私を見ていた師匠が「ふふふ、意地悪しすぎたわね。貸してみなさい」と手を差し出してくる。

途中で作業を交代することが不満で憮然としたまま根っことナイフを渡すと、師匠は「こうやって……魔力を流し込んで座標を解くのよ」と言いながら、あっさりとジェキルの根を刻んでいく。は?

「お、おおー……まるで砂糖菓子みたいに脆くなっていく……」

「ギュギュギュー?」

「〝どうなってるの?〟かって言われてもねぇ。私も知りたいよ」

「はいはい、原理なんかはやってるうちに感覚で掴めるようになるわよ。てことで、あとはこれにこの香油と、さっき抽出しておいたダロイオエキスを加えて火にかけていくわ」

「あぁぁぁ……お客さんに申し訳ないくらいダロイオが大活躍してるぅぅぅ……」

「そういうこと。また釣ってきて頂戴ね~」

「えええっ!? 師匠の鬼! この美魔女!」

「おほほほほほ、何とでもおっしゃい」

悪役っぽい高笑いをしながらそういう師匠に悲鳴を上げる私。簡単に言いますけどね、釣りは趣味だから楽しいのであって、指定を受けた魚を釣り上げるのは仕事なうえに完全に運頼み。それもフェロンならまだしも、狙うのがあの魚とか絶対に嫌だ。

「ギャウゥゥゥー……」

これはなんちゃってドラゴン語翻訳をしないでも分かる。ただただドン引きってやつだ。

「待って、見捨てないでクオーツ。私達って二人で一人前じゃない。一緒に釣り……あ、でも待てよ? 湖に魔術で構築した籠沈めて持ち上げたらダロイオの一匹や二匹いけるのでは?」

「悪くないけど乱獲はしないでよ。あとその場合はダロイオの団体から、水鉄砲の集中砲火を浴びる可能性があるって分かってる?」

「げ……そうなっちゃうと私、跡形も残りませんね」

「何にでも近道はないってことよ」

ダロイオと聞いて明らかにやる気を下げるレッドドラゴンを前に必死に打開策を捻り出すも、サクッと師匠に希望を断たれた。

この野郎と思いつつも、無謀なことを試す前に止めてもらえて良かっ……たのか? いや、違うな。ただ釣りを地道にするしかないという結論に達しただけだ。

私がその結論に至ったところで、師匠が心底楽しげに美しい微笑みを浮かべる。この顔をされてしまったら、もう抵抗を諦めた方が良さげだ。せめてフェロンもたくさん釣って美味しく料理してもらおう。

「もー……それで、これって結局何になるんです?」

「湯上がりに使う全身用ジェルよ」

「ほう、それはまた何とも悪魔的な。原材料を見たら、欲しがるお客さん誰もいなくなりそうですねぇ」

「ギャ、ギャヴゥゥ……」

美容のためとはいえ、全身にあの怪魚のデロデロを塗りたくるわけだ。クオーツの頭を撫でながらドン引きしてそんな会話を交わしていたら、不意に師匠が形の良い眉を持ち上げた。

ということは──。

「定休日だってのに、店の方に誰か来たみたいね」

「ということはジークさんですかねぇ?」

「まぁ一番あり得る線ではあるかしら」

「ふむ、だとしたらこの間から師匠に難しい討伐関連投げすぎですよ。前に書類仕事は嫌いだって愚痴ってましたし。あれでギルドマスターやれてるんでしょうか?」

「あたしがただ便利に使われるわけないでしょう。ちゃんと持ちつ持たれつの関係よ。そういうことだから少し出かけるわ。薬の調合の続きは帰ってきてからね」

師匠はそう言うとさっさと刻んだジェキルの根を片付け、魔法陣のある工房の方に行ってしまう。仕方なく残りの片付けをしようと作業台の上に手を伸ばしたところで、ハッと閃いた。今ジークさんが店に来ているのなら、ここは弟子として師匠をお手軽に使うのは止めてほしいと直談判すべきではなかろうか。

実際に今日は新しい調合に挑戦中だったところを邪魔されたわけだし。ちょっとうちの夕飯で団欒した程度で家族ぶられても許しませんからね。師匠をお嫁さんにもらうならまだしも。第一仮に家族の座を狙うなら連れ子の私の懐柔が先でしょうが。

──……てことで。

「さてクオーツ。私は上昇志向が強いので、今からこの新しい護符を使って師匠のところに飛ぶ練習をします」

「ギャウ、キュキュー?」

「〝そんなことして怒られないか〟って? チチチッ、私がジークさんを怒りに行くの。師匠のことを便利屋さん扱いしないでくださいって。そういうことだから、お留守番よろしくね」

心配性で空気の読める相棒を丸め込み、一応の言い訳用にデッキブラシも装備した。雨続きだったから持っていっても損はないだろうし。それから瞑想のために目蓋を閉じて護符に魔力を送る。大切なのは護符に含まれている師匠の魔力に、分けてもらっている分の魔力を同調させること。

太い魔力の糸に強引に細い魔力の糸を絡めたら千切れてしまうから、太い魔力の糸の方を細い魔力の糸に近付けていく気持ちで。スーッと伸びていく感覚を頼りに、一番近い細さになったところでぐっと魔力の尻尾を掴む。ガクンとやや強く引っ張られる感覚があるのは同調が粗いせいだと師匠が言っていたけど、それでも何とか引き寄せられることに成功した……っぽい。

周囲を見回して出現場所を確認したところ、どうやら店の裏口に置いてあるゴミ箱横だ。まだ同調させるのが下手くそだから着地地点に誤差が生じる。

鼻血は……出てないな。うん。ひとまず無事に到着したのだから、こっそり入って行って二人を驚かそうと思い立ち、裏口のドアからなるべく物音を立てないように店内に侵入したのだが──。

「こういうのは迷惑だって、何度言えば分かってもらえるのかしら。定休日にまで押しかけてきて、いい加減にうんざりなの。あたしにとって貴女は数多いるお客様の一人。化粧をして自信をつけさせるのは仕事よ。でもそれ以上のことを求められても困るの。素顔で来店したらまたあたしが同情して化粧をするとでも? そんな下心を持って店に来られても不愉快よ」

店内に一歩足を踏み入れた瞬間耳に入ってきたのは、絶対零度な師匠の声。こんな声で話しかけられたことがなくても分かるくらいのお怒りぶりだ。そしてこんな言葉をかけられるのがジークさんのはずがない。男女の区別なく魅了してしまう見た目の師匠は、一方的に恋愛感情を持った人達につき纏われることが多い。今までにも帰ってきて、愛人契約を持ちかけられたんだけどとかって愚痴ることも多々あった。でもここまで怒っているのは聞いたことがない。

今ここで出ていったら確実に怒られるだろう。けれどここで出ていかなければ大変なことになりそうな予感がして。前髪をかき集めて顔の傷痕を隠しながらド修羅場の渦中に飛び込んだ。

「あぁぁのっ、ゴミの収集に来た業者の者なんですけど! ご店主さん落ち着いてください!」

「はあ? ちょっと、こんなところで何してるのよ?」

「いえ、ですから、そのぅ、収集に来たら揉めてる声が聞こえてきたんで! あんまりそんな頭ごなしに怒らなくても良いんじゃないかって話でして! ね、そうですよねお客さ……ん……」

同意を求めようと思って相手を見たら、そこに立っていたのは師匠の客層にはいなかったような、ボロボロと涙を零す素朴なソバカスだらけの女の子だった。栗色の髪に榛色の瞳をした彼女は私と目が合うと、呆然とした青白い表情から一転、羞恥で顔を真っ赤にして、店のドアから霧雨の降る外へと飛び出して行く。それはそうだ。恋する女の子だぞ。赤の他人にこんなところを見られて普通の心境でいられるか。なのに──。

「アリア、何でこんなとこにいるの。城で待ってなさいって言ったでしょう。まぁでも、咄嗟に下手な嘘がつけるくらいの危機回避能力はあって良かったわ」

面倒そうに溜息をつきつつも、彼女とのやり取りなんてなかったみたいに普通に話しかけてくる師匠。告白慣れしているのは別にいい。類稀な美しさのせいで不愉快なこともたくさんあったのだろう。それも分かる。思ったよりも怒られなさそうなのも良かった。だけどそれでもどうしても納得できないというか、許せないことが一つだけあった。

「師匠は、顔に自信がなくて、ここでお化粧を教えてもらってやっと自信をつけて告白しに来た彼女に、何であんな酷いことが言えるんですか?」

「何でかですって? それはあの子はあたしの顔が好きなだけだったからよ」

「そう面と向かって彼女に言われたんですか? それなら師匠が怒るのも無理はないですけど」

「いいえ。むしろ正直にそう言ってくれた方がマシだったわね」

「じゃあ顔に惚れたっていうのは師匠の思い込みで、彼女は本気で好きだったのかもしれませんよ。ていうか、絶対に好きでしたよ」

「あのねぇ……ああいう手合はいちいち相手にしてたらキリがないのよ。あんたのその素直さは美徳だけど、そんな考え方ばかりしていたらいつか足を掬われるわ」

まるで理由もなく癇癪を起こしている子供を宥めるような口調と声音に、カッと頭に血が上る。ああそうさ! 私は顔に自信がなくて、美形に惚れたばっかりに穿ったものの見方をされて、あり得ない暴言を吐かれて雨の中を逃げて行った彼女と自分を重ねてる。

「自分に自信をつけてくれた人を好きになることは、何にもおかしなことじゃないですよ」

「それはただの刷り込みよ。もしくは打算か強迫観念ね。傍にいて綺麗になれたのだから、離れたらまた元の姿に戻ってしまうかもという恐れ。侍っていれば優遇されるという思い込み。それにもしも彼女が元からあたしを知っていて、同情を引くつもりで来店していたのだとしたらどう?」

尚も続く授業っぽい何か。手放しで顔が良いと言える人種を師匠以外で見たことがないから、大好きな顔のはずなのにより一層憎さが増す。かわいさ余って憎さが百倍ってやつだ。私や彼女は師匠の目からすれば、同情をしてもらわないといけない立場なの?

「何ですかそれ。それこそただの憶測で、自意識過剰過ぎますよ。というか、今のって私にも当てはまるんじゃないですか? 師匠にとって醜い子供を拾ったら、思いのほか懐かれて鬱陶しいと思ってたって遠回しに言ってます!?

「はぁ? ちょっと落ち着きなさいよ、誰もそんなことは」

「綺麗な人に不細工が憧れたら駄目ですか? 憧れるのさえなしですか?」

「だから誰もそんなことは言ってないと──」

「師匠はっ、師匠はずっと綺麗だから分からないんですよ! 自分がどれだけ恵まれた容姿をしてるか、それが私達みたいな人間から見たらどれだけ羨ましいか! 師匠の馬鹿! 分からず屋の自意識過剰! 師匠のそういうところは大っ嫌いです!!

言ってしまった。言っては駄目だと思っていたこと全部。俯き、肩で息をしながらも、頭の芯が冷えていくのが分かる。こんなことを言ったって、師匠は強いから絶対に鼻で笑われるだけなのに……と。恐る恐る顔を上げた私の前で、師匠はいつもの自信家な表情を引っ込めて「言いたいことは、それだけかアリア」と言った。

聞いたこともない平淡な声。

その言葉はこちらの答えを待つこともなく──。

「誰の何が恵まれてるだ? お前も結局他の連中と同じなのか。勝手にこの見た目を羨んで勝手に幻滅する。もう飽き飽きだ。馬鹿馬鹿しいっ!!

「そこは他の人とは一緒にしないでくださいよ! 他の人達は師匠の綺麗な見た目と乖離した壊滅的な生活力を知らないでしょう?」

「そんな話は大して重要じゃない」

「待ってください。師匠の見た目しか見てないなんて言ってません。けれど醜い者が美しい者に憧れる気持ちも少しは分かってくれたって──」

「だったらお前はこの顔じゃなくなったに価値を見出すのか? それとも世間の奴等と同じで容姿が衰えたら無価値だと思うか? 何をやったところで最後まで口にされるのは容姿のことだ。それがどれだけ──っ」

ふざける時以外には滅多に聞けない男言葉に加え、これまでの七年間の中で見たことのない表情が師匠の顔に浮かんで。追撃しようと反論する言葉を探していたのも忘れてその顔を注視した。けれどそれは本当に一瞬だったから、次の瞬間には常の作り物めいた体温を感じさせない顔になる。そして──。

「分かった、もういい。勝手に拗ねていろ。あの女のことはこちらで何とかする。ただしお前は余計なことをするな」

こっちを一瞥もしないで告げられた相変わらずの一方的で分からず屋な言葉に、また一気に頭に血が上った。この場面で反論しないなんて嘘だ。

「師匠の思う余計なことが、私の思う必要なことなら約束できません!」

「──っ、破門にされたいなら勝手にしろ!!

「ええ、言われなくても勝手にします! だけど破門とかそういうのは、あの汚城をどうにかできる腕の良い掃除婦を見つけてから言った方が良いですよ!!

拾われてから七年目にして、初めて。

私は敬愛する師匠とバチバチの大喧嘩をしてしまったのだった。

***

耐久戦は自力が高い方が勝つ。

喧嘩は好意が大きい方が負ける。

そんな当然の答えが導き出されたところで、どっちの立場に立ったとしても私の大敗は疑いようがない。敗北確定待ったなし。ただしそれは一緒の空間にいる時だ。いなかったら怒りは持続させられる。だからまだ師匠に対しての煮え滾る感情は消えていない。

そんな中途半端な状況の私が、師匠との喧嘩後になんでもない顔をして汚城にいられるわけもなく。身を寄せられる場所はといえば、レイラさん一択。最初はジークさんのところに行こうかと思ったけど、古くからの知り合いとその弟子だったら、絶対に前者の味方をされるだろうことは火を見るよりも明らかだ。

なので家出したその日にギルドの近くで張り込んで、仕事から帰るレイラさんに助けを求めた。いきなり家出の片棒を担いでと言ったって、良識のある彼女に窘められるかと危惧していたものの、意外にも『引っ越したばかりの家に友人を招けるなんて素敵だわ』と。

あれよあれよとお泊まり用品を一式買い与えられてお家に招かれてしまった。あとそのお家の場所がまた意外で、ギルドの近くにある若干やんちゃな人達が多い地区に細長い一軒家を借りていたのだ。理由は賃貸料が安かったからと、出勤に便利だから。

ちょっと前まで貴族令嬢だったのに、すっかり逞しくなっていた彼女にこれまで以上に尊敬の念が芽生えた瞬間であった。

だというのに私ときたら──。

「あのぉ……ごめんなさいレイラさん。もう一晩だけここにいてもいいですか?」

夕闇が迫ってくる午後六時。玄関で家主を出迎える第一声がこれとは、情けないを三段跳びで通り越して図々しい。けれど最近さらに自信をつけて、ジークさんからも『ありゃ化けたな』と言わしめた女神は、ふわりと元から優しげな目元を緩めて微笑むと、ゆったりとした仕草で荷物を下ろしながら口を開いた。

「ええ、勿論。こんな狭い家で良いならいくらでも。わたしとしては家に帰って来た時に明かりが点いていることも、部屋の中が綺麗に整えられていることも新鮮で嬉しいから、ずっといてくれても構わないくらいだもの。あ、だけどそうね……これ以上滞在するならお給金を払わせてほしいわ」

「うわぁ、申し訳ないくらいの好待遇~……」

「そんなことないわ。わたしの方こそ帰ってきてすぐ玄関の本を退けずに家に入れるなんて好待遇だもの。それよりも、ね。今夜の夕飯はテトラ亭のハーブチキンとサラダとバゲットなの」

微笑みつつ差し出された荷物を手に取れば、チキンとバゲットの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。師匠の作ってくれるハーブチキンとはほんの少しだけ香りが違う。キューンとなったのは胃袋なのか何なのか……あ、うん、胃袋だね。ギュルンギュルン鳴いてるわ。

そんな私のお腹の音に驚いたように目を瞬かせるレイラさん。恥ずかしいし空気読めよ腹の虫~と思っていたら、すぐに「ね、舌打ちだけじゃなくて、それも教えてほしいわ」と斜め上にはしゃがれてしまった。

「あ、えっと、これは生理現象なのでちょっと教えるのは難しいっていうか、ですね。今度口笛の吹き方を教えるのでどうでしょうか?」

「あぁ口笛! あれも憧れていたから嬉しいわ。是非お願いするわね」

「ふふ、はぁい」

「でもその前にお腹の音を止めましょう。今夜もクオーツは呼べるかしら?」

「あ、それは大丈夫だと思います。師匠はあの子がこっちに来るのを禁止してるわけじゃないみたいなので」

「だとしたら、ベイリー様にアリアさんの様子を見てくるように頼まれてるのね」

「……そうなんでしょうか」

「ええ、きっと。でも勿論まだまだ泊まっていてほしいから、帰るなんて言わないでいてくれると嬉しいわ」

そんなふうに優しい先回りをされた私は気の利いた言葉を返せず、苦笑しながら護符を用いて、クオーツにここ五日でお馴染みとなった夕食のお誘いをかけることにした。

やり方は師匠の元に飛ぶ方法の逆応用編。護符に〝クオーツおいで~〟と念じる。相変わらず実に馬鹿っぽいけど、そうすること約十分。握っていた護符が温かくなったと思ったら、ポンッと小さな音を立てて目の前に猫くらいの大きさのドラゴンが現れた。

「はぁぁぁぁ……クオーツ、来てくれてありがとう~」

「ギャウウゥゥ!」

「凄いわアリアさん。もうこの子を呼びだすのは完璧だわ」

「いえ、これは、クオーツが、魔力を、辿るのが、上手いだけです」

「まぁ。そんなことないわよね、クオーツちゃん」

鼻血は出さないまでも肩で息をする私の腕の中で、レイラさんの言葉に同意するように「キュウゥルルー」と甘えた声を出すクオーツ。辛うじて夕食には顔を合わせているけど、若干というか明らかに一部の鱗が褪色している。人間で例えるなら脱毛症とか、白髪化に近い状態なのかも。

それはまぁ、ただでさえ苦手意識を持っている師匠と二人っきりの生活は辛いだろう。生態系の頂点に立つ生き物に苦労をかけてるなぁ。

「ごめんねクオーツ。今日もここに泊まらせてもらうけど、夕飯は一緒に食べたいんだ」

自分勝手なこちらの言葉に、心優しい相棒は「ギャウ」と大きく頷いてくれた。

***

現在時刻は昼の十二時。場所は荒くれ者だらけの下町ギルド。

何となく傭兵の仕事がなくなって、かといって今さら普通の生活に戻ることもできなくて、自分を含めて行き場を失くした奴等を引き連れてギルドを立ち上げたのが二十七年前。二十五歳の頃だ。

だがマスターになったからって元の不真面目な気質が直るようなことはない。むしろ人に仕事を任せられる立場になってからは酷くなったとさえ思う。だからいつもなら適当な時間になれば、苦手な書類整理のサボり場所として腐れ縁の店に転がり込むんだが──……今回は少しばかり立場が違った。

「なぁ、ルーカスよぉ。いい加減にアリアと仲直りしたらどうだ? もう六日目だろ、アリアの家出。そろそろ城の中に虫が湧くんじゃないのか?」

「うるさいわね。なんであたしが馬鹿弟子に謝らないといけないのよ。それにまだ虫が湧くほど荒れてないわ」

「そうは言っても時間の問題だろ。気付いてるか? その服、裾に染みがついてるぞ」

「……これはそういう意匠なのよ」

掃き溜めな執務室のソファーに気怠げにかけながらそう宣うのは、一見すると美術品、口を開けば粗悪品な男だ。このまま剥製にでもなれば売れるんだがな。オークション形式にしたら冗談抜きで天井知らずな価値になるだろう。そうできる人間がいればの話だが。

「お前さんの方が年長者だろ。向こうも頑固だ。変な意地を張り合ってたら、謝罪を待ってる間にあいつの方が婆さんになっちまうぞ」

「それより前にあのチンクシャが謝ってくれば良いだけよ」

いかん。このままだとまた六日前から続く堂々巡りになる。まだ話の長い年寄りになったつもりはないってのに、年々無意識にそうなっていくみたいでぞっとするぜ。

「第一だ、毎日家出をしたアリアの様子をうちに聞きに来られてもな、レイラが出勤してない日の動向はオレにも分からんのよ」

「別に馬鹿弟子の動向なんてどうでも良いわ。ただまたあの女が店に来るかもと思ったら鬱陶しくて、真面目に仕事してられないの」

気のない返事をしつつ枝毛がないか探しているふうを装ってはいるが、らしくもない下手な嘘だ。妙な信頼があるとすればこいつに限って枝毛なんてない。髭の一本、鼻毛の一本、産毛と爪の甘皮もないんじゃないかと思っている。

美しいと褒めそやす連中を嫌うくせに、美しくあろうとする理由は分からんが、確かに他人にとやかく言われて趣旨替えするのはこいつらしくないからな。

「はん、素直じゃないねぇ。どうせ怒鳴ったことで怖がらせたんじゃないかとでも思ってんだろ。相手はアリアだぜ? 存外ケロッとしてるぞきっと」

「消し炭にしてやろうかオッサン」

「お前さんにオッサン呼ばわりされたかないわい」

「このあたしがオッサンに見えるなら老眼が進んだのね」

「あ~も~面倒くせぇ野郎だな~。今のお前さんは小娘と変わらんぞ」

そう言った瞬間飛んでくる殺傷能力が高そうな靴。それを受け止めて尖った踵を持ち、舌打ちするルーカスに「老眼のオッサンに止められてやがんの」と煽れば、今度はシャラリと透き通った音と共に、首筋に氷の刃先が突きつけられた。相変わらず短気な奴だ。

「今回の件で分かったろルーカス。お前さんはアリアの母親じゃねぇんだ。距離感を考えろ。で、あの年頃の娘は世間一般じゃ多感で反抗期なんだよ。うちを辞めて所帯持った連中がよく息子や娘のことでぼやきに来る」

「……だからなんだって言うのよ」

「お前さんが教えてきたことと違う意見を持つのは当然だってことだ。認めてやれ」

「別に意見が違うことを認めないとは言っていないわ」

「じゃああれだ、拗ねてるのか、お前さん。ぽっと出の小娘にアリアが同調したことに。売り言葉に買い言葉でアリアが反論してきただけだってことは分かっているんじゃないか? ただその見た目が好きなだけの小娘を七年も傍に置くお前さんじゃないだろう?」

「余計な口がきけないように喉を裂いてやろうかしら」

「図星指したからって物騒なこと言うなって」

両手を頭上に上げて降参の格好をとれば、ルーカスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。オレが今のアリアとほぼ同じ歳だった三十四年前のこいつは、ついさっきまで会話をしていた人間が次の瞬間に死体になっても気にしないような奴だった。

人間離れした美貌の……いや、普通の人間ゃないことを差し引いたとしても、イカレた冷酷なところを隠そうともしていなかった。なのに、そんな奴も変われば変わるもんだ。

「家出したって言ってもあの傷が広がらないように、わざわざ深夜にレイラのとこを訪ねて、寝てるアリアに魔力を分けてやってんだろ? オレから言わせればな、もうそれは許してるって話だ」

そう、なんだかんだ言いつつアリアは人を良く観察している。六日前にオレを頼ってここに訪ねて来てさえいれば、面倒事になる前にさっさと言いくるめて仲直りをさせてやったってのに、アリアが逃げ込んだのはレイラの家だった。

一応翌日出勤してきたレイラに引き渡しを持ちかけたが、にっこり『友人が遊びに来ただけですので』と躱された。前にルーカスにこれ以上首を突っ込むなと言われたものの、何かしら他に役立てるところを探していたんだろう。そこにアリアが転がり込んできたとあれば、これを保護しない手はないってもんだ。

ルーカスもそれを分かっているからか、レイラの家に行く時に口止めと称して新商品の化粧水やらを手土産にしている。過保護同士馬が合うらしいな。おまけに夜には夕飯をご馳走する名目で赤いトカゲを召喚するのを黙認している。そこまでするなら、もうさっさと仲直りしちまえってんだ。

「何でそうなるのよ。まだ謝られてないから許してはいないわ。ただせっかくあそこまで回復した火傷痕がまた広がるのは癪でしょう。戻ってきた時に治すのも面倒だもの」

「おーおー、そこまでいくとただの痴話喧嘩だな。犬も食わないってやつだ」

「嫌だわジーク、本当にオジサンくさくなったじゃない。そういうのギルドの女性職員に言ってないわよね? 男に対してもどうかと思うわ。中年男の冗談は鬱陶しがられるわよ」

「ええ……何でだよ。重い話題を軽ぅくしてやってるんだろ」

「常日頃しっかりしてる上司に言われるならまだしも、ちゃらんぽらんな上司に言われたら、面白がって煽られてるのかと思うわね」

「おいおいおい、被害妄想じゃねぇのかそれは」

「あら、他者の意見は認めるものなんでしょう? 誰かと喧嘩してると知ってる時に明るく話かけてきたくせに、途中で面倒くさくなって聞き流す方向にいかれたら、腹も立つわよ」

こっちの揚げ足を取って若干機嫌が良くなったのか、そう言って妖しく笑う姿は正しく魔性。あの無謀と言われた反乱を成功へと導いた、泣く子も黙る大魔導師。

その妙な口調にもだが、誰かに特別関心を持ったり肩入れしたりする奴じゃなかったこいつが、他人の面倒を見ている。

昔戦場でつるんでいたマーロウ……あの自分の座標を使ってまで魔術を究めて、ついに姿が視えなくなったらしい魔術狂とオレに対しても、死なないからつるんでいただけに過ぎなかったくせに、何もできない小娘を拾った。

こいつの正気を疑って実物に会わせろとしつこく言い募ってアリアに会った時は、あまりの普通さにまた驚かされた。顔に大きな傷がある以外は、どこからどう見ても普通。

その小娘一人に振り回されている様はどこか滑稽で。どこにも誰にも繋がっていなかったこいつに、初めて重石がついた。それだけのことに何だか呆れるくらい安心させられたもんだ。

「ちょっと……何を笑ってるのよ」

「いや、なんでもねぇよ。ただお前さんがつけた引き寄せの護符のせいでこうなったってのもあるだろ。いっそこんなことになるくらいだったら、最初っからアリアに変に隠さずに〝つき纏われて困ってる〟って言えば良かったんじゃねぇかと思ってな」

「馬鹿ね。アリアみたいな子供に心配をかけるなんてごめんだわ」

「ふーん、子供ねぇ。ま、若作りの極みみたいなお前さんにしてみたら、みーんな子供みたいなもんだろうよ。だけどなルーカス。女は男より大人になるのは早いぜ?」

〝特に色恋方面にはな〟とは言わないでおいてやるくらいの優しさは、オレだって持ち合わせている。それにそんな野暮なことを言う奴ってのは、昔から馬に蹴られて死ぬ運命らしいからな。オレはベッドの上で死にたいんでね。

「知っているからあまり醜いものを見せたくないの。アリアに余計なことは吹き込まないで頂戴。それとこっちは仕事をしたんだから、次はあんたの番よ。決行は予定通り明日。幸いアリアは近寄ってこないし。喧嘩の原因になった小娘の対処にはちょうど良いわ」

前半はそれっぽいこと言ってるが、後半は結構地味に気にしているらしい。やや不機嫌さを取り戻した面のルーカスを見ていたら、さっき注意されたばかりの〝オジサンくささ〟が頭をもたげる。昔の仕返しをするなら今ってか?

つい「そんなこと言ってよ、あの護符があればオレの助力なんているのかね。怖い思いをしたら引き寄せで自分のところに飛んでこいとは、いやはやとんだ過保護だぜ」と口にしたら、いつの間にか天井から逆さ吊りになっていて。加齢には勝てない腰がメキリと嫌な音を立てやがった。

やべぇな……明日これ立てるか?

***

何の解決法もないまま迎えた七日目。

ここはそう七日なのか~なんてジークさんみたいなオヤジギャグを言っている場合ではない。信じられないことにあの初めての大喧嘩からの初めての家出は、一週間になってしまった。同じ日数を数えているはずなのに一週間となるとドキッとしてしまう謎。

しかもその間に城には一度も帰っていない。なんだったら師匠に会ってしまうかもしれないギルドの掃除もサボってる。無収入な居候。掃除洗濯だけではもう誤魔化しが利かない感じになって参りましたね。

思わず玄関マットを叩く手を止め、清々しく晴れた空を見上げてしまう。わあぁ……舞い散る埃に陽の光がにキラキラと反射して綺──。

「ゲホッ、ゲフッ、ケホッ! ハックショイ!!

盛大な咳とクシャミをお供に室内に戻る。いつまでレイラさんのご厚意に甘えているつもりなんだという、自然界からのお叱りですね。分かります、はい。そして何よりも正直なところお城の状況が気になりすぎる。

クオーツに頼んで最低限の掃除はしておいてくれるように頼んだけれど、いくら賢く手先が器用であろうともそこはレッドドラゴン。掃除力が如何ほどのものかは分からないまでも、そうそう期待はできまい。

「うーん……そろそろ工房の何かしらから虫が湧いてる頃かなぁ」

レイラさんに言われて何度か話し合いに帰ろうとはしたのだ。でもそのたびにあの女の子の泣き顔が脳裏にちらついてできなかった。

師匠と仲直りがしたいがために彼女の悲しみを無視していいのか?

というよりも、私が勝手に彼女に自分を重ねて怒っているだけではという後ろめたさが、師匠との和解を遠ざけている。彼女の師匠を好きだという気持ちも本物で、好きになられることが迷惑な師匠の気持ちも本物。当事者同士の問題に頭を突っ込んでややこしくした。

あの場で極めて悪質な嘘つきは師匠のことが好きなのに、それを言ったら一緒にいられなくなると分かっているから、師匠が本当に好きな人と結ばれることがあれば、弟子兼掃除婦として居座ろうとしている私だけだ。控えめに言っても最低である。うん。

「師匠もさ、もっと言い方があるでしょうってだけのことだよね」

彼女がただ純粋に師匠のことを好きで、その想いを伝えたかっただけだとしたら、もっと優しく断ることだってできたはずである。仮に期待を持たせないように冷たくするにしたって、あれでは次の恋に臆病になってしまうだろう。少なくとも私なら師匠にあんなふうに言われたら心臓が止まる。

だから私は真正面から想いを伝えた彼女は勇者だと思った。でもそれは師匠にとっては心の安寧とは真逆にある。ここがこの騒動で双方の擦り合せができない点だ──って。

「ひぇ……レイラさんったらこんなところに昼食の残骸を……」

昨日は手が回らなかった積本をかっちり編んだ四角い籠に巻数順に並べていたら、その中の一冊からしなびたレタスが出てきた。挟まっていたページにはくっきりと緑色の染みがついている。鼻を近付けてみたらやや生臭い。ふむ、困った。このまま放置すると夏場に臭いと虫の原因になる。

汚城だと毎年どこからか漂ってくるんだよね、これ。

『だったらお前はこの顔じゃなくなったに価値を見出すのか? それとも世間の奴等と同じで容姿が衰えたら無価値だと思うか? 何をやったところで最後まで口にされるのは容姿のことだ。それがどれだけ──っ』

困ったなぁ。ここ七日間ふとした瞬間に師匠のあの時の声と言葉が脳裏に蘇る。あんな顔をさせたかったわけじゃない。私がこの顔が嫌なように、師匠もあの顔のせいでお店で嫌な思いをしてることも知ってる。

ただ師匠の良いところは顔だけじゃないでしょうが。彼女はそれを分かった上で告白したのかもしれないじゃないか。その幸せを遠ざけないでほしい。あと言い過ぎたけどその件についてまだ心の底から謝れるかは半々だ。

今回の件で気付いてしまったことだけど、私は十四歳の頃に街へ出て住み込みで働きたいと師匠に懇願して、いざ連れて行ってもらった時に、この今も残る醜い傷痕のせいで門前払いをされた痛みを憶えていた。師匠が治療してくれてもまだ醜い自分を恥じている。

けれどそのことを彼女が現れるまで忘れていた。ううん、正確には忘れようと痩せ我慢していただけで、ちっとも過去のことにできていなかったのだ。八つ当たりだ。

でも──……そんなしつこい風邪の如くぶり返してきた怒りに蓋をするように、小さいころ一緒に食べてくれた魚の優しい味がよみがえった。すると直前まで刺々しかった心から棘が抜けていく。ああ、そっか。幼い私が自分の感情を上手く御せないで、今みたいに攻撃的な気分になった時、いつも師匠は言ってたじゃないか。

『イライラする時も悲しい時も、人間っていうのは単純だから、美味しいものを食べたら割とどうとでもなるのよ。憶えとくと良いわ。さ、分かったら早速あんたの好物を獲りに行くわよ。釣竿を探してきなさい』

そう綺麗でちょっぴり意地の悪い微笑みを浮かべ、自信満々に尊大に。普段は全然ちゃんとしていない大人なのに、そんな時だけは世界中で一番輝いていて、かっこいい人だと憧れたんだ。尊大さも鈍感さもだらしなさも師匠の魅力の一部だった。

「……ちゃんとまともな服を着てお店に出てるか覗くくらいは、してもいいよね?」

ということで、思い立ったが即日生活。残りの掃除を一気に片付け、干し終えて空になった洗濯物の籠を放り投げ、家出の時にバッチリ持ち出してきたデッキブラシを手に、眼帯をつけたら準備完了。

でも気持ちがはやると上手くいかないから、逸る心を静め、護符に込められた師匠の魔力と自分の魔力をゆっくりと同調させていく。喧嘩は続行中だから〝本当は大好きなんだけど、今は冷戦状態な師匠のところに行きたい〟と念じる。

少しずつ、少しずつ、謝る言葉を考えるみたいに丁寧に優しく、下手に出過ぎないくらいの気持ちで同調させていくと、クンッと引っ張られる微かな感覚があった。その感覚に身を任せて七日前のあの日みたいに飛んだ。

次に視界に入ってきたのは、見覚えのない汚い路地。あ、これはやっちゃったね。たぶんだけど、ここは以前師匠が『あっち方面は治安が悪いから行っちゃ駄目よ』と言ってたとこだ。どうやら余計な力が入りすぎて前回より遠い場所に繋いでしまったらしい。

こういうのって回数をこなすうちに上達していくものだから、これは後退になるのではなかろうか。幸先が悪いなぁと思いつつ、右手でデッキブラシの柄を握る手に力を込め、左手に護符を握りしめて改めて店のある路地に向かおうとすると、さらに運の悪いことに進行方向から話し声が聞こえてきた。

怖い人達だと困るので、立ち去ってくれることを期待しながら、途切れ途切れに聞こえてくる会話の内容に耳を傾けていると──。

「依頼していた通り、お前達は早くあの店にいる店主を攫ってきて。ここに連れて来ることができたら追加料金を払ってあげるわ」

「へへっ、ですからねぇお嬢様。あの店主は他の貴族のご婦人方も目をつけてる上物なんですぜ? それをこんなしけた前金だけで攫ってこいってのは割に合わねぇ。もっと色をつけてもらわねぇと。ついでに先に追加分も渡してくれ。オレ達のやる気も上がりませんって。なぁお前ら?」

「なっ……ふざけないで! 七日前にはこの金額で請け負うと言ったでしょう!?

「ふざけちゃいませんよぉ。危険手当ってやつだ。あんたが攫ってこいって言ってるあのベイリーの恋人は、ハーヴィーのギルマスだぜ? そんな野郎のお気に入りの誘拐なんて危ない橋を渡らされるからには、相応の報酬がいるんでねぇ」

突然出てきた驚くくらい馴染みの名前と衝撃の事実。家出中にジークさんに上がり込まれてたことへの複雑な心境は、この際横に置いておくとして……だ。まだ距離があるし姿も見ていない。品性下劣そうな男性陣の声はまったく聞き覚えがないけど、女性の声には聞き覚えがあった。師匠との大喧嘩の原因になった声を聞き間違えるはずもない。

生活ゴミのこんもりと入った木箱を目隠しに、見つからないよう身を低くしてジリジリと距離を詰める。頭の中は怒りでいっぱいだった。

でも姿を見るまではそうだと決まったわけじゃないと言い聞かせながら、祈る気持ちで会話に熱が入り始めた人物を物陰から覗いて──……死にたい、殺したい気持ちになる。格好こそ町娘みたいだったけど、あの日あんな衝撃的な対面を果たした相手を見間違うはずもない。視力には多少自信があるのだ。伊達に七年も森で生活していない。

けれどソバカスが散った顔に榛色の瞳をした彼女は、あの日のように怯えて泣いてはおらず、背後に護衛をつけ、その顔を醜く歪めてゴロツキ達を怒鳴っていた。そこに恋に敗れて傷ついた少女の面影はない。

ああ師匠、師匠、師匠、師匠──……貴方を信じない馬鹿弟子でごめんなさい!

身勝手にあの日の彼女に自分を重ねて、恩人の師匠を一方的に詰って、仕事を放棄して飛び出した。こんなの破門を言い渡されても当然……いや、違う、何を弱気になってるんだ。馬鹿な啖呵を切って破門になる流れをつくったのは私だし、今からでも何とか回避する道を探さないと。あんな解釈違い女と同類と思われるのは絶対に嫌だ。

とはいえ手ぶらで謝罪しに行くのはあまりにも誠意がなさすぎる。だとしたら──。

「手土産として捕まえなきゃ……」

これである。一瞬護符に魔力を流してクオーツを呼び出そうかと思ったけど、この頃鬱憤が溜まっていらっしゃるから、手加減しないで焼き尽くすか食べちゃう未来しか見えない。ここは燃えるものが多いから被害が広がりすぎるし、貴族の娘を食べちゃったら後々面倒そうだと考え直す。

幸い向こうはまだこっちに気付いていない。護衛が二名、ゴロツキ七名、そして戦犯彼女。非戦闘員を含めて計十名。お互いの距離もまぁまぁ近い。これなら私のへっぽこな魔力で編んだ籠で捕まえるのは、ギリギリ可能そう。

その結論に辿り着いて即デッキブラシを握りしめ、籠を編むために魔力を流し込み始めたら、背後からいきなり乱暴に肩を掴まれて直後に衝撃が襲ってきた。

集中力が切れる。頭が熱い。流れちゃいけない何かがどんどん流れていく感覚。

視界が暗くなる中で「おい、気をつけろよ。変なガキが覗いてやがったぞ」と。遅れて登場した八人目ゴロツキの声を聞いた。

***

あの問題大アリの貴族娘のせいでアリアが出て行ってから、もう七日。

正直自分が小娘相手にあそこまで大人気のない口論をするとは思っていなかった。それにあれだけ毎日師匠師匠と慕っていた甘ったれが、家出をしてから連絡の一つも入れてこないことも予想外だった。

城に戻れば留守番をしていたクオーツからジト目で睨まれ、そのクオーツもこちらの帰宅と入れ替わりにレイラ宅へと夕食に喚び出される。一人分だけ作れば良い食事が段々と手抜きになるのも道理だった。

その状況を打破できる報せが入ったのは二日前。あの元凶小娘の動向を探らせていたジークのギルドの連中から、今日この店へ侵入する誘拐計画を立てていると情報が入ったのだ。気持ちの悪い贈り物はあんなに迅速に送りつけてきたくせに、かどわかしの方についてはようやくという腰抜けぶりは、成程手を汚すのを嫌う貴族らしい。

ただそれでも今日を乗り切れば師として寛大な心で、馬鹿弟子を迎えに行ってやらなくもないと思っていたというのに──。

「チッ……遅いわねぇ。こっちも暇じゃないってのに」

「自分を拐かそうとする誘拐犯を待ち伏せしてるのは暇潰しにはならんか」

カウンターの内側に座り込み、あくびを噛み殺してそう答えるジークの脇腹をつま先で軽く蹴ると、いい角度で入ったのか「女物の靴は凶器だな」と言って脱がされた。空気に触れてスースーする足を包むのは、アリアがくれた子供っぽい靴下だ。洗濯物が溜まって他に履けるものがなくなったから仕方なく履いている。理由なんてそれだけだ。

だというのに、靴下を見たジークは「ほぉん」と呟いて薄く笑う。面白くない。

「当たり前でしょう。これまでの経験上あんまり珍しいことでもないし。色狂いの犯罪者って独創性にかけるのよ」

「その独創性はいらんだろ。いたずらに被害が拡大しそうじゃねぇか。色狂いだけに」

「オッサンの冗談って本当に品がないわね。レイラ経由であんたのところの受付嬢達に注意喚起するわよ?」

「馬鹿、やめろ。それは割と真剣にやめろ。うちみたいなところに来てくれる事務職は貴重なんだぞ。絶対にやめろ」

嫌な薄ら笑いへの意趣返しは成功したものの、本気のこいつというのも面白くない。昔はもっと馬鹿で適当で、こういうことを言う奴ではなかったのに。アリアもだが、短命種の成長を見るのは退屈と同時に眩しさも感じる。今度はそんなジークの肩に、子供っぽい柄の靴下を履いたつま先へ靴を返すように促す蹴りを放てば、無言で雑に履かされて。

何となくもう一回蹴ってやろうかと脚をぶらつかせていると、そこに見張りをさせていたジークのギルドの人間がやってきて、監視対象者達が引き返していったと報告を受けた。報告を受けたジークが一瞬表情を険しくして何故かと問えば、仲間割れでもしたのか、誰かを抱えてスラムの最奥にある廃墟群へと向かったと言う。

その瞬間、ざわりと背筋が粟立った。直後に気のせいだと打ち消そうとしたが、アリアに持たせた護符に逆探知をかければ、案の定その発信源はスラムの最奥にあった。だからあれほど言ったのに。あのお人好しの馬鹿弟子め──!

肩を掴んで何か言っているジークを振り払い、護符から漂う魔力を手繰り寄せて飛んだ先で、アリアにやったデッキブラシを手に目を丸くしている下種共と、頭から血を流して倒れているアリアを小突いている下種共がいた。不思議とそんな光景に心が凪ぐ。皆殺しで問題ないからだろう。

周囲に視線を走らせる。どうやらレンガ造りの廃倉庫らしい。後始末が楽そうな場所で重畳ちょうじょうだ。いきなり音もなく現れた侵入者に俄に色めき立つ下種共。

ひとまずこちらと目が合った一人目を魔力を練った氷の棘で刺し貫く。無数の透明な棘を背中から生やした仲間を見て逃げる者、戸惑う者、武器を構える者、アリアを楯にしようとする者に分かれたが、次に殺す目標は決まった。引きずり起こされてだらりと項垂れるアリアの方へと向き直る。息はあるらしく、小さな呻き声が聞こえた。

「ご機嫌ようゴミ虫共。うちの馬鹿弟子が世話になったようだ。師として礼をしよう」

「なっ、何言ってやがるテメェ、どっから出てきやがっ……っ、おご、えっ!?

アリアを楯にした男のダミ声は途中で途切れ、氷柱で脳天から刺し貫かれたことにも気付かずに絶命する。先にアリアの頭上に展開させた傘のおかげで、その身に降り注ぐ血しぶきは最小限だ。戸惑っていた者と武器を構えた者が一斉に悲鳴を上げ、我先にと逃げ出す背中へ氷の矢を射掛ける。全部で五人。思ったよりも少ない。

ハリネズミになった連中の血溜まりが置き去りにされたアリアを汚す前に、アリアを真似て編んだ籠で持ち上げて引き寄せた。

意識がないことを確認しつつ後頭部に触れ、頭蓋に問題がないことに安堵する。魔力を構築して回復魔法をかけつつ、オルフェウスと同じ闇に属した隷属の術式を用いて、こうなる直前までの記憶を覗いた。すると──。

「……店を覗きに来てこんなことに巻き込まれたか。馬鹿弟子め」

呆れつつ、そんなアリアの危ういまでの真っ直ぐさに、どこかで救われる自分がいる。脳に負荷がかからないギリギリまで、今回の大喧嘩後から今日に至るまでの記憶を抜き取り、空いた記憶の隙間にまだ詳しく教えていないジェキルの根の下準備方法に加え、同等の難易度を誇る素材の使用方法も入れて縫合構築する。これで記憶の欠落があるような空白時間はなくなった。

「毎度与えた護符をこんな使い方をされたら敵わん。没収だ」

クオーツの犠牲の下作られた良質の護符ではあったが、またこんな騒ぎを起こされては堪らない。勿体ないとは思いつつも苦悶の表情から解放されたアリアの細い首から護符を外す。全ての施術を終えた直後に部屋の外から足音が聞こえてきたが、それはこの部屋に到着することなく『おい、何を騒いでるんだお前らっ』という言葉を残して途絶える。

ややあって、錆びた鉄製のドアが解錠される音に次いで、軋んだ音を上げて開かれたそこから返り血で汚れたジークが顔を出した。

「お前さんねぇ……先に行くなってんだ。こっちは腰を痛めてるんだぞ」

「返り血まで浴びて情けないことを言うな。外のゴミは何人いた?」

「四人だな。うち一人は身形みなりがちょっと良くて体捌きもまずまずだったから護衛だろ。あとの三人はどっちも図体だけの腕が悪い連中だったぞ」

「俺に貢いで小遣いが足りなくなったか」

「よっ、この色男……とまぁ、冗談はこれくらいにして。直前まで見張らせてた奴が言うには相手は小娘込みで十一人だ。ここには……五人か。アリアも無事っつーにはあれだが、息はあるんだよな?」

「なかったら八つ当たりでお前のギルドの連中も殺してる」

「おいおい、そりゃとばっちりが過ぎるだろ。残り二人は奥だな。アリアはこっちで見といてやるが、貴族の小娘の方は殺すなよ。殺しちまったら、後々ギルドに捜索依頼を持ち込まれたりしても面倒だ」

「善処はしない」

「そこはしてくれ。護衛の方は殺しても構わん」

ジークの言葉には答えず、さらに奥の部屋を目指す。どうやら縦に細長い倉庫だと分かったところで、この廃墟群の座標を切り取って外界から隠した。これで元の外界の廃墟群は何事もないように見え、そこの中でもこの倉庫は完全に隠された。外界で起こっている現状の光景は見えても、ここにはその音も風も届かない。ところどころ崩れた通路の突き当たり。

元々は倉庫の持ち主が事務所に使っていたと思われる部屋のドアが見えたところで、こちらに気付いて目を剥く護衛が声を上げる前に、魔力で構築した氷の矢を放って壁に縫い止めた。

手元が狂って頭に当たったのはご愛嬌。

そのまま守護者ガーディアンのいなくなったドアを蹴破って室内に乗り込むと、そこには持ち込んだらしい真新しいソファーに腰かける小娘の姿。名前も憶えていない小娘はドアを蹴破って現れたこちらを見て、面白いくらい慌てふためきながら口を開いた。

「ベイリー様!! ど、どうしてこのような場所に?」

「そうねぇ、こんなお前も含めてドブネズミしかいないところになんて、本当はちっとも来たくなんてなかったのよ?」

「え……え? あの、え、ドブネズミ?」

「あら、なぁに? 交際の申込みを断ったら人のことを拐かそうとする、人語を解するだけのドブネズミちゃん」

「ち、ちがっ、それは、ち、ちがうのです。誤解なさっておりますわ。わた、わたしはあの娘と一緒にあの男達に攫われて、それで──キャアッ!?

なおも醜く弁明しようとする小娘の首に手をかけ、ソファーの上に押さえ込む。言葉や態度で虐げられることはあっても、直接的な行動で虐げられることは初めてだったのか、こんなことを企てておきながら怯えた目でこちらを見上げる小娘に殺意が湧いた。

「ベラベラとよく回る舌だな。何が違うんだ? 人の弟子を相手によくもやってくれたな。そこまでして気が引きたいか。虫唾むしずが走る」

「そんな……どうしてですの、ルーカス様!? どうしてわたしは駄目で、あの醜い平民女は貴方の弟子を名乗ることを許されるのですか!? わたしならもっと、もっと貴方のためにっ──」

「黙れこの痴れ者が! お前の何が駄目かだと? 全部だ。見目を取り繕っただけで得たその傲慢さも、驕った考えも、なびかない相手に取る腐った手段も、全てが度し難い!!