「キスの直後に目を開けるだなんて大胆ねぇ。もう一回してほしいのかしら?」
艶々の唇から今朝の紅茶に浮かべてあったラモネの爽やかな香りが溢れるけど、師匠の色気だと爽やかさが気怠さに変換されて朝向きじゃなくなる。我が師ながら尊い。でもひたすらにしんどい。
「もー、そんなんじゃないですってば。毎朝いちいち弟子をからかわないでくださいよ。ジークさんのところに行くのが遅れちゃいます」
「多少遅れたところであんたの仕事の早さだったら、大して問題にならないでしょうに真面目ねぇ。誰に似たんだか」
「師匠でないことだけは確かですね~。クオーツもそう思うでしょう?」
「ギャウ、ギャーウ」
「あら生意気な弟子とトカゲだこと。でもそういうところはあたしに似てなくもないからまぁ良いわ。気を付けて行ってらっしゃい」
極細く目尻に赤い線を引いた師匠が、テーブルに座るクオーツの口にベーコンを突っ込みながらそう微笑んで手を振り、いきなりベーコンを突っ込まれてクオーツが火花混じりの咳をする。そんな食卓を振り返ってデッキブラシを片手に「行ってきます」と出勤した。
──は、いいものの。ギルドへ繋がっている魔法陣から出てすぐ、ジークさんと誰かが何か真剣に話し込んでいる声が聞こえてきて。一瞬来客中かと思い出直そうと魔法陣を踏もうとしたところで、不意にもう一人の声にも聞き覚えがあることに気付く。
こっそり壁の陰から声がする方向を覗いてみると、そこにはジークさんとレイラさんの姿があった。けれどレイラさんは深刻そうなのに、ジークさんはいつも通り飄々としている──……と。
「おう、おはようさんアリア。来た気配はするのになかなか顔を出さんと思ったら、そんなとこでデッキブラシ持って何コソコソやってんだ」
「ありゃ、バレてましたか。おはようございます、ジークさんにレイラさん」
「お前さんね、素人の侵入に気付かない間抜けがギルドマスターになれるかよ」
「それもそうですね。ちょっとだけジークさんのことを尊敬しかけてた自分が馬鹿みたいです」
「そこは尊敬しといたままでいてくれて良いんじゃないか?」
「一回尊敬の途中で意識が途切れちゃったんで難しいですね~」
軽口の応酬に控えめに「おはようアリアさん。その服はプリシラのお店で購入したのね。似合っているわ」と笑うレイラさんの様子がおかしい。プリシラというのはジークさんが紹介してくれたあのお店の店員さんの名前だけど、今それは関係ない。とにかく今問題なのはぎこちないというか、緊張した面持ちのレイラさんだ。
「何にしても良いところに来てくれたもんだぜ、アリア。ちょっとお前さんとお前さんとこのトカゲちゃんに依頼したいことがあるんだよ」
「あの、依頼をしに来たわたしが言うのは何ですが、ジークさん、アリアさんを巻き込むのは──」
唐突に始まった雲行きの怪しい強引な話の導入に首を傾げるも、そこにすかさずレイラさんが割り込んできてくれた。
「そんなこと言ってられる状況じゃねぇだろー。第一さっきも言ったが、うちの腕利きは他の仕事で出払ってるんだ。ここはもう腕利きではないにしろ、反則逆転できるくらいの能力を持ってるやつに頼む方が現実的だ」
「え、何ですか。そんなに物々しい話です? だったら一旦師匠のところに話を通してもらわないと私だけじゃあ──」
二人の視線が一気にこちらに向かったことに私が身構えると、ジークさんに顎で話の先を促されたレイラさんが逡巡しながらも頷き、申し訳なさそうに「実はね」と切り出した。
その内容というのが──。
「レイラさん、本当に貴族籍を捨てちゃうんですか?」
「ええ。元々持っていて持っていないようなものだったから。余計な荷物を捨てられるかと思うと、むしろ気分は軽いのよ。持ってたって使えないのに責務だけ押し付けようって魂胆に初めて腹が立ったのよ」
「あー、そういうことなら納得です」
現在私はレイラさんとクオーツの背に相乗りしながら、棲み処であるミスティカの森の最奥部上空を飛んでいた。緑というよりは黒に近い木々からは靄のような瘴気が発され、常に視界が煙った状態になっている。この辺りは滅多に用事がないので師匠ときたことも片手で数えるほどだ。
「ご両親と元婚約者の馬鹿が引き合いに出したジュエルホーンですけど、どれくらいの体長のものが良いとかってありますかね~?」
「いいえ、特に指定はされていないわ。ただあの人達のことだから大きければ大きい方が良いとは思うのだけれど」
「成程分かりました。そういうことならできるだけ大きな個体を探しましょう。市場で売るなら大きいだけの個体から採れる角よりも、中くらいの個体から採れる角の方が密度が高くて良いって言われるんですけど」
「ふふ、そうね。だけどそんなことが分かるのは一部の人だけだと思うわ」
「まぁこういう生業でない人達にとってはただの綺麗な装飾品ですからね~」
私達の会話にクオーツが「ギャウ、キュー……クルル」と同意を示す。言葉は通じないけどたぶんそう。もしくはお肉を分け前に寄越せということかな?
ジュエルホーンというのは名前の通り、宝石のような角を持つ大きな山羊に似た魔物だ。山羊の割に大きいし魔法も使えるかなり厄介な魔物だけど、宝石に例えられる角には濃縮された魔力が宿っていて、砕いて護符の形に加工したものが一般的。お金に余裕のある魔術師なんかが良く身につけている。
逆を言えば魔術師しか欲しがらない品物であり、特別高価な為に表でも裏でもそこまで流通していない。そんなものが必要になったのは、レイラさんの自由と自立の第一歩の為だった。
何と私が顔も知らない元婚約者のクズはレイラさんが垢抜けて社交的になったことで、現在の婚約者と天秤にかけたらしい。その時点でも驚きなのにまさかのレイラさんの両親までもが今度こそ捨てられるな、奪い取れと発破をかけてきたそうだ。
ちなみに失敗すれば魔術から一切手を引いて凄く歳上の貴族に嫁がされるか、あの別荘を身一つで出ていけという頭がおかしい選択肢をくれたそう。選びたくなる条件がないのは選択肢になってないと思うんだけど……貴族のお家は怖いなぁ。
でもそこは私達みたいなよろしくないお友達とつるんだ成果か、婚約解消をされた時よりうんと強くなった彼女はこう啖呵を切ったそうだ。
『貴方がたは……今になってそんな話が
何それかっこいい。そこに痺れる、憧れるぅ……! その場にいたら絶対に拍手喝采してる自信があったね。それでもって、毒親と元馬鹿婚約者にはクオーツの往復尻尾ビンタをお見舞いしてやってたに違いない。
「だけどアリアさん、こんなことに巻き込んでしまってごめんなさい。必ずこのお礼はさせてもらうわ」
「え? 別に気にしないで良いですよ。森への通行許可を出した師匠だって『面白いじゃない。立派なやつを仕留めて、家を捨てて好きに生きるって馬鹿共に言ってやりなさい』って言ってたじゃないですか。私も賛成ですよ」
そう言い私のデッキブラシをお腹の前に固定する形で背中にしがみつくレイラさんを振り返ると、真っ直ぐ首を伸ばして空を飛んでいたクオーツが「ギャウギャウ!」と鋭く鳴いて。
「まずは一頭目、行きますよ!」
「はい! よろしくお願いしますわ!」
気分は男顔負けのドラゴンライダー。
手綱を引いてクオーツが急降下する風圧に、二人で黄色い悲鳴をあげるのだった。
そうして狩りを開始してから二時間半。角を除いた胴体部分は綺麗さっぱりクオーツが処理してくれたので、目の前には二本一対、計八本の角が並んでいる。大きさ的にはどれも選んで狩っただけあって立派なものが多い。
「ギャウ、グルルル……キュウ?」
「〝もっと獲物を探しに行く?〟かって?」
「ギャウ!」
「うーん……ひとまずもう良いかなぁ。クオーツだってあんまりこんな時間にいっぱい食べたら、晩ご飯が食べられなくなっちゃうよ」
「キュールルル、クキュ!」
「〝こんなのはオヤツみたいなもの!〟ってこと?」
「キューウゥ」
「駄目だよ。それ同じこと師匠に言える? 絶対師匠のことだから〝ジュエルホーンの丸焼きを四頭以上食べたなら、もうあたしの料理はいらないでしょう〟とか言うってば。良いの? 香辛料も何もかかってない焼いただけのお肉と、師匠の手の込んだ料理を天秤にかけて」
「ギュー……」
──だというのに、クオーツがここにきて野生の捕食者としての食い気を出し始めたのだ。ドラゴンが満足する肉の総量なんて、ジュエルホーンみたいな稀少種だと絶滅に一歩前進してしまうから非常に困る。
いつもの猫くらいの大きさから私達を乗せられる大きさになったクオーツが、全力でお腹を満たそうとするのを言い含めようとする私の背後で、小さく楽しげな笑い声がして。困り顔のまま振り返ると、慌てて申し訳なさそうな表情を取り繕ったレイラさんと目があった。
「ん、んふふ……笑ったりしてごめんなさい。ただアリアさんがクオーツ君に対してかける言葉が、ドラゴンにかけるものじゃないからおかしくて。貴女には彼の言葉が分かるのね」
「言葉が分かるっていうよりは、気配ですかね? でもどのみち今のは全部本心ですよ。あんまり乱獲しすぎても良くないですし、元々角の大きい個体を狙って狩りましたから、クオーツは無視してこの中で見繕いましょう。余った分は素材屋に売って今後の生活費に充てると良いですよ」
パンッと手を叩いて話を強引に打ち止めにすると、不満そうにクオーツが尻尾を上下に打ち下ろしたけど、これ以上ここで不毛なやり取りをしてたら時間が勿体ない。クオーツのことだから夕飯のデザートをあげたら機嫌も直るだろう。
成人男性の肩から指先までくらいの大きさをした虹色の角は、このまま飾るだけでも充分に美しいに違いない。まぁ、本来なら魔道具や護符に仕立てるものだから宝の持ち腐れ感はあるけど。
こちらの言葉に微笑み「そうね、そうするわ」とゆったり頷くレイラさんは、さっきまでの高笑いと攻撃魔法の連射ぶりが夢の出来事だったように穏やかだ。木々の間に逃げ込もうとするジュエルホーン。その木々を無慈悲に風魔法で薪に変えていくレイラさん。
魔術師昇格試験の時にはまだ使い方の決まっていなかったあのレース状の魔法は、捕食者さながらに獲物を搦め捕る仕様になっていた。
私が手伝えたことなんて闇雲に逃げようとするジュエルホーンの前に回り込み、奴等から放たれる弱攻撃魔法をデッキブラシで指向性を持たせた魔術編み籠で吸収したり、閉じ込めただけ。
こんなことではまだまだジークさんの言う〝ギルド的良い女〟には到達できそうにない。もっと攻撃魔法も練習しないといけないという課題もできた。
「それが済んだらあとはこの依頼を受けてくれた貴女とクオーツ君への報酬ね」
「レイラさん、そのことですけど別に私達の報酬分はなくても良いんですよ? これから色々と必要じゃないですか」
「いいえ、それは駄目よ。貴族籍を捨てるケジメをつけさせて。何よりわたしはベイリー様と貴女のように対等な関係が結びたいの。だからもらって頂戴。ね?」
「そんなふうに言われるとちょっと気恥ずかしいですけど……そういうことなら、分かりました。売った分の三割を報酬としてもらいます」
縋るような視線を向けてくるレイラさんに笑って指を三本立てて見せれば、彼女の顔に笑みが広がる。歳上の女の人と友達になって、さらに可愛いなんて思う日がこようとは。引きこもりだった頃には思わなかった。
するとレイラさんはこちらの感慨に気付いているのかいないのか、小首を傾げて口を開いた。
「本当はね、アリアさんがほんの少し会わない間にとってもお洒落で可愛くなっていたから、もうこんなわたしとは組んでくれないのではないかと思ってドキドキしていたの」
「ええ? そう見えたとしたらほぼ師匠のおかげです。どれだけ趣味良く装えたところで私は何も変わってませんよ。変わったとしたらレイラさんの方です」
「……わたしが?」
「そうです。こうやって反発しようと強くなったじゃないですか。もっと自信を持って胸を張って良いと思いますよ。だからこれを持ち帰って、レイラさんの価値を勝手に決めた人達を悔しがらせてやりましょう」
拳を握ってそう力説した私の頭の上に、すっかり放っておかれて拗ねたクオーツが小さくなって覆い被さってきた。仲間外れにしたことを詫びながら二人と一匹で選んだジュエルホーンの角をレイラさん用に包み、他はその後持ち込んだ素材屋で破格の金額でお買い上げされた。
師匠の繋いでくれた魔法陣で、現状まだレイラさんの自宅であるお屋敷まで角をお届けして、軽く掃除のコツを伝授したあとお茶をご馳走になった時。
『今日は本当にありがとう。今回の話は以前のわたしなら頷いてしまっていた。両親も彼もわたしが泣いて感謝しながら、元の御しやすい頃に戻ることを期待していたのだと思う。でもわたしはもう以前の自分には戻らないわ。貴女達のおかげよ』
軽い気持ちで持ちかけた三割分の私とクオーツへの依頼達成報酬は、金貨四枚にもなる大金と、吹っ切れたように微笑む彼女の嬉しい決意の言葉に化けたので。翌日師匠御用達のお店の高級靴下を五足購入して贈ったけれど、受け取った師匠の表情が微妙に引きつっていたのを見逃す弟子ではありませんとも。心配しないでもちゃんと貯金もしてますからね!
***
楽しかったレイラさんの脱・貴族狩猟から四日目。あの日以降お天気は下り坂だ。まぁ、こっちとしてはあの日が彼女の新しい門出のハレの日であったのだから何の文句もない。
ただ雨が続くとそれに伴う弊害も当然あるわけで。前日に引き続き師匠から仰せつかった閉店後の店の掃除に出向き、通り雨で濡れた靴跡だらけの床を愛用のデッキブラシで磨いていたら、コトンとドアの方から物音がした。見れば湿気で曇ったガラス越しにぼんやりと人影が映る。
一瞬レイラさんかと思って反射で表に出そうになったものの、慌てて思い止まった。今日は約束をしていない。別にしてなくても訪ねてきてくれることはあるだろうけど、そうだとしても声をかけてくれるはず。それがないということは知らない人である可能性が高い。
おまけにここは美容を扱う店なんだから、こんな顔の私が出たら奥様方の信用ガタ落ちだ。奥にいる師匠を呼ぼうかとも思ったけど、よくよく考えたらもう閉店の札と鍵がかかっている。営業時間外なら出なくても大丈夫だろう。呼んだら師匠は無駄な労働させるなとかって怒りそうだし。
そう結論付けて相手が立ち去るまで待つことにし、デッキブラシを手にそーっと商品棚の陰に身を隠した。店の中で人影っぽいのが動いてたら、いるなら出てこいよってなるしね。
人影はほんの少しの間うろうろとしていたけれど、誰も出てくる気配がないと諦めて去って行った。人の気配が失くなったのを確認して、報告のために一旦店の奥に引っ込む。
「師匠、お店の前に誰か物を置いて行ったんですけど……何か注文してました? それとも常連のお客さんからの差し入れですかね。誰か心当たりありますか?」
「それって今? あんたは外に出たの?」
「ほんのさっきですね。ちょっとドアの前でうろうろされてましたけど、営業時間外だったので出ませんでした。出た方が良かったです?」
「いいえ、それで正解よ。たぶん注文してた新しい調薬用の機材ね。あたしが取りに行くから、あんたはここにいなさい」
「え、でもまだ掃除の途中なんですけど……」
「あんたの掃除能力なら途中でも充分よ。それよりも先に城に戻ってお湯を沸かしておいて頂戴。帰ったらすぐに紅茶が飲みたいわ」
この気分屋師匠め。でもこういう我儘はよくあることだからあんまり気にならない。むしろここで掃除の残りをしたいと言う方が悪手だ。分かりやすく言うと掃除以外の雑務が増える。汚城にも掃除する場所はいっぱいあるしね。
「ふっふっ、師匠にそこまで言わせる自分の有能さが怖いですね。了解です。ついでにこの間レイラさんがくれたジャム開けても良いですか? 朝に残しておいた白パンにつけて食べたいです。小腹が空いちゃって」
「別に良いけど……あんたそれで夕飯食べられないとか言ったらお仕置きよ?」
「師匠のご飯を私の胃袋が受け付けないなんてあり得ないので、ご安心ください。それにクオーツと半分こしますもん」
「ああ、そう。食い意地の張った弟子を持つと大変だわ。その分だとこの後の夕飯の買い出しの量も減らす必要はなさそうね。さっさと帰って待ってなさい」
「えっへっへ、分かりました!」
呆れた表情を浮かべて手をひらひらさせる師匠に敬礼をして魔法陣に向かい、クオーツの待つ汚城へと飛んだ。約束していた帰宅時間間際だったからか、魔法陣のド真ん前に待機していたクオーツに出迎えられて、そのまま洗面所まで直行。手洗いうがいを完了したら、デッキブラシを手にキッチン入り。
手伝いたがるクオーツの申し出を断って
***
外からアリアさんがベイリー様に連れられてお店の奥に姿を消したことを確認してから、お店の前に置かれている怪しい荷物に駆け寄る。メッセージカードはなし。でもこの荷物の贈り主は分かっているので問題はない。
中身を簡単に探知できる魔道具を使って探った。その直後に覗いたことを後悔する。
可愛らしい外装の箱の中身は、今日も背筋がゾワッとするようなものでいっぱいだった。贈り主のものだろう毛髪、爪、使いかけの口紅、一部に血のついたクッキー、これだけ真新しい香水など。愛憎が詰まったこの荷物を初めて目にしたのは、ベイリー様に以前までのわたしに似た女性がつき纏い出してから、割とすぐの頃。
最初は紅茶や小さいお菓子の詰め合わせといった、極々普通の御礼の品だった。それも来店して直接手渡ししているところを何度か目撃したけれど、ベイリー様が段々と嫌な気配を察知して断られたのだろう。そこから少しずつ贈り物の中身は不穏になっていった。
最近では恐らく毎日のようにこうして呪物めいた代物を置いていくのだと思う。
蜘蛛の糸のように細かな雨が絶え間なく降り注ぐ外を歩く者は誰もいない。
流石に嘶きだけでは辻馬車か貴族家のものかなど分からない。見張りを残していった可能性も考えながら、そっとその場から離れた。もうベイリー様が望む望まざるを気にしていられない。わたし一人の胸に秘する範疇は超えている。
このままだと近日中に彼女の毒牙はベイリー様を素通りして、アリアさんへと向かうだろう。現にこれまで絶対にかち合うことのなかった時間に彼女は来た。薄っすらと、けれど確実にベイリー様の隠す人物の存在に気付いて。
その可能性に心臓がドクドクと痛いほどに脈打つ。一瞬今すぐ彼女が乗って来た馬車を捜して、魔法で亡き者にしようかとも考えた。
だけどそんなことをしてしまえば、真っ先に疑われるのはつき纏いの被害者であるベイリー様だ。そうなればアリアさんも悲しむし、所属するギルドのマスターであるジークさんにも迷惑がかかる。わたしはもう独りぼっちではないのだもの。
ここで一人で考え込んでいても、冷静さを欠く短絡的な結論しか思い浮かばない。お店の中から呪物の入った小包を取りに現れたベイリー様を遠目に眺め、彼が小包を見てさも嫌そうに眉間に皺を寄せ、周囲を窺うように見回し始めたところで、発見されないよう物陰に身を屈めてやり過ごす。
雨音に混じってパタンとドアが閉じる音を合図にギルドへと走った。
ギルドの玄関ホールで身体を重く濡らしていた雨水を風魔法で散らし、仕事終わりなら談笑をしようと誘ってくる同僚達に「ありがとう、でもまた次の機会にね」と答えて、ギルドの最奥にあるギルドマスターの執務室へと急ぐ。
雨で辻馬車が混雑していたからここまで風魔法を補助に使って走ってきたけれど、いざ執務室のドアをノックする段に至って不安が胸中に湧き上がる。これは本当に必要な連絡事項だろうか? それとも以前の自分の行いを帳消しにしてもらうための自己保身?
どちらも否と言い切ることができないで、ノックしようとした手もそのままに立ち尽くしていると、室内から『おーい、そこに突っ立ってんのは誰だ? 温厚なオレ様は滅多なことじゃ怒らねぇから安心して入ってこーい』と間の抜けた声がしてきて。
気付けばあれだけ頑なになっていた手は、軽やかにドアをノックしていた。
***
ガチガチに緊張したレイラからゴリゴリにヤバい案件を聞かされたオレは、若干の苛立ちを抱えながら雨の中を歩き、営業時間終了の札のかかったルーカスの店のドアを叩いたまでは良かったんだが──。
「あー……悪い」
「………………」
雨で冷えたせいか鼻がムズついて、どうせ一回は居留守を使うだろうと特大のクシャミをブチかましたら、こんな時だけ一発で開いたドアから現れたルーカスの顔面に直撃ってのは、いくら何でも笑えない冗談だろ?
「いや待て、これはその~……まさかこの短時間で出てくると思わなくてだな。決してわざとじゃないんだ」
慌てて言い訳を並べるオレの前でルーカスは無言のままハンカチを取り出し、顔に飛んだ鼻水と唾液を拭ったかと思うと、いきなりどこから見ても親しい人物に向ける微笑みを浮かべた。長年の付き合いでこれは絶対に面倒くせぇことになると踏んだが、ここは甘んじて受け入れる以外の手はなさそうだ。
「ふふふふ、遅かったじゃない。今日はうちで夕飯を食べるから、一緒に材料の買い出しに行くって言い出したのはあんたでしょう?」
「あぁ? ルーカス、お前さんあ──」
「さ、もう閉店の準備はできてるからすぐに出られるわよ。行きましょう?」
先回りして〝頭でも打ったのか?〟という言葉を潰され、視線で〝四の五の言わずに合わせろ〟と圧力をかけられる。どうやらレイラの話を聞いてすぐにきたのと関係がありそうだ。大方店の周辺に見張りでもいるんだろう。
「ん……おう、行くか。お互い仕事で忙しくてなかなか時間が取れない身だしな。さっさと買い出ししてお前さんの手料理を食わせてもらおう」
短い会話と目配せを交わし、エスコートのために腕を差し出すと微笑みかけられ、さも当たり前といったふうに自分の腕を絡ませてくる。この見た目で本物の女だったら文句なしの勝ち組なんだが、実際はオッサンとオッサンだ。不毛極まりない。
当のルーカスも同じ気持ちらしく、げんなりとした瞳で【好きな酒を買ってやる】と指先を走らせてきた。迷惑料代わりの現物支給のつもりだなこれは。しかも今気付いたが、口で息してやがるなこの野郎。何で
こちらの納得のいかない胸の内をよそにルーカスは涼しげな表情で店の施錠を済ませ、まだ細かく降る雨を避けるために頭上に座標を展開させる。真珠色に発光する雪の結晶形の座標の下に収まるオッサン二人。最悪な絵面だ。
思わず「傘をさすほどの雨じゃないだろ」と言ったものの、ルーカスにあっさりと無視された。こいつのことだから〝相手にここにいると印象付けるためなのだから、目立たないでどうする〟とか思ってそうだな……。
こっちの内心を見透かしてか無言の微笑みに折れてそれ以上の無駄口を諦め、オレの最も得意とするご婦人方から人気の渋い笑みを浮かべて、そのまま腕を組んで表通りの市場を目指す。時折通行人が振り返る視線を感じたが、店を知らない人間からすれば、この見目は背の高い美女に見えるらしい。
「今すれ違った奴等の会話を聞いたか? お前さん劇場の女優だと思われてたぞ」
「あら素敵。そんな美女と歩けて役得でしょう?」
「ははっ、違いねぇな」
確かに相手によってはご褒美だろう。仮にアリアなら楽しんだに違いない。もしくはこの状況を生み出しやがった変態女か。現にさっきから好奇の視線のなかに、こっちの動向を窺うような視線が交じっている。こんなに人通りのある場所でも気配が読めるとは、随分と質が低い連中を使ってんな。
「尾行の下手くそな奴が三人くらいついてきてるな。聞いたぜルーカス、お前さんまたどっかのご令嬢を骨抜きにしたらしいじゃねぇの」
「そう……だからこんなに都合の良い時にきたってわけね。内心褒めてやっても良いと思ってたのに残念だわ。誰から聞いたの?」
「レイラだ。ああ、だが怒らんでやってくれ。以前お前さんにつき纏った負い目からか知らんが、もうお前さんとアリアが面倒事に巻き込まれねぇようにって、暇な時間を割いて危険人物になりそうな奴を見張ってたらしいのよ」
ルーカスにとっては思いもよらない情報源だったのか、心底意外そうに「レイラが?」とオウム返しに聞いてくる。それにレイラには言うなと釘を刺されていたが、あんなに必死になってオレのところに密告に来たってのに、その手柄を横取りするのはギルマス以前に大人としてやっちゃいかんだろ。
「告げ口の告げ口をするような形になっちまったが、ま、そういうこった。お前さんがここまで
「まるで最初からこっちに非があるみたいな言い方しないで頂戴。いつも向こうが勝手にこっちの見てくれに夢中になってるだけよ。迷惑な話だわ」
「そりゃまあ、お前さんにしたらそうだろうな」
「こんな顔の皮一枚が何だって言うんだか。欲しけりゃ同じ顔にしてやるわよ。で、身に覚えのない痴話喧嘩に巻き込まれて刺されれば良いんだわ」
「いや、大抵の奴はその顔があったら身に覚えのあることで刺されるんじゃないか? やろうと思えば男でも女でもつまみ食いし放題だろ」
わざとルーカスが好まない方向へ会話の舵を切りながら笑っていたら、脇腹に肘を打ち込まれそうになって、それを掌で受け止めて回避する。距離を取られたら手も足も出ないが、近距離ならまだ何とかなるな。でもそのうち近距離でも負けるようになるか。こいつとオレとでは持っている時間が違いすぎる。
いや、そもそも誰もこの男の時間には付き合えないのだ。あそこまで懐いているアリアですらいつかは置いていく。
不可視の傘の下で肩を寄せ合って歩く姿は、傍から見ればじゃれ合っているようにしか見えないだろう。まさか若く見える方の年齢が、厳ついオッサンよりも上だと見破れる人間はそうはいないはずだ。もしも見破れるとしたら、もう一人の腐れ縁と同じような人外に足を突っ込んだ者だけだろう。
「
「だからお前さんはアリアの母親かっての。あの年頃ならこれくらいの話は笑って流せるだろ」
「母親ぁ? あたしはあの子の師匠よ。だからこそ言うけれど、アリアの世間知らずぶりを舐めないで。下手に口を滑らせてあの年頃の子に汚物を見る目で見られたくないでしょう?」
「そこを誇られて脅される身にもなってくれや。第一よ、レイラの件でオレからぶん取った五回分の貸しを、今使わねぇでいつ使う気でいたんだ」
「これくらいあんたへの貸しを使うまでもなかったから温存したの」
「お前さんね、そうやってそのうちとか言ってる間に使えなくなるんだぞ?」
「はぁ~……臭いだけじゃなくて、口うるさいオッサンね」
「く、臭くないわい。あと口呼吸は止めろ。傷つくだろうが」
とか何とか後ろの連中に聞こえないくらいの声音で悪態と軽口を叩いているうちに、市場の端に辿り着いた。雨のせいで客足が減って片付け始めた露店を中心に流し見しつつ、ルーカスが気になるものを見つけては足を止めて、普通に夕飯の買い物をしていく。
育ち盛りの欠食児童が一人と一匹に加え今日はオレもいるからか、ルーカスが持参したアリアお手製の特大買い物籠は、みるみるうちに食料で埋まっていった。当然それを持つのはオレだから、普段のこいつは買ってなさそうな重さの食材も遠慮なく詰め込まれていく。
籠に入り切らないものは別途店でもらえる紙袋に包んでまで持たされた。これで約束の酒を数本買っていなかったら、途中で逃げ帰っていたかもしれん──と。
ふと立ち止まったルーカスの視線の先を見やれば、肉屋の店先に〝生ハムの原木入荷!〟とあった。嫌な予感は的中し、それも荷物として積み込まれた。
「荷物持ちをするとは言ったがよ……これ、何日分で何人分の食材なんだ?」
「二人と一匹の一日分の食料よ。今日はあんたの分も入ってるから多少多いけど」
「それにしたって多いだろうよ。アリアの奴は胃袋に育ち盛りの前衛職男子でも飼ってんのか?」
「同年代の女性よりはちょっと多めに食べるかしらね」
「ちょっと? ちょっとって言ったか、この量を。毎日これだと太るだろ」
「たくさん食べてよく働くから問題ないのよ。それにまだまだ食べられるくせに『もうお腹がいっぱいでぇ』とか、白々しい演技してくるよりずっと良いわ」
個人的に言われて腹の立つ発言の五指に入る言葉を口にしたようだが、確かにそれはオレにも覚えがあったから思わず頷いちまった。
「レイラから話を聞いた時は半信半疑だったけどよ、お前がオレを利用してまで牽制するってことは、今回の女はよっぽどだな?」
「そういうこと」
「向こうさんとアリアの面識はあるのか?」
「いいえ、まだないわ。ただ今日は危なかった。あんたが来る少し前に危うく店で遭遇するところだったのよ」
その時のことを思い出してか、ルーカスが顔を曇らせる。アリア絡みとなるとこいつは表情が豊かになるな。これが子供を一人で留守番させられない親の気持ちなのか。確かにクオーツがいないと火を使わせることも躊躇うくらいだから、極めて近いのかもしれない。
「成程。そこにレイラから救援要請をされたオレが来たから、これ幸いにただならない関係性をにおわせて、もし二人が顔を合わせちまって向こうが何か言ってきたところで、うちから出向させてるギルド関係者だと言えば丸め込めると思ったわけだ」
「ま、大体そんなところよ。今度はこっちが貸しを一つつくっちゃったわね」
「亡国の大魔導師への貸しイチか。悪くないねぇ」
「次に外でその呼び方をしたら再教育するわよ?」
「うへぇ……一番やらかしてたあいつがいない今となっちゃあ遠慮したいね」
「そのあんたが言うあいつがあたしの思ってる奴と同じなら、この間会ったわ。あたしの居場所はあんたから聞いたって言ってたけど、昔馴染みとはいえあんまり個人情報流すんじゃないわよ」
「流すって言ってもお前がこの町に来たばかりの頃だからかなり前だぞ? というか、だったら何でうちに顔を出さんのだあの薄情者は」
「会いには行ったけど、あんたが自分のことを目視できなくなってたってぼやいてたわね」
「あーあー、あの馬鹿ついにそこまで人間辞めちまったのか」
なんて会話を交わしながらその後も仲睦まじい演技で買い物を続けたものの、流石に腕を組んでの演技はこれ以上はキツイ。何がって、腕と腰がだ。その旨を込めた目配せをしたら、何とかお許しをいただけた。
後方で下手くそな尾行をしている連中もダレてきている気配がある。意味深に姿をくらますにはちょうどいい頃合いだろう。
「それじゃ、そろそろ帰りましょうか」
「そうしてくれると助かるぜ……」
──ということで、どこから見ても見えるようゆったりと腕を組んだまま、ルーカスが城へと通じる術式を練り、大荷物とオレを伴って転移した。
次に視界に広がったのは城の工房。どちらからともなく即行で組んでいた腕を離し、アリアの待つ厨房へと荷物を運ばされる。その間に流れた無言の時間は心身が疲弊しきってのことだが、キッチンと繋がっている食堂から廊下へと漏れる明かりにホッとした。オレが荷物を抱え直した音で食堂のドアが勢い良く開いて。
「お帰りなさい師匠! お湯ちゃんと沸かして待ってたんですよ……おぉ?」
「ギャワワワウ!」
馬鹿っぽく賑やかに飛び出してきた一人と一匹は、オレの姿を見て一瞬固まった。常なら入ってきても工房までで、ここまで奥に通したことがなかったからだろう。顔見知り相手でもこの反応なアリアの人見知りぶりに思わず噴き出しそうになった。
「よう、アリア。夕飯馳走になりに来たぞ~」
「は、えっと……ジークさん? えーと、師匠。これはどういう風の吹きまわしですか?」
「ギャウゥゥゥ……!!」
「まぁそうなるわよねぇ。でもこれを見たらあんたのその疑問も解けるわ」
言いながらこっちの方に手を差し出してきたので、アリア達の目の前で大きな包みを剥がした。そこから現れたのは今夜の食事の主役格──。
「生ハムの原木!? えっ、えっ、こんな贅沢品……今日何かありましたっけ?」
「クルルルルゥー?」
「特に何もないわ。ただ肉屋に美味しそうな生ハムの原木が売ってたから食べたくなったのよ。そうしたらこれに合うワインも必要でしょう? それで買い出し中にこれを持ち運ぶのが面倒だったから、こいつを使って運搬させたの」
「な、酷い仕打ちだろ? 夕飯くらい馳走になっても良いとは思わんか?」
事前に打ち合わせなどしなくともサラッと嘘をつけるルーカスを見て、アリアは意を決したように拳を握りしめ、カッと目を見開いた。続く言葉は聞かずとも分かる。
「そういうことなら仕方がないですね。すぐにジークさんの分の椅子を発掘してきます。ほら、行くよクオーツ。師匠の物置になってる椅子を引っ張り出すの手伝って!」
「ギャウッ!」
だろうと思った。こんなところにまで他人が踏み込んできても、招いたのが師であるならと簡単に安心してしまうお人好し加減と、危機感の欠如ぶりに軽い頭痛を感じる。ルーカスほど過保護な気はないが、今後は非常時のために予防線を張っておく必要があるな──と。
「張り切っちゃってまぁ、現金で分かりやすいねーお前さんの弟子は」
「現金で結構。タダ働きさせられてヘラヘラしてるよりも良いわ。ほら、あんたも少しは手伝いなさい。芋の皮くらい剥けるでしょう」
「客相手に遠慮がねぇなぁ」
「あら、ワインがいらないなら良いのよ? それに坊主は昔から酒のアテには、ジャガイモと厚切りベーコンの黒胡椒炒めがあればご機嫌だっただろうに」
「それまだ傭兵駆け出しの頃の話だろ……って、あー……やるやる、やりますっての」
市場での意趣返しなのかジャガイモとナイフを手渡されたので、仕方なく下拵えに入った。持論だが独身の中年男でジャガイモの皮剥きが上手いやつは従軍経験者だ。絶対そうに決まってる。できるのは皮剥きまでだから、最終的には蒸して塩を振って酒と一緒に食う。実に味気なくて侘しい男の生き様よ。
そうこうするうちにルーカスが次々と料理を完成させ、腐海から椅子を見つけて戻ってきたアリアが加わりたがったが、それを阻止するように頼まれた。理由は分からんがアリアに食材を触らせるのは駄目らしい。
三人で囲むにはやや手狭なテーブルではあるが、アリアは終始ご機嫌で、最初こそオレを威嚇していたチビドラゴンも食べ始めたらそっちに夢中になって。こっちも買ってきたワインが意外と美味しかったことに気分が良くなり、アリア相手に昔話を始めたところでルーカスがジャガイモをその口に突っ込んできた。当初の目的とは大幅に変わったとはいえ、急拵えの夕食会は大いに盛り上がった。
────四時間後。
ほとんど空になった大量の皿とグラスを前にしてアリアが目を擦る。野生を捨てたチビもあくびが多くなってきた。時計を見ればもう十二時を回っている。
「ふわぁ~……お腹いっぱいになったら眠たくなってきました。お二人はまだ飲むんですか?」
「そうね。あと二、三時間くらい飲もうと思ってるわ」
「お子ちゃま達は風呂入って寝な」
「オジサンは飲み過ぎで理性失くして師匠を襲ったりしないでくださいよ? あとトイレと間違えたとか言って私達のお風呂も覗かないように」
「ギャフ、グーギュギュ!」
「クオーツが〝絶対、丸焼きにする!〟ですって」
「ふふ、襲われたら八つ裂きにするから平気よアリア。それとクオーツ、風呂にこいつが近付く素振りを見せたら、昔馴染みの義理であたしが処すから安心なさい」
「おいおい、オレにも相手を選ぶ権利はあるだろ? 野郎とガキには興味ないぜ」
師弟とドラゴンに挟まれての冗談の応酬に、両手を上げて降参の体を取る。
恐らくオレの顔色は変わっていないが、ワインを五本、ブランデーを二本ほど空けているので、この状態で
「ま、程々にしておいてくださいね。あと食器は今空いてる分は洗っておくので、残りは台所のスライム水につけておいてください。夜の間に油とか食べ残しを綺麗にしてくれますから」
「ちょい待ち。スライム水って何だよ」
「スライム水は名前の通りですよ。あ、でも正しくは核を抜いたスライムの死体を、殺菌性のあるハーブと煮込んだものですけど。つけ置き洗いに便利ですよ。使った後は窓から捨てたら森の土に分解されますし」
「スライムの死体でつけ置き洗いっていう字面が悪ぃな……」
「そうは言うけど便利よあれ」
「ふっ、洗い物をしない人には分からない画期的な発明ですよ。分かってくれる師匠は流石です」
アリアはささやかな胸を誇らしげに張ってそう言うと、チビを抱えて一度台所の方へ消え、爆速で食器を洗い終えたのちに「じゃあ、お風呂入ったら寝ますので。お休みなさい」と言い残して食堂を出ていった。軽い足音と暢気な鼻歌が遠ざかっていく。
「──で、アリアにはお前さんの追っかけの話は絶対に耳に入れないってことで良いのか?」
「そ。余計な心配するでしょう。あたしに傷をつけられる人間なんてそうはいないのに」
「そうはいないどころか、一国単位でも無理だったろ。それよかその命知らずな追っかけ女は、オレも見たことがある奴か?」
「いいえ。彼女、いつもどこかでこっちを見張らせてるみたいなのよ。毎回お客が一人もいない時に来るわ」
「二人っきりになれる時を狙ってるってことか。そりゃまた厄介だな。同情するぜ、色男」
からかった直後に脛を蹴られ、手からボトルを引き抜いて自身の空になったゴブレットに注ぐルーカス。この時間を懐かしいなと、ふと思ってしまう。歳だな。
合間に彼女に見初められた理由の説明を挟んだり、アリア達がいないので残っている生ハムを行儀悪く指先で摘んで口に入れて、咀嚼したそれをワインで流し込んだりした。
「彼女の家の紋章はこれ。貴族子女らしく馬車で来ることがほとんどだから、そっちで見張りをつけてもらえると助かるわ。こっちもあの子につけさせてる護符を改良しておく。それとレイラにはこれ以上は危ないから店を見張るのはやめさせて頂戴」
「分かった、できる限りうちの手の空いてる奴等を回す」
これでこの話は終わり。次いで一回分の貸りにはちと大きすぎるので、こっちからも交換条件を出した。主に人間の揉め事とは違って殺しても良い魔物の討伐依頼を三件ほど。そのうち一件に関してはアリアの腕試しにも良さそうなものだ。
その内容を聞いて案の定「殺しちゃ駄目な人間を相手にするより、ずっと簡単だわ」と言う相手に、呆れつつ「この難易度の討伐依頼をそう言えるのはお前くらいだ」と答えたら、形の良い顎を持ち上げて「当然よ」と笑われた。
***
師匠の綺麗だけど男性らしさのある手で、自分の爪に重ねられていく鮮やかな色に心が躍る。秋もすっかり深まった十月三週目の定休日。
うっかり師匠の爪の色が新色に変わったから可愛いと言ったら、朝の身支度に三日ほど前から爪のお手入れまで入ってしまった。実のところ嬉しいより洗濯と掃除の時に引っかけて剥がさないか気が気じゃない。
薬の調合に使う材料の下準備だけでなく、畑仕事だってあるから土もつくって断ったのに、師匠の『だったらまた塗り直してあげるわよ』という言葉に負けた。そんなわけで今朝爪に乗る色は昨日収穫して夕飯に並んだカボチャと同じ色だ。でもだからこそ解せないことがある。
「今日こそ履いてくれますよね、師匠」
「もう、飽きないわねぇ。またその話なの? 何回だって言うけど嫌よ」
勿論下着の話ではない。毎日腐海を発掘して洗濯しているのだから、着るものがないなんてことはないのだ。つれない発言に膝上で丸まっていたクオーツが「ギャウ、グアーウ」と非難がましい声を上げたけど、師匠はまったく相手にせずに筆先に染料を乗せた。
「どうしてそこまで抵抗するんですか~。可愛い弟子が一人と一匹で稼いだギルド依頼の報酬で買った贈り物ですよ? 私はこうして爪の手入れを受け入れてるのに不公平ですってば」
「あんたがくれた靴下は柄が幼すぎるのよ。縦縞……はまだ良いとしても、水玉や星はちょっとあたしの歳だと身につけにくいわ」
「そんなぁ、どの柄も可愛らしいじゃないですか。それに我が師匠なら何をお召しになっていてもお美しいです」
「嫌ったら嫌よ。あんたってそういうお世辞は上手くなるのに、どうしてお化粧の手順はこうも憶えないのかしらね? 間接的だけど美容系で食べてるのに」
意地悪く唇を歪めるその表情から、今日も贈った靴下の出番がないことを察して軽く落ち込む。せっかく初パーティー討伐の成功報酬で贈ったのに、この仕打ちはあんまりだと思う。百歩譲って好みじゃなかったとしても、そこは二百歩譲って履いてくれるのが師ではなかろうか。
こっちがそんな不満を呑み込むために一瞬黙り込んでいると、師匠の吐息が爪先に吹きかけられた。師匠にしてみたらすぐに触って塗料を剥がす弟子の失敗回避のためだけなこの行為に、私の心臓はバクバクしどおしだ。このままだとキュン死にしてしまう。
何とかそんな煩悩を追い払おうと膝上のクオーツを抱きしめようとしたら、爪の染料の匂いが苦手なクオーツは私の膝上から逃げ出して、ベッドの方へと飛んでいってしまった。あんまりだ。非協力的すぎるぜ相棒。枕カバーのトンネルがお気に入りなレッドドラゴンのせいで毎晩かけ直すのが地味に面倒なんだよね──と。
「そ……れは、すみません。だけど靴下履いてくれるくらい良いじゃないですか。多少師匠には可愛らしすぎる柄かもしれませんけど、ほとんど靴とスラックスで隠れちゃいますし。これ以上拒否するつもりならクオーツに手伝ってもらって、師匠の靴下全部洗って干しちゃいますよ?」
図星を指されてぼそりと脅し文句を口にしてみても、師匠は「だったら素足で過ごそうかしら」と笑うばかりで、結局爪が乾くまで待っても新しい靴下をおろしてはくれなかった。
「せっかく着飾ることに興味を持ち始めたんだから、今日はあんたの冬物を色々買うわよ。コートは絶対必要だし、新しく作業用じゃないブーツもいるわね。手袋なんかの小物も見に行きましょう」
「うえぇ? そんなに張り切らないでいいですよ師匠。どうせ増えた分の片付けと洗濯の負担は私とクオーツにくるんですから。必要最低限で節約しましょう」
「却下よ却下。前もこんなやり取りしたわよ。服の一着や二着や……十着までなら同じようなものなの。それより遊びに行く前にギルドに一旦顔出すんでしょう? だったら身支度の邪魔しないでクオーツと遊んで待ってなさい」
あっけらかんとそう言ってのけた師匠に抗議したけれど、華麗に右から左に受け流されて。あっという間に美しく身支度を整えた師匠に急かされるまま、最近新しく作ったクオーツ収納籠を引っかけてズバッと魔法陣で飛んだ。
体感として瞬きひとつ。次に目の前に広がっていたのは、書類の山に辟易した表情を浮かべたジークさんのいるギルドマスターのお部屋。
訓練されたジークさんはともかく、その隣で秘書の役を任されている彼女はそうではなかったようだ。派手に手にしていた書類を床にぶちまけた彼女に駆け寄り、大慌てで書類をかき集めた。
クオーツもすぐさま籠から出てきて家具の下に入り込んだ書類を追いかけてくれる。モゾモゾと尻尾をくねらせてほふく前進をするレッドドラゴン。彼の大きな猫っぽさは日々更新中だ。
「おはようございます、レイラさん。驚かせちゃってごめんなさい」
「ふふ、おはようアリアさん。こちらこそ手伝わせちゃってごめんなさい」
屈んで互いに謝罪しつつも笑い合いながら書類を集める私達の背後では、ジークさんが師匠に向かって挨拶をしている声が聞こえる。ジュエルホーンの角を無事に両親と元婚約者に突き付け、ここで彼女が働きだして、私が師匠に靴下を買ってから二週間。
未だに元婚約者に復縁を迫られたり、両親から貴族籍を捨てることを考え直すように言われてはいるようだけど、レイラさんは当初の約束と違うとその申し出を一切断って、このギルドで働くようになってから買った平民の服と、数冊の魔術書だけを持ってあの別荘を出た。
週に三日はここでジークさんの秘書役を務め、その他の三日は卒業した学園で、魔術書を集めた学園の書庫の臨時司書をやっているそうだ。私はそんな彼女の勇気ある決断を尊敬している。
「爪の色、可愛いわね。お洒落をして今日はこれからお出かけかしら?」
目敏く書類を集めていた私の爪に気付いてくれた彼女に頷き返すと、レイラさんは「貴女とベイリー様は本当に仲が良いわね。きっと好きなものも同じなんでしょうけれど、羨ましいわ」と、少しだけ寂しげに笑った。
「いいえ、そんなこともないんですよ。師匠ったら今日もまた履いてくれなくて」
「ほー下着をか? 自由もそこまでいくと風紀の乱れだぞルーカス。けしからん」
「馬鹿、そんなわけないでしょう。分かってて下らないこと言ってるんじゃないわよジーク。アリアも含みのある言い方しないの。あたしが変質者みたいじゃない」
「おっと、そうだよなぁ。むしろ弟子の初報酬で買ったもんだから履け──」
「ジークちゃんったら、その髭むしり取られたいのかしら?」
そんなふうに報酬で靴下を買ったことと、それをなかなか身に着けてくれないことはこの二週間ですっかり笑い話の種になっていたから、今度こそレイラさんも笑ってくれた……が。
その笑いも家具の下からクオーツが取ってきた会計報告書の内容に、ジークさんの私用会計(主に酒代)が紛れ込んでいたせいでぴたりとやんで。レイラさんの「ギルドマスター、少しお話があります」という冷たい声を聞いた直後、師匠とクオーツと一緒に魔法で部屋から脱出したのは言うまでもない。
ジークさんがレイラさんに雷を落とされる前にギルドから脱出した後は、現在例の店にて、当初の目的通りカウンターに積み上げた冬服の山を囲んでいた。予期せぬご褒美を前に狼狽える私を眺める店員さんの目は、楽しげに細められている。
「うん……あの、師匠。どう考えても私だけでこんなにある中から選べませんってば。それにお金だってそんなに無駄遣いすべきじゃないっていうかですね」
「大丈夫よ、前回も選べてたじゃない。お金はジークにクオーツの今月の家賃分【鱗】を一枚売り付けておいたから心配ないわ。流石に試着室にはついていけないから、一次審査は彼女にでも意見を聞いて頂戴。最終選抜はあたしがしてあげる」
「前回と数が違いすぎますよ。お洒落初心者にもっと優しくしてください」
逃げ道を塞がれて項垂れる私とは対照的に、クオーツは籠から身を乗り出して誇らしげに胸を張っている。たぶん自分の鱗で私を着飾らせるお金を稼げたのだと知ったのと、無関係ではなさそう。ドラゴンは本来自尊心が馬鹿みたいに高い生き物なのに……時々はこういうお腹を満たせないものでの欲求を満たしたいのかなぁ?
「だから今回は着回しできそうなものを先にあたしが選んであげたんじゃない。ま、全部が全部合う着こなしにできるかはあんたの選出にかかってるけど」
「ほらぁ、結局そういうことじゃないですか~!」
「お客さーん、そんな心配しないでも大丈夫だって。試着するだけならタダ。全部着てみちゃえ。迷ったらそのトカゲ君とあたしが選抜するからさ」
「ですって。良かったわね? いってらっしゃい」
店員さんの後押しを聞いてにっこり笑って手を振る師匠に〝助けて〟と目で訴えるも、無慈悲に手を振り続けられた。諦めて溜息交じりに「いってきます」と言い残し、両手で抱えても溢れる服を店員さんと自分の腕の中に収め、奥の試着室へと向かった。
「フフフッ、そんなに緊張しないで、ドンドン着てジャンジャン買ってもらっちゃえば? 前も思ったけど、あの人はお客さんのためにお金使いたいんだよ。勿論欲しいものを買ってあげたいってのは大前提だけどさ、もっと甘えてほしいんじゃない?」
「そ、そうは言いましてもですね……私なんかに買われちゃったら、この可愛い服達が本来出会えるはずだったお嬢さん達との縁を切っちゃうのでは、とか」
「ふーん、服の気持ちを考えちゃうんだ? 自分の気持ちじゃなくて?」
「だってほら、眼帯を着けてると服が持ってる可愛さが半減するじゃないですか。お針子さん達だってがっかりするでしょうし」
「何言ってんのお客さん、逆だよ逆。お針子はどんな女の子でも可愛くさせるつもりで服を作るんだから。お客さんが着てみたいと思った時点でお針子達の完全勝利なわけ」
「ええ……超解釈過ぎません?」
「だーいじょうぶ。ほらほら下らないことで悩んでないで、次々着る。で、少しでも気になったやつはそっちの籠に入れて」
そう言うが早いか、完全無欠の陽の者な店員さんに着ていた服を引っ剥がされ、本当に次々に上から服を引っ被される。しかも私が口には出さないでもちょっと鏡を長く見ただけで、その服は籠へと放り込まれていった。
クオーツまでもが「ギャウゥゥーン!」と張り切って、売り場から籠に放り込まれたものと似た感じの服を追加してくれるものだから、倍率さらにドン。それでも何とか途中からは自分でも自分の好みが分かってきて、おそるおそるだけれど籠に服を入れた。
それから約一時間ほどの試着を経て残った服は、ほぼ半数以上が一次選抜を通過してしまって、休憩用のベンチで待っていてくれた師匠に「欲張ったわねぇ。でも買い物はやっぱりこうでないと」と笑われた。
結局最終選抜をしてくれると言っていた師匠も、私が選んだ服をほとんど全部通過させて買ってくれてしまって。帰り際に店員さんが大荷物になった服を抱える私に向かい、ニンマリと「ね、大丈夫だったっしょ」とこっそり耳打ちしてきた。
──……その夜。
昼間に買ってもらった服を片付ける場所がないことに気付き、新たに籠を編みだしたのはいいけれど、可愛い服を入れるわけだし、せっかくなら凝ったものにしようと張り切った結果、現在時刻は深夜二時である。
クオーツとキャッキャしながらの作業だったこともあるけど、存外遅くなってしまった。時々声が大きくなりすぎたりしたから、美の伝道師が起きてしまうことを気にしてお互いに〝シーッ〟と言い合ったり。お肌の潤いを多少犠牲にしたかもしれないが、悔いはない。
──ただ……。
「これはあれだ。調子に乗って広げすぎちゃったかも。ナキタの蔓の屑掃除って、明日の朝じゃ駄目かなぁ? どう思うクオーツ」
「ギャギャウン、ギャーウ?」
「うんうん。確かに植物の屑って吸い込んだり踏んだりすると危ないもんねぇ。そもそもナキタの蔓って駆け出しの冒険者が使う胸甲を編める強度あるし」
「ウルルル、ギューグルグル」
「今からさっさと集めて外で焼くって? もっと駄目だよ。ナキタの蔓はすっごくよく燃えるもん。それにここにあるのは本当に屑状態のやつだし。深夜にナキタを燃やして風で飛んだりしたら、それこそ森が燃えちゃうでしょ」
「ギャワウ! ギュワウワウ」
「そうそう、森林火災は洒落にならないの。ま、だから我々は深夜だけど地味に掃き掃除するしかないってこと。やるぞー……」
「ギュィィィ~」
作ってる時の楽しさと片付ける時の気分の落差にダレつつも、掃除用具を取りに立ち上がろうとしたところで、部屋のドアがノックされた。どうやら騒がしくして美の伝道師を目覚めさせてしまったようだ。
自分のことは棚上げにしてクオーツに「だからふざけて遊んでたら、師匠が覗きにきちゃうよって言ったのに~」と言いながらドアを開けたら、そこにはドレスと見紛う夜着に身を包み、腰に手を当てて立っている師匠の姿があった。こんな時間でもお美しい。
「あんた達いい加減に籠編むのやめて寝なさい。何時だと思ってるの。睡眠時間が足りないと美容と健康に悪いわよ?」
「だってしょうがないじゃないですか。師匠のおかげで今日だけでかなり衣装持ちになったので、クローゼットに片付ける用の衣装籠が足りなくなったんですよ。他の籠は師匠の洗濯物や、放り出してた機材や本の一時避難場所になってますし」
「ギャウギャウ、グーウゥ」
「ふぅん、クオーツまであたしに説教する資格はないって言うわけね?」
「ギャウッ!」
「よくぞ言ってくれたわ相棒。第一私だってこれでもうら若い乙女なんですよ。深夜に部屋に入るのは非常識なんですからね。ということで、師匠のお説教はまた明日の朝に聞きますから、今夜のところはお引き取りくださーい」
そう言ってクオーツと結託して師匠をグイグイと廊下の方に押し返したけれど、ふと思い立ってドアを閉じる直前に「今日師匠が選んで買ってくれた服、どれも全部宝物だから……大切にしまいたいんです」と素直な気持ちを口にしたら、師匠が一瞬目を丸くしたので。気恥ずかしさから俯けば「師を敬う弟子にご褒美よ」の言葉と共に、額に不意打ちめいたおやすみの口付けが降ってくる。