自分でやる時はザクザク梳かすだけなので、鼻歌を口ずさみながら壊れ物みたいに扱ってくれる師匠の指先は何となくこそばゆい。
朝の一仕事を終えたあとだと心地好すぎてうっかり寝そうになるし、年頃の娘なのにこんなことではいけないんだろうなとは思う。すると私のそんな気配を感じ取ったのか、師匠が鼻歌を中断して唇を笑みの形に持ち上げて口を開いた。
「別に女だから着飾ったり化粧したりするのが当然なわけじゃないし、あんたが嫌だって言うなら絶対にやらないけど、傷を理由に憧れてるくせにこういうことをしないだけだもの。だったら師匠のあたしとしては、これを機に弟子を飾り立てる口実に使わせてもらうわよ」
そう楽しげに紡ぐ声音に嘘は微塵も感じられない。だからこそ私も「そういうことなら、慣れるまでは師匠に全部お任せしますね」と応じた。香油を馴染ませながら櫛の歯の細かさを順に変えられ、みるみるうちに艶を増した髪が整えられていく。今日は少し華やかな編み込み。
それというのも、今日はこの後ワイバーンの一件で面倒くさい手続きに師弟揃って呼び出されているから、舐められないようにという見栄だ。
「魔導協会の受付って予約を事前に入れてても結構混むのよ。もし待たされて帰りが遅くなるようなら、街に出て一緒に外食しちゃいましょ。夜だったら顔布を気にする人間も少ないでしょう」
「そうかもですけど、最近贅沢し過ぎじゃないですか?」
「その分は明日からまた頑張って稼げば良いのよ。貯め込んでる間に死んだりしたら馬鹿みたいじゃない。適度に使って貯める。これが仕事に飽きない極意。憶えておきなさい、社会人一年生」
師匠の言葉に何故か膝の上のクオーツまで「ギャウウ、ギャウ!」と頷いて先輩風を吹かせてきた。確かに百歳だったら先輩は先輩だろうけど、私達に出逢うまであの山に引きこもっていたのなら、どちらかというと社会人というより引きこもりの先輩ではなかろうか。
しかし師匠も「この中で一番の年長者様がこう言ってるんだから」と笑ったので、そういうことにしておく。そうこうするうちに軽く化粧も施され、仕上げに焦げ茶色のベルベットリボンに、オレンジ色のトパーズが揺れるチョーカーをあしらわれた。
「はい、完成。そこそこの出来映えってところかしらね。それじゃあ軽く朝食を摘まんだら出かけるわよ」
──と、師匠が告げた直後その眉間に縦に深い皺が刻まれて。
盛大な溜息と共に「どこかの馬鹿が来たみたい。店の呼び鈴が鳴ってるわ」と肩をすくめた。なのでクオーツにお留守番を頼み、慌ただしく出かける準備を整えた師匠と一緒に、装飾過多なデッキブラシを手に汚城の工房から店の魔法陣に飛んだ。
まだ昼には遠い薄く淡い陽射しが照らし出す店内を横切り、早速しつこく呼び鈴の鳴るドアに向かう師匠と、来客の正体に予想がついていて、むしろ一昨日商品の補充ついでに片付けたはずの棚と、店の奥に設けられた作業場の散らかり具合の方が俄然気になる私。
師匠はここで昼食を食べる時にパン屑なんかをそのまま床に落とすんだけど……塵も積もればというあれである。美を追求する空間に汚が存在してはならないと思う。溜息をつきつつ来客の対応は師匠に任せることにして、デッキブラシで床の隙間に挟まったパン屑や野菜屑を掻き出す作業に移ることにした。
この装飾過多なデッキブラシは何と掃除にも使えるのである。別に皮肉ではなく純粋に浄化の術式が施されていて、どんなにドロドロになっても水で
おまけに自然環境に影響しない少しの塵程度なら消去してしまえる魔法つき。お高いんでしょうと聞かれたら、迷わず〝はい〟と答えちゃう金額なので、増産して市販品にする夢は叶わないだろう。世の奥様方には申し訳ないことだ。
そんなデッキブラシを手に、ガシガシと踏み固められて床材の隙間にみっちり詰まった塵を掻き出す私の耳へ、ドアを開いて来客と会話を始めた師匠の声が店舗と作業場を遮る目隠しの壁を隔てて漏れ聞こえてくる。
ただ声量が小さすぎてほとんど会話が聞こえてこない。この時点でいつも騒がしいジークさんという線が消えた。それなら私はここから出ていかない方が良いだろうと思っていたのに、そんな予想は師匠からの『アリア、悪いんだけどちょっとこっちに来て頂戴』という呼び出しであっさり覆された。
呼び出された先にいたのは、見ず知らずの小さい美人さん。でも輪郭があやふやというか、全体的にぼんやりした印象の人だった。この短時間で視力が急に落ちたみたいな妙な感じだ。
「ふぅん、この子がそうなノ? 何故かデッキブラシ持ってるけド?」
「ええ。あたしの弟子」
「んー……掃除婦にしては可愛い格好させてるなとは思ったけどサ。こういう性癖だったっケ?」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ。魔力を構築する時に指向性を持たせるものが、この愛用してるデッキブラシじゃなきゃ嫌だって言うんだもの」
そんな短いやり取りで通じ合えるところを見るに、師匠とは旧知の仲なんだろう。そう思うとちょっとモヤッとしたけれど、弟子として紹介してくれたことは嬉しかったのでよしとしておく。
「えっと師匠、こちらの方は?」
「昔むかぁーしに、一瞬だけ仕事を一緒にしてた同業者。手が届く範囲に近づかなきゃ噛みついたりしないから、怖がらないで大丈夫よ」
「おや……わたしを認識できるとは流石ルーカスの弟子ダ。あと誰が噛みつくか人聞きの悪イ。おまえは相変わらずイイ性格してるネ」
微妙に独特の訛りと奇妙な言い回しをする女性に愛想笑いを浮かべて見せつつ、咄嗟に師匠の後ろに身体を隠してしまった。長年患っている人見知りはそうそう簡単に直るものじゃない。
「はいはい。お褒めに
「ジークだけど……まぁ、わたしも普段はあんまりこっちにいないし、あいつはもうわたしを認識できなくなってたかラ。ただジークが呪術系に詳しい奴を探してるって噂を耳にしたから来てみただケ。感謝しろよナ?」
「感謝するかどうかはあんたが持ってきてくれた情報次第ね。取り敢えずお茶くらい出すからどうぞ入って」
ポンポン飛び出す軽口の応酬。思わず「師匠、旧友の方なら私はご一緒しない方が良いんじゃないですか? 積もるお話もあるでしょうし」と提案したものの、二人から同時に「あら、それはないわよ。ねぇ?」「うん、絶対、死んでもなイ」と却下されてしまった。魔術師の友情って解せない。
ともあれ招き入れた女性は物珍しそうに店内を見回すと、お茶の準備のために師匠が奥へ引っ込んだ直後に小さく「へぇ」と声を漏らした。
「凄い……あのルーカスが人間らしい空間で生活してル。もしかしてお弟子ちゃんが一人で掃除してるノ?」
「あ、はい、そうです」
「ルーカスは昔から呼吸とゴミの製造を同時にしてるような奴なのに……お弟子ちゃんてば、天才じゃなイ?」
そんなことをぼやーっとした輪郭の彼女に言われて照れていたら、お茶の準備を終えた師匠に呼ばれて。応接用のソファーに並ぶ形で座らされてしまった。知らない人の隣に座る緊張感たるや……地獄だ。
「早速だけど、その顔布取って見せてくれル?」
「これでもそっちの稼業では割と有名な術者だから大丈夫。あんたの顔に残ってるその傷痕の消し方について助言をしてもらうだけだから。彼女も忙しい中で立ち寄ってくれたのだし、待たせちゃ駄目よ」
師匠にそう促されておずおずと顔布を持ち上げると、彼女がこちらに手を伸ばして、ゆっくりと指先で傷痕をなぞっていく。その端からピリピリともチクチクとも取れる違和感が肌を刺激してくるものだから、思わず不快感で顔を顰めてしまった。
「うーん……うん、成程成程? これはなかなか悪趣味で面白いネ」
「この子は気にしてるんだから面白かないわ」
「おっと、失礼。どうしても仕事柄興味の方が先走っちゃうものだかラ。気を悪くさせてすまないネ。あとお茶のお代わり良いかナ?」
「あんたは本当に昔から遠慮がないわね。アリア、悪いんだけどついでにあたしの分も淹れてきてくれる? ポットのお湯はまだ温かいと思うから」
それが二人なりの気遣いからくるものだと察することができたので、可能な限りゆっくりとお茶を用意して、再び店の奥の掃除に戻った。オルフェウス様との約束の時間は魔導協会が受付を開始する九時半。まだ七時半を指したばかりの時計に注意を傾けつつ、なるべく話し声を気にしないように掃除をすること一時間後。
「今日は朝早くから診察していただいてありがとうございました。えーと……そういえばまだお名前を聞いてなかったような……」
「ああ、良いヨ。どうせ聞いてもすぐに忘れてしまうかラ」
「ええ? そんなすぐに忘れるなんて失礼なことはありませんけど」
「君ってルーカスの弟子とは思えないくらい素直だネ。普段は教えないんだけど、健気で可愛いから特別に教えてあげル」
師匠が「どうせ呼べないって分かってるくせに。趣味が悪いわねぇ」とか言ってるけど、よっぽど発音が難しいのかもしれない。せっかくジークさん以外で初めて会った師匠の知り合い。絶対に一回で発音できるようにしようと意気込んだ。
──が。
『わたしの名前は∂∅∞☆∆∑%#っていうヨ。もしも生きてる間に会えることがあったら、その時は呼んでみテ』
──と。人類には早すぎた発声言語を残して去っていった彼女に思いを馳せていたら、不意に師匠が「ねぇアリア。あいつを見てどう思った?」と尋ねてきた。
「どうって……小さくて可愛らしい女性でしたよね。たぶん」
「ハズレ。昔のあいつは魔術狂いの男で、魔術に魅入られたっていうのかしら。分不相応な術式の構築をするのに足りない分の座標を、自分を構築している座標から抜き取ったの。だから自身の性別も存在もあやふやになってしまって、今や半分精霊みたいな何かよ」
「え~? 師匠ってばまた私が分からないと思って適当な冗談言ってますね?」
あまりに怖い発言に対してそう尋ねたのに、師匠はそんな私の言葉に意味深に微笑みながら「約束の時間に遅れるわ」と。まだ時間に余裕のある時計を指してそう言った。
***
夕方のまだ早い時間帯にもかかわらず、仕事終わりの職人や冒険者ギルドの人間達で、下町の一角にある酒場はごった返していた。
おかげで私の顔布を気にするような人がいないのは良かったけど、どちらかというと椅子に立てかけているデッキブラシの方が目立っているかな。
入店した直後は誰かがこっちを見て嗤っていないかと緊張したものの、食前酒として注文したラムラタ酒で今はちょうどほろ酔い気分である。
「外の飲食店って初めて入りましたけど、師匠のご飯の方が美味しいですね」
「何言ってるのよ。当然でしょう」
「わ~……流石師匠。こういう時でも謙遜しない」
「できることを謙遜する方が嫌味でしょうが。そんなことより城に帰っても何か作るの面倒だから、今ここでちゃんと食べときなさいよ」
「あ、それなら珍しい食材のメニューを頼んでみても良いですか?」
「自分で食べきれる量なら構わないわ。あんたが食べるならこの辺りと……この辺りのメニューなんかが好きだと思うけど」
「ほほう、じゃあ師匠を信じてこの辺りのやつを頼んでみますね」
初めての場所と熱気にあてられて浮き足立っているのが自分でも分かる。でもやっぱり城で食べる料理が一番だと師匠に言ったら無言で頭を撫でられた。気を良くした師匠は店員さんを呼んで私の指さした料理を注文してくれつつ、自分もお酒のお代わりを注文し、それら料理とお酒の相性について語り合いながら、ついでに今日一日の出来事を振り返った。
まずは全然予測してなかった師匠の昔馴染みの来訪。
それから予想通り魔導協会に到着してオルフェウス様と合流──かと思いきや、やっぱりここも予測通りしっかり三時間待たされ。
途中で付き添いに来ていたオルフェウス様が職場に半休の届けを出しに戻り。
やっと受付に通されたと思ったら今度は潜在魔力測定用水晶の順番待ち。
魔力というのは術者によって揺らぎが各々微妙に違うけど、指紋や声紋と同じくある程度まで個人を割り出して認識できるという優れもの。
これは魔術師や魔法使いの犯罪検挙に使われる資料として魔導協会が管理し、大きな犯罪に加担した場合は国の開示要請に応じて公開されると教えてもらった。なんと師匠は面倒事は極力避けたいからって、全力で込めるような馬鹿な真似はしなかったらしい。縛られる身になってやるつもりなんてさらさらないそうだ。まぁ犯罪さえ犯さなかったら大丈夫……だよね?
私は出し惜しみするような魔力はないから全力で魔力を注ぎ込んだんだけど、測定値を覗き込んだオルフェウス様から憐憫の眼差しを向けられて憤慨した。宮廷魔導師から見れば私の中に蓄積している魔力なんて、あってないようなものなんでしょうがね。感じ悪い奴。
魔導協会での手続きが思ったよりも早く済んだとはいえ、七時間近くかかってしまった。書類に記載した住所がミスティカの森の付近だというだけで根掘り葉掘り質問されて、師匠じゃないけど呆れたなぁとか。オルフェウス様の──、
『本日をもって僕がテイムしたワイバーンの秘密を守り、貴方達が住んでいる森へ魔導協会の者達の手が伸びないよう守るという契約が成された。これで名実共に我々は一蓮托生だ』
とかって木で鼻をくくったような態度も考えものではあった。王城でもあんな感じなのだとしたら、いずれ痛い目を見そうだけど……私達に関係ないなら多少痛い目を見るのもありなんじゃないかと思ったり。
そんなことを考えていたら、テーブルに新たにスパイスの利いたジャガイモが運ばれてきた。ソースに使われているチーズと香草の香りも相まって食欲を刺激される。早速頬張ってみたら結構好みな味だ。師匠もきっと気に入るはず!
──と意気込んで正面を向けば、何故かついさっきまで一緒にご機嫌になっていたはずの師匠は、いつの間にか心ここにあらずの状態になっていた。ちょっと観察してみたものの顔色は普通だし、お酒は無意識に飲んでいる。
けど、うーん、何かあったのかな? 妙に沈んでいるような気もする……とか思ってる間に、今度は大海老がやってきてしまった。ジャガイモも美味しいけど、気分は大海老の方が上がるよね……ってことで、ナイフとフォークでこっちも頬張る。
こっちはかなり好みな味だ。そして相変わらずどこに視線を向けているのか分からない師匠。そのあやふやな視線が妙に色気があるせいで、周囲の客席がざわつき始めた。せっかく人目がこっちに向いてなかったのに、魔性の師匠を持つと苦労する。
これ以上皆さんの楽しいお酒の席をうちの師匠でお騒がせするのもあれなので、空気を読めないふりをして口に大海老を詰め込んだまま、フォークで同じものを突き刺して師匠の前に差し出した。
すると抗い難い香りに反応したのか、師匠の視線が私に向けられる。次いでフォークに刺さった大海老に移り……ぱくりと食べた。直後に隣の席から口笛が聞こえたけど、食事中に行儀が悪い人がいるものである。
二人して見つめ合ったまま大海老を咀嚼することしばらく。先に呑み込んだ私が「これ美味しいですよね。うちでも作れますか?」と尋ねたら、遅れて呑み込んだ師匠が「あたしならもっと美味しくできるわよ」と言ったので。
「師匠、全然私の話を聞いてませんでしたね?」
「そんなことないわよ。それよりこれ美味しいじゃない。クオーツへのお土産にしたら?」
「いやもうまったく平気で見え透いた嘘つきますよね~。でもまぁ、この料理が美味しいのは本当ですし、そうしましょうか」
何気なく交わしたこの会話の直後、周囲の席から大海老料理の注文が殺到してしまい、クオーツへのお土産は骨付き牛肉のグリルになったけど、これはこれで美味しそうだから……ね。
それよりもさっき一瞬師匠が気落ちしたように見えたのは、私の気のせいだったのだろうと結論づけ、どんどん運ばれてくる料理に舌鼓を打ったのだった。