プロローグ

陽の光が差し込まない鬱蒼とした薄暗い森の中を、場違いなほど美しい青年が一人、供も連れずに歩いていた。彼が元高名な魔導師であることを知っている者はここにはいない。

切れ長で冷たい印象のある深紅しんく双眸そうぼうに、薄い唇から白い吐息が零れることで辛うじて血が通っているのだと分かる白い肌。癖のある豊かな金髪を無造作に一本に縛った彼は、朝から自身の庭のように知り尽くしているはずの森の様子がどこかおかしいことに気付いていた。

何がとは言語化できないもどかしさ。どこか不安定な空気からは、森にいつもとは異なる異質な存在が紛れ込んでいるようだ。思わず同伴者もいないのに「チッ、何か今日はきなくさいな。誰か入り込んだのか?」と口に出してしまうくらいには、空気がよどんでいた。

しかしそれがあり得ないことであることは、この森を覆い尽くす結界を張った当の本人が一番良く知っている。青年が採集を始めて一時間ほど経った頃、その心配は案の定現実のものとなった。明らかに面倒ごとで、しかも相当に質の悪い形で。

最初遠目に転がっていた汚い塊が何か分からなかった彼だが、近付いて嫌々爪先でひっくり返すとそれが人間だと知れた。小さな身体が膨らんで見えるほど火膨ひぶくれた姿に、微かにしか上下しない胸元。明らかに訳あり者のにおいがするそれを見た彼が「どこの馬鹿だか知らないが……面倒なことをしてくれる」と溜息をつくのも無理からぬことだろう。

ここは死の森として有名だ。一度だけ呼びかけて返事をしないようならここに放置して引き返そう。どうせ三日もすれば獣に食べられているに違いない。薄情と言えばそれまでだが、人間に対して少々嫌気がさしていた彼はそう割り切って、一言だけ「おい、生きてるなら返事をしろ」と呼びかけた。

するとそれは小さく身じろぎ、何故か「ニゲテ」と返事をした。

青年はこれに対して素直に驚いた。自分は二目と見られない姿のくせに、割れた硝子がらすを擦り合わせたような不快な声は、性別すら判別ができなかったのに。てっきり〝助けて〟と言うのだと思った。それがこの場合一番妥当な台詞だったから。けれど、そんな状態でその人物は再び言ったのだ。

痛みのせいなのか、命の火が消えかかっているからか、震える声で。それでも「ニゲテ」と。雷に打たれたような衝撃……とまでは言わないものの、一瞬だけ。一瞬だけ青年はその言葉に酷く救われた気持ちになった。

その後〝放っておいて〟とでも続けたかったのかもしれないが、そこで気力を使い果たしたそれは意識を手放した。それを前にして、青年は自身がいつぶりぐらいか分からないほど久々に心を動かされたことに気付き、同時に複雑で悪趣味な魔術の痕跡がある人らしきそれに、研究対象として興味が湧いたのだ。

だから気紛れに拾って持ち帰ったまでは良かったものの、目覚めた人物にはそれまでの記憶が一切残っていなかった。そしてこの日を境に厭世家えんせいかな美貌の魔術師は、初めて自身の顔の造形を以てしても怯え泣く存在というものに手を焼くこととなる──。

***

華美すぎず、地味すぎず。品の良いレースのカーテンが、開け放たれた窓から流れ込む朝の爽やかな風をはらんで翻る。

パステルピンクの天蓋つきのベッドとダークブラウンで統一された猫足の家具は、部屋の主の乙女趣味な人物像を物語っていた。そんな窓辺の程近くにある大きな鏡台の前には、一目見れば誰しも目を奪われるであろう絶世の美貌を持った──……青年が座っていた。

一瞬この部屋の主の恋人かもしれないと思えど、クリーム色のシルクで仕立てられたドレス風のネグリジェに身を包んだ姿に、その考えははかない夢と消える。歳はおよそ二十代前後。座っているから分かりにくいが、組まれた長い脚から立てばかなりの高身長だと思われる。

「鏡よ鏡よ鏡さん、この世で一番美しいのは誰かしらー?」

耳に心地良いベルベットボイスで、ご機嫌な節回しと共にその唇から飛び出したのはまさかの……いや、もうこうなったらそうだろうなと予測ができる言葉遣い。総合的に視覚と聴覚が見る者の期待と理想を真っ向から裏切ってくる仕様である。そしてその問いかけをしながらも、テキパキと元から手直しなど必要がなさそうな顔に化粧を施していく。

シミ一つないどころか毛穴もなさそうな白い肌、長い睫毛に縁取られたつり目気味な深紅の双眸、通った鼻筋に薄い唇。癖のある豊かな金髪を軽く結わえただけの寝起き姿も、退廃的で一種の芸術めいた美しさがある。

化粧が終わったのか、出来映えチェックをした彼が鼻歌交じりに髪をほどいて結わえ直そうとした次の瞬間、突然部屋のドアがノックもなく開いた。そこに立っていたのは顔の半分を包帯に覆われた痛ましい姿の少女だ。

歳の頃は十六、七。無事な方の顔つきは至って平凡ではあるものの、クルミ色の丸いタレ気味の目は力強い光を放っている。彼女は後ろで一本にキリリと結ばれた狐色の髪を揺らしながら、白いエプロンを翻してズカズカと遠慮のない足取りで立ち入って来た。

「はいはい、おはようございます。今日も師匠が世界で一番美人ですよ~。それよりもまた靴下裏返したまま洗濯物に出しましたね? これをやられると、いちいち表に向け直して干すの面倒なんですってば」

おざなりな挨拶あいさつと褒め言葉もそこそこに鏡台の前に座る彼の後ろに立つと、矢継ぎ早に文句を言いながらご立腹の元凶らしき靴下をエプロンのポケットから取り出し、鏡の中に映る青年に見せつけた。