
「さすがに一人でとは言わない。私も採取がてら付いていこう」
いかにも自分は優しいと言わんばかりのクリスだが、サラはふんふんと鼻息を荒くする。
「当たり前ですよ。そもそも私、特薬草がどんな草なのかさえ知らないんですから」
図鑑にもないのだから、採取するというならちゃんと教えてくれないと困る。そのくらいクリスにはっきりと言える強さは身につけたつもりだ。
だが、サラは気づいていなかった。ベテランでもないと厳しいダンジョンの深層に行くことに、自分がまったくためらっていないことを、そしてそれは普通の薬師ではありえないということを。バリアがあり、力もあるサラの卒業試験が厳しいのは、ある意味当然のことだとサラも自覚しているのである。
そんな話があった次の日、薬師ギルドに出勤したサラの目の前は
サラは、本当は自分だって調薬だけしていたいと、同僚の薬師に愚痴を聞いてもらうつもりだった。採取は好きだが、ダンジョンの最下層は虫型の魔物がいっぱいいるのだから、できればごめんこうむりたい。
だが、話を聞いてもらえる雰囲気ではない。胸に手を当ててうっとりと宙を見る薬師もいれば、興奮しているのか、口から唾を飛ばす勢いで同僚と大きな声で話している薬師もいる。
薬師たちはサラに気がつくと、一斉に詰め寄ってきたので、思わず一歩も二歩も下がってしまった。
「サラ、ありがとう!」
「特薬草を全員分、採りに行ってくれると聞いたぞ」
「え、ええと……」
その勢いに戸惑うサラに、薬師たちが口々に説明してくれた。
朝食の席にクリスがいないと思ったら、先に薬師ギルドに顔を出して、サラが特薬草を全員分提供すると言いおいていったという。
もともと、余分の特薬草が採取できたら、ベテランから順番に特級ポーションを作っていいという話になっていたらしい。サラのように情報に
「いやあ、特薬草なんて私も見たことがないので、採取できるかどうかは不安なんですけどね」
いまさら、本当はあまり行きたくないとは言えない雰囲気である。
「これよ」
突然ギルド長室のドアが開くと、カレンがつかつかと歩み寄ってきた。ドアの向こうで話を聞いていたのだろうと思うとちょっとおかしかったが、手には、小ぶりの
「おお……」
サラだけでなく、薬師がぎゅっと頭を寄せ合ってその籠をのぞき込む。
「薬の色は赤なのに、葉は濃い紫だ」
葉は肉厚で、ハート形である。
「割とわかりやすいかも」
「このように、上から三節分でいいの。特級ポーション一つにつき三本使うから、失敗分を含めたらそれなりの量を採ってきてもらうことになるけれど……」
カレンにしては珍しく、少し口ごもった。
「サラの守りが固いことは知っているし、クリス様が卒業試験だと言うから大丈夫なのかもしれないけれど、やっぱり深層での採取まで薬師にやらせるのは心配だわ」
いや、カレンだって以前、初心者のサラに、安全地帯でとはいえ、ダンジョンの中で出張薬師ギルドを開かせてましたよねと一瞬突っ込みそうになったが、そんなカレンが心配するくらい、ダンジョンの深層は危険だという認識なのだ。それでも、純粋に心配してくれる気持ちがありがたくて、サラは胸が温かくなる。
そしてその言葉で、薬師ギルドに沈黙が落ちた。
「お、俺は待てる。サラ、無理することはない」
「私も大丈夫」
さっきまではしゃいでいた薬師たちが、次々と遠慮し始めた。だが、調薬をしたいのに無理をしているのは丸わかりである。サラも薬師なのでその気持ちには共感できる。
「大丈夫ですよ。クリスはいつもいきなりだから、私の心の準備ができていなかっただけです」
サラは苦笑した。素直に自分の心をのぞき込めば、採取も好きだし、ダンジョンの深層階だってタイリクリクガメの出現時に行ったことがあるわけだし、問題はないのだ。
ほっとした雰囲気が流れる中、表のドアがノックと同時に開けられた。
「よう、サラ」
「迎えに来た」
いつもならダンジョン帰りに迎えに来るはずのクンツとアレンである。
「えっ、なにが、なにの?」
さすがのサラも困惑である。
「ダンジョンの深層に行くんだって? 水くさいぜ。言ってくれよ」
クンツがニコニコと楽しそうだ。水くさいも何も、サラも昨日聞いたばかりである。
「サラがダンジョンに行くなら、俺だって行く」
アレンがにかっと親指を立てた。
アレンは、サラがダンジョンに行くのはいつでも大歓迎という構えだ。
「いや、今日じゃないよね? 私も昨日言われたばかりで、いろいろ準備したり、計画を立てたりとかしたかったよ」
二人が付いてきてくれるのは
「でも、ネリーとクリスが待ってたぞ」
「知らないよ? 待ち合わせなんてしてないもん」
サラは昨日の夜のことを頭の中でしっかりと再生する。
確かにクリスは自分も付いていくとは言っていたが、日付については触れていなかったから、行くのはサラの心の準備ができたときだと思っていた。
「じゃあ、いつなら準備ができるんだ?」
ことダンジョンが絡むと、アレンもこれである。
「じゃあ、確認していくぞ。必要なものは?」
ぐいぐいこられても困るのだが、聞かれたらつい答えてしまう。
「ええと、ポーチの中にある」
採取道具どころか、非常食までばっちりだ。
「薬師ギルドの仕事は?」
サラは希望を込めてカレンのほうを見た。
カレンは肩をすくめる。
「クリス様が待っているというなら、それが一番優先ね」
クリス推しに聞いても無駄に決まっていた。それに、薬師ギルドは、薬師の都合によっては長期の休みもくれるホワイト企業である。つまり、言い換えれば、サラが今すぐダンジョンに潜っても何の問題もないということでもある。
アレンの、さあどうだという顔が憎たらしい。
「心! 心の準備ができてないでしょ!」
サラの心からの叫びである。
「ハハハ!」
そこは笑い飛ばすところではないと思う。
「じゃあ、行くか」
「仕方がない」
サラは、はあっとため息をついた。
残念なことに、無茶振りには慣れている。
「カレン、皆さん。私、ちょっとダンジョンに行ってきますね」
「ダンジョンはちょっと行ってくるところじゃないわよ。でも本当に気をつけて」
クリスの保証があるとはいえ、若い薬師をダンジョンの深層に行かせることに、なにかしら思うところはあるのだろう。それでも笑顔で見送ってくれた。
「サラとダンジョンは久しぶりだなあ」
珍しく浮かれているアレンとは対照的に、クンツは真面目な顔で前を向いて歩いている。
「本当だよね。去年のクサイロトビバッタは魔物じゃなかったし、そもそもダンジョンに行ったんじゃないから、アレンたちとは少なくとも一年以上は一緒に行ってないね」
サラがダンジョンに行かなかったわけではない。いやいやながらも、時には薬草を採りに、時にはギンリュウセンソウを採りにと、深層にも行ったことはある。だが、たまたまアレンとは都合が合わなかったのだ。
「私がダンジョンに行く理由は、いつもクリスの無茶振りだからなあ。相談って言葉、知っているのかって思うよ」
「ハハハ。クリスだからな」
それで済むのがクリスという人物である。そして残念なことに、ネリーにも当てはまる。
「よく考えたら、相当ポンコツな二人組だな」
「だから放っておけないんだろ?」
「それはそう」
それがサラへの無茶振りも仕方ないかと思ってしまう理由である。
「ところで、クンツはどうしたの?」
迎えに来たときとは違って難しい顔で前を向いているクンツが、サラは気になっていた。
「クンツはいつもこうだぞ」
アレンは気にも留めていないようだが、クンツは少し困ったようにニヤリと笑う。
「俺もやっと深層に慣れてきたけど、アレンと比べると魔力量も火力も低いだろ。鼻歌を歌いながら行けるってほどの余裕はないんだよな」
クンツはアレンとパーティを組んでいるから、サラが巻き込まれる事件にはたいてい一緒にいる。結果として、若手にしてはかなりの実力者として認められているらしい。
それでも魔力量に依存する魔法師なので、身体強化が得意なハンターよりは弱い。
「俺はハンターだからさ、深層に行けるのは嬉しいけど、強くないからこそ、毎回気を引き締めるようにしてるんだ」
「クンツのそういうとこ尊敬する。大事だよね」
サラはうんうんと
「気を引き締めなくても行ける俺のことはどう思う?」
「アレンについて? ええと」
クンツと自分を比較するようなことを言うアレンも、自分のことを評価してほしがるようなアレンも珍しくて、サラはちょっと戸惑った。
「アレンもすごいと思うよ」
「もうちょっと褒めてくれてもいいのにな」
話しながらダンジョンの前に着くと、そこにはネリーとクリスが待っていた。
「昨日結婚式だったのに」
思わず口から漏れてしまっても仕方がないだろう。
しかし、クリスもネリーもまったく気にもしていないようだ。
「では行くか」
そんなクリスに対する答えは、弟子として一択である。
「はい」
行くなら採集と景色を楽しもう。サラは元気にダンジョンに向かった。
目的地はダンジョンの一番下なので、一五階である。途中で休憩を挟みながらも、一気に向かう。魔の山育ちのサラは体力はつけていたはずだが、町中の薬師ギルドに通う毎日ではやはり衰えているらしい。目的地に着いたときには昼もとっくに過ぎており、サラ自身は肩で大きく息をしている状況だった。
「ふう。だいぶ体力が落ちてるな、私」
ハンターと比べても仕方がないとは思うが、同じ薬師でしかも年上のクリスが平然としているのはやはり少し悔しかった。
「魔の山からローザに出るという目標があったころとは状況が違う。体力のある若いハンターでも、ここまで一気に降りてきたら疲れるのが当たり前だ。気にすることはない」
その若いハンター二人がクリスと同様に平然としているのだから、ネリーの言葉には説得力はない。それでも、サラのペースで考えてくれる優しさが嬉しい。
サラが大きく深呼吸して顔を上げると、目に入ってくるのは懐かしい景色だ。
二年前、行き止まりにある正面のダンジョンの壁からは、ヘルハウンドが湧き出していた。あの時、サラのバリアに行く手を阻まれもがいていた、目に見えない魔物の気配を、サラは今でも忘れられない。
「最後にはタイリクリクガメがあそこから出てきて、大変な目にあったんだよな」
騎士隊の考えなしの作戦に巻き込まれたアレンならではのボヤキである。
だが、タイリクリクガメが魔の山に去った後、ダンジョンの壁の揺らぎはおさまった。そこから何物かが出てくることはなくなり、今は何の問題もないはずだ。
「今の俺なら、もっとちゃんと戦えるのに」
自信ありげにこぶしをぐっと握るアレンは、サラが見ていない間にも強くなっているのだろう。だが、サラは違和感を覚えた。いつものアレンとは少し違うような気がする。
そもそも、今のアレンがどのくらい強いかわからないが、多少強くなったくらいではあのタイリクリクガメと戦うことなどできないと思う。
あの時でさえ、アレンは自分が未熟で功を焦ったことを自覚していたはずなのに、それを忘れてしまったのだろうか。
サラがそのことを指摘しようかどうか悩んでいると、壁を眺めて苦い思い出を振り返っていたアレンが、急に言葉を止め、目の上に手をかざした。
「誰かが壁の前にいる。まあ、このくらい離れていれば問題ないか?」
深層部は森林と草原の混ざり合った広いフロアで、ハンター同士が出会うことはあまりない。それでもアレンはともかくとして、クンツは魔法を使うから、周りに気をつけなければならないのだそうだ。
「あれはもしかして……」
ネリーがアレンと同じように目の上に手をかざす。
「ネリー。知り合いか?」
「おそらくは。行ってみよう」
アレンと話しているネリーは、どうやらそのハンターのもとへ行くようだ。
だがサラは他のハンターには興味がない。なぜなら、これから卒業試験が始まるからだ。というより、ふと目を落とした地面に生えている紫の草にもう目が
「こ、これは」
思わずしゃがみこむと、
サラのいる草原から、右手の森のあたりまで、背の高い草に隠れるようにして、背の低いハート形の草がたくさん生えている。
「クリス! これですね!」
「そうだ。まだ教えていなかったはずだが」
クリスは意外そうにそう言うと、サラの隣にしゃがみこみ、紫の葉に手を添えた。
「カレンが今朝、教えてくれたんです」
「さすが薬師の長だな。ではどこから採るかもわかるな?」
「はい。上から三節分です」
「よし」
クリスはサラの答えに満足そうに立ち上がると、右手を森のほうに大きく動かす。
「貴重な薬草だが、これだけ生えていれば制限することもあるまい。普通の薬草と同じことに気をつけて採取するように」
「はい!」
サラはさっそく薬草籠を取り出すと、一本一本丁寧に採取し始めた。
必要なのは薬師の人数の三倍に予備を足した本数だ。制限することはないといわれても、貴重な特薬草なので、取りつくすことのないよう注意しながら夢中になって採取する。
それほど時間もかからずに採取し終わると、サラは立ち上がって腰をとんとんと
若いとはいえ、ずっとかがんでいると疲れるものだ。
「あれ?」
周りを見渡すと、誰もいない。
サラは魔の山で修行した経験から、いつでもどこでも無意識にバリアを張っている。ましてやダンジョンではそのバリアを一層強固に、そしていつもより広い範囲で展開している。サラは自分が
つまり、誰にも守られる必要などない。
ないのだが、やはり放置されると不安に感じるし、見守ってくれているはずのアレンがいないことに、ちょっとだけ不満も感じてしまった。
「わざわざ誘いに来てくれたはずじゃなかった?」
ぶつぶつ言いながらよく見ると、皆はタイリクリクガメの出てきた壁のほうに集まっているようだ。
その皆とサラの間にクンツがいて、立ち上がったサラに気がついて大きく手を振ってくれたのが救いである。完全に放置されていたわけではなかったようだ。
「何かあったのかな」
サラは籠をポーチにしまうと、皆のほうに足を急がせた。
近づくにつれて、壁のほうを指し示しながら何か話し合っている様子が見える。
そこにはクリスとネリーの他にもう一人、先ほどアレンが見ていたハンターらしき人がいた。
「あれ、髪の色が赤い」
ハンターにしてはひょろりとしていて、クリスよりも背が高い。後ろで無造作に一つにくくった髪は、ネリーと同じ赤毛である。しかも、話している横顔が、どことなくネリーに似ているような気がする。
どこにも属さず、流れのハンターをしてトリルガイア中を旅しているというネリーの二番目の兄ではないかとサラは推測した。
「クンツ」
「サラ、ごめんな、放っておいて。珍しい人が来てたみたいでさ」
「もしかして、ネリーの?」
「そう、二番目の兄さんなんだって」
「ああ、ええと」
サラは結婚式の前に教えてもらった名前を思い出す。
「エルム・ウルヴァリエ」
「それだ。俺はサラが気になってすぐにこっちに来たから詳しいことは聞いてないけど、結婚式に間に合わなかったとかで、仕方ないからタイリクリクガメの出てきた壁に観光に来てたんだってさ」
サラの推測は見事に当たっていた。
だが正解の喜びより、驚きとあきれが先に立ち、思わず大きな声を出してしまった。
「いや、それならまずライのお屋敷に来るべきでしょ!」
「だよな」
クンツも半笑いである。
アレンはといえば、和やかに話している大人三人を、憧れのこもった目で見ていた。
クンツと合流して皆のもとに向かいながら、サラは肩をすくめる。
「久しぶりに会ったお兄さんならネリーはもちろん話したいし、さすらいの
「アレンはネリーの弟子だからな。ネリーが尊敬する兄さんなら、そりゃ興味津々だろうさ」
セディアスにしろラティーファにしろ、ネリーの
だが、途中で視界が揺らいだ気がして、思わず足を止めてしまった。
「サラ?」
「ごめん、ちょっと待ってね」
何が気になったのか自分でもよくわからなかったサラは、周りに注意を向けた。
「音?」
チリ、と、かすかだが何か硬いものが擦れ合うような音がする。場所が特定できず、サラはあちこちに顔を向ける。
違和感を覚えたのは正面だ。
「目の前は壁、だけど……」
聞こえる音は次第に大きくなり、チリチリと空気そのものを震わせ始めた。
「なんだ? 何の音だ?」
サラの様子から周りを警戒していたクンツも、ここにきて音に気がついたようだ。
「めまい? 立ち
正面の壁の輪郭が定まらないような気がする。お酒に酔ったような気分に思わず胸を押さえたサラの動きに気がついたのか、ネリーの兄と思われる人が、サラのほうに振り向いた。
だが、その顔がネリーに似ているだとか考える余裕はサラにはなかった。
揺れる壁を見たサラの目が恐怖で見開かれ、それを見て取ったネリーの兄が壁に目をやる。
「下がれ!」
その人が叫ぶと同時に、小石が一つ、壁の上のほうから転がり落ちてきた。
それを追いかけるように、大きな岩が、一つ、二つと壁から
少し離れたところに立っているサラには、落ちてきた岩の形がはっきり見えた。
「ガーゴイル!」
サラは魔の山でガーゴイル狩りに連れていってもらったことがあり、崖からガーゴイルが転がり落ちてくる姿は何度か目にしたことはある。だがここは崖ではない。ただのダンジョンの岩壁のはずだ。
だが確かに、転がり落ちてくる岩にはぼんやりとした顔や手足があり、ただの岩とは違い意思をもって転がり落ちる方向を変えているようにも見える。
ネリーならガーゴイルを倒すことができるのは知っている。だが、目の前の壁一面がガーゴイルだったとしたら? それだけの量の魔物を倒せるだろうか。
「無理」
そう思う間もなく、サラの手が隣のクンツにぎゅっとつかまれた。
「サラ! 下がるぞ!」
「でも!」
落ちてくるガーゴイルが見えても、そこからネリーもクリスもまだ飛び出てはこないではないか。
「まず自分だぞ!」
迷う間もなく、サラはクンツに引きずられ、壁から遠ざかる方向に走り出す。
低い地響きのような
だが、その風は一瞬で吹き抜けた。
もしかしたら崩落の規模が小さいのかもしれない。
サラはほんの少しの希望を抱きながら、クンツと同時に足を止め、振り返った。
「ああ!」
「なんてこった!」
「ガー」
「グー」
壁は崩落し、一見すると岩と見分けがつかないガーゴイルが一面に積み重なっていた。
小規模といえば小規模なのだろう。だが、直下にいた人を
だが、その光景に心を飛ばしている場合ではない。
「ネリー! クリス!」
「アレン!」
壁の真下にいた人たちはいったいどうなったのか。
サラが走り寄ろうとしたとき、ドガンという音と共にガーゴイルが数体吹き飛んだ。
「ネリー! あ」
ガーゴイルを跳ね飛ばして立ち上がったのは、同じ赤毛でも背の高い男性だった。
だが、がっかりしている場合ではない。この赤毛の人がガーゴイルの下から出てきたということは、ネリーたちも積み上がったガーゴイルの下にいるということだからだ。
「くそっ! 俺の魔法はガーゴイルには分が悪い!」
隣でクンツが悔しそうにこぶしを握る。
立ち上がった途端、こぶしでガーゴイルを次々吹き飛ばしている男を見ながら、サラも一瞬立ちすくんだ。
「私のバリアで、いったい何ができる?」
早く早くと焦るほど体が動かない。
「せめてネリーたちの位置がわかれば……。そうだ!」
悔しがりながらもつぶてを飛ばし、うごめくガーゴイルを
「バリア。ガーゴイルの
サラのバリアは、その中に入れるもの入れないものを自由に決めることができる。
パーンと広がったバリアは柔軟に形を変え、ガーゴイルの隙間に水のように流れ込んでいく。
「岩とは違う形のもの。地面に寝転がっているはず」
サラは目をすがめて、バリアから伝わる感触に集中する。
「いた! 右側二時の方向! ガーゴイル三つ分。クリスの下にネリー!」
体の形から二人が折り重なるように倒れているのがわかる。だが、呼吸の有無まではわからない。
「クリスとネリーの周りに空間を作ります!」
とりあえず、ガーゴイルの重さを取り除かなくてはならない。
バリアごと引っ張ってくることも考えたが、上に重なっているガーゴイルが今にも崩れてきそうで危険だ。空間さえ確保すれば、あとはなんとかなる。二人を包むようにバリアを膨らませると、ネリーが身じろぎしたのがわかり、サラは大きく息を吐いた。よかった。
「君はいったい何を……。いや、それは後だな」
赤毛の男はサラが指し示した方向のガーゴイルをガンガンと跳ね飛ばしていく。
「サラ! アレンは」
「まだ。これから」
さすがのサラも、離れた二ヶ所を同時に捜索するのは難しい。
だが、ネリーたちの空間は確保した。次はアレンだが、クンツに言われるまでもなく、アレンの場所は特定できていた。すぐさまバリアで空間を確保する。
「アレン!」
上にガーゴイルが折り重なってうごめいているけれど、アレンのいる場所はほんの数メートル先である。声は届くはずだ。
サラは必死で呼びかけたが、アレンはピクリともしない。次第に不安がこみあげてくる。
「見えた! 魔法師の君! 手伝ってくれ!」
「はい!」
声のほうを見ると、クリスとネリーがガーゴイルの間から引っ張り出されているのが見え、サラはほっとする。
崩れても巻き込まれる人がいなくなったのなら、アレンを思い切って動かすことができる。
「できるだけ遠くへ移動してください」
サラ自身も後ずさりながら声をかけると、アレンを包むバリアを膨らませ、少し大きな空間を作っていく。
「ニジイロアゲハをまとめて落とすことができたんだから、バリアで人を運ぶこともできるはず」
サラは包み込んだバリアごとアレンをそっと浮かせた。
「重さも感じない。いけるはず。よしっ」
アレンの上のガーゴイルを取り除いていてはどれだけ時間がかかるかわからない。サラは、アレンをバリアごとガーゴイルの山からぐいっと引っ張り出し、薬師の目でアレンを確認すると、目立った外傷が見られないことにひとまず安心した。
「いったいどうやった」
「ネリーとクリスは」
二人にさっと目を走らせるが、胸は上下にゆっくり動いていて、外傷は見られず、こちらもほっとする。
「意識がないのはガーゴイルに当たった衝撃によるものだろう。じきに目を覚ますはずだ。念のために」
「はい。上級ポーションを」
サラは素早く上級ポーションを二人にかけた。
「問題はこちらの少年だな」
赤毛の男はアレンの横に膝をつき、アレンの顔の前に手をかざす。
本来は薬師であるサラの仕事だが、正直に言って、サラは重傷の患者を実際に
だが、問題はそれだけではない。
「ガー」
「グー」
折り重なったガーゴイルが、こちらに移動を始めているのだ。
「ひえっ。ガーゴイルって落ちてくるだけじゃないの?」
少なくとも魔の山では、崖から落ちてきてうごめいているだけだった。
それなのに、目立たずよくわからなかった足や手がしっかりと生えており、一番動きの速いガーゴイルはサラたちのところにたどり着こうとしている。
「落ちてくるだけだったら、どうやって崖の上に戻ると思っているんだ」
赤毛の男があきれたように口にしたが、今はガーゴイルの生態を詳しく聞いている暇はない。
サラは倒れたネリーたちを囲むように結界箱を配置し、その上で全員を覆うようにバリアを広げた。
「よし」
男は周りを見て一つ頷くと、慎重にではあるがアレンを抱え起こした。
「アレ、ン」
運んでいる間は気がつかなかったが、ガーゴイルにぶつかったのかアレンの後頭部が真っ赤で、サラは慌ててポーチから上級ポーションを出し、頭にかける。薬師としての目で見て無事だったなどとなぜ言えたのかと、
しゅわしゅわと頭の怪我が治っていくが、怪我の治りがいつもより遅いような気がしてサラは眉を寄せた。
それなのに赤毛の男は、抱え起こしたアレンの背中に手のひらを当てると、
「ふんっ」
と力を込めて打ち込んだ。
「ゴフッ」
何かを吐き出すように
「君は薬師だな。先ほど採取をしているのを見た」
「はい」
サラは青い顔で、だがしっかりと頷いた。
「よく聞け。とりあえず一時しのぎに心臓は動かしたが、内臓がやられている。頭を打ったときに身体強化が切れたのだろう。重さでやられたんだな」
サラは真っ青になった。心臓を動かしたということは、止まっていたということではないのか。今まで軽い怪我を担当したことはあったが、それほどひどい怪我を見たことはなかった。
「ポ、ポーションを」
サラがポーチを探ろうとしたが、赤毛の男は首を横に振った。
「上級ポーションでもおそらく無理だろう。深層で採取していたということは、君は持っているだろうか」
赤毛の男はためらうようにサラの顔をうかがった。
「特級ポーションなら、あるいは。それでも五分五分か」
「特級ポーション!」
まさにその試験のためにここにやってきたのだ。だが、サラの手元にはない。
「ネリーが! ネリーが持っています! おそらくクリスも!」
だが、二人が目を覚ます気配はない。
「本人でなければ、ポーチの中身を出すことはできない。かわいそうだが、諦めるしかないな。ダンジョンではよくあることだ」
「諦める……。そんな馬鹿な。あなたは、あなたは持っていないんですか」
サラに持っていないか聞いたということは、この人は持っていない。それがわかっていてもすがるような気持ちで聞いてみる。
「一人で狩りをしているから、持っていても無駄だ。死にそうなときに自分で使えるとは思わない」
今の状況を見ていると確かにそうかもと思ってしまう。
アレンに震える手をそっと伸ばすと、心なしかさっきより胸の動きが弱くなっているような気がする。
「むり。ぜったいむり。諦めるなんて」
少なくとも今は生きている。サラは伸ばした手をアレンの
「温かい。まだ間にあう」
サラはすっくと立ち上がった。
「やるのか」
「うん」
苦しそうな顔ですべてを見ていたクンツの一言に、サラは力強く頷いた。
「俺はどうしたらいい」
「ネリーに声をかけ続けて。起きてくれさえすれば、収納ポーチが使えるから」
「わかった」
本当は意識のない人を無理に起こすべきではないはずだが、この世界の治癒の在り方はサラのいた世界とは違う。今はアレンのために無理をしてもらうしかない。
サラは一歩下がると、ポーチから長机をどんと出し、手早くポーションづくりの道具を並べ、先ほどしまったばかりの薬草籠をとんと置く。
「ガー」
「グー」
観客はたくさんのガーゴイルである。
赤毛の男の眉が上がる。
「それは、特薬草か」
「はい」
サラは一言だけ返事をすると、特薬草を三本取り出し、すりつぶし始めた。時間との勝負だから、余分に作っている余裕はない。
「作り方の手順はポーションと同じだってクリスが言ってた」
震えていた手と心は、慣れた作業で落ち着いていく。
なにより心を静かに保っていないと、魔力を一定に流せない。
だからどんなに気になっても、アレンのほうは見ない。
「ネリー! クリス! 起きてくれ!」
なんで基礎薬に気付け薬がないんだろうとぼんやりと考えながらも、クンツが声をかけているネリーのほうだって絶対に見ない。
サラは心の中から余計なことを追い出しながら、手元の調薬だけに集中する。
「ガー」
「グー」
バリアの外に積み上がっていくガーゴイルのことも見たりなんかしない。
やがて薬液の濁った葉の色が、透き通った赤色に変わっていく。
「たぶん、成功」
これをポーションの瓶に移したら出来上がりだ。
まだ熱いポーション液を、サラの魔法でゆっくりと冷やしていく。
鍋ごとアレンにかけたい気持ちを抑え、ポーションの瓶に上澄みを注ぐ。
「できました」
最後に転んでぶちまけたりしないように、慎重に。
青白く変わったアレンの顔に動揺しないように。
「かけますか、飲ませますか」
「体の中だから、飲ませたほうがいいんだが」
意識がないから、飲み込むかどうかわからない。
だが、赤毛の男はアレンの体を起こし、
「いちか、ばちか。やるしかない」
肺に入ろうが何だろうが、死ぬよりましだ。
サラは一口ずつ、口の端から赤色の筋が垂れるのも気にせず、アレンの口に特級ポーションを注いでいく。
「うっ。ぐっ。げほっ」
アレンが薬を嫌がって顔を背けるしぐさをした。

そんなしぐさでも、アレンが動いたというだけで希望が湧く。しかも、その拍子に
わずかでも、薬を飲み込んだ証拠だ。
「今だ! 無理やりでもいけ!」
「はい!」
顔を背けるアレンをなだめながら、サラは残りのポーションを全部飲ませた。
「ふーう。う」
再び寝かされたアレンの胸は、大きくゆっくりと上下している。
白かった顔色も、赤みを取り戻しているように見えた。
それを見て、赤毛の男は右腕で額の汗をぬぐった。どうやら緊張していたらしい。
「効いたんでしょうか」
少なくとも、先ほどよりは顔色がいい。だが無事だとはっきり言える自信はなくて、サラはおずおずと赤毛の男に聞いてみる。
「効いたんだろうな。生きているということは」
「え?」
不穏な言葉に、サラは思わず聞き返した。
「いちかばちかと言っただろう」
「そういえばそうでした。つまり?」
「効いていなければ、今頃少年は死体になっていた」
いちか、ばちか。
すなわち、生きるか、死ぬか。
「ふえっ」
サラは思わずへたり込んだ。サラの作った特級ポーションで、もしかしたらアレンの死を早めてしまうかもしれなかったことを、改めて実感した瞬間だった。
「よかった、よかったよ、アレン」
先ほどまで必死にネリーに呼びかけていたクンツも、サラの横にどさりと座り込んで、震える声でアレンに呼びかけている。
そういえば、結局ネリーは目を覚まさなかったのだろうかとサラが顔を上げると、目を覚ましていたのはクリスで、上半身を起こして、ネリーの顔に両手を当てているのが見えた。顔を左右にゆっくり動かし、ほっとしたようにうんと頷く。だが体はふらついているから、クリスもたったいま目を覚ましたところに違いない。
その優しい手つきを見て、サラの緊張も緩む。クリスがうんと頷いたのなら、目を覚ましていなくてもネリーは絶対大丈夫だからだ。
クリスがそっとネリーから手を離し、ふらつきながら立ち上がったので、サラは急いで場所を譲る。
クンツと同じように座り込み、そしてネリーにしたようにアレンの顔に両手を当てると、左右にゆっくりと動かしていく。
クリスの親指が、アレンの口元をゆっくりとぬぐう。
「この赤。特級ポーションか」
「はい。それしか方法がなくて」
「ふむ」
喉元、胸、お腹、手足と、ふらつきながら這うようにして丁寧に全体を確認し終えると、クリスはほっと息を吐いた。
「危ないところだった。よくやった、サラ」
「はい……」
危ないところだったとクリスに言われて、改めて体に震えが走る。めったに褒めないクリスが褒めてくれたことより、アレンが助かった喜びのほうがずっと大きい。
「卒業試験、合格だな」
「え?」
突然のクリスの言葉に、理解が追いつかない。
「卒業試験だっただろう」
「そんな場合ですか!」
確かに、採取して特級ポーションを作るのが卒業試験だった。だが、ネリーが目を覚まさず、アレンが危険だった状況で、合格を言われても素直に喜べないではないか。
「全然嬉しくないです」
「それはそうかもしれないな。だが結果を出した。それは大事なことだ」
この状況で顔を見合わせても、乾いた笑いしか出ない師弟である。
「その若い薬師が、つまりネフェルの招かれ人か。結界箱だけにしてはガーゴイルがずいぶん遠い」
ネフェルの招かれ人。
ネフェルとは、ネリーの家族が使う愛称だ。
クリスは赤毛の男を見て、ああという顔をした。
「そうか、直接の紹介はまだだったな」
ネリーとアレンが倒れたまま起きない中で、紹介も何もないような気もするが、サラはピンと背筋を伸ばした。
「サラ、こちらがネフの二番目の兄、エルムだ」
「はじめまして。ネリーにはいつもお世話になってます。招かれ人のサラです。アレンを助けてくれてありがとうございます」
二番目のお兄さんがどんな人なのかは、さすらいのハンターであること以外、ネリーから話を聞いたことはほとんどない。だが、ネリーの一族らしく自由人なのだろうと思って深く考えたことはなかった。
だが、ふるまいを見れば尊敬しかない。この混乱の中で、ネリーを助け、クリスを助け、そしてアレンを助ける手伝いをしてくれた。言ってみれば多方面にサラの恩人である。だからきちんと挨拶をする。
「その少年を助けたのは薬師の君だ。私じゃない。とっさの調薬、見事だった」
その言葉にまた唇が震える。
「いいえ。あなたがいなければ、アレンの状態さえわからず、上級ポーションを飲ませただけで終わらせてしまっていたと思います。私はただ、薬を作っただけだった」
自己紹介だからしっかりしようと思ったのに、サラの目からは涙がこぼれ落ちた。
「アレンが死んじゃうとこだった」
中身は大人なんだから、外見だって一七歳なんだからとサラは必死に自分に言い聞かせる。
でも駄目だった。
「びええ」
そんな場合ではないとわかっているのに、地面に突っ伏して泣き出してしまった。
情けない卒業試験の結末である。
だが、状況はよくなったとは言えない。
アレンの命は助かったし、ネリーの命にも別条はないが、二人ともまだ意識は戻らない。
このままダンジョンの中にいていいわけがない。
サラは涙を抑え込んで、袖で乱暴に目をこすり、顔を上げた。
幸いなことに、誰もサラのことを見てはいなかった。というより、見ないでいてくれたのだろう。
クリスだけはネリーとアレンの様子を見ているが、エルムとクンツは、崩れ落ちた壁のほうを向いて立ち尽くしている。
「いまさらながらすごいな。これが招かれ人の結界か」
「ええ。サラの結界は信じられないくらい強くて広範囲なんです。しかも自由自在で」
「ガー」
「グー」
冷静に話しているが、二人の目の前には透明なバリアがあり、バリアにもたれかかるようにガーゴイルが積み重なりうごめいている。
まさかガーゴイルの顔を間近で見ることになるとは思わなかったサラはため息をつきそうになるが、そもそもサラのバリアに積み重なったのはガーゴイルが初めてではない。
チャイロヌマドクガエルにニジイロアゲハ、去年はクサイロトビバッタ。
そういう意味では、いまさら魔物に驚いたりはしない。
「って、
「だよなあ。俺も信じられない」
サラとクンツが驚いたのはガーゴイルが動くことでも、積み重なったことにでもない。
「ここ、ダンジョンの一番下のはずなのにな」
「穴が開いてる……」
ガーゴイルが崩れ落ちてきた壁に、ぽっかりと穴が開いていることである。
「見た目は次の階層に下る通路だが、さて」
エルムが腕を組んで、ニヤリと口の端を上げた。
こんな状況なのに、心底嬉しそうなのはなぜなのか。
ちょっとだけあきれたサラだったが、後ろを振り返って、かすかに笑みを浮かべた。
「アレンなら」
今は意識のないアレンだが、もしここに並んで立っていたら、どうだっただろう。
「きっとワクワクして、自分から飛び込んでいきたがっただろうな」
「そうだな。起きたら悔しがるぞ」
「ガー」
「ゴー」
元気になったらきっと悔しがって、自分も探索に行くと言い出すだろう。元気になったアレンが目に浮かんで、サラはやっと落ち着くことができた。
「さて、穴の先に何があるかは気になるが、残念ながらそんな場合ではないな」
エルムが今の問題に立ち返ってくれた。
「ガー」
「グー」
サラの作ったバリアの周りは、いつの間にか隙間なくガーゴイルに囲まれている。
もっとも、出てこない獲物に諦めをつけたからか、バリアに集中していたガーゴイルが少しずつ移動を始めているようで、先ほどよりは数が減ってきたような気もする。
「深層に来る奴らなら、ガーゴイルがいて驚きはするだろうが、異常に気がついてギルドに連絡はしてくれるはずだ」
「ということは、助けが来るまで一晩、このままのほうがいいんでしょうか」
今までは応急処置だったが、明日までここにいるなら、敷物や寝具など、もう少し居心地よく整えねばならない。
「これだけの量の魔物に囲まれていると、結界箱だけでは危ういが、君の結界は一晩もつのか?」
「はい。ただ、寝ていても発動する自信があるのは自分の周りだけなので、今日は夜通し起きていようとは思いますが」
万が一にもバリアが外れることのないようにしたいサラである。
「せめて安全地帯まで移動できればいいんだけどな」
クンツが新しく開いた穴のほうに背伸びをした。
もし、新しく開いた穴が次の階層につながっているなら、その手前は安全地帯になる。
見たところ、確かにガーゴイルがいない空白地帯はあるが、確実かどうかは不明で、結局のところサラのバリアを重ね掛けすることになるだろう。
「ネフは今日中に目を覚ますだろうが、特級ポーションを使ったアレンの意識が回復するのには下手をすると数日かかる。目を覚ますまでここにいるわけにはいかないだろう」
クリスの説明に、今まで自分が特級ポーションのことを知らなかったのも仕方がないとサラは思う。いくら命が助かるからといっても、こんなに使いどころが限定される薬では、あてにするには厳しいものがある。
「背負っても抱えても、振動を抑えることはできないし、明日担架を運んできてもらうのを待つのが一番いい」
それでは一晩過ごす準備をしようという空気になったとき、クンツが手を挙げた。
「なら、俺、これから先に戻って状況を説明してきます。俺たちが深層にいたと知っても、ギルドの皆は、怪我をしているなんて想像もしていないと思うから」
クリスもそれには気がついていなかったようで、はっとした顔をした。
ネリーは魔の山でも単独で過ごせる力があり、アレンとクンツは深層にも行ける気鋭の若手だ。それに、薬師のクリスと招かれ人のサラがいたら、たいていのトラブルはなんとかなるから、心配する理由がないのだ。
「調査隊は来るかもしれないけど、救援隊はこないってこと?」
「うん。収納ポーチに日常的に担架を入れてる奴なんていないだろ。その場で作ることもできるだろうけど、たぶん明日、人が来てから改めての往復になるだろうから。その間アレンとサラをここに置きっぱなしにするのはまずいだろ」
「でも、クンツ一人では……」
失礼だとはわかっている。だが、これだけ周りにガーゴイルがいる中を、身体強化がそれほど得意ではないクンツが無事に通り抜けられるかどうか。
「私も行こう」
エルムが手を挙げてくれて、サラはほっとしたと同時に心細くもなった。
「ハイドレンジアのギルドにはあまり
おそらくエルム一人のほうが早いのだろうが、言い出したクンツを尊重してくれるようでありがたい。
「それに、早くしたほうがよさそうだ」
エルムの視線の先を見ると、クリスの顔色も悪い。
「そうしてくれると助かる。本当は、早ければ早いほどいいんだ」
クリスが弱音を吐くのは本当に珍しい。
それを受けて、クンツとエルムが行程の相談をし始める横で、サラは自分のできることを考えていた。
ネリーもアレンも、クリスが見てくれているが、そのクリスもよく見ると無理をしているのか今にも倒れそうである。
ネリーをかばって、ガーゴイルの重さを受け止めていたのだ。身体強化がしっかりできているからといって、意識を失うほどの衝撃を受けた体が、平気なわけがない。
そんな中、サラのできることは、本当に拠点を整えることだけだろうか。
一刻も早く、揺らさずに怪我人を外に運び出す。
サラははっと顔を上げた。
できるではないか。
さっき、どうやってアレンをガーゴイルの下から引っ張り出した?
バリアで覆って、寝かせたまま運んだではないか。
重力や重さ、そんなことが頭をよぎったが、サラは首を横に振った。そんなことが問題ならば、ニジイロアゲハをまとめて叩きつけたりできなかったし、壁の重さを支えることだってできなかった。
サラは、寝ているアレンの顔の横に膝をついた。
「一緒に夜の星を見たのは、去年のことだったよね」
クサイロトビバッタの終わりの見えない討伐の中、二人で星を見上げたっけ。
「あの時、連れて歩いた明かりは三つ」
明かりの魔法をバリアで閉じ込めて、サラの後を付いてくるようにしたのだった。
「重さは関係ない。三つなら操れる」
サラは心を決めて立ち上がると、今にも出発しようとしていたエルムとクンツのほうに体を向けた。
「全員で戻りましょう」
「サラ? 何を言っているんだ?」
クンツがあっけにとられたようにサラを見て、すぐに表情を引き締めた。
「何か考えがあるんだな」
「うん」
アレンだけじゃない。ハイドレンジアに来てから、冒険はいつもアレンとクンツとも一緒だった。
「サラができるっていうんなら、俺は信じる。どうすればいい」
その信頼が、サラに力をくれる。
クリスとエルムは、いぶかしげに、だが口を挟まずに見守ってくれていた。
「さっきアレンをガーゴイルの下から引っ張ってきたときみたいに、バリアで担架を作って移動させます」
できるのかと言いたげに、クリスの口が一度開いたが、すぐに閉じて引き結ぶと、一言だけ口にした。
「サラに任せる」
「はい!」
その間にもサラの頭は高速で回転していた。今のクリスが一五階分歩けるとは思えない。すなわち、クリスも入れて三人を運ばなければならない。
去年運べた明かりは三つ。だが、三つに分ける必要はないのではないか?
三人横に並んでもらって、大きな担架で運ぶと考えれば、大きな一つを持ち運ぶだけでいい。
「クリス。三人まとめて運びます」
「三人。私もか!」
さすがのクリスも驚いた顔をする。
「三人並んで横になってください。バリアで持ち上げるから、クリスは傾いたりしたら教えてくれませんか」
「理解した。では」
クリスは一番怪我が重かったアレンを挟むように横たわってくれた。
「いきます」
サラは地面の三人を包むバリアを形成する。イメージを具体的にするために、手のひらを上にして両手を前に伸ばした。
「担架というより、カプセルホテル。そして私につなげて、持ち上げる」
伸ばした両手を上げると、バリアごと三人が持ち上がる。
「顔が見えるよう、私の腰の高さで固定」
そしてそっと両手を下げ、一歩下がると、宙に浮いた三人もサラと一緒に移動した。
「下を見る勇気はないが、硬いベッドに寝ていると思えば思えないこともない」
クリスの冷静さが今はありがたい。
「傾きすぎということはないですか?」
「大丈夫だ。このまま寝てしまいそうだ」
ここは笑うところだろうかと悩ませるようなコメントは、今はやめてほしいサラである。
クンツが心得たように、サラの結界箱を拾い集めてくれて、地面には何もなくなった。
「待て。君が結界でこの三人を包んでいるとするなら、結界箱を片付けたのに、なぜ魔物が襲ってこない」
エルムは、当然のように周りを気にもせずに片付けをしているクンツと、黙って立っているサラを交互に見て、疑問を口にした。腰を落とし、いつでも魔物と
サラの力を知らないエルムにとって、ここまで黙って様子を見ているのは苦しかったことだろう。むしろよくここまで質問をせずにいてくれたと思う。
「サラのバリアは二重にできるんです。だよな」
クンツがサラの代わりに説明してくれた。
「そうです。だから、魔物のことは気にせずに、できるだけ早く進みましょう」
「そんなことができるのか……」
驚いているエルムに、クンツがてきぱきと指示を出してくれる。
「道をよく知っている俺が先導します。エルムはしんがりをお願いできますか」
「……わかった」
最初はゆっくり進むようクンツにお願いし、サラは三人を乗せたバリアのカプセルが、自分の後ろに付いてくるように調節する。直接目に入ると不安になるから、地面と平行を保つことだけを意識するのだ。
「魔力は自分の思い描いたとおりの力になる。自分の魔力量に応じて、無理せず、自由に自分の思い描いたように」
魔法の教本の最初の言葉を小さい声で唱える。
「思い描いたとおりの力……」
サラの前に立つクンツが、なぜかサラのつぶやきをそのまま繰り返した。だが、どうしたのかと聞いている時間はない。
「準備できました」
「じゃあ、出発します」
クンツはサラを振り返りながら、最初はゆっくりと、やがて駆け足で進んでいく。
運ばれている人たちに不都合があれば、クリスが声をかけてくれるはず。
そうしてクンツが初めて足を止めたのは、十二階に入ったところの安全地帯だった。
「サラ、大丈夫か」
「うん」
いつもと違う形のバリアを張って緊張しているせいか疲れてはいるものの、行きと違って肩で息をするほどではない。
「それより、皆は?」
三人の様子を見ようと振り返り、急いで駆け寄ったが、サラと一定の距離を保つよう設定したバリアの担架はサラから逃げてしまう。
「落ち着いて、私。バリアを近くに引き寄せて」
綱を引くようにバリアを引き寄せ、のぞき込むと、サラは安心してほっと息を吐いた。
「クリスったら」
ネリーとアレンは目が覚めていないだけだが、クリスは明らかにすやすやと寝息を立てていた。
「嫌になるくらいきれいな寝顔だけど。少なくとも、無理して起きてたときより顔色はいいから、そのまま寝ていてくれると助かるかも」
「動き出してすぐに寝ついていたぞ。クリスの合理的で神経が太いところは昔から何も変わらない。自分が何もできない分、休めるなら休んでしまおうと思ったんだろうな。私なら透明な寝床など、恐ろしくて寝るどころの騒ぎではないが」
「あ、そうか」
後ろから見ていたエルムの言葉を聞いて、サラは魔女のように両手を掲げた。
「バリアの下半分、すりガラスに変化」
するとたちまち、バリアは曇った半透明の板に変化する。
「なんでもありの規格外だな」
エルムに苦笑されたが、その規格外を驚くだけですぐに受け入れているのもすごいと思う。
そんなたわいもない会話でも、緊張が取れたのか、少し体が回復したような気がした。
「じゃあサラ。このペースで次は行けるところまで行く。途中駄目だと思ったら声をかけてくれ。エルムも、サラが無理そうなら止めてください」
「了解した」
それから一度の休憩を挟んだだけで、一行はダンジョンの入り口まで駆け通した。
意外なことに、時間は夜に入ったばかりだったようで、ダンジョンの浅い部分ではまだハンターたちが狩りをしている時間帯だった。一行の異様な様子を見たハンターたちがギルドに知らせを飛ばしてくれ、サラたちがダンジョンの入り口にたどり着いたときには、担架を持った救援部隊が待機していた。
「クンツ! サラ!」
領主館にも誰かが声をかけに行ってくれたのだろう。救援隊の先頭にいたのはライだった。
隣にはセディもいて、同じくサラに声をかけようとしていたようだが、一行の一番後ろを見て目を見張る。
「エルムか?」
「兄さん、話は後だ」
エルムが首を横に振る。
ライも何か言いたげなのを我慢して、バリアの担架に寝かされている三人に目を見開いた。
「なんてことかしら!」
後ろからずいっと前に出てきたのはカレンだ。怪我人がいることを聞いて駆けつけてくれたのだろう。
「落ち着いて聞いてください」
そんな混乱状態の中、一番落ち着いていたのはクンツだった。
「深層、一五階、タイリクリクガメが出てきた壁が崩落しました」
これがサラの卒業試験だったとか、そういうことは今は大事ではない。
「その際、エルムとネリーとクリス、アレンが崩落に巻き込まれましたが、エルムは自力で脱出」
クンツの説明に場が静まり返る。
「クリスはすぐに目を覚ましましたが、今は疲れて寝ています。ネリーは意識不明のままです。アレンは」
そこでクンツの声が少し震えた。
「
クンツはサラのほうに振り向き、報告を続ける。
「サラがバリアで作った担架で三人を運んできました」
「では!」
右手を挙げてなにか言いかけたライをクンツが止める。普段控えめなクンツなのに、とても堂々としている。
「休養も急ぎますが、もう一つ報告があります」
クンツはエルムのほうを見た。もう一息で報告は終わるはずなのだが、ハンターとして先輩に頼みたかったのだろう。エルムは頷いた。
「私はエルム・ウルヴァリエ。たまたまダンジョンの最深層にいたとき、崩落に遭遇した。タイリクリクガメが出現したというダンジョンの壁は、ガーゴイルに変じて崩落し、崩落後の壁には大きな穴が出現した。形状は、階層間の通路そのものだった」
「まさか、そんなことが」
反応できたのはセディだけだったが、反応できただけでもすごいことなのだろう。
あまりに唐突な報告に時が止まったかのような空気の中で、パンと手を叩いたのはカレンである。
「では、私は怪我人を担当します。ライ、お屋敷をお借りできますか」
「もちろんだとも。担架を!」
担架を持った人たちが急いで前に出ようとしたが、サラは慌ててそれを止めた。
「待ってください。私がお屋敷までこのまま運んでいきます」
本当は疲れ果て、今にも膝が崩れ落ちそうなほどだったが、サラは気合を入れた。
「バリアの担架は、揺れが少ないみたいなんです。お屋敷まで、このまま大丈夫です」
「そう。なら、サラに頼むわ。歩きながら状況を伝えてくれる?」
「はい」
サラはバリアの担架を引っ張りながら、カレンと並んで歩き始めた。
「サラ、俺はここに残って、用が済み次第お屋敷に行くから」
クンツは残る。ライもセディも、エルムも残る。
だが、見捨てられた気持ちにはならない。
「俺たちはお屋敷まで護衛に付いていくぜ」
「私たちもです」
アレンと顔見知りのハンターたちと、それから薬師の同僚が何人か、後ろの担架をまるで彼らが運んでいるかのように囲んでくれている。
サラが招かれ人だということは広く知られているが、特別な魔法の使い方をするということは、近しい者しか知らない。何もないところに怪我人を浮かべて運ぶなど、町の人から見たら不自然極まりないだろう。
クリスやネリー、アレンが心配ということももちろんあるだろうが、サラのことも気遣ってくれていることに、もう少し頑張ろうという気持ちが湧き上がる。
「それで、いったいどうしたの。クンツの説明で基本的なことはわかったけれど。特級ポーションを投薬したということが本当だとしたら、サラ、あなた大丈夫?」
「はい、いえ。あまり大丈夫じゃないかもです」
サラ、大丈夫という短い言葉が、これほど胸に響くとは思わなかったサラは、言葉を詰まらせた。カレンは、特級ポーションを使う難しさを知っているということなのだろう。
「作るまではいいのよ。草が違うだけで、作り方は普通の薬草と同じだから。でも、使うときは、誰かが生きるか死ぬかの境目の時で、しかも使ったことでかえって命を失うかもと思ったら、簡単には使えないものだものね」
カレンは、後ろに付いてきている薬師にも聞かせようとしているかのようだった。
「アレンに使ったのね」
「はい。それでも、エルムがいてくれなかったら、私は特級ポーションを使うということすら思いつかなくて、どっちにしろアレンにちゃんとしてやれなかったかもしれないんです。だから、後悔はしていません」
「そう」
しばらく、黙ったまま早足で屋敷へと急ぐ。
「私もね、何度か特級ポーションを使ったことがあるのよ。もちろん、自分にではないわ。あの時は騎士隊だったわね」
「騎士隊。もしかして渡り竜ですか?」
「そう。その年はいつもより渡り竜が多くて。騎士隊が渡り竜討伐にこだわるのは、その年のせいかもしれないわね。特級ポーションで助かった騎士も、逆に死が早まった騎士もいたのよ。あの時、本当に薬を使うべきだったのか、今でも答えが出ないの」
クリスは、カレンだけは特級ポーションを作ったことがあると言っていた。作っただけではなく、使って苦しんだこともあったということまでは、さすがに想像もできなかったサラである。
「使うべきだったのだ」
突然、後ろから声がした。
「クリス様! 大丈夫ですか!」
カレンが慌てて駆け寄ったので、サラはいったん立ち止まる。幸いなのは、町を抜けてもうすぐライの屋敷というところまで来ていたことだ。
宙に浮かぶ担架の上で、空に向かって話しているクリスの姿は、普段なら笑ってしまいそうなほど奇妙だった。だが、目覚めてくれた喜びのほうが大きい。
「サラ、歩き続けてくれ。なかなかよい乗り心地だ」
「はい」
もうすぐお屋敷だ。ちゃんとベッドで休めるなら絶対そのほうがいい。そして、話し方がいつものクリスだなあと安心する。
「クリス様」
「サラに特薬草を見せてくれたそうだな。助かった」
「たいしたことではありません」
「おかげで、私が手を出すことは一切なく、採取から特級ポーションづくりまで、ダンジョンの中で達成できた。サラの卒業試験は、文句なく合格だ」
目が覚めて最初に話すことがそれですかと、サラは後ろの二人に突っ込みたくなるが我慢する。
「合格すると思っていましたよ。ハイドレンジアの薬師は皆優秀です。サラだけでなく、皆合格するに決まっています」
「違いないな。サラは特薬草をたくさん採取していたから、皆にいきわたるだろう」
こんなときなのに、ほのぼのしすぎではないか。だが、担架に付いてきてくれた薬師たちも嬉しそうだ。
「本当は、特級ポーションを使う機会などないほうがよかった。だが、仕方がない。使うか使わないか迷ったときは、使うべきなのだよ」
クリスはサラに言い聞かせているようで、カレンや他の薬師にも語りかけているようだった。
「生死を分ける判断など、誰もしたくはない。その重い判断を背負えてこそ真の薬師だ」
「クリス様……。ありがとうございます」
カレンの声には涙が混じっているような気がした。
「ところで、重病人のような運ばれ方をしているが、私は単に寝ていただけだ。とてもすっきりした」
寝不足が解消しました的なセリフに笑いが起きた。クリスだって一度意識を失っているのだから、病人扱いでもいいはずなのだが、こんなときこそ、笑いが必要なのかもしれない。
「カレン、屋敷に着いたらアレンのことを見てやってくれ。かなりひどく内臓をやられていた。治療が長引くかもしれない」
「わかりました」
屋敷に無事着いた後、カレンをはじめ薬師ギルドの薬師たちが、ネリーとアレンに交代で付いてくれることになり、サラは休むようにと追いやられた。
お風呂に入る気力もなく崩れるようにベッドに倒れ込んだサラは、夕食も取らず、ライが帰ってきたことにも気づかず、次の日の朝まで熟睡してしまった。
「ふわあ、よく寝た」
さわやかな目覚めはこの世界に来てからいつものことである。
「おはよう、サラ」
「うわあ!」
部屋を別にしたはずのネリーが、サラのベッドの横に優雅に座ってお茶を飲んでいた。
いろいろ突っ込みどころはあるが、驚いている場合ではない。
「おはよう! ネリー、起き上がっていて大丈夫なの?」
そもそも意識不明で担架で運ばれてきた人である。確かにクリスは、昨日中には目を覚ますだろうと言ってはいたが、それでも数日は休むべきではないか。
「よく寝たせいか、いつもより調子がいいくらいだ」
言っていることがクリスみたいで、似たもの夫婦だなと笑いそうになるが、言うべきことは言っておかなくてはならない。
「だめ! 心配だから、ちゃんと休んでほしいの」
「ハハハ。まあ、そうだな」
少なくとも、サラの願いに対してごまかさずにちゃんと答えてくれた。
「さすがに落ちてきたガーゴイルが重すぎたな。ちゃんとよけていれば今頃ローストガーゴイルが食べられただろうに」
「あれはおいしいよね」
思い出すと思わず口の中に唾が湧いてくるほどだ。
「そうだ! アレン!」
食欲に負けている場合ではなかった。ネリーは回復した。次はアレンだ。
「先ほど様子を見てきたが、まだ目覚めぬようだぞ」
「うん! でも見てくるよ」
サラは急いで着替えると、客室に向かった。アレンがお屋敷に泊まるときの部屋は決まっている。
部屋の前まで来てノックをしようか迷っていると、ドアが内側から開き、お盆を持ったカレンが現れた。
「カレン」
「あら、サラ。おはよう。アレンは変わりなしよ」
お盆にはポーションの空き瓶と、コップがのっている。
「でも、素直にポーションと水は飲んでくれたわ。そうね、ちょっといらっしゃい」
カレンはそのまま部屋にサラを招き入れ、アレンのベッドの横の椅子に座らせた。
「昨日よりもだいぶ顔色がいい」
胸もゆったりと上下していて、ぐっすり寝ているだけのように見えたのでサラはほっとした。
「そうね。揺らさないで移動できたのが本当によかったと思うの。怪我をした場所から、すぐにベッドに寝かせることができたようなものだから。特級ポーションを含めて、サラのおかげね」
「はい。よかったです」
そんなことないです、と言ってしまったら、本当に特級ポーションを飲ませてよかったのかという昨日の迷いまで口に出してしまいそうになる。
サラは自分の判断で特級ポーションを作り、アレンに飲ませた。
薬師として責任を持って行ったことを後悔すべきではないと、クリスに教わったではないか。
「でもね、これからが少し大変なの」
「後遺症が残るんですか?」
大怪我した人は、回復するのに時間がかかるというのがサラの感覚である。
「それはないと思う。手足にもきちんと反応があったし」
クリスが手足まで丁寧に
ふと、テッドはどうなのだろうと頭によぎった。カメリアでも、王都でも、テッドはちゃんと薬師の仕事をしていた。もしかして、サラ自身は自分に満足していたけれど、薬師としては三流なのではないかという疑問が浮かぶ。
「特級ポーションは生死を分ける、使いどころの難しい薬だというところまでは聞いたわよね」
「はい」
「使用後のことは、特級ポーションを作ったときにでも、他の皆と同時に学ばせようと思っていたの。まさか作ってそのまま使うことになるとは思わなかったわ」
使用後。つまり、アレンの今後ということになる。きちんと聞かなければならないと、サラは背筋を伸ばす。
「特級ポーションの使用後、完全に回復したいと思うならば、ほぼ一ヶ月、日常生活以外のことをせずに、朝昼晩と適量のポーションを飲み続けなければならないの」
「えっと」
どんな副作用があるのかと身構えていたサラは、どう反応していいかわからなかった。
少し大きな病気をした人が、普通にする養生と変わらないような気がするのだが。
「フフッ」
カレンがサラの反応を見て少し噴き出した。
「そうよね、普通の職業の人なら問題ないのよ」
「普通の職業の人。あ」
サラはピンときた。
「そう。特級ポーションを使う羽目になる人たちの仕事、わかるでしょ?」
「はい。ハンターか、騎士ですよね」
「正解よ」
体を鍛えて仕事をする人たちだ。訓練するな、狩りに行くなと言われても、絶対に無理をする。
「確かに、アレンもすぐに無理をして鍛錬を再開しそう」
「ハンターってそういうものよね。でも、その一ヶ月で無理をすると、以前の力に戻らなくなることがあるの。つまり、力の総量が減ってしまう、と言ったらいいのかしら。いくら訓練しても前ほどの力がつかなくなるというか」
「そんなことがあるんですね」
「体にある生命力を無理やり引き出すからと言われているわ。その生命力がまた満ちるまで、大事に過ごさなければならないのよ」
正直サラは、今回の卒業試験のことを、ダンジョンの深層に潜るというイベント付きの、気軽なものだと思っていた。
特級ポーションについてもちゃんと最初から説明してくれればとも思うが、その話を聞いたら怖くて絶対使えなかったかもしれないとも思う。
「全盛期の力じゃなくたって、生きていればいいじゃないって、私たちなら思うわよね。でも、ハンターや騎士にとっては違うみたい。どんなに訓練しても前の力に戻らない
「そうなんですね」
サラは、アレンが目を覚ましたら、絶対無理はさせないようにしようと意気込む。
そうして順調に回復したアレンが目を覚ましたのは次の日、つまり怪我をしてから二日後のことだった。
もちろんクンツはお見舞いに来ていて、アレンの下宿から着替えや必要そうなものを運んできてくれ、ついでにハンターギルドの様子も知らせてくれた。ハンターギルドの最大の関心事は、ネリーやアレンが怪我をしたことではなく、最深層の壁が崩落して、階層間の通路らしきものができていることだそうだ。
すぐに調査に向かいたくても、副ギルド長のネリーは休んでいるし、こういったときに同行する薬師のクリスも同じく休養中である。
しかも、最深層には今、大量のガーゴイルがうごめいているらしい。
調査に行く前に、まずガーゴイルを倒さなくてはならないということで、ギルドはてんてこ舞いだという。
「私、てっきりネリーは次の日からギルドに行ってしまうと思ってたよ。まさか二日目も休むなんて」
朝食の席には、ネリーとクリスの他、エルムも座っていた。家族だからなのか、いつもそこに座っているような顔で食後のお茶を飲んでいるのが面白い。
「ハハハ。さすがサラだ。私のことをよくわかっている。以前の私ならそうしていたかもしれないな」
「やっぱり結婚すると心構えが違うね」
思わずからかう口調になってしまった。
「そうではないぞ」
だが、ネリーは真顔だ。
「もともと魔の山で一人で狩りをしていたときは、わずかな怪我が命取りとなるから、慎重にも慎重を重ねて過ごしていたんだぞ。むしろサラたちと旅をしてからのほうが、仲間がいるからと、つい気が緩んで無理をしがちになった」
「じゃあ、今回の怪我も……」
サラは切ない気持ちになった。サラがいたせいで、いつもなら気づく危険を察知できなかったのではないのか。
「いや。今回は完全に、エルム兄様に会えた油断だな」
「俺のせいか」
怪我の話だというのに、なぜか笑いにあふれる食卓である。サラの切なさはどうしたらいい。
「そんなわけで、怪我をしたらじっくりと休む。これがもともとの私だ、サラ」
どうだという顔でサラを見るネリーがおかしくて、サラは思わずくすくすと笑ってしまった。
「違うからな、サラ。サラを心配させるな、無理するなと、私がこんこんと言い聞かせたおかげだ」
「黙れ、クリス」
新婚とは思えない会話であるが、いつもの二人らしい。
クリスに
「本当は、今にでもダンジョンに行きたいとは思っている。私は見ることができなかったが、最深層に穴が開くなんて、見に行きたいに決まっている」
「そうだよねえ。ネリーは生粋のハンターだもの」
「俺もだ。あの後どうなっているか気になる」
エルムが手を上げれば、
「私もだ。ガーゴイルに薬草類が踏みつぶされていないか心配でな」
クリスも手を上げる。
「そうだ、やっぱりちょっと行ってガーゴイルを狩ってこないか。
「待て待て。ネフ、何度言い聞かせたらわかる」
そんな時間を過ごしていたときであった。
トントンと性急なノックの音がしたかと思うと、アレンを見てくれていた薬師がドアから顔をのぞかせた。
「目が覚めましたよ。異常はないようですが、クリス様が診てくださると助かります」
ここにもクリス信者がいる。だが、特級ポーションを使った後の患者だから万全を期したいのだろうと思う。
そんなことが頭をよぎりながらも、サラはクリスを待たずに食堂を滑り出て、アレンの部屋へと走った。
「アレン!」
アレンはといえばベッドに起き上がっており、窓からぼんやりと外を眺めているところだった。
「サラ」
サラはアレンのそばに駆け寄ると、顔を両手で挟み、しっかりと顔色を確認した。
情けなさそうな表情以外、問題になりそうなところはない。
「よかった、よかったよ」
サラはへなへなとベッドの横の椅子に座り込んだ。
ダンジョンの最下層で、思い出しても恥ずかしいほど泣いたので、もう涙が出たりはしない。アレンに情けないところを見られなくてよかったとほっとする。
「事情は聞いた?」
サラの質問にアレンは首を横に振った。
「あとで、一緒にいた人たちに聞いてくれって言われた。俺が覚えてるのは、ガーゴイルがたくさん落ちてきたところまでで」
アレンは右手を頭の後ろに当てると、その先は思い出せないのだというようにうつむいた。
「ええと、クリスとエルムが来てからまとめて話したほうがいいかな」
「エルム。そうだ、俺、ネリーが二番目の兄さんのこと、尊敬するハンターだと言ってたのを覚えてて、すごく興味があって」
それでネリーたちのそばでワクワクしながら話を聞いていたのだろう。
サラはうんうんと頷いた。
「サラ」
「うん?」
よく考えたら、部屋に入ってきて初めてアレンと目が合ったような気がする。
「サラは大丈夫だったのか?」
「うん。そもそも離れていたし、クンツが手を引いてくれたから、巻き込まれなかったんだ」
「クンツが。そうか、じゃあクンツも無事だな」
「うん。ネリーとクリスは巻き込まれたけど、アレンより先に回復してるし」
ネリーもクリスもすぐにやってくるだろうから、話を聞くといいと思うサラである。
だが、アレンはまたうつむき、ぽつりと口にした。
「俺、サラを守れなかったんだな」
「ん? でも私、別に守ってもらう必要なかったよ? ガーゴイルからは離れてたし、そもそもバリアがあるし」
アレンはいつもさりげなく付いてきてくれるが、それはあくまで気持ちの支えであって、本当に守ってもらっているつもりはサラにはない。
気にしないで、体を治すことに専念してほしいとサラは言いたいだけだったが、アレンは少し寂しそうに、そして不満そうに何か言いかけた。
「アレン!」
飛び込んできたのは、ネリーでもクリスでもなく、下宿に戻っているはずのクンツである。
部屋に入ってくるなり、ベッドに飛び乗らんばかりの勢いでアレンに詰め寄った。
「なんだよ、お前! 勝手に倒れやがって! 俺が一人でどれだけ大変な思いをしたと思ってるんだよ!」
あれだけ冷静に対処していたクンツだったのに、まるで泣いているかのように声が震えていた。
「ごめん。悪かったよ。油断していた」
「最深層で油断なんかするなよ。ちょっと強いからっていい気になりやがって!」

「ほんとにごめん」
「サラに謝れよ! 一番大変だったの、サラなんだぞ!」
二人の友情に感動して油断していたサラはびくっと飛び上がりそうになる。
「……ごめんよ、サラ」
「いいよ、ぜんぜん。大丈夫だから」
サラは顔の前で必死に手を振り続けた。
話題の主役になるのは苦手なのだ。
「アレン! 無事だな」
そうしているうちにネリーやクリス、それにエルムも部屋に入ってきて、ウルヴァリエ家の広い客室が狭く感じるほどだった。
ちなみにライは朝早くから領主としてギルドに詰めているので不在である。
大人たちからかわるがわる事情を聴いたアレンは、サラの予想どおり、自分の怪我のことよりもガーゴイルの壁の下から現れた穴に興味津々だった。
だが、特級ポーションを使った自分の体が一ヶ月は安静に過ごさねばならず、その後も体力が戻るまで鍛錬して初めて仕事に復帰できると聞いて、絶望の表情に変わった。
「特級ポーションを使った患者の体がどう治っていくのか、サラに勉強させるためにも、この一ヶ月はきちんとサラの治療を受けるように」
そんな絶望は無視して、クリスはそれだけ言ってさっさと客室を出てしまったし、クンツとアレンを残して、ネリーもエルムも退室した。
「アレン」
自分が瀕死だったこと、サラの特級ポーションで助かって、意識のないまま担架で運ばれてきたこと、これから回復するまで思うように動けないこと。意識が戻ったばかりで、たくさんのことを詰め込まれて大変だろうとサラは思う。
それでも、カレンから聞いたこれだけは言っておかなければならない。
「あのね、よく聞いて」
サラのほうに向けたアレンの瞳はどよんと
「一ヶ月安静にしなくちゃいけない理由を話すよ」
「どうせ無理するなってことなんだろ」
やさぐれた感じになってしまうのは仕方がないことだ。サラは気に留めないようにして、話を続ける。
「特級ポーションは、生命力と引き換えに命を戻すの。その一ヶ月は、アレンの目に見えない生命力を元に戻すために必要なんだって」
「生命力。初めて聞いた」
「私もカレンから聞いて初めて知ったの」
どうやら興味を持ってくれたようでほっとする。
「一ヶ月
どういうことだとアレンが眉を寄せる。確かにわかりにくい説明だが、サラもどうすればわかりやすいか探り探り話している状況である。
「つまり、無理すると、そのあとどんなに鍛錬しても、元の力には戻れないんだって」
「それは、弱くなって、そのままってことなのか」
「そう」
強くなりたいハンターにとってはとても大切なことだ。サラはそのことがアレンに
「俺は、つまり」
アレンは、ゆっくりと話し始めた。
「ふてくされずに、ゆっくりと生命力が戻るのを一ヶ月待たなければならないってことか」
「うん」
「最悪だな……」
天を仰ぐアレンの目には諦めの色が見える。だが、もともとアレンはサラよりもずっと大人びた考え方をする少年である。先ほどまでのよどんだ気配はもう消えていた。
「わかったよ、サラ。頑張らないよう、頑張る」
「うん。一緒に頑張ろう」
「俺もだ」
隣で話を聞いていたクンツもにかりと笑う。
肩を並べて歩いてきた今までの三人とは違う状況に戸惑いもあるが、サラはきっとなんとかなるだろうと胸をなでおろした。
ネリーとクリスは、念のためと言ってそれからもう一日休んだ。
岩のようなガーゴイルに当たって意識を失ったのなら、二週間は安静にしていてもいいのではないかと思うが、丈夫すぎるにもほどがあるとサラはあきれたり感心したり複雑な気持ちだ。
だが、国一番の薬師のクリスが、何より大切にしているネリーに許可を出したのだから大丈夫なのだろう。
副ギルド長のネリーが復帰したことで、ようやっと最深層の調査が始まるという。
サラはといえば、一日でダンジョンの一五階を往復したということで、特別にネリーと同じだけのお疲れ休みをもらっていた。もちろん、特薬草はカレンに提出済みで、薬師全員が特級ポーションづくりに成功したという嬉しい報告をもらって、肩の荷を下ろした気持ちである。
クンツは朝にアレンのところに顔を出したあとギルドに行き、夕方にまた顔を見せに来るというリズムで過ごすようだ。
サラは、まだ十分回復していないせいか、うとうとと寝ては起きてを繰り返すアレンに一日付き添いながら、自分は何をすべきなのか真剣に考えていた。
アレンには、クリスに指定されたポーションを、朝、昼、夜とサラが飲ませている。
もちろん、アレンが自分で飲むのを見守っているということだ。
ただ、サラに与えられた休みは結局三日だけで、一ヶ月まるまるアレンに付き添うことはできない。それはアレン本人も望まないだろう。
明日からは、薬師ギルドに行くことになる。
昼食を食べ、ポーションを嫌な顔をして飲み、そのまますうっと寝入ってしまったアレンに安心したので、サラは気分転換にお屋敷の外へと向かい、湖のほうにゆっくりと歩き始めた。
ギルドに行けば同僚の皆は、サラが特薬草を採ってきてくれたことに直接感謝し、口々に特級ポーションを成功させたことを報告してくれるだろう。そしていつもと変わらぬ調薬の日々が始まる。
時には深層に手伝いに呼ばれたり、クリスに植生の調査に誘われたりもするかもしれない。
お屋敷に帰ってくればネリーとクリスの他にエルムもいて、トリルガイアのまだ見ぬ場所の話を聞かせてくれるかもしれない。
アレンの調子が悪いこと以外は、いつもと変わらぬ楽しい日々になることだろう。
だが、それでよいのだろうかと、サラは悩んでいた。
目立たないが、訓練の声が聞こえる南方騎士隊の建物を通り過ぎ、裏に回って小道を歩いた先に、湖がある。
春の日差しの中、まだ冷たい風が湖から吹いてくるが、それが気持ちいい。
しゃがみこんで石を拾おうとすると、見覚えのある草が生えているのが見えた。
「あれは水辺に生える薬草で、薬効は弱いけれど料理にも使えるって、前にクリスが教えてくれたっけ」
去年ガーディニアに行ったときのことも思い出す。
「行きも帰りも、クリスと一緒にいろいろ採取して、知らない薬草をずいぶん教えてもらったんだった」
先ほどの草から少し離れたところには、薬草図鑑に載っている普通の薬草も生えている。
「どんなところでも薬草が気になる。ちょっと休むと調薬がしたくなる。騎士隊の横を通れば、怪我をしている人がいないかなと思っちゃう」
自分を分析すると、サラはしっかりと薬師になったのだなあと思う。
「たぶんだけど、ハイドレンジアの薬師ギルドの中では、誰よりもいろいろな経験をしていて、薬師として十分以上の力はあると思う」
ハイドレンジアはダンジョンのある町だけれど、ローザや魔の山ほど魔物が強くはない。集まっているハンターも、無理をするタイプではないので、怪我をして担ぎ込まれるようなこともあまりない。
だから、ハイドレンジアの薬師は基本のんびりと仕事をしており、良い人たちばかりだ。もちろん、やる気も向上心もあって、だからこそキノコから解麻痺薬を作ったり、ギンリュウセンソウから竜の忌避薬を作ったりということも積極的にできている。
「でも、ほかの町の薬師、例えばテッドと比べて、私はどうなんだろう」
薬草の根元にあった小さい石を拾って投げると、ぽちゃんと小さい音がし、静かな湖面に波紋が広がる。
サラが王都で渡り竜の咆哮にやられて倒れたとき、診てくれたのはテッドだった。あの時は戸惑いばかりが強かったけれど、瀕死のアレンに対応した今の自分ならわかる。
テッドには重い怪我人を診た経験がちゃんとある。
ローザでは店番をしたり、お使いをしたりという印象だったが、思い出してみると、怪我をした騎士隊には当たり前のように対応していたし、おそらくローザという土地柄で、怪我人の治療は何度もしたことがあるのだろう。だから自信を持ってサラのことも診ることができたのではないか。
クリスは薬師の頂点である、王都の薬師ギルドの長だけでなく、ローザの長にもなっている。王都周辺にはいくつものダンジョンがあるし、渡り竜も来れば、騎士隊もある。
どれだけの経験をしてきたのだろうと思う。
「でも王都の薬師ギルドなら誰でも優秀なのかといえばそんなことはなくて、ハイドレンジアの薬師の足元にも及ばない薬師が何人もいた」
貴族の子弟だったと思うが、楽な仕事だけして、人の足を引っ張ろうとする薬師たちだ。
「このままいつもの生活を続けて、クリスに無茶振りされたからとか、誰かに巻き込まれたとか、大変なことは全部他人のせいにしながら薬師を続けていくの? 私」
アレンが瀕死の怪我をした。
特級ポーションをその場で作って飲ませて、命を救った。
バリアを使ってダンジョンの深層部から怪我人を全員連れ帰った。
サラのなしたことは、全部褒めそやされるべき内容だし、実際に褒めてもらえるだろう。
「だけど、その間ずっと、私は後悔の中にいたんだ」
いつだってその場にならなければ、バリアの使い方を工夫できない自分に。
薬師の仕事が調薬だけじゃないと気がついていながら、なんの勉強もしてこなかった自分に。
人に言われてからじゃないと、動こうとしない自分に。
「体がつらくなくて、自由に動けて、それだけで十分で。だからこそ普通の暮らしがしたかった。目立ちたいわけでも、ヒーローになりたいわけでもなくて、ちょっと魔法の使える、普通の薬師でいたかった」
穏やかで、争いごとを好まない、ちょっと突っ込み体質で愉快な人。それが
「けど、ここはトリルガイアで、魔物のいる世界。その中でおもにハンターを
まして、近くにいる人たちがみんな規格外の優れた人ばかりである。
「今のままの自分じゃまだ足りないんだ。皆と肩を並べて歩きたければ、もっと力をつけなくちゃいけない」
湖の波紋はとっくに消えていて、サラの腹時計によるといつの間にかおやつの時間になろうとしている。
「卒業試験なんでとんでもない。私は今、薬師の入り口に立ったばかりだ」
サラは立ち上がり、美しく日の光を跳ね返す湖を見つめた。
「考えよう。どんな薬師になりたいか、そのために何をしなければならないか」
そしてくるりと湖に背を向け、屋敷に向かって歩き始めた。
とりあえず、おやつを食べてから考えようと思いながら。