
穏やかに晴れた春の空には、ぷかりぷかりと白い雲が浮かんでいる。
サラの脳裏に浮かぶのは、懐かしいローザの平原だ。
「ワタヒツジみたいな雲」
のんびりしたサラの言葉に、隣でブフッと噴き出す音がする。
「それはずいぶんとやっかいな雲だな」
「見た目はかわいいから、いいの」
サラと同じように空を見上げているアレンのほうを向いても、その表情はわからない。目に入るのはがっしりとした肩だけだからだ。
いつの間にか背が止まってしまったサラと違い、アレンはまだ成長している。今ならきっと、テッドと並んでも確実にアレンのほうが背が高いとわかるだろう。
悔しがるテッドを思い浮かべるとなんだかおかしくて、思わず笑みがこぼれてしまう。
だが現実にはローザではなくハイドレンジアにいて、周りを見れば、背後にはウルヴァリエのお屋敷があり、目の前のきれいに整えられた庭園では、着飾ったたくさんの人が飲み物を片手におしゃべりに興じている。
そう、今日はネリーとクリスの結婚披露パーティーなのだ。
主役は今、教会にいて、サラたちはその帰りを待っているところである。
女神によって転生させられた割に、サラは教会には縁のない暮らしをしてきたが、トリルガイアの人々は当たり前に女神を信じており、教会も町に一つはある。だが、あまりにも女神が身近なため、教会が権力を持つことはないらしく、冠婚葬祭という人生の節目に女神に祈り、報告と感謝をする場に過ぎないらしい。
そんな教会で結婚の誓いをしているだろう二人を思い浮かべると、やっぱり気持ちは懐かしいローザに向かう。
「そうだな。あれから何年
サラが何も言わなくても、思うことをわかってくれる。そのくらい、いつも一緒にいる二人だ。
「もう五年だよ」
サラとアレンは去年の秋、一七歳になった。
そして、二人が出会ったのは、一二歳になったばかりの秋のことだった。
「出ていったきり、帰ってこない親戚の姉さんを捜してるって、あの時言ってたよな」
出会った頃の思い出がサラをくすぐったい気持ちにさせる。
「うん。今思うと、私、ローザの皆に、捨てられた子どもだって思われてたんだろうな」
「どうだったかな」
ごまかすように笑ったアレンだが、五年前のことを忘れるわけがない。すぐに真顔に戻ると、ちゃんと説明してくれた。
「捨てられたにしては身なりがよくて上品で。何にも知らなくて、大事に育てられた、訳アリの貴族の子どもなんだろうなって、俺は思ってた。だからこそ、なんで捨てられたんだろうって」
「やっぱり怪しかったよね」
中には意地悪な人もいたけれど、そんな怪しい子どもを受け入れてくれたローザには、今は感謝しかない。
「だけどさ、そんないるかいないかわからない親戚の姉さんはちゃんと存在してて、しかも初めて見たときはギルド長を
「ほんとだよね」
あの頃のことを思い出すと鼻の奥がつんとするが、泣いている場合ではない。
わあっと歓声があがるほうに体を向けると、そこには、ハイドレンジアの領主であるウルヴァリエ家の豪華な馬車が、静かに止まったところだった。
「いまさらだけど、教会には行かなくてよかったのか? ネリーにとって、サラは家族だろ」
「いいの。結婚の誓いをするときは、子ども抜きにしてあげたかったんだ」
止まった馬車のドアを、ウルヴァリエのお屋敷の執事がうやうやしく開けると、まずは領主のライが姿を現し、馬車を降りて待機する。
それから現れたのが、サラの大好きなネリーだ。
集まった人々から感嘆の声が漏れる。

いつも高く上げている髪は低い位置でゆるく結われ、レースがたくさん使われているものの、落ち着いたアイボリーのドレスがネリーの緑の瞳と赤い髪を引き立てていて美しい。
ネリーは父親のライに手を取られ、ゆっくりと馬車を降り、
幸せそうな二人を、ネリーの兄のセディアスとその家族が取り囲む。
ガーディニアにいる姉のラティーファは領地を離れられず、もう一人いる兄のエルムは放浪の身で、連絡が取れなかったのが残念だとライが言っていたが、それを補って余りあるほどの人が祝いに駆けつけてくれている。
サラの知っている結婚式のように、花やお米が飛んだりはしなかったけれど、クリスもネリーもたくさんの人に囲まれて祝われている。
「ネリーにとって私は、妹のような、子どものようなものでしょ。バリアを信頼してくれてはいるけど、それでもいつでも私のこと守らなきゃって、思ってくれてるのがわかってるから。ネリーの目に入るところにいたら、クリスじゃなくて私に気持ちが向いちゃう」
「そうか。それでわざわざ残ったんだな」
「うん。今日は絶対クリスの邪魔をしたくない。というか、二人の邪魔はしたくないと思ったの」
「おい! 二人とも、何やってるんだ! こっち来いよ!」
ネリーのそばで、こちらに向かって叫んでいるのはクンツだ。
ネリーを見れば、誰かを捜すように視線をさまよわせている。
「昔の思い出に浸っている場合じゃないよね! 大切なのは今なんだから」
サラは急ぎ足で、アレンはその後ろをゆっくりとネリーのほうに向かう。
「ネリー、クリス。結婚おめでとう! とってもきれい!」
駆け寄ったサラを、ネリーが照れくさそうに、だが両手を広げて迎えてくれた。
「教会に行く前にも見ただろうに」
ぎゅっと抱きしめてくるネリーに、サラも遠慮せずに抱き着く。
「何度見てもきれいだもの」
人生は短く、何があるかわからない。思ったことは何度でも伝えるべきだとサラは思うのだ。大事にしてくれた家族に、普段から感謝を伝えておけばよかったというのが、サラの小さな後悔なのである。
サラがネリーから離れると、アレンも照れくさそうにおめでとうと言う。さらに照れたネリーと
「こんな息子が見られるなんて思いもしなかったわ」
いつの間にか隣には、背が高いほっそりとした美しいご婦人が立っていた。さらさらとした銀髪を一本のほつれもなく上品に結い、サラを見下ろしている瞳は冬空のような淡い水色。ライも若く見えるが、この人も孫がいる年にはとても見えない。
感動していても表情が動かないところは、クリスにそっくりだ。
「クリスのお母様。ええと、デルトモント様」
「マリアと呼んでいいのよ。あなたも私の娘のようなものだから。いいえ、孫かしら」
そう言いながらも、目はクリスを追っている。
「一生片思いで終わると思っていたのよ。見て、あんな嬉しそうな顔、子どもの頃だって見たことがないわ」
「ええと、はい。嬉しそうですよね」
微妙に返答に困る話題を振らないでほしいサラである。
披露パーティーには、クリスの母親だけでなく、すでに家督を息子に譲って自由が利くというクリスの父親も来ていた。ネリーの兄のセディの家族もやってきているので、サラは一気に親戚が増えたような気持ちでいる。
その皆がサラに好意を向けてくれるのは、招かれ人だからなのかもしれないし、ネリーとクリスの
「それにしても、結婚を機に独立するというのに、ウルヴァリエと同居なんて。ええ、もちろんライに含むところがあるわけではなくってよ」
「いえ、わかりますよ」
クリスの母のため息に、サラもうんうんと
ウルヴァリエは招かれ人としてのサラの後見をしてくれている。ハイドレンジアにはそのために来たのだし、ネリーの実家ということもあって、サラは遠慮なくお世話になっているが、クリスもずっとウルヴァリエの屋敷に客人として滞在している。
だが、結婚するとなると、さすがにウルヴァリエの屋敷を出て、ネリーとクリスの二人で暮らすのかとサラは思っていた。
自分は一七歳でもあるし、新婚夫婦の邪魔はしたくない。
自分一人だけライのお屋敷に住まわせてもらって、時々はネリーのところに遊びに行く暮らしにしたいと思っていたのだ。
ガーディニアでようやっとプロポーズできたクリスだが、その後のことはあまり考えていなかったらしい。四〇歳もとうに過ぎているというのにもじもじと話が進まない二人に
披露パーティーを考えられなかった二人が、新居のことなど考えているはずもない。
パーティーの準備もそこそこに、相変わらず精力的にダンジョンに潜っていた二人の新婚生活は、なし崩し的に、ウルヴァリエの屋敷の一隅で始まるということになる。
もちろん、ライは娘のネリーと離れずに済んで大喜びだ。
「無駄に広い領主館だ。どう使ってくれてもかまわない」
ということで、ネリーが部屋を移動する以外は結婚前となんら変わらない生活になるはずだ。
それでいいのかとも思うが、生活力皆無な二人なので、結果としてよかったのかもしれない。
それでも、仕事はできるのに、私生活はポンコツな息子にため息が出てしまう母親の気持ちも理解できてしまうサラであった。ずっと間近で二人を見てきたのだから。
「親が行くと事前に連絡を入れていたのに、昨日までダンジョンに潜っていて、会えたのが披露パーティーの当日の朝ですよ。私は育て方を間違えたのかしら」
「いえ、どう育てても、ああいう方だと思います」
思わず答えてしまったサラだが、母親に対して失礼だったかもしれない。
「そうよねえ。そういえば、小さい頃から、私の思いどおりになったことなど一度もありませんでした」
苦笑しながらクリスの姿を追う目には、確かに愛情があふれていたので、クリスは愛されて育った子なのだなと、サラは思う。
やがてパーティーの
いや、新郎新婦も当たり前のように普段着に着替えて、夕食後もお茶の席に残っていることが、サラにはちょっとおかしかった。
多少疲れてはいるのだろうが、今日が結婚式の当日だとは思えない、いつもどおりの一日の終わりだ。だからこそ、サラには確認したいことがあった。
「前も聞いたけれど、新婚旅行には行かないの?」
その話をしたときには、トリルガイアには新婚旅行などというものはないと聞いて驚いた記憶がある。結婚したばかりだったら、新しい家と暮らしに慣れるのが一番大事ではないかと言われて、考え方の違いに感心したものだ。もっとも、貴族でさえ気軽に旅行できる世界ではないから、それが当たり前なのかもしれない。
ただ、サラの話に、ネリーよりもクリスのほうが興味を持っていたから、もしかして予定が変わったかもと気になったのだ。
「確かに、行ったことのないダンジョンには興味はある」
「ネリー、それ、ただの仕事だから」
サラは突っ込まずにはいられない。
「私もまだ見ぬダンジョンには興味がある。正確には植生だが」
「似たもの夫婦か」
クリスでさえこうである。だが、夫婦と言われたからかほんのりと顔を赤くして顔を
だが、クリスはコホンと
「結婚をしようがしまいが、旅行に行こうが行くまいが、私とネフが常に共にあることに変わりはない」
「真面目な顔で言うことですかね」
だが言う。それがクリスであるとサラは知っている。
「それに、私たちのことを心配している場合ではない。サラこそ、準備はできているのか」
「はい? 準備?」
サラは、クリスの言葉に首を
なぜ、今、サラが準備について聞かれているのだろうか。そもそも何の準備なのか。
まったくわからない。
「カレンから聞いていないのか? でなければネフからは?」
「何も聞いていませんが」
思い返してみると、確かにこの数日、薬師ギルド内には、ぴりついた雰囲気があった。だが、それもベテランの薬師ばかりで、サラのような若い薬師は皆いつもどおりに仕事をしていて、特にカレンになにか言われた記憶はない。
はあと大きなため息をつかれても困るのだが。
「ダンジョンの最下層で特薬草の群生が見つかった」
「とくやくそう」
サラの持っている薬草図鑑にそんなものは載っていない。図鑑にない薬草は、ときおりクリスが教えてくれるが、その中にも特薬草などというものはなかった。
サラが思わずネリーのほうを見ると、しまったという顔をしている。
うっかり伝言し忘れたに違いない。ネリーらしくてちょっと力が抜ける。
しかし、毎日のように顔を合わせているのだから、同じ薬師として直接サラに伝えるべきなのはクリスではないのか。サラがネリーから視線をずらすと、やれやれというように首を横に振っているクリスが見えてイラッとする。
「それで、特薬草と、私の準備がどう関係しているんですか?」
肝心なのはそれである。
「うむ。特薬草とは、めったに採取されることのない幻の薬草でな」
「おお……」
薬草採取が好きなサラとしては、その情報にはとても
「特薬草からは、特級ポーションが作られる」
「特級ポーション」
薬師なのに、まったく聞いたことがない薬だ。
「特級ポーションは、上級ポーションでも治せない
上級ポーションでも、
「ただし、必ず治るわけではない。成功するかどうかは怪我人の生命力による」
心なしか、危険な香りがする。
「ええと、それはつまり……?」
「生命力が弱い場合、強すぎてとどめを刺す場合もある薬だ」
「ひええ。それじゃ使えないじゃないですか」
「そもそも特薬草が珍しくて安定供給できない。高価で、使いどころが難しい。ダンジョンの深層に潜るハンターが、どうせ死ぬくらいなら使ってみるかとお守りに持っているくらいの薬だから、たいていの薬師はその存在は知っていても、調薬はしたことはないはずだ。ハイドレンジアでもカレンくらいだな」
身もふたもないクリスの言葉である。
「私が持っているぞ。これだ」
ネリーがいつも身につけているポーチからポーションの瓶を一つ取り出して、ことんとテーブルの上に置いてくれた。
「わ、濃い赤だ」
サラはありがたく手に取ると、あちこちの角度から眺めてみる。ポーションと同じ小瓶だが、中身は毒々しい赤である。色以外は特に変わったところはない。
「ネフにだけは、いつも私が持たせているからな」
ちょいちょい入るクリスのネフ愛は、普段は許せても、今はちょっとうっとうしいからさらりと無視をする。
「使うほどの無茶をしたことはないので、使用感はわからない」
一方、ネリーの言葉はベテランのハンターらしく説得力がある。
「なるほど。貴重なものをありがとうございます」
サラは、手に持っていた特級ポーションをネリーの前に置いた。
「で、これが私とどう関係あるんです?」
そして会話は振り出しに戻る。クリスの言葉は省略が多く、しかも唐突すぎて、言いたいことがとてもわかりにくいのだ。
「先ほども言ったとおり、これを調薬したことのある薬師はめったにいない。だが、せっかく特薬草の群生地を見つけたのだ。ハイドレンジアの薬師全員に、経験を積ませることにした」
ハイドレンジアの薬師全員にということは、もしかして。
「私も調薬に参加してもいいということですか!」
サラはガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。サラは薬師になってからまだ三年だ。ハイドレンジアではカレンしか作ったことがないという特級ポーションを作らせてもらえるなんて、そんな幸運があるだろうか。
「もちろんだ。そしてそれをもって、サラの卒業試験とする」
クリスが重々しく宣言した。だが、卒業試験も何も、サラはすでに薬師だし、そもそも薬師に卒業試験などない。そう突っ込みたいのを我慢して、素直に礼を言うことにした。
「ありがとうございます。でもできるかな」
サラは感謝と不安とで、思わず胸の前で両手を握り合わせた。
「ハハハ、心配することはない」
クリスは上機嫌である。
「サラ、上級ポーションの作り方は?」
「薬草の代わりに、上薬草を使います」
ポーションの作り方に、難しいところはない。もっとも、薬草の丁寧な下準備と安定した魔力の出力は、誰にでもできることではなく、それゆえそもそも薬師の数は少ない。
「そのとおり。材料だけが違う。では、特級ポーションの作り方は?」
「ええと、特薬草を使って、ポーションと同じように作る?」
クリスは満足そうに頷いた。
「正解だ」
そんなに簡単でいいのだろうかと、サラはほっとすると同時に疑問にも思う。
サラの頭に警戒音が響く。クリスがそんな簡単なことを卒業試験にするだろうか。
いや、そもそも卒業試験なんてないはずなんだけれど。
そしてその不安は的中する。
「だが、サラは私の弟子だからな。特薬草さえあれば薬師なら誰でもできるような調薬を卒業試験にするわけにはいかない。そこでだ」
普段表情がないのに、にっこりするクリスに背筋が凍るサラである。
「ダンジョンで特薬草を採取し、それを特級ポーションにするまでを卒業試験とする」
「はああ?」
もういいから、新婚さんは素直に新婚旅行に行ってしまえとやさぐれるサラである。