6章 狩猟祭への誘い
昨日はどんよりと曇っていた空が嘘のように晴れた、秋の空の下。午前の執務を終えた私は出かけるため、侍女たちに手伝ってもらい身支度を整える。
長い廊下を渡って玄関ホールに降りていくと、そこには新作のコートを羽織ったアンドルと見送りに来ていた侍女の姿。2人を見て、私は足を止めた。
「それじゃ、行ってくるわね。そのあと立ち寄るところがいくつかあるけど、夕食前には戻れると思う。アンドルも遅れないようにお願いね」
「もちろんでございます。しっかり奥様の名代を務めてまいりますので、どうかご安心を。さあ、まずは奥様をお見送りさせてください」
自分が出かけるのは主人のあとだと使用人の矜持を譲らない姿勢の言葉に、相変わらずねと肩を揺らして笑う。
「なら急いで出るわね」とアンドルの声に頷いた。
今日の彼は黒の
日頃装いを変えずきっちりとした礼服姿の家令は、たったそれだけでも新鮮に映る。そんな彼に先導されながら玄関へと出ていくと、騎士と御者の待つ馬車が見えた。
御者が私に気付いてすかさず馬車の扉を開き、御者台へと移動する。馬車へと近づけば「お手をどうぞ」と護衛騎士が恭しげな態度で手を差し出してくれたので、馬車へと乗り込む。
王宮での舞踏会でアリスの起こした騒動がきっかけと言えばいいのか、その後のナイジェル様をはじめとした王家の方々のご配慮で設けられた交流の場をきっかけに、令息令嬢たちの婚約が何組も決まった。
今日はその喜ばしい契約の一つを見届けるために、招待された教会へと向かう。
ただ、本日招待を受けたのは2組のカップル。ほぼ変わらぬ時刻に始まるため、一方の席へはアンドルを名代として使いに出した。直接参列してお祝いしたいのはやまやまなのだけど、後日お会いした時に直接祝いの言葉を届けようと思う……。
バカンスから戻って以降、事業面や社交で他家の方との交流の機会も驚くほど増えた。
もともと嫁ぎ先の屋敷を取り回すのに『新生活を始めると雑事が増えるので手が足りないのでは』という理由で彼らは送られてきた。だから人数的には必要最小限。
私の名代として動けるような家臣は、家令のアンドルと家政婦長のマリアの2名しかいない。そのうえ、どちらも同時に屋敷を離れるわけにもいかないので私の代わりに動けるものは一人だけ、な状態。
私個人の事業が大きくなり、侯爵家と実家が共同で興した事業の管理はもはやアンドルへ丸投げになっている。そのため屋敷の取り回しはどうしてもマリアの受け持ちとなるので、当家の上級使用人たちのオーバーワークが心配を通り越して不安になる。
数人分の仕事は余裕でこなしてしまう有能な彼らはとても頼もしいのだけれど、体を壊したら元も子もなくなるわ。そろそろ彼らの右腕となるべき人材の育成に、目を向けるべき時期が来ているのではないかしら。
だって……今日みたいに私の代わりに参加してもらう催しは、間違いなく今後も増えると思うのよ。事業面でも社交面でも。
……そもそも前の生の記憶では侯爵家との事業はこんなに大きな規模ではなかったのに、うちの家令ときたら涼しい顔で事業を拡大しているのよ。バカンスから戻ってきた時、収支報告を受けたのだけど思わず書面を三度くらい見直しちゃったわ……。
もちろんあの時だって父が託してくれた事業は、かなりの利益を生み出してはいた。本当に頑張ったのだもの。
その利益は侯爵家の財政を立て直しだけでなく、私の支えになるには十分すぎる額だった。……はずなのにアバンや前侯爵の散財と使用人たちの横領、様々な要因で見事に食いつぶされたのよ。
まあ、父や母の仕事をただ見たことがある程度の、実務なんて何も知らない素人同然だった私と、高い教育と豊かな経験に育まれた辺境伯家自慢の家令の能力に差があるのは当たり前ね。一緒にしてはいけないわ、むしろ破綻しなかっただけでも褒めてほしい。
言われるがまま侯爵家に全てを託してしまったことが……いいえ、アバンを信じ伴侶としてしまうだなんて愚かな選択をした私が一番の原因。
今回の帰郷で分かったことは、両親から愛されていたという事実。
前の生で父や母が私と接触してこなかったのは、疎まれていたわけでも無関心だったわけでもないと今なら信じられる。
私のことを想って身を案じてくれていたからこそ、侯爵家に何も手を出せなかったのだろう……。私と婚家との関係を壊さぬよう、アバンたちから何を言われても黙って聞いてくれていたに違いない。
「……今では知ることもできないけれど」
愛してやまない人たちの瞳を二度と曇らせることのないよう願いながら、私の呟きは馬車の車輪の音に飲まれて消えていく。
賑やかな屋敷から離れて一人考え事をしていると、あの頃の気持ちに引っ張られてしまいそうになる……と苦笑した。景色が流れ続ける扉の小窓に視線を向けてみれば、目的地の教会はすぐ目の前。気持ちを引き締めるために、ぱちんと両手で軽く頬を叩いた。
今日は両家にとって喜ばしい日なのだから、笑顔でいなければと気を引き締め直し、そのまま頬に添えた指先で口角の周りをマッサージする。
そうしている合間に、馬車は目的地の教会へ到着した。
「これはロッテバルト侯爵夫人、やぁやぁ、娘のためにようこそおいでくださった」
馬車を降りると婚姻式に招待された客たちの集う控えの間に通された。そこに待ち構えていた
「お招きありがとうございます、ユリシーズ子爵。この度はお嬢様のご婚約おめでとうございます。昨日までの曇りが嘘のように晴れ渡った秋空。……神も両家を祝福してくださっている証でしょうね」
膝を軽く折り、気品を感じさせるよう注意を払った所作で子爵へとカーテシーを向ける。マッサージの賜物か、顔を上げて子爵に向けた笑顔は口角もよく上がっている気がした。
今日の主役の一人はあのアリスに立ち向かった、勇気あふれる令嬢のテレア様。
ご自分も被害にあわれたというのに周りの令嬢をかばったうえ、アリスと対峙された勇敢な方。
あの騒動のあと、王妃様から賜ったドレスに着替え、ナイジェル様がまだ婚約者のいない令息たちを集めて交流の場を設けてくださった場で、伯爵家のご子息に
あの時は侯爵家の客人であり、当主のアバンが連れてきたのだからアリスの無礼は侯爵家の無礼ではあるのだけれど……。あの娘を叱り飛ばした時の凛々しさと立ち向かう姿に、とても好感を抱いたのだ。お嫁入りされてもお友達になれたら嬉しい。
ユリシーズ子爵と挨拶を交わしていると、子爵夫人や婚家となる伯爵家のご夫妻からも挨拶を受けた。親族やご友人も話の輪に加わり、婚約されるお2人のお話を聞かせていただいていると、式の準備が整ったとシスターが呼びに現れた。
聖堂へ移動して案内を受けて着席する。
──ああ、これが普通の貴族のあるべき姿よね。
書類を交わすだけで終わった婚約式と、誰も呼ばずに執り行われた式とも呼べないような結婚式。またもや自分の身に起きた出来事を思い出してしまい、沈みそうになる気持ちを無理やり引き上げるように祭壇の前で両家の縁を結ばれた2人にお祝いの拍手を贈ったのだった。
アバン相手では嫌だけど、式そのものには未練があるのね……、と自分の心の内を知った。
生涯ただ一度と言われるものを台なしにされたことへの恨みは、この先深まり続けるに違いない。だって、お呼ばれした婚約式、これから先もたくさんあるのよっ!
式を終えてユリア様とお相手の令息にお祝いの言葉を述べてから、パーティの方は辞退させていただき、次の場所へと向かう。
向かうのは貴族街の目抜き通り。都に初めてできたロゼウェルの仕立ての大店の支店の他、宝飾店の開店準備に大忙しだったりする。
もちろん目玉商品は、王妃様の名付けた混ざり気のない氷細工のような透明度を持つアクアティア。
舞踏会で約束した王妃様へ献上するアクアティアで揃えた装飾品。ロゼウェルの職人のまさに命を込めた渾身の出来栄えの作品を見た時は震えたわ。
大変喜んでくださった王妃様にお伺いをして許しをもらったので、使っている色石の種類を別のものに変えてデザインを簡素にしたものを売り出せることとなった。それはディアオリヴィアというシリーズで、冬辺りから店頭に並ぶ予定。……その前に侯爵家でお披露目の夜会でも開こうかしら。
そしてロゼウェルならではの諸外国からもたらされた希少な宝石の数々を、王都で加工したものを売る計画もある。
契約を結んだ王都の細工職人の手によって、重厚で繊細な王都らしい伝統的なデザインの宝飾品にしてもらい売り出すつもりなのだけど。職人の方々も王都では見たこともない希少な石を手にして、子供のように興味
楽しんで仕事に取り組んでもらえているようで、私も嬉しい。新しい流行や文化が生まれるといいな。
意欲的に視察を続け、会合がてら少し遅いランチを食べた。
職人たちの作業場にも顔を出させてもらい、仕事のことから待遇面まで様々な話を聞かせてもらった。
様々な道具が乱雑に置かれた作業場に入ると、親方の奥様が慌てて片付け始めたので大丈夫だからとやめてもらう。ありのままの姿が見たかったので不意打ちのような訪問をして申し訳ないと、こちらの方から謝らせてもらった。
それでもこんな汚いところでと……恐縮する彼らに笑顔を向け、手が汚れるのも構わず道具を触らせてもらったりしながら問いかける私を見て驚いていたわね。ロゼウェルの職人街は第二の我が家のようなものだから、懐かしい雰囲気についはしゃいでしまったかも。
本日最後に赴く予定は、アルルベル嬢の住むラルボ伯爵の邸宅。
もちろん事前にお約束をしているので、ご両親も揃っていらっしゃる。ロゼウェルでお話をすることもできたのだけど、お茶会のお手伝いをしてもらっていたので、ついでのようにお話しすることではないからと王都に帰ってから改めての訪問となった。
アルルベル嬢の家に向かうまで他の用事があったので、職人街の会合のあとで落ち合ったのは、午後に半休を取ったらしいロッテバルト侯爵家の騎士団長の補佐官殿。
まあ実際は、辺境伯家の騎士団から派遣されている分隊という立ち位置らしい。訓練や交代も基本的に辺境とのやり取りだものね。
「奥様……っ! こ、この度はお日柄もよろしく!」
待ち合わせ場所に指定していた商会の建物の前で私が出てくるのを待っていた彼が、私が出てきたと同時に言葉を嚙みながら突然口上めいた挨拶を言い始めた。
くすんだアッシュブロンドの癖のあるショートヘアと珍しい白緑の瞳を持つ当家の騎士ショーン・ウェル。今日は騎士団の略式の礼服。髪も珍しく整えているので一瞬誰かと思ったけれど、この慌てようで彼本人だと理解する。
「待って、待って。落ち着いてちょうだい。お日柄がいいのは結構だけど、それはあちらのご両親に言ってあげて」
深呼吸して落ち着きなさいと告げると、促した通りに大きく深呼吸を始める素直な青年の背をポンポンと叩いて馬車へ同乗させる。
本日は、彼とアルルベルのご両親との顔合わせの日。
ロゼウェルに住んでいる彼のご両親からは『息子に任せる』という言葉もいただいたので、彼の同伴者はとりあえず一番上の上司である私となった。
「いや、だって、奥様。俺の顔を見て嫌がられたらと思うと……」
「え? そこからなの?」
話を聞いてみるとあの妖精たちのお祭りの夜、酔いつぶれてしまった私と介抱に付き添ってくれていたカイルが立ち去ったあと、責任をもって令嬢たちを家まで送り届けたという。
もちろんアルルベルも屋敷まで送り届けたが、律義な彼は妖精祭りの習いに従い仮面を取ることなく立ち去ったのだという。
その後は私の里帰りに同行していたので、アルルベル嬢と直接会う機会も作れぬままの今日なのだとのこと。
「大丈夫よ、あなたを気に入ったと言い出したのはアルルベル嬢なのよ。あなたの
「でもほら……ご令嬢たちは大公閣下のような立派な人が好きでしょう?」
俺はしがない騎士ですし……とショーンは肩を落とす。
ああ、ここにイスラ卿が同行してなくてよかった。馬車の中で惨劇が起きそう……。
「ショーン。あれと比べたらダメよ……」
まあ確かに、祭りの時も突然参加したカイルにご令嬢たちは熱い視線を向けてはいたけど、恋しいお方へ向けるのとは違うものに感じた。
それに何よりもアルルベルは割とあっさりした対応していたし、何より彼がいたところでショーンが気になるとまで言ってくれたのだからね……っ!
「まあそろそろ覚悟を決めなさい。もうじきラルボ邸に到着してよ」
おかげでこちらが緊張する暇もない。緊張感が振り切れたか小刻みに震えだしたショーンを横目に、馬車は私たちを乗せてラルボ邸の門を潜り抜けた。
馬車が止まると流石に覚悟を決めたのか、ショーンはそれなりに落ち着いた様子で先に馬車を降り、私の手助けをしてくれた。
差し出された手を借りて馬車を降りたところで、アルルベル嬢が小走りに近づいてくる。
「エリザベスお姉様、いらっしゃいませ」
相変わらず愛くるしい彼女を見てほっこりしながら、お互いカーテシーで挨拶をし合う。
「ほら、あなたも挨拶なさいな」
突然現れたアルルベル嬢を見て固まっていたショーンを肘先でつつくと、我に返った彼が頭を下げた。
「す、素顔では初めましてです。あの夜にあなたの護衛の栄誉を賜ったショーン・ウェルです」
「はい、やっと魔法が解けたのですね。この姿では初めまして、アルルベルです。ラルボ伯爵家の次女です」
魔法がかかっているうちは素性が分からないまま、ということね。……もっと早くにお話をまとめたらよかったのかしらね。
2人の挨拶が終わった時、傍で見計らっていたのか、ラルボ伯爵夫人が玄関の扉を開けて中に入ってもらいなさいとアルルベルに声を掛けた。そしてお茶の仕度をしてあると告げながら私たちを先導するアルルベルの案内を受け、邸内へと迎えられていく。
品のいい彫刻や絵画の置かれた落ち着いた雰囲気の応接間に通されると、室内にはラルボ伯爵がいた。
「ああ、ロッテバルト侯爵夫人。お久しぶりですな、ご健勝そうでなによりです」
「こちらこそ、お久しぶりです。そして我がローズベル家の夜会にも参加くださって誠にありがとうございます。ラルボ伯爵、ロゼウェルにも長い間滞在なさってくれていたそうで。気に入っていただけたのならなによりですわ」
「私もそうだが家内たちが大変気に入っていてね。またバカンスへ入った時に伺わせていただきます……で、そちらが?」
伯と挨拶を交わしたあと、隣にいるショーンの存在を問う声に私も姿勢を正す。そして手のひらを上にして彼へ向けた。
「こちらが我が侯爵家の護衛騎士で、騎士団分隊長補佐役のショーン・ウェル卿です。実家のウェル子爵家はローズベル辺境伯家を古くから支えている家門で、ウェル卿の父君は今も現役でローズベル辺境伯家の海軍の将官をされている武人の家ですわ。彼もこの若さで分隊長補佐に就くほど将来有望な青年です」
自他ともに軽いと言われている彼だが、仕事に対する実直さはイスラ卿も認めている故の役職だ。もう少し年齢を重ね経験を得て落ち着くようになれば、なかなか有望な青年に育ちそうだし、『今がお買い得ですよ』と念を込めながらラルボ伯爵に彼を売り込んだ。
伯爵はロゼウェルを訪れた際、海軍訓練風景も見学したらしく、大型の帆船を見たとショーンに話題を振る。そしてお茶を淹れてくれた夫人やアルルベル嬢も話の輪に加わると、話はロゼウェルでの話題一色となった。故郷の話題に囲まれているうちに彼の緊張もずいぶん
その笑顔を見てはアルルベルが頬を染める様子を見て、ショーンの心配は意味のないことなのだと感じる。
……でも、自分のことになると、全然分からないのはどうしてなのだろう。
◆◇◆◇◆
「いやぁ、奥様。なんだか世界が煌めいて見えますねぇ~」
見た目より遥かに軽い言動とふわふわした足取りで、馬車への道を先導するショーンを見て、眉を寄せながら馬車に乗り込んだ。
馬車の振動と同調しているのじゃないかと心配になるくらい、青ざめて小刻みに震えていた行きとは正反対の彼の様子を半目で見つめている。目を背けようにも狭い馬車の中なので、それもできない。……それと、世界は行きとなんら変化していないわよ。
彼の様子を見れば一目で分かるだろうけど、ショーンとアルルベルの話はあれよあれよという間にまとまった。まだ内々の話ではあるけれど、近日中に婚姻式の運びとなるに違いない。辺境伯家を支える家門の後継者に婚約者ができて安泰ということになるので、喜ばしいことだと思う。
それでも懸念がないとは言えず、まずはその部分を詰めるところからラルボ伯爵と話し合ったのよね……。
「そうですね。ショーンは現在、侯爵家の護衛騎士として王都におりますが……ウェル子爵家の後継者ですので、いつかはロゼウェルへ戻る日が来るはずですわ。アルルベルさんもご家族も、遠く離れてしまうことに対してきちんと考えておいてくださいますか?」
私もアバンと離婚しても既に抱えている事業があるので、すぐに王都から離れるわけじゃない。
まあショーンのご実家の都合もあるだろうけど。あの元気なお父様がいらっしゃるわけだから、早急に戻ってこいコールは来ないだろう。
いつの日か、あり得ること程度には心に止めてくだされば構わないわ。
「あ、あのお姉様!」
伯爵より早く口を開いたアルルベルは、発言の許可を求めるように右手を掲げた。
とりあえず伯爵に目配せして反応を見ることにする。そうすれば発言することは構わないと言うように頷き返してくれたので、アルルベルに続きを促していく。
「わ、私、大丈夫です。ロゼウェルで暮らせるのでしたら願ったり叶ったりですわ。そうだ、ローズベル辺境伯邸で侍女の募集とかは随時されているのでしょうか? ウェル家に嫁いだら、旦那様と共に辺境伯家の家臣としてお仕えしたいのです。そうすれば、お姉様が里帰りされるたびにお会いできますもの」
きゃあ、と彼女が恥ずかしそうに声を上げて両手で顔を覆い、すでに構築済みらしい将来設計を隣で聞かされたショーンも一緒になって頬を染める。
目の前に熟れたての初々しいサクランボが出来上がった。
伯爵夫人もまた彼女が王都からロゼウェルに行ってしまっても、それはロゼウェルに行く口実が増えるだけなので問題はありませんと、娘のあと押しをすることを決意したよう。
……気に入ってくださって本当に何よりですわ。
置いて行かれている伯爵がちょっと気の毒だけれど、伯爵も気に入っていただけているようだし。きっとなんとかなるでしょうね。
そんな感じで、ウェル家の後継者の結婚相手と有望そうな辺境伯家の侍女が増えることになりそう。それにこちらに越してから初めての家臣の婚約話なので、あとで屋敷のみんなと祝ってあげようと馬車に揺られながら考える。
そういえばカイルがあの時、『王都に越してきて君の部下で最初の妻帯者が生まれそうだね』なんて言っていた言葉が見事に的中するのね。
教えてあげたらきっとしたり顔で笑うのだろうなと、彼の表情を予想して私も微笑んだ。
──あ。そうだ。
辺境伯家の侍女に名乗りを上げるつもりがあるのなら、我が家の上級使用人候補になってくれるのではなくて……っ!
「ショーン、お祝いは何が欲しい?」
「あはは~、奥様、気が早いっすよ。なんでもいいんすか?」
行きの馬車の中で抱えた悩みが解消してくれそうで、私の世界も煌めき始める。
ヤダ、世界ってこんなにキラキラしていたかしら。私とショーンを乗せた馬車は賑やかな笑い声をこぼしながら侯爵家へと戻っていくのだった。
……あとで侍女たちに笑い声の漏れ続ける馬車が怖くて、しばらく近づけなかったって言われた。浮かれるのも程々にしなきゃ。
◆◇◆◇◆
そんなこんなで、視察や会合の合間を縫って各家の婚約式に顔を出した。
うち何人かは、過去にアリスの取り巻きだったご令嬢だったりもしたのだけれど、あの場では交流らしい交流はしなかったので断ることはせずに参加させてもらった。
ハレの儀式だものね。
話を聞いたら、取り巻きというか巻き込まれというか。
強く出られると黙って従い、事態が過ぎるのを待っているような気弱な方が多かったのが印象的だったわ……。まあ、アリスにとっては自分に従っている令嬢の「数」が大事だったのね。
侯爵家の威、異を唱えない取り巻き、それらをすべて取り上げられた今、アリスは何を考えているのだろうか。
領地からの報告に時折アバンの勉強の進捗の情報があるけど、アリスのことは一言も書かれていないのよ……。
流石に私に無体をしようとした令息や、アリスと一緒に並んで直接野次をぶつけてくれた令嬢たちとは一切お付き合いはしていない。
その辺りは流石にけじめとして対応している。
今までアリスの……というか侯爵家の威を好き勝手に使い、アリスやアバンをおだてては金を引き出しわがまま放題に過ごしていたようだけど、前に出てくれていたアバンたちがいなくなれば身の置き所もない様子。まだ年若いのだから、あとへ引けなくなるような年齢となる前に、更生できるといいわね。
◆◇◆◇◆
「もうじき狩猟祭がやってきますわね。準備はできていて?」
秋が深まり、街路樹の葉の色が濃くなり始めた時期。
招かれたお茶会の席で、令嬢が声を上げた。
これから冬に向けて農民たちは収穫の季節を迎える。
収穫に対して豊穣の女神に捧げものをするため、王家直轄の森を開放して大規模な狩猟祭が開かれる。農民を含む民衆たちの冬備えのために提供される、干し肉の材料を集めるための狩猟という話でもあるそう。
それと王家の森では、このシーズン以外にも近くの村々の人たちが、果実やキノコなどの森の恵みをとる程度は許されている。そのため森に入った住民たちが獣害にあわぬよう間引く目的もあるらしい。ハンターを雇うよりお祭りにするとお金がかからないのだと、お茶会の席で令嬢たちが王都の催し物に疎い私へ教えてくれたことを思い返した。
「エリザベス様は参加されますの?」
聞けば令嬢たちは男性たちが狩猟に興じている間、秋の恵みを自らの手で収穫したり紅葉を楽しみながらお茶を
夏の舞踏会の次に大きな婚活スポットになるうえ、社交的にも春祭りまでは大きな催しがないので、舞踏会で成立しなかった家の子女たちのラストチャンスとなるらしい。
とはいえ夫も今は王都にいないし、忙しいからどうしようと多少考えもしたが、たぶん不参加になるとお伝えした。
────はずだった。
「この通りだ、頼む、エリザベス嬢」
王妃様とのごくプライベートなお茶の時間に招かれた王宮の奥庭で、秋の花を眺める前にナイジェル様のつむじを王妃様と一緒に眺めている私がいる。
以前の私なら王族の方に頭を下げさすだなんて……とあたふたしていただろうけど、悪い意味で慣れてしまったのね。
……と、心の中でそっとため息をついた。キチンと表情を保っていられない気がするので、さっと扇で口元を隠す。
「お顔を上げてくださいませ。せめて頭を下げる前に頼みごとの内容をお聞かせ願えませんこと?」
王族の方にされると、二の句もなく頷くべき案件に取れちゃうでしょう。
どう考えても、これは丁寧な脅迫にしかなりえないのに……と、心の中で愚痴を漏らす。王妃様は変わらず涼しい顔をされているので、きっととんでもない話ではないはず……。ないと思いたい。もう内容問わず『承ります』と返す準備をしつつ、ナイジェル様の説明を待つことにした。
「いやぁ、先日エリザベス嬢が秋の狩猟祭に参加しないという話を聞いたのだけど」
「……ええ。特に参加する必要が……私の場合ないような気がいたしまして。事業の方もあまり身体を空けていられないのです」
狩猟の成果を捧げてくれる夫や恋人もいませんし、乗馬もしたことがない。森の恵みには少し興味はあるけれど、それはどうしても参加したいという理由にまでは昇華しなかった。
それに……恋人たちの雄姿を見て華やぐ令嬢たちを眺めていたら、つらくなりそうで。
「そうかぁ。いや、君が忙しいのは重々承知しているのだけどもね。だから、こうして母の邪魔をしているのだけど」
時間を割いてもらうのも申し訳ないと、ナイジェル様が笑う。
「邪魔と思っているなら控えてちょうだいな。あなたはロゼウェルで十分楽しんだのでしょうに」
私だってエリザベスと遊びたいのよと王妃様がナイジェル様を詰るので、どちらの味方に付くわけにもいかず困り顔をするしかない。
「でもエリザベスと狩猟祭の間、会えないのね。私も王都に残ろうかしら。乗馬ではしゃぐ年でもないことだし」
「母上までおやめください。狩猟場に出ることを止められたからと拗ねないでください。出なければ好きなだけ乗っていただいていいのですよ」
なんのお話をされているのかと不思議に思って首を傾げると、王妃様の趣味は乗馬で、狩猟の腕も男性顔負けなのだそう。しかし、そろそろお年なので何が起きるか分からない狩猟場への出入りはやめるよう、陛下やお付きの侍従たちに止められてしまったらしい。
いつもお茶をお供させてもらうたびに惚れ惚れしてしまう、エレガントな方の意外な一面を知り驚いてしまう。
「意外性なら、あなたのお母様のほうが格上よ」
……と、王妃様の一面を知り驚く私に告げられた言葉は、あまりピンと来なくて逆方向に首を傾げた。
「母上、現状エリザベス嬢はかの白薔薇の君の上を行く女性実業家なのですよ。あなた方の感じた意外性は、彼女にとってはごく平凡な事柄なのではないかと」
その感覚の差異にナイジェル様がフォローしてくれたのだけど、なぜか褒められた気がしないのはどうしてなのかしら。
「お話をまとめますが、ナイジェル様のお願い事は私の狩猟祭への参加を求めるというお話ですね?」
「ああ、うちのわがまま坊主が王都に残ると言い出したのもあって」
……とうとう坊主にまで下げられたのね。誰のことを言っているか尋ねる必要もないので、そこは流した。
あとで叱っておきますね。
「何より私がつまらない……ああ、いや失敬。貴族の中心となる人物が参加してくれる方がありがたいんだよ。舞踏会とは意味の違う催しだから、庶民たちの冬備えを助けると思って参加をしてほしくてね。面目上自由参加の祭りなだけに、なかなか言い出しづらくて。その点、母上のお茶の席なら、他の貴族の目にも届かないから、まあ、ダメ元で」
私も知り合いの令嬢たちからさわりの部分だけを聞いていた催しだったので、きちんと把握してはいなかったのは反省しよう……。
忙しくても高位貴族。事業も大事だけども、貴族の本分に関わる行事なら忙しいとか目の毒とか思ってはいけないってことね。
私はナイジェル様が頭を下げてくださった時、告げるために用意していた答えを声にした。
「……承りましたわ」
王都に戻ったら、馬車馬のように働けば済むことですし。頑張ります。
ナイジェル様が急きょ参加した王妃様とのお茶の時間は、ナイジェル様が退席されたあとは和やかな雰囲気で終了した。
もちろん話題は狩猟祭のお話で、さわりしか知らなかった私のために成り立ちからしっかりと教えていただいた。ナイジェル様が張り切ってらっしゃるのは、今回初めて婚約者のマデリン公爵令嬢も参加されるから……とのこと。王妃様からも「成功を収めて見せたい男心を分かってあげてね」と頼まれたので、迷わず参加させてもらうことにした。
さまざまな色に染まる広大な森を散策する機会を得られたのだし、地元の住人たちとの交流の一環で森の恵みに関してのレクチャーを受けたり、工芸品を制作する様子も見学できたりするらしい。男性陣が狩りで獲った獣の肉のほか、女性陣……(ほとんど森の傍に住む村人たち)が実際に森の中で収穫したキノコや木の実も、王宮の料理人たちの手で晩餐として出されるのだとか。
「海の傍で生まれて王都に来るまでそこで暮らしていたから、貝殻細工や珊瑚の装飾品はよく知っているけれど。森の工芸品って馴染みがないのよね」
どんなものがあるのだろうと、空想の世界に心を委ねる。参加するからには、私なりに楽しみ方を探すことにしよう。
期間は3日間ほどだし、森の中で行われるから服装も華美なものではなく、動きやすい軽装とのことなので、令嬢たちは馬に乗らない人も乗馬服で参加される方が多いのだそう。
……持っていないからそれは用意しないといけないわね。
署名を終えた書類を机の脇にまとめ、窓から見える庭の木に視線を向ける。
庭の木々たちもすっかり色づき、風が吹くとハラハラと落ち葉が舞い落ちる。朝から日暮れまで、庭師たちは落ち葉を集めることに忙しい様子。
それを裏庭に集めては落ち葉に火をつけ、外で仕事をする使用人たちが暖を取りながら芋や野菜を焼いているのだとか。朝夕冷え込むものね。いいなあ……ちょっと羨ましい。
でも、大きな炎を見ると怖くなるから直接は行けないだろうし、なによりも使用人たちのおやつや楽しみを取り上げるような真似はさすがにできない。
んー……でも、私の分も含めておいしいお芋の差し入れをすれば大丈夫かしら。
ああ、秋って罪深い。
そうして食欲も含めていろいろな場面で秋を感じるようになったなあと思いながら、私は馬の上で揺られている。
どうしてこんなことに……と、雲一つない秋の空を遠い目で見上げながら思い返す。
あれは、狩猟祭への参加が決まってからすぐのこと。相応しい服装というものを所持していなかったので、私は自身が経営している仕立ての店の職人たちにひとまず相談を持ち掛けてみた。
「そうでございますね。……乗馬服ですか。侯爵夫人の御衣裳でございますし、お受けしたいのはやまやまなのですが……」
まだ人員が足りていない出来立ての店。夏の舞踏会から注文したいと問い合わせが今も溢れるほどだそう。
スタッフが充実するまでは私を介して注文された、王妃様を含め数人の御婦人方のドレスの制作で今は手一杯……作業部屋から職人たちの必死なオーラが伝わってくるから、もう聞かなくても分かることなので私も口にはしない。
「人出がないのもそうなのですが、わたくしめはドレス専門でございまして。紳士服やそれに近い乗馬服は専門外で。そもそもうちの者も皆……経験が足りませんので」
そんなものを奥様にお渡しできるはずもありません……と、作るなら作るで修行に出てしまいそうな気配がするものだから慌てて止めた。それはもうかなり必死に。
紳士服を扱う店の者に聞いてくれるとのことなので、任せることにして屋敷へ戻ったのだけど。
「やあ、リズ。帰ってきたんだね。すれ違いになるところだった」
玄関先の馬車止めに「屋敷の物ではない馬車が止まっている」と、御者が知らせてくれた。それを聞いても思い当たらず、来客の予定があったかしらと考えながら馬車を降りると、聞きなれた声がしてきたので顔を上げた。
見慣れているはずなのに、いつまでたっても眩しい笑顔。今日の彼は深い蒼を基調にした礼服を纏っている。美人は3日で飽きるという話を聞いたのだけど、美形は適用外なのかしら。
もう先触れを出してと拘る仲ではないからいいのだけど、カイルが言うのにはこれ自体が先触れなのだという。本人の先触れ。もういろいろおかしい……。
直接訪ねて私の予定をアンドルかマリアに聞くのが確かに一番早いわよね、と思わず納得しそうになったけど、これは彼だけの特例。もう止めても聞かないんだもの。
そのたびに『奥様は大公閣下にお甘いのですよ』とアンドルがニヤつくのだけはどうにかならないかしら……。
そんなわけでカイル自らの先触れ中に、ちょうどよく私が帰ってきたというわけね。
彼に引き返してもらい、一緒に屋敷の中へ戻る。応接間へ案内して腰を落ち着けてもらったいつものタイミングで、マリアが侍女を連れてお茶と軽いティーフードを持ってきてくれた。お気に入りのお茶を一口含んで喉を潤してから、彼へ用件を聞こうと口を開いた。
「突然なのはいつものことだけれど、何かあったの?」
お茶の香りを楽しむようにカップを口元に添えていた彼が、目線だけ上げて私を見つめる。以前は大丈夫だったこの仕草ですら、最近は覚悟が必要になってきている。
弾みだしそうな心臓を押し込めるように胸に手を添えながらこっそり深呼吸。カイルと対面するだけなのに何かの訓練をしているよう……。
そんな悪戯坊やみたいな顔ですら、心臓に悪い彼に視線を合わせて問いかければ、戻ってきたのは私にとってはとんでもない提案だった。
「オリヴィア様から聞いたのだけど、リズ、狩猟祭に参加するのだろう? だからさ……」
「あっ! 私も王妃様から聞いたわよ、あなたってば」
「馬に乗ろうよ」
「………………は?」
『お仕事さぼろうとしたらダメでしょう』と、叱ろうとした私の言葉は、彼の提案によって阻止された。
「……馬って、あの馬?」
ヒヒンって鳴くほうの? と漏れた呟きにカイルが笑う。
「残念ながら、鳴くほうのだね。ほら、君は大人だから」
鳴かないほうなのは、ゆらゆら揺れる木馬かな? なんて
「乗馬ができなくても参加は可能だと伺ったのだけど?」
「乗れないよりは乗れるほうがいいと思うよ。乗馬服も新しく仕立てるのだろうし」
せっかくだからっていうけれど、何がせっかくなのだろう……。
「乗れたら何かあるとでもいうの?」
「特にはないけれど。そうだな、何かあった時に移動の手段があるのは良いことだと思うよ。これから君もロゼウェルとの往復が増えるのだろうし」
街道の警備隊の巡回は、以前に比べたら遥かに増えてはいる。それでも距離に対する人員の数は十分すぎるというにはほど遠い。町と町の距離の問題、山間の街道と違いなだらかな道が多いけれど難所といわれる場所は少なからずあるわけだし……。
カイルの言葉を聞いて、言われてみればと考えてしまう。
「僕の父が昔教えてくれたのだけどね。君の父上……ローズベル辺境伯も乗馬の腕はかなりのものだけど、知っているかい? 君の母上に出会うまで馬に跨るのもやっとで、走らせるなんてもっての外だったそうだよ」
「え? そうなの」
領内で大きな事故が起きると、父を呼びに出た伝令と共に馬に跨り、颯爽と駆けていく姿は確かに覚えてはいる。穏やかでのんびりしていた父がその時だけとても機敏で、かっこいいと思ったこともあるけど……。男の人ってみんな馬に乗れるものだと思っていたから、父もそうだとばかり……。
カイルのおかげで知らなかった父の過去を知れてうれしい半面、母との出会いに乗馬の技術がどう関わるのか全く分からない。
顔にきっと『?』って書いてある私を見て、カイルが続きを話してくれた。
「デルフィーヌ夫人がまだ王都で暮らしていた時、父の叙爵を祝う式典に出るために君の祖父……前辺境伯の名代として王都に来てくれて、式典後の夜会で初めて出会ったのだそうだ。それからデルフィーヌ夫人が頷くまで何度もロゼウェルと王都を往復することになり、馬車より早いことに気づいて、そこから習得したという話だよ」
仕事より大事なものなんてなさそうな父に、そんなエピソードがあっただなんて!
「でも、練習すれば誰でも乗れるようなものなの?」
さすがに父に倣ってスパルタ式にして、ここからロゼウェルの往復とかさせないわよね? 幾分不安を覚えて問いかける。
「きちんと段階を踏めば大丈夫さ。動物は嫌いじゃないだろう?」
「嫌いではないけれど、腕の中に納まるサイズの子しか触ったことなんてないわよ」
カイルの実家のある大公領は、ローズベルク辺境地に隣接している草原が広がる地域。穏やかで牧歌的な風景が続く、王都随一の穀倉地帯がある。山間と連なりながら広がる、なだらかな丘と草原。そこに数えきれないほどの大きな牛や、もこもこの羊の群れが牧草を食べている平和な光景を思い出す。でも、草を
「必要があるのは分かったけど、今覚える必要はあるのかしら。それ以前に乗馬服が手に入るかも分からないのに」
次にロゼウェルに戻る予定ができてからゆっくり覚えればよいのでは? と、頭に浮かんだことを素直に伝えてみる。
「思い立ったら吉日っていうよね」
それ、思い立つのは私ではなくて?
「まあ、冗談はさておき。オリヴィア様も君が頻繁にロゼウェルとの行き来を重ねるようになることを心配されていたよ。もちろん無理を押し付けるわけじゃない、内心の話だけどもさ」
僕が一緒にいれば安全だと思うけど、なんてカイルはつけ足した。
「あら、私と大事な甥御が2人して旅だったら、心配が倍になるのでは?」
カイルのほうがきっと王妃様にとっては大事な相手でしょう? 義兄と女学生時代からの親友との間にできた可愛い甥っ子ですもの。
「もしもの話なので気を悪くしてほしくないのだけど、もしも馬車が事故や故障で立ち往生してしまい、その隙をついて盗賊の襲撃にあったとして……護衛騎士のうち必ず1人、君を抱きかかえ、庇うために剣を振れずにいる状態。馬にしがみついて走らせることができて、君だけでもその危険な場所から離れることができるうえ、戦力も減ることはない状態。この2つのうち生き残れる可能性があるのはどちらかな」
死ぬ間際まで人の重荷になるのはいやね。
前の生の時に迎えた死のように、重荷どころか価値すらもない、ごみのような扱いを受けるのはもっと嫌。……死んでしまえばどちらも一緒なのかもしれないけど、死にざまくらいは自分で選びたい。
それでもなかなか返事ができないのは、お父様の時のように『必要に駆られて、どうしても』な状況じゃないからなのよね……。
うう~ん、と小さく唸っていると、冷めてしまった紅茶をマリアが絶妙なタイミングで下げてくれ、香り立つ新しい紅茶を淹れてくれた。温かなカップを手にしてマリアに礼を告げる。カップの中は渋味の少ないストレート。まだ少し熱いから香りを楽しむために口元に寄せる。
マリアは前のカップを手早く片付け、傍に控えていた侍女へトレーごと渡した。そして私の傍に戻ってくるなりこう告げた。
「奥様、一言よろしいでしょうか」
「なぁに?」
こうやって会話が膠着状態になると、マリアがそっと助言をくれることがある。
だから今回もそれだと思って、何も考えずに返事をしていた。
「されてみたらよいではないでしょうか」
「……あなたまで」
「正直な話ですと、一石二鳥で覚えた程度で身を守れるとは思ってはおりません。それでも全くの無知よりはましです。……それに、奥様はお忙しいと執務室にこもりきりで。お茶やサロンに招かれるかしないと腰を上げることもいたしませんので」
失礼ね、腰くらいは上げていてよ。なんて思っていたら、マリアがカイルに届かない程度の音量で私に囁いた。
「馬肥ゆる秋と言いますが……馬だけではありませんよ」
気にしていたのに! ちょっと最近ごはんが美味しいなって、ほんのちょっとなのに。
でも……ドレスが入らなくなったら大問題だわ……。
「若いお嬢様たちの間でも乗馬は流行っておいでですし、話題の一つとして習得するべき項目かと。大公閣下がお話を持ってきてくださったというなら、指導についても伝手や考えがおありだと愚考した次第です」
流行っているということは、後入りでよい環境をそろえるのが難しいということ。
マリアが言いたいのは鴨がお宝抱えてやってきたので狩りなさいってことかな……。うん。そうね、気の置けない指導者に巡り合うにも時間がかかるだろうから、彼の伝手ならおかしなことはないはず。せっかくなので学ばせてもらおう。
「分かったわ。覚えるからちゃんと相談に乗ってね?」
「ああ、任せてくれ」
その言葉が頼もしいと感じた日もありました。
乗馬服や道具類は、王妃様の愛用されているお店を紹介してもらいどうにか揃えられた。オーダーで作る時間は流石にないので、今回は既製品。多少の手直しをしてから手渡されたと思えば、カイルが訪ねてきての、今。
練習用に買った乗馬服に身を包み、不安定な鞍にまたがってカイルが馬を引き、庭の中を行ったり来たり。物珍しいのか手の空いている侍女たちも窓辺に鈴なりだわ。どうしてこういうときはマリアのカミナリが落ちないのかしら……。
乗馬の練習……といっても、私はただ馬に跨るだけ。手綱を引いてもらいながら、ひたすら庭をぐるぐると回ることが日課になっている。
カイルも流石に毎日顔を出せるわけじゃないので、彼が同席できない日は手の空いている護衛騎士に付き添ってもらった。この練習のおかげか、皆との間にも話題が多少なりだけど増えてたきので、侍女の中にも馬に乗れる娘がチラホラいることを知った。マリアが流行っているというだけあるのね……。
始めて馬に跨ったあの日。初めて体験する、目がくらみそうな高さにまず固まってしまった。そこから歩き出すためにさらに時間が必要で「待って、お願い」と馬上で言い続けたのよね……。ようやく歩き出したかと思えば、馬が足を踏み出しただけで、直接伝わる振動の大きさに悲鳴を上げてしまう。途中で嘶いたり首を振ったりする仕草にすら、おっかなびっくり。
「だって動くのよ」
と、あの時の私はかなり真剣に訴えたのに……。
「生き物とはそういうものでございますよ」
なんて少し離れた場所で練習を見守っていたマリアが答えた。カイルはなぜか私から顔を見せないようにして、肩を震わせていたように見えたのだけど……。笑っていたのかしら。
初めてなのだから、笑うことなんてないじゃない! なんて勝手に彼を恨んで、見てらっしゃいと私の負けず嫌いが発動した。次に訪ねてきた時は驚くくらい上達してあげるのだから! ……と、颯爽と馬を操る私を見て、驚くカイルを頭の中で思い描いていたけれど、現実はそうもいかないようで。
──あれから3日経った今も、まだ私は馬上でただ座っている人だ。
「奥様、かなり姿勢が安定されています。きちんと上達しておいでですよ」
手綱を引いているのは、当家の護衛騎士分隊長のイスラ卿。せっかくのお休みの日に雑事に付き合わせるのは気が引けたけど、「新米騎士の指導で教え慣れている」と言ってくれたので甘えさせてもらった。
確かに乗馬の練習初日は、あらゆる部分から筋肉痛が起きて大変だったわ……。生まれたての小鹿みたいに、支えがないと歩けなかったくらい。でも今はそこまで体に負担を感じてはいない。ちゃんと体を起こして前を向き、景色や馬の様子を見る余裕ができている……と思う。
周りの状況が見えるようになったのは上達の証よね。……なんて考えながら、手綱を引いてゆっくり歩いているイスラ卿のつむじを眺めてみる。無骨に感じるいつもの甲冑姿でない、ざっくりとしたリネンのシャツに濃い色のズボンとブーツ。腕まくりしたシャツから覗く逞しい腕は日に焼けていて、連日鍛え上げている成果のような筋肉や血管が隆起している。静かに過ごされているのか、あまり表に出てこないイスラ卿の休日の姿はとても新鮮。
「奥様、跨っているだけとはいえ、馬上から落ちるだけで怪我をされますよ。乗っている間は気を引き締めていてください」
ぼんやりと考え事をしているのが、ばれていたみたい。首を竦めて謝ると、きちんと前を見据えて馬の歩く振動に合わせる。ほんの少しの意識の差で、馬の方も負担が減るのだそう。「人馬一体」が騎馬の理想なのだと、馬を引きながら教えてくれた。
……ん? 『乗馬』で終わるのよね?
我が家の騎士たちの助力のおかげで、この数日で『助けを借りずに馬に一人で跨る』という目標を達成できた。抱き上げてもらったり、踏み台がないと乗れないのでは、結局は緊急時に使えない。……と思ったので、まずはそこから! って何度も繰り返し練習をした。
鞍にしがみ付いてじたばたしていても、じっと我慢してくれていたこの
カイルが侯爵家へ再び訪れたのは、最初の日から数えて7日目のこと。
洗い替えできるように、数着乗馬服を新調した頃だった。前回は手直しをするために採寸を念入りにしてもらったので、2回目の直しは手早く済んでよかったわ。……それに心持ちウエストが緩いような。
そんなわけで今日もスタンダートな乗馬服。前を大きく切り替えた、フロックコートの背中側の裾は膝を隠すくらい長さがある。それが気になるヒップラインや、ジョッパーズズボン特有の幅広の太股部分を隠してくれている。それもあってか、タイトなジャケットも併せてすっきりしたシルエットを描いていた。腰回りには柔らかなドレープ、女性らしい丸みのあるラインに沿うために精密に仕込まれたタック。袖周りにも繊細なレースがさりげなく施され、どことなくドレスに似た印象もあった。流石王妃様のお気に入りの職人の作。
「じゃあリズ、お手をどうぞ」
この間と同じように、庭に連れてきた馬の前でカイルが手を差し出してくれる。
カイルはライトグレーの乗馬服ね。裾の短いジャケットにジョッパーズ姿、だから今日は彼も馬に乗るつもりなのかも。
なんて考えながら、カイルの申し出をやんわりと断る。一人で馬に近づき馬の鼻面を「今日もよろしくね」と、気持ちを込めてそっと撫でた。そして鞍を掴み、鐙に足をかけてから地面を蹴り上げる。浮いた身体を馬の背に乗せるようにしながら、足を向こう側に置いて鞍に跨ってみせた。
「……リズ、君って」
どう? 驚いたでしょう。
きっともう自信満々の顔で、カイルを見下ろしていたに違いない。でも私の予想に反して、彼が取った行動はこうだった。顔を真っ赤にして、そのまま顔を伏せるように馬のお腹付近に顔を埋めてしまい、こう呟いた。
「……可愛すぎるよ、これは反則だ」
そう漏らしてから、赤く染まったままの顔を隠すように俯きながら目線だけ上げて私を見る。突然言い出すことじゃないでしょ! もう私にも移っちゃうじゃない!
……まあ、あとで聞いたら、自信満々に向けた顔が小さな頃の私そのままだったからですって。確かに昔から不得意なことをできるようになると、真っ先に彼に見せていたものね。私って、もしかして全然成長してないの?
◆◇◆◇◆
「でも本当にすごいよ、リズ」
「……そう? なら嬉しいわ。たくさん練習したもの」
とはいえ、まだ一人で乗れるようになっただけだけど。
「もともと君はダンスも上手だし、できると思っていたけどね」
「でもまだ自分で手綱を持って歩くこともできてないのよ?」
「大丈夫だよ、一番難しいところを覚えちゃったんだし。今だって何も言わずに歩き出したのに、君は驚きもせずに揺られているだろう?」
……そういえば。話しながらカイルは、馬の手綱を引いて庭を歩き出している。初日は歩き出すまですごい時間が必要だったし、それこそ馬の脚が動くことまで教えてって叫んでいたわね。ゆっくりだったのもあるだろうけれど、言われるまで本当に気にも留めていなかった。
「うん、しっかり乗れているね。これなら次に進んでも大丈夫かな」
馬に揺られている私を眺めながら、庭を半周ほどしたところでカイルが告げる。次はとうとう手綱を持って馬を操る練習なのね。私にできるかしら……と、まだ残る不安を伝えようとカイルがいた場所に視線を向けた。……あれ? いない。そう思った瞬間のこと。
「失礼するね」
本当に軽い。軽すぎる一言とそれ以上に身軽な動作で、カイルがひらりと馬の背に跨った。何をしているの? と声を上げようとした矢先、突然増えた重みに馬が文句を言いたげに前足を大きく上げるものだから──。
「きゃあああっ」
「おっと……どうどう、いい子だ」
大きく視界が揺れ、体が浮いた。投げ出される! と目を閉じたと同時に、背後から彼の右腕が私の体に回される。そしてしっかりホールドしたまま、もう片方の腕で手綱を掴んだ。そのまま手綱を捌き、暴れて後ろ足で立ち上がろうとした馬を難なく制してしまう。馬は前足を地面につけ、まだ不服だと言いたげに地面を数回ひづめで掻くが、すぐにおとなしくなってくれた。
「はは、ごめんよ。大丈夫?」
「……もう、いつも突然なんだから。馬って繊細なんでしょう? 丁寧に扱ってあげて」
ポクポクとゆっくり歩くひづめの音を聞きながら、後ろにいる彼へ振り向くことはせずに声を上げた。
「……全く君は、危険な目にあわされたことで詰られるかと思ったら。馬の心配の方が先なんだね」
「……だって、カイルがこんなに傍にいるのに、何が危ないの?」
そりゃあ、驚いたわよ。と続けてみたけれど……私が全幅の信頼を置いている人がこんな傍にいて、何が怖いのかと不思議そうに呟いた。
返事の代わりのように、腰に回されたままの彼の腕に力がこもる。
「オリヴィア様がね、君の歳くらいならもっとお茶やお菓子、ドレスやおしゃれの話題で忙しい時期なのに、君は仕事ばかりだと心配されていたよ。社交界の中心にいるのに心のどこかは周りの令嬢たちと少し離れた場所から眺めているみたいで」
……なんというか、達観しているように見えるってさ、と軽口めいた口調で告げた。
頂点に立たれている方の洞察力の鋭さに、ドキリとしてしまう。
「そ、それはほら、私も立場があるし。両親の影響とか、ね? それを言うならあなただってそうでしょう?」
「まあ、年相応に感じないとはよく言われているけど。ナイジェルには子供扱いを受けてばかりだよ。たった2つしか違わないのにさ」
そして「だから僕は年相応」だと、ずいぶん無理のある結論を言い放った。
王妃様が最近お茶の席に招いてくれるのは、令嬢たちとの心の距離を案じてくださっているのかしら。乗馬に興味を持ったらしいと知って喜んでくれたとも。そのうち乗馬のお誘いもされるかもしれないわね。
「ほら、馬も落ち着いてくれたから、しっかり教えてちょうだい。手綱はどう持てばいいの?」
王妃様の前で無様な姿は見せられないから、しっかり習おうと意気込んでみる。
「……ああ、それはね。ここを持って。弛ませすぎると指示を出すのが遅れるけど、引き過ぎると歩きづらくて馬が疲れてしまうんだ」
このくらいの加減だ、と手綱を握る私の手に自分の手を添えて引く力を教えてくれた。
……早く一人で乗りこなせるようにならないと、心臓がもたないかも。
カイルと会う機会が増えて私の心臓は弾みすぎて休む暇がないけれど、最近はずっとこのままで構わないと思う自分もいて、混乱する。
◆◇◆◇◆
ひょんなことから余計に忙しく、でも賑やかな日々を過ごしていると、騎士を連れた辺境伯家の使者が訪れた。使者が運んでくれたものは、バカンスの帰り際に父にお願いしていたもの。辺境伯の全権を委任するという書状なので、流石に手紙で送るわけにいかないわよね。かなり大掛かりな人数で組まれた伝令となり、故郷から訪れた使者を歓待した。
こちらに戻ってから乗馬の練習をしているのだと、折り返し父への伝言に混ぜて伝えたら、古くから仕える辺境伯家の使用人も父のエピソードを思い出したと教えてくれた。
「さて、必要なものは揃えたわね。あとは……」
前侯爵夫妻が王都へ来られる日が、私にとっての決戦日になるだろう。
領地からあれ以来連絡が来ないことが少し気になるが、王都の知り合いに顔を合わせるためにこちらへ来るとアンドルから聞かされている。
ずっと長く王都で暮らしていたお2人なら、定期的な行事は把握されているだろう。
それならこちらに来られるのは、狩猟祭のあとかしら。せっかく来られてもご友人も森へ出かけて留守では困るものね。
家同士の婚姻契約を破棄するために必要なものは、全て揃った。私に勇気を与えてくれる人はきっと傍にいてくれるから、怖くなんてない。
「とうとう、あの夜と決別できる最初の1歩を踏み出せるのよ、エリザベス」
絶望という色に染め上げられた炎の中、あの夜の私に伝えるように呟く。
忘れることなんてできないけれど、それ以上の幸せで塗り替えられると思いたい。
そんな決意を胸に秘めた私の前に、領地からの知らせがやっと舞い込んできたのだった。