5章 決意



 翌朝、お茶会当日。

 早朝から起きだして最終のチェックを始めた。

 当日に急な用事や体調を崩したなどの欠席の申し出が数件届いたので、それに対しての返答やお見舞いの手紙をしたためて従者にそれらを配達してもらう。予定外のことを含めて処理をしながら、空いた時間に手早く食事をとる。

 忙しさが過ぎれば次は自分の身支度に入るのでせわしない状況に変わりはない。湯あみを済ませたあと、冷たいタオルを火照った肌に繰り返し押し当てて熱を取り、汗を止めてからドレスを身に付けていく。私がレナードに渡した16歳の夏に仕立てたドレスは、事情を知らない人が見たら今期の新作としか見えない洗練されたデザインへ仕立て直されていた。

「……どうでしょう、お嬢様。気になるところはあるでしょうか?」

 着替え終えたと知らせると、レナードが針道具の箱を手にしながら部屋に入ってくる。

「大丈夫、直すところなんてどこにもなくてよ。こんな短い期間に無理ばかり言ってごめんなさいね。あら、ユーリカと一緒ではないの?」

「彼女は明け方になるまで手を入れてくれていたので今は眠っています」

「そう、じゃあ起きたらでいいから彼女も労ってあげて。私が礼を言っていたと伝言をお願い。……あなたも今日はゆっくり休んでおいてね」

 ありがとうございますと私に深々と頭を下げてから、レナードが部屋から出ていく。その足は少しふらついているし目の下にはくっきりとクマを2匹飼育していたから。彼もきっとユーリカと一緒に夜なべして作業してくれていたのね。

「まあ、エリザベス様。本当に見事な仕立てですこと。よい職人に出会えてほんとによろしゅうございましたね。きっとこの街で立派な職人になりますよ」

 着付けを手伝ってくれるマリアが、ドレスを間近に見つめながらそう声を上げる。あなたがお墨付きをくれるなら、なおさら安心ね。

「マリアも、みんなも本当にありがとう。あともう少しだから頑張って。そうしたらゆっくり休んでちょうだい」

「「「はい、お嬢様も大変でしょうけど頑張ってくださいませ」」」

 その場にいた侍女たちからエールを受け取ったあと少しして、本日初めての招待客の馬車がもうじき到着すると知らせを受けたので、お出迎えをするために玄関ホールへと移動する。ホールに着くと、ソフィア様と母が既に待機されていたので私はそのまま2人の傍へ近づき挨拶を交わす。

「お母様、ソフィア様。本日はよろしくお願いいたします」

「リズちゃん、ドレスの手直し間に合ったのね。よかったわ、今日も素敵よ」

「まあ、あの小さなお姫様が……本当に素敵な淑女になったのね」

 ソフィア様の前でドレスアップした姿になるのは初めてではないはずなのだけど、ドレス姿を見せる度にこうやって手放しで褒めてくださる。

「お2人ともありがとうございます……あの、どうにも褒められ慣れてないので手加減していただけると嬉しいです」

 容姿を褒め称えられることが息をするように当たり前なお2人には理解できないかもしれないけれど、許してほしい。顔が火照って化粧が溶けちゃいそうなんだもの。いつかは慣れるのかと思いながらも、全く慣れる様子のない自分が不甲斐ない。

「もうそろそろ、お客様が到着されるみたいです。今こちらに向かっているのはラルボ伯爵家の方を乗せた馬車だと思いますわ。アルルベル様とご夫人がお手伝いもかねて早めにこちらへ来てくださると言ってくださっていたので……あ、着いたようなので迎えに行ってまいります。お母様たちにも紹介しますね、夫人には王都のお店を出す時とてもお世話になりましたの」

 玄関傍の馬車止めに入ってきた馬車の扉が開き、ふんわりとした緩い巻き毛の金髪が覗いたので、どうやら当たりのようだ。

 御者の手を借りて馬車から降りてきたアルルベルの元へ、急ぎ足で向かう。私を見つけた途端にくしゃりと破顔して満面の笑みを向けてくださる、相も変わらず可愛らしい令嬢とその御母堂をお迎えする。お2人の衣装はこちらに来てからすぐに仕立てを頼んだらしい、帝国風のサマードレス。母子ともお揃いのデザインでとても微笑ましい。

「エリザベスお姉様! 本日はお招きありがとうございます」

「ようこそ、ローズベル辺境伯邸へ。暑い中当家の茶会に足を向けてくださってありがとうございます。アルルベル様もラルボ伯夫人も楽しんでいってくださいませ。さあ、邸内へどうぞ。冷たい飲み物はいかが?」

 アルルベルたちを連れ、日差しを避けて母たちが控えているホールへまず向かう。そして告げた通り母たちに2人を紹介した。

 デビュタントを迎えたばかりのアルルベルは既に王都の社交界から身を引いて久しい2人のことは貴族の教養として話に聞いたことがある程度なのだろうけれど、夫人の方はその世代の真ん中だったようで当時の社交界の中心にいた憧れの存在そのものだった母とソフィア様と再会されて感動もひとしおのご様子で、少女時代へと戻ったようなお顔になって喜んでくださっていた。

 玄関ホールでのゲストの出迎えを母たちに託し、一足先に私はアルルベルを連れてお茶会の会場にしたサロンへ向かうため、ホールを離れる。

「ロゼウェルの街を楽しんでいらっしゃいますか?」

 きっとお淑やかにしていなさいとでも夫人から言われでもしたのか、廊下を歩きながらも話したくて口元をむずむずさせてはチラチラと横目で私を見つめているアルルベルに、きっと初めてだろうこの街の感想を聞いてみた。

「それはもう。どこに行っても珍しいものばかりで夢のようです。昨日は遊覧船に乗りましたの。海を見るのも初めてでしたのに、大きなお船に乗って沖まで出たのです。見渡す限りどこまでも続く青の絨毯……私、一生忘れません」

 そして返された言葉に私も自然に笑みが浮かんだ。青の絨毯……いでいる海は確かにそう見えるわ。

「そんなこと言わずに何度だって来てくださいませ。これから先もっと王都からも気安く行き来できるようになりますわ」

 距離を縮めることなんてできないけれど、嫁ぐ直前に王都へ向かった時と今とでは、街道の整備が始まったばかりだというのに渋滞で混雑してしまった箇所を除けば格段に移動しやすくなっているのだから、これから先も手が入れば入るだけよくなっていくに違いない。

 ロゼウェルだけでなく、もっと誰もが自由にどこに行くのも安心していられる治安のよさを手に入れられたら、この国はもっと豊かに幸せになるのではないかしら。

「このお茶会、母がもう楽しみに浮かれていた意味が分かりましたわ。あそこにいらした貴婦人方はお姉様のお母様と大公閣下のお母様で合ってますか? 学生時代の母の話を聞かされていたのですけど、お話以上に素敵な方で胸が高鳴ってしまいました。きっと私も自分の子供にお姉様のことを夢見るように話すのだろうなって」

 母たち以上にすごい褒め上手がここにいた……。耐えて、私の表情筋。

 アルルベルの話を聞かせてもらっているうちにサロンへ着いたので、まずは手伝ってほしい内容を彼女に告げる。伯夫人の手伝いをされている彼女にとってはそう難しくないはず……というか、絶対私より上手だと思う。王都で誘ってくれたお茶会でも場数の差を感じたのだもの。

 お茶や軽食の給仕は我が家の使用人たちが行うので、もしも退屈そうにされている方を見つけたら声を掛けて会話の輪に入れてあげてほしいとお願いして、会話のタネになりそうな、この街ならではのメニューを先に説明しておく。

 そして次々に案内を受けながらサロンを訪れるゲストを出迎え、和やかな雰囲気のまま茶会が始まった。

 ゲストの方々へ挨拶をして歩き回っていれば、見覚えのあるダークブロンドの巻き毛が目に入る。

 そこには叔母が連れてきた、シーラ男爵家のミリア嬢の姿があった。

 叔母のせいではあるのだけれどせっかく旅行に来たというのに、あんなことがあってからホテルの部屋にこもったまま過ごされていたようなので、着替えに借りたドレスを返却した際にお茶会の招待状を添えておいたのだ。

 私がお願いした通り、一人ぼっちだった彼女にアルルベルが話しかけてくれたようだ。今は同じ席に座っている王都住まいの令嬢たちに囲まれて、楽しそうに顔を綻ばせながらおしゃべりに興じている彼女を見てホッとする。この街の訪問の最後が楽しい思い出になってくれたらよいなと願う。

 私を見て、あの夜の騒動を思い出させてはまた気まずい思いをさせてしまいそうなので、帰りぎわにでも話しかけようかしら……。


◆◇◆◇◆


「大きな問題もなく無事に済んでよかったわ……」

 お茶会も無事に終わり、最後のゲストを見送った。

 賑やかだった屋敷にも静けさが戻り、心の中に残ったのはささやかな達成感。

 これで両親に託された仕事は無事に済んだ……わけでもないわね。まだ夜会が残っている。母が準備をするとは言っても、今日は一日手助けをしてもらったので知らないふりなんてできないから、言われなくとも母のサポートを精一杯務めようと大きく息を吐いた。

 バルコニーへ出て、暮れていく空を見上げる。日の光はもう大地の境に降りていて、ほのかな残り火が空の際を照らし天上から濃藍のカーテンが星の光を纏いながら降りてくる。

 昼から夜へ移り変わる空をぼんやり眺めていると、後ろから足音が響き耳へ届く。この足音は、きっと彼。

「お疲れ様、リズ。初めてのホストの感想は?」

 ほら、当たった。

「招かれる方が確かに気は楽だけど、招く側も案外面白かったわよ」

 振り返ればティーグラスを手にしたカイルが立っていた。そのグラスの中には茶会でとても好評だった冷たいローズヒップティーをオレンジの果実水と蜂蜜で割ったもの。

 受け取ると、指先に感じる冷たさが心地よかった。

 グラスの横から覗き込むと目に映るのは少し前、空を彩っていたような鮮やかな夕焼け色。

「あなたは退屈だったでしょう。ナイジェル様と喧嘩せずに仲良くできていて?」

 本日は2人とも屋敷の自室にこもってもらっていた。揃ってお茶会に参加したいと言っていたのだけれど、母とソフィア様に久しぶりに再会を果たしたご夫人方の間でかなりの盛り上がりを見せたのだから、カイルとナイジェル様まで来られたら令嬢たちが暴走して収捨つかなくなりそうなんだもの。

 そんな上級者向けのイベント、社交界初心者の私じゃ収捨つかなくなるでしょう? もう潔く最初から白旗上げるわよ。

 耳聡い令嬢たちは当家に2人が滞在していることを知っているようで、何度も探りを入れられたけれど、その度に抜けられない会合へ参加をして今は不在だと伝えていた。

「大変だったよ。変装すればいけるんじゃないかとか言って、抜け出そうとするんだから。……まあ、ある意味仲良くはできてたと思うよ。腹を割って話すにはいい環境だった」

「……ならよかった。相変わらず悪戯好きなのね、でも多少の変装じゃ隠しきれないでしょう? そもそも女性のみの参加だったし」

 まあ、2人がドレスアップされたら、ナイジェル様は迫力のある美女に、カイルは清楚せいそな美女になってしまいそうではあるけれど。そこまで思い切った変装じゃないわよねと湧き上がりそうな妄想を抑えながら、グラスに満たされた夕焼けを飲み干した。


◆◇◆◇◆


 準備に関わらなくてもよいと母から言われたので手持ちの仕事を片付けながら、自分の仕度の方に専念する。

 ドレスにアクセサリー、それと靴。

 夜会のドレスも手持ちのドレスをレナードに手を入れてもらっている。アレンジを施すためのデザインが決まると、体に合わせながら私自身をトルソーにしてドレスの仮縫いに入ってもらう。

 肌の調子を整えることも仕事のうちだと、できる限り睡眠時間を確保して美容のためのマッサージや運動。肌によい、深い睡眠を呼び込むなど美容に効き目があると評判の食事を取り入れ、むくまないように水分量の管理と体を整えるあらゆることをしていった。

 それでも寝付けない夜はあるもので、ベッドの上をゴロゴロしていても無駄だと感じた私は夜着の上にショールを羽織ると、そっと部屋を抜け出して庭を目指す。

 静かな廊下を通り抜け庭先へと出てみると、少し遠いところから私を呼ぶ柔らかな声が耳へと届く。

「リズさんも寝付けないの?」

 庭園の東屋に小さなランプの光と、ソフィア様の姿が見えたので私も足を向ける。

 月は丸く満ち、庭園は明るい月の光が降り注いでいて危なげなく歩くことができたから、東屋へ転ぶことなく辿り着くとソフィア様の隣に腰を下ろした。

「……はい。『も』と言うことは、ソフィア様も、でしょうか?」

「ええ、でもこんな綺麗な月夜を見られるのだから、たまになら眠れないのもいいことね」

 月の光に照らされ微笑んでいるソフィア様は、月の女神様のよう。

 ……カイルの言っていた「苛烈さ」なんて微塵も感じたことはないのだけれど、この方が声を荒げる様子なんて本当に想像もできない。

「あの子ね、ずいぶん変わったようでリズさんも驚いているかしら。あなたの婚約が決まった頃から領地に引きこもろうとしていたのよ。あなたの住まうことになる王都へも足を踏み入れたくないとまで言っていたのに」

「え?」

 私、カイルはお父様の喪に服していたから私の家にも足を向けないのかと思っていたけれど、私のせいだったの?

「……私、そんなに嫌われていたのでしょうか?」

 微塵も考えたことのないことだったけど、いろいろな人から鈍いと言われ続けている自覚はあるので、嫌われていることにすら馬鹿みたいに鈍感だったのかも……。私がいる場所に足を踏み入れたくないほど嫌われていただなんて……。

「ああ……違うわ、違うの。あの時はあなたに求婚できない立場なのにそんな気持ちを向けることなんてできないから、遠くであなたの幸せを想うだけでいい、とか言っていたのよ」

 あの子も私や王家、そして親族や家臣たちの心を気にして自分を押し殺していたのよ、とソフィア様は続けて小さく呟きを漏らした。

 前の生の時、そういえばカイルからの手紙はいつもリューベルハルク領から届けられていたわ……社交シーズンは王都に来ているのかなと思っていたけれど、他の地方貴族がそうだというだけで、私はそれを確かめる術を持っていなかったから……。

「でも春先にどうしても直接王都へ行かないとならない事案ができてね。ちょうどいい機会かと思って、渋るあの子に引き継がせて無理やり王都に送り出したの。そうしたらそのまま王都に居ついてしまうのだもの」

「そうだったのですね。でも……そのおかげでカイルにはたくさん助けてもらいました」

 春先に偶然再会した彼は、事業の関係で王都に来ていると言っていたことを思い出す。あの再会がなかったら、彼はそのまま領屋敷へ帰ってしまったのかしら……私と再会したことがきっかけだなんて思いもしなかったけれど、あの日、私の踏み出した小さな選択がカイルの選択にも変化を与えたのだと思ってもいいの?

 アリスのお茶会や、一人で参加するしかなかった王宮舞踏会も、彼が手を差し伸べてくれた。

 あの妖精たちの夜、帰りの馬車の中で盗み見た彼は、私が選んだ花の指輪へ愛おしそうにキスをしていて……。

 そして故郷への里帰りを果たしたあの日だって。


『君の前で膝を折る次の男になる権利くらい、手に入れてもいいじゃないか』


 ああ、あの時の私はどう答えていたのだっけ?

 恋愛の経験値がないから?

 恥ずかしいから?

 たくさんの言い訳を重ねて、私は彼の心を真正面から受け止めていたと胸を張って言えるの?

 周りの目を勝手に気にして、きっと反対されるに違いない、冷たい目で傷物のくせに彼へ縋りつく恥知らずだとなじられたらどうしようって、前の時みたいに目を閉じて耳を塞いで傷つきたくないと心を塞いで自分だけを守ろうとしていただけ。

 何が『前の時と私は違う』よ。全然変わっていないじゃない。

「……泣かないでちょうだい」

 ソフィア様の言葉で自分が泣いていることに気付いた。視界が歪んで、濡れた頬に当たる夜風が冷たい。

「何も心配しないでいいのよ。……あの子のことも親としてできることなんて少ないけれど、それでもできる限りのことをするつもり。……もちろんあなたの心があの子と同じ場所に進んでいる場合だけどね。違うなら遠慮せずに振ってあげていいから」

 それでもカイルがわがまま言うならお尻を叩いて叱ってあげるとなんとも頼もしいお言葉と、今の彼がソフィア様の膝の上でお尻を叩かれる姿を思わず想像してしまって、小さくだけど噴き出してしまった。

「ソフィア様。カイルは……いつだって彼は私にやさしいです」

 初めて出会ったのは確か、この庭園の中の東屋だったと思う。私の名を呼んだ柔らかな声も眩しいほどのやさしい笑みも昔から何一つ変わっていない。

 あの前の生の時も、彼の贈ってくれた小さな押し花が私を支えてくれていた。でも……こんな弱いだけの私は変わらないといけない。

 憎しみと絶望で過去を見つめるだけではダメ。

 過去から逃れるためにあがいて足元を見つめることしかできずに、今に立ちすくんでいるだけでもダメ。


『また来年も一緒に』


 当たり前のように私の背中を押して未来を見つめてもいいのだと、一緒に踏み出そうとしてくれるカイルの隣に胸を張って並べるように自分ができることをしよう。

 舞踏会のあと、侯爵家を訪ねられた際にナイジェル様が示してくださった私の未来へ繋がる選択肢。どれを選ぶのかはもう決めてある。

 あの時絶望と引き換えに失ってしまった私の未来を、自分の意思で掴み取らなきゃ。


◆◇◆◇◆


 もしかすると私がこの屋敷で生まれてから初めてじゃないのかと思うくらい本格的で盛大な夜会が開かれた。

 事業の方が楽しい母は辺境伯夫人になってから当然夫のあと押しもあり、王都にいた頃よりも事業をさらに熱心に展開していた。

 かける時間の比重がほぼ事業に集中していたから、伯夫人としての社交活動にはさほど力を入れたことがなかったけれど、それは決して『できない』からというわけではない。

 王都時代には社交界の中心に立ち、今もなお貴婦人の流行の仕掛け人としても名高い母。薔薇の中の薔薇と呼ばれることが理解できる華やかな夜会は、当分の間語り草となるに違いない。……母の本気はかなりやばいと痛感した。

 私のドレスはお茶会の時と同様、レナードに手持ちのドレスのアレンジをお願いしていた。けれど、気が付けば母の仲介の元ロゼウェルの仕立ての大店の職人の中で一番腕の立つ古株の職人や、大陸との生地貿易を取りまとめている商会を巻き込んで仕立て直されたそれは、王都の舞踏会で纏ったものよりも素晴らしい出来になっていた。

 仮縫いの時には全くと言っていいほど気付けなくて出来上がったドレスを前にぜんとしていれば、サプライズって重要よねと言う母の言葉に二の句が継げない私がいた。

 父の頼みもあり、エスコート役はもちろんカイルのまま。

 カイルの礼装にもいつの間にかアレンジが加えられていて、私のドレスに使われている生地やレースがさりげなく付け足され、襟元に同じデザインの刺繡が施されたものだから、最初から私のドレスと対で作られたかのような衣装へ生まれ変わっていた。

 そしてドレスと共に私の胸元を飾る首飾りは、王妃様が名付けてくださったアクアティアを散りばめたロゼウェルの宝飾職人の渾身こんしんの作。

 対のデザインになっているイヤリングに使われている宝石が蜂蜜色の琥珀なのは、母が言うにはサプライズなのだろうけど、父とカイル的には虫よけなんだろうなあ……。


◆◇◆◇◆


 夜会も大きなトラブルもないまま、無事に終わりを迎えられた。

 これでロゼウェルでの全てのスケジュールが無事終わったことになる。

 今回のドレス制作に協力してくれたロゼウェルで一番の職人がレナードの腕を認め、商会長たちへ推薦してくれたとのことで、街一番の大店にとてもいい待遇で雇い入れられ、ユーリカもまた針子の腕を買われ、同じ店に雇われたと2人揃っての報告を受けた。

 私のドレスを見た令嬢たちから、既に名指しでドレスの仕立てを注文されているという。

 新しい流行と技術が集うこの港街の中、腕のいい職人たちに揉まれ切磋琢磨せっさたくましていくのなら、きっと彼はこの街で立派な仕立て職人に成長することだろう。

 つらいこともあるだろうし悪いことに誘惑されるかもしれないけれど、しっかり者のユーリカが傍にいるなら何も心配することはないと思う。……でも、ユーリカを泣かせたりしたら今度は許さなくてよ。


 夜会のあと、カイルは王都へ戻るナイジェル様の馬車に押し込まれたので一足先に王都へ戻っているはず。ソフィア様も息子カイル甥っ子ナイジェル様を見送ったあと、隣の領地へお帰りになられた。

 そして私も秋の社交シーズンが始まる前に、王都へ戻るための準備をしている。

 前回、ここから王都へ旅立った時は本当に身の回りのものを最低限運んだだけなので、今回はドレスやアクセサリー、本や小物など、私を形作っていた大好きなものと一緒に戻るための荷造りに励んでいる。

 次にこの屋敷へ訪れるのは来年の夏のバカンスだろうから、残った荷物の整理も兼ねての大掃除をするためにクローゼットルームの奥に仕舞い込んだままの荷物を引っ張り出しているところ。

 ついつい中身を覗いて検分してしまうせいで、昔を懐かしんでしまうからなかなか進まないのだけど、そろそろ本気を出して片付けないと……。

「あのぉ~お嬢様。奥の方に衣装箱がありますけれど確認いたしますか?」

 奥から侍女が運んできたものはほこりが積もる古びた木製の衣装箱。周りに描かれている花模様がくすんでいるので、かなり古いものだと見た目で分かる。……玩具箱かしら?

 いつ頃のものなのか、自身でしまった覚えがないのでたぶん当時の侍女がサイズの変わった衣服をしまっておいたのかもしれないわ。知ってそうなのはマリアあたりなのだけど、彼女は王都へ戻る前に子供さんたちと少しくらいゆっくり過ごしてきてと休みを取らせたので、この場にいない。

「そうね、とりあえず衣裳部屋の外に出しておいて。あとで確認するから」

 流石に子供時代の荷物じゃ今使えるものではないだろうから、とりあえずあと回しにしておこうと指示を出し、クローゼットの中の荷物に集中する。

 ドレスを王都へ持ち運ぶものと、引き取り手を探すものに仕分けする方を優先しないと……。

 そんな頑張りもあって、クローゼットルームは眠る前にはだいたい片付いた。

 王都の方へ運ばない衣類や雑貨、アクセサリーなどはお古として家門の令嬢や子供たちに差し上げたり、孤児院の寄付を集めるお祭りの売り物にしてもらったりするつもり。あとの手続きはこの屋敷の家政婦長のノーレに頼んでおいたので、いい感じに処理してくれると思う。

「さて、あとは王都に戻るだけ……ああ、そうだ。これが残っていた」

 侍女がクローゼットルームから発掘した古びた花柄の衣装箱が、部屋の片隅にぽつんと置かれたまま。

 その箱の中身を改めるため、明かりがよく差し込むように部屋の真ん中に置いてあるティーテーブルの上に載せて蓋を開けた。

 箱の中身は2歳か3歳の幼い子供サイズのドレス。お出かけ用なのかな、普段使いにしては手の込んだ衣装だけれど……。

「……私のもの、よね? 全く思い出せないけど。他には何があるのかしら」

 この家の子供は私一人。もちろん父に愛人なんているわけもないし、事故で忘れてしまった時期のものなのかしら。

 数着ほど重なっていたドレスを1着ずつ丁寧に取り出していく。そして一番底に近い場所、ドレスの下にまるで隠されるように置かれていたのは2匹のウサギのぬいぐるみ。瞳はヴァイオレットサファイヤとブルーサファイヤと、1匹ずつ違う石を使って作られていた。

 ぬいぐるみが着ているドレスも手の込んだ一点物だと分かる、丁寧に作られた可愛らしさ。

 なのに、小さな子供が持ち運べば汚れやほつれが1つや2つあるものだろう……でも、そんな子供が遊んでいた形跡がどこにもない。まるで新品のまま、この中にしまい込まれたよう。

 久しぶりの世界を見たウサギの青の瞳が、喜びにきらめくように見えた。

「可愛い……あなたたちも王都に行きましょうか」

 箱の中からヴァイオレットの瞳のウサギを取り出して胸に抱きしめる。どこか懐かしいやわらかな感触に口元が綻ぶ。鼻先を近づけたら、埃の匂いの中に優しい薔薇の香りが微かにした。

「そうね、私の部屋のベッドの棚の上なんてどうかしら。まだお人形とか一つも置いていないから、あなた方に特等席を用意してあげてよ」

 どことなく殺風景だった王都の侯爵邸の私の寝室を思い出しながら彼女ウサギに話しかけた。薔薇に話しかけたと私を揶揄うカイルを叱ったはずなのに、この子を見ていると自然と言葉が出てしまう。

 箱に潰されたりしないようティーテーブルの傍にあった椅子の上に彼女を座らせてから、まだ箱の中にいる明るいサファイヤの瞳のウサギの彼を取り出そうと手を伸ばした。

 ウサギの彼は彼女より重く感じたので不思議に思ってしっかりと抱えてみたら、服の中に固いものが入れてあった。

 なんだろうと思って取り出してみると、装飾のない少しびている小さなナイフが一つ。

「……これって、鍛冶屋の見習いさんが最初に練習して作るものよね。そうだ、私……鍛冶屋のおじいちゃんに欲しいってねだって」

『おまもりなのよ』

 小さな私がそう告げて誰かにあげたもの。

 誰なのか思い出せないけれど、とても大事な人だった気がする。

「……今はあなたのものなのよね。お返しするわ」

 ウサギの彼女の傍らに彼を座らせる。

 そのウサギの彼の膝上に小さなナイフをそっと置いてあげると、彼の顔はどことなく騎士のように凛々りりしく見えた。

 王都に戻ったら、この子たちの新しい衣装も仕立ててあげよう。

 前の時は重苦しくて引き返したいと願っていた王都に今は早く帰りたいとすら思うのは、きっと彼が待っていてくれる場所だから。


「お父様お母様。私、王都へ帰りますね。また会う日までお元気でお過ごしください」

 今日もロゼウェルは晴天。

 バカンスの間ずっと一緒にいたせいなのか、澄み渡る空の青を見るだけで寂しさを覚えてしまうくらい、彼の青が恋しい。

 こちらに来た時と同様に荷物を積み上げ、帰省と休暇を満喫した騎士や使用人たちと共に王都へ向かって移動を始める。バカンスの帰りは行きとは違い、ロゼウェルを発つ時期はそれぞれ家や仕事などの状況次第になるので、王都を出た時に比べれば混雑も少なく快適な馬車の旅となった。

 せっかくなので行きとは別の宿場町を選んで街の様子を見学しながら過ごしたり、町の代表者たちの歓待を受けたりしながら王都へ向かって馬車を走らせた。

 ロゼウェルでお茶会に参加してくださった方々にも街道や宿場町、途中にある休憩所などの点在するさまざまな施設の使い心地や旅程で感じた意見など聞かせてほしいとお願いしたので、それも楽しみだったりする。同じ旅程でも旅慣れている方、初めての方と感じ方は人それぞれだろうから、いろいろな立場の方のお話を聞かせてもらえるといいな。

「先に戻ったカイルとナイジェル様は大人しく馬車に揺られて戻られたかしらね……」

 馬車を降りて街の中を散策する時ならまだしも、似た景色が延々と続くだけの馬車の中はそれなりに退屈で、ぼんやりしながら取り留めもないことを考えては口走る。

「今のところ、そんなお話は滞在した街では聞いておりませんから、大人しくされていらっしゃるのでは?」

「行きがお2人揃って、荷を積んだ馬車と従者を置き去りにした早駆けだったのだもの。目を離すと無茶しているのではないかって心配になるのよ」

 似ているのは顔だけだと思ったら、別々に出発したのに同じことを選択するなんて、性格や行動までほんと従兄弟同士なだけあるのか本当にそっくりなのだもの。

 それを言うとカイルはすごく嫌がるのだけど、ナイジェル様の婚約者への溺愛めいた対応とか、ものすごく身に覚えが出てしまうくらい似ていると思うの……。

「男の子というのは得てして、そういう生き物でございます」

 マリアからすると、あの2人はいまだに男のなのね……。

 マリアも男の子の親の経験者でもあるから、小さな頃の突拍子もない行動や悪戯のエピソードの数々はよく聞かせてもらっていたものね。発言がもう達観しているというか、悟りの境地というか……。

 ……いえ、思い出しているだけなのにものすごく遠い目をしている……諦めの境地かしら。


◆◇◆◇◆


 行きよりも幾分速いペースで、私たちを乗せた馬車は王都へ到着した。

 距離もあるから往復の旅程含めて、2カ月近く王都を離れていたことになる。

 王都の大通りの街路樹たちは赤や黄色に色づいたドレスをまとい始めてすっかり秋模様となっていて、風が枝葉を揺する音もにぎやかになってきたので、もうじき落ち葉の季節へ移るはず。

 過ごしやすくなったので、仕事も社交もはかどりそう。……ドレスって重ねたり重ねたりで……夏場って本当に大変なのよね。

「奥様、お帰りなさいませ。無事の到着大変嬉しゅう感じております」

 侯爵邸に到着したので馬車を降りると、私の目の前に家令のアンドルを先頭にお留守番を任せていた使用人と騎士たちが綺麗に並んで出迎えてくれた。

 そのあと、騎士たちはイスラ卿の下に、侍女やメイドたちはマリアのもとへ集い、場所を移して留守の間の報告や連絡事項を伝達し合い始めたようだ。私もアンドルからの報告を受けるため屋敷へと足を向けた。

「まずは王都にて展開されているロゼウェルの商会の支店からの報告でございます。どの店にも大きな問題点もなく……細かなことはこちらの書面に記してありますので、のちほど目を通しておいてください」

 椅子に座ったところで、アンドルがよどみのない口調で報告を始める。書類を受け取り軽く中身を確認してから机の脇へ置いた。王都の支店はバカンスに入る前、王妃様と数名の高位貴族のご夫人方から秋の社交界に向けたオートクチュールドレスのオーダーを受け、休みの間はそれらの制作に取り組んでもらっている。

 今は、バカンスを終え王都へ帰られた夫人たちが順番に仮縫いやフィッティングに入ってもらっている頃かしら。

「暑い中を頑張ってくれたようで本当にありがたいわ。近いうちに店の方へ顔を出すと伝えておいて」

「分かりました。……あと、奥様宛にお手紙が届いております」

「あなたが言い淀むだなんて珍しいわね。構わなくてよ、見せてちょうだい」

 アンドルが歯切れ悪く申し出るのを珍しく感じながら手紙を受け取ろうと手を差し出すと、彼は内ポケットから一通の封筒を取り出して私へ手渡した。

 差出人を確かめるために封筒を裏返す。アンドルが既に中身をあらためていたのか封蝋ふうろうは解かれていたので、そのまま中の便箋を取り出して文面へと視線を落とす。

「あら、珍しいこと。お義父様……前侯爵からではなくて」

「奥様が実家へ戻られるため留守にされてからすぐに届いたものですので、そちらに届けることもできたのでございますが……ご家族との楽しい時間に水を差す真似をする気が起きず、お帰りまで留め置いておりました。奥様の代理として中身は検めておりましたのもあり、早急に対応が必要なものでもありませんでしたので」

「あなたの判断に任せると言ったのは私だから、それについて謝る必要はないわね。……気を遣ってくれてありがとう。おかげで楽しく過ごせたから、感謝するわ」

 手紙には『王家主催行事、秋の狩猟祭の時期に合わせて前侯爵夫妻で王都へ参じたいので都合を聞きたい』と記されていただけなので、特に何かをするためではなく遊びに来られるだけなのかしら。

 狩猟祭は、夏の始まりの舞踏会に並ぶ大きな行事。作物の収穫を終えた秋の終わりに開催される行事だから、まだ少し先の話なのは確かなのだけれど。

「前侯爵夫妻がこちらに来られるのなら、こちらとしても都合がいいわ。そうでなければ私が向こうへ行くつもりだったのだから」

「……奥様?」

 きっと歓迎したくないと顔に出すくらいには嫌がると思っていたのね。便箋を封にしまいながら呟いた私の言葉を聞いて、アンドルが不思議そうに首を傾げた。

「じき、ローズベル辺境伯……私の父から辺境伯家当主代理としての委任状が届くから受け取っておいてちょうだい。向こうを出る前に受け取りたかったのだけど、いろいろと忙しくて」

「分かりました。受け取りましたら、すぐ奥様の元へ届けましょう」

「ええ、お願いね。家同士の話だから私の意思だけというわけにいかないのは本当に面倒なのだけど、契約事なのだから仕方ないわ。でも、お忙しいお父様にこちらへ来ていただくのも気が引けたから」

 私の大事な故郷でしたい話ではなかったので、前侯爵夫妻をロゼウェルに招くという考えは、まずなかった。

 お父様は交渉時に私の元に来たがってくれたけれど、王都にはカイルやナイジェル様たち、前の生ではいなかった私の味方になってくれる人がたくさんいる。それに、アバンと交渉するわけではないから、家の体面を守るためにもおかしな真似はされないでしょう。ただでさえあのお2人はプライドの高い方だし。

「まだ口外するのは控えてね。実務面を担うのは家令のあなただから先に話しておくわ……私、アバンと離婚することに決めたの」

「左様でございますか」

 あれ……反応薄くてよ?

 私としては一大発表のつもりだったのに、予想に反してずいぶんあっさりとした塩対応に次の言葉が出せずに目を丸くしていると、アンドルは右目にかかるモノクルの位置を片手で直しながら話し始めた。

「どちらかというと、ようやく……いや、今さらのご決断と言いたいところではございますね」

 やれやれと言いたげに肩をすくめて見せるアンドルへ、視線を向ける。

「王都……いえ、この国の者は誰も疑問に思うこともなく、奥様はあの馬鹿……失礼。この家との婚姻を破棄されるものだと思っておりますよ」

「あなたたちにはすまないことをしたのかもと思っているのよ。こんな遠い場所に越してきてもらったのに」

 1年くらいでまた帰郷することになるとは思わないのではなくて? ここでの生活にやっと慣れてきたところでしょう、と少しだけ眉を下げて答えた。

「おや……どうしてそのようなことを? このような環境に奥様を留め置いておきたいものなど、辺境伯家の人間ならなおさらいるわけがございません」

「『奥様』呼びもやっと馴染んできたところだったのにね。もうどうせなら戻してしまってもいいわよ。ロゼウェルじゃ混乱しちゃってお嬢様に戻っていたのだし」

 私と母、どちらも奥様だったので私を奥様と呼び母をデルフィーヌ様もしくは伯夫人と呼ぶことにした王都遠征組と、私をお嬢様、母を奥様と呼ぶ実家組が入り乱れた結果、王都組も結局のところほぼ元辺境伯家の使用人だったため混乱しきり、とてもカオスな状況になったことを思い出した。

「いえいえ。すぐに奥様とまたお呼びするようになるだけでしょうから。変える意味などございませんとも」

 そちらの方が手間ではありませんか、とアンドルが返す。

「え?」

「ああ……妃殿下と敬称が変わるかもしれませんね」

 常に飄々ひょうひょうとした笑みを浮かべているアンドルがさらに笑みを深めながら告げた言葉に、鈍い私でも流石に彼の言いたいことを理解して頬が赤く染まる。

「私としましても辺境伯家から侯爵家、そして大公家へ奥様の許しで仕えられるのでしたら栄転みたいなものですので、歓迎いたします」

 と、相も変わらぬ慇懃な態度のまま私にとどめを刺してくれたあと、軽やかな足取りでアンドルは仕事へ戻っていってしまった。

 舞踏会の翌日、屋敷を訪れたナイジェル様が提示してくださった選択肢は3つ。


『3年後、白い結婚を申し出ての婚姻自体を白紙にして辺境伯家に戻る』

『同家門係累の未婚男性を当主に迎え、婚姻を結び直しロッテバルト侯爵夫人のまま過ごす』

『離婚したあと、叙爵して女当主として生きる』


 ……全部スルーしてみんな、私が選ぶ未来は『大公家との婚姻』だと思っているわけなの……? 叙爵して新しい家門を起こすとかだって、事業家としても名を上げた私らしいと思うのだけど。

 いや、今なら私だって……そうだといいなぁー……くらいには思うようになったのよ? でもそれだって、本当に最近そう思えるようになったばかりなのに……。

 そのまま机の上に脱力していたのだけれど、とりあえず書類の処理は進めておこうかと誰も見ていないのをいいことに、机へ上半身を投げ出したままの姿勢でアンドルが置いていった書類に目を通し始める。

 王都に戻ってきたばかりだから、しばらくの間……ううん、今日明日だけでいいからのんびりしようかしら。

「みんなにはもっとゆっくり体を休めてもらわないといけないわね……流石に一度に休まれると屋敷が回せないから交替しながらになっちゃうけど。馬車に揺られた子たちはもちろん、こっちに残った子たちも少ない人数で切り盛りしていたのだろうし。マリアだってもういい年だもの、無理していたら倒れちゃう」

「それはそれは、お気遣いありがとうございます」

 あれ?

 扉の音聞こえなかったのだけど……。突然降ってきたマリアの声に呟きが止まる。

「奥様! 人目がなくても、だらしなく過ごしてよいことなどないのですよ! なんという恰好なのですか、みっともない!」

「ごめんなさい!」

 マリアのカミナリを聞いて弾けるように机から起き上がると、執務机の前に来ていたマリアと視線が合った。

「お疲れなのは分かりますが、若い者たちの教育にも悪いのでお気を付けくださいませ。……着いた早々お仕事なんてなされるからでございますよ。ほら、お部屋に戻ってそちらで存分にお寛ぎください。お部屋の方にお茶の準備もさせてあります」

 ほらほら、と言いながら手の中の書類を取り上げ、私を立ち上がらせると問答無用に背を押しながら退室を促した。

 そして2日ほど執務室に立ち入ることをマリアに止められ、部屋の中でゆっくりと体を休めることに専念する。

 常日頃から忙しさに慣れてしまった私が何もしない時間を過ごすことは思うよりも難しくて、休みを取っていた侍女たちがお茶を一緒にと誘ってくれ、退屈さを紛らわせてくれた。本当にうちの子たちは優しくて主人想いの自慢の侍女たちなのだ。

「リノール通りから広場に出るところに、新しいカフェができたそうですよ」

「私、先日のお休みの日にそのお店で食事をしましたわ」

「でもあの店は一人では入りづらくないですか?」

「……一人ではありませんでしたから」

「まさか、ご近所の伯爵家の侍従の方と恋仲になったという話は本当なのですの?」

「恥ずかしい、知っていたのですね」

「私も騎士団のラウド卿とお付き合いしたいですわ」

「わたしはクイン卿が素敵だと思います。笑みがとても爽やかで」

「素敵と言えば、新しくできた雑貨店に可愛らしいリボンが……」

 流行りのお菓子にカフェ、可愛らしい雑貨類。誰が誰と恋をした、あの方が素敵。

 疲れているので聞き役に徹したいと告げた私の願いを、きちんと聞いてくれる彼女たちの輪にそっと入らせてもらう。年頃も近い娘同士が集まれば話題は尽きることもなくお茶の席に花を咲かせ、賑やかだけど穏やかな笑顔にあふれた時間が体と心をやしてくれた。

 そういえば騎士団の若手の騎士たちや侍従たちの名はずいぶんと上がったのだけど、アンドルの名は出てこなかったわね。

 優秀だし見目も悪くないし、あの年で侯爵家の家令になったのだから将来性もあるのになあ。

 身近過ぎる上司だからかしら……。

 うん、きっとそう。……そういうことにしておこう。

 モノクルを怪しく光らせ楽しげに笑う彼を思い返しながら、言及するのは控えた方がいいと頭の中で警鐘が鳴ったので、言葉にすることはなかったけれど。

 ……私の選択はきっと正しい。