「まあ、この陽気だからほっといても乾くと思うよ。御者台は風通しがいいし……しかし、ほんとずぶ濡れになってるな。少しは絞らないと君まで濡らしてしまいそうだ」
「ならいいけど……っちょ! もう!」
彼が海から運んでくれた帽子を受け取るために近寄る。
彼はそのまま何気ないしぐさで濡れて重くなったシャツの裾をまとめ持って絞り出すものだから、
恥ずかしくて反射的に手のひらで顔を覆ってしまったけど、指の隙間からしっかり見てしまったことは、お墓まで持っていく私だけの秘密にしたい……。
シャツはまだいいとしてズボンは脱がないと絞れないことに気付いた私は、彼に少しだけ待ってと告げたあと、脱ぎ捨てた靴を拾い、履き直してから斜面を登り馬車へと急ぎ足で向かう。馬車の中に畳んで置いた敷布やランチやカトラリーを包んでいた
「気休めにしかならないけど、これをどうぞ。絞るにしても脱いでいる間そのままじゃ……困るでしょ」
とりあえず敷布を腰に巻いて肌を隠して、と持ってきたものを彼に渡して再び彼に背を向けて斜面に咲く薔薇へ視線を向けた。……何が困るってこのままだと私の心臓にいろいろ危機が訪れそうなのよ。
過去も今現在だって、男の人の裸なんてちゃんと見たこともないし。
辺境伯家の騎士たちだって夏場の訓練時はずいぶんラフな格好だったりしたけれど、それは普通に武器とか危険なものがたくさんあるから危ないって近づくことはできなかったからなあ……。そういう免疫がないからカイルが本当に心臓に悪い。
広がる薔薇の斜面を眺めながら、時折彼の露になったお腹を思い出しては顔に熱がこもるのを感じてめまいがする。その度無心になろうと足を動かした。
小道には登らず斜面の裾を歩いては、綺麗に咲く薔薇たちを愛でる。きっと初めて人の瞳に映りこんだだろう咲いたばかりの薔薇たちは、恥ずかしそうに風にそよいで揺れている。
「落ち着くの。落ち着くのよエリザベス。カイルはただこの見事な景色を私に見せたかっただけなんだから」
彼と2人きりという事実を頭の中から追い出すように小さく呟いた。
お茶会のせいで煮詰まっていた私を気分転換に誘ってくれたやさしさを感謝して受け取り、いつものように振る舞いながら帰らないと、また侍女たちの間で勝手なロマンスを想像されかねない……なんて考えながら揺れる薔薇の花弁を指先で撫でてみる。
風に乗ってふわりと薔薇の香気が匂い立つ。その香りに呼び起こされるように考えが一つ脳裏に浮かんだ。
土地や街の名、そして辺境伯家の家名お茶会の会場になっているサロンに面した庭園にも、会に合わせてつぼみが開くように庭師たちが苦心してあれこれ調整してくれている薔薇があるので、一番の見ごろを迎えながらお茶会が開けると思う。
でも薔薇を楽しむ方法は見るだけではないのよね……。その香りと美容効果から化粧品の材料として広く使われるうえ、食用にもなるので女性には割と身近な存在。
招待している令嬢や夫人たちの住むどこのお庭にも当たり前に育てられているし、こだわりを持つ方も多いから女性にとってはとても話題に上げやすい。
こんなにも街の名前と合わせて連想しやすいものを、どうして思いつかなかったのだろう。
「……自分でも思っているよりずいぶんと煮詰まりすぎていたということね」
初めて登った御者台からの景色や裸足の感触に、思うまま大きな口を開いて齧り付いたサンドイッチ。そして誰も知らなかった秘密の薔薇の丘。
最後に起きたハプニングが私の頭の中を一番真っ白にしたような気もするけれど、どれもカイルがいたからこその話だわ。
「よし。せっかく思いついたのだから、忘れないうちに戻れるかしら。料理長たちに相談してみなきゃ」
「なんの相談だい?」
薔薇の花をよく見ようとしゃがみ込んでいた体を起こしたちょうどそのタイミングで、離れている間にずぶ濡れからしっとりくらいまで改善されたカイルが背後から私を覗き込むように屈み込もうとしていて……。
砂地に素足の彼の足音なんて全然分からなくて立ち上がる勢いを止められるわけもなく、私の後頭部が彼のあごにゴツンと音を立ててぶつかった。
そして後頭部に受けた鈍い痛みと、背後から「うぐっ」と漏れた彼の声に慌てて振り返る。
「きゃあっ! ご……ごめんなさいっ。後ろにいたのに全然気が付かなくて」
「あはは……大丈夫だよ、君こそ怪我はない?」
顔の下半分を手で覆うように押さえながら彼が答える。
「私は平気。あなたこそほんとに大丈夫? 口の中を切ったりしていたら大変よ」
見せて、と告げながら彼に向かって足を前に踏み出した。
怪我をしても原因を作ったのが私なら、カイルは絶対我慢してしまう。だから私がしっかり確かめないと、という使命感めいた気持ちだけで体が動く。
彼は彼で私の行動に驚いたように目を見開くけど、驚いたせいなのか顔を押さえていた手は本当に添えていただけのようで、私はその手を横に押して彼の口元をしっかり見ようとして
「リ、リズ……ちょっ……」
「いいから見せなさい! ほら、口開けて」
彼の頬に両手を添え、口を開けと迫る。彼が顔を真っ赤にしながら薄く唇を開いたのを見て、逃げられないようにと無意識に頬へ添えた両手に力がこもる。そして口の中を覗き込もうとして爪先立ちになるほど踵を上げた。
絨毯の上だったらそのままの姿勢を保ち、目的を遂げられたかもしれないけれど、ここは不安定な砂の上。
爪先だけで立ったままの姿勢なんていつまでも保てるわけもなく、そのままバランスを崩して前のめりに倒れ込んだ私。私の勢いに腰が引け気味だったのに、目の前に迫った私の体がふらついたのを見て支えようとカイルが反射的に腕を差し出してくれたのだけど、体勢が悪かったせいか、彼もまたバランスを崩して後ろ向きによろよろと歩いたあと、私を抱え込むようにして尻もちをついて転んでしまった。
急な落下の動きに驚いて思わず目を
──そして倒れ込み重なり合ったまま、ほんの一瞬だけ唇に触れた柔らかな何か。
恐る恐る目を開くと、これ以上ないほど間近にありすぎてぼやけて映る、真っ赤に頬を染めたカイルの顔。
もしかしなくても……私、カイルの上に乗っちゃってる? 唇に触れたのって……カイルの……まさか、違うわよね……?
状況を理解した瞬間はじけるように上体を起こし、両手で顔を覆い隠しながら天を仰いだ。
さっきまで彼の頬に触れていたから当たり前なのだけど、手のひらにカイルの体温が残っているものだから、なんて大胆な恥ずかしい真似をしていたのと自覚すればするほど湯気が出ているのではないかと思うくらい頬が
……顔を覆っているこの手を、一生外せないかも。
「……あー、驚いたけど僕が下になってよかったよ。怪我はない?」
こくんと頷きで返事をする。
「僕も怪我はしてないから、安心して」
さっきまでの私の心配を取り除いてくれるように、柔らかな声が耳に届く。
もう一度頷くけれど恥ずかしくて彼の顔が見ることなんてできないから手は顔を覆ったままだったけど、カイルの手が顔を隠したままの私の手の甲にそっと添えられた。
「リズも……ちゃんと顔を見せて?」
手の甲に触れていた彼の手が動いて、私の手首を軽く掴む。
そして彼の手の動きに従うように私の手は顔から離れてしまう。耳の先まで真っ赤になっている顔が彼の瞳に映し出されているはずで……。
恥ずかしすぎて彼の顔をまともに見られず目を逸らしたままだけれど、私の顔へ当たるカイルの視線を感じて耐えられずに目を閉じてしまう。
そして彼の顔が近づいてくる気配を察して、緊張で体が強張った。待って、待ってカイル……このままじゃ……。
かぷり。
息を飲んだ瞬間、鼻先に何かが触れた。
「さっき齧られたお返し」
聞きなれた彼の
──じゃあ倒れた時、唇に触れたのは彼の鼻先だったのね?
彼の言葉を聞いてカイルの唇を奪ったわけじゃないと知れば、ホッとして体の力が抜けていく。
「さあ、そろそろ帰ろうか。濡れただけなら乾くのを待てばよかったのだけど、背中側半面砂まみれなんだ。流石にこのままじゃちょっとね。戻って着替えさせて?」
彼の上に乗ったままでいた私を軽く抱き起こし、立ち上がってから彼も腰を上げる。彼の言葉通り、濡れたシャツやズボンもすっかり砂と仲良しになっているようで、これは叩いた程度では落ちそうにない。私も戻りたいと彼に言うつもりだったから、素直に彼の申し出を受け入れた。
「ロゼウェルに戻る時は御者台に日差しが正面から当たるんだ。日当たりがよすぎる場所になるから帰りはキャビンの中で過ごしてくれる?」
「う、うんっ。疲れたから、そうさせてもらうわね」
馬車に戻り馬たちの調子を見ながらだったので、私に背を向けたままカイルが私に声を掛けてきたから見えているわけもないのに、私は彼の背中へ向かって何度も大きく頷き返しながら返事をしてキャビンに飛び込んだ。
私、ちゃんとしゃべれていた? 心臓がうるさすぎて自分の言葉もよく聞こえない。一人になって落ち着かないと、火照りすぎてバターになっちゃいそう……。
ゆっくり景色を楽しみながら進んだ行きの行程に比べれば、はるかに速いペースで馬車はロゼウェルの辺境伯屋敷へ辿り着いた。
「悪い、トーマス爺。せっかく貸してもらったのに御者台を砂まみれにしてしまった」
玄関先へ到着した馬車をしまおうと、カイルから引き継ぐために近づいた御者頭のトーマスへ、済まなげに声を掛けながら御者台から彼が降りてくる。
夏の強い日差しと吹き寄せる海風によってシャツが乾いたのはいいが、その代わりに纏わりついていた砂は彼が動く度にこぼれ落ちるものだから、彼の座った場所を囲むように砂が積まれていた。
「丸洗いしてしまえば砂くらいどうってことありませんよ、カイル坊ちゃん。それにしても教えた甲斐がある本当にいい腕だ。大公閣下にしておくのが惜しいくらいでさ」
「食うに困った時はぜひ雇ってくれ」
今回のサプライズに全面的に協力していたらしいトーマス。軽口を言い合い笑う2人を横目に見ながら、私もそっと馬車のキャビンの扉を開けた。
カイルのように砂まみれではないけれど、浜辺を素足で歩いていたし、靴の中にも砂が入るし……海風の運ぶ塩気のせいで少し髪がきしむ。いろいろあって崩れたお化粧も直したいしと心の中で言い訳をしながら、その場からカイルを置いてそそくさと一人で馬車から降り部屋へ戻ろうと歩き出すと、それに気付いたカイルが私のあとを追いかけてきた。
「リズ、部屋まで……」
「カイル様! そこでお止まりくださいませ~!」
部屋まで送ると言葉を言い終える前にカイルの前に侍女が数人壁を作るように立ちはだかり、カイルの足が止まる。その隙にごめんね、と心の中で謝りながら再沸騰してしまいそうな頬を押さえ自室を目指して屋敷の中に駆け込んだ。
「ちょっ、リズ待って。……一体何が……」
「何がではございません、足元をご覧くださいませ!」
「足元って……あ」
私を引き留めようと声を上げるも、行く手を阻む侍女たちに言葉途中で遮られる。カイルがその言葉を聞いて視線を地面へ落とすと同時に言葉と動きも止まった。
シャツやズボンからこぼれ落ちる砂が馬車から彼の歩いた場所を辿るように、サラサラと細かな筋になって落ちていて。
湯あみをして砂を落とさないと屋敷に入れない。しかし湯あみをするには屋敷の中へ入らなければならない。そのジレンマでカイルの足が止まる。
その状態で屋敷に入らないでくださいませと、子供の頃から私や彼の世話をしてくれている古株の侍女に懇願された彼は、私のあとを追うのを諦めて中庭を経由して裏庭の井戸へと案内された。知らせを受けたカイルの侍従がその場所まで着替えやタオルを運んできたので人気のない裏の井戸で全身の砂を落とすために頭から水を何度も浴びることになり、その光景を目ざとい侍女たちが裏庭を覗ける廊下の窓へ鈴なりになって張り付いて見物していたという。
後日、それを知ったマリアがはしたないって怒っていたのよね。なぜ知られたかというとあの彫像のような彼の体を目撃してしまった侍女たちは、それこそ数日魂が抜けたようになっていたらしい。……あれを見てどうにかなっちゃいそうになるのは、私だけじゃないの。そう、あれが正しい反応なのよ!
それに屋敷の中と裏庭くらい離れていたら、もう少し落ち着いて眺めていられたのかしらなんてはしたないことまで考えちゃうのも、全部カイルのせいなのだから!
心の中で理不尽な悪態をつきながらも、私も帰宅早々お湯を用意してもらいバスタイムを堪能する。
湯に溶かす香油は薔薇の香りのものを選び、湯に浸かりながら目を閉じてあの薔薇の丘をまぶたの裏に思い描き、彼の真心だけを反復して心に刻み、心の平穏を呼び込む努力を試みる。
着替えをしていると、母付きの侍女が部屋に訪ねてきて昼下がりに珍しく時間が取れたからお茶でもと誘ってくれたので、あの丘で思いついたアイデアを母に相談するのもよいかと思ったところだったので、ここはありがたく応じることにした。
母の侍女に先導されて家族が使う小さなサロンへ案内される。そして、その部屋の前にカイルの姿があった。遠くからでもよく分かる長身に綺麗な蜂蜜色の髪。
砂まみれの御者見習い姿だった姿を想像もできない貴公子然とした笑みを帯びた口元と礼服。髪も綺麗に整えられているから、くすみ一つないミルク色の彼の肌が、ほんの少しだけ日に焼けた痕らしく鼻や頬が赤らんでいること以外はすっかりいつもの彼に戻っている。
傍に別の侍女が控えていたので彼も母にお呼ばれされたのかしら?
「やあ。君もデルフィーヌ様に?」
彼も私を見つけると、軽く手を振りながら声を掛けてくれる。
「ええ、時間が空いたからお茶にしないかって。あなたも誘われたのね」
もはや声を聞くだけで顔を手で覆ってしゃがみ込みたくなる衝動を抑え、母付きの侍女たちが傍にいるのだからと必死に表情筋を励まして、いつもの笑顔を作り上げながら入室のエスコートを頼むように手を差し出した。頑張れ、私。
「何か話でもあるのかな? 待たせるのは悪いからまずは入ろう」
もう、私の気持ちも知らずに涼しい顔をして! ……だなんて心の中で八つ当たりしても、彼の顔をちゃんと見ることもできないでいた私には彼の耳が決して日焼けのせいじゃない赤みを灯していたことに気付けるわけもなく……。
「奥様、前大公妃殿下。お2人が到着なさいました」
案内に立ってくれていた侍女が声を上げて、中で待つ母に私たちの到着を知らせる。母と共に呼ばれた名に目を丸くして驚いてしまう。
「おかえりなさいな。リズちゃん、カイルくん」
さあ座って、とのんびりとした口調で手招く母の隣のソファに座っていらっしゃるのはカイルのお母様だった。視線が合うと美しくも悠然と笑みを浮かべてくださったので、頭を下げて挨拶をした。
「ただいま戻りましたわ、お母様。ソフィア様もお久しぶりです。お元気そうなお顔が見られて嬉しいです」
「お招きいただきありがとうございます、デルフィーヌ様。あと母上、ずいぶんと早かったのですね」
ソフィア様をこの場へお呼びになったのは、どうやらカイルのよう。私たちが出かけている間にこちらへ到着されたようで……。
そして母に促されるままお2人の向かいに置かれた3人掛けの長ソファに並んで座ると同時に、ソフィア様が声を上げた。
「カイル。あなた、楽しい計画を企てているのなら、それもまとめて知らせておきなさいよ。私もリズさんとお出かけしたかったわ」
「たとえ母上でも私は容赦なく馬で蹴り上げますよ」
「もう、カイルったらソフィア様に向かってなんてこと言うの」
……それじゃまるで私たちがデートに出かけていたみたいじゃない。ソフィア様だって私が嫁いでしまったことくらいご存じのはず。婚約者もいないカイルにとって
のほほんとしている私の両親相手ならともかく、カイルの実母であられるソフィア様とはわけが違うと思うの。
だって、ソフィア様からすればカイルは大事な一人息子で、爵位を引き継いだ今、これから先の大公家を牽引する大事な存在。そして彼の血を受け継ぐ跡取りのことだってあるのだから、婚活市場で彼の価値に傷がついてしまうようなことは迷惑でしかないと思う。
事情を知らないだろうソフィア様が不快に感じられでもしたらどうしようと、おろおろしている私に、ソフィア様は「大丈夫よ」と安心させるように柔らかな笑みを返してくださった。
「どんな場合も傷つくのはリズ自身なのだから、守り通せる自信があるのなら好きになさいと私の背を押してくれたのは、そこにいる母上だから安心して」
君への気持ちなんて当の昔に母はお見通しだったと、隣で苦笑するカイル。
ソフィア様の御心を知ってしまえば、嬉しさと恥ずかしさが手を取り合い、やっと落ち着き始めた心臓と共に踊りだす。安心してって言われても、知られているのはカイルの気持ちだけなの?
ああもうっ! 3年も彼より長く生きているはずなのに、この気持ちへの対処の仕方がいまだに分からない。嫌じゃなくて嬉しいからこそ、どうしていいか分からなくて困ってしまう。
「もういいわよ、私が勝手にリズさん連れて遊びに行くから。ねえ、そのうちデルフィーヌ様ともご一緒に女性だけでお出かけしましょうね。きっと楽しくてよ」
「はい! ぜひ! ご一緒させてくださいませ」
こんな状況でも……いえ、こんな状況だからか、話題を変えられるならという縋る気持ちも含めてソフィア様の言葉に即答すると、なぜか悔しげなカイルと得意げなソフィア様の表情を交互に見比べて、頭の中が『?』で埋まった。おかげで心臓のダンスも少しだけ落ち着いてくれたので、私は疑問をソフィア様に問いかける。
「そういえばソフィア様、どうしてこちらへ?」
お母様と前からのお約束なのか、それともカイルに用事があるのかしらと問いかける。
「人手が減ったのでお手伝いに来てほしいと、そこの息子から呼び出されたのよ」
人手ってなんのこと? と首を傾げながらカイルをちらりと見上げてみた。
「いや、ワルド夫人が茶会の前にこの屋敷を去っただろう? そのきっかけを作ったのは僕だけど、茶会の手伝いは流石に役に立ちそうにないから、急な頼みごとを君に誤解を与えることなくできる女性で思いつくのは母しかいなかった」
「そんな。昨日の今日でお呼び出しするなんてご迷惑だったのではなくて?」
だってそれって、ほんの少し前の出来事で本当に急な呼び出しじゃない……。
「いいのよ、リズさん。もう夫の
そう微笑みながら告げてくださった。
カイルのお父様がお亡くなりになってから喪に服していたのもあるけど、ずっとお屋敷の中で過ごしていたという話を聞けば、手伝ってくださることがソフィア様の気を紛らせる手助けになるのなら甘えさせていただこう。
「分かりました。私にとっても開催する側のお茶会は初めてのことなので、経験豊富な方が傍にいてくださるのはとても心強いです」
お願いしますと頭を下げると、ソフィア様がコロコロと鈴を転がすような軽やかな声を上げて笑いを漏らす。
「この子は王都に出たきりでめったに帰ってこないから、本当に退屈なのよ。男の子の親って大きくなると一緒にできることなんて本当になくなってしまうの。娘がいたら違ったのかもしれないなあって、本当にデルフィーヌ様が羨ましいわ」
「女の子だってお嫁に行ってしまうのだもの、寂しいのは変わりないわよ。私だって男の子がいたらって思うことがあってよ」
「まあ、でしたらお互い夢が叶う日も……」
ソフィア様の言葉に母が答える。お茶を飲みながら少女のように華やぐ姿は娘の目から見ても微笑ましく思うけど、ああ、どうしよう。会話の内容が……ッ。
「母上、そこまでにしてください。そういう話はもうしばらくの間、お2人だけの場でお願いします」
困らせないであげてくださいと、先ほどまで一番困らせていたのは誰だったかしらとか考えつつも、母たちの会話が止まったのでホッと息をつく。
「あの……カイルが気分転換に郊外へ連れて行ってくれたんです。そこで思いついたことがあるのですが、よい機会なのでお2人に聞いていただけたらと思って……」
◆◇◆◇◆
あのまま話は私の出した相談事の流れになり、お2人からも概ねよい感触をいただけたのでお茶を飲み終えてから早速、我が家のシェフへ会いに調理場へ向かう。
急な話なのでもちろんダメ元のつもりだったのだけど、手に入りやすい材料だったのもあって既に決まっているメニューに取り入れてくれることになった。
「承諾してもらえてよかった。日数もないからある程度になるだろうけど、次があるなら今度はもっと工夫したいわ」
調理場からの帰り道、思いついたアイデアがどうにか形になりそうでホクホクしながら隣を歩くカイルへ話しかける。
「あの時、しゃがみこんで薔薇たちとおしゃべりしていた内容は、このことだったんだね」
「薔薇たちとおしゃべりって……もうそんな年じゃないわよ。ただの独り言でしょ」
カイルの目に私はどう映っているのか、時折不安になるわ……。
「僕に言えないことだとしたらって少し不安になったけどね。お家に帰りたいとかさ」
「あー……」
帰りたいというニュアンスではなかったけど……帰らなきゃ、とは口に出していた気がする。
「リズぅ?」
彼が端正な形の唇を尖らせて子供のような表情で私を覗き込むから、思わず吹き出してしまう。
「ごめんなさい、嫌だからとかそんなことは思ってなかったのよ。ただ早めに話をしに帰らないと間に合わなくなっちゃうかなって。でもほんと素敵な場所に連れて行ってくれたことはすごく感謝しているわ。この街に16年も暮らしていたのに初めて知ったの」
「ならよかった。うちの者には口外しないよう頼んでおくよ。うちの土地でもないから他の人を止めることはできないけれど、僕はあの場所のことは君以外には教えないから僕らの秘密にして、また来年も一緒に行こう」
次は着替えや水浴び用の真水も馬車に積んで行こうと早速今回の反省を踏まえて告げたあと、荷が増えるから次は4頭立てかなぁなんて言いながら、次の夏の約束をしてくれた。