大公家の使用人はロゼウェルを訪れた時、馬が少し調子を崩してしまい、休ませるためにちょうどいい木陰のあるこの丘の上で馬車を止めたとのこと。そして馬を休めている間、使用人の一人が時間を潰すために近くを散策していた時にこの斜面を見つけたという、偶然の産物なのだそうだ。

 キャビンの中に置いてあった荷物の中身は、包まれた2人分のランチと果実水。それに敷物や日よけの傘などピクニックの用具がまとめられていたので、カイルと2人でそれらを並べお昼の用意をした。

 いつもは使用人たちがしてくれるようなことも2人で協力し合えば、結構なんとかなるし楽しいものね、なんて考える。

 木陰の地面にある小石を彼がどかしながら草を踏んで平らにならしてくれたので、そこに敷物を広げて荷物を置いた。

 敷物もあるし誰も見てないよと率先して靴を脱いでくれた彼に倣って私も靴を脱ぐと、そのまま足を伸ばして敷物の上に腰を下ろす。まるで足枷あしかせを解かれたかのようななんも言えない解放感に、しばし目を細めながら大きく深呼吸。

「外で裸足になるだなんていつぶりだろう、気持ちいいなぁ」

 なんて言いながら彼も同じように足を伸ばした格好で、私の隣に腰を下ろして笑いかけてくる。

 隣に座ったカイルへ視線を向けると、いつの間にか帽子を外していた彼の蜂蜜色の見事な金髪が風に揺れていた。

 同じことを考えているって分かるだけで、不思議なほど心が弾む。

 息をする度に体の中にたまっていたもやもやとかイライラがすぅっと抜けていく感じがして、自然に笑みがこぼれ落ちる。

 何も背負ってなかった子供の頃みたいに、すっかりゆるゆるになっている互いの顔を見合わせながら大きな声を上げて笑い、薔薇の斜面を眺めながらシェフが忙しい時間を割いて作ってくれただろうランチを味わった。

 薄いパンの間に、こぼれるほど具材が挟み込まれたサンドイッチ。

 小さく切り分けるものがないから食べ方が分からなくて困っていれば、「こうやって食べるんだよ」と目の前でカイルが大胆な食べ方を実演してくれる。

「こう、かしら……んぅ~~~ん♡♡美味しいっ」

 サンドイッチをしっかりと具材がはみ出ないように両手で保持してから、大きく口を開いてかじり付く。

 口いっぱいに食べ物を頬張るだなんて、大好物のあの焼き菓子をマリアの目から隠れて詰め込んだ幼かったあの時以来かも。

 はしたないと叱らないでちょうだいね、マリア。

 だって、これがピクニックでの正式なマナーだと大公閣下に言われたら倣うしかないもの──と、心の中で言い訳した。

 カイルのひと口は男性だけあって大きいから、私が格闘している間にぺろりと食べきってしまう。

 手の空いた彼が、夢中になって大きすぎるサンドイッチと戦っている私の様子を嬉しそうな顔で眺めているのに気が付き、恥ずかしさに思わず慌ててしまった私は頬張っていたものを嚙まずに大きな塊のまま飲み込んでしまい、喉に詰まらせた。

「リ、リズ……!? 大丈夫かい」

 サンドイッチが喉につかえ、急に胸を叩いて苦しみ出した私を見て、彼が慌てながらも果実水の入ったカップを手渡してくれたので、どうにか助かった。

「もう、食べている顔をじっと見ていたらダメでしょ。驚いて変なとこに入っちゃったじゃない」

「ごめんよ、あんまりにも美味しそうに食べてるから、つい」

 悪かったよ、と謝る彼の顔もなんだか嬉しそうで、本当に悪かったと思ってるのかしら……と、ジト目で睨んであげる。

「あ、見てよ、リズ。あそこから浜に降りられるみたいだ。少し待っていて。危なくないか見てくる」

 すると誤魔化ごまかすようにそう言って彼は腰を上げると、裸足のまま指さした方へと歩き出す。自然にできたものかは私には分からないけれど、確かに浜辺へと降りられる小道があるようで、カイルはその道を少し歩き浜辺の方を確認するように眺めてから、大丈夫だと手を振りながら戻ってきた。

「砂浜じゃないんだから、ちゃんと靴をいて。怪我したら大変よ」

「あはは、そうだね。じゃあ敷物とか片付けて降りてみようか。ロゼウェルには港はあるけれど、砂浜はあまりないようだし」

 戻ってきたカイルに靴を渡し、私も靴を履き直して片付けを手伝った。

 まだ空に輝く陽の角度を見てもうしばらくの間は馬車は日陰に入っているだろうと、のんびりと下草を食む馬たちへ留守を頼むと声をかけ馬車から離れて浜辺へ降りる小道へと歩き出した。

 まるで咲き誇る野薔薇が敷き詰められている斜面から浜辺へ続く小さな小道に、私とカイル2人だけ……小さな頃に拵えた秘密の隠れ家みたいなそんな特別な場所を忘れないように、斜面に咲く薔薇を心に焼き付けながらエスコートにと差し出された彼の手に、もう躊躇ためらうことなく自身の手を添え、ゆっくり砂浜に向かって丘を降りていく。

 天候か日当たり……それとも両方かしらと、咲く時期が遅れた薔薇たちを眺めつつ、屋敷へ戻ったら庭師に聞いてみようと頭の中のメモに言葉を書き記した。

「今日は風が静かだから波も高くないのね。それとも砂浜だから違うのかしら」

「そうだね、ロゼウェルの海風はもう少し強いかな」

 ロゼウェルの街で見る海は大きな船が出入りする貿易港や海軍の軍港ばかりなので、人の手の入った堤防に囲まれていることもあり、こうした砂浜はあまりないのだ。少し離れた漁村の方は砂浜があったようなおぼろげな記憶があるくらい。彼の領地に向かう街道沿いはこんな砂浜が広がっているのね、とあらためて知ったくらい。

 風が静かだと告げた私へ、風の神が違うと抗議したのかというタイミングで突然強い風が薔薇の斜面を走り抜け、花びらが空へと舞い上がる。

「きゃあっ……あっ、帽子が」

 手で押さえたにもかかわらず、大きなつばの帽子が風にさらわれて花びらと共に空へと高く舞う。カイルが空へ舞い上がったそれをつかもうと腕を伸ばしたけど、風の神様はよほど悪戯坊やなのか、帽子はするりとその手を躱して海へ向かい浅瀬に落ちた。

「大丈夫、リズ。僕が取ってくるから」

 沖へ流されないうちに取り返してくると告げて、海へ向かって走り出す彼の背を見つめる。

 出会った頃からずっと見ていたはずの彼の背中は知らないうちにとても大きく広くなっていて、どうしようもないほど大切なものなのだって何度も自覚してしまう。大切にしてくれる彼の気持ちへ報いる存在になりたい。


 どうか、彼の隣に並び立つ勇気を。


 心の中で芽生えた小さな決意に背中を押されながら、私も彼のあとを追って走り出す。砂浜に入ると浅いヒールも砂に取られてしまうから、靴を脱ぎ棄て心のままに彼を追いかけた。

 波打ち際で靴を脱ぎズボンを膝までまくり上げた彼が、ざぶざぶと海の中へ入っていき、のんびりと波間に浮かんでいた帽子に手を伸ばす。

「リズ、捕獲成功だ。……って、うわぁ!」

 ……と、戦利品のように帽子を高く掲げて見せるため、波打ち際に立つ私へ振り返った。

 そして次の瞬間、油断は禁物というように少しだけ高い波が彼の背に被さり、前のめりとなって姿勢を崩した彼は引き潮に足を取られてひっくり返った。

「カイル! 大丈夫?」

 大きな波しぶきのせいで一瞬視界から消えた彼にびっくりして、私はバシャバシャと浅瀬の中に足を踏み入れた。

 熱い砂の上を素足で走っていたから、海の水の冷たさが心地よい。波が引くとすっかり水浸しになってしまったカイルの姿があったので、無事だったとホッとしたけれど……。

「大丈夫だよ、急に大きな波が来たからびっくりして転んじゃった。あまり沖に出ない方がいいね」

 カイルは起き上がると帽子を片手に持ち、濡れた髪をかき上げながら岸へと戻ってくる。

 降り注ぐ陽光の下で濡れた髪からしたたり落ちる水滴は彼の髪にさらなるきらめきを与え、濡れて張り付くシャツやズボンが鍛錬している逞しい肉体の形を際立たせる。

 他の人だったなら酒の席で披露して皆の笑いを取るような失敗談だと思うのに、まるで海からもたらされた黄金の神がこの地上へ降臨したのかと思ってしまうほどに無駄な神々しさが眩しくて、目が痛い。

 やっぱり無理かも。だって普通の人間だもの……私。

 彼の隣に並ぶ勇気が塩水にかった青菜のように一瞬でしおしおとなったのだけど、彼はそんな私の気持ちなどお構いなしだ。