「今日は父と母の
無礼を詫びて相手を立てる。そして夜会の招待に応じる旨を聞いて今夜最初のミッションの成功を知る。
「では、今夜は楽しませてもらうよ」
カイルがさりげなく会話を切り上げてくれ、私の手を引いてホールの奥へ移動する。一曲踊れば義理立てになるとのことで、そうしてから次の夜会へ行く算段だ。
ちょうど前の曲が終わり、新しい曲の前奏の美しい調べが広がり出すと、ホールの中央に
カイルが視線を集めまくることはそろそろ慣れてきたので、笑顔でスルーできるようになった、と言うか回を重ねる度に複雑なステップを混ぜてくるカイルの足さばきへの対応に忙しくて考え込む暇がないの……ッ。
頑張ってしまう負けず嫌いな自分が恨めしい。
今回も引き分けに終わったけど、息が上がって呼吸がつらい。
近くにいたボーイから冷えたシャンパンを満たしたグラスを受け取る。のんびりと
そんなことを楽しんでいただけなのに。
「あ~
と、まるで子供のお芝居のような棒読みのセリフを告げながら、一人の令嬢が私たちに向かって突進してきたのだった。
ふらついて
一瞬、その令嬢と視線が重なった。
その瞳を三日月のように形を歪ませ、狙った獲物に向かうような勢いで足をもつれさせた素振りなのか、手にワインの入ったグラスを持ちながら体を横にくるくると回るようにして向かってくる……──。
目を回さないのかしら……。驚いて体はろくに動けないのに、変に冷静になっている脳の片隅でそんなことを考えてしまったその時。
顔見知りらしい貴族の男性から話しかけられ世間話に応じていたためか、カイルがその令嬢に気付いて声を上げた時には、令嬢はもう私のすぐ目の前。危ないととっさに腕を引かれたけれど、まるで狙ったかのように令嬢の指から外れたワイングラスが私へ向かって飛び込んできた。
「リズ……ッ!」
指から放たれたグラスは
勢いはさほどなかったけれど、それはドレスをワンクッションして鮮やかな赤を私のドレスに広げながら床へと転がり落ち、カシャン、と硬質な音を立てた。
ほんの一瞬、
切り取られたような空白のあと、今度はざわめきが加速しながらホールを満たした。私はカイルに肩を抱かれたまま、赤く染まったドレスを
だって、アリスだってここまで派手にお酒を浴びせてきたことないんだもの。
「君、大丈夫か? 君」
「お嬢さん、気を確かに」
ああ、そうだったわ。(一応)よろけて倒れた令嬢はどうなったのかしら。
周りにいた人たちが彼女を囲んで声を掛け介抱してるようで少し安心する。床に横たわったままなのは少し心配だけど……私の視界に映るのはダークブロンドの巻き毛、この場にいるということは貴族か裕福な商家の娘さんだろうし身なりもちゃんとしているけど、私と同じくらい? ……少し年下かしら。
こんな騒ぎになっても彼女の身元を保証する大人が現れないことに首を
「……リズ、
「……え? うん、私は大丈夫だけれど……ドレスが。これじゃ一度着替えに戻るしかないわね」
ワインなので落ちるかしら……
舞踏会の時お披露目したドレスと一緒に作った、白から裾へ向かって蒼が深くなるグラデーションの夏らしさのある
私の髪の色に合わせた色合いで裾に銀糸で縁どるように
今は鮮やかな赤が足されて、なかなかのトロピカル具合……そうじゃなくて。
騒ぎを聞いて、ホテルの使用人たちも集まってくる。やじ馬をかき分けて青い顔をしてこちらに駆け寄ってきたのは、先ほど挨拶をしたホテルのオーナー。私の汚されたドレスを見て気の毒なほど青ざめたまま大きなお腹をプルプル震えさせ、膝から崩れそうになっている。
そんな風に皆がバタバタしている間、カイルがジャケットを脱ぐと一番汚れている腰元を隠すようにそれを巻いてくれた。
「……ありがとう、でもあなたの服も汚れてしまうわ。ワインの染みってなかなか落ちないのよ?」
「詳しいんだね。……構わないよ、ジャケットよりも君の方が大事だ」
カイルの言葉にドキッと胸が跳ねた。
大事だと言われた甘酸っぱさより、今の世界では洗濯などするはずもない私がそれを知っていることを彼がどう思うのか。私の秘密を彼なら少ないヒントでも、見抜いてしまいそうで不安が心に広がった。
「じ、侍女がそう
会ったこともない侍女のお父様に濡れ衣を着せながら早口で言い訳を告げていけば、カイルはふぅん……と興味なさげに聞いていたので、意識して問うたわけではなさそうでホッとする。
急いでローズベル本邸に戻って着替えてこないといけないわねと、それでも話を無理やり切り替えてホールから退場しようと
『気が付いたぞ』
との歓声に思わず振り返ってしまった私が悪いと思う。伸びていた令嬢が立ち上がり私たちに向かって歩き出すから、つい足を止めてしまったのも、危機感がないって怒られても仕方ないわ。
「あ、あの……ッ」
人垣から飛び出してきた令嬢が私たちの前に立つ。カイルが私を守るように、その令嬢と私の間に身を割り込ませた。
「謝罪なら結構だ。侯爵、床の汚れやこの騒動で損害が出るようなら、私の元へ請求を回してほしい」
令嬢を無視した形でオーナーである侯爵に損害賠償の話が出るなら自分の元へ持ってこいと告げれば、侯爵は滅相もないと首を振って必要がないと全身でアピールした。
「いえ、あの、本当にごめんなさい。私、お酒飲み慣れてなくて……」
焦りなのか本当に悪いと思っているのか、カイルに無視された令嬢は涙ぐみながらカイルの背の向こうにいる私へ視線を向けると、そのまま頭を下げてきた。
肩を落とし、しゅんとしたまま観衆の中で頭を下げる態度を見ていると、突進してきた時見えた表情はただそう見えただけで、なんの意図もなかったのかと思うくらい気の毒にも見えて。
「誰にでも失敗くらいありますわ。次はお気を付け遊ばして。楽しいバカンスが台無しになるのは皆様も避けたいでしょうし」
ワザとじゃないなら責める気もないので、そう返す。それでおしまいかと思えば……。
「……わ、私、このホテルに泊まっておりますの。だから一時的な着替えも用意できますわ。濡れたままではお体が冷えてしまいますし……その、乾いてしまうと染みがさらに落ちづらくなってしまいますわ、せめてもの罪滅ぼしに染み抜きの下処理、私の手でさせてください」
「結構だという声が聞こえないのか?」
「……カイル、ダメよ。そこまで固辞したら気の毒だわ。せっかくのバカンスなのだからロゼウェルで悲しい思い出は作ってほしくないの」
次の夜会を主催しているのは懇意にしていただいている馴染みのある方なので、予定をずらしてもらえば問題はないと判断する。
「私は本当に構わないのだけど、あなたの気が済むのであればお言葉に甘えますわ。お名前を
「はい、あっ……私、私はシーラ男爵家のミリアと申します。ロゼウェルの近くの領地の者ですわ」
「そう、ミリアさんとおっしゃるのね。ようこそ、ロゼウェルへ。私はローズベル辺境伯長子のエリザベスですわ。今はロッテバルト侯爵家に嫁いでいますけど、バカンスシーズンなので里帰り中ですの」
私が名乗るとミリアさんはポカンとした表情を一瞬浮かべた。あら……私のことを知らなかったの? ……なら、あれはなんの茶番だと思ったのは考えすぎだったのかしら。
「侯爵夫人、部屋のご用意ができましたので、どうぞこちらへ。シーラ男爵令嬢は着替えの用意をお願いできますかな」
私たちとのやり取りを聞いていた侯爵が、気を利かせてくれたらしい。
ミリアさんはホテルの使用人を一人連れると、自室へとドレスを取りに行くようで私たちから離れていく。
「カイルは……?」
私を人目から隠すように体を寄せて先導する侯爵のあとを一緒に歩いてくれる。でも染み抜きや着替えをする時間を考えると、一服する程度じゃとても終わらないだろうから問いかけてみると、
「もちろん、同行させてもらうよ」
……と、時間がかかることを分かっているだろうに即答してくれた。
「……着替えるのだけど」
「ろっ……、廊下! 廊下で、待ってる」
ほんの小さな問いかけだったけど、初めてカイルが少しだけ
今夜は私の勝ちかしら。いつも彼の言葉や行動にドキドキさせられっぱなしだけど、少しやり返せた気がして控えの部屋に辿り着くまで笑いが止まらず、ずっと肩を震わせたままだった。
ホテルのオーナーである侯爵自らの案内で、控えの部屋に通してもらった。
室内は小さなサロン程度の広さで入口は1カ所、窓がない代わりに明るい照明と白い壁、大きな海辺の町の風景画や観葉植物がバランスよく置かれて息苦しさを軽減させている。
少しざわめきが聞こえると思ったら、空調のためか天井付近の隣の部屋との壁がくり抜かれて繋がっているようで、柔らかな風の流れを感じた。
「じゃあ、リズは中へどうぞ。さっきの娘が来たら外から知らせるから、ゆっくりしていて」
カイルが警戒するように一通り部屋の中を見回ってから私を部屋の中へ通してくれ、入れ替わりに廊下へ出て行く。
「ありがとう……ごめんなさい、カイルも疲れているのに」
扉の傍で彼とすれ違う時にそう声を掛けた。朝から晩まで仕事と社交でお互い休む間もないもの。
「僕は大丈夫、それなりに鍛えているから」
そうだ、馬車で10日の距離を単騎の早駆けだとしても5日で走りきる体力のある腕力ゴリラ様だったわ。……まあでも、気遣いたくなるのは仕方ないじゃない? 今の彼の忙しさの大半って、私に付き合って動いているせいだし。
申し訳なさを感じながらも、こんな姿をいつまでも彼の目に
……カイルったらいつの間に
ジャケットの肩幅を眺めながらぼんやりそんなことを考えているうちに、いつの間にかそれを胸の中に抱きしめていた。彼がいつも身に纏う香水の爽やかな香りに満たされてすっかり意識が過去へ向いたままだったから、廊下からミリア嬢が戻ってきたと告げるカイルの声に思わず飛び跳ねるような勢いで立ち上がってしまった。
──は、恥ずかしい……誰も見てなかったわよね?
誰もいないはずの室内をきょろきょろ見回しながら、彼のジャケットを
「リズ?」
「ええ、大丈夫。入っていただいて」
呼吸を整えて跳ねる心臓を落ち着かせる。私の返事を合図に扉が開いてドレスを抱えたミリア嬢が不機嫌そうなカイルに
「僕は廊下にいるから、何かあれば叫んで」
ソファから腰を上げ彼女を迎えに行けば、扉越しにカイルがそんなことを言うから、大丈夫よ、と返し彼女には中へ入るよう促した。染みを隠すように腰に巻いていたカイルのジャケットを外したあとだったから、ドレスを派手に彩るワインの染みを見てミリア嬢が一層青ざめてしまう。
「じゃあ着替えお借りするわね。申し訳ないのだけど、背中の
気にしないで、と微笑んで見せてから後ろを振り向き、貴族女性なら誰しも感じたことのあるドレスの着脱のしづらさに困っていると振る舞い、場を
「ありがとう。じゃあ着替えてくるから、そこのソファで
「え? お手伝いしますよ」
「大丈夫よ、このドレス、見た限り背中が大変なことになっていなさそうだし」
前の生の記憶のおかげか、洗濯の知識もあれば着替えも一人でこなせるのよね。
なのでお手伝いは断って、
きっと下処理をしたところでこの染みは完全には落とせないだろうなあと脱いだドレスの染みを眺めてから、それを衝立にパサリとかけた。
ドレスを着る手順を考えていると背後から絹を引きずる音が耳へ届き、思わず視線を向けると衝立の向こうからたぶんミリア嬢が脱いだドレスを引きずり落とそうとしているようだ。
「あ、あのミリアさん? やっぱり完全に落ちそうにもないから染み抜きの処理は……」
下着姿だったけど女性同士だから問題はないだろうと踏みつつ、慌てて衝立の向こうにいる彼女の元へ向かい染み抜きをする必要はないと告げていく。せっかくのバカンスなのに、そんな手間で時間をつぶしてしまうのもやはり申し訳ないもの。
「い、いえ、ほんとに大丈夫だから、私に任せてください! 一晩だけお借りします!
ドレスをしっかり抱き込んで離すまいとしている必死さに、少し違和感を覚えてしまう。
「あのね、落ち着いて聞いてちょうだい。ドレスを仕立てた職人に相談すればきっといいアイデアを出してくれるはずだし、廃棄するわけじゃないのよ……ね?」
「私がやるって言ってるでしょ!」
だからドレスはこちらにと差し出した手を振り払われた途端、私はバランスを崩して後ろ向きに倒れていく。
「……え? ちょッ……ぁ……きゃあっ!」
床に倒れる痛みを思い出しながら身構えたけど倒れた方向がよかったのか、ぼすん、と柔らかな感触が背を覆い、ソファに倒れ込んだことを知る。そして私の声を聞いたカイルが間髪入れずに扉を開け、部屋の中へ飛び込んできた。──やだ、私、驚いて悲鳴上げちゃってた!
「リズ! 大丈夫か……おいっ待て!」
部屋に入ってすぐに私の姿を探すようにして足を止めたカイルの脇をすり抜けて、ドレスを抱えたミリア嬢が駆け出していった。
カイルは私の元に来るか、彼女を追うか一瞬迷いを見せたあとすぐ、私の救出を選択して部屋の奥──ソファに腰を下ろしたままの私の元へ──駆け寄った。
ちょうど私は扉に背を向けている傍のソファに倒れ込んでいたから、ソファセットに近づかないと私の姿はカイルには見えない。足音が聞こえたから、自分の状態も忘れたまま思わず反射的に顔を向けてしまう。そこには心配顔で青ざめているカイルがいて、彼と視線が重なり合う。
そして、私の顔を見て強張っていた顔が少しばかり緩み安心したような笑みを浮かべたあと、カイルの表情が突然固まった。コロコロ変わる彼の顔を不思議な気持ちで眺めていれば彼の視線が少しだけ下に降り、一気に耳先まで真っ赤に染まり切ったのを見て思い出した。
…………そうよ私、下着姿のままじゃない!!!
「きゃぁあああああああっ!」
本気の悲鳴ってかすれて音にならないことを今夜知りました。姿の見えなかった私を
「済まない。その、決して覗いたわけじゃなくて……実際見ているのだけど、それは……その」
「いいから後ろを向きなさい!」
真っ赤になったまま、しどろもどろに動揺しているカイルに大きな声で後ろを向けと命じると、まるで騎士のようにくるりと踵を返す。
カイルの視線が外れると私は衝立の向こうに走り込んで、置いたままになっていた着替えを急いで身に付けた。
着替えを終えてそっと衝立から顔を覗かせると、カイルはソファに座ったまま体を丸めるようにしながら頭を抱えていた。