蛇の牙が突き刺さる痛みは、いつまで経ってもやって来ない。
恐る恐る目を開けて見れば、今まさに私に噛みつこうとしていた毒蛇が、ナイフに頭を貫かれて壁に突き立てられていた。
ナイフの柄の延長線上、飛んできた先にはリウィアさんの姿。投擲後の腕を振り下ろした姿勢のままでいる。
その両目はギラリと鋭い光を放って、壁の蛇をにらみつけていた。
「お嬢様!」
ティトに手を引っ張られて、つんのめるようにして壁際を離れた。
「リウィアさん……ありがとう」
「ありがとうございます、お嬢様の命の恩人です」
かすれた声でお礼を言うと、ティトも泣きそうになりながら感謝していた。
リウィアさんは泣き笑いのような表情で、「無事でよかった」と言った。先程の鋭さは嘘のように消えている。
それからティベリウスさんの方を向いて、一礼した。
「ティベリウス様、今まで騙して申し訳ございませんでした。私は見ての通り、ガサツで男のような武芸を好む、貴族にふさわしくない女です。離縁されても仕方ないと思っています。けれど冷蔵事業が安定するまでは、フェリクスのお家と我が実家のためにも、どうかこのまま……お仕えさせて下さい」
うつむいた喉が震えている。
ティベリウスさんはそんな彼女を眺めて、軽く腕を組んだ。
「なるほど。きみには違和感を覚えていたが、何重にも猫の皮をかぶっていたということか。まんまと騙されてしまった」
「…………」
「夫を何ヶ月も騙すとは、悪辣な妻だ。ひどい話だよ」
「何と言われてもその通りです。罰を与えて下さるなら、甘んじて受けます」
「とはいえ、離縁はできないな。冷蔵事業は始まったばかり。きみの実家の力はこれから必要になるからね。では……」
彼はちょっと言葉を切ってから、続けた。
「投げナイフの他に得意な武芸は?」
「え? ええと、弓と剣は自信があります。そこらの男には負けません」
「そうか。それでは命令だ。──そんな強いきみを、すっかり征服させてくれ」
「え? え?」
戸惑っている彼女を、リウスさんは抱き上げた。横抱き、いわゆるお姫様抱っこである。
「ちょっと早いが、寝室に行くよ。奴隷たちは他に蛇がいないか確認してくれ。……ああ、寝室はいい。俺とリウィアでちゃんと見るから、邪魔をしないように」
リウスさんはいかにも可笑しそうに笑っている。
ぽかーんとしている妻の額にキスをして、さっさと行ってしまった。
後には無言の私たちと、ナイフで絶命した蛇が残された。
「えーと……」
何がどうなった。いきなり毒蛇が天井から降ってきたと思ったら、ナイフが飛んできて、夫婦の絆が深まった?
わけがわからん。わけわかめ。
「ティト、この状況、分かる?」
「分かりますとも! リウィア様が強くて凛々しい方だということ、ティベリウス様は寛大で懐の広い方だということです。あぁ、素敵!」
ティトの目が夢見る乙女みたいにキラキラしている。どうやら年齢イコール彼氏なしの私には理解不能の世界に入っているようだ。
まあいいか、結果オーライで?
奴隷の人たちが蛇の死骸を片付けている。梁の上を覗き込んで、他にいないか確認が始まった。
結局他の蛇はおらず、私が泊まる部屋も安全が確かめられたので、休むことにした。
翌朝、絆を深めたらしい夫婦は、二人してやけにツヤツヤのお肌で朝食にやって来た。まあ深くは問うまい。
「ありがとう、ゼニス。あなたは私にとってウェスタの使者よ」
頬を赤らめながらリウィアさんが言う。ウェスタはかまどの女神で、家庭と夫婦の守り神とされている。ウェスタ本人(本神?)は永遠の乙女と言われているのに、不思議な神様なのである。
私が女神の使者ならあの蛇は聖獣だろうか。はた迷惑な話だね。
「いいよいいよ、その代わり、お礼にまたイチジクちょうだいね」
そう言い返してやったら苦笑いしてた。
何にせよ、彼女が明るくなってよかった。蛇で怖い思いをした甲斐があったというものだ。
「イチジクとは? いつの間にゼニスとそんなに仲良くなったんだい?」
ティベリウスさんが問う。どことなく不満そうな様子だ。
リウィアさんはくすっと笑って答えた。
「内緒です。ティベリウス様といえど、女同士の秘密に立ち入ってはいけませんよ」
「おやおや。もう隠し事はなしだと、昨夜あんなに約束したのに」
うおおおお、空気が甘い! 黒砂糖と蜂蜜を混ぜてぶちまけたかのようだ!!
これが前世の恋愛小説で言うところの「砂糖を吐く」というやつか?
いたたまれなかったので、私は朝食を手早くお腹に詰め込んで席を立った。甘すぎて胃もたれするわ。
後で合流したティトとミリィが、昨日の件で楽しそうに恋愛談義していた。
ティトが蛇をやっつけたリウィアさんのかっこよさと、その後のお姫様抱っこを語って「きゃー!」とか言ってる。
うんうん、スイートだねえ。
でも私は甘い空気より甘いお菓子の方がいいな。本気でそう思ってしまうから恋愛駄目駄目なんだろうね。
私自身の転機は当分、下手すると今生も一生、訪れないかもしれない。
まあ、別にいいか!
追記。
リウスさんはリウィアさんの本性に割と早いうちから気づいていたらしい。
気づいてたのなら教えてあげればいいのに。乙女心をもてあそぶ、女の敵である。
……あれ、でも、リウィアさんは彼のそんなところも好きだからいいのか? ワカンネ。
それで気づいてはいたが、さすがに投げナイフで蛇を仕留める腕前とは知らなかったそうな。
「強い女性は好きだよ。精神的にも、肉体的にもね。その方が乗りこなし甲斐があるじゃないか」
とのこと。
十歳の子供にさらっと聞かせるセリフじゃねぇわ。これだから色々とオープンすぎるユピテル人は! と思いました。まる。