「キャラバン!」
私は思わず声を上げた。
様子を見ていたマルクスが言う。
「すまんな。管理人はクビになってもういないよ。今の農場の主人は、そこのゼニスお嬢様だ。そう、そこの尻もちついてる子な。用向きは彼女に言ってくれ。俺たちも一緒に聞くよ」
「へえ、クビ? じゃあ、あいつはとうとう悪事がバレたってわけかい」
キイはカラカラと笑った。
「太陽の国の珍しい女神像を持ってきたんだけど、買ってもらえないかねぇ?」
キイが目配せすると、隊商の男性が包みを一つ取り出した。
布の包みを開けると、現れたのは……カバ?
斑目のきれいな石材で作られた、二本足で立ち上がったカバの像である。石材の所々に黄金の
「カバの女神様?」
私が聞くと、キイはうなずいた。
「そうそう、タウエレト女神。母なる河に棲むという、魔除けと出産の女神様だよ。めでたい一品さ。ひとつどうだい?」
「いや、カバ……」
言って、私は何となく気づいた。これ、元管理人が好きそうな造形じゃないか。金ピカで豪華で、ちょっと下品なくらいの。
「ちなみに、おいくら?」
マルクスが聞いた。キイはにやっと笑う。
「金貨九十枚」
「たっっっっっか!!」
私とティトは思わず叫んだ。見事にハモった声になってしまった。
金貨九十枚は一般的な平民の年収に匹敵する。一家四人が一年間、暮らしていける額だ。
「お買い得だよ? 太陽の国の質のいい
「いらないです。今のところ、身内に出産予定の人もいないので」
「おや、そう? お嬢さんが自分用に買ってもいいんだよ。今のうちにご利益をお祈りしておけば、きっといい男子に恵まれるさ」
「いらないです!」
きっぱり言うと、キイはやっと諦めてくれた。
「ちぇ。そろそろ例の愛人に子が出来るかと思って、持ってきたのになー。ま、ソルティアの町で売りさばくか」
いやはや、商魂たくましい。
「で、今日は泊めてもらっていいかい? 今からソルティアの町に向かったら、夜中になっちまうからね。もちろんお代は払うよ」
私はちょっと迷った。キイは馴染みの商人のようだが、私とは初対面だ。信用していいものか?
「マルクス。母屋にいる奴隷の人を何人か呼んできて。隊商の人たちが、本当に馴染みか確かめないと」
「あいよ」
そうして呼ばれてきた奴隷たちは、確かにキイを馴染みだと証言した。
そういうことなら、いいか。こちらは護衛の人もいるし、奴隷も大勢いる。見張っていれば変なことにはならないだろう。
「お嬢さんは疑い深いねえ。まだ小さいのに良いことだ。ま、あたしらはただの善良な商人だけどね!」
キイはそんなことを言って笑っている。
こうして、太陽の国の商人が滞在客になった。
キャラバンの商人たちには、母屋の一角を貸すことにした。
使用人たちが使う部屋で、グレードとしてはちょうどいいだろう。
キイともう一人の女性が同部屋で、残りの男性はひとまとめで別部屋になった。
「お風呂も使う?」
部屋に案内した後に一応、聞いてみた。もちろん別料金を取るつもりだったが、キイは首を横に振った。
「いんや。母なる河で沐浴はするが、あたしら砂漠の民に湯浴みの習慣はないよ。ユピテル人じゃあるまいし、貴重な水をザバザバ使って、もったいないったらありゃしない」
正直言うと彼女らは汗臭い。エキゾチックな香料の匂いが混じって、何ともヘンテコな感じだ。
だが、汗臭いのは奴隷たちも同じ。気にしても始まらない。
「さて、お嬢さん。女神像はいらなくても、何か欲しいものはないかい? あたしらは太陽の国からソルティアまで、ずっと商いの旅をしてきた。珍しいものがいっぱいあるよ」
「んー……」
私はちょっと考える。欲しいものと言われても、すぐには思いつかない。
「おやまあ。欲のない子だ。珍しいね、子供はみんな欲しがりなのに」
「おもちゃとか、そういうものは足りてるから」
何せ前世と通算すれば、四十歳オーバーのおばさまだからなぁ。子供みたいな物欲はさすがにない。
私が欲しいもの。うーん、魔法のさらなる知識とか? でも魔法は、南部大陸では全く発展していない。遺跡などは全て北で見つかっている。
……あ、そうだ! 私は思いついて聞いてみた。
「珍しい農作物はないかな。栽培が難しくなくて、高値で売れるの」
「へえ? 変わったことを聞くね。まぁ残念、そんなものはさすがに知らないよ。もしも本当にあれば、あたしは商人をやめて農民になるさ」
「むう……」
そう都合良くはいかないらしい。
「じゃあ、高値とか栽培とか条件はなしで、面白い作物の話が聞きたい」
長旅を重ねる商人たちのことだ。何かヒントが聞けるかもしれない。
「そうさね。じゃあ、話のお代に茶を飲ませておくれ。ついでに茶菓子もほしいねぇ。海岸線をずっと歩いてきたから、潮風と埃で喉が痛くって」
「あ、はい」
キイはにやにや笑っている。なかなか図太い人だわ。
キイと一緒に食堂まで行った。彼女の他にもキャラバンの女性と男性が一人ずつついてくる。
「ティト。お客さんがお茶とお茶菓子がほしいんだって。用意してくれる?」
「はい。すぐにお湯を沸かしますね」
厨房にいたティトがうなずいた。
しばらくして、ティトがお盆にお茶とお菓子を持ってくる。お茶は大麦を煎じたもの、お菓子は素朴な小麦の焼き菓子に蜂蜜をかけたものだ。どちらもユピテルではごく一般的な代物である。
「変わった作物の話をしてくれるんだって。ティトとマルクスも一緒に聞こう」
私たち三人も食卓の席についた。
「うんうん、ありがとう。甘味は旅の途中じゃ、めったに口にできないから。ありがたい」
キイはニコニコ笑ってお茶を飲み、お菓子をかじっている。
「さあて。それじゃあ、何から話そうか。うん、まずは定番の太陽の国の話から」
そう言って、彼女は語り始めた。
「あの国の名産は何と言っても小麦と大麦。いにしえのファラオの時代から、麦は人々の主食だった。ソルティアやテュフォン島も麦で有名だが、太陽の国はもっと大規模さ。毎年夏になると、母なるハピの河が
「へぇー! 氾濫」
元日本人の私からすれば、川の氾濫は厄介者以外の何者でもない。でも太陽の国では農業に大きな影響を与える一大イベントのようだ。
ユピテル本土やソルティアはいわゆる
それが太陽の国では、氾濫によって新しい土がやってくるとは。氾濫の時期は水浸しになって大変だろうが、土地を休ませなくても毎年、いい状態で農業が出来るのは大きなメリットだ。
キイは続ける。
「あとは、パピルスだね。パピルスになる葦は、母なる川のほとりにたくさん生えている。母なる川の女神はハピという名前で、子供である葦をたくさん養っているのさ」
「葦は、太陽の国の人たちが栽培しているの?」
私は聞いてみた。
「いいや? 葦は川や沼地に勝手にたくさん生えてくるからね。別にわざわざ人手をかけなくても、毎年山ほど茂っているよ。葦を茂らせるのは母なるハピの仕事。刈り取って、紙にするのは人間の仕事。そんなふうに言われているね」
「へぇ~」
私は考える。ソルティアは小さい湖や川が豊富だから、パピルスの種を持ってきて植えれば栽培できるのでは? パピルス紙はユピテルで大量に使われていて、なくてはならない必需品。今は太陽の国の専売状態だけど、キイの言い分を聞く限りでは種や苗の輸出規制とかそういうのはなさそうだ。
私はいずれ、魔法学院でしっかりと研究をしたいと思っている。この前シリウスが冊子を作ったように、紙の使い道はもっと増えるだろう。
それならば、今のうちにパピルスの栽培ノウハウをゲットして、良い紙を作る体制を整えてはどうだろう。
良質な紙はいいお値段がつく。栽培と紙作りの手間暇がどのくらいかまだ分からないが、収益性を高めて奴隷たちに楽をしてもらえるかもしれない。
現状のパピルス紙は、繊維を縦横に組んで接着する作り方の都合上、冊子にするのに多少の問題がある。折り曲げにやや弱い点と、裏面に字が書きにくい点だ。
パピルスの品種改良で繊維がより長くしなやかなものを作れば、その辺りも解決するだろう。接着の
「他には……」
考え込んだ私に構わず、キイは話を続けている。いい機会だからもっと聞いておこう。
「アロエなんかが面白いねぇ。アロエは、こーんなトゲトゲの葉っぱをしているんだけど」
キイは人差し指を立てて突き出す動作をしてみせた。
「硬い皮をむくと、中は透明のドロっとしたのが入ってるんだ。これは薬にもなるし、お肌のお手入れにもいい。食べても栄養がある。元は砂漠の植物で、旅人たちが見つけると、喜んで食べたと言うよ。葉の中身や根本に、たっぷり水分が入っているからね」
「アロエは、ユピテルの店でもたまに見かけるよ」
と、マルクスが言った。隣でティトがうなずいている。
「オクタヴィー様がお肌のお手入れに使っているのを見たことがあるわ」
「え? そうだったの? 知らなかった」
私が言うと、ティトは呆れた顔でため息をついた。
「ゼニスお嬢様は、もっとおしゃれやファッションに興味を持った方がいいですよ。あと何年かすれば、貴族の女性としてお化粧もするんですから」
「え……めんどくさ……」
とっさに言ってしまった。ティトの視線が痛い。
いやいや、私だっておしゃれとファッションは気にしているよ? アクセサリーだって買うようになったし、チュニカの帯も可愛い色を選んでいる。髪形だって頑張ってる。
おしゃれして可愛くなれば、私だって嬉しいのだ。ラスが「ゼニス姉さま、かわいいです!」と褒めてくれるのも励みになるね。
ただ、お化粧はめんどくさいなぁ。前世でも身だしなみ程度のメイクがせいぜいだった。
この世界は厚化粧だけど、クレンジングや石鹸すらない。手間がかかる上にお肌に悪そうだ。
そんなところに時間を使うくらいなら、魔法の勉強や研究がしたいじゃない。
「お嬢さんは、本当に変な子だねえ」
キイはカラカラと笑っている。
「悪かったね。別にいいじゃない」
私が言うと、キイは笑ったままで答えた。
「化粧品を売りたい商人としては、困るんだけどねえ。でも、私としちゃあ嫌いじゃない。私だって女だてらに旅の商隊を率いて、口の悪い奴らになんのかんのと言われるからさ」
隊商の人たちが苦笑いしている。
……そうだ。この古代世界は、男女平等など程遠い。腕力や体力に劣る女性は何事も不利。
「キイは、どうしてキャラバンをやってるの?」
「さて? 金儲けが好きだからかな?」
彼女はいつもの笑みを浮かべて答えた。それからふっと一瞬だけ、遠いところを見る目になって言った。
「同じところに長くいると、息が詰まるから。あたしには旅が必要なんだ。広い大地に寝泊まりして、星空を見上げている時だけ、あたしはあたしでいられる」
「……キイ?」
思わず名を呼ぶと、彼女ははっとしたように目を瞬かせた。
「おっと。ゼニスお嬢さんの変人っぷりがうつってしまった。今のは忘れておくれ。さてさて、次はどんな話をしようかねぇ──」
それからしばらく、私はキイの珍しい話をたくさん聞いて充実した時間を過ごした。
ただ、パピルス以上に良い作物の話は出てこなかった。
サトウキビの話になった時は「おっ」と思ったのだが、サトウキビから砂糖を作るのは重労働。前世の日本でも沖縄や奄美大島で栽培されていて、幕末・明治期まで小作農に非常に重い労働を課していた……というテレビ番組を見た覚えがある。
奴隷たちの酷使を改善したいのに、サトウキビは逆効果だろう。
なお、サトウキビは太陽の国では絞ってジュースにするそうな。甘くて子供から大人まで大人気であるらしい。
では、やはり新作物導入案はパピルスで決まりだろうか。
そんなことを考えていると、キイが言った。
「さっき、砂漠でアロエが生えていたら旅人は喜んで食べた話をしただろう。水は旅に欠かせないが、量を持って歩くと重いし、すぐに腐って駄目になってしまう。それであたしたちのようなキャラバンは、スイカを持って歩くんだよ」
「へ? スイカ?」
急に前世からお馴染みの果物が出てきて、私は首をかしげた。
「スイカはいいものだ。あれは一ヶ月も日持ちする上に、中身は新鮮な水が詰まっている。種や皮だって食べられる。水場のない砂漠を旅するには、必需品だよ」
そういえばスイカは、前世で熱中症予防に効果的だと言われていた。特に塩を少々振ってやれば『天然のスポーツドリンク』というほどに水分補給になると。
「キイ。今もスイカ、持ってる?」
「持ってるよ。ソルティアの農場でも、たまに栽培している所があるからね。商品を売るついでに買い付けているよ」
「見せて!」
私が言うと、キイは首をかしげた。
「スイカを? 別に珍しいものじゃないし、高価でもないが」
「いいから、いいから」
そこで私たちは外に出て、キイのキャラバンの荷物が置いてある納屋まで行った。
納屋の周辺はラクダとロバがつながれている。ラクダは少し離れた所で干している小麦の束に、熱視線を送っていた。残念だけどあげられないよ!
「ほい。これだ」
キイが荷物から取り出したのは、まぎれもなくスイカだった。
小ぶりの小玉スイカで、まんまるではなく少し楕円形になっている。
色はお馴染み、緑に黒のしましま。
「割っていい? ちゃんとお金払うから」
「どうぞ。大銅貨二枚だよ」
うむ、お安い。大銅貨二枚はだいたい四百円くらいだ。スイカ一個としてはお買い得じゃなかろうか。
ソルティアはユピテル国内なので、ちゃんと同じ通貨が使えるのである。ユピテルの通貨はとても信用があって、国内以外でも近隣諸国ならだいたいどこでも使える。
ティトが包丁を持ってきてくれたので、板の上に置いて切った。
思ったより硬くて少し苦労する。皮が厚めのようだ。
そうして中から現れたのは、オレンジ色の果肉! そして、たくさんの黒い種だった。
「オレンジ色なんだ」
前世のスイカは赤もしくは黄色だった。ちょっと意外で、切り口をしげしげと見つめてしまう。
「スイカといえば、普通はこの色さね」
と、キイ。
気の利くティトはスプーンも持ってきてくれた。半分に割ったスイカを持って、さくりと果肉にスプーンを入れる。
「いただきます!」
ぱくっと食べると、前世のような甘味はない。味は薄かった。
けれどもじゅわっと水分が口に広がって、なるほどこれは『砂漠の水筒』と言えるだろう。
モキュモキュ食べてぷぷぷぷと口から種を飛ばすと、キイが大笑いした。
「あっはははは! ゼニスお嬢さん、いい食べっぷりじゃないか。ユピテルじゃスイカは出回ってないと思ったが、ずいぶん食べ慣れているね」
「まあね」
前世でスイカは好物だった。学生の頃は大玉スイカをひと夏に何個も買って、家族みんなで食べたっけ。
一人暮らしになってからも、四分の一や八分の一のカット品を買って食べていたよ。
スイカ。天然のスポーツドリンク。
ユピテルやソルティアの夏は暑くて、重労働で倒れる人は少なくない。奴隷はもちろん貧しい平民もだ。
その中には恐らく、熱中症もかなりまじっているのではないか。
スイカとほんのちょっぴりの塩があれば、熱中症はかなり改善できる。
もちろん、熱中症だけが病気の原因ではない。そもそも栄養失調や、そうでなくても古代の医学レベルはとても低い。ちょっとした怪我や病気で人々はあっさりと死んでしまう。
けれど、せめて熱中症だけでも取り除けたら。
農場で働く奴隷たちや、ユピテル本土の肉体労働に従事する人たちの助けになるのではないか。
安価だから、あまり儲けにはならないかもしれない。安価でなければ普及しないとも言える。
収益は小麦や他の作物で補いながら、まずはスイカを栽培してみるのはどうか。
私が考えを整理していると、マルクスが言った。
「ゼニスお嬢様。そのスイカ? とかいうやつ、俺にも味見させてくれよ」
「うん、いいよ」
半割りのスイカとスプーンを渡す。
マルクスは果肉を口に入れて、私がやったように種を飛ばそうとして四苦八苦している。
「意外に難しいな、これ」
「まあね? 慣れは必要かな」
私がちょっとドヤ顔で言うと、彼は苦笑した。
「で、味は薄いがほんのり甘いな。何より水気が美味い。蜂蜜とミントを足せば、ジュースにいいんじゃねえか?」
「おお! いいね!」
「早速やってみる?」
「うん!」
割ったスイカを持って母屋に戻った。
手を付けていなかった方の半分から果肉をくり出して、ボウルに出す。種を出来るだけ取り除いて、軽く潰しながら混ぜた。
そういえば、ユピテルにミキサーという調理器具はない。
けれどこの前、野菜水切り器ことサラダスピナーを作ってもらった。
どういうものであるかきちんと伝えれば、手回しのミキサーを職人が作ってくれるだろう。ユピテルに帰ったら頼んでみよう。
「ジュースなら、布で濾したほうがいいんじゃないですか?」
作業を手伝いながら、ティトが言った。
「果肉の食感があった方が、口当たりが楽しいんじゃないかな」
「両方作ってみるか」
口々に言っているうちに、蜂蜜とミントを加えたスイカジュースが完成した。
「よし、冷やすよ!」
大きめのタライを持ってきて、私は久々に魔力回路を起動する。
全身に魔力を巡らせて、しっかりと手のひらに集めて。
『小さき氷の精霊よ、その息吹を十の欠片として、我が手に贈り給え』
ガラガラと音を立てて手のひらからタライに氷が落ちた。
「な……!? 何もないところから、氷が出てきたよ!」
キイとキャラバンの人たちがひどく驚いている。
「何をどうやったんだい!」
「魔法。私、魔法使いなの」
「ゼニスお嬢様は、ユピテルでも屈指の魔法使いなんです」
ティトが誇らしげに紹介してくれた。照れる。
「魔法……」
キイたちはまだ呆然とした様子だった。
タライにスイカジュースを入れたボウルを二つ、入れた。氷だけじゃなく水も入れた方が冷えやすいかな? よし。
『清らかなる水の精霊よ、その恵みを我が手に注ぎ給え』
手から水が注がれる。
「水まで……」
キイは口をぱくぱくさせている。ううむ、新鮮な反応だ。初めて魔法を見たらそうなるのかな。
私の周囲の人たちは魔法に慣れてしまって、ティトやマルクスはもちろん、フェリクスのお屋敷の人たちでさえ驚かないからなあ。
しばらくすると、ボウルのスイカジュースはよく冷えてきた。
「果肉ありとなし。飲み比べしてみよう」
ひしゃくですくってコップに入れた。
「さあ、いただきまーす」
まずは果肉ありのジュースを一口。
うん、おいしい。果肉の繊維質が残っていて、いかにもスイカという感じがする。蜂蜜の甘さとスイカ本来のわずかな甘味にミントの爽快さが足されて、暑い夏にぴったりの味だ。
果肉なしのジュースも飲む。
こちらもおいしい。さっぱりした上品な味わいで、ミントの爽やかさが際立っている。
「私はやっぱり、果肉ありの方が好きかなぁ」
私がそう言うと、ティトが答えた。
「あたしは果肉なしですね。すっきりしていて飲みやすいです」
「俺はどっちもいいと思うぜ」
と、マルクス。
「あ、そうだ。塩も足してみようよ」
「塩?」
「塩を足すと、甘味が引き立つでしょ。きっとスイカに合うと思って」
「そうだな。どれ、やってみよう」
塩の壺を持ってきて、小さじで少しずつ入れてみた。
「うん、おいしい!」
「何だか元気が出る味ですね。体にしみ込むような」
「甘いのだけより飲みやすい気がするぞ」
と、私たち三人がわいわい騒いでいる横で、キイとキャラバンの人々は無言でスイカジュースを飲んでいた。
「キイ、スイカジュースの味はどう? 気に入った?」
「……そうだねえ」
彼女はやっと口を開いた。
「正直、いつものスイカがこんなに美味いジュースになって、驚いてるよ。蜂蜜も塩も安いものじゃあないが、それでもちっと足すだけで、こんなにも変わるなんて……」
キイはコップを両手で握った。
「お嬢さんの魔法も、度胆を抜かれたよ。冷たい飲み物はとても美味いんだね。あたしはこんなごちそう、初めて口にしたよ」
「冷たい飲み物は、去年始めた商売なの。ユピテルでも大ヒットしたよ。でも『ごちそう』は言い過ぎじゃない?」
「いいや。あたしみたいな旅暮らしの商人は、美味いものを食べる機会なんぞありゃしない。ユピテルでも冷たい飲み物の商売をしていると言ったね。それは、誰が考えたんだい?」
「私です!」
私は胸を張って答えた。ちょっと照れくさいが、ここは誇っていいとみた。
「なんと、お嬢さんが……」
キイはまたコップを握って、何かを考える目になった。
横からマルクスが口を挟んできた。
「ゼニスお嬢様、このスイカジュース、アイスクリームにも使えるんじゃねえか? オレンジ色だが、オレンジとは味がぜんぜん違うだろ。意外性がある」
「お、いいね。ユピテルじゃスイカはあまり知られていないから、売り込みにもなるし」
この機会に水気たっぷりで熱中症予防になるフルーツとして、ティベリウスさんにプレゼンするのもいい。水分は人間全てに必要だもの。
「ねえ、キイ。スイカを仕入れられる農場を知ってるよね。教えてくれないかな? ついでにこの農場で栽培したいから、種と栽培方法を知っている人を紹介してくれると嬉しいんだけど」
平民や奴隷の水分補給だけでなく、富裕層向けのジュースの路線も出てきた。富裕層だって夏は熱中症の危険がある。予防は大事である。
将来的に甘いスイカを目指して品種改良してもいい。素人考えだけど、赤みが強くて甘いスイカを選んで受粉させて交配すれば、だんだん甘くなるのではないか。
「あぁ、もちろんいいよ」
キイはにやりと笑って答えた。何だか含みのある笑みだ。
「スイカの農場はいくつか馴染みがある。栽培に詳しい奴隷を一人二人、買い取れるよう交渉してあげるよ。それにお嬢さんは、珍しい作物に興味があるよねえ。太陽の国、もっと東や南の国々まで、あたしが見てきたものを全部教えてあげよう。欲しいものは取ってきてあげよう」
「え? そこまでしてくれるの?」
「そうともさ。その代わりと言ってはなんだが──」
キイは手の中のコップをくるりと回して、スイカジュースを揺らした。それから一口飲んで言った。
「あたしを雇っておくれ。ゼニスお嬢さんの氷の商売、それにその魔法とやらに、次から次へと出てくるアイディア。ただのスイカをごちそうにする、見事な手腕。全部に惚れたのさ。あんたは必ず大物になる。だからあたしは、ついていくよ」
「えええぇ!」
急に飛び出た宣言に、私は思わず声を上げた。
どうしよう。キイの申し出はありがたくはある。
太陽の国とソルティアを行き来している彼女は、地理はもちろん各種の作物や商品に詳しいだろう。スイカに関してもコネがあるなら、種や人員の確保はスムーズに行くと思う。頼もしい人材といえる。
でも私と彼女は、今日出会ったばかり。
したたかな商人であるキイを、二つ返事で信用はできない。
それに、フェリクスのお抱え商人たちとの兼ね合いもある。私の一存では決められない。
「……悪いけど、すぐには決められない」
だから私は言った。
「私は見ての通り子供で、この農場は私の師匠のものなの。師匠は今、南の別の農場に行ってる。彼女が帰ってきてから相談しないと、何も決められない」
ところがキイは笑みを崩さずに言った。
「構わないよ。あんたがいくら賢くても、子供なのは見れば分かるからね。決定権はないだろうさ。それに、あたしを信用できないのも当然だ。そのくらいの慎重さがなければ、逆にこっちからお断りさね」
「むう」
私は眉を寄せた。見透かされている。
「で、その師匠とやらはいつ帰ってくるんだい?」
「あと一週間くらいかな」
予定ではそのくらいである。
「じゃあ、その一週間でスイカと栽培に詳しい奴隷の買い付けをしてくるよ。それを手土産に、お師匠様にくれぐれもよろしくと頼み込んでみよう」
スイカと奴隷が同列に並べられている。さすが物扱い……。
いや、それはともかくだ。
「それでも、師匠を説得できるか分からないよ。あの人、変に気難しいところがあるから」
「そうかい? それじゃあ腕の見せどころだね。あたしは何としてでもあんたに雇ってもらうよ。売り込みは得意だ。それが物でも人でも、ねぇ」
キイはそう言ってカラカラと笑った。自信に満ちていて、断られるなんてこれっぽっちも考えていない様子だった。
「さあて。それじゃあ今夜は、スイカジュースのお代と将来の雇い主への礼儀を尽くすつもりで、面白い話をいっぱい聞かせてあげよう。太陽の国の女王様のゴシップから、最新の化粧の流行。薬師たちの軟膏のレシピに人気のモザイク画のモチーフまで、何でもござれだよ。ゼニスお嬢さん、何が聞きたいかね?」
そうして私は、彼女の言葉通り珍しい話をたくさん聞いて、大満足の時間を過ごしたのだった。
翌朝、キイたちキャラバンは農場を出発していった。
スイカをいくつかの他、アロエの化粧品などをお土産として置いていった。
スイカはとりあえず食べた後、種を土に埋めてみた。ちゃんと育つかどうかは分からない。
農場の小麦の刈り取りはだいたい終わって、今は脱穀をしている。
奴隷たちの仕事を手伝おうとすると恐縮されてしまうので、手は出さない。その代わりあちこち見て回って、農場の仕事をよく覚えておくようにした。基本、故郷の田舎村の規模を大きくしたような感じなので、違和感なく覚えられたよ。
それでも時々よく分からない点がある。その時はハミルカルが教えてくれた。賢い子だ。
そうして、一週間後。
同じ日の午前中にオクタヴィー師匠が、午後にキイのキャラバンが農場に戻って来たのである。
先に帰ってきたオクタヴィー師匠が言うには、南の農場は特に問題なく回っていたようだ。
師匠は一人の奴隷を連れてきた。三十歳前後の男性で、管理人候補ということだった。
「解放奴隷だとつけあがるから。奴隷身分のままで管理人にするわ」
だそうで。
私はキイの件を伝えた。
「そういうわけで、近いうちにキャラバンが来ます」
「ふうん。ま、来たら話は聞くわ。それにしてもスイカねえ。皮を額に当てて解熱剤にすると聞いたことはあるけれど、食べるとは知らなかったわ」
ユピテルでスイカは薬剤扱いであるらしい。
師匠はアロエの化粧品の壺を手にとって、あれこれ試していた。
そして午後、キイのキャラバンが到着した。
母屋のリビング兼応接間で、オクタヴィー師匠と私とで出迎える。
キイが口上を述べた。
「お初にお目にかかります、オクタヴィー様。それからお久しぶりでございます、ゼニス様。ゼニス様のご命令どおり、スイカの仕入れと栽培に詳しい奴隷の買い付けをしてまいりました」
キャラバンの男性に連れられて、三十代くらいの女性の奴隷が礼をした。
それにしてもキイの口調がやたら丁寧だ。私にはほとんどタメ口だったくせに、相手を見ているのか。別にいいけどさぁ。
「この者は、元の農場で長らくスイカを栽培していた者です。任せておけば、まず間違いはないでしょう。スイカ以外でも働き者で、キャベツやオクラの栽培も得意です。手土産として差し上げます」
「あっそう。もらっておくわ」
師匠が鷹揚にうなずいた。まだキイを雇うと決まったわけじゃないのに、もらえるものはしっかりもらうのである。
「他にも、フェリクスのお嬢様にふさわしい商品をお持ちしました」
キャラバンの男性が箱を持ってきて、開けた。中には色とりどりの顔料が入っている。
師匠は興味深そうに身を乗り出した。
「これは?」
「太陽の国で流行中の、最新の化粧品でございます。彼の国では今、上のまぶたに黒のラインを引いて、下のまぶたには緑のラインを引くのが人気です。オクタヴィー様のエメラルドのような緑の目に、さぞ似合うかと存じます」
「ふふん。いいじゃない」
師匠はご満悦だ。
私は思わず呆れた目でキイを見た。初めて会った師匠に対して、まあ、言うわ言うわ。
彼女は私の視線に気づいて、ちらりと笑った。
その表情を見て、私は悟った。一週間前の夜、彼女は面白い話をたくさんしてくれた。しかし同時にさりげなく、オクタヴィー師匠の情報も聞き取りをされていたと。師匠好みの化粧品を取り出してみせたのは、そのためだ!
「他にも、アロエの化粧品は肌を健やかに保ちます。ええ、ゼニス様にお土産として預けたお品の他に、こちらの金粉をまぶした最高級品もございます。それから、こちら」
キイは別の箱を取り出した。開けると、小さいアロエの鉢植えが入っている。
「こちらは、ゼニス様に。アロエを育てるための若株でございます。育て方はそこの奴隷が知っていますので、任せるとよろしいでしょう」
育てる用の株なんて持ってたの! この前は言わなかったくせに。
私はモヤモヤしながらも、箱は受け取った。アロエを手元で育てられれば、高く売れる。楽しみだ。……師匠だけでなく私の好みも見透かされていた。
キイは他にも珍しい香料だとか、太陽の国の面白エピソードなどを交えて話しつつ、ついに本題に入った。
「ところで、オクタヴィー様。キイはゼニス様の才覚に感服いたしました。スイカは水筒代わりの安い果実ですのに、あれよあれよと言う間に美味なジュースに変わって。氷で冷やしたジュースは、今まで飲み食いしたどんなものよりも美味なごちそうでした。オクタヴィー様の指導がよほど良かったのだろうと、心打たれております」
「ふふ、そうよ。分かっているじゃない。この子は天才だけど、変な子でね。いつも暴走しておかしなことをやっては、周囲を驚かせるの。私と兄様とでしっかり導いてやらないと、どこかへ飛んでいってしまうわ」
失礼な! 私はいい年した大人だよ? そんな糸の切れた風船みたいに言われるのは不本意だ。
あと天才はどうなんだ。単なる前世知識だが……。
などと思いながら口に出せないうちに、二人の会話は進んでいく。
「才能豊かなフェリクスのお嬢様方に、キイはぜひお仕えしたいのです。お二人のためならば、このキイ、南部大陸の果てまで行って珍しい品物を探して参ります。自分で言うのも何ですが、キイは役に立ちます。『冷蔵運輸』の商品も、いくつか心当たりがございますよ」
「…………!」
オクタヴィー師匠の表情に一瞬だけ緊張が走ってすぐに消えた。
冷蔵運輸の件は、まだ公にしていない。各地でフェリクスと運送ギルドの息のかかった商人たちが、商品の選定や輸送のルートなどを検討している段階だ。
ひた隠しにしているわけではないとはいえ、キイは一週間でそれを嗅ぎつけた。
ネットも電話もない時代、情報収集の手段は限られる。フェリクスの氷の商売すら知らなかった彼女が、この短期間でそこまでたどり着いたのはさすがだと思う。
やがて師匠は言った。
「熱意は買うけれど、まあ、もう少し考えるわ。今日は下がりなさい。宿泊は許可しましょう」
「ありがとうございます。何卒よしなに」
そう言って、キイとキャラバンの人たちは部屋を出ていった。
残ったのは師匠と私、それに壁際に控えていたティトとマルクスである。
「……まったく。ゼニス、きみは妙な人間とよく知り合うわね」
師匠はため息をついた。私は答える。
「能力は確かだと思うんです。前に一晩話を聞いて、話題がすごく豊富でした。ただ、どこまで信用していいか不明で」
「飛び込みの人間だものね。冷蔵運輸はフェリクスの大事な大事業。そう簡単に外部の人間を入れるわけにはいかないわ」
いろいろと贈り物をもらってしまったが、やはりそうなるか。
「ただ……」
少し間をおいてから、師匠は続けた。
「南部大陸は、フェリクスも運送ギルドもちょっと手薄なのよ。ユピテル半島の本土とグリアなんかの東方は、じゅうぶん手が回っているのだけど。特に太陽の国は、属国でもない外国。あちらはあちらで独自の商業網が発展していて、運送ギルドも手が出しにくいみたい」
ふむ。であればキイの入り込む隙もあるか?
「試用の価値はありそうね。彼女、幅広い商品に詳しそうじゃない。冷蔵運輸で取り扱うのは、主に生鮮品。食料と薬草などを含めたナマモノよね。太陽の国や、もっと南の方の掘り出し物があれば組み入れたいのが本音よ」
「そうですね」
ふと、私の脳裏に一つの可能性が浮かんだ。単なる美辞麗句とはいえ、キイは「南部大陸の果てまで行って珍しい品物を探して参ります」と言っていた。
彼女を軸に探検隊を出して、南部大陸の未発見の植物や作物を持って帰ってもらうのはどうだろう。いわゆるプラントハンターである。
もちろん、彼女が信用できるかどうかという話をしている現段階では、時期尚早だ。
けれどキイが本当に信用できてやる気があるのなら、将来的に実現しうるかもしれない。
「太陽の国の冷蔵運輸は、イスカンダリーヤの港町を使うわ。さすがに陸路でソルティアまで来るのは、時間がかかりすぎるもの。あの港町は、大規模な商業都市でもある。運送ギルドの既存ルートと並行して新しい商品を仕入れられるなら、キイを雇ってもいいわね」
「おぉ?」
師匠の前向きな言葉に、私は目線を上げた。
師匠は機嫌の良い顔でもらった化粧品の箱を撫でた。
「太陽の国は昔から化粧品が豊富なの。もちろん輸入はしているけれど、なかなか現地の細かいものまでは集められないじゃない。この化粧箱、箱からしていいものだわ。パレットの色もツボを押さえている。この色でアイラインを引いて、口紅塗って。あぁ、楽しみ」
あ。買収されてる。
まあ私もアロエとスイカで買収されたから、人のことは言えない。
そんなわけで、キイの採用が決まった。
夕食後、リビングにキイを呼んで採用の旨を告げると、彼女はたいそう喜んでいた。
「ありがとうございます。このキイ、誠心誠意、お嬢様方にお仕えします」
キイみたいな人の『誠心誠意』はちょっとうさんくさいが、とりあえず置いておこう。
オクタヴィー師匠が言った。
「さっそくだけど、商品に心当たりはあるかしら? 冷蔵の強みは商品が腐らず長持ちすること。それを生かしたものを教えて頂戴」
「はい。でしたら、太陽の国伝統の軟膏がよろしいでしょう」
キイはうなずいた。
「太陽の国では、皮膚の保護に軟膏がよく使われます。あの国は砂漠の国。昼間は焼けるほどに暑く乾燥しておりますので、皮膚を守ってやる必要があるのです」
「なるほどね。けど、それは冷蔵運輸を使うようなものかしら?」
「もちろんでございますとも。軟膏のレシピは基本的に秘伝ですが、蜂蜜やミルクなどの素材も多く使われます。そのままでは日持ちがしませんが、冷蔵運輸で船に載せて運べば、ユピテルのご婦人方の美容に役立つことでしょう」
「あら、いいわね」
化粧品大好きの師匠はうなずいた。
「キイ、軟膏職人にツテはある?」
「ございますよ。女の身で商人なぞやっていると、やはり女性目線で商品を選びますからね。イスカンダリーヤの軟膏職人街は、懇意にしている職人が何人もおります」
「よろしい。では、フェリクスと運送ギルドの者をイスカンダリーヤに派遣するわ。キイはその者たちと落ち合って、案内と手配をお願い。……マルクス」
「はい」
壁際からマルクスが進み出て、何やらテーブルの上に置いた。見れば、小さな陶器のタイルである。
マルクスは小ぶりなハンマーを取り出して、タイルを割った。二分割された片方をキイに手渡す。
「割符よ。もう片方はフェリクスの使いの者に持たせるから、互いに確認しなさい。イスカンダリーヤは、今から向かえばいつ頃到着するかしら?」
「寄り道をせずにまっすぐ帰れば、一ヶ月少々ですね」
「では六月の十日に、イスカンダリーヤの市場の入り口で落ち合うように」
今は四月の下旬だ。妥当な日程だろう。
「かしこまりました。それで、オクタヴィー様」
キイが揉み手をしている。
「このキャラバンは、本来ならばソルティアの町まで行って商談をたくさんこなす予定でした。それをまっすぐ帰るとなれば、損失が出てしまいます。何卒、そこもお考えいただければ」
「はあ。まぁ、そうね」
師匠は肩をすくめた。私は小声で言う。
「商談が終わってから太陽の国に戻ってもらえばいいのでは?」
「そう簡単な話ではないわ。試用とはいえ、雇い主の信用問題でもあるもの。それに六月の十日であれば、兄様の結婚式にぎりぎり間に合う」
イスカンダリーヤからユピテルまでの航路は、風が順調であれば一週間程度。商品を買い付ける時間を考えても、六月後半の結婚式に滑り込みで間に合いそうだ。
師匠はキイに向き直った。
「分かったわ。いくら必要?」
「えー、金貨にして千枚ほど」
「…………」
あまり表に出さないようにしているが、私には分かる。師匠の表情が渋くなった。
今回、元管理人の横領騒ぎのせいでだいぶ損失が出ている。それに加えて金貨千枚の出費は、なかなか痛い。
「オクタヴィー様、こういうのはどうでしょう」
口を出したのはマルクスだ。
「あの管理人が残した悪趣味な像やら高価な布やら、あれを現物で引き渡すんです」
「あら。そういう手もあるわね」
師匠はうなずいたが、反対にキイの表情が酸っぱくなった。
「かさばったり重すぎるようなものではないし、旅の邪魔にならないでしょう」
「はあ。まあ、そうですが。金貨現物の輝きには届かないというか……」
「きちんと査定して、不足分は金貨で支払うわ。それで飲み込みなさい」
「はぁ……。ま、今後のお付き合いを考えれば悪くはないですけどね」
キイは酸っぱい顔のまま目をぐるっと回した後、うなずいた。
品物の査定は、明日明るくなったらやることにする。
こうして話はまとまったのだった。
翌朝から元管理人の遺物(?)の査定が始まった。
査定は数日かけて行われて、出た金額は金貨七百五十枚也。残りの二百五十枚分を金貨で支払った。
その頃にはキイも機嫌を直していて、割符を大事に抱えて東へと旅立って行った。
その間、私は新しくやって来た奴隷に話を聞いて、スイカとアロエの栽培を始めた。
といっても、スイカは種を植えただけ。アロエは株を鉢から畑に移しただけである。
「これがアロエかあ。変な形ですね!」
ハミルカルは面白がって手伝ってくれた。
農場の仕事は脱穀もだいぶ終わって、少し落ち着いた雰囲気になっている。次の繁忙期は秋の小麦の種まきだ。それまでは果樹と家畜の世話をしたり、野菜を作ったりして過ごす。放牧している羊の毛刈りや、羊毛梳き・糸紡ぎもやる。家畜たちの餌になる牧草刈りの時期は、もう少し後かな。
落ち着いたと言ったけど、それはあくまで繁忙期と比べての話。農場の奴隷は一年を通して働き詰めだ。
そろそろ四月も終わりが近づいている。
五月になれば南風が吹いて、ソルティアからユピテルへ船で行くのにいい季節になる。
この農場はまだまだ心配が多い上に、スイカやアロエの育ち具合も気になる。仲良くなった奴隷たちと離れるのは寂しい。
けれどいつまでもユピテルを留守には出来ない。
もうすぐ、北へ帰る時期が来る。