ソルティア到着

さらに翌日。今日はとうとう、ソルティアに到着する予定だ。

前日の魔力不足から回復した私は、朝から甲板に出て進路方向を眺めていた。

左手にあったテュフォン島は遠ざかって、水平線の向こうに消えようとしている。

そしてだんだんと、南部大陸とソルティアが見えてきた。

午後になる頃にはソルティアの町がはっきりと確認できた。

ソルティアはユピテルに滅ぼされる前は、海運と商売で莫大ばくだいな富を築いた商人たちの国だった。

今は一大農業地帯としてユピテルの穀倉になっている。小麦をユピテルへ運ぶために海運の重要性は変わっていない。

「かつてのソルティアは、町の海岸線に巨大な城壁が連なっていたそうですよ。海の門に海の城壁ですさね」

航海長が教えてくれた。

「今はもう、門も城壁も取り払われて残っていないが。それでもソルティアはいい港ですよ。ほら、北に突き出した岬に町があるでしょう。しかも岬はくびれた形をしている。ああいう土地は周りが入江になっていて、天然の良港なんです」

確かに、近づきつつあるソルティアの町は湾曲した岬の先端にある。昔、海の覇者として名をせていた都市国家ソルティアとしては、砦を築いて守りやすい位置でもあったのだと思う。

ソルティアはユピテルと違う民族が造った都市国家だった。彼らは海の民として、航海技術や港の建設に精通していたとのことである。

やがて私たちの船は、岬の入り江に入った。

現在は城壁の影も形もなく、何隻もの商船が出入りしているだけだ。

「今回の航海も無事に終えられた。ウェヌス神とミネルヴァ神、ウルカーヌス神のご加護に感謝を」

航海長が言って、ワインのアンフォラを取り出した。盃に一杯分、なみなみと注いで、中身を海に流す。

「こうやって港に入った時に、神に感謝して、簡単な儀式をする習わしなんですよ」

「そうなんですね」

三人の神様には、出発時もお祈りをしたね。それに船首像はウルカーヌス神。筋肉ムキムキマンの炎と鍛冶の神様だ。

船は櫂を出して漕ぎ、さらに港を進んでいく。

とうとう港に接岸した。どん、と岸壁にぶつかった衝撃がある。錨が下ろされて、もやい綱が渡される。

奴隷の人に板を渡してもらって、船を降りた。

「やったわ! 足元がぐらぐらしないで、しっかりしてる。陸地バンザイ!」

ティトがほっとした顔で呟いている。

「ほんとよね。もう船はこりごり……だけど、帰りも乗るのよねえ」

オクタヴィー師匠はうんざりした様子だ。

「私は楽しかったですよ! ぐるっと周り中がきれいな海で、青空と境目がなくなって、すごい風景でした」

私が言うと、マルクスもうなずいてくれた。

「俺、生まれて初めて船に乗ったよ。新鮮だった。遠くでイルカが跳ねたりして」

「え、イルカいたの。見たかった」

私はイルカがけっこう好きなのだ。流線形でかわいいじゃないか。

「ゼニスお嬢様が魔法の使い過ぎで倒れてる時にな」

「えー! 起こしてよ。イルカと一緒に泳ぐの、夢なんだよ」

「さすがに無茶だろ」

いいや、前世の沖縄でそういうアクティビティーがあったのだ。旅サイトの動画で見た。ブラック社畜だったせいで時間が取れず、イルカとの触れ合いは実現しなかった。死ぬと分かっていたら、もっと旅行に行ったのに。悔しい。

あ、でも、今はこの世界で旅を楽しんでいるんだった。じゃあいいか!

私は気持ちを切り替えて、ソルティアの町を目指して歩いて行った。


ソルティアの町はユピテルに戦争で負けた際、一度徹底的に破壊されている。その上で再度建設された町並みは、ユピテル式。だからメスティアの港町とよく似ていた。

ソルティアの町にはさすがにフェリクスの別邸はない。別荘は農場に併設されていて、町にはないのだ。だけど付き合いのある貴族の別荘があったので、そこに泊めてもらった。

別荘はなかなか立派な建物で、浴室もちゃんとある。船旅の間はお風呂に入られなかったので、ありがたく堪能した。

夕食も豪華で、正式な宴席に近い感じ。

オードブルは牡蠣とムール貝のソース添え。クミンのスパイシーな香りがきいたソースが、貝の味を引き立てていた。

第一メインディッシュは海菊貝とタコ、それに小鳥のロースト。ソースはアスパラガスを使ったものだ。アスパラの爽やかな味が、シーフードにも小鳥にも合っている。

第二メインはマグロのオイル焼き、アピキウスソース添え。アピキウスは人の名前で、美食家として有名な資産家である。彼はいろんな料理のレシピを考え出して発表した。

今回の『アピキウスソース』は、酢と蜂蜜、オリーブオイル、胡椒、ハーブ類、それに固茹で卵を刻んだもの。これらを混ぜ合わせてソースにすると、複雑な味が楽しめる。意外にもお魚と合うんだよね。卵と酢を使うので、マヨネーズにちょっとだけ似ているかもしれない。

そのようなわけで、シーフード中心のおもてなしを受けた。

船では調理器具と食材が限られていて、ごちそうは望めなかった。

しっかりお風呂に入ってごちそうでお腹いっぱいになって、オクタヴィー師匠も私も大満足である。

食後に確認したら、ティトやマルクスたちもそれなりに良い食事だったとのこと。良かった。

「これだけのおもてなしを受けて、お礼はどうするんですか?」

客室でくつろいでいた時に、師匠に聞いてみた。

「基本は借りね。ここの主が首都に来た時には、同等かもう一段階上のグレードでもてなすわ」

「へぇ。それでいいんですか?」

「いいのよ。お互い様だもの。私たちはソルティアに行く用事があった。ここの主人はユピテルに行く用事が出来た時、フェリクスを利用できる。ギブアンドテイクでしょ」

なるほど、そういうものか。

貴族は体面を重んじる。借りを作っておきながら踏み倒したとなれば、メンツが潰れてしまう。そうならないようしっかり借りを返すつもりなのだろう。

さて。お腹がいっぱいになったら、眠くなった。船旅の疲れが出たらしい。

私たちは数日ぶりに、陸地のベッドでぐっすりと眠ったのだった。


翌朝目覚めると、空は薄曇りだった。

南部大陸にあるソルティアは、北の大陸のユピテルよりも一回り気温が高い。まだ四月だというのに、もう夏の気配が感じられる。

今日は農場まで移動するから、カンカン照りではなくてラッキー。日焼けしてすごいことになっちゃうよね。この国に日焼け止めクリームはないので、ストールをかぶっておこうかな。

ソルティアにフェリクスの農場はいくつかあるが、まずは手近な場所へ行くことにした。

馬車で半日程度の場所に、農場はある。

お世話になった別荘のご主人が馬車を貸してくれた。至れり尽くせりである。

私たちは別荘のご主人にお礼を言って、出発した。

ソルティアの町から延びている街道は、道幅も広くて整っている。たぶん近隣の農場から農作物をソルティアまで運んで、そこから船でユピテルに持っていくためだと思う。

周囲の風景は広々としていた。海と反対方面では、地平線も見える。

なだらかな丘と平原の中に時折、河川や小ぶりな湖が点在している。農園はそれらの水を利用しているようだ。水辺の周囲や所々に低木が茂っていた。

ユピテル本土は灌漑かんがいがあまり発達していなくて、自然に降る雨や冬の間に降った雨を溜めておいた貯水池の水を使って農業をする。

けれどここらでは、小規模ながらも湖や川から用水路を引いて水を利用しているようだった。

私たちは左手に海を見ながら、東へと進んでいく。所々にユピテル式の農園が見える。

やがて馬車は一つの農園の前までやって来て、止まった。

「出迎えの人がいませんね?」

私が言うと、オクタヴィー師匠は肩をすくめた。

「視察だもの、抜き打ちよ。何月何日に行くと前もって知らせたら、見られて困るものを全部隠されちゃうでしょ」

「なるほど……」

私たちが馬車を降りて農園に入ると、奴隷の身なりをした男性が飛んできた。

「お、お貴族様……フェリクスの、お嬢様!?

「そうよ。お前たちの主人よ。管理人はどこ?」

オクタヴィー師匠は威厳のある態度で言った。

管理人は農園の管理者。奴隷や解放奴隷が務めるケースが多い。

管理人の采配する範囲は広くて、農場の売上は管理人で決まるとさえ言われる。

この農場では、解放奴隷の三十代の男性が務めていると聞いている。

「あ、あそこ……です」

奴隷の男性は困った様子で、農場の家屋の辺りを指で指した。見れば何人もの人が集まっていて、何やら騒ぎになっているようだ。

少し立派な身なりをした男性が一人、それに彼の前に膝をついている少年が一人。さらに彼らを取り巻く奴隷たちが五、六人ほどいた。

何をやっているのだろう? 私は目を凝らしてみた。

身なりのよい男性は管理人と思われた。血色の良い顔で手に革のムチを持っていて、これみよがしに少年の前で振っている。

少年は私と同じくらいの年頃に見えた。九歳か十歳そこそこだろう。粗末な身なりをしているので、彼も恐らく奴隷。濃い褐色の肌に癖のある黒髪をしている。南部大陸人の特徴だ。

バシンとムチを地面に打ち付けながら、管理人が言う。

「ハミルカルよ、てめえ、何度言っても分からんようだな」

少年が子供らしい高い声で答えた。

「分かってないのはお前だろ! アビおばさんは、この前の農作業で足を痛めたんだ。腫れてひどい有様なのに、休まず働けってどういうことだよ!」

「ハミル坊、もうおよしよ」

中年の女性がおろおろと言った。足に布を巻いている。この人がアビだろう。

「あたしのことはもういいから。管理人さん、もう許してやって下さいな。言われた通り、働きます」

言いながら、アビの表情は苦しそうだった。遠目にも動きがぎこちないのが分かる。下手をしたら骨折しているのかもしれない。

少年は立ち上がって管理人をにらみ上げた。

「良くない! 管理人はいつもそうだ。本当の怪我や病気も仮病だと決めつけて、働き詰めにさせる。セムじいちゃんが死んだのも、無理が祟ったせいだ!」

「口答えするな!」

ハミルカルが言うのと同時に、ムチが空を切った。ヒュ──と音がして、次に激しく打ち据える音。ハミルカルの二の腕の辺りが真っ赤になって、血が滲んでいる。

「やめて!」

私は思わず走り出した。ティトの制止の声が聞こえたが、足を止められなかった。

ムチの二撃目を繰り出そうとした管理人と少年の間に、飛び込むように割って入る。

「あぁ? なんだ、あんたは?」

管理人はじろりと私をにらんだ。私の服装は貴族の子供のもの。彼は警戒したらしく、とりあえずムチを引っ込めた。私は声を張り上げる。

「いくら奴隷でも子供をムチ打つなんて、どういうつもり!? しかも話を聞く範囲じゃ、怪我をした人に無理をさせようとしているよね。何様のつもり!」

管理人はせせら笑った。

「子供と言いますがね、こいつはもう九歳だ。幼児じゃない。半人前とは言え、仕事をやっている奴隷。つまり家畜ですよ!」

家畜! あまりにひどいものの言いように、私は頭に血が上るのを感じた。

「なにそれ、ひどい、ひどすぎる! 奴隷だって人間でしょう。そんな言い方は許さない!」

「許すも、許さないも。豚や羊みたいにキーキー鳴く獣は、鳴き声を発する家畜。奴隷は言葉を喋る家畜。こればっかりは事実でしょうよ」

平然と言われたセリフに、私は言葉を失った。

改めて周囲の奴隷たちを見回してみても、誰もショックを受けた様子はない。つまり、日頃からそう言われてそういう扱いをされているんだ。

そして目に入った奴隷たちは、誰もがやせ細っていた。ボロボロで汚れたチュニカを着て、骨の浮く手足に落ちくぼんだ目をしている。

ユピテル本土の奴隷たちはこんな有様ではない。彼らは最低限の衣食住が保証されている。

なのに彼らの様子はどうしたことか。

「ゼニス。あまり現地のやり方に口を挟むものではないわ。きみは優しすぎるのよ」

オクタヴィー師匠が追いついてきて、言った。

管理人がぎょっとした顔をする。

「これはこれは、フェリクスのお嬢様。どうしたんですか、こんな場所までやって来るとは」

「視察。この農場の収支が悪いから、確認しにきたの」

「そ、それは急なことで……」

先程までのムチを振りかざしていた態度はどこへやら、管理人は急に汗をかきながら縮こまった。

「農場の帳簿を見るわ。マルクスと、あとはそこのお前とお前。ついてきて頂戴」

「はい」

師匠はマルクスと使用人を何人か指名して、母屋へ入っていった。

残ったのは私とティト、護衛役の奴隷の人、それから農場の人々である。

「アビ。足を見せて」

私は奴隷の女性に話しかけた。彼女はびくっとする。

年上の人だからさん付けで呼びたいけど、立場上そうもいかない。呼び捨てにさせてもらおう。

「お嬢さんは、お医者なので?」

すっかり意気消沈した管理人が言った。ムカつくのでこいつには返事をしない。

「でも、あ、あたしは……」

アビはどうしていいか分からない、という顔をしている。

するとハミルカル少年が立ち上がって、彼女に肩を貸した。

「そこの入り口にベンチがあるから、座って見てやって下さい。お願いします」

母屋の隣の建物のところに、ベンチが見える。

「怪我人とハミルカル以外の奴隷どもは、仕事に戻れ!」

管理人がムチを振り回して奴隷たちを追い払っている。止めてやろうかと思ったが、ハミルカルが首を振っているのに気づいてやめた。

アビは少年の肩を借りながらも、何とか歩いている。

ベンチに座ってもらって足を見ると、足首の辺りがかなり腫れ上がっていた。いかにも痛そうで、私は眉を寄せた。

「この怪我はどうしたの?」

私が聞くと、アビが答える。

「小麦の収穫の仕事をしている時に転んでしまって。くじいたんです」

「怪我をしたのは何日前?」

「ええと……」

「三日前です」

指を折って数え始めたアビに代わって、ハミルカルが素早く答えた。

骨折と打撲の見分け方は何だったか。前世の自動車免許の救急講習の時、講師が「これはおまけですが」と教えてくれたのを思い出す。

患部は青黒く腫れ上がっているけど、変形はしていないように見える。

「ぶつけた時に、骨から変な音がしたとかそういうことはなかった?」

「そこまでは、なかったです」

「ごめん。ちょっと触るね」

そっと足を触ると、アビは顔をしかめた。が、泣き叫ぶのをやせ我慢しているとか、極端な雰囲気ではない。

「たぶん、骨は折れてないと思う」

素人判断で申し訳ないが──と言いかけて、私は口をつぐんだ。奴隷たちは恐らく、怪我をしても病気になっても医者にかかるのは出来ない。なら、せめて私がしっかりしないと。ハッタリでもいいから安心させてあげたい。

「安静にしていれば、だんだん良くなるよ。一週間もすればだいたい腫れが引いて、もう一週間で良くなると思う。目安だけどね」

「そうですか……!」

アビがぱっと明るい表情になった。

捻挫は怪我をしてから二、三日が一番痛い。きっと苦しい思いをしていたんだと思う。それが良くなる見通しが立って、安心したのだろう。

「ならあと二週間、アビおばさんは休んでないと駄目だよな?」

どこか慎重そうな様子でハミルカルが言った。

「そうだね。二週間は農作業みたいな足を使う仕事をやっては駄目」

私が答えると、彼はホッとしたような笑みを浮かべた。だが、管理人は不満を唱える。

「二週間も! お嬢さん、それは甘すぎです。春のこの時季は収穫で大忙しだ。人手はいくらあっても足りない。売上に直結しますよ? それにそんなに休ませたら、奴隷に怠け癖がついてしまう!」

ハミルカルが言い返した。

「馬鹿言うなよ! アビおばさんは働き者だ。あんたのお気に入りのシュファが怠けるから、おばさんはあいつの分まで働いて、それで疲れて転んじまったんだ!」

「小僧、いちいちうるさいぞ! 俺はフェリクスのお嬢さんと話しているんだ。口を出すな!」

管理人はムチをちらつかせた。私がすぐそばにいるので、さすがに振り上げるのはしない。

管理人と奴隷たちの関係は相当にこじれているようだ。

オクタヴィー師匠はこの農場の売上が落ちていると言っていた。怪我人にムチを打って働かせるなんて、どう考えても間違っている。無理をさせても作業ははかどらないのに。

「シュファっていうのは、管理人の愛人なんです。美人だけど嫌な女で、皆から嫌われてる!」

ハミルカルが必死に私に訴えてくる。

「お嬢さん、この管理人を今すぐにクビにして下さい! こいつが管理人をやっていると、悪いことばっかりだ。いつもコソコソと動いて、隠し事してる!」

ハミルカルは私をまっすぐに見て言ってくる。管理人を見ると、再び汗をかいていた。

なんか、ちょっと変な感じだ。

今、私が見たのは管理人が奴隷たちを不当に虐げていた場面。それなのに『コソコソと動いて』『隠し事をしている』?

「……とにかく、アビは二週間は安静にしていて。家の中で座ってできる仕事があれば、それをやるように」

「はい。羊の毛を梳いたり紡ぐ仕事なら、座ってできます」

「うん、じゃあそれをやって」

この農場の権利者はオクタヴィー師匠だけど、このくらいは私が決めてしまってもいいだろう。実際立ち歩くのも困難な人に、農作業が出来るはずもない。

「じゃあ、母屋と帳簿の様子を見に行こうか。ハミルカルも来て」

私が言うと、管理人はびくりと肩を震わせた。

「なんでこの小僧を。こいつは字も読めなければ計算も出来ない、帳簿のことなんぞ何にも知りませんよ!」

「別にいいじゃない。アビは一人で歩ける?」

「ええ、家の中くらいでしたら。さっそく羊の毛の仕事を始めます」

彼女が働き者なのは本当のようだ。

それで私たちは、オクタヴィー師匠を追って母屋に行った。


母屋は、ユピテル本土の農園と同じような造りをしている。

入り口に天窓と貯水槽のあるアクアリウムがあって、その奥は列柱に囲まれた中庭。そして、中庭に面した各部屋。中庭とアクアリウムの間に執務室がないだけで、首都ユピテルのフェリクスのお屋敷にも似た感じだね。

執務室の代わりというわけではないが、アクアリウムの隣に書庫がある。壁際の棚にたくさんの巻物が入れられており、今は師匠やマルクス、使用人の人たちが巻物を広げて読んでいた。あれらが帳簿だろう。

「あら、ゼニス。騒ぎは収まった?」

師匠が言うので、私はうなずいた。

「はい。女性の奴隷が足に怪我をしていたので、治るまで家の中の仕事を頼みました。構いませんか?」

「いいわよ。怪我をしていたら働けないでしょう」

普通そうなるよね。一体この管理人は何を考えているんだ。

改めて怒りを込めてにらむと、彼は目をそらした。弱い者いじめはするが、強い者なら子供でも言いなりってか。ムカつく。

「帳簿はどうですか?」

「んー。取り立てて問題はないみたいだけど」

オクタヴィー師匠は眉を寄せている。面倒くさがるかと思ったら、意外にちゃんと書類チェックをしているようだ。

「もちろん、問題などありませんとも!」

と、管理人。

「ここ何年かは夏の干ばつが厳しくて、小麦が不作気味だったのです。だから売上が落ちましたが、やむを得ないことで」

「確かに、ソルティアの小麦はやや不作が続いていたわね」

「そうでしょう、そうでしょう」

そんなやり取りに、マルクスが口を挟んだ。

「オクタヴィー様。ここの小麦の種もみの在庫なんですけど、推移がちょっとおかしいです」

彼は巻物を机に広げて、指で指した。

「ここで種もみをこれだけ買ってるでしょ。この農場の畑の必要量より二割以上多いです。なのに余剰分の記録がない」

管理人はしどろもどろになりながらも主張した。

「そ、それは、種もみは二割くらいは質の悪いのがまじっていて、使い物にならないからです。倉庫に置いている時に、虫がわいたりネズミにかじられたりもします。仕方ないんです!」

「それを見越して余剰分が最初から入っているはずです。帳簿上の数字は実際に買った数字だけではなく、必要量と使用量も併記するべきでしょう」

と、別の使用人が言った。彼は農業に詳しい人だ。

マルクスも続ける。

「帳簿をさかのぼってみたら、小麦だけじゃなく大麦も種もみの購入量が多すぎる。ていうか、種もみは全部買うものなんです? 自分とこのを取っておいたりしないわけ?」

さっきと同じ使用人が答えてくれた。

「ケースバイケースですね。種商から買った方が、品質は安定している場合が多い。でも、全部買うのは高くつきますよ」

どうにもきな臭い。

皆から疑いの目を向けられて、管理人は開き直ったように言った。

「全て必要経費です! 農場の経営は天気や奴隷の働きぶりや、いろんなことに影響を受ける。帳簿の表面だけ見て、私が悪いと言わないで下さい!」

「じゃあ、帳簿の裏を見てやろうじゃないか」

ハミルカルが言った。

「何だと、貴様……!」

とっさにムチに手をかけた管理人を、護衛の奴隷が取り押さえる。

オクタヴィー師匠がハミルカルを見た。

「お前は何か知っているの?」

「はい、フェリクスのお嬢様。俺、そいつがこっそり違う帳簿を持っているのを見たことがあります。この部屋じゃなくて、別の場所に隠してあるんです」


裏帳簿は管理人の愛人の部屋にあった。

シュファという名の若い彼女は、奴隷の身であるにもかかわらず優雅に昼寝をしていた。

麻の上等なチュニカとスカートを着て、だらしなく寝台に寝そべっている。

部屋も全体的に妙に成金趣味で、ヘンテコな牡牛の像とか金ピカの女神像とかがごろごろと置いてあった。

私たちが部屋に入ると、女は寝ぼけ眼できょとんとしていた。

「管理人様、その人たちはだあれ?」

無邪気でいっそ幼い雰囲気である。

「主人の顔を知らない上に昼間から寝ているなんて、さすがに無礼ね。ムチを打つならこういう相手にしなさい」