船の旅

そうして四月。いよいよ出発の日がやって来る。

私たちは首都を出発して、すぐ隣の港町メスティアへと向かった。ここから船に乗ってキジディニア島とテュフォン島を経由し、南部大陸のソルティアまで行く予定である。

メスティアは首都ユピテルの海運の玄関口として、発展してきた港町だ。

主食である小麦は、南部大陸やテュフォン島が主産地。運び入れる手段は船になる。

海運で運ばれてきた小麦は、メスティアで川船に積み替えられる。そして首都まで続くティリス川をさかのぼって届けられるのだ。

そのためメスティアは、食料供給の面から見ても重要な町。最近は首都の人口増に港の機能が追いついていないため、大規模な再開発の話も出ているそうな。

私たちは街道を通り、馬車に乗ってメスティアに入った。首都とメスティアは徒歩で一日の距離。朝に出発して夕方に到着した。

この町は倉庫と商業の町。首都ユピテルより人口はずっと少ないけれど、通りの両脇に店が立ち並んで活気がある。

倉庫もかなりの数がある。荷揚げした小麦をきちんと保管して、食料需要に備えているのだ。

その他にも、季節労働者である小麦の運送人を泊める宿泊施設などもたくさんあった。

ふと、ふわりと潮の香りがした。目を上げれば、遠目に海が光っているのが見える。

もう夕暮れに差し掛かっているせいで、淡いオレンジ色の空を映した不思議な色だった。

今日はこの町で一泊して、明日、お天気が良ければ船に乗る予定である。

泊まる先はフェリクスの別邸。さすがお金持ちはどこにでも別荘を持っているなあ。

そうして着いた先は、首都のお屋敷に比べればシンプルな建物だった。それでも馬車を止めて、私たち全員を受け入れても余裕の広さだ。

私とオクタヴィー師匠は専用の部屋を割り振ってもらった。

「明日はとうとう船に乗れるね」

入浴と食事を済ませ、寝る前に私が言うと、ティトはうなずきながらも不安そうな様子だ。

「あたしはちょっと心配です。だって、小さい船で海を渡るんでしょう。難破しないかどうか」

「あーうん。絶対ないとは言えないねぇ」

前世の二十一世紀とは違う、ここは古代世界だ。いくら我らの海が穏やかな性質で、しかも四月はいい風が吹くといっても、安全が保証されているわけではない。

「やっぱり留守番にしとく?」

冗談めかして言うと、ティトは私をにらんできた。

「まさか。あたしはゼニスお嬢様にお供しますよ。たとえ地の果てまででも!」

「そんな、おおげさな」

「おおげさじゃないですから」

なんてことを話しながら、その日は終わっていった。


翌朝、起き上がって窓の外を見ると実にいい天気だった。

これなら間違いなく出航できるだろう。

皆で建物を出る。オクタヴィー師匠、私、ティト、マルクスの他に、奴隷や使用人が何人かついてきていた。

船では自前で食事を用意する必要があるので、料理人が調理器具まで持ってきている。

港に行く前に、まずは航海の安全をお祈りするために神殿に寄った。

神殿は港──ほぼ自然のままの入江──を一望できる、岬の上に立っていた。空の青と海の青が不思議に溶け合うようで、とてもきれいな風景だった。

船乗りたちに信仰されているのは、主に三人の神様たち。

炎の神ウルカーヌス、美の女神ウェヌス、知恵と商売の女神ミネルヴァである。

ウルカーヌスは灯台に灯る炎のように、船を導いてくれる伝説を持つ。

ウェヌスは父親である天空神の血と海の泡が混じって生まれた、海にゆかりの深い女神。

ミネルヴァは商人たちを広く保護する女神だ。

お参りを済ませて、通りを抜けて海に近づくにつれて潮の香りが強くなる。気持ちのいい風が吹いている。

そうして建物の間を抜けると、ぱっと視界が開けた。

「わあ、海だ!」

思わず歓声を上げた。神殿から見た風景もきれいだったけど、間近で見るとまた違う。

港ではシンプルな埠頭ふとうに、何隻もの船が停まっている。シンプルではあるが、きちんとコンクリート造りなのがユピテルらしい。

船はやっぱり、全体的に想像より小さかった。前世の豪華客船はもちろん論外で、ちょっとした小型船という程度だ。全て木造というのが、いかにも古代の雰囲気である。

「私たちが乗る船は、これよ」

師匠が示した船は、その中では大きめの一隻だった。

何人かの船員が出迎えてくれる。

船の全長は三十メートル程度、幅は七、八メートルといったところだろう。全体的にコロンとした印象の形で、中心に大きなマストが立っている。帆は今はたたまれて、巻き上げられている。

船の前方の形は丸く、船首飾りの神像が取り付けられている。あれは、さっきお参りをした炎と鍛冶の神ウルカーヌスだ。筋骨たくましい男神の上半身が、船の舳先へさきを飾っている。

後部は少し反り上がっていて、大きな舵が取り付けられていた。

木造の船体はタールが塗られているようで、てらてらと光っていた。

奴隷の人が大きな板を持ってきて、岸壁から船に渡してくれた。

オクタヴィー師匠を先頭に、私たちは船に乗る。ギイ、ギイと足元で船が揺れて、海の上に立っているんだと実感した。

私たちが全員乗り込んだのを確認して、年かさの男性が口を開いた。

「フェリクスの皆様方、我が船にようこそ。わしは航海長です。皆様を安全にソルティアまでお届けするよう、全力を尽くす所存です」

その後、船員たちが次々に名乗った。副長と掌帆長しょうはんちょう、船室長、それから特に役職のない水夫たちだ。

「皆様方のお世話は、船室長が対応します。何かあれば彼にお申し付けを」

まだ若い、二十代と思われる青年が礼をした。

それから船室に案内された。さすがに狭くて、私と師匠、それにティトの女性陣は同じ部屋。男性の使用人とマルクスは船室長と同室になっていた。

「あぁ、やだやだ。狭っ苦しいこと。これだから船は嫌いなのよ」

師匠がさっそく文句を垂れている。大貴族のお嬢様である彼女は、贅沢に慣れきっているからね。それこそ、前世の豪華客船みたいのじゃない限り満足しないだろう。

私は言った。

「いいお天気ですし、外に出ましょう。風景を眺めながらのんびりしたいです」

「そうね。そうしましょうか」

甲板に出ると、他の人たちもいた。やっぱり狭苦しい船室は落ち着かないようだ。

「そろそろ出発するぞ! いかりを上げろ!」

航海長が声を張り上げる。

帆はたたまれたままだ。エンジンもないのにどうやって進むのかと思っていたら、船体から何本ものオールがにゅっと突き出された。

櫂は岸壁を押して離れ、リズミカルに海水を漕ぎ始める。足元の船倉に意識を向けると、えーい、えーい、おー、と男たちの掛け声が聞こえた。

漕ぐのか! 人力エンジンだ。

船があまり大きくないせいもあって、意外なほどにスムーズに進んでいく。波の跡を残しながら、だんだんと港が離れる。

そうして沖合のある地点までやって来たら、今度は掌帆長が声を上げた。

「帆を下ろせ! ちょうどいい風が吹いてやがるぞ!」

号令に従って、水夫の一人が帆桁ほげたに繋がる綱を操作した。するとマストの頂上にある滑車が回って、巻き上げられていた帆がするすると下りてくる。帆には何本もの綱が繋がっていて、滑車の動きと連動していた。

帆はやや横長の長方形だ。大きくていかにも頑丈そうな布で、縁と縦横に補強がほどこしてある。

いつの間にか船首の小さい帆も広げられていた。

港は既に遠ざかって、小さくなっている。私たちを乗せた船は北からの風を満帆に受けて、進んでいった。


この船が予定している航路は、以下のようになる。

まずはメスティアを出港後、ユピテル半島のすぐ西にあるキジディニア島の沿岸を航行して、島の港へ一度補給に立ち寄る。

その後は南下してテュフォン島に沿って進む。テュフォン島は島としてはかなり大きい。港町も複数あるため、ここでもう一度補給。

それから我らの海をさらに南下すると、南部大陸のソルティアだ。

ソルティアは北に突き出した半島に築かれた都市。テュフォン島からそう距離が離れていない。

このように島の沿岸を主に進むため、メスティアからソルティアまでの航路は安全性が高いと言われている。

全体の日程は、風が順調であれば三日程度とのこと。二泊三日の小旅行だね。

さて今は二日目である。

昨日メスティアを出てから補給をこなして、夜通し航行を続けてきた。

夜中、狭い二段ベッドでオクタヴィー師匠が眠れないとぼやいていたのはご愛嬌だ。

で、ここまでは順調だったのだが、キジディニア島を少し離れた辺りで風が弱まってしまった。

他の人たちは甲板で思い思いに過ごしている。おや、ティトとマルクスは隣り合って海を指さしたりして、何かおしゃべりしているね。

「困った状況ですか?」

航海長に聞いてみる。

「困ったというほどではないですよ。天気はいいし、位置を見失ったわけでもない。ただちょいと、到着が遅れるかもしれませんな」

空は今日も真っ青で、いいお天気だ。ユピテルは春から秋までは青空が多くて、雨はあまり降らない。雨はむしろ冬にまとまって降る。

けれどそれも陸上のこと。海の上であれば雨風もあり、海が荒れることも少なくないそう。

「遅れるですって? 冗談じゃないわ」

私たちの会話を聞いた師匠が口を挟んできた。

「あんな狭っ苦しい船室で、何日も過ごすなんて悪夢よ。櫂を出して漕げばいいじゃない。漕手の奴隷は乗っているでしょう?」

「オクタヴィー様、無理ですよ。この船はガレー船じゃありません。港の中やちょっとした進路変更程度なら漕いでいけますが、帆に受ける風の代わりにはなりやしません」

航海長が眉尻を下げている。

水夫たちがちらちらとこちらを見ている。隠しているけど、呆れた雰囲気だ。

うむ、ちょっといたたまれない。船のことを何も分かっていない素人でごめんなさい。

ガレー船は軍船として使われる種類の船だ。帆はもちろんあるが、漕手の人力エンジンで機動力アップを重視している。たくさんの漕手奴隷が乗って、最大で櫂が五段にもなる巨大なガレー船もあるそうだ。

対してこの船は商船。商品を積んで航路を行く目的なので、風任せになる。商品を積むために、重量の問題で漕手の奴隷はそんなに乗せられない。

昨日のうちに船倉を見せてもらったけど、狭かった。いくらか荷物が積んである上に、下っ端の水夫や奴隷たちが寝泊まりしている。

漕手奴隷はそこまで酷い扱いは受けていないようで、出番がない時は暇そうにしていた。

正直ほっとしたよ。前世の映画で見たような、足に鉄枷をつけてボロボロになるまでこき使われている人がいたら、とても船旅どころじゃないもの。

風の件は、どうしたらいいかな。

私は別に船室に不満はないが、旅は順調な方がいい。あまり遅れるとラスとアレクが心配だし、魔法学院の仕事も気になる。さすがに六月の結婚式に遅れるようなことはないだろうが……。

「魔法で風を吹かせたらどうでしょうか」

私が言うと、オクタヴィー師匠は呆れた表情になった。

「ゼニス。きみの魔力がいくら高いと言っても、船を動かすほどではないでしょ。無理はやめなさい」

師匠こそ、ついさっき無理を言っていたくせに!

と、ツッコみたい気持ちを呑み込んで私は答えた。

「やってみないと分からないですよ。少しでも助けになればいいかなって」

「あっそう。じゃあ好きにしなさい」

師匠はさっさとさじを投げた。

ある意味でお許しが出たので、私はさっそく試してみることにする。

まずは船首に立たせてもらった。反り返って少し高い位置にある船首に立つと、改めて周り一面の海原が目に飛び込んでくる。背後以外、ほとんど全方位が海。見渡す限りの青い海!

ユピテルは温暖な国だから、海の色も青が深くてとてもきれいだ。空の青と混じり合って、水平線の境目が曖昧になるような感覚さえある。

前世の日本でこんなにきれいな色は、沖縄くらいだったかも。

さあ、風を吹かせよう。

でも、と私は思う。

オクタヴィー師匠の言う通り、魔法の力で強い風を吹かせ続けるのは難しい。最近の私は魔力回路の扱いが上達して、さらに魔力が上がっていたとしてもだ。

単純に風の魔法を使うだけでは駄目だ。もっと工夫しないと。

今まで聞いた話をよく思い出してみる。

我らの海では、春の三月と四月に北から南へ風が吹く。

「航海長さん! 三月と四月に吹く北の風は、毎年必ず吹くんですか?」

船首から振り返って、私は聞いた。

「ああ、そうですよ。三月と四月は北風の季節。冷たい風が陸から海に向かって吹くんだ」

「冷たい風?」

「春の北風は冷たい。船乗りの間では常識ですよ。冷たくて乾いている」

「へぇ……?」

そういう詳しい話は初めて聞いた。やっぱり本職の船乗りの人たちは違うね。

冷たい風。北からだから、ユピテル半島や北の大陸の方から吹いてくるのだろう。

風は基本的に、高気圧から低気圧に向かって吹く。気圧の差が生まれるのは、寒暖の差のせいが一つ。地球規模で温暖な地域と寒冷な地域があるせいで、大きな空気の対流が常にある。

さらに加えて、陸地と海の温度差がある。昼間は陸地の方が温まりやすく、海の温度は上昇しにくい。夜になると反対に、陸地が冷えて海は暖かいまま。その温度差が気圧差を生み、風になる。中学校で習った地理や理科の話だ。

この世界は地球ではないけれど、地球によく似ている。だからおおむね間違ってないと思う。

で、そういった基本的なところに上乗せして、地方ごとの特色が出る。いわゆる季節風だね。

この春の北風の場合はどうだろう?

航海長は『冷たくて乾いた風』と言った。その風はどこの温度差から来ているのだろう?

まず、ユピテル半島は違うと思う。四月はもちろん、三月でもあの国はかなり暖かい。海風に吹かれている今よりも確実に温暖だと感じるもの。

寒そうな場所といえば、半島の北西にある大きな山脈だろうか。あそこは万年雪をかぶっている山がいくつもあるほどの高山地帯だ。

未だ雪が残る高山から吹き下ろす風なのかもしれない。

山から下りてくる風は、フェーン現象だっけ? 山を駆け上った風が水分を雲に変えて雨を降らし、結果的に暖かい風となって下る場合が多いはず。

でも、例外は常にあるだろう。陸地から離れた海まで吹いてくる風だ。この世界特有のもののような気もする。

色々考えてみたけれど、全ては推測に過ぎない。

どうせダメ元。推測上等、やってみようじゃないか。

考えたことをまとめて、出来る限り魔法語の呪文に落とし込んでみる。

私は船首の近くに立って前を向き、両手を広げた。気分はタイ◯ニックだ。

それからしっかりと魔力回路を起動させて、何度も魔力を身体に循環させた。

魔力は体を巡るたび、心臓や下腹部の要点を通るたびに増幅して、熱を帯びる。

『──凍える風の精霊よ、北の高き山より下る風よ、温もる海へと吹き流れて、冷と暖とを混ぜ合わせ、等しき均衡を保ち給え!』

北西山脈から吹き下ろす冷たい風が、暖かな海に流れ込むイメージ。気温差と気圧差、それらが混じり合ってやがて等しくなるイメージを思い浮かべながら、呪文を唱えた。

ごっそりと魔力を持っていかれる感覚がある。

だけど、最初は何も起きなかった。

通常の風の魔法であれば、詠唱が終わった直後に効果が出るのに。

失敗だろうか。

私が内心でがっかりしていると、ふと、寒さを感じた。

広げた両手がスースーする。髪が冷たい風にはためく。

……風が吹いてきている!

「北風が吹いたぞ!」

後ろの甲板で水夫たちが叫んでいる。

「強い風だ! しっかり帆を張れ! 方角を確認して、舵を怠るな!」

掌帆長の声がする。

今や北風は私の髪や服を強くひるがえして、びゅうびゅうと音を立てて吹き始めた。

そして船の帆は風をしっかりと受けて、また前に進み始めた!

「魔法使いのお嬢さん、あんたの仕業ですかい? こりゃあすごい!」

「本当に風を吹かせるなんて。それもこんな、強風を」

くるりと振り向けば、皆が興奮した様子でいる。

「まただいそれたことをやったわね、この子は」

オクタヴィー師匠が歩み寄ってきて、頭を撫でてくれた。彼女の長い髪も風にあおられて、ばらばらに乱れてしまっている。お洒落な師匠は普段なら嫌がるのに、今は気にしていないようだ。手ぐしで髪をかき上げて、愉快そうに笑っている。

ちょっと誇らしくなった。

「えへへ! これ、ただの風じゃないんですよ。季節風の再現なんです!」

私は得意満面でさっきの推測を話してみせたが、誰もが首をかしげるばかり。

うーん、気圧差だの何だのは理解してもらえないか。残念だ。

推測はある程度は当たっていたのだろう。そうして本来の自然現象を手助けする形で、魔法の効果が強力に発動した。

何もないところに風を起こすよりも、今吹いている風の仕組みにのっとって魔法を組めば、大きな効果が得られる。うむうむ、また発見をしてしまったね。

「なんだかよう分からんが、これで遅れは取り戻せそうです。魔法はすごいですなあ」

と、航海長が言った。

冷たい北風はその後もしばらく吹いた。強風が収まった後はいつも通りの風になり、私たちはきちんと航路を消化していった。

なお、調子に乗った私はもう一度同じ魔法を使おうとして、魔力不足でぶっ倒れる羽目になった。この魔法──春北風の魔法とでも名付けよう──は、魔力消費が多すぎるのも問題だね。