続・ちびっこ先生の授業
秋も深まる中、魔力回路理論の授業は続けられている。
私は魔法学院の研究室で次の授業の資料のチェックをしながら、ここ二ヶ月ほどの成果を思い浮かべた。
最初は戸惑いがちだった学生たちは、今では私のやり方に慣れてきたようだ。
脳に魔力を灯せるようになった人は、ずいぶん増えた。
どうやら小さい雷の火花──電気信号のイメージが、幅広い人に有効に作用すると分かってきた。火花だけでは起点のイメージがやりにくくても、湧水の
やはり私の予想通り、身体の科学的な仕組みと魔力は連動しているのかもしれない。
そして今では、不完全ながらも魔力回路を使って魔力の移動を行える人が出てきた。
これまでは個人の素質とか、個々人の工夫程度で魔力の量は決まっていた。
けれど魔力回路を使って身体に魔力を循環させれば、誰もが魔力の底上げを実現できる。
このおかげで最初は白魔粘土の製作が出来なかった人も、訓練後に成功する例が出てきている。
そして当然、魔力量が増えればそれだけたくさんの魔法が使える。以前は一日にこぶし大の氷を十個作って青息吐息だった人が、今では十二個、十三個と実力を上げてきているのだ。
白魔粘土を増やしながら、氷の商売で役立つ人材を育てる。
当面の目的は、まずまず順調というところである。
それから、長期的な目標として。
──魔法使いや魔法業界全体の質の向上を目指している。
魔法は今まで、本当に人気のない技術だった。魔力が少ない人が多いのと、魔法そのものの原理が解明されておらず、大した効果が得られないのとでダブルパンチ状態。
火や風を操り、飲水を補給する能力は、軍隊や隊商などでは重宝される。
でもそれ以外の場所では、役に立つというほどではなかった。
農地に水撒きできるほどの量の水を出せるわけではない。帆船を動かすほどの風を吹かせるわけでもない。火起こしは便利といえばそうだが、火打ち石を使えばそれでいい。
火矢の魔法や氷つぶて、石つぶてといった攻撃に使える魔法もあるが、詠唱の時間と魔力量を考えれば、普通の弓矢や剣の方が便利。
そんな感じで魔法の需要は狭く、魔法使いのなり手は少なかった。結果、魔法使いたちの意識は低くて、お金持ちの手遊びみたいな扱いにすらなっていた。
私はこの状況を変えたい。
魔法をもっともっと研究して、謎を解き明かしたい。
一体どうしてこの世界では、言葉──魔法語──によってこんなに複雑な事象を起こせるのか。不思議の源流はどこから来るのか。魔法の真理はどこにあるのか?
そうやって、真剣に魔法に取り組んでくれる仲間を増やしたい。
だって魔法はあまりに奥が深くて、私一人ではとてもやり遂げられそうにないんだもの。
志を同じくする魔法使いをいっぱい増やして、皆で手分けして研究していけば、あるいはいつか手が届くのではないか。そんなふうに思っている。
そう考えるようになったきっかけの一つは、シリウスだったりする。
あのコミュ障野郎はとんでもない変人だけれど、私が今まで見てきたどんな魔法使いよりも魔法に対して熱意があった。
熱意がありすぎて空回りした挙げ句、私の授業に突撃してきたわけだが……。
人体の真実のためにあっさりと「人間を切り刻んでみればいい」とか言い出した時は心臓が止まるかと思ったが、あれも一種の熱意だろう。本当のところが知りたい、という。
この世界にもシリウスのような人がいると分かった。その熱意は買いたい。
そうして一緒に、魔法を極める道に進めたらいいなと思っている。
……それから、正直に言うと。私は最初、純粋に魔法と真理の追究だけを求めていた。
けれど今年、マルクスに出会って考えが少し変わった。
本当は今でも、結果よりも研究そのものの方が大事だと思っている面はある。
でも、研究の成果は何のためにある?
あの夏の日々を思い出す。魔法で作ったかき氷や冷えた飲み物を口にした人々の、嬉しそうな顔が心に焼き付いている。
魔法はこの国の人々を笑顔に、幸せにする可能性を秘めた技術。あの時、そう実感したんだ。
たくさんの人たちを笑顔にする仕事は、私一人の手には余る。やっぱり仲間が必要だ。
だからいくつもの意味で、私は魔法と魔法を取り巻く環境を発展させたい。
この長期目標は、今はまだ始まったばかり。これからどうなるかは分からない。
けれども確かに、第一歩を踏み出した実感がある。
だって学生たちが徐々に興味を持って、一生懸命取り組んでくれるようになってきたんだもの。
魔力が低いからと、ちゃんとした魔法使いになるのを諦めていた人が、魔力回路の循環で魔力がアップした。そうしたら魔法の効果が上がった。
その上、今までは役立たずと思われていた魔法そのものに大きな価値があると分かってきた。
裕福な家の次男や三男で跡取りになれない人、成人までの腰掛けで魔法を学んでいる少女たち。未来を見失いがちだった彼らが、魔法に意義を見出してくれた。
見た目が九歳の私をちゃんと認めてくれて、授業を楽しそうに聞いている。一緒に工夫して知恵を絞ってくれる。
今はそれがとても嬉しい。
魔法の可能性をさらに広げて、彼らと一緒に進んでいきたい。
いつか魔法がもっと社会に認められて、魔法使いが尊敬される職業になるような、そんな未来を思い浮かべているよ。
さて。そろそろ次の授業に向かわないとね。
私は資料を抱えて立ち上がって、教室へと向かった。
◇
本日の授業は、血液の循環について取り扱う予定だ。
いつも通り教壇に立つ。背面にはマルクス作の人体図が貼り付けてある。学生たちが授業の時以外でも見て学びたいというので、最近は教室の壁に貼ったままになっているのだ。
予定している内容は、前世で言うところの中学理科レベル。
ユピテルは古代文化の割に建築技術などは発展しているが、医学や生物学などはさすがに未発達。
それで小学校後半から中学レベルの理科を授業に取り込んで、人体やその他の自然現象に対して理解を深めてもらう狙いである。まあ、私自身が素人なので、中学から高校の科学がせいぜいという話でもあるが。
魔法の観点からすると少し遠回りだけど、効果はきっと出ると思う。
ドライアイスの魔法を作った時、結局私以外にあの魔法を発動させられる人はいなかった。誰も二酸化炭素という概念を理解できなかったからだ。
私だけのユニークスキルなどと言えばカッコイイが、それでは駄目なのだ。
魔法使い、ひいてはユピテル人全体の知識レベルを押し上げる。それこそが魔法の発展に必要不可欠なのだと思う。
「皆さん、こんにちは!」
「こんにちは」
「ゼニス先生、ごきげんよう」
私が挨拶すると、学生たちも声を返してくれた。
「今日は血液と心臓、肺についての話をしようと思います」
私は体を横によけて、壁の人体図の心臓と肺を指し示した。
「皆さんは、医学と人体と言えば、グリアの四体液説をご存じでしょうか」
グリアはユピテルの東にある隣国で、何十年か前にユピテルに征服されて属州化している。学者を多く輩出している国で、今でも世界の最高学府と呼ばれる大学はグリアにあったりする。
学生たちはうなずいている。裕福な家に育った彼らは、基礎教養として医学も少しかじっているようだ。
なお、四体液説は私には理解不能な学説だった。
ざっくり言うと、四つの体液の「血液・黄胆汁・黒胆汁・粘液」のバランスを取ることによって、人は健康を保っているというもの。病はどれかのバランスが崩れた状態になる。例えば黒胆汁の勢いが過剰であれば、黒胆汁は寒冷・乾燥の属性なので、逆の属性を強める──体を温めて白湯をいっぱい飲めばいい、みたいな。
前世、東洋の漢方医学みたいなものか……?
しかし血液はともかく、黄胆汁とか黒胆汁とは一体なんぞ。粘液もざっくりし過ぎである。
一応、図書室で関連書を読んでみたものの、やけに難しい言い回しが多い上に前世の医学とかけ離れた内容だったので、理解を諦めてしまった。
「四体液説と魔力回路理論は、必ずしも一致しません。四体液説は魔力を考慮していませんから、今は私の話を優先して下さいね」
そう言うと、学生たちはうなずいた。今日の話は魔力じゃなく科学だが、まあ方便だ。
今日は血液の体循環と肺循環の話。ただしユピテルにない概念をいくつも含んでしまうので、何とか噛み砕いて伝えなければいけない。
「まず、血管には三種類あります。動脈と静脈、それに毛細血管です。皆さん、ちょっと集まってもらえますか?」
私の呼びかけに、学生たちがガヤガヤと教壇の周りにやって来た。
「三種類のうち、静脈は体の表面からも見える、青っぽい血管です。こんなふうに」
手近な男子学生の手をつかまえて、掲げてみせた。彼の手はもう大人のそれで、手の甲に静脈が浮いている。
いきなり手を掴まれた彼はびっくりしたようで「うぉ!?」とか言っている。すまんね。
「静脈の血は静脈血といって、色は暗めの赤です」
私は男子学生の手を離して続ける。
「動脈は体の表面には出ていない血管です。血の色は鮮やかな赤。えーと、あれですね。神殿で犠牲の動物が捧げられる時、首を掻っ切ったり突き刺したりするでしょう。あの時に切るのが首の動脈、噴き出る血が動脈血です」
いかん、想像したらお尻の辺りがぞわぞわする。
すると一人の女子学生が口を開いた。
「そういえば、そうですね! ちょっと怪我をした程度の血と、生贄の獣の血では色が全然違いますもの」
なんかやけに嬉しそうだが、なんじゃいな。
私の視線に気づいた彼女は、頬を染めて言った。
「あら、ごめんなさい。私、血の色が好きなんです。ゼニス先生のお話を聞いて、やっぱり色が違うのは気のせいじゃなかったと思って、嬉しくなりました。祭儀で犠牲が捧げられる時は、私、父に頼んでできるだけ前の席を用意してもらっています。よく見えるように」
「へ、へぇ……」
世の中には色んな趣味の人がいるもんだなぁ……。
気を取り直して続ける。
「それで、動脈血がきれいな赤色なのは、ヘモグロビン……血の中のある成分が酸素と結びついているからです。酸素は空気、皆さんが吸う息の中に含まれていて、肺で血の中に溶け込みます。そして動脈血は心臓から全身に送り出されて、体の各部分に酸素と栄養素を渡すと、静脈血になる。静脈血は栄養の代わりに老廃物を、酸素の代わりに二酸化炭素を含んでいます。静脈血は毛細血管を経由して静脈に入った後、心臓から肺に送り込まれて、また酸素を得ます。そうして体を循環しているんです」
ヘモグロビンも酸素もユピテルにはない概念だ。案の定、質問がいくつも来る。
一通りの受け答えと説明をすると、学生の一人が言った。
「どうして先生は、そんな目に見えないものが本当に存在すると思っているんですか?」
……これが、一番痛い質問だった。
私はこれらの知識が正しいと知っている。けれどユピテル人たちの常識にはない話だ。
そのために、今日は実験の準備をしてきた。
「そうですね。では、酸素と血液の関連を証明するために、これから血の色が変わる様子を皆で見ましょう」
そう言って私は、ガラスのコップを取り出した。
教壇の机に、ガラスのコップ。
コップの上に手を差し出した私は、親指の付け根辺りにナイフを当てた。ナイフはきちんと消毒した。多少切ってもリスクは少ないはずだ。
血の色が変わるのを見るには、この前のように指先からでは量が足りない。もう少し太い血管を切らなければ。
「ゼニス先生!? 何をやるつもりですか!」
男子学生が止めてくる。さっき、静脈を見るのに手を握った人だ。
私は答える。
「このコップに静脈血を入れて、酸素──空気に当てます。そうしたら、暗い色が鮮やかな赤になるのが見えますよ」
冷静に言ったつもりだったが、切るのが怖くて声が震えてしまった。情けなし。
「まあ!」
目を輝かせているのは、血が大好きな女子学生である。
男子学生が詰め寄ってきた。
「女の子が自分の体に傷をつけるなんて、頭おかしいでしょう! 俺がやります!」
「駄目だよ! 学生にそんな役割を押し付けるのは、教師として間違ってるもの!」
「まあ……お二人分の血が見れるのでしょうか……」
「ゼニス先生、ナイフ振り回したら危ないって!」
皆、勝手にわーわーと騒ぎ始めた。
「駄目なのはきみだろう! そういうのは、大人に任せなさい!」
なんか、いつの間にか教師から子供に立場がランクダウンしている。
「このクラスに成人はいないでしょ! 私でいいの!」
私はナイフの柄を握り締めたが、取り上げられてしまった。
「だめー! 返して! 実験ができないよ~!」
高く掲げられたナイフを取り返そうとして、ぴょんぴょん跳ねる。身長差のせいで届かない。
その様子を見ていた他の学生が「あ、そうだ」と言った。
「ゼニス先生は女の子だし、小さいし駄目ですよ。小さくない男を呼んでこよう」
そうして教室を出ていった。しばらくして、誰かと一緒に戻ってくる。
「何の騒ぎだ? 僕は研究で忙しいんだが」
それは、コミュ障野郎ことシリウスであった。
「ゼニスがどうしても来てほしいというから、来てやったぞ」
無駄に偉そうにしている彼の周りで、学生たちが目配せしている。
「シリウスさん。魔法の実験に協力して下さいね」
ナイフを持った男子学生が、にこやかに言った。
「実験だと? ほう、いいじゃないか。僕に頼むのは目の付け所がいい。で、何をやるんだ?」
「簡単ですよ」
スススッ……と三人ほどの男子学生がシリウスを取り囲んだ。見事に連携した動きだった。
「ではナイフは私が。大丈夫、扱いは慣れておりますの」
血が大好きな女子学生がナイフを受け取って、シリウスの腕を握る。
「静脈切ってね、静脈! 動脈は傷つけたら大変だから、浅く!」
私は一応、念押しをしてみる。シリウスはまだ事態が呑み込めず、キョトンとしていた。
「ええ、承りました」
女子学生はシリウスの袖をまくりあげ、二の腕の外側をぺたぺたと触った。ほどよい血管を見つけたらしい。すいと刃を入れた。
「痛──!?」
シリウスが悲鳴を上げる。周囲の学生たちが彼を取り押さえた。
血がじわっとにじみ出て、垂れた。私は思わず一歩下がったが、気の利いた学生がちゃんとコップに血を受けた。
コップに一センチ足らずほど血を溜める。静脈血らしい暗赤色だ。
「はい! では皆さん、尊い犠牲でゲットしたこの血を使って、酸素の観察をしましょう!」
コップを受け取って、私は叫んだ。
茎が中空になった植物のストローを取り出して、血に向かって吹く。本当は純粋な酸素が良かったんだけど、ユピテルの設備じゃ用意できなかったので、もう息でいいやとなったのである。
フーフー吹いていると、暗赤色は少しだけ明るくなった。鮮やかというほどではない。やはり吐息では酸素が足りないらしい。
とはいえ、目で見て分かる程度の変化があった!
「おお、本当だ」
「血は息? 酸素? で色を変えるんですね」
「肺から吸い込んだ息が、血に溶けていたなんて」
学生たちは興味津々。私も鼻高々。
しかしそんな空気に水をさす人物がいた。
「おい、これはどういうことだ。いきなり呼び出されて、腕を切られたぞ。通り魔か、お前ら!」
腕を押さえたシリウスが、泣きそうになりながら文句を言っている。
私は彼に駆け寄り、自分で使うつもりだったバターを傷に塗って布を巻いてやった。もちろん消毒魔法も忘れない。
「人の体の、血の実験だったの。体を巡る血と酸素の関係について」
「僕は魔法の実験と聞いたが?」
「魔法の実験でもあるよ。血に魔力が溶けているかどうか、確認してみよう」
コップの血に魔力石を落としてやると、石は薄く光り始めた。魔力の色は白っぽい……淡い金、かな?
「……ほう?」
するとさっきまでの泣き顔はどこへやら、シリウスは興味深そうにコップを覗き込んだ。
ふうむ。私が自分で指を切った時は指先に魔力を集めていたが、今回のシリウスの血は特に魔力が集まっている部位ではない。ということは、血には元々多少の魔力が含まれているのだろう。
新しい事実が判明した。興奮するね!
おっとそうだ、もう一つ思いついた。
この前、私が指先から落ちる血に魔力を流したら、効果絶大だったけど。傷口からでなくても魔力は流せるだろうか?
「シリウス、この血に魔力を流してみて。前に私、指に傷を作って流れ出る血と一緒に魔力を流したら、かなりの量が反応したの」
「はぁ? お前、そんなことしたのか。自分で指を切るとか馬鹿だろ。何を考えているんだ。引くわ」
周囲の学生たちもうなずいている。うわー、肩身が狭い!
「いいからやって!」
すねを軽く蹴っ飛ばしてやったら、シリウスは転びそうになりながらもコップを持ち、指先を血にちょいとつけた。
次の瞬間、ぱあっと魔力石が強く輝く。光の色は淡金。血の赤と混ざって妙に豪華な色合いである!
おおー、と学生たちから声が上がった。
ふうむ。傷口を介さなくとも、自分の血であれば魔力は通るのかな?
うん? 自分の血。じゃあ、他人の血ならどうだろう。
魔力石の光が収まった後、私はコップに指を突っ込んで魔力を流してみた。
……光らない。
私はがっかりして、──指先でぬめるシリウスの血を自覚してしまった。
自分の血だって気持ち悪いのに、他人の血!
「……へぶっ」
グロ耐性が限界突破して、私はひっくり返った。
前回の反省を活かし、コップだけは死守してぶちまけなかったのを褒めてほしい。
目が覚めると、医務室であった。
どうやら学生たちが私を運んでくれたらしい。
枕元にはティトがいて、目を開けた私を見て心からホッとした顔、次に怖い顔をした。
「ゼニスお嬢様。またろくでもないことをしましたね? どうして相談してくれないんです!」
「ご、ごめん。ティトに言ったら、反対されると思って」
「当たり前でしょう。お嬢様は貴族の令嬢で、まだ子供なんですよ。それをこの前なんて、ナイフで指を切って! 本来なら絶対に止めるのに、魔法の実験だからと渋々認めていました。それを何ですか、またやったんですか?」
「あー、えーと。今日は私じゃなく、シリウスの血を使わせてもらった」
「へ? シリウス?」
ティトは目を丸くする。それからコテンと首をかしげて言った。
「ああ、じゃあいいですね。あのバカもお嬢様の役に立てて喜んでいるでしょう」
いやそれは言い過ぎではなかろうか。そりゃあ、シリウス本人も興味深そうにしていたけれども。
「あのバカ金髪は、お嬢様に頼りすぎて迷惑なんです。いつも研究室に来て好きに喋ってお茶を飲んで帰るくせに、手土産の一つもよこさない。たまには恩返しするくらいでちょうどいいですよ。今回は問題なしです」
「えぇ……」
いいのかなあ。
起き上がってベッドで悩んでいると、医務室のドアが開いて当のシリウスが入ってきた。
学生たちも一緒だ。皆、心配そうに私を見ている。
「ゼニス。気がついたか」
「あー、シリウス。今回はごめんね」
「なにが?」
何がってあんた。
「いきなり連れてこられて、腕を切られて痛い思いをしたんだもの。悪いことしたって反省していたの」
「そんなことか。構わんぞ。血の色が空気で変わるのと、血に魔力が溶けていること。それに本人が魔力を流せば、強く出ること。他人では反応がないこと。これだけのことが分かったんだ。素晴らしい成果じゃないか。この目で見られて良かった。むしろあの場に呼ばれなかったら、お前を恨んだろうな」
シリウスは本当に気にしていないようだ。相変わらず変な奴である。
男子学生が口を開いた。
「俺、感動しました。ゼニス先生の人体の授業は、今まで半信半疑だったんです。まさか血の色が息、いえ、酸素であんなに色を変えるなんて。でも、今日で分かりました。俺が知らないだけで、不思議なことはいっぱいある。魔法や魔力も学びたいことがいっぱいある」
女子学生も一歩前に出て言った。
「私もですわ。私、成人したらすぐに結婚して家庭に入りますの。そうしたらきっと、退屈な日々が始まってしまう。それが嫌で、生贄の獣の血を見て心を慰める日々でした」
「お、おう」
私は思わず変な声を出してしまったが、彼女は気にしなかった。
「けれど、新しい楽しみを見つけました。成人するまであと三年、精一杯、魔法を勉強します。ゼニス先生に教わって、私の力も何かの役に立てられればと……」
そう言って微笑んでいる。
──そっか。そういうふうに思ってくれたんだ。
私の心に、じんわりと温かいものが広がっていく。
今までは私が一人で変なことをやって、変な目で見られてばっかりだったけど。
こうやって少しずつ皆の意識を変えていけば、魔法の研究はもっとはかどるだろう。
「みんな、ありがとう」
私が言うと、医務室にいる人が一斉にこちらを見た。
「みんなが魔法に真剣に取り組んでくれると、私は嬉しい。血を見て倒れた甲斐があったよ!」
「いや、倒れたら駄目だろ」
ところがシリウスが、感動的な雰囲気をぶっ壊す一言を放った。
「駄目ですね」
ティトも言った。
「まぁ、駄目ですよね。実験するなら血以外にすればいいのに」
「血が苦手なのは理解できませんが、人それぞれでしょうから。うちの父なども苦手ですわ」
「ゼニス先生が倒れた時、どうしようと思った」
学生たちも口々に言い始めた。
いや、おかしくない? ついさっきまでこう、「みんなで手を取り合って、魔法の追究を爆進していこうね!」みたいな空気だったのに。
その後はゼニスは自重しろ、ゼニス先生はいつも突っ走る、などと心外なことばかり言われて、私はたいそう不満であった。
仕方ないので話題を変える。
「シリウス。傷はもう痛くない?」
聞いてみると、シリウスは肩をすくめた。
「もう何ともない」
「それでもやっぱり、痛い思いをさせて悪かったよ。お詫びに何か、私に出来ることがあればやるけど、どう?」
「お、そうか?」
シリウスはちょっと嬉しそうに言った。
「じゃあ、僕も魔力回路理論の実践をやってみたい」
おや、そんなことでいいのか。断る理由もない。私はうなずいた。
「うん、いいよ。それじゃ近いうちに教えるね」
「頼む」
学生たちがニコニコしている。
「これでシリウスさんも俺らのクラスメイトですね」
「どちらかというと、ゼニス先生の個人的な弟子じゃない?」
シリウスが不満そうに口を尖らせた。
「勝手なことを言うな。僕は一人前の魔法使いで、この学院の正規の研究員だぞ。お前らみたいな半人前と一緒にするな。ゼニスの弟子でもない。こんなチビの弟子なわけがあるか!」
「あーはいはい、そうですねー」
学生たちもシリウスの扱いが分かってきているらしい。あまり取り合わずスルーしている。
こうして私は、シリウス相手に課外授業を行うことになった。
◇
シリウスへの課外授業は、日を改めて私の研究室で行った。
彼は普段、魔法文字を中心に研究している。文字の分類や意味の読み解きを行っていると聞いた。
魔法の実技はあまりやらないようだ。呪文を詠唱するよりも文字そのものに興味があるらしい。
「既存の魔法は全て覚えた。これ以上の発展性は薄い。それならば、まだ未知の部分が多い魔法文字そのものの方がよっぽど興味深いだろうが」
とは、本人の言葉である。
魔力回路と体内での魔力循環について、一通りの説明をする。特に頭部の起点では、雷の火花とともに何かが生まれるような、湧き起こるようなイメージをするよう伝えた。
「じゃあ、白魔粘土くっつけるね」
「頼む」
もう晩秋なので、厚着になっている。とりあえず額にだけ白魔粘土を貼り付けた。
シリウスが軽く目を閉じて十数秒後、額に白っぽい光が灯った。けっこう強い光だ。色は淡金。
私は「すごい!」と声を上げかけて、飲み込んだ。せっかく集中しているのに、邪魔しては悪い。ティトも目を丸くしながら、口を押さえて見守っていた。
淡い金の光は一層強く輝いて、やがてすうっと薄まる。でもシリウスは集中を続けている。どうやら魔力の移動をしているようだ。
「……っは、ここまでか」