シリウス
「このチビが! さっさと帰れ!」
奴が丸めたパピルス紙を大きく振りかぶり、振り下ろす。
無防備な大振りだったので、私はさっと横に避けてみた。
すると彼は空振りの勢いのままに、ビターン! と漫画のように転んだのである。
「…………」
「………………」
気まずい沈黙が流れる。
いや、なんか、ぽかすか叩かれてムカついていたのが冷めちゃったというか。
このすごくトロくさい感じ、覚えがある。──前世の私だ。
今の私、ゼニスはごく真っ当な運動神経をしているが、前世はもうひどかった。
昔の私もちょっとしたことでよく転んだっけなぁ……。思わず遠い目になってしまった。
「クソ、くそっ! 馬鹿にしてるだろ。笑えよ!!」
床からようやく起き上がり、彼は悔しそうに身を震わせた。
「別に馬鹿にしてないよ。ただ、昔の自分を見てるみたいって思ってただけ。私もよく転んだから」
「嘘をつけ。お前、素早く回避したじゃないか。そんなふうに動けるやつが、転ぶわけあるか」
「昔はトロかったよ。よく、何もないとこで転んだもの」
昔というか、前世だが。
「何もないところで……?」
「うん」
「僕もよく転ぶんだが、どうしてだろう」
さきほどの怒りはどこへやら、彼はしゅんとして言った。
どうしてだろうと言われてもねえ。まあ、前世の体験でよければ話してやろう。転びまくった前世の私が、靴屋さんに相談した時に返ってきた答えである。
「たぶん、歩き方に問題があるんだよ。あまり足をしっかり上げないで、引きずるみたいに歩くから、ちょっとした段差につまずいちゃうの。あとはよく考え事しながら歩いてたから、足元が不注意になる」
「…………」
私の言葉に、目の前の彼は黙り込んでしまった。
改めて彼を見てみる。年齢は十四歳か十五歳くらいの男子、明るい色の金の髪に青い目をしている。これはノルド人と呼ばれる北方民族の特徴だ。ユピテルは外国人もたくさん住んでいるので、それほど珍しいとは思わない。
服装は丈が長い貫頭衣。魔法学院の一人前の魔法使いたちが着ているような服だった。
「僕も、きっとそれだ……」
しばらく黙った後、少年は呟くように言った。
「長年の謎が解けた。すっきりしたぞ! 今度から足をなるべく上げて歩こう」
そう言って歩き始めた。宣言通り足を高めに上げている。
おい待て。一方的に人を叩いておいて、一人で転んで落ち込んで、勝手に去っていくつもりか? 自由すぎるにもほどがあるだろ!
「待ってよ! まだいきなり叩かれた理由、聞いてないよ」
「ん? ……あ、そうだった」
そうだった、じゃないよ! 痛くなかったからまだしも、あれは相手によっては
「お前、あんなデタラメの人体図を授業で使うな。魔力回路理論とやらも、あんなデタラメをもとにしてる以上はエセだろ」
「デタラメじゃないし。何を根拠にデタラメ言うのさ」
「ふん、いいだろう。じゃあ本物を見せてやる。ついてこい」
そう言ってさっさと歩き出す。私は慌てて後を追った。
きっちり足を高めに上げて歩いているのを見ていると、デタラメ呼ばわりの怒りがまた冷めてしまいそうだった。
廊下を進む間に、彼は『シリウス・アルヴァルディ』と名乗った。
シリウスはユピテル語風だが、アルヴァルディの方は耳慣れない響きである。北方の言葉だろうか。でも、なんか聞き覚えがあるような?
「ここが僕の研究室だ」
そう言って立ち止まったドアは、私の研究室のご近所であった。なんだ、同僚だったのか。懇親会とかないから、未だに他の研究員のことをよく知らないのである。
シリウスはどうやら、私の授業に興味を持って勝手に潜り込んでいたようだ。いやまあ、研究員の聴講も別に禁止ではないので、いいといえばいいんだが。普通は一言あってしかるべきだろうに。
ドアを開けて中に入る。
部屋の中は……筆舌に尽くしがたいゴチャゴチャっぷりであった。
とにかく物が多い。書物の巻物が一番多くて、床から壁、天井までうず高く積まれている。巻物をきちんと紐で留めていないせいで、中途半端に開いて、転がしたトイレットペーパーみたいに散乱しているのもある。
あとはよく分からないホコリをかぶった箱とか、鉱物のかけらとか、干からびた植物とか、とにかく散らかっている!
「えーと、確かこの辺りにあったはず」
シリウスが巻物の山の一角に手を突っ込んだ。無理やり引き出そうとしたせいで、ホコリが舞い上がる。くしゃみが出そうだ。
「くそ、引っかかってやがる」
「あ、ちょっと……」
危ない、という言葉は間に合わなかった。一部を引き抜かれた巻物の山はバランスを崩し、ドドドドドと雪崩を起こした。
「よし、あったぞ」
「これを見ろ。これこそが正しい人体図だ」
仕方ないので物を踏まないよう気をつけながら近寄って、彼の手元を覗いてみた。
そこには……人の体の輪郭と、左胸に心臓の絵図。心臓からは謎の渦巻きがぐるぐると出ていて、体全体を満たしていた。
なお、輪郭の内部は心臓と渦巻き以外は何も描かれていない。
「…………」
「どうだ、すごいだろう! これこそが真理だ! お前のあのデタラメは、すぐに取り消すように」