もうひとりの聖女様
黒神官だった頃、一度だけ頭を撫でて貰ったことがある。優しい笑顔の聖女様。ご高齢でお体が弱く、人前にはめったに出ないと聞いていた。聖女の仕事は大変だ。しかし当時の私は何も知らなかった。
ある日私は朝早くに目が覚めて、ふと、まだ薄暗い窓の外を見た。誰かが裏庭の薬草を眺めている。こんな早くに誰だろうと着替えて出て行くと、そこにいたのは年配の女性白神官だった。彼女の白い髪は綺麗にまとめられ、小柄な体で
「ここはあなたが管理しているの?」
彼女は振り向くと、棒立ちの私にそう聞いた。
「はい。裏庭は自由にしていいって、ノーテさんが……」
「そう、ノーテが……。あら、これは珍しい。再生に特化した薬草なのよね」
「お詳しいですね! 見ただけでお分かりになるのですか?」
私はとても嬉しくなった。雑草と間違えてお叱りを受けるのかと思ったからだ。
「薬草図鑑が好きなのよ。でも、実物を見たのは初めてだわ」
彼女は椅子に座ると、とても愛おしそうに薬草を見ていた。
「もしよろしければ、少しお包みいたしますよ?」
「いえいえ。この子たちはここで元気に育って欲しいわ」
私を見上げて目を細める。
「それではいつでも見にいらしてください」
彼女は私を隣に座らせると、薬草にまつわる色々な話をしてくれた。その話はとても興味深く、驚きや笑いですぐに夢中になった。
「爆発草には開花や芽吹き、始まりの意味があるなんて。面白いです」
もっとこう、破壊的だと思っていたのに。
「素敵でしょう? 名前には、意外な意味があるものなのよ」
「あはは、図書館に通い詰めてしまいそう」
「それはとっても素敵なことよ。あなたのお名前の意味も、調べてみると楽しいわ」
へぇ、私の名前にも意味が……。
「早く調べに行きたいです。ワクワクします」
「それは楽しみね。実は私ね、今日の授業で引退するの。最後にあなたとお話が出来て良かったわ。ありがとう」
立ち上がろうとした彼女が足元をふらつかせたので、慌てて手を貸した。
「大丈夫ですか?」
「あなたはとても優しい子よ。自分を大切にね」
そう言って彼女が頭を撫でてくれた。とても、とても細い手だった。何を思っていたのだろう。その時なぜか、私の荒れた手を癒したのだ。ハッとして見上げると、「内緒よ」と
あれがもうひとりの聖女様。上品な女性だった。
今の私みたいに冒険者ギルドに通ったり、教会の中を聖女の服で堂々と歩きまわったりしていない。控えめで、春の日差しのように穏やかだった。教会学校で教職に就いていたと聞いている。彼女は教師を辞めてからも、しばらく聖女の仕事を続けていた。
「あの時はもしかして、私に会いに来たのかな……」
「あ? なんか言ったか?」
揺れる馬車の中でガインさんが振り向いた。
「なんでもありません」
「腹でも減ったか? これでも食ってろ」
おじいさまの横にあったフィナンシェの袋を、私の膝にポンと置いた。
「ちょっと! これは聖女様へのお土産ですって!」
「そうだったのか? さっき一個食っちまったわ」
「な!」
昨日の夜、頑張って焼いたのに!
「わしはきちんと言ったのだが、ガインが……」
「おじいさまは悪くありません。悪いのはガサツなガインさんですから!」
「わはは、悪かったって。そう目くじら立てるなよ」
ちっとも反省した様子もなく、ニヤニヤとガインさんが私を見る。なんか腹立つ。
今日はもうひとりの聖女様の家に招待されたのだ。おじいさまと、保護者のガインさんも一緒にと。彼女は聖女の仕事を引退した後、王都近くの小さな村に引っ越した。入れ違うように引退なさったため、きちんとご挨拶も出来なかった。もう一度会ってお話がしたい。もっと色々教えて欲しかった。そんな願いをガインさんが叶えてくれたのだ。
むぅ、フィナンシェの一個くらいは大目に見よう。
「最近ガインさんがおじさん化していくので心配です」
「おい! ちょっとまて。おじさんってなんだ、おじさんって!」
「ぶははは、マリーから見たらガインもすっかりおじさんだよなぁ」
おじいさまが噴き出すように笑っている。
「ガインさんは少し、デリカシーってものを理解した方が良いと思います」
「なんだその、デリカ……」
「デリカシー。〝繊細さ〟ですよ。乙女が感傷に浸っているのに」
「フン、めんどくせぇな。お前が静かにしてると、調子が狂うんだよ」
「子供じゃないのですから、馬車の中ではしゃいだりしませんよ」
ガインさんが「生意気になりやがって」と豪快に笑った。
うふふ。ガインさんから見たら、私はいつまでも子供なのね。なーんか父親みたい。
それがほんの少しだけムズムズして、ガインさんに寄りかかる。
「良かったな。聖女様とたくさん話が出来るといいな」
ガインさんが大きな手で頭を撫でた。
そうしているうちに、少しずつ馬車のスピードが落ちていく。
「そろそろ着きますからご準備を」
手綱を握る白神官のライラさんが、馬車の前の窓から顔を覗かせた。彼女は聖女様のお付きの人で、身の回りのお世話をしている。志願して、聖女様と共に王都を出たと言っていた。

「みなさま、ようこそ。来てくださってありがとう」
彼女は杖を突きながら、上品で穏やかな笑顔で迎えてくれる。
あの時お会いした聖女様だ。相変わらずとても細い。
「こちらこそ、ご招待に感謝します」「孫のためにありがとう」「お久しぶりです」
緊張しながらガインさんやおじいさまと一緒に挨拶をした。
聖女様の家は本当にシンプルだった。無駄なものは一切なく、それでいて足りないものは何もない。清潔な白い壁と磨かれたこげ茶の床は、教会の寮を思い出す。窓辺に一輪白い花が飾られていた。棚は薬草図鑑や料理の本で埋まっている。
そこには、彼女の丁寧でゆったりとした暮らしが詰まっていた。
「こ、これ、私が焼いたのです。よろしければ、ぜひ!」
私は賞状を受け取るかのように、頭の上にフィナンシェを掲げた。
「これはこれは、ご丁寧に。ありがとう」
彼女は袋を受け取ると「とってもおいしそうな香りだわ」と片目を瞑る。
昔の記憶と変わらないおちゃめな聖女様。その表情は、彼女の魅力を際立たせた。
「さぁさぁ、聖女様も皆さんも、こちらにお座りになってくださいませ」
ライラさんに案内され、私たちは聖女様を囲んでソファーに腰を下ろした。
「ライラ、これを頂いたのよ」
「おいしそうですね。すぐにお出ししましょう」
彼女は聖女様から袋を受け取り、お茶の用意をし始める。すぐに部屋は紅茶の香りでいっぱいになった。とても濃くて新鮮だ。
「とても素敵な香りですね」
「そうでしょう。教会が季節ごとに送ってくれるの。引退した私にとても良くしてくれるのよ」
「聖女様の今までの頑張りに、少しでも報いたいのでしょうな」
おじいさまがカップを手に、優しい声でそう言った。
「そう思って貰えるのは嬉しいわ。私も感謝でいっぱいよ」
辞めてからもずっと素敵な関係なんだ。
「不躾な質問で申し訳ないが、聖女様の現役の頃のお話を聞かせて貰えませんか?」
そう言ってガインさんは少しだけ身を乗り出した。
これはきっと私のため。ガインさんは娘のためにここに来た。
「そうね、初めて派遣された時のお話をしましょうか」
そう言った聖女様はカップを置いて、とても遠くを見るように窓を見た。
「あれは嵐が去った後の小さな村。家は流され、畑の作物はもちろん備蓄倉庫も何もかもが全滅したの。家族を失った彼らは絶望からか……」

嵐が収まりやっとの思いで村に着いた。道は酷く馬車を捨て、辿り着くのに六日もかかった。村は荒れ果て、家々は崩れて
目の前の現実が本物とは思えない、そんな不思議な感覚だった。
「聖女様、こちらです」
鉄のような、濃い血の臭いが鼻を突く。私は
「やめて、くれ。頼む……お慈悲を。このまま娘の所に……」
私は思わず案内役の白神官の顔を見た。しかし何も言ってはくれない。命の選択だ。これは聖女が判断することなのだ。命を助けて絶望を与えることは、本当に正しいの? どちらが彼を救うことなの? 心の中で何度も問いかけた。怖い。助けることが怖いだなんて。
風が吹き抜ける音と、瓦礫を動かす音が耳に響く。
「聖女様、時間がありません」
それは決断を促すための、ただの言葉だったのかも知れない。それでも私は彼のくれたその言葉に縋りついた。
「ごめんなさい!」
私は涙を堪えながら、震える手で男性の体に手をかざす。
彼は諦めたように目を瞑ると、すぐに治療の痛みで意識を飛ばした。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
罪悪感でいっぱいだった。
男性は治療後も目を開けなかった。きっと彼の優しさなのだろう。絶望の目を向けられたなら、私は立っていられなかった。
「聖女様、次はこちらの方です」
白神官は俯く私の腕を力強く引っ張って、次の患者のもとへ連れて行く。まるで『顔を上げろ』と言われているようだった。動揺で何も考えられなくなった私は無心で治療を行った。魔力の回復薬も三本目。そろそろ体が限界に……いえ、まだやれる。
「回復薬を……」
「無茶しすぎです。これが最後ですよ」
初めて表情を崩した白神官が、私の体を支えながら飲ませてくれた。優しく微笑む彼の目は、とても辛そうだった。先ほどの光景が忘れられないのは、決して私だけじゃない。きっと彼も葛藤したのだ。
「この女性で重傷者は最後です。残りの患者は明日にしましょう」
本当に? 急変したら? 私にもっと魔力があれば……、そう思わずにはいられなかった。

「あれからも、何度か同じことがあったのよ。その度に迷ったわ。それでも私は助けたの。彼らのためでなく、生きて欲しいと願う私のために、ね」
彼女は痛々しそうに自分の両手を見つめた。その手には、数え切れないほどの命を救った記憶が刻まれている。
「それは……」
その気持ちが分かるだけに、気休めの言葉は言いたくなかった。
この世界での死は、苦しみから逃れるための慈悲にもなる。私の価値観とは大きく違う。
私なら? 家も家族も失った彼らに生きろというのは、言葉で言うほど
──命を助けて絶望を与えることは、本当に正しいの?──
短い沈黙に、隣にいたガインさんが私の手を強く握った。
そうね、きっと私はうるさい黙れと何も考えずに治療する。私の仕事は治療すること。それ以上でもそれ以下でもない。どんなに迷っても、それをハートさんが思い出させてくれるはず。
「現場では想定出来ないことが突然起こるわ。それを瞬時に判断しなければならないの。これから先、思い返して後悔することもあるでしょう。だから私はこの言葉をあなたに贈りたかった。〝全力を尽くしなさい。それはあなたを守る鎧になる〟と」
「はい」
言葉が重い。命のやり取りが行われる現場では失敗が許されない。だからこその言葉なのだ。
聖女様が懐かしそうに暖炉の前に手を伸ばすと、ライラさんは写真立てをそっと手渡した。
「彼がその時の白神官なのよ。彼も案内役は初めてだったと、後にそう言っていたわ」
それは、子供を抱えた聖女様と白神官の男性との、とても
「ご結婚を?」
「そうなの。騒がれることを好まない私のために、公表せずに静かに暮らそうと、彼がね……」
聖女様は愛おしそうに写真立てを抱きしめる。
「昨年亡くなったわ。最期まで私を心配して。ライラは私の孫なのよ。この子の両親は、王都で鍛冶屋をしているわ」
聖女様が隣に立つライラさんの手を取った。
ああ、聖女様も一人の人間として自由に生きたのね。それが知れてとても良かった。
「そうだわ。あなたにぜひ見て欲しい場所があるの」
聖女様はとびっきりの笑顔になると、ライラさんに支えられて立ち上がった。
「こっちよ」
彼女は杖を突いてゆっくりと前を歩く。私たちは何があるのかと期待しながら後に付いて、裏口のドアから外に出た。
「わぁ! 素敵!」「おお、これは凄い」「まるで教会の裏庭みたいだな」
イングリッシュガーデンのように自然と調和し、それでいてきちんと手が行き届いている。ここはまるで小さな裏庭薬草庭園だった。風に揺れてハーブの香りが辺りを包む。
「うふふ、見よう見まねで作ったのよ。中々なものでしょう?」
庭園の奥には石のベンチが置かれており、そこへ向かう小道の脇に、丹精込めて育てた薬草が生い茂っていた。よく見るとお料理に使えそうなハーブが多い。
「立派なもんだなぁ」
おじいさまがそのハーブに気付いて感心していた。
「ここは私にとって癒しの場所で、特別な場所でもあるの。私の新たな使命なのだから」
「新たな使命……ですか?」
彼女はにっこりと片目を瞑る。
「こっそりと、あなたに会いに行った最後の日。私はあの裏庭にとても感動したの。聖女の仕事を引退したら、私も自分の手で作るって決めたのよ」
「それはもう大騒ぎで、祖父も私も手伝わされました」
ライラさんが聖女様の隣で苦笑いした。
「あの日……」
やっぱり私に会いに……。光の加護があると知ってたんだ。
あの時は、声をかけて貰えただけで嬉しかったのよね。
すぐに図書館に走って行って、名前の意味を調べたんだっけ。
リリーの名の意味は〝純粋〟だった。とてもリリーに似合っていると思った。
そして私の名の意味は〝勇敢〟だった。
どんな想いを込めて、その名が私に付けられたのだろう。
この庭は彼女と彼女の家族の温かさが詰まった、とても優しい場所だった。

帰りの馬車の中で、私は静かに窓の外を眺めていた。ガインさんとおじいさまの笑い声が心地よく響く。聖女様との再会は、私にたくさんの勇気をくれた。目指す道が見えた気がする。
──全力を尽くしなさい。それはあなたを守る鎧になる。──
「また来ような」
ガインさんが優しく言った。
「はい、絶対に」
私は笑顔で頷いた。
馬車はゆっくりと村を離れ、夕日が草原を黄金色に染めている。
風が優しく吹き抜け、草花が揺れていた。