「おはよう、ナギ」

鏡の中の自分に向けて、そっと挨拶をする。

肩の下辺りまで伸びた艶やかな黒髪と、無表情にこちらを見返してくる茶色の瞳。幼く愛らしい顔立ちの中で、すでに絶望を知る瞳の暗さだけが、ひどく異質だった。

──本来ならばとうに命を失っていたはずの自分が、なんの罪もない少女の人生を奪って、ここにいる。なんて、罪深い。

なのに今の自分は、ただひたすらに辛く苦しいばかりだった日々の記憶も、己の命を利用し尽くされた屈辱の中で殺された痛みと恐怖も、すでに他人事のような記録としてしか認識できない。

ほかでもない、この体を奪われた理不尽さに憤っていいはずの少女自身が、不可思議な世界の管理者とやらに、そう願ってくれたから。

(……あなたは、優しすぎる)

毎朝、目が覚めるたびに泣きたくなる。

温かなベッドと美味しい食事が約束された、幸せな生活。優しい家族と、当然のように与えられる自由と未来。そんなすべてを突然奪われ、あの苦しみに満ちた世界に放りこまれた彼女が、どうしてその原因となった自分にまで、これほど優しくしてくれたのだろう。

『大好き』

そんな風に言ってもらえる理由なんて、ないはずだった。

『リオが死ななくて、よかった。……本当に、よかった。こんなの全然、リオのせいじゃない』

どうして彼女は、一度も触れ合ったことのない自分の罪を、すべて許してくれたのか。

『泣かないで。ちゃんと、高校行ってね。たくさん友達作って、美味しいものいっぱい食べてね。あと、お父さんとお母さんとお兄ちゃんにも、大好きって伝えて。今までたくさん、ありがとうって。わたしは、こっちでがんばる』

彼女だって、誰よりも大切な家族と、永遠に切り離されたばかりだったのに。

『だから、リオもがんばって。一緒に、がんばろうね』

がんばって、だなんて。

(ごめんなさい、ナギ)

──これから辛いことばかりだろう人生を押しつけてしまった彼女に、同じ言葉を返すことなどできなかった。

冷たい鏡に指先で触れ、目を閉じる。

あの日以来、ナギの両親は『娘』の様子を注意深く見守ってくれていた。泣きじゃくり、手の付けられないほど怯える彼女が落ち着きを取り戻してからも、ほんの少し不安げな様子を見せるたびに、優しく寄り添ってくれたのだ。

それは、生まれてはじめて触れた、『親』から与えられる無償の愛情。

母の顔も知らない孤児だったかつての自分が、ずっと憧れていたもの。温かくて嬉しくて、少しだけくすぐったい。自分が愛され、望まれている存在なのだと、無条件に信じられる。……そんな安心感を、今まで知らずに生きてきた。

(あなたの幸せを奪ってしまって、ごめんなさい)

この罪悪感からは、きっと一生逃れられることはないのだろう。それでいい。すべてを与えて許してくれた、誰よりも優しく愛しい少女を忘れて生きる人生なんて、絶対に許されるわけがないのだから。

苦い呼吸を整え、目を開く。

鏡の中の自分に、命じる。

──笑え。

「凪ー! まだ寝てるのー?」

「……起きてるよー! 今行くー!」

母の呼び声に、『普段通りに』元気よく答える。

今の自分は、緒方凪。

命の危険が遠い平和な国で、大好きな家族とともに生きている、幸せな少女。

こんなにも素敵な人生を与えてくれた彼女には、もう何ひとつ返すことができないから──。

(ナギ。あなたの家族は、私が必ず幸せにしてみせる)

その誓いを胸に、生きていく。

***

「ねえねえ! もし違ってたら、ほんとゴメンなんだけど! 緒方さんって、ひょっとして『リオ』だったりする!? 『現役女子高生が、オリジナルソングを歌ってみた』の!」

自宅から電車で二駅の高校に入学して、早一ヶ月。

昼食後の休み時間、クラスメートたちとの他愛ない会話を楽しんでいた凪は、突然飛びこんできた隣のクラスの女生徒からの問いかけに、目を丸くした。

「そうだけど。顔、下半分しか出してないのに、よくあれが私だってわかったね?」

彼女は体育の授業で一緒になることもあるため、一応顔見知りではあるけれど、まったく話をしたこともない相手である。凪の声を間近で聞いたことすら稀だっただろうに、よくネット越しの歌声と結びつけたものである。

世の中には耳のいい人間がいるのだな、と感心しながら頷いた瞬間、周囲ですさまじい絶叫が起きた。

「ええぇえええー!? ちょ、マジで!?

「ウッソでしょ、『リオ』ってあの『リオ』!? フォロワー数、めっちゃエグくなかった!?

(み……耳が、痛い……)

凪が耳を押さえて顔をしかめている間にも、周り中の生徒たちがそれぞれの携帯端末を操作している。どうやら、高校入学当初から凪が動画を投稿してきたサイトを確認しているらしい。

(うーん。元の世界で人気のあった昔の歌に、適当に歌詞をつけて歌ってみただけなんだけど。なんか、意外とウケてるみたいで嬉しいです。私立大学の受験費用と学費って、ホントえげつない金額だもんねえ)

日々淡々と勉学に励むだけで、高めの社会的地位と収入を得られるようになるというなら、その努力を惜しむという選択肢は凪にはなかった。

将来の職業については、まだ具体的に考えているわけではない。しかし、今後この国の社会情勢を学んでいく中で、もし医療分野に進みたいと思った場合、かつ志望する大学が私立だった場合、その学費は本当に目玉が飛び出るような額になるのだ。

だから、『現役女子高生』という最強のブランドが使える間に、利用できるものはなんでも利用して稼いでおこうと決めた。その中にはもちろん、『リオ』として生きてきた間に得た知識や経験も含まれている。

それぞれの楽曲の作者たちには少々申し訳ない気もするけれど、あちらの世界でもすでに亡くなった方々ばかりなので、その辺は大目に見ていただきたいところだ。

(まあ、私もあの世界では幽霊みたいなものだし。この辺は、お仲間割引ってことでお願いします)

そんなことを考えていた凪に、隣で携帯端末をいじっていたクラスメートが、恐る恐るといった様子で話しかけてくる。

「えっと……緒方さん? 『リオ』って顔出ししてないのに、こんなふうに身バレしちゃってよかったの?」

「んー? どうせ、大学の学費ぶんを稼いだら、歌のネット配信はやめるつもりだから。そしたら『リオ』のことなんて、みんなすぐに忘れるでしょ? 顔も元々下半分は出してたし、バレたらバレたで隠し事がなくなっていいかなー、と思ってたよ」

流行はやりすたれがあっという間に入れ替わるのが、ネットの世界というものだ。しかし、そう言うと最初に声を掛けてきた隣のクラスの少女が、なぜかこの世の終わりのような顔をして「嘘でしょ!?」と叫んだ。

「学費目的なの!? でもあんなに歌えて、しかも作詞作曲もガチでオリジナルなんだよね!?

「え? うん」

アカペラでは少し寂しかったので、高校の入学祝いとして両親が贈ってくれたノートパソコンに、無料の音楽制作アプリをダウンロードして、簡単な伴奏部分を作っている。

「ただ私、音楽アプリの使い方がいまいちわかってないから、アレンジがすごく雑でしょ。動画のコメントでも、その辺かなりツッコまれてるし。今は、アップしてるのが現役女子高生ってことで甘く見てもらえてるけど、そのうちもっとちゃんと勉強しろって叩かれて終わるだけだよ」

「~~っいろいろ! 本当にもう、ものすごく! いろいろ言いたいことはあるけど! とりあえず、いっこだけ全力で主張させて!」

ぐっと両手の拳を握りしめた隣のクラスの少女が、大きく息を吸った。

「もっ! たい! ないぃいいー!!

「……立派な肺活量だねえ」

心から感心した凪は、母が持たせてくれた保冷瓶のお茶を飲む。

「まあ、もうしばらくは続けていくつもりだし。もし『リオ』の歌を気に入ってくれているなら、これからも聞いてもらえると嬉しいです」

「気に入ってるよ!? ていうか、ガチで推してるよ! ああぁああ、同じ高校の、しかも隣のクラスに『リオ』がいたとか、めっちゃ心がぴょんぴょんしてたのにー!」

どうやら彼女は、本気で嘆いているようだ。

(うーん……。なんだか、申し訳ない?)

凪は、困った。ウケればラッキー、程度の気持ちではじめたことに、これほど熱意を持って応えてくれる相手がいたとは、まったく想像もしていなかったのだ。

と、それまで黙っていたクラスメートのひとりが、思い切ったように口を開いた。

「あの……緒方さん。もしよかったら、放課後に軽音部の見学に行ってみない?」

「軽音部?」

首を傾げた凪に、クラスメートは頷いた。

「うん。私のお兄ちゃんが、軽音部でベースを担当してるんだけど。曲のアレンジとかもかなり本格的にやってるみたいだから、ちょっとは『リオ』の参考になるかなって……」

「……それって、入部しなくちゃダメなやつじゃないの?」

いくらなんでも、部外者の相談事にいちいち対応するほど、先方も暇ではないだろう。しかし、クラスメートは真顔でぐっと親指を立てた。

「大丈夫! ぶっちゃけ、うちのお兄ちゃんもガチで重めの『リオ』推しだから! 緒方さんを紹介したら絶対めちゃくちゃテンパるはずだし、その瞬間を逃さず激写してやるつもりだよ!」

「はぁ……」

なんだかよくわからないけれど、もし音楽制作アプリの使い方を指導してもらえるなら、ありがたいことだ。

少し考え、凪は親指を立てたままのクラスメートに問いかけた。

「軽音部のお兄さんが『リオ』の歌を気に入ってくれてるなら、まだネットに上げてない歌を歌ってみたら、相談のお礼になったりするのかな?」

軽音部に入部する予定がない以上、指導を仰ぐには相応の謝礼が必要になる。しかし、学生同士で金銭のやり取りをするのは、いくらアルバイトに寛容な学校でも、さすがに問題になりそうだ。

消去法で、何か適当な若者向けの歌でも提供してみるのはどうだろう、と思ったのだが──。

「……『リオ』の新曲初公開とか、オーバーキルが凄すぎる件。可愛い顔して、何えげつないこと言ってんの、この子」

「……え、私は軽音部に入部届を出せばいいの? そしたら、その奇跡の瞬間に立ち会える?」

(……うん。この世界の子どもたちの価値観って、やっぱりまだよくわかんない)

結局、その日の放課後、凪は軽音部の兄を持つクラスメートとともに、学校の部室棟を訪問することになる。

そして、そのときの出会いが、凪の──『リオ』の運命を大きく変えるのだが、そんな未来をまだ誰も知る由はないのであった。