第八章 お父さまとは呼びません
『……いいんですか? シークヴァルトさん。ナギが報道陣の前に出るのは、今日の予定にはなかったでしょう』
シークヴァルトのほうを見ないまま、セイアッドがピアス型の思念伝達魔導具を通じて問いかけてくる。
たしかに、これから護衛対象の少女がやろうとしていることは、彼ら護衛チームがまったく想定していなかった事態だ。彼女の安全を最優先に考えるのであれば、ここは止めるべきである。
しかし、シークヴァルトはちらりと窓の外を見てから、あっさり応じた。
『ライニールのほうは、すでにケリがついている。マクファーレン公爵家の護衛連中は、対象との中距離を維持したままだ。問題ない』
『了解しました。ですが、今のおれたちの立場では中距離すら維持できません。ソレイユが同行するのも、現状では不自然でしょう。どうしますか?』
その問いかけには応じず、シークヴァルトは通学鞄を肩に引っかけ、グレゴリーに向けてにやりと笑う。
「よお、マクファーレンのお坊ちゃま。なんだか、面白そうなことを言ってるな。ヒマだから、オレも見物に行ってやるよ」
先ほど、ぐちゃぐちゃになった顔を洗いに行くよう促すとき、揶揄する口調で言ったからだろう。グレゴリーが、くわっと噛みつく勢いで言い返してくる。
「うるさい! これは、ぼくたちの問題だ! 部外者はしゃしゃり出てくるな!」
「バカか? おまえ。トラブルってのは、他人事だから楽しいんじゃねえか。ホラホラ、貴族のお坊ちゃま方、お嬢さん方も、さっさと行った行った。中庭でのガーデンパーティーとやらには、アンタらの家族も参加してるんだろう? よかったなあ、今なら家族と合流しにいくだけで、マクファーレン公爵家が主演の舞台を、特等席で見学させてもらえるぜ?」
ヒラヒラと軽薄そうに手を振りながら言ってやれば、貴族階級の子どもたちが明らかに挙動不審になる。上位貴族に関する、鮮度の高い確実な情報。それは、彼らにとって決して見過ごせない貴重なエサだ。
しかし、当の本人であるグレゴリーは、明らかにギャラリーの存在を拒絶している。いくら過去の醜聞を暴かれている真っ最中とはいえ、マクファーレン公爵家はこの国の貴族社会で最上位に位置する家だ。その後継者である彼の意向に反してまで、シークヴァルトの煽動に乗る者がどれほどいるか──。
「あら。もしみなさまがご一緒してくださるなら、とても心強いです。……そうそう、あなたのことはこれからどうお呼びすればいいかしら? お名前で? それとも、グレゴリーお兄さま?」
「おに……っ」
コロコロと笑いながらナギがそう言った途端、グレゴリーの顔がそれまでとは違う意味で真っ赤になった。いかにも無邪気そうな様子で、ナギが首を傾げる。
「わたしが叔父さま、と呼ぶのはおいやなのでしょう? それとも、兄上と呼んだほうがよろしかったかしら」
(……うん。楽しそうだな、ナギ)
シークヴァルトの見る限り、グレゴリーは自分の両親を完全に切り捨てることはできていない。そこまでの覚悟は、まだ決めきれていないだろう。
それでも、彼はナギの手を取ることを選んだ。彼女の存在そのものが、今のマクファーレン公爵家を根底から覆すとわかってなお、父親の過ちを正面から受け入れた。
きっとこれから、グレゴリーの心は大きく揺れ動くだろう。両親への愛情と、今まで自覚することもできなかった憎悪。マクファーレン公爵家に対する義務と、それに対する鬱屈した感情。ほんの些細なきっかけで、彼が簡単にナギの手を振り払う可能性は、まだ充分にある。
けれどきっと、そうはならない。
──愛情に飢えた子どもの心が、生まれてはじめて触れたささやかなぬくもり。
グレゴリーが両親から受け続けてきた仕打ちが、虐待と呼ばれるものなのだ、と。父親の愛人が子どもを罵倒することは、決して許されてはいけないことなのだ、と。
ナギはただ、当たり前の事実を告げただけ。しかし、そんな当たり前のことを、今まで誰もグレゴリーに伝えてこなかったのだ。
(このお坊ちゃまにとっては、ナギの軽口も嬉しくて仕方がないんだろうな。軽口を言われる程度には、心を許されているんだ。おまえ、自分が今泣きそうな顔してるって、わかってるか?)
グレゴリーが、ナギから顔を背けながら、ぼそぼそと言う。
「……グレゴリー、と。普通に、名前で呼んでくれ」
「そうですか。では、グレゴリー。わたしのことも、ナギと呼んでくださいな」
そう言ってナギが笑った途端、グレゴリーが真っ赤な顔のまま何度もうなずく。シークヴァルトは、ものすごく生暖かい気分になった。
(よかったなー、お坊ちゃま。そこでおまえがナギからの兄呼びを選択してたら、ナギに関してはものすごーく心が狭くなるどこかのオ兄チャンが、完全におまえを敵認定してたぞ。永久凍土の眼差し、待ったなしだったぞ)
シークヴァルトが、グレゴリーの咄嗟の選択に対して密かに賞賛の拍手を送っていると、ソレイユが軽やかな足取りでナギに近づく。
「ねえ、ナギちゃん。あたしも一緒に行っていい? 貴族さま同士のトラブルを直接見物できるなんて、この学園にいる間だけだもん! ぶっちゃけ、全力で野次馬したい!」
ものすごく興味津々、という顔をしているソレイユの言葉に、平民出身らしい子どもたちがソワッとする。その空気を感じたのか、ソレイユが悪戯っぽい顔をしてナギに言う。
「ナギちゃんもさー、孤児院育ちってことは、素のしゃべり方は違うよね? それとも、学園ではお嬢さましゃべりをしなきゃダメって言われてる?」
ナギが可愛らしく首を傾げてから、小さく笑う。
「ううん。人前ではお嬢さまっぽく話していなくちゃ、一緒にいる兄さんが恥ずかしいかなって思って、そうしてただけ。こっちのほうが楽なんだけど、これから貴族さまがたくさんいる中庭に行くしねえ。わたしの育ちが悪いせいで、兄さんが誰かにバカにされるとか、想像するだけでぶちギレ余裕だし。──ですので、今のところはこちらのお嬢さまモードでお話しさせていただきますわね? ソレイユさん」
明るく闊達な庶民モードと、ふんわり優雅なお嬢さまモードの見事な使い分けに、それを促したソレイユが爆笑する。あらかじめわかっていても、たしかに笑えてくる別人ぶりだ。
「すごい、すごい! 声まで違って聞こえるし!」
「ありがとうございます。褒めていただけて、光栄ですわ」
そんなふたりのやり取りを目の当たりにしたグレゴリーが、限界まで目を丸くしている。がんばれ。
ソレイユも立派な伯爵令嬢のはずなのだが、物心つく前から筋肉至上主義──もとい、武門で名高いリヴィングストン伯爵家で養育されたせいか、どうにも令嬢らしくない。淑女教育はきちんとされているのだし、その気になればナギ以上に立派なモード変更ができるだろうに、本人曰く「マジで勘弁してください、ずっと令嬢モードとかストレスで死んでしまいます」だそうだ。
(それにしても、孤児院育ちのナギが、ここまでちゃんとした立ち居振る舞いができるとはな。……ノルダールで、どんな『高級品』として育てられていたんだか)
非合法に魔力持ちの子どもたちを集めていたノルダールの孤児院は、捜査の手が入る直前に焼け落ちている。そこで育てられた子どもたちの資料も、そのほとんどは失われてしまった。それでも、生き残った職員や保護した子どもたちの証言から、わずかながらわかっていることはある。
体格と運動神経のいい子どもたちには、遊びという名の高度な戦闘訓練を。
おとなしく見目のいい子どもたちには、ハイレベルな座学とマナー教育を。
いずれにせよ、ノルダールで養育された子どもたちは、さぞ高値で売れたに違いない。国で管理登録されていない魔導兵士も、どんな高位貴族の屋敷にも潜り込める教養と美貌を持つ間諜も、野心ある者たちにとってはさぞ得がたい駒なのだろうから。
そんなことを考えていると、ライニールから護衛チーム三名への緊急通信が入った。
(……あぁ? マクファーレン公爵夫人が、ここにナギを呼べと喚いてる? ナギの魔力とマクファーレン公爵の魔力が共鳴しなければ、すべてライニールの虚言だと証明されるって? ……あー、マクファーレン公爵ご本人は、真っ青な顔で卒倒寸前、と。そりゃあそうだろうなあ)
魔力を持つ夫婦の間に生まれた子は、その父親が触れた瞬間に魔力の共鳴が起こるもの。それゆえ、魔力持ちの貴族の家で嫡出子として認められた子が、父親の血を引いていないということはありえない。
ライニールはその外見からしても間違いなくマクファーレン公爵の実子だが、公爵とまるで似たところがないグレゴリーもまた、疑いようがなく彼の実子なのだ。
そしてライニールとナギの魔力が共鳴した以上、彼女も間違いなくマクファーレン公爵の子どもである。
(まあ、そもそもナギの容姿が、どこからどう見てもマクファーレン公爵の子どもなんだけどな。顔立ちは、あまり似たところがないが……。髪色はともかく、あの瞳はちょっとほかでは見ない色だ)
ライニールから聞いた話では、先代のマクファーレン公爵夫人──当代マクファーレン公爵の母親が、西方の小国出身の姫君で、大層美しい金髪碧眼の女性だったという。公爵、そしてライニールとナギの持つ色彩は、おそらくその祖母譲りなのだろう。
一方、先代公爵はこの国の王家の血が濃く出たらしく、銀髪に淡い緑の瞳である。グレゴリーも、今でこそ淡いグレーの瞳だが、生まれたばかりの頃はもっと緑がかった瞳をしていたそうだ。
ナギが生まれたのは、そんなグレゴリーが生まれてから約二ヶ月後。新たな息子の誕生に浮かれていた公爵にとって、前妻の産んだ女児の存在など、まったく意識の外だったことだろう。もしかしたら今の今まで、そんな娘がいたことすら忘れていたかもしれない。
いずれにせよ、男子禁制の修道院で生まれ、その後すぐにノルダールの孤児院へ誘拐されたナギが、父親に触れられる機会などあったわけがない。マクファーレン公爵とナギが接触すれば、間違いなくふたりの魔力は共鳴する。
それをわざわざ、大勢の報道陣の前でしてみせろとは──もしや公爵夫人には、自滅願望でもあるのだろうか。
シークヴァルトは笑いを堪えながら、思念伝達魔導具に意識を集中する。
『ライニール。これから、ナギがグレゴリーとともにそちらへ向かう。オレとセイアッドは、中距離を維持して同行。ソレイユは、近距離をキープできるか?』
『はーい、大丈夫です!』
ソレイユの元気な答えに、ライニールの訝しげな問いが重なる。
『あ? なんでナギが、マクファーレンのクソガキと一緒に来るんだ?』
『お坊ちゃまに、ようやく反抗期が来たらしいぞ。まあ、マクファーレン公爵夫妻に育てられたガキが、幸せだったわけがねえってことだな』
魔導具越しに、ほんのわずかライニールが逡巡する気配があった。
『……了解した。こちらは状況に合わせて対応する』
『ああ。セイアッドは、現着したらライニールのフォローに入れ』
『了解です』
ひとつ深呼吸をしたグレゴリーは、ギャラリーのことなどすっかりどうでもよくなったようだ。そんな彼に絡みながら、ソレイユがナギの隣をキープする。
「それじゃあ、マクファーレンのお坊ちゃま。中庭にレッツゴーですよ!」
「お坊ちゃまはやめろ! なんなんだおまえは、いきなり馴れ馴れしい!」
おお、とソレイユがわざとらしく目を見開く。
「お坊ちゃまと呼ばなくてもいいと! じゃあ、グレゴリーだね! あたしはソレイユ。好みのタイプは、背が高くてムッチムチの素敵な筋肉を持つ、落ち着いた年上の男性でっす。コンパクトプリティーキュートなグレゴリーは、まったくあたしの好みじゃないから、安心してね!」
「~~っ! おまえは、ぼくをバカにしているのか!?」
足を進めながらも、くわっとソレイユに噛みつかんばかりのグレゴリーに、ナギがあくまでも真顔で言う。
「まあまあ、グレゴリー。あなたは黙っていればとても可愛らしいのですから、それでいいではありませんか。可愛いは正義です」
その途端、グレゴリーがわかりやすくうろたえた。ナギとソレイユが顔を見合わせる。少し考えるような素振りのあと、ナギがグレゴリーに問いかけた。
「あなたは客観的に見て、本当に可愛らしいですよ。……信じられませんか?」
「……ぼくは、本当に、見苦しくないのか?」
頼りなく揺れる声に、ナギは深々とため息をつく。
「あなたが見苦しかったら、この学園に在籍しているすべての学生が見苦しいということになりますね。そんなに丁寧にお手入れされた髪とお肌をして、いったいどこが見苦しいというのです?」
「そうそう。グレゴリーはあたしの好みとは真逆のタイプなだけで、すっごく可愛いし魅力的だよ! そんなに難しい顔をしてないで、にこにこ笑っていればもっと可愛くなれるって!」
周囲の女生徒たち──先ほどグレゴリーを賞賛しまくっていたクラスメートの少女たちが、揃って力いっぱいうなずいている。
ナギが、グレゴリーに向けてびしりと言う。
「いいですか、グレゴリー。見苦しい人間というのは、我が子を傷つけて恥じることのない、あなたの両親のような者のことをいうのです。そして、妻子を持つ男性の愛人は、存在するだけでその妻子を傷つけているのですよ。そのような見苦しい者たちのくだらない妄言などに、なんの価値もありはしません。わかりましたか? わかったのでしたら、二度とあなたの可愛らしさを損なうような、卑屈な発言はなさらないように。もったいないにも、ほどがあります」
「わ……わかった……?」
語尾が怪しげではあるものの、グレゴリーがぎこちなくうなずく。その様子を見て、シークヴァルトは密かに苦笑した。
(元々が、きっとものすごく素直な坊主なんだろうなあ。今までは阿呆な両親の影響を受けまくって、ガチガチに『両親にとってのいい子』をやってた感じか? ナギの言葉責めで、その両親に対する幻想が木っ端微塵になった結果、今は自意識再構成の真っ最中、と。……これからは、ナギとソレイユの影響を、めいっぱい受けまくればいいと思うぞ。うん)
ナギもソレイユも、たまに愉快な発想で周囲を混乱させてしまうことがあるけれど、基本的にとても優しく、そして逞しい少女たちだ。彼女たちならば、両親からの虐待で縮こまってしまったグレゴリーの心に、きっといい影響を与えてくれるだろう。
***
魔導学園の中庭は、背の低い生け垣と観葉植物を幾何学模様に配置した、一見の価値がある美しい場所だ。密度の高い芝と石畳を組み合わせた地面に、優美なデザインの丸テーブルがいくつも置かれている。その上には、いかにも美味しそうな軽食やドリンクが並べられていたけれど、シークヴァルトがざっと見た限り、ほとんど手を付けられていなかった。もったいない。
華やかに着飾った紳士淑女が、なんとも言い難い雰囲気の中で佇む中、真っ先にナギたちの到着に気付いたライニールが歩み出てきた。彼はナギに向けて両手を広げ、とろけるような笑みを浮かべる。
「お帰り、ナギ。クラスの感じはどうだった? 楽しく勉強ができそうかい?」
「はい、お父さま。いろいろとお話ししたいことはありますけれど、まずはクラスメートを紹介させていただきますわね。紹介、というのもおかしなお話かもしれませんけれど──お父さまの異母弟でいらっしゃる、グレゴリー・マクファーレンさまです」
するりとライニールの傍らに立ったナギが、小さく笑う。
「叔父さま、とお呼びしようとしたら、とてもいやがられてしまいましたの。ねえ、グレゴリー?」
「あ……ああ。あの……お久しぶり、です。ライニールさま。その……五年前にお別れのご挨拶をした際には、大変失礼を申し上げました。今更ではありますが、心からお詫び申し上げます」
ナギの肩に手を回したライニールが、軽く目を瞠る。グレゴリーがいきなり頭を下げてくるとは、さすがに想定外だったのだろう。一度ナギに視線を向け、にこりと笑い返されたライニールは、彼女によく似た朗らかな笑みとともにグレゴリーに話しかけた。
「いや。あのときのきみは、たったの十歳だったからね。そんな子どもに何を言われたところで、わざわざ怒るようなことじゃないさ。それでも、きみがあのときのことを気に掛けていて、こうして詫びてくれたことは嬉しく思うよ。ありがとう、グレゴリー」
「は……はい……っ」
グレゴリーの目が、ぶわっと潤む。教室で盛大に泣いたばかりのせいで、涙腺が緩みがちになっているのだろうか。
しかし、ここで泣いている場合でないというのは、本人が一番よくわかっていたのだろう。ぐいっと袖口で目元を拭ったグレゴリーは、きつい表情を浮かべて中庭を見回した。そして、揃って激しい驚愕に立ち尽くしているマクファーレン公爵夫妻に、低く抑えた声で呼びかける。
「父上。母上。そんなところで、何をなさっているのです。あなた方は、ライニールさまからすべてを聞かれたのではないのですか?」
少女めいたふっくらとした頬は蒼白になり、その震える唇も声も、彼がすさまじい葛藤の中にあることを伝えてくる。
それでも彼は、ぐっと両手を握りしめ、懸命に言葉を紡いでいった。
「あなた方は、ライニールさまとナギから母君を奪い、みなさまがともに過ごせたはずの幸せな時間をも奪った。今更何をしたところで到底許されることではないとはいえ、せめておふたりに誠心誠意頭を下げて詫びるべきでしょう!」
今にも泣き出しそうな顔をした、少年の弾劾。
──その報道陣の前で、ぼくの両親からきみたちへ謝罪をさせたいと思う。ふたりの過ちを、きみたちが……きみたちの母君が奪われたものの重さを、誰の目にも明らかにしたい。
──もちろん、そんなことで彼らの罪が許されるなんて、思っているわけじゃないんだ。
──ただ、ぼくの両親に、きちんと自分たちの過ちと向き合ってほしいんだよ。そうでなければ、きっと何も変わらないから。
先ほど、教室でそうナギに告げたグレゴリーとて、自分の両親が犯した過去の罪を、簡単に受け入れられたわけがない。おそらく彼は、決して短くないオリエンテーションの間中、ずっと悩み、考え続けていたのだろう。
そうして、グレゴリーが選んだ答えは、どこまでも少年らしいまっすぐな道だった。
「……父上。ライニールさまと並ぶナギの姿を見て、あなたの子ではないと言えますか? 彼女の髪も瞳も、そっくりそのままあなたのものだ。それでもあなたが認めないとおっしゃるのであれば、ぼくはこの場でマクファーレン公爵家の継承権を放棄します!」
唐突な彼の宣言に、その場が大きなざわめきに包まれる。それまでひたすら唖然としていた公爵夫妻が、憤然と口を開いた。
「グレゴリー! 何をバカなことを言い出すのだ! おまえはただ、私の跡を継ぐことだけを考えていればいい!」
「そうですよ、グレゴリー! くだらない過去のことなど、どうでもよいでしょう! 今はあなたが、あなたこそがマクファーレン公爵家唯一の後継者なのです! そのような愚かなことを口にするなど、母は断じて許しませんよ!」
こんなときでも、足取りだけは優雅に近づいてきた公爵夫妻に、グレゴリーの顔色がますます悪くなる。おそらく今までの彼にとって、両親は絶対的な支配者だったのだ。そう簡単に、その呪縛から逃れられるものではない。
しかし、公爵夫妻が体を強張らせたグレゴリーの前にたどり着く前に、すいと彼らの間に歩み出た者がいる。
ナギだ。
彼女はライニールが制止するより先に、大きく振りかぶった右手で、マクファーレン公爵の頬を力いっぱい張り飛ばした。その衝撃に公爵の首がのけぞるのと同時に、涼やかな鈴の音にも似た魔力の共鳴音が、中庭いっぱいに幾重にも響き渡る。
リィン、リン、リィン……と、まるでその場を祝福するような美しい音の中、グレゴリーを背後に庇ったナギがにこりと笑う。共鳴した魔力の波動に浮かぶ彼女の金髪が、柔らかな光そのもののように美しく舞い踊る。
「ごきげんよう、マクファーレン公爵。そして、はじめまして。──お父さま、とはお呼びいたしませんわ。わたしがそう呼ぶのは、これから何があってもわたしを守るとおっしゃってくださった、とっても優しくて素敵なお兄さまだけですもの」
そのとき、片手で額を押さえたライニールが天を仰いだ理由が、「あーあ、やっちまった……」だったのか、「おれの妹、超尊い……」だったのかは、本人のみが知るところだろう。
シークヴァルトは、ナギの思い切りのよさにあやうく噴き出すところだったが、どうにか平静を保って様子を窺う。
張り飛ばされた頬に触れたまま硬直したマクファーレン公爵を、氷のような目で冷たく一瞥したナギは、グレゴリーを振り返ってほほえんだ。
「ありがとうございます、グレゴリー。わたしは……わたしたちは、あなたのお気持ちだけで充分です。公爵ご夫妻は、あなたからのこれほど必死のお願いでさえ、歯牙にも掛けてくださらなかった。彼らは、ご自分たちのされたことを、きっと何ひとつ後悔も反省もしていらっしゃらない。そんな方々に、口先だけの謝罪をされたところで虚しいだけですもの」
「ナ、ギ……っ、ぼく、は……」
グレゴリーの両目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。ナギはそんな彼の震える手を取り、そっと両手でそれを包み込む。
「大丈夫です。あなたは、何も間違ったことはしていません。……それでも、ご両親の過ちを認めるだけでも、あなたはとても苦しかったでしょう。怖かったでしょう。ごめんなさい。あなたの気持ちに甘えて、辛いことをさせてしまいました」
「ご……め……っ、ぼく……もっと、ちゃんと……っ」
何度もしゃくり上げるグレゴリーの姿に、周囲にいる女性陣──学生の母親たちがみな涙ぐみ、痛ましげな視線を向ける。男性陣も、涙ぐんでこそいないものの、我が子と同世代の子どもの泣く姿に胸を痛めているようだ。教室でグレゴリーを励ましていたクラスメートの女生徒たちなど、すでにボロ泣き状態である。
シークヴァルトは、公爵夫妻の様子を慎重に窺う。
(さて、これからどう出る? ナギと公爵の魔力は共鳴した。ライニールの言葉が真実だったことは、この場の全員が見届けた。おまけに、報道陣連中が今までのすべてを記録している。普通なら、ここで完全に終わりだろうが……)
「……っアアァアアアアッッ!! おまえェ! わたくしのグレゴリーから離れなさい! わたくしからオーブリーさまを奪っておきながら、今度は息子まで奪おうというの!?」
突然、ガラスを金属で引っ掻くような声で、公爵夫人──イザベラが絶叫した。そして彼女は、一般的な女性の倍はありそうな大きな体を揺らしながら、すさまじい勢いでナギとグレゴリーに向かって突進していく。
(おいおい……っ)
貴族の女性が、護身用に小さな刃物や魔導具を所持しているのは、さほど珍しいことではない。シークヴァルトも、そういったものを相手取る事態は想定していた。たとえマクファーレン公爵家の護衛たちが、全員束になって襲いかかってきたとしても、問題なく対処できる自信はあったのだ。
しかし、半ば正気を失ったような肥満体の女性が、血走った目をして自ら爆走してくるとなると──。
「フブォッ!」
(……あ、スマン)
淑女らしからぬ濁音、そして地響きとともに、イザベラが地面に沈む。真っ赤なドレスがめくれ上がった格好のまま、ぴくぴくと痙攣する彼女の姿に、シークヴァルトはさすがに申し訳ない気分になった。
だが、これは不可抗力だ。何しろ、今のシークヴァルトは防御魔術も魔導具も、よほどの非常事態でなければ使うことができないのである。
よって、至極シンプルな対処方法──即ち、興奮した牛のような勢いで突っこんでくる相手の足を引っかけ、その場にすっ転がすしかなかったのだ。
結果、見事に空中を反転したイザベラは、その勢いと体重をすべて顔面で受け止める形で、景気よく地面に激突した。下が柔らかい芝生であったことが、辛うじて救いになっただろうか。もし彼女が着地したのが石畳の上だったなら、首の骨を折って即死していたかもしれない。
とはいえ、イザベラが止まったのは、ナギとグレゴリーからほんの数歩手前だ。もしあの勢いのまま突っこんでいれば、ふたりとも無事ではいられなかっただろう。
立ち上がって振り返れば、互いの手を握ったまま青ざめている弟妹を背に、ライニールが深く息を吐いていた。
「助かったよ、少年。きみがあと一秒遅ければ、おれは公爵夫人を殺していた。ありがとう」
「……いえ。咄嗟に、ヤバいと思っただけなんで」
心から安堵したようなライニールの言葉は、ただの事実だ。
ナギの前で、彼に人殺しをさせるようなことにならなくて、本当によかった。
その後、茫然自失となったマクファーレン公爵は、鼻血だらけの気絶した夫人とともに、従僕たちの手で馬車に運び込まれるようにして姿を消した。
グレゴリーは寮生なので、元々屋敷に帰る予定はなかったという。ナギともどもシークヴァルトに礼を言った彼に、シークヴァルトは短く問うた。
「おまえ、これから大丈夫なのか?」
「うーん、どうだろう。あれ? 今日の件で父上から勘当されたら、学園は退学になるんだろうか。もしそうなったら……えぇと、平民として個人登録をし直したあと、改めて入学申請をすればいいのかな?」
小首を傾げてそんなことを言うグレゴリーに、ライニールが問いかける。
「きみは、マクファーレン公爵家を継ぎたくはないのかい?」
少し迷うようにしてから、グレゴリーが口を開く。
「正直、よくわかりません。ぼくはずっと、あの家を継ぐ者として育てられてきました。ですが、今あの家の者たちが望んでいるのは、あなたが後継者として戻ってくることのようなので……」
「は? なんだい、それは。おれは五年前、あの家の連中に『不道徳な女の血を引く後継者など、マクファーレン公爵家には必要ない』と言われて追い出されたんだが?」
眉をひそめたライニールの言葉に、グレゴリーはなんとも言い難い顔になる。
「えぇと……あなたが出て行かれてから、ぼくの後継者教育がはじまったのですけれど。どうも彼らの中では、マクファーレン公爵家の後継たるもの、あなたくらいのことはできて当たり前だったようなんです」
その瞬間、居合わせた紳士淑女が揃って苦虫をかみつぶしたような顔になったのを、シークヴァルトはたしかに目撃した。
──騎士養成学校を首席で卒業し、在学中から仕事をしない父親に代わって領地の経営に携わり、王太子からは『兄上』と呼ばれ、慕われる。
そんなライニールを、十歳の子どもが当然クリアすべき基準とするなど、マクファーレン公爵家の者たちは、揃いも揃って頭がおかしいのではないだろうか。
「ぼくは、あなたとは比べようもなく凡庸な子どもでしたし……。今から思えば、それまで散々甘やかしてろくな勉強もさせていなかったぼくに、どんな無茶を言ってくれているんだって感じではあるのですけどね」
「そ……そう、か」
ライニールの顔色が、若干悪くなっている。
(あー……。ライニールもオスワルドも、この坊ちゃんのことを『能なし』だとか言ってたもんな。十歳までは甘やかされ放題だったってんなら、そりゃあ能なし判定にもなるだろうけどよ。ライニールがいなくなった途端、今度はライニールを基準にした連中に、坊ちゃんが散々いやみを言われる羽目になったわけか。……つくづく、救いようのねえ連中だな)
「ぼくがあの家を継がなくても、ほかに継ぎたがる者はいくらでもいそうですし、特に問題はないと思います」
淡々と言うグレゴリーは、本当にマクファーレン公爵家にはなんの未練もないように見えた。ライニールが、軽く眉間を揉みながら口を開く。
「まあ……うん。その辺りについては、落ち着いてゆっくり考えてから決めるといいよ。ただ、今のきみをマクファーレン公爵が勘当しようと思ったとしても、その理由がない。何より、今の彼にそんな気力は残っていないだろうね」
そう言って、ライニールは表情を改めた。
「グレゴリー。きみは、おれとナギのために怒って、泣いてくれた。その気持ちは、本当に嬉しく思う」
それでも、と続けるライニールの声が、一段低くなる。
「おれとナギが、マクファーレン公爵夫妻と馴れ合う日は決してこない。きみがこれからも両親とともにあることを選ぶなら、いずれきみは必ずおれたちの敵になる。……これはおれの勝手な希望なんだが、できることなら、そんな未来は選ばないでもらえるとありがたい」
グレゴリーが、目を見開く。まじまじとライニールを見上げた彼は、少し掠れた声で言う。
「ぼくを……惜しんで、くれるんですか? あなたが?」
「きみが五年前の生意気な子どものままなら、何も惜しくはなかったのだけどね。今は──そうだな。きみがこれからナギと同じ教室で、一緒に楽しく学んでくれたなら、おれはとても嬉しいよ」
その穏やかな笑顔と言葉に、グレゴリーの涙腺が再び緩んだようだ。じわりと浮かんだ涙を袖口で乱暴に拭い、何度もうなずく。
「あ……ありがとう、ございます……っ」
「うん。これから何か困ったことがあったら、おれに相談するといい。できる限り、力になる」
そんなふたりの様子に、周囲にほっとした空気が流れる。彼らが和解したなら、これからマクファーレン公爵家がどうなろうとも、グレゴリーだけは必ず救われるだろう。
(マクファーレン公爵家を残すか潰すかは、これからのお坊ちゃまの選択次第、か。……まあ、どっちに転んでも、ナギにとって悪い結果にはならなさそうだ)
この国の現正妃の生家である、マクファーレン公爵家。広大な領地と莫大な資産、そして王妃の外戚としての王宮における絶大な発言権を持つこの家を、手に入れたいと望む者はたしかにいくらでもいるに違いない。
だが実際のところ、マクファーレン公爵家の当代当主は、その地位から得られる特権を享受するばかりで、それに伴う義務をまったく果たしていなかった。何より、後継者の教育を蔑ろにし、くだらない恋愛遊戯にばかりうつつを抜かしている。
ライニールがいた頃は、彼が当主代行を務めることで問題なく回っていたようだが、幼いグレゴリーに同じことができたとは思えない。マクファーレン公爵家の内情は、かなり厳しいことになっているのではないだろうか。
(まあ、ライニールとナギが、ここまでしっかりお膳立てをしてやったんだ。今まで母親の実家の横暴を放置してきた責任は、オスワルドが負うべきだよな。……昼飯、何にするかな)
完全に他人事モードのシークヴァルトが、今日の後始末をすべて友人の王太子に丸投げし、昼食に思いを馳せたときだった。通信魔導具にアイザックからの緊急伝達が入ったのを受け、即座に思念伝達魔導具へリンクさせる。
『──団員各位に告ぐ。現在、東の国境近くで凶暴化した大型魔獣が二体出現。東の第三騎士団が対応中だが、負傷者多数とのこと。死者はなし。これより、第一部隊が第三騎士団援護のため現場に向かう。第二部隊は現在の任務を続行。第三部隊は本部にて不測の事態に備えよ。以上だ』