凪は、あやうく舌打ちしかけた。
(いきなり何を言ってやがんだ、このクソチビ野郎。他人を指さすなって、親から教わらなかったのか、あぁん?)
猛烈にイラッとした凪は、ひとまずほかの生徒たちの邪魔にならないよう、入り口から一歩脇にどいた。そして、表情を消したまま黙って少年を見据える。
今の彼女は、文句の付けようがない超絶美少女だ。そんな美少女に、まるで汚物を見るような目を向けられた少年が、気圧されたような顔になる。勝った。
相手が勢いを失ったのを見て取った凪は、口元だけでにこりと笑う。
「わたしは、ナギ・シェリンガム。ライニール・シェリンガムは、わたしの養父です」
「養父、だと……?」
少年が、思い切り顔をしかめる。
「ええ。ところで、名乗りもせず、わたしの敬愛する父を呼び捨てにした上、初対面の相手をいきなり怒鳴りつけるあなたは、いったいどこのどちらさまでしょう?」
相手の無礼さをあげつらってやると、少年の頬が一瞬で赤く染まった。
「……っぼくは、グレゴリー・メルネ・マクファーレン! マクファーレン公爵家の後継者だぞ! 男爵家の養女ごときが、生意気な口を……!」
「あら、あなたがお父さまの腹違いの弟君ですか。大変身分を笠に着たご挨拶を、どうもありがとうございます」
少年──グレゴリーの顔が、ますます赤くなる。
「き、さまぁ……っ! きさまのような見た目だけの女など、ぼくは断じて認めないからな! きさまらごときが、マクファーレン公爵家の恩恵を受けられると思うなよ!」
「お父さまが、元々マクファーレン公爵家の方だったということは、知っています。五年前に、公爵家から絶縁されたことも。今のお父さまの家族は、養女となったわたしだけです。なのになぜ、公爵家の恩恵などというお話になるのでしょう? まったく意味がわかりません」
何言ってんだコイツ、と眉をひそめながら言い返す。グレゴリーが、鼻で笑う。
「はっ! その髪も目も、よくもまあ似たようなものを見つけてきたとは思うがな! まったく、父上に似た娘を養女にしてまでこちらの気を引こうとは、魔導騎士団の副団長が聞いて呆れる!」
「呆れるのは、こちらのほうです。見当外れの言い掛かりはやめてください」
はあ、とため息を吐いた凪は、ちらりと教室を見回した。そして──。
(~~っはぁあああんっっ! 十五歳バージョンのシークヴァルトさん、やっぱり超絶カッコいいぃいいーっっ!!)
窓際の席で立ったまま、どこか驚いた顔をしているシークヴァルトの姿を目にした途端、凪は瞬時に恋する乙女モードになった。
魔導学園の男子の制服は、白地に黒と金のラインが入ったジャケットに、黒のパンツというスタイルだ。黒髪に金の瞳を持つシークヴァルトに、とてもとてもとてもよく似合っている。もちろん、魔導騎士団の制服姿だって大変眼福だが、この十五歳バージョンのシークヴァルトは、期間限定の超レアものだ。
(この目に! この目に録画機能が欲しい……っ!)
状況も忘れ、ウットリとシークヴァルトに見とれそうになった凪だったが、さすがに今それをしたらただのバカだ。どうにか己を立て直し、ソレイユとセイアッドがそれぞれこちらを見ていることを確認する。
すでにこの三人が教室内にいるのなら、たとえグレゴリーがキレて殴りかかってきたとしても、きっと誰かが止めてくれるだろう。
よし、と凪はうなずき、こちらをきつく睨みつけている、腹違いの兄に向けてほほえんだ。
「そのようなことをおっしゃるのでしたら、改めてご挨拶いたします。わたしは十六年前、マクファーレン公爵に不義の汚名を着せられ、離縁された元妻、レイラの娘です。ライニール・シェリンガムは、法律上はわたしの養父となっておりますけれど、血縁上は実の兄。血が繋がっているのですもの、お父さま──兄とわたしの髪と瞳が同じでも、何もおかしなことはないでしょう?」
「……な、に?」
少しフライング気味かもしれないけれど、そろそろライニールにもマクファーレン公爵家から接触がある頃だろう。グレゴリーがこの事実を知るのが、今か数時間後かの違いだけだ。
苛立ちと憤りに赤くなっていた少年の顔が、徐々に困惑に染まっていく。
くすくすと笑いながら、凪は言う。
「孤児院で育ったわたしと、兄の魔力が共鳴したときには、本当に驚きました。兄も、よほど驚いたらしくて……。わたしの手を握ったまま、全力でマクファーレン公爵を罵倒していました。当然ですよね? だって──」
指先で軽く頬に触れ、小首を傾げる。
「兄弟姉妹の魔力は、両親が同じでなければ共鳴しない。兄とわたしの魔力が共鳴したということは、わたしの父がマクファーレン公爵だということなのですもの」
「……っ!」
グレゴリーの顔が、青ざめる。凪は、ゆるりと笑みを深めた。
「ご理解いただけましたか? グレゴリー・メルネ・マクファーレン。わたしの──わたしたちの母は、不義の罪など犯してはいなかった。なのに無理矢理離縁され、実家の子爵家からも絶縁され、挙げ句身重の体で修道院へ捨てられたのです。そして、わたしを産んですぐに、母はこの世を去りました」
声もないグレゴリーを見つめながら、凪はすっと笑みを消す。
「ご安心くださいな。兄もわたしも、浅ましく卑劣な嘘つきのマクファーレン公爵を、自分の父などとは思っておりません。マクファーレン公爵家の恩恵ですって? あまり、笑わせないでいただけますか。わたしたちがマクファーレン公爵家に抱いているのは、嫌悪と侮蔑の気持ちだけ。あなたの父親は、なんの罪もないわたしたちの母を、女性として耐えがたい恥辱にまみれさせ、すべてを奪って放り捨て、見殺しにした。いつかその報いがあることを、わたしは心から願っています」
***
「ライニール。なぜ、おまえがこのような場所にいる。なんだ、あの娘は。いったいどこで拾ってきた?」
五年ぶりに聞く、父の声。
そのことになんの感慨も抱かない自分に、ライニールは少なからず驚いた。ほんの少し前までは、父の姿や声を思い出すだけで、虫唾の走る思いをしていたというのに──。
(……ああ、そうか。おれはもう本当に、この人のことがどうでもよくなっているんだな)
嫌悪も憎悪も、失望も。
ライニールが、この男──オーブリー・ロッド・マクファーレン公爵に何かを期待することをやめたときに、すべてが色あせてしまったのだろう。
かつて父と呼んだ相手は、五年前にライニールのすべてを否定した。そのときは、たしかにオーブリーを憎んでいた。殺意さえ、抱いていたかもしれない。
かつてのライニールにとって、父親とは常に敬愛すべき相手であり、何があろうと必ず従うべき存在だった。生みの親に対する盲目的な愛情は、たとえ相手から愛された記憶がなくても、幼かったライニールを呪縛していたのだ。
だからこそ──オーブリーを愛していたからこそ、ライニールは彼を憎んだ。自分を捨てた父のことなど、忘れてやりたいのに忘れられない。虚しい過去に囚われることなく、前を向いて歩きたいのに、ふとした瞬間に自分の足が鉛のように重く感じる。
そんな父に対する憎しみと、一生付き合っていくものだと思っていた。
なのに今、ライニールを捨てたことなど忘れたような顔をして名を呼び、話しかけてくるオーブリーに対して、本当に何も感じない。……否、感じてはいる。ただそれは、かつて感じていたような愛憎ではない。
公爵家の当主に相応しく華やかに装ったオーブリーと、彼に寄り添いどこか勝ち誇った表情を浮かべる公爵夫人。
彼らに対し、今のライニールが感じているのは、ようやく獲物を前にした獣の歓喜だった。
入学式のあとに開かれるこのガーデンパーティーは、毎年新入生の保護者だけではなく、在学生の保護者も参加するちょっとした社交の場だ。想定通り、かなりの数の貴族たちが、豪奢に設えられた中庭へ集まってきている。
そして、彼らが最も注目しているのは、間違いなく自分たち。
香りを楽しむためだけに持っていたワインのグラスをテーブルに置き、ライニールはゆるりとほほえんだ。
「お久しぶりですね、マクファーレン公爵閣下。公爵夫人。なぜここに、と尋ねられましても……ご覧になっていたのでしたら、おわかりでしょう? 私の可愛い娘が、この魔導学園に入学したのですよ」
オーブリーが、苛立たしげに眉根を寄せる。
「娘だと? ふざけたことを言うな、ライニール」
「ふざけてなどおりませんよ、閣下。正式に養子縁組をしたのですから、あの子は間違いなく私の娘ですとも。魔導騎士団の任務中に、保護しましてね。聞けば、親の顔も知らない孤児だというので、引き取って私の娘にいたしました」
なんだと、とオーブリーが声を低めた。
「私の許可なく、何を勝手なことをしている」
「そちらこそ、何をおかしなことをおっしゃるのですか? 私は、とうの昔にマクファーレン公爵家から絶縁された身。私の行動に、あなたの許可など必要ありません」
楽しげに言うライニールに、オーブリーが心底不快げな顔になる。はじめて見る彼のそんな顔に、ライニールはあやうく笑み崩れそうになった。
そうそう、とライニールは公爵とその夫人を見比べる。
「私の娘と、あなた方のご子息は、どうやら同じクラスのようですよ。今頃、初対面の挨拶でもしているかもしれませんね」
「なんですって?」
思わず、というふうに口を開いたのは、公爵夫人のイザベラだ。
肩を大胆に出す真っ赤なドレスをまとった彼女は、しばらく見ない間に随分ふくよかになっていた。公爵家での贅沢の結果だろうか。痩身の夫と並ぶと、丸々とした迫力が一層際立つ。
はじめて会った頃の彼女は、やたらと強調していた胸元以外は、むしろ引き締まった体つきをしていた。人間というのは、変われば変わるものらしい。今は、こってりとした厚化粧といい、子どもの入学式に相応しいとは言えない豪華過ぎるアクセサリーといい、以前の洗練された姿がちょっと想像できないくらいだ。
ライニールが、真っ赤な酒樽みたいだな、と思っていると、イザベラが険しい声で言う。
「そのような、どこの馬の骨とも知れない娘が、わたくしの大切な息子と同じ教室にいるというのですか? なんということかしら。まさか暴力を振るったり、ひどい言葉を使ったりするような娘ではないのでしょうね?」
ライニールと彼の『娘』を貶めると同時に、平民への偏見を隠すことなく主張するイザベラに、周囲から咎める視線が向けられる。ここは、平民階級の子どもも通う魔導学園なのだ。そして、学園側は学内における子どもたちの平等を強くうたっている。
もちろん、その『平等』とは、あくまでもこの身分社会の秩序を乱さないことを前提にしたものだ。学園を卒業した瞬間に消え失せる、ひとときの夢幻。だからこそ、この学園の内部でだけは必ず守られなければならない、絶対のルール。
なんの後ろ盾も持たない平民階級の子どもたちが、貴族階級の子どもたちに怯えることなく、安心して学ぶことができるようにするために。
そんなことを、公爵夫人たるイザベラが理解していないはずもない。それでもなお、愚かなことを口にした彼女は、自分が何をしても許されると思っているのだろうか。
ここは魔導学園の中庭だ。そして、有力貴族が大勢集まっているこのガーデンパーティーには、さまざまな報道媒体の記者たちが取材に入っているというのに。
ライニールは、ゆるりとほほえんだ。
「馬の骨とは、また失礼なことをおっしゃいますね。公爵夫人。私の娘は、公爵閣下と同じ髪と瞳をした、とても美しい少女だというのに」
そう言った途端、厚化粧越しにもわかるほど、イザベラの顔が紅潮した。明るい栗毛と淡いグレーの瞳をした彼女が、夫の美しい容姿に尋常ではないほど執着していることは知っている。それなのに、彼女が産んだひとり息子は、間違いなく愛しい夫の子でありながら、その華やかな美しさを何ひとつ受け継いでいない。
どうやらそれが不満だったらしいイザベラは、幼い頃のライニールを、いつも呪い殺しそうな目で睨みつけていた。自分以外の女が産んだ子が、夫の血を色濃く受け継いでいることを、どうしても許せなかったのかもしれない。
そんな彼女の目の前に、若かりし頃の公爵に瓜二つのライニールが、彼と同じ色彩を持つ美しい少女とともに現れたのだ。冷静さを欠いた甲高い声で、イザベラが口を開く。
「不愉快ですわ! わたくしへの当てつけのために、わざわざあのような娘を養女にするなど……!」
「おや。私は、そのようなくだらないことのために、ナギを養女にしたわけではありませんよ。私はただ、あの子を堂々と守れる権利が欲しかった。そのためには、あの子を養女とするのが最も確実な手段だった。だから、そうしたまでのことです」
淡々と告げたライニールに、オーブリーが訝しげな顔になる。
「なんだ、あの娘がそれほど気に入ったのか? だとしても、おまえの養女にする必要などあるまい。適当な口約束で婚約の真似事でもしておいて、あの娘が成人したなら愛人として囲えばよかっただろう」
ライニールは、絶対零度の眼差しでオーブリーを見た。
「気持ちの悪いことをおっしゃらないでいただけますか、公爵閣下。私は、畜生ではございません。実の妹と通じるなど、死んでも御免被ります」
周囲の空気が、ざわりと揺らぐ。
今、自分の耳が何を聞いたのかわからない、という顔をする公爵夫妻に、ライニールはどこまでも穏やかな口調で告げる。
手札の出し惜しみなどしない。この場で、すべて一気に片付ける。
「そうそう。私たちの母レイラは、ギャレット子爵家の娘でしたね。社交界にデビューしたばかりの彼女を閣下が見初め、周囲の反対を押し切って妻に迎えた。当時、閣下の婚約者候補として最も有力だったイザベラさまは、失望のあまりしばらく床につくほどのお嘆きようだったとか」
公爵家と子爵家。
元々、家格の釣り合わない縁談だった。レイラの体があまり頑健とは言い難いこともあり、ギャレット子爵家からは何度も辞退の申し出があったという。
それでもなお、オーブリーはレイラを望んだ。公爵家からの断固とした要求に、ろくな権力も持たない子爵家が抗えるはずもない。結果として、レイラは十八歳の若さでマクファーレン公爵家へ嫁ぎ、周囲の期待通りに後継者となる男子を産んだ。
「しかし、そうまでして妻に迎えた彼女を、あなたが愛し続けることはなかった。後継者を産んでしまえば用済みとばかりに、さまざまな女性との逢瀬を楽しんでいたそうですね。そして、そんなあなたの前に現れたのが、イザベラさまだった」
かつては地味でおとなしく、淑女の鑑だと言われていたイザベラは、見違えるほど華やかで大人の色香をまとう女性へと変貌していた。
一方、子を産んでからも変わらぬ繊細な美しさを持ったレイラは、しかしその愛情を浮気性の夫よりも、まだ幼い我が子へと注いでいる。オーブリーが訪ねれば、もちろん笑顔で歓迎はするものの、口数が少なく、また世間を知る前に公爵家に閉じこめられた彼女に、社交界で楽しまれているような刺激的な会話は難しかった。
そんなレイラとの生活に飽きはじめていたところに現れた、かつての婚約者候補。いまだにオーブリーに心惹かれていることを隠しもせず、積極的に魅力的な肢体をすり寄せてくる。そんなイザベラの手をオーブリーが取るのは、時間の問題だったのだろう。
「イザベラさまは、それまであなたが遊んできた未亡人や踊り子たちとは違う。れっきとした、伯爵家のご令嬢だ。しかもその伯爵家は、母の生家である子爵家よりも、遙かに豊かな資産と領地、そして王宮での発言権を持っていた。だから、あなたはイザベラさまを選んで、母を捨てた。そのときすでに、母の体には私の妹が──ナギが宿っていたというのに」
ひとつため息を吐き、ライニールは青ざめた顔のオーブリーを見据える。
「……閣下。母がいったい、あなたに何をしたというのでしょうね? 望んでもいないあなたに見初められ、望まれた通りに男子を産んだ。まったく我が子を顧みないあなたのぶんまで、誰ひとり味方のいない公爵家の中、たったひとりで子どもを愛した。その見返りが、不義の冤罪による修道院への追放ですか。まったく、ひどい話もあったものです」
と、そこでライニールが装備していたピアス型の思念伝達魔導具に、シークヴァルトからの臨時報告が届いた。この魔導具は、有効半径が非常に狭いのが難点だが、こういった場面ではとても使い勝手がいい。
(……んん? グレゴリーがナギに喧嘩を売って、返り討ちにされた? 教室に入るなり怒鳴りつけてきたクソガキを、ナギはゴミに向けるような目で冷たく見ながら、冷静に言葉で叩き潰した? 何ソレ、お兄ちゃんめちゃくちゃ見たかったんだが!?)
あやうく「そこ、ちょっと詳しく!」と叫びそうになった自分を、どうにか抑える。ひとつ咳払いをしてから、ゆったりと周囲を見回す。
「紳士淑女のみなさま、お騒がせして申し訳ない。ですが、せっかくですからこの場にお集まりのみなさまにお伝えしておきましょう。私の所属する魔導騎士団第一部隊が、オルニスの森で妹のナギを保護したのは、先頃捕縛されたユリアーネ・フロックハートの捜索任務中のことでした」
ただでさえこちらに注目していた人々が、ざわりとどよめく。聖女を騙った侯爵令嬢の名を知らぬ者は、この場にいない。マスコミ関係者と思しき者たちが、ライニールの言葉を一言も逃すまいと、それまで隠し持っていた録音魔導具を堂々と向けてくる。
舞台は、整った。
「我々がナギを発見したとき、彼女はユリアーネ・フロックハートが逃亡時に身につけていた王宮の侍女服を着せられ、身体麻痺の魔術で自由を奪われた上、剣でひどく斬りつけられた全身を、彼女自身の血で真っ赤に染めていました」
なんてこと、という悲痛な叫びが、そこかしこから上がる。
「ええ。ナギが高度な治癒魔術の適性を持っていなければ、彼女は森の奥でひとり死んでいたでしょう。あまりのショックのせいか、彼女はここ半年ほどの記憶がひどく曖昧になってしまっています」
沈痛な表情を浮かべ、ライニールは己の胸に右手を当てた。
「そうして保護したナギに、はじめてこの手で触れたとき、我々の魔力が共鳴したのです。そのときの衝撃は、とても言葉にはできません。なぜなら私は、両親が離縁したときからずっと、その理由は母の不義にあると教えられてきたのですから」
ライニールが十八歳のときから捜し続けていた妹については、本当になんの手がかりもなかった。生まれたばかりの赤子は淡い髪色をしていたというが、髪の色など成長するにつれていくらでも変わってくる。
だから、心のどこかでは諦めていた。幼かった頃の自分を、誰よりも深く愛してくれた母。その母が最後に遺した妹だけは、どうにかして見つけてやりたいと思っていたけれど、それが叶う日はきっと来ないのだと。
なのに、ナギは突然彼の前に現れた。
母の不義の証などではなく、間違いなく同じ両親の血を分けた妹として。
(……おれにとって、ナギはこの大陸を救う聖女なんかじゃない。たったひとりの、大事な家族だ)
だから、守る。
そのために必要なのであれば、かつて父と呼んだ相手であろうと、全力で叩き潰す。
「私はナギにとって実の兄ではありますが、彼女を守る立場を手に入れるため、彼女の養父となりました。すでに王太子殿下にはご挨拶しておりますが、殿下は随分ナギをお気に入りくださいましてね。近いうちに、殿下の婚約者さまにご紹介いただけることになっています」
ナギの存在はすでに王家に知らせてあること、王太子が彼女を好意的に受け入れていることを示せば、視界の端にいたマクファーレン公爵夫妻が揃って蒼白になった。
この国の王太子が、幼馴染みのライニールを兄と慕っていることは、貴族階級の人間ならば誰でも知っている。ただ、ライニールがマクファーレン公爵家を追放されてからは、彼らの交流は絶たれたものと囁かれていたのだ。
しかし今、ライニールは王太子との交流を堂々と宣言した。大貴族であるマクファーレン公爵家への
(これだけ大勢の人間に、おまえたちの恥を晒してやったんだ。今更、ナギを消したところで無駄だってことくらいはわかるよなぁ? 親愛なるオトウサマ?)
今回の第一の目的は、ナギの存在とその素性をできるだけ多くの人々に周知すること。そうすることで、まずはマクファーレン公爵家がナギの暗殺などという愚行に走る芽を摘む。
ライニールにとって──そしてこの国にとって、ナギの安全は何よりも最優先に確保されるべき命題である。それ以外のすべては、些事に過ぎない。
「ただ、私の妹は孤児院育ちゆえ、貴族社会にはまったく馴染みがありません。ずっと苦労ばかりしてきたあの子には、誰よりも幸せになってもらいたいのです。みなさまには、どうぞ『遠くから静かに』、彼女のこれからを見守っていただければありがたく思います」
──ウチの可愛い妹に、おれの許可なく近寄って騒ぐんじゃねえ。
かなり直接的なライニールの牽制に、録音魔導具を構えた者たちが揃って青ざめる。おそらく彼らは、ナギが教室でのオリエンテーションを終えて出てきたところを、質問攻めにでもするつもりだったのだろう。そんな彼らの顔をゆっくりと順に見つめていくと、みな残像が見えそうな勢いで首を横に振る。理解が早くて、結構なことだ。
満足げにうなずいたライニールは、改めてマクファーレン公爵夫妻を見た。
「さて、公爵ご夫妻。先ほども申し上げましたが、私はとうにマクファーレン公爵家から絶縁された身。そして、ナギは法律上、両親もわからぬただの孤児として、私の養女となった娘です。わざわざ確認する必要もないかと思いますが、あなたがたには一切、私とナギに対して何かを主張する権利はありません」
よろしいですね? とほほえみ、ライニールは告げる。
「ちなみに、ナギの個人証明の際に後見人としてサインしてくださったのは、我が魔導騎士団の団長であるアイザック・リヴィングストン伯爵です。彼は公私混同は決してなさらない方ですが、ナギのことを大変気に掛けてくださっていましてね。何か困ったことがあれば、すぐに相談するように、とのお言葉をいただいているのですよ。本当に、ありがたいことです」
ギャラリーの中から、今までで最も大きなざわめきが起きる。
地脈の乱れが広がりつつある中、その対処に当たる最大戦力として結成された魔導騎士団。その団長であるアイザックの影響力は、現在王族に次いで非常に大きなものとなっている。
それでも、今までは本人の誠実で実直な人柄、そしてあくまでも自身は現場での働きをもって王家に仕えるという姿勢から、貴族社会で彼が声高に何かを主張することはなかった。
しかしそのアイザックが、こと今回の件に関しては、完全にライニールの側に立つことを明言したという。
「ラ……ライニール……」
あえぐような声で名を呼ぶオーブリーに、眉をひそめたライニールは冷ややかに言葉を返す。
「マクファーレン公爵閣下。馴れ馴れしく私の名を呼ぶのは、今後一切ご遠慮いただきます。我々があなたに望むことは、何もない。母に対する謝罪も不要です。これでも私は、魔導騎士団副団長の地位をいただいておりますのでね。公爵家の威光になど頼らずとも、ナギとともに充分満足な暮らしができるのですよ」
口先だけの謝罪など必要ない。
金銭での懐柔も、権威による圧力も、自分たちには意味がないと知るがいい。
この数分で、一気に老けこんだように見える相手を傲然と眺めながら、ライニールは思う。
(これでも、最後の温情だけはかけて差し上げているのですよ、閣下。……ナギが人前で歌えないのは、母上とあの子を捨てたアンタのせいなのだから)
ナギの聖女としての能力そのものは、歴代の聖女の平均値を遙かに凌駕している。彼女は、指先で触れるだけ、あるいはほんの数秒声を発するだけで、濁って使いものにならなくなっていた魔導鉱石を、すべて完璧に正常化してしまった。
その検体として使用された魔導鉱石は、すべて王立魔導研究所が研究材料として所有していたものだ。さまざまな測定機材を取り付けられ、検体がどのような状態であるかを確認しながらの検証実験。
ユリアーネ・フロックハートの件がなければ実施されなかったであろう、国王命令で秘密裏に行われたその実験を、ナギは単純に楽しんでいるようだった。
それまでどんよりとどす黒く濁っていた魔導鉱石が、彼女が触れるだけであっという間に透き通り、虹色の輝きを放ち出すのだ。それが、周囲の者たちにとって、どれほどの驚きであるかを知らないからこその、無邪気な反応。
研究員の指示で、彼女が「キレイになーれ」と声をかけた途端、同じ結果になったときには、手を合わせて喜んでいた。
そうして、すべての検証実験を終えたあとのこと。
データを確認しながら、検証チームのリーダーである研究員が、ぽつりと言った。
──ナギさまの力は、歴代の聖女さま方のそれとは、比べものになりません。圧倒的……異常、と申し上げてもよろしいほどの、すさまじい強さです。
──過去の聖女さま方であれば、全力での『聖歌』を二十分以上。もしくは、一時間以上の直接接触で得られる結果を、ナギさまはほんの数秒の直接接触で得てしまうのですから。
──本当に……心から、惜しく思います。
──ナギさまが、『聖歌』をお歌いになることができたなら。
──もしかしたら、地脈の乱れの根源といわれる存在すら、鎮めることができたかもしれない。
ナギは、『聖歌』を歌えない。
否、正確には、歌うだけならば可能なのだと思う。魔導騎士団第二部隊からの報告によれば、彼女がひとりで厨房を使っているときなどに、賛美歌や、まるで聞き覚えのない歌を口ずさんでいることがあるらしい。本人は無意識の行動らしいが、特に音程も問題なく、むしろ不思議なほどいつまでも聞いていたくなる歌声だったという。
それでも、ナギは孤児院で育った子どもだ。普段の様子を観察していても、彼女の持つ価値観や感覚は、ごく普通の平民のものである。
彼女は、貴族階級の子どものように、自分が誰かから守られることを、当然と受け入れられない。使用人や護衛の存在を、景色の一部のように意識から排除するなど、きっと想像することもないのだろう。
もしナギがマクファーレン公爵家で養育されていれば、他人の目を必要以上に気にせず振る舞うことは、呼吸するのと同じくらいに簡単だったはずだ。『聖歌』を歌うことだって、問題なくできただろう。
だが、魔力を持って生まれた貴族の女子であれば、必ず物心つく前から教えられている、大勢の前での歌唱技術。その訓練をまったく受けていない彼女は、兄としてだいぶ親しんでくれているライニールでさえ、そばにいると体を硬くし、歌えなくなってしまう。
ごく普通の日常の中ですら、そうなのだ。そんな彼女が、『聖歌』を必要とされる現場──地脈の乱れによる影響で、いつ危険な魔獣が出現するかわからず、安全を確保するために数え切れないほどの人間が必要とされる場で、まともに歌えるわけがない。
実際のところ、ナギの肉声もまた、歴代の聖女たちのそれより遙かに効果精度が高いという検証結果が出ている。
だが、たとえ局所的な効果がどれほど絶大であろうとも、聖女が求められているのは、主に地下深くに広がる魔導石鉱脈の正常化だ。より広範囲に効果を及ぼせてこそ、聖女の力は価値がある。
──ナギは、歴代の聖女たちとは比べものにならないほど高い能力を持ちながら、それを最も効果的に発動できる手段である『聖歌』を使えない。
つまり、彼女が聖女としての働きをするためには、常に対象との直接接触か、それに近い状態でいなければならない、ということだ。それがどれほどの危険と隣り合わせになるものなのか、想像するだけでひどい憂鬱に襲われる。
そして、彼女から『聖歌』を歌う訓練の機会を奪ったのは、紛れもなくオーブリー。いずれ、ナギが聖女であると公表したとき、同時にこの事実も明らかになれば、すさまじい非難がマクファーレン公爵家に集中するだろう。
(だから、今のうちにおとなしく滅んでおけよ。オトウサマ)
これが、ライニールがオーブリーにかける、最後の情けだ。
「さようなら、マクファーレン公爵閣下。あなたは、あなたの選んだ家族とともに、思う通りに生きればいい。私はナギとともに、彼女を守って生きていく。あなたが我々の人生に、二度と関わらぬことを願っています」
柔らかなほほえみとともにそう告げ、踵を返したライニールに、再びシークヴァルトからの臨時報告が入る。それを確認した途端、彼は思わず足を止めた。
(……は? ぎゃん泣きしたグレゴリーに、ナギがおれそっくりの言葉責めをしまくっていたら、いつの間にかグレゴリーがナギに懐いた? あのガキは、もしかしたら被虐趣味があるのかもしれない? ……うん、ちょっと待ってナギ。お兄ちゃん、ちょっと意味がわからない)
そんなライニールの心のぼやきを、彼の愛しい妹が聞いていたなら、彼女はきっと真顔でこう言っただろう。
──反省は少ししている。だが、まったく後悔はしていない、と。
***
「浅ましく……卑劣な、嘘つき……? 父上、が……?」
大きく目を見開いたまま、掠れた震え声で言うグレゴリーに、凪はにこりとほほえんだ。
「ええ。少なくともわたしと兄は、マクファーレン公爵のことを、そういう人間なのだと認識しています。ですが、彼も大切なご子息であるあなたには、違った面を見せることもあるのでしょう。わたしも、そこまで否定するつもりは──」
「……いや」
ありませんよ、と言う前に、グレゴリーがぽつりと呟く。
(……んん?)
想定外の反応に、凪は首を傾げる。
聞き間違いだろうか、と思っていると、突然ひくりと肩を揺らしたグレゴリーが、泣きはじめた。
(うぇえええっ!?)
しかも、控えめに言っても号泣、というやつである。ぶわぁ! といわゆる目の幅涙状態で、とても十五歳の少年とは思えない、豪快な泣き方だ。
「ち……っ、父上、は……っ! い、いつも、母上とは違う、若くて麗しい女性ばかりとっ、ご一緒していて……っ」
「なるほど。マクファーレン公爵は、今でも大変浮気性な方なのですね」
うなずくと、グレゴリーの声がますますひび割れる。
「は……母上は、ぼくが父上に似ていないからだ、って……っ、ぼくが、もっと父上に似ていたら、父上はもっとぼくらのことを、見てくれたはずなのに……っ」
「いや、それはないでしょう。わたしの兄は、マクファーレン公爵に大変よく似ているそうですが、それでもあっさり捨てられたのですよ?」
なんだか、雲行きがおかしくなってきた。
てっきりこの腹違いの兄は、マクファーレン公爵家で蝶よ花よと、大切に甘やかされたお坊ちゃまだとばかり思っていたのだが──。
「じゃあっ、母上がまんまるに太ったからだー! 昔は、母上だって、お綺麗だったのにっ! 毎日甘ったるいお菓子を食べまくって、ろくに運動もせずに昼寝ばっかりしていらっしゃるから! だから、父上もまんまるくなった母上が、いやになってしまったんだあぁあああーっっ!!」
「それは……あなたのお母さまが太ってまんまるになられたから、お父さまが浮気をされたとおっしゃりたいのですか?」
凪は、むっと顔をしかめた。
「冗談ではありません。たとえあなたのお母さまが、自己責任の不摂生でもちもちと見苦しい肥満体型になってしまい、異性として愛することができなくなったとしても、それがマクファーレン公爵が浮気をしていい理由にはなりません」
「じゃあっ、なんで父上は、浮気ばかりするんだよ! は、母上は……っ、父上しか、見ていないのに!」
そんなことは、本人に聞いていただきたい。
とはいえ、どうやら話を聞く限り、マクファーレン公爵は一般的な体型の美女がお好みのようだ。我が子にまんまると評されるほどの、ご立派な体型となった妻への愛情が薄れてしまうのは、一応わからなくもない。そんな夫の愛情をキープする努力を怠った公爵夫人にも、自業自得という向きはあるだろう。
だが、そもそも妻がまんまるになってしまうほどの暴食を、夫たる者が見過ごしているというのはいかがなものか。もし凪が将来結婚をしたとして、パートナーが極端な不摂生に走りはじめたなら、必ずどうにかして止めようと思うだろう。
(心と体が健康なら、まんまる体型になっちゃうほどの暴飲暴食なんて、普通はしないだろうし。だったら、何かの病気とか、ひどいストレスがあるんじゃないかって、相手のことが心配になるもんじゃないの?)
なんにせよ、まずは不摂生に走りはじめた相手の気持ちに寄り添いたいと思うし、もし何か原因があるのであれば、それを取り除くため一緒にがんばりたいと思う。凪にとって、家族であるとはそういうことだ。
(……って、公爵夫人のストレスの原因なんて、夫の浮気に決まってんじゃん! 公爵夫人のまんまる原因、公爵本人じゃん! 公爵が浮気をやめない限り、公爵夫人が延々と丸くなり続ける永久機関が完成してるよ! そんなの、全然エコじゃないよ!?)
つまり、妻のまんまる体型を放置して、堂々と浮気を続けているマクファーレン公爵にとって、妻の健康はどうでもいいことなのだろう。彼はつくづく、夫にも父親にもなってはいけない御仁らしい。
あまりの不毛さに無言になった凪だったが、グレゴリーはべそべそと泣きながら話し続ける。
「ぼ……っ、ぼくが、どんなにがんばっても、母上は『あの女の息子はもっとすごかった』って、おっしゃるばかりだし……っ! ぼくだって、がんばってるのに……っあ、あんな、騎士養成学校を首席で卒業して、あの若さで魔導騎士団副団長になるような人と比べられたって……!」
(あ、それはさすがに可哀相)
ライニールは我が兄ながら、少々優秀すぎる御仁なのである。半分とはいえ、血の繋がった兄があれでは、思春期真っ只中の少年にはきつかろう。グレゴリーのことを、ライニールやオスワルドは『能なし』と評していたけれど、それも比較対象が悪すぎただけだったのかもしれない。
……もしかしたら、グレゴリーのライニールに対する無礼な態度は、コンプレックスの裏返しだったりするのだろうか。なんだか、気の毒になってきた。
(つーか、公爵夫人ひどくない? 自分の子どもががんばってるんだから、結果はどうあれそこは認めてあげようよー)
そもそも、子どもを比べて育てるというのがよくないと、凪は思う。
ライニールは、文句なしにかっこいい。グレゴリーは、黙っていれば可愛い。それでいいではないか。
「ぼくだって、好きでこんな髪と目で生まれたわけじゃないのに……。ち、父上の愛人たちにまで、父上の子のくせに、なんでそんなに見苦しい姿なのかって、笑われるし……っ」
「お待ちなさい。どこの性根がただれ落ちたバカ女が、そのような酷いことをあなたに言ったというのです?」
思わず口を挟んだ凪に、きょとんと顔を上げたグレゴリーが答える。
「みんな、そう言うから……誰かと、言われても……」
「みんな? みんな、ですって? 自分の愛人たちを子どもに会わせるだけでも許しがたいのに、揃ってそんな暴言まで吐かせていたと? ……そうですか、よくわかりました。マクファーレン公爵は浮気性のろくでなしであるだけでなく、我が子を虐待する腐れ外道でもあったのですね」
グレゴリーが、若干ひねくれた性格の少年に育ってしまったのも、さもありなんだ。
父親は女遊びばかりで、まったく家庭を顧みない。
母親はそんな父親に執着し、我が子に過度の期待をかけて傷つける。
そんな家庭環境で、子どもがまっとうに育つわけがない。
深々とため息を吐いた凪は、ふとグレゴリーに問いかけた。
「先ほどからお話を聞いておりますと、あなたもあなたのお母さまも、随分マクファーレン公爵と同じ髪と瞳にこだわっていらっしゃるようですが……。あなたが、兄とわたしをやたらと敵視しているのは、そのせいですか?」
「~~っうるさい、うるさい!」
少し落ち着きかけていたグレゴリーが、再び泣きわめく。図星か。
「だって、母上がそう言うんだ! ぼくが、父上とまるで似ていないのが悪いんだって! だったら、父上にそっくりなあの人ときみがいたら、ぼくなんかいらなくなる! ぼくなんかより、あの人のほうがずっと優秀なんだから! だから……っ」
「いらないのは、マクファーレン公爵と公爵夫人です」
グレゴリーが、止まった。
「子どもを傷つけるばかりの親など、親を名乗る資格はありません。公爵夫妻に、あなたが不要なのではありません。あなたにとって、公爵夫妻が不要であり、害悪なのです」
「……え?」
真っ赤になった少年の目から、止めどなく涙が溢れ落ちる。
「奇遇ですね。わたしの人生にとっても、マクファーレン公爵夫妻は不要であり、害悪です。わたしがこの国で平穏に生きていく上で、彼らの存在は邪魔でしかない」
そう言って、凪はにこりとほほえんだ。
「あなたは、これからどうしますか? グレゴリー・メルネ・マクファーレン」
「どう……って……」
困惑する腹違いの兄に、凪は告げる。
「今日の保護者たちが集うガーデンパーティーには、多くの報道関係者が入っていると聞いています。今頃は彼らの前で、私の兄がマクファーレン公爵夫妻にご挨拶しているところかもしれませんね」
ひゅっと、グレゴリーの喉が鳴った。
「お察しの通り、兄はマクファーレン公爵にすべてを語るつもりです。わたしが、公爵の娘であることも。兄とわたしが、今後一切マクファーレン公爵家と関わるつもりがないことも。……今日、マクファーレン公爵夫妻の名誉は、地に落ちる」
現在、シスコン街道を全力で
もしかしたら、マクファーレン公爵夫妻の名誉を地に落とすどころか、地下深くに埋めて踏み固めた上で、二度とひょっこり出てくることがないようにコンクリートで固める勢いかもしれない。
「そん……な……」
「そのことで恨むのでしたら、兄でなくわたしをどうぞ。兄の行動のすべては、わたしを守るためのもの。わたしが兄の前に現れなければ、彼はマクファーレン公爵家に対して何もすることはなかったでしょう」
グレゴリーの顔が、くしゃりと歪む。
「それでも、たとえどんな外道であろうと、あなたにとってマクファーレン公爵夫妻は血の繋がったご両親。そう簡単に切り捨てられるようなものではないのは、理解できます。あなたが今まで通りに、彼らとともにあることを選ぶのでしたら、どうぞご自由に。そのときはわたしのほうも、それなりの対応をさせていただきます」
びく、とグレゴリーの肩が震えた。
「そ……それなり、って……?」
「わたし、躾のなっていない愛玩犬は、好きではありませんの。きゃんきゃんと騒がしくて、うっとうしいだけですもの。わざわざ構ってあげようと思うほど、わたしは暇ではありません」
にこりと笑って言ってやると、グレゴリーはこれからの自分の選択次第で、凪から『躾のなっていない駄犬』扱いされることを悟ったのだろう。顔を引きつらせ、何か言いかけては口ごもる、ということを繰り返す。
やがて俯いた彼は、ぼそりと言った。
「ぼくは……浮気ばかりしている父上も、ぶくぶく太ってヒステリックな母上も、好きじゃない。あの人をマクファーレンから追い出しておきながら、彼とぼくを比べてばかりの連中も、大嫌いだ」
「そうですか」
グレゴリーの声が、引きつる。
「それ、に……ぼくは、犬じゃない」
「そうですね。そうやって普通にお話ししていただけたら、あなたも普通の男の子に見えますよ」
──駄犬扱いされたくなかったら、二度と大声で偉そうにきゃんきゃん喚くんじゃねえ。
そんな凪からの圧を感じたのか、グレゴリーが縮こまった。
「でも……ぼくがいなくなったら、あの家を継ぐ者がいなくなる。……あの人は、マクファーレンを継ぐ気は、ないのだろう?」
「ええ。今の兄には、不要なものですもの」
どうやらグレゴリーは、公爵家を継ぐ者としての義務を気にしているらしい。だが、そんなことを言い出すということは、その義務から逃れたいという気持ちも少なからずあるのだろう。
凪は、小さく息をついた。
「少々、性急でしたね。申し訳ありませんでした。今すぐにすべてを決めろとは言いません。あなたにも、いろいろと思うところがあるでしょう。ですからまずは、普通にクラスメートとしてお付き合いをしていきませんか?」
「……クラスメート?」
グレゴリーが、ものすごく意外そうな顔になる。
「ええ。何か問題でも?」
「いや……その、だが、きさ……き、きみは、ぼくの妹? いや、姉? うん? どちらなんだ?」
彼の凪に対する二人称は、きさま、から、きみ、に変わったらしい。別に、ありがたいとは思わない。ダメダメだったものが、普通になっただけだ。
「あなたのほうが、わたしよりも二ヶ月ほど先に生まれたと聞いています」
「そ、そうか。では、きみは──」
何やら嬉しそうなグレゴリーに、凪は淡々と言ってやる。
「ただ、わたしは法律上、マクファーレン公爵家とはなんの関係もありません。孤児として個人登録をした上で、兄の養女になりましたから。強いて言うなら、あなたはわたしの叔父ということになりますね」
「叔父……っ!?」
義父の弟なのだから、そうなるだろう。
「ええ。よかったら、今後はあなたのことを叔父さまと呼ばせていただきますよ」
「オジ、サマ……」
グレゴリーが唖然と繰り返し、それから今にも泣き出しそうな顔になる。そんなに叔父さま呼びがいやだったのだろうか。
だったら、ここはぜひ採用させていただこう。初対面でいきなり喧嘩を売られたことを、凪はしっかり根に持っているのだ。
「それでは、叔父さま。わたしたちのせいで、せっかくご縁があって今日からクラスメートとなったみなさまが、大変驚いていらっしゃいます。まずは、このような騒ぎを起こしてしまったことを、みなさまに謝罪いたしませんか?」