はじめての現象に驚いて見上げると、凪以上の驚愕に染まった瞳があった。
「魔力が、共鳴した……?」
小さく呟いたライニールが、信じられないものを見る目で凝視してくる。その視線の強さに居心地の悪さを覚えるけれど、いつの間にかしっかりと握られていた手が離れない。
「あの、ライニールさん? もう、汚染痕はきれいになっていると思うんですけど……」
「……ちょっと、待ってくれ」
凪の右手を握ったまま、ライニールが自分の腕をあらわにする。そこに、あの黒いひび割れのようなシミは、ひとつもなかった。
(あ、よかった。ちゃんと消えてる)
大丈夫だとは思っていたけれど、凪が意識的に汚染痕を消しているわけではないので、結果が目に見えるまではどうにも不安なのだ。対象に触るだけでいいというのは楽だけれど、なんというかこう、もう少しお仕事をした実感が欲しい。
とはいえ、ライニールの汚染痕は無事に消せたのだ。そろそろ手を離してくれないだろうか、と思うのだが、彼は繋いだ凪の手を見つめたまま、微動だにせず固まっている。
「ライニールさん? どうかしましたか?」
「……した」
まさかの肯定に、意表を突かれた。何やらひどく混乱している様子のライニールが、ぐしゃりと自分の前髪をつかんでぼそぼそと言う。
「孤児……ノルダールの? 十五歳ってことは……ああぁあああ絶対ぶっ殺す、あんっの無能で低劣で惰弱で救いようがないほど性根の腐りきったクソハゲオヤジがあぁああーっっ!!」
「ひょわぁ!?」
芸術品のような金髪碧眼の王子さまが、突然ガラの悪いヤンキーになった。かっと見開いた目が、完全にイッている。怖い。
涙目になった凪がビクビクしていると、シークヴァルトが無言でライニールの頭を殴りつけた。ようやく繋いでいた手が離れ、凪は彼からささっと距離を取る。
「落ち着け、バカ野郎。ナギが怯えているだろう」
「う……すまない」
素直に詫びたライニールが、ゆっくりと息を吐く。そして顔を上げた彼は、アイザックとシークヴァルトを順に見た。
「おれから、説明させてください」
どこか硬い表情のふたりが、黙ってうなずく。
いったい何事、と腰の引けた凪に、ライニールが改めて向き直る。
「突然騒いで、すまなかった。……ナギ、と呼んでもいいだろうか?」
「えっと……はい。あの、ライニールさんと握手した瞬間に、鈴の音みたいなものが聞こえましたけど、あれが何かいけなかったんですか?」
恐る恐る問いかけると、彼は小さく笑って首を横に振った。
「あれは、おれときみの魔力が共鳴したことで起こった現象だ。何も悪いことじゃない。ただ、少々珍しいことではある。──魔力の共鳴は、相当に似通った波長の魔力が、はじめて接触したときでなければ起こらないんだ」
「……はあ」
そういうものなのか、と納得はするけれど、凪はつい先ほどまで自分が魔力を持っていることも知らなかったのだ。いまいち実感が湧かないまま、ライニールの話の続きを待つ。
「そして、魔力の波長というのは、血縁関係が近ければ近いほど似たものになる。ただ、共鳴が起こるほど似た波長の魔力となると、二親等内でなければあり得ないんだ。中でも、兄弟姉妹に関しては、両親が同じでなければ、互いの魔力が共鳴することはない」
「二親等内、というと……両親と、祖父母と、きょうだい。子どもがいれば、孫まで──って、え?」
指折り確認していた凪には、当然ながらそういった身内は皆無である。何しろ、身よりがない孤児なのだ。
しかし今、ライニールとの間に、魔力の共鳴が起きた。それはつまり──。
「ナギ。おれは元々、マクファーレン公爵家の人間だった。今はあの家と絶縁しているが、マクファーレンの現当主が、おれの父だ」
ライニールが心底嫌そうに顔をしかめる。よほど、父親との折り合いが悪いらしい。
「おれの母は十六年前、おれが七歳のときに不義の疑いをかけられ、その咎で離縁された。元々体が弱く、ろくに屋敷から出ることもままならない女性だったのにな」
ぐっと眉根を寄せて、ライニールが続ける。
「不義の汚名を着せられた母は、生家の子爵家からも絶縁され、修道院へ送られた。その翌年に女児を産み、すぐに儚くなったそうだ」
「……そのとき生まれた女の子が、わたしだと?」
ライニールは、うなずいた。
「きみが十五歳だというのなら、計算は合う。同じ髪、同じ瞳、そして魔力の共鳴。これだけ揃って、赤の他人だというほうが無理がある。きみは……おれと両親を同じくする、妹だ」
「はあ……」
この世界の常識は、まだよくわからない。しかし、アイザックもシークヴァルトも、ライニールの言うことに異を唱える様子はなかった。彼ら三人が揃って同じ判断をしているということは、少なくともそう的外れな話ではないのだろう。
「父は、もしきみが男児として生まれていれば、自分の
「え? いや、そんなろくでもない父親とか、本気でいらないです。それに、そのとき子どもだったライニールさんが謝る必要なんて、全然ないですよ」
思わず片手を挙げて反論すると、ライニールの目が丸くなる。
──南の海を思わせる、少しだけ緑がかった澄んだ青。今の凪が、鏡を見たときに目にする瞳と、そっくり同じ青色だ。
十六年前に七歳だったということは、今の彼は二十三歳ということか。
(お兄ちゃんと、同い年かあ……)
生まれたときから一緒だった彼女の兄──緒方健吾は、こんなキラキラしたイケメンではないけれど、少なくとも凪にとっては、とてもいい『お兄ちゃん』だった。もう二度と会えない、大切な家族。本当に、大好きだった。
(リオってとことん、家族に恵まれてないんだなー。お父さんは、お母さんに冤罪をかけて殺したみたいなものなのか。股間から腐り落ちて死ねばいいのに。そのお母さんは、リオを産んだときに死んじゃった、と。よーし、リオのお父さんとかいうクソ野郎は、いつか絶対ぶん殴るリストに追加決定でござる。……でも、そっか。リオにもお兄ちゃんは、いたんだね)
ライニールのことを、凪はまだ何も知らない。
けれど、彼はこうして魔導騎士団に入って、命がけで誰かのために戦っている。きっと、立派な人なのだろうな、と思う。
(別に、立派じゃなくてもいいんだけどさ。……ただこの世界で、わたしのことを、少しでも身内だと思ってくれる人がいたら……うん。ちょっと、ほっとする……かな)
どうしようかな、いいのかな、と悶々と悩んだ凪は、なんだか考えすぎて頭が痛くなってきた。最終的に、怒られたら謝ればいいや、という若干投げやりな気持ちで、じっとこちらを見ているライニールを見上げる。
「えっと……ライニールさんは、わたしのお兄ちゃん、なんですよね?」
返事がない。
血の繋がりがあるのは間違いなさそうだとしても、孤児院育ちの小娘に兄呼ばわりされるのは、やはりいやだったのだろうか。しょんぼりした凪が前言を撤回しようとしたとき、がしっと両肩を掴まれた。
「はい。おれが、きみのお兄ちゃんです。──団長、養子縁組の申請って、領内の役場でできましたよね。さくっと手続き諸々済ませてくるので、王宮への報告は一時間ほど待ってください」
「……うむ。落ち着きたまえ、ライニール。そういったことは、本人の同意を得てからするものだぞ」
一拍置いて、ライニールが凪の顔をじっとのぞきこんでくる。ゴージャスイケメンの圧が酷い。
「ナギ。きみは今のままでもおれの可愛い妹ではあるが、何かあったときにきみを堂々と守れる権利が、おれは欲しい。今まで兄として何もできなかったぶん、これからはきみの幸せのために生きる権利が欲しいんだ。……頼む、ナギ。おれの家族に、どうかなってくれないか?」
至近距離で見つめてくる、真剣な面持ちをしたイケメンからの誠実な要望に、ノーを返せる乙女がいるだろうか。いや、いまい。
(……わあー。なんだか、プロポーズみたーい。うふふー)
正しく年頃の乙女である凪は、若干現実逃避をしながらうなずいた。とても、『ゴージャスイケメンなお兄ちゃん、ゲットだぜ!』と言える雰囲気ではなかったのである。
それからライニールは、凪との養子縁組の申請をするべく、ここレディントン・コートから一番近い役場に飛んでいった。この部屋の窓から、風避けの魔導具であるマントとゴーグルを装備するなり、文字通り身ひとつで飛んでいったのだ。凪は改めて、ここは不思議な世界なんだなあ、と実感する。
この国では、魔力のある人間はその波長で個人登録をするそうだ。魔力の波長を記録する魔導具だという、キャッシュカードサイズの透明なカードに触れると、淡く光って反応したのが面白かった。ライニールがそのカードを持っていくことで、まず孤児である凪の個人登録をして、その上で彼との養子縁組を申請するらしい。
本来ならば、それらの手続きのためには凪自身も役所へ直接赴く必要があるのだが、未成年の孤児の場合は、社会的に信頼できる者のサインがあれば問題なく通るのだとか。ちなみに、今回そのサインをしてくれたのは、伯爵さまであるアイザックである。
「まあ、ナギ嬢が孤児である以上、聖女であることを公表すれば、どこかの貴族家との養子縁組を望まれるのは、避けられない事態だったからね。ライニールならば、身分は男爵位とはいえ、我が魔導騎士団の副団長。面と向かって彼に文句を言える者など、公爵家の中にもそうそういないから安心したまえ」
(……どうしよう。公爵とか男爵とか、そういうシャクシャクしているのが貴族なんだろうなーっていうのはわかるんだけど、ぶっちゃけそれしかわかりません)
凪は男爵いもで作った肉じゃがが好物なので、なんとなく男爵という響きには親しみがある。だが、話の流れからして、きっと男爵より公爵のほうがエラいのだろう。じゃがいもよりエラいシャクシャクしている野菜となると、何になるのか──。
「ナギ嬢? どうかしたかね?」
「じゃがいもは、野菜界の最強王者だと思います」
シークヴァルトが、真顔で凪の額に触れてきた。
「熱は、ないな」
「すみません、間違えました」
ひとつ、深呼吸。
「まさか、いきなりお兄ちゃんができるとは思わなかったもので……」
「……まあ、そうだろうな」
ものすごく複雑な表情を浮かべているのは、アイザックとシークヴァルトだけでなく、きっと凪自身もなのだろう。
再びソファーに戻った凪は、少し考えてからふたりに問いかける。
「ライニールさんとわたしが養子縁組をするんだったら、あの人のことはお父さんと呼んだほうがいいんでしょうか?」
素朴な疑問だったのだが、ふたりはますます複雑怪奇な表情になった。アイザックが、ライニールが飛んでいった窓のほうを見る。
「まあ……そうだね。対外的には、お父さん……いや、お父さま、と呼んだほうがいいのだろうが……」
「……それはそれでアリ、なのかもしれんが……。あいつ、ナギからのお兄ちゃん呼びで、完全に新しい扉を開いてたからなあ……」
シークヴァルトが、なんだか怖いことを言い出した。その新しい扉というのは、いったいどこへ繋がっている扉なのか──。
(あ。そういえば今のわたし、金髪碧眼の超絶美少女じゃん。こんな天使の羽がめっちゃ似合うプリティーフェイスで『お兄ちゃん』なんて呼ばれたら、そりゃあシスコン街道への扉が地響き立てる勢いで開きますわ。むしろ、扉が吹っ飛ぶやつだわ)
思い切り納得したところで、少し気になっていたことを聞いてみることにする。
「ライニールさんのお父さんって、ハゲているんですか?」
先ほどシャウトした際、ライニールは父親のことをクソハゲオヤジと言っていた。父親がハゲているのなら、ライニールの将来も少々不安になってくる。場合によっては、凪の持つ不思議パワーで、彼の毛根を死守せねばなるまい。
そんな悲壮な決意とともに尋ねたというのに、アイザックもシークヴァルトも、笑いと呆れが混じり合ったような顔で見返してきた。ひとつ咳払いをして、アイザックが口を開く。
「……いや、当代マクファーレン公爵閣下は、四十代となってもいまだに社交界の女性たちから熱狂的な支持を集めている、素晴らしい美貌の持ち主だ。二十年後のライニールはきっとああなるに違いない、という御仁だよ」
「そうなんですか。ライニールさんが将来ハゲそうになったら、わたしの聖女パワーで毛根を守って差し上げようと思っていたのですが……。ハゲオヤジというのは、ただの暴言だったんですね。よかったです」
ほっと胸をなで下ろしていると、何やら室内の空気に緊張が走った。いったい何事、と姿勢を正すと、シークヴァルトがひどく真剣な面持ちで見つめてくる。
「ナギ。その……聖女ってのは、ハゲた男の頭皮まで救済できるものなのか?」
「え? だってわたしって、致命傷を負っても復活できるくらいの、不思議パワーが……あれ、それって聖女かどうかとは関係ないんでしたっけ?」
我が事ながら、ちょっと頭が混乱してきた。アイザックが、ぼそぼそと言う。
「……きみが、自身が負った致命傷から回復できたのは、きみが聖女でありながら高度な治癒魔術も使えるという、非常に希有な存在だからだ。先ほども言ったが、聖女というのは通常、その固有魔術しか使うことはできないのだよ」
「あ、そうか。そうでしたね。でも、心臓をざっくり刺された状態から完全回復できるくらいの治癒魔術? を使えるんだったら、しょんぼりした毛根くらいは元気に復活させられるんじゃないですかね」
心臓に比べたら、毛根など小さなものだ。多少数があっても、元気がなくなってきた毛根を復活させるくらいのことは可能だと思う。言葉では説明しにくいのだが、感覚的に『それはできることだ』という確信が凪にはあった。
野を駆ける獣たちが誰に教わらずとも走り出すように、あるいは空を飛ぶ鳥たちが自ら翼を広げるように。
凪の中にある膨大な力は、彼女が求めるときをただ静かに待っている。
もちろん、その力を上手く使いこなすためには、それなりの訓練は必要だろう。だが、今の自分にできること、できないことというのは、生き物としての本能的な部分で、凪はすでに理解していた。
そして、『なんらかの要因で損なわれた人体を、本来あるべき状態に戻すこと』は、彼女にとってすでに経験した『できること』に分類されている。
「わたし、自分のお兄ちゃんがハゲているのは、ちょっとイヤですし。いえ、ライニールさんはきっとハゲても格好いいと思いますし、ご本人がそれをよしとするなら、もちろん余計な手出しをするつもりはないんです。でも将来的に、もしライニールさんがお望みになるのであれば、わたしは全力であの人の毛根を守ります!」
なんといっても、ライニールは凪にとって、この世界で唯一の身内なのだ。身勝手な話かもしれないけれど、元の世界の家族に何も恩返しできなかったぶん、彼には家族としてできる限りのことをしてあげたい。
ふん! と両手の拳に気合いを入れた凪は、そこで目の前にいる自分の恩人たちのことを思い出した。
「アイザックさんと、シークヴァルトさんは、どうですか? もし将来ハゲになるのがいやでしたら、いつでも言ってくださいね。わたし、受けたご恩は倍返しする派なので、いつでも対処させてもらいます」
「……そ、そうか。感謝する、ナギ嬢」
「……ああ。万が一のときは、よろしく頼む」
その微妙な反応に、凪は不安になって首を傾げる。
「あの、ひょっとしてこの国にはもう、ハゲの特効薬ってあったりします? わたし、余計なお世話な感じでしたか?」
元の世界では、ハゲに確実に効く特効薬なるものは、まだ開発されていなかったと思う。いや、もしかしたら凪が知らないだけで存在していたのかもしれないけれど、少なくともカツラや植毛の宣伝があれだけされていたということは、まだまだ一般的なものではなかったのだろう。
しかし、ここは魔力がものを言う不思議な世界だ。もしかしたら、すでにこの世界の人類は、ハゲの恐怖から解放されていたのかもしれない。だとしたら、凪の決意はまったくもって無駄だったということになる。
しかし、アイザックとシークヴァルトは、ひどく慌てた様子で凪の懸念を否定した。
「いや! そんなものは、存在しない。ナギ嬢の心遣いには、本当に感謝しているとも!」
「そうだぞ、ナギ! ただちょっと、治癒魔術でそんなことができるとは思っていなくて、驚いただけだ!」
「そうなんですね。よかったです」
自分が見当違いのことを言っていなかったとわかって、凪はほっと息を吐く。そして、慌てて付け加えた。
「ああでも、すみません。加齢による抜け毛には、さすがに対処ができませんので……。えっと、年齢制限は七十歳まででお願いします」
ハゲは病気ではないとはいえ、大切な頭部を保護する毛髪というのは、人間が安全に生きていく上で、ぜひとも維持しなければならないものであるはずだ。
毛髪が老化以外の原因で失われるというのは、生き物として非常に喜ばしくないことに違いない。その喜ばしくない状態を是正する、ということであれば、ハゲは治癒や回復の対象になると凪は思う。
逆に言えば、凪の力でも生命としての当たり前の変化である、老化によるハゲには対処できないのだ。さすがにその辺りは、仕方がないことだと諦めてもらうしかあるまい。
そう言うと、六十代まではハゲの恐怖とは無縁になることが決まったふたりは、揃って小さく苦笑する。
「なるほど、承知した」
「了解だ、ナギ」
このときの凪は、知るべくもなかった。
のちに、彼女が三人と交わした約束を知った魔導騎士団の面々が、心の底から羨ましがりつつも、「ナギちゃんに、そろそろハゲそうで怖いから、ちょっと自分の毛根を助けてくださいとか……。団長たちが、そんなことを言えると思うか?」「シークヴァルトとライニールは、ナギちゃんの前で格好付けられなくなるくらいなら、死んだほうがマシってヤツらだろ。団長だって、聖女の慈悲を、そんな個人的な問題で受けられるものか、ってタイプだし。俺、全員無理なほうに全財産賭けられるわ」「それな」と、真顔でうなずき合うことを。
その後、凪が彼らに「え? 魔導騎士団のみなさんでしたら、毛根の救済くらい、いつでもタダで受け付けますよ」と宣言し、即座に手を挙げた団員の頭髪が見事に復活したことで、騎士団の士気が天元突破の勢いで上昇することを。
──ハゲの恐怖からの解放。
それは、ルジェンダ王国魔導騎士団が聖女ナギに捧げる忠誠の、最大の柱のひとつとなったのだが──その事実が外部の者たちに知られることは、
「ところで、結局わたしはライニールさんのことを、お兄ちゃんとお父さんとお父さまの、どれで呼べばいいんでしょう?」
「む……。やはり、公の場ではお父さま、だろうね。実際の血縁関係はどうあれ、ライニールはきみの養父となるのだから」
「普段は、ライニールが呼ばれたいように呼んでやったらどうだ?」
なるほど、と凪はうなずいた。
「そうですね。ライニールさんが戻ったら、聞いてみることに──」
「ただいま戻りました。団長、こちらがナギと自分の養子縁組証明書類の控えです。ただいま、ナギ。今日からおれは法律上きみの養父になったけれど、普段は『兄さん』、公の場では『お父さま』、ふたりきりのときは『お兄ちゃん』と呼んでくれると嬉しいな」
開け放っていた窓からふわりと室内に舞い降りたライニールは、アイザックに書類を差し出すなり凪を抱き上げ、ものすごくゴージャスなキラキラしい笑みを浮かべてそう言った。一時間どころか三十分もせず帰ってきた彼は、どうやら家族としての呼称について、ひとつに絞ることができなかったらしい。
役場でどれだけ無茶ぶりをしてきたんだろう、と若干引きつつ、凪は新たに家族となった『兄』に答えた。
「お……お帰りなさい。えっと……兄さん?」
一瞬の沈黙。
「……っおれの! 妹が! こんなに可愛いぃいいいっっ!!」
「落ち着け、バカ野郎。ナギがどん引きしているだろう」
ものすごく既視感を感じるツッコミとともに、シークヴァルトがライニールの頭を再び殴る。しかし、ライニールは凪を離すことなく、シークヴァルトを睨みつけた。
「シークヴァルト。おまえがナギの護衛を務めることについては、仕方がないから一応、非常に不本意だが認めてやる。だが、今後ナギに不要な接触をしたとおれが判断した場合、おまえの恥ずかしい秘密をナギに事細かに教えてやるから、そのつもりでいろ」
「団長! ライニールが本当にバカになったぞ!?」
残念ながら、ここはシークヴァルトの言う通りだと思う。アイザックが書類を確認しつつ、小さな苦笑を浮かべる。
「しばらくの間は許してやれ、シークヴァルト。ライニールは成人してからというもの、ナギ嬢を──彼の母君がお産みになった『胤違いの妹』を、ずっと捜していたのだからな」
「……団長」
ライニールが、思い切り顔をしかめてアイザックを見た。そんな部下の様子をまったく意に介した様子もなく、魔導騎士団の団長は続けて言う。
「だが、こうして見つかってみれば、ナギ嬢は紛れもなく、まったく同じ血を分けた妹だったのだ。ライニールの情緒が多少不安定になっても、仕方があるまい」
「団長っ」
情緒不安定呼ばわりされたライニールの頬が、赤くなる。彼はどうやら、十六年前に離縁された母親が産んだのは、彼女の不貞相手との子だと思っていたようだ。その当時幼い子どもだった彼が、周囲の大人たちからそう教えられていたのでは、仕方があるまい。むしろ、よく彼自身が母親に捨てられたと誤解し、恨まなかったものである。
「たとえ父親が違っても、母君が産んだ娘であるなら間違いなく自分の妹なのだから、どうにかして見つけて助けてやりたい、と言ってね。……妹君が見つかって、本当によかった。おめでとう、ライニール」
「……ありがとう、ございます」
ライニールの声と腕が、震えている。
(あ……そっか。きっとライニールさんは、お母さんのことが大好きだったんだ)
母親が不貞を犯し、その結果離縁され、自分のそばからいなくなったと教えられてもなお、遺された『妹』を助けたいと望むほどに。
(お父さんのことは、クソハゲオヤジ呼ばわりだもんねえ。なんか、めちゃくちゃ仲が悪そう。ていうか、わたしが、なんだっけ……マクファーレン公爵? の娘だったってことは、お母さんの不貞疑惑は本当に冤罪だった、って証明されたわけだよね。……うわあ、そりゃライニールさんも荒れるはずだよ)
この件については、凪とて他人事ではないのだ。素朴な疑問を、同じく当事者であるライニールに向ける。
「あの、兄さん。マクファーレン公爵は、なんでそんなひどい嘘を吐いてまで、お母さんと離縁したがったんですか?」
ライニールの顔から、すっと表情が落ちた。怖い。
「マクファーレン公爵は、母と離縁したあと、すぐに今の公爵夫人と結婚している」
「……ほほう」
それは、あれか。愛人を正妻の座につけるために、邪魔になった妻に冤罪を着せて追い出した、ということか。
「その公爵夫人は、嫁いでから三ヶ月後に男児を産んだ」
「……は?」
目を見開いた凪に、ライニールはため息交じりに低く告げた。
「きみが生まれる、二ヶ月ほど前のことだ。きみにとっては、腹違いの兄になるな。そいつが、今のマクファーレン公爵家の後継だ」
「……なるほど。マクファーレン公爵の愛人さんに子どもができちゃったから、その子どもが生まれる前に急いでお母さんと離縁したけど、そのときお母さんのお腹の中にはわたしがいた、と。なるほど、なるほど」
うんうんとうなずき、凪はにこりとほほえんだ。
「兄さん。わたしは、マクファーレン公爵が大嫌いになりました」
「そうか、奇遇だな。おれも、あの節操なしで浅はかでいい加減で、顔以外に取り柄のないゲス野郎が、世界で一番大嫌いだ。あいつがあの女の産んだ能なしを自分の後継にすると言うから、喜んであの家から除籍されたんだが、本当によかったよ。そのお陰で、おれの家族は可愛い可愛い妹のきみだけだ」
「わあ、嬉しい。わたしの家族も、こんなに格好よくて優しい兄さんだけってことですね!」
アハハウフフと笑い合う兄妹に、シークヴァルトが胡乱な目を向ける。
「おい、ライニール。妹との親睦を深めるのは結構だが、まさかナギがこの国の聖女だってことを、忘れているわけじゃないよな?」
「……あ」
ライニールが、固まった。
「忘れてたのかよ!」
「いや、忘れていたわけじゃない。ただちょっと、おれの天使が聖女だったという事実が尊すぎて、うっかり気絶しないように意識の外へ追いやっていただけだ」
(……うわぁ)
どうしよう。ライニールの発言が、ちょっと気持ち悪い。
ひとつ咳払いをしたアイザックが口を開く。
「ライニール、そろそろナギ嬢を下ろしたまえ。これから王宮に聖女発見の報を入れる。すぐに騒がしくなるだろうから、今のうちに体を休めておくように」
「……はい」
いかにも渋々、という様子で、ライニールが凪をソファーへ下ろす。いくら凪が細身の少女とはいえ、人ひとりを抱えたままずっと立っていたというのに、まったく苦にしていないようだ。もしや、身体強化の魔術を使っていたのだろうか。ソレイユに抱えられたときも驚いたけれど、いつかぜひその便利な技を教えていただきたいものである。
それぞれが席に着くと、通信魔導具で王宮に連絡を入れたアイザックが、ひとつうなずいて口を開いた。
「さて。聖女であるナギ嬢が見つかったとなれば、すぐに王宮と神殿から、確認の使者が来るだろう。通常ならば、王宮からは王位継承権第五位以内のどなたかが、神殿からは特別に選ばれた神官がやってくるはずなのだが……。彼らは一度、偽物の聖女を認定してしまったという汚名を抱えている。次の使者に名乗りを上げるとなれば、相当の胆力の持ち主になるだろうね」
シークヴァルトがアイザックに問う。
「オレたちの汚染痕が消えていることで、ナギの力の証明にはならないのか?」
「理屈では可能だろうが……。私は今まで自分の汚染痕を、団員以外の者に見せたことがない。おまえたちはどうだ?」
問われたふたりが、揃って眉根を寄せ、首を横に振った。アイザックが、少し困った顔をしてうなずく。
「王宮や神殿の方々も、汚染痕がどのようなものであるかは、知識としては知っていらっしゃるだろう。だが、実際に目にしたことがないものを『聖女の力で消した』と申告しても、今の方々はそう簡単に信じられないのではないかな」
一度失敗した身となれば、以前よりもより慎重な判断になるのは当然だ。
(うーん……。神殿はともかく、王宮にはわたしが聖女だってことを認めてもらわないと、困るんです。タダ働きは、いやでござるいやでござるー)
「だから、ナギ嬢にはやはり通例通り、地脈の乱れに影響されて濁った魔導鉱石を、『聖歌』で正常化してもらうことになるのだと思う。実際のところ、それ以外に確認の術はないのだしね。何、ナギ嬢の力は本物なのだ。先方の見る目は少々厳しくなっているかもしれないが、何も不安に思うことはないよ」
「……え?」
凪は、固まった。
『聖歌』というと、たしか聖女のみが使える固有魔術で、歌の届く範囲内すべての魔力の乱れを整えてしまうという、必殺技。
今まで聞き流していたけれど、歌、である。それは、つまり──。
「わたし……使者さんたちの前で、歌うんですか? ひとりで?」
「ああ。何か、問題があったかね?」
ありまくりである。
凪は、真顔で答えた。
「無理です。初対面のエラい人たちにじろじろ見られている状態で、ひとりで歌を歌うとか、緊張するどころの話じゃありません。想像するだけで、胃がキュッてなります。無理です。大事なことなので三回言いますが、本当に、無理です」
学校の授業でのクラス合唱や、友人たちと楽しむカラオケとはわけが違う。
凪の感覚で言うなら、いきなり総理大臣や皇族方の前でひとりで歌え、と言われているようなものである。普通に、無理だ。心が折れる。歌うどころか、まともに声が出るかどうかすら甚だ疑問だ。
死んだ目をした彼女の主張に、アイザックが顔を引きつらせる。
「な……なるほど。ナギ嬢は、人前で歌う訓練はしたことがなかったのだな」
「普通は、ないと思います」
凪が無邪気にアイドルを夢見ていたのは、ほんの幼い頃のことなのだ。
本気でアイドルを志す少女であれば、そのための専門学校などで、歌の訓練を受けているかもしれない。だが、たとえそうだとしても、国を代表するVIPを観客とした単独ライブの練習など、しようとも思わないのが普通だろう。
アイザックが何やら沈痛な面持ちで口を開いた。
「いや……貴族の家に生まれた魔力持ちの女子は、聖女に選ばれたときに備え、幼い頃から歌の訓練を積んでいるのが普通なのだよ。そもそも聖女は、魔力の強い女子の中からしか現れないのでね。だが……そうか。何も訓練を受けていない少女には、たしかに無理な話か……」
ライニールが、ぐっと両手で拳を作る。その目つきが、据わっていた。
「ふ……ふふ……。あのクソオヤジが、ナギを身ごもった母上を追い出したりしていなければ……。よし、もごう」
(何を!?)
最後の一言だけ、やけに爽やかな笑顔で言うライニールに、彼の本気を感じる。
シークヴァルトがそんな彼を見て、淡々と言う。
「その件については、手を貸すこともやぶさかではないけどな。ライニール。今は昔のことより、これからのことを考えるべきだろう」
手は貸してくれるんだ、と思いつつ、凪はシークヴァルトに問いかけた。
「それなんですけど、シークヴァルトさん。わたしは握手するだけで、みなさんの汚染痕を消せたじゃないですか。その認定の儀に使われるっていう濁った魔導鉱石も、手で触ったらキレイになったりしませんか?」
シークヴァルトが、考える顔になって腕組みをする。
「こればかりは、実際にやってみなければわからんが……。たぶん、大丈夫なんじゃないか? 過去の記録では、聖女の命令だけで、凶暴化した魔獣が正気を取り戻したって話もあるしな。『聖歌』に限らなくても、聖女の声そのものに力が宿っているんだから、別に歌わなくてもいいと思うぞ」
「へ? 歌じゃなくてもいいなら、なんでわざわざ歌うんですか?」
先ほどの緊張と胃痛を返せ! と文句を言いたくなった凪の疑問に、シークヴァルトは何やら困った表情を浮かべてライニールを見た。
「オレは、魔術学の理論方面はあまり得意じゃないんだ。ライニール、交代」
「……まったく、これだから実践ありきの感覚重視タイプは。いいかい? ナギ。少し長くなるから、途中でわからなくなったら、そう言うんだよ」
ライニールはわざとらしくため息をつくと、凪にも理解しやすいようにと、丁寧に易しい言葉を選んで説明してくれる。
そもそも聖女というのは、凪がそうして見せたように、ただ対象に触れるだけ、あるいは声を届けるだけで、その力を伝えることができる存在なのだ。魔術の行使、というよりも、むしろそういう体質である、と言ったほうが自然なくらいに、聖女というのはなんの苦もなく、ごく自然にその力を顕現させる。
「ただ、どれほど力ある聖女の声でも、一度途切れてしまえば、その先まで効果が広がっていくことはないそうなんだ」
もちろん、短い言葉の連なりであっても、全体で意味が繋がってさえいれば、その声が届く範囲には力が通じる。これを『聖呪』というが、実際のところ、あまり使われることは多くない。数秒で効果が途切れる『聖呪』では、広範囲に強い影響を及ぼすことは叶わないからだ。
「その点、歌というのは、意味ある言葉と旋律の連なりだろう? たとえ途中で何度ブレスをしようと、それが旋律の要素のひとつとして成立していれば、問題ない。旋律が長く続けば続くほど、聖女の力はその周囲に響き合い、重なり合って、より高い効果を発揮する。だから、聖女がその力をより広範囲に、より強く伝えようとするときには『聖歌』を歌う、ということになるんだよ」
「……なるほど。了解しました」
なんだか頭が痛くなってきたけれど、どうにか理解はした──と、思う。たぶん。
「つまり、これから王宮と神殿から来る方々の前では、別に歌わなくても問題はないってことですよね? 彼らが持ってくる、駄目になった魔導鉱石に手で触るか、至近距離で『キレイになーれ』って声を掛ければ大丈夫ってことですよね?」
「そうだね。聖女認定の儀に使われる魔導鉱石は、さほど大きなものではないはずだし、あまり心配することはないと思うよ」
にこりと、ライニールが大変麗しい笑みを浮かべる。
ひとまず、お偉いさま方を前にした単独ライブのプレッシャーから解放され、凪は深々とため息を吐いた。
「とりあえず、よかったです。神殿はともかく、王宮の方々にはちゃんと認めてもらわないと、聖女業のお給料がもらえませんもんね」
「……給料?」
訝しげに首を傾げたライニールは、そう言えばそのくだりを話していたときには、この場にいなかったのだった。凪は、キリッと宣言する。
「あの、兄さん。わたしはこの国の聖女と認められても、王族のお嫁さんになるのは、絶対に絶対に絶対に、本当の本気でイヤなので。今後、もし王宮側からそんなお話があったとしても、必ずお断りしてくださいね」
「ああ。きみが望まないのであれば、そういった申し出をしてくる身のほど知らずは、もちろん全力で潰すつもりだけれど……」
ふむ、とライニールが顎先に触れ、少し考えるようにしたあと、優雅に笑った。
「いいかい、ナギ。これから先、きみに何か無理強いしようとする愚か者がいた場合、まずはそこに生ゴミが落ちていると思うんだよ」
「生ゴミ」
凪が真顔で復唱すると、ライニールが満足げに目を細める。
「そう。そして、すぐにその生ゴミの容姿と名前と所属をおれに報告すること。その生ゴミが堆肥として利用できるものなのか、捨てるしかないものなのかを分別した上で、おれがきちんと処理するからね。わかったかい?」
「わかりました、兄さん」
これまでの短い時間の中でも、ライニールが相当に頭の回転が速い人であることは、凪にもなんとなくわかっていた。どうやら彼は、ゴミの分別も得意なようだ。ここは、素直にうなずいておけば問題あるまい。
「それから、きみの聖女としての働きに、相応の報酬が支払われるのは当然だ。王宮側と交渉して、必ずきみが満足できる金額を約束させるから、何も心配することはないんだよ」
なんという心強いお言葉だろうか。感動した凪は、両手を組み合わせてライニールを見上げた。
「ありがとうございます、兄さん! わたし、将来は庭付きの小さなおうちで、大きくてかっこいい犬を飼うのが夢なんです!」
「そうか。それは、素敵な夢だね」
──目指せ、庭付き一戸建てで過ごす、安定した老後生活。
だがその前に、何よりも優先しなければならないことが、凪にはある。
(よしよし。ライニールさんのお陰で、将来の不安がなくなってきたぞーう。これはもう、リオを殺した連中を、なんの憂いもなく全力でフルボッコにしていいってことだよね? うふふふふふふ)
こうなると、凪の力を見極めに来るという王宮と神殿の使者たちには、さっさとこちらに来てほしいものだ。捕縛されたユリアーネ・フロックハートたちに慰謝料請求をするにしても、やはり単なる孤児よりも、聖女の看板を背負ってからのほうが、いろいろと強気でいける気がする。
その辺りの手続きについても、ライニールに相談してもいいだろうか、と考えたときだ。
「本物の聖女を保護したというのは、本当かい!? アイザック!」
なんの前触れもなく、壊れるのではないかという勢いで扉が開いた瞬間、凪はライニールに抱えられ、扉から最も離れた壁のそばにいた。目の前には、シークヴァルトとアイザックの背中が並んでいる。本当に、瞬きひとつの間の出来事。
「……まさか、こちらへ連絡もなしにお越しとは。少々驚いてしまいましたよ、オスワルド王太子殿下」
低く平坦な声で、構えていた剣を鞘に収めながらアイザックが言う。それに従い、シークヴァルトも剣を収める。
(王太子殿下。……次の王さま? が、わたしの確認に来たのかな?)
先ほどアイザックは、王位継承権五位以内の誰かが来ると言っていたから、きっとそうなのだろう。神殿からの使者はまだのようだが、どうせなら一緒に来ればいいのに、と思う。二度手間は、ちょっと面倒くさい。
しかし、王太子ということは、この国でおそらくトップスリーに入るエラい人であるはずなのだが──なぜだろう。凪を抱えるライニールの腕は緩まないし、目の前に立っているふたりも、そこからどく様子がない。あまり、仲がよくないのだろうか。
なんとなく不安になっていると、アイザックが更に声を低めた。
「殿下。どうやらこたびは、護衛のひとりもおつけにならずに、このような所までいらしたようですね。まったく、いつまでそのように短慮で軽挙な振る舞いをなさるおつもりなのですか。国王陛下も王妃殿下も、今のあなたさまをご覧になったなら、さぞお嘆きになりましょう。あなたさまの、その気さくで大らかなお人柄は、たしかに得がたく素晴らしい資質でございます。ですが、それは時と場合によっては、考えなしで大雑把に過ぎるという、非常に残念極まりない評価になるのですよ。さて、殿下。私は殿下が立太子なされた日に、あなたさま御自ら、立派な国王になると誓っていただきました。あの折には本当に心からの感動を覚え、将来あなたさまにお仕えできる己の幸運を、天空の神々に感謝したものです。だというのに……ああ、先にご無礼をお詫びさせていただきます」
──怒っている。アイザックが、ものすごく怒っている。怖い。
まだ顔も見えていない王太子に、凪は心から同情した。アイザックの怒りに満ちた背中に、『ゴゴゴゴゴ』とおどろおどろしいフォントの効果音が浮いていそうだ。
シークヴァルトが、おもむろに一歩下がって振り返る。彼は、無言で凪の耳を両手で塞いだ。
「……っいい加減に、少しは自分の立場を自覚しないか! この、大バカ者がーっっ!!」
耳をしっかりと塞がれていてさえ全身がびりびりするような、特大の怒号が落ちた。無防備にそれを聞く羽目になったシークヴァルトが、思い切り顔をしかめている。おそらく、凪を抱えたままのライニールも同じだろう。
アイザックの背後にいた自分たちでさえ、この有様なのだ。正面から直撃を食らった王太子は、さぞ大きなダメージを食らったに違いない、と思ったのだが──。
「やあ、ごめんごめん。あの頭のおかしな女のせいで、この国は当代の聖女を失ってしまったとばかり思っていたからねえ。そこにきみからの聖女保護の報告を受けて、今王宮は上を下への大騒ぎさ。僕が自ら確かめに行くと言っても、誰にも止められなかったくらいだよ。だから、そんなに怒らないでくれないかい? アイザック」
なんだか、やけにのほほんとした口調である。アイザックのお怒りマックスな叱責を受けてこれとは、どうやらこの国の王太子は、信じがたいほどマイペースな御仁であるようだ。
「殿下……」
「うん。おまえたちの心配は、わかってる。置いてきた護衛たちにも、悪いことをしたと思っているよ。ただ、これ以上聖女絡みで王宮が失態を重ねれば、我が国の威信は地に落ちる。それだけは、絶対に許されないことだからねえ」
王太子の声が、近づいてくる。
「あれ? ひょっとして、そこにいるのは兄上かな?」
(兄上?)
誰のことだ、と不思議に思っていると、ライニールが冷ややかな声で口を開いた。
「お久しゅうございます、王太子殿下。ですが、私はとうの昔にマクファーレン公爵家から廃嫡された身。そのように親しげな呼び方は、今後一切ご遠慮くださいますよう、お願い申し上げます」
「えぇー。きみがいなくなってから、僕と母上はものすごく苦労しているんだよ? いっそのこと、きみがあの家を乗っ取ってくれれば助かるのにさ」
なんだか、よくわからない会話である。ライニールと王太子は、幼馴染みか何かだったりするのだろうか。体の大きな面々が盾になっていて、いまだに凪から王太子の姿は見えていない。
「まあ、その話はあとでいいや。……それで? 本物の聖女さまは、僕に見せてくれないの?」
声が、近い。柔らかな響きの、けれどとても強い声。
ライニールの腕に、ぐっと力がこもる。
「殿下。私の娘は、繊細なのです。なんの心の準備もなく、王族にご挨拶などできませんよ」
「……娘? へぇー……そう。ちょっと、意外だねえ。きみが、聖女の後見を買って出るなんて。いつから、そんな野心家になったんだい? 兄上」
野心家、という王太子の言葉に、嘲るような、失望したような響きを感じ、凪はむっとした。ライニールは、ただ血の繋がった家族として、凪を守ろうとしてくれているだけだ。ゲスの勘ぐりで、失礼なことを言わないでいただきたい。ライニールが拒否しているにもかかわらず、兄上呼びを続ける傲慢さもいかがなものか。
……というわけで、凪は失礼な王太子に対し、きっちりもの申すことにした。
「お父さま。わたしは大丈夫ですから、下ろしてください」
「ナギ?」
気遣わしげな目をする彼に、にこりと笑ってうなずいて見せる。小さく息を吐いたライニールが、そっと床に立たせてくれる。……ここの面々は、ひょいひょい人を抱き上げ過ぎだと思う。身体強化魔術か。身体強化魔術のせいなのか。それともただの力自慢か、羨ましい。
こちらの意をくんでくれたらしいシークヴァルトとアイザックが、一歩ずつ左右にずれた。
最初に目に入ったのは、艶やかな銀の髪。淡いペリドットの瞳。そして──。
「兄さんと同じ顔っ!?」
「……えぇー。ちょっと、待ってよ。何この子、マクファーレン公爵の隠し子なの?」
素っ頓狂な声を上げた凪を、眉根を寄せた王太子がまじまじと見つめてくる。
(あ、しまった。つい、兄さん呼びをしちゃったでござる。……だって、めっちゃ驚いたんだもん! まさか、いきなり目の前に銀髪バージョンのライニールさんが出てくるとか、そんなの普通思うわけないじゃん! 目の保養が過ぎて、それこそ「目が! 目がー!」案件だよ!)
凪はひとまず、ごまかすことにした。
「すみません、間違えました。ライニールさんは、お父さまです」
「ごまかすの下手すぎか!」
すかさず、シークヴァルトがツッコんでくる。こんなときだというのに、凪は嬉しくてほっこりした。キレのいいツッコミは、いつでもヘイカモンのウェルカムだ。
ひとつため息をついて、ライニールが口を開いた。
「話がややこしくなるので、殿下との面会はもう少し先にしてほしかったのですがね。──ナギ、こちらは我が国の王太子、オスワルド・フレイ・ユーグ・ルジェンダ殿下。彼の母君である王妃殿下は、マクファーレン公爵の双子の姉なんだ」
「……あ、なるほど。お父さんと、王太子殿下のお母さんが双子のごきょうだいだから、おふたりがこんなにそっくりさんなんですね。びっくりしました」
それにしても、本当によく似ている。髪と目の色が同じであれば、シャッフルしてもきっと気づかれないレベルだ。
ライニールが、凪からオスワルドに視線を移す。
「殿下。こちらが我が国の聖女、ナギ・シェリンガム男爵令嬢です。先ほど、彼女の同意を得た上で、私の養女として迎えました」
「……兄上?」
ひどく困惑した表情を浮かべたオスワルドに、ライニールは淡々と告げた。
「ナギは、十六年前に無実の罪で離縁された私の母が、追放先の修道院で産み落とした、マクファーレン公爵の娘です。つまり、あなたの従妹ということになりますね」
従妹、という言葉に、凪は思わずオスワルドを見た。
(あ、そうか。ライニールさんのお父さんと、王太子殿下のお母さんが双子のきょうだいなら、ふたりはイトコ同士になるもんね。つまり、ライニールさんの妹であるわたしも、王太子殿下のイトコです、と。……王族とか貴族って、美形しかいないのかなあ)
「……うん。よし。とりあえず、一番大事なところから確認しようか。この子──ナギ嬢は、本当に聖女の力を持っているんだね?」
眉間を指先で揉むオスワルドの疑問に、アイザックが答える。
「ナギ嬢は、我々三人を蝕みはじめていた汚染痕を、軽く握手するだけで消してしまいました。殿下の訪問が正式なものであれば、聖女認定の儀に使用される魔導鉱石のひとつやふたつ、きちんとお持ちいただけたはずなのですがね」
さらっと嫌みを練りこんだアイザックだったが、残念ながらオスワルドには通じなかったようだ。
「うん。きみたち三人がそう言うのなら、僕はナギ嬢の力を信じるよ。──ご挨拶が遅れまして、申し訳ありません。聖女ナギ。先ほどご紹介にあずかりました、ルジェンダ王国王太子、オスワルド・フレイ・ユーグ・ルジェンダと申します。どうぞ、お見知りおきを」
(『せいじょなぎ』て)
そのとき凪は、チベットスナギツネになりたくなった。今の彼女は、聖女としての実績はゼロなのだから、できればそういったこっぱずかしい呼称は勘弁していただきたい。聖女業をはじめたあとのことについては、一応諦めてはいるけれど、何事にも順序というものがあるはずだ。準備運動もせずにいきなりプールに飛びこんでは、足をつってしまうではないか。
しかし、凪が『イヤなことは先送りにしようの術』を発動し、どうにかして聖女呼びを回避しようとするより先に、オスワルドが真剣な面持ちでライニールを見た。
「兄上。失礼を承知で、もう一度聞くけれど……。本当に、聖女ナギはあなたの妹君なんだね?」
「私とナギの魔力が共鳴した瞬間を、我が魔導騎士団団長アイザック・リヴィングストン並びにシークヴァルト・ハウエルが確認しています」
(『せいじょなぎ』呼びは、イヤでござるー。るー。るー)
同じ顔をしたふたりの間にある空気が重すぎて、口を挟む余裕がない。しくしく泣きたくなった凪とライニールを見比べたオスワルドが、そうか、と呟く。
「すまない、兄上。十六年前に何があったのか、僕は何も知らないんだ。きみがわかる範囲で構わないから、聞かせてくれないか?」
「殿下はそのとき、たった五歳だったのですから、何もご存じでないのは当然ですよ」
オスワルドは、現在二十一歳であるらしい。
それからライニールは、先ほど凪に聞かせてくれた過去の出来事を、端的にオスワルドに語って聞かせた。
「……私は、殿下もご存じの通り、五年前に成人すると同時にマクファーレン公爵家から廃嫡、絶縁されました。そのときからずっと、母の産んだ妹を捜していたのですが、情けないことに今日までそれを成せずにいたのです」
「兄上が、五年かけても見つけ出せなかった? なぜだい?」
オスワルドの疑問に、ライニールが答える。
「ナギが育ったのは、ノルダールの孤児院でした」
「な……っ!?」
突然振り返ったオスワルドに凝視され、凪は驚いた。
(……んんー? そう言えば、森で保護してもらったときにも、なんだかやたらと問題がある感じで言われてたような? あのときは、この状況がまだ夢だと思ってたから、つるっと聞き流しちゃっていましたよ。ゴメンナサイ)
自分のことなのにこれはマズイ、と凪は片手を挙げる。
「お話の途中で、すみません。わたしが育った孤児院って、何かいけないことをしていたんですか?」
一拍おいて、ライニールが口を開く。
「ナギ。きみがいた孤児院は、魔力持ちの子どもたちを密かに集めていた。そして、子どもたちの素性と魔力適性検査の結果を隠匿し、特殊な教育を施していたんだ。……それぞれの『買い手』の要望に合わせてね」
買い手、というと──。
「え? この国の孤児って、お金で買ったり売ったりしていいものなんですか? わたしたち、まさかの商品?」
この世界に、基本的人権は存在しないのか。
思い切りドン引きした凪の言葉に被せて、オスワルドが「そんなことはない!」と叫ぶ。
「我が国ではもちろん、大陸国際条約でも人身売買は固く禁じられているとも! ……ああそうか、彼女はマクファーレン公爵家の娘だ。幼い頃から、さぞ豊かな魔力の片鱗が見えていたんだろうね。だから、ノルダールの連中に目を付けられ、元いた修道院から拐かされた、ということか」
「はい。おそらくは、そういうことかと。わたしが件の修道院に問い合わせたときには、母と妹がそこにいたという記録は、すべて破棄されていました。そこの墓所に母の名が刻まれていなければ、何も信じられなくなっていたところです」
ライニールが、目を伏せる。
「ユリアーネ・フロックハートが、どこでナギの存在を知ったのかはわかりません。ですが、フロックハート侯爵家とノルダールの関係は、改めて洗い直したほうがよろしいでしょうね」
「……わかってるよ」
ぐっと唇を噛みしめたオスワルドが、ひどく悔しげだ。この国の次期国王として、子どもたちの人身売買がいまだに行われている可能性があるなど、断じて許せないのかもしれない。
(そういえば、孤児院で出される食事って、人によって結構違ってたかも? 男の子たちとか、普通にお肉の塊を出されたりしてたし。体の大きな子たちは、毎日元気に外遊びをしまくって、美味しそうなご飯をお腹いっぱい食べては、爆睡してる感じだったもんなあ。……あの家畜の餌みたいなゴハン組は、毎日机でお勉強だったのに。いや、普通に外遊びもしてたけどさ)
孤児院時代の貧しすぎる食事風景を思い出すと、普通以上に美味しい食事が存在すると知った今、ますます腹立たしくなってしまう。
「あの、たびたびすみません。わたしがいた孤児院って、今はどうなっているんでしょう? 一緒に育てられていた子たちは、無事なんですか?」
ひとまずこれだけは聞いておかなければ、と向けた問いかけに、オスワルドが低く答える。
「ノルダールの孤児院は、半年ほど前に焼失したよ。孤児の売買に関する証拠ごとね。当時養育されていた子どもたちは、今はほかの孤児院に移っているから、安心していい。ただ……すでに売られてしまっていた子どもたちについては、現在も行方を捜索中なんだ。手がかりがすべて焼けてしまっているため、どうにも難航しているらしい」
「そうなんですか……」
リオがこの世界で生きてきた間の記憶は、まだほんの少ししか戻っていない。これからすべてを『思い出した』とき、凪の心は平穏を保っていられるだろうか。
(あの人でなしは、十日くらいで全部思い出せるとか言ってたけど……なんか、怖いな)
幼い頃から、時折垣間見ていたリオの日常。
単調で平和なものだとばかり思っていたそれが、本当はこんなにも複雑で殺伐としたものだっただなんて、知りたくなかった。
それにしても、と凪は首を傾げる。
「つまりわたしって、マクファーレン公爵が妊娠した愛人を奥さんにするために、お母さんともども捨てた子なんですよね。わたしを産んですぐにお母さんが亡くなって、赤ん坊の頃に人身売買組織に誘拐されたあとは、まともなご飯も食べられない孤児院育ち。で、詐欺師のユリアーネ・フロックハートさんに聖女の力を利用された挙げ句、最後は白い魔導士さんに殺されかけたわけですか」
指折り確認していくと、我が事ながら悲惨過ぎて笑えてきた。
「まあ、わたしが直接恨みがあるのは、わたしを殴ったニセモノ聖女さんと、殺そうとした白い魔導士さんだけなので。そのふたりを全力でぶん殴って、ついでにがっつり慰謝料をもらえれば、もうそれでいいんですけどね」
凪は、なんだか空気が重いな、と思いながら、誰にともなく問いかける。
「わたしが、というか、この国の聖女がそういう生まれ育ちだったっていうのって、全部公表しちゃって大丈夫なものなんです? 殿下は最初に、この国の威信がどうとか言ってましたけど、これってちょっと、公表するには恥ずかしくないですか?」
「~~っ、ちょっとどころじゃないよねぇええええぇええーっっ!?」
オスワルドが、しゃがみこみながら頭を抱え、絶叫した。
そんな彼に、ライニールがにこりと笑って声を掛ける。
「殿下。私はすでに、この国の重鎮であるマクファーレン公爵家から絶縁された身です。あの家に絡んだ醜聞をお嫌いになるのでしたら、愛娘ともども他国に移住させていただいても構いませんよ? 聖女の威光を利用した王宮での立身出世という野心など、私はまったく持ち合わせておりませんのでね」
「すみませんごめんなさい、よけいなことを言った僕が悪かった!」
一国の王太子ともあろう者が、土下座でもしそうな勢いだ。
それまで黙っていたシークヴァルトが、さほど考えた様子もなくライニールを見る。
「オレは、ナギの護衛だからな。おまえたちが国外へ出るというなら、一緒に行く」
「ん? それは助かるが……本当にいいのか?」
シークヴァルトは、あっさりとうなずいた。
「オレは元々この国の人間じゃないし、問題ない。ただ、移住するなら帝国以外の国にしてほしい。あそこは、いろいろと面倒だ」
「そうだな。レングラー帝国にはすでに聖女がいるし、あえて移住先に選ぶほどの利点もない。どうせならば、聖女のいない国にしておいたほうが、先方も喜んでナギを迎えてくれるだろう」
なんだか、ものすごく気軽に国外移住計画が語られている。そんな彼らに、アイザックが苦笑しながら声を掛けた。
「ライニールもシークヴァルトも、あまり殿下をいじめてやるな。おまえたちに揃って団から抜けられてしまうと、私が困る」
「いじめたわけではありません。しかし、団長がそうおっしゃるのなら、これからも魔導騎士団の一員として、誠心誠意働かせていただきます」
ライニールが、あっさりと手のひらを返す。そして、しゃがみこんだままのオスワルドをじろりと睨んだ。
「いつまでそのように情けない格好をしていらっしゃるのですか、殿下。私と同じ顔をしているのですから、あまり恥ずかしい真似はなさらないでくださいね」
「それって、怒濤の言葉責めをしてから言うことかなあ!?」
半泣きになったオスワルドが、それでもどうにか立ち上がる。彼はしばしの間、目を伏せて考える素振りをしたあと、よし、とうなずき顔を上げた。ライニールと凪を、順に見つめて口を開く。
「一応、確認しておきたいんだけど……。きみたちは、近い将来マクファーレン公爵家が途方もない醜聞にまみれて没落したなら、どう思うのかな? 正直な気持ちを聞かせてほしい」
「ざまあみろ」
「おめでとうございます」
真顔で即答したふたりに、オスワルドは苦笑した。
「なるほど。きみたちは、本当に血の繋がった兄妹なんだねえ。ものすごく納得したよ。──アイザック。我が国の聖女が見つかった件については、当面箝口令を敷くことにする。おまえの部下たちにも、その旨徹底しておくように」
「了解しました。……マクファーレン公爵家を、切るのですね?」
ああ、とオスワルドがうなずく。
「僕がすでに立太子して、世界一可愛くて魅力的で素晴らしい婚約者もいる以上、もうマクファーレン公爵家の後ろ盾は必要ないからね」
なんだか、唐突にノロケられた。
(へー。二十一歳で、もう婚約者がいるんだ。すごいなー。……って、あれ? ちょっと待てや。まさかユリアーネ・フロックハートさんって、婚約者がいる殿下に横恋慕して、略奪するために聖女を騙ったってこと?)
この国の聖女は、王族の人間に嫁ぐのが慣例だという。そして、ユリアーネ・フロックハートが捕縛された際の捨て台詞からして、彼女は王太子に好意を抱いていた。
もし、彼女が王太子と結婚するためには聖女になるしかない、と思い詰めた結果が、今回の騒動なのだとしたら──。
(……こっわ。うわ、こっわー。もしホントにそういうことなら、マジで引くわー。婚約者のいる相手に、ガチで略奪仕掛けにいくとか、普通に気持ち悪いわー。モラルとか良識とか常識とかって、人間がまっとうに生きていく上ですごく大事だと思います。……うん、これ以上は想像するだけで怖すぎるから、わたしは何も気づかなかったことにしよう)
初恋もどきの「お兄ちゃん、だーい好きっ」「悪いな、凪。おれは、年上のキレイなお姉さまが好きなんだ」「がーんっ」以来、さほど異性と縁のなかった凪にとって、略奪愛だの横恋慕だのといったドロドロ系は、少々濃すぎて胃がもたれてしまうのだ。
それに比べて、これほどナチュラルにノロケられるのなら、オスワルドと婚約者の関係はきっとさぞ良好なのだろう。なんだか、ほほえましい気分になってくる。
(殿下とその婚約者ってことは、リアル王子さまとお姫さまってことだよね! よし、メルヘン! いつか、素敵な仲よしカップルを眺めてニヨニヨしたいね!)
ひとまず凪は、キュートでリリカルな想像をして、気持ちを和ませることにした。ただでさえ、今の自分を取り巻く家族関係は複雑過ぎるのだ。少しくらい、ふわふわキラキラの幸せカップルの妄想をしたって、バチは当たらないと思う。
そのキラキラ妄想の片割れであるオスワルドが、にこりと笑って凪を見る。ライニールとよく似た笑顔に、思わずへらっと笑い返してしまった。
途端に、オスワルドが真顔になる。
「え、何この聖女さま。可愛い」
「可愛いでしょう。私の妹なんですよ?」
同じ顔をしたふたりが、空気を読まないことを言い出した。スンッと半目になった凪に、オスワルドがわざとらしく咳払いをして向き直る。
「失礼。あー……えぇと、きみにひとつお願いがあるんだ。これからしばらくの間、きみのことを『ニセモノ聖女に殺されかけて、魔導騎士団に保護された孤児の少女を、実の妹だと気づいた兄上が引き取った』という体で扱ってもいいだろうか? その、聖女ナギ、ではなく、ナギ・シェリンガム男爵令嬢と呼んでも構わないかな? ってことなんだけど……」
「ハイ、喜んでー!」
思わず、食い気味に答えてしまった。令嬢呼ばわりも正直遠慮したいところだけれど、聖女呼びよりは遙かにマシだ。
一瞬、呆気にとられた顔をしたオスワルドが、くすくすと笑い出す。
「え、何? 聖女って呼ばれるのは、そんなにイヤだったのかい?」
「イヤというか、恥ずかしすぎていたたまれません。わたし、そんなキヨラカな心なんて持ってませんもん。無償で世のため人のため、なんて絶対無理です。それから、今のうちに言っておきますけど、わたし王族のお嫁さんには絶対になりません。そこのところ、くれぐれもよろしくお願いします」
キリッと真顔で答えたというのに、なぜだかオスワルドがますます楽しげに笑み崩れる。
「おや。ナギ嬢は聖女なのに、王族の一員にはなりたくないんだ?」
「庶民育ちの孤児にとっては、王族との結婚なんて、なんの拷問か罰ゲームって感じですよ。絶対に、御免被ります。あと、タダ働きも断固拒否しますので、これからわたしが聖女のお仕事をしたら、そのぶんきっちりお給料を支払ってくださいね」
何事も、最初が肝心だ。せっかく、王太子という王室のエラい人と会えたのだから、主張するべき点はきちんと主張しておかねばなるまい。
なのに、呆気にとられた顔をしたオスワルドは、無言のままライニールを見た。
「殿下。ナギの聖女業に対する報酬に関しては、私が彼女の代理人として、のちほど書面できちんと契約を交わしたいと思っています」
「聖女業って……」
にこやかな笑顔のライニールから、オスワルドはアイザックに視線を移す。
「ナギ嬢が王族に嫁ぐことを拒否している以上、彼女の聖女としての働きには、正当な対価をお支払いするのが道理だと思いますよ」
「それは、その通りだろうけど……いや、うん。了解した。……それじゃあ財務のほうには、僕から話を通しておくよ」
(ぃいいよっしゃあっ!!)
凪は内心、両手の拳をぐっと頭上に突き上げた。完全勝利のポーズである。
王族との婚姻拒否と、聖女業に対する報酬の確保。
このふたつを、この国の王太子殿下が約束してくれたとなれば、凪の今後の人生における懸念は、ほぼ払拭されたと言っていい。
なんだか話が上手く進み過ぎて、ちょっと怖いなと思っていると、やたらときらびやかな笑みを浮かべたオスワルドが、なんでもないことのように問うてきた。
「ところで、ナギ嬢。きみ、学校って行ってみたくないかな?」
「学校……ですか?」
そうそう、とオスワルドがうなずく。
「王立魔導学園っていう、魔力を持った子どもが通う四年制の学校があるんだよ。さすがに、ちゃんと卒業させてあげるのは、難しいと思うけど……。今のところ、この国で起きている地脈の乱れは、そう多くないからね。差し迫った危機があるわけでもないのに、なんの心構えもできていない女の子をいきなり現場に放りこむほど、僕らは極悪非道じゃないよ。だから、まずはきみの実践的な訓練が先かなあ、とも思ったんだけど」
顎先に軽く触れたオスワルドが、軽く首を傾げる。
「なんていうか……うん。きみは、たしかに聖女なんだろう。でもその前に、この国で生まれたひとりの子どもでもあるわけだよね。だから僕は、きみに普通の子どもとしての生活も、少しくらいは経験させてあげたいんだ。基礎的な勉強と訓練なら、学校でちゃんとした教師に教えてもらったほうがいいだろうし。どうかな?」
「……ありがとうございます。学校、できれば行ってみたいです……けど」
「けど?」
凪は、小さくため息をつく。
「学費がないです。聖女業をはじめて、学費ぶんくらいを問題なく稼げるようになったら、改めて検討してみたいと思います」
「……うん、兄上ちょっと待って。そのいくら入っているかわからないカードの中身を、軽率にナギ嬢のカードに移そうとするの、ちょっと待って。それ、絶対贈与税がかかる額でしょう。──ナギ嬢、王立魔導学園は、魔力適性のある子どもであれば、学費はすべて無償なんだよ。入学が認められるのは十五歳からだし、今年度の入学式はちょうど来月なんだ。よかったら休みの間に、兄上と一緒に見学だけでも行ってみないかい?」
無償、という言葉に、凪は思い切りときめいた。ぱっとライニールを振り返ると、当然のようにうなずいてくれるのが嬉しい。
「きみが、普通の子どもとしての生活を経験するのは、おれも賛成だよ。いずれ正式に聖女と認められれば、いやでも周りがそう扱ってくるだろうしね」
「はい! 学校側のご迷惑にならないのでしたら、ぜひ行ってみたいです」
何しろ、リオは人身売買組織の一角だったという、ちょっぴり──いや、かなりアレな孤児院育ちなのだ。はっきり言って、これからリオの記憶がすべて戻ったとしても、この国の一般常識については、めちゃくちゃ欠けている自信しかない。
十五歳以上が通う学校だというなら、一年生は凪と同い年。まだまだやんちゃな子どもの集団だろう。多少おかしなことをしても大目に見てもらえるだろうし、いずれ社会に出る前に、せめて普通の大人になれるだけの常識は身につけておきたい。
と、それまで話の流れを聞いていたシークヴァルトが、アイザックに向けて口を開いた。
「団長。オレは、ナギの従者とクラスメートの、どちらで学園に行けばいい?」
「ナギ嬢の身に、万が一にも何かあってはいけないからな。負担をかけてすまないが、クラスメートとして必ずナギ嬢のそばについているように」
「了解した」
あまりにあっさりとした会話に、凪は驚く。
シークヴァルトは、おそらくライニールやオスワルドと同年代の、すでに大人の色気すらまとったイケメンだ。いくらなんでも、凪と同級生の十五歳に見えるわけがない。悪目立ちするだけだから、ぜひとも無謀なコスプレは遠慮していただきたい、と凪が言いかけたときだ。
(………………へ?)
「ふむ。五年前のオレは、こんなに視界が低かったんだな。慣れるまで、少し時間が掛かりそうだ」
シークヴァルトの姿が揺らいだ、と思った次の瞬間、まるで別の生き物がそこにいた。
凪が見上げるほどだった上背は、ほんの少し視線を上げれば目が合う高さに。シャープなラインを描いていた頬はかすかに丸みを帯びて、柔らかな印象になっている。全体的にかなりコンパクトになった体躯は、力強さよりも俊敏さを感じるしなやかさで、細い手足が少しアンバランスなほど長く見えた。
驚きのあまり、目と口をあんぐりと開いた凪に、シークヴァルトと同じ目と髪をした少年が明るく笑う。
「驚いたか? ナギ。十五歳のオレは少し頼りなく見えるかもしれないが、身につけたスキルは二十歳の今と変わらないから、安心しろ」