第三章 保護者さまは、シスコンです

泣きながら、目を覚ます。

ぎこちなく腕を持ち上げれば、透けるような白い肌。桜貝のような爪と、細い手指。

(夢じゃ……なかったんだ)

ひどい喪失感に、呼吸をするたびギシギシと胸が軋んだ。

眠りに落ちる前のように、これは夢だと現実逃避をしてもいいはずなのに、引き攣るような胸の痛みがそれを許さない。

(お父さん……お母さん、お兄ちゃん……)

もう、会えない。

凪の大切な家族に、この手は二度と届かないのだと、なぜだか理解してしまう。

あの兄の姿をした人でなしが語っていた言葉は、すべて疑いようのない真実なのだと、凪はすでに受け入れてしまっていた。

悲しい。苦しい。辛くて、寂しい。……怖い。

凪が本来いるべき場所から、突然こんな世界へ連れてこられたのは、聖女であるリオが殺されたからなのだという。人々から愛されるために生まれてきたようなリオならば、たしかに聖女の名に相応しい振る舞いができたに違いない。

なのに、彼女は殺された。

(……ふざけんな)

そのリオを利用した挙げ句、殺した者。

聖女を騙った女、ユリアーネ・フロックハート。

なぜ彼女は、本物の聖女であるリオをただ捨てるのではなく、殺したのだろう。リオを無傷で差し出せば、死罪だけは免れたかもしれないというのに。

じくじくと、空っぽになった胸が疼痛とうつうを訴える。

ユリアーネ・フロックハートがリオを殺さなければ、リオはきっと正しく聖女として保護され、人々から歓喜とともに迎えられていた。凪だって、家族との平和な日常を失わずに済んだ。

(許さない)

兄の姿をした人でなし──世界の管理者とやらは、これから凪が聖女として生きようが生きまいが、どちらでも構わないと言っていた。凪としても、正直そんな面倒くさいことはしたくない。

今の凪が心から望んでいるのは、リオを殺した者たちすべてに、その罪を償わせることだ。

(絶対に、後悔させてやる)

凪とリオが、それまで大切にしていたすべてを奪われたように、連中からすべてを奪ってみせる。

この世界に、神は存在していないと聞いた。ならば、神の赦しなど必要ない。誰に認めてもらう理由もない。ただ、凪自身が許せない。絶対に、絶対に、許さない。

どろどろとした怒りの熱に炙られ、冷え切っていた心臓から全身に灼熱が広がる。

「う……」

体を起こした瞬間、ズキリと頭が痛んだ。その途端、脳裏に浮かんだ映像に、凪は鋭く息を呑む。

──森の緑。涙で滲んだ視界に映る、鮮やかな血に染まった自分の手。太陽の光を弾く刃も、血の汚れをまとっている。

衝撃。

視界が揺れる。

自分の胸を貫く刃を握っているのは、陰鬱な雰囲気を持つ、白い長髪の若い男だ。日に焼けたことがないような白い肌と、赤い瞳。作りもののように整った、酷薄そうな顔。

その顔になんの表情も浮かべないまま、白い男が静かに口を開く。

『下賤の者どもに、その身を暴かれるよりはマシだろう。愚かな聖女。無垢な体のまま殺してやったことを、感謝するがいい』

その言葉を最後に、唐突に映像が途切れる。

これは、記憶か。

リオが森で殺されたときの──。

(……っ誰が感謝なんてするか、すっとこどっこいのクソ野郎ーっっ!! いや、リオが性暴力の被害を受けていなかったことは、めちゃくちゃよかったんだけど! だからって、殺しておいて感謝しろとか、ふざけてんのバカなの脳みそ腐ってウジでも湧いてんの!? 自分の罪悪感から全力で逃避するための言い訳を、偉そうな顔でこっちに押しつけてんじゃねーぞ、アホンダラーっっ!!

一瞬で、頭に血が上る。

リオがこの体で見た最後の記憶が、ひどく辛いものであろうということは想像していた。だがまさか、これほど胸くそ悪いものであったとは。

ぐちゃぐちゃになった羽毛布団をきつく握りしめながら、ぜいぜいと肩で息をする。そして、急速にこみ上げた吐き気に、両手で口元を押さえた。ベッドから飛び降り、一番最初に目に入った扉を開いた先がトイレであったことを、この世界にはいないという神に感謝する。ギリギリセーフで、間に合った。

(うぅー……最初に見えたリオの記憶がコレとか……。せっかく美味しいご飯だったのに、全部ケロケロしちゃうなんて、もったいないぃい……)

元の世界のものとは形式が少し違うものの、消臭機能もバッチリの高級感溢れる水洗トイレに、胃の中のものをすべて戻してしまった。心優しい騎士さまたちが、わざわざ凪の体調に配慮して作ってくれたものなのに、申し訳ない。

(夢だと……思ってた)

いつもと同じ、けれど今までとはどこか違う、ずっと素敵で都合のいい夢。

涙が滲むのは、いまだ収まらない吐き気のせいか。それとも、この世界で凪が目覚めてからずっと親切にしてくれた人々への、申し訳なさのせいだろうか。

シークヴァルトも、ソレイユも、アイザックも。そして、お腹を空かせた子どものために、美味しい料理を作ってくれた、騎士たちも。

みな凪の妄想が作り出した、都合のいい夢の登場人物などではなかった。彼らは、彼ら自身の意思で、凪に優しくしてくれたのに。

(……うん。これに関しては、完全なる不可抗力ということで、黙っておくことにしよう。お礼とお詫びとご恩返しについては、これからがんばれば問題ない。たぶんきっと)

ようやく、吐き気が落ち着いてきた。吐瀉物を流して始末し、洗面所でうがいついでに顔も洗う。用意されていたふかふかのタオルは、ほんのりハーブのいい香りがした。

ゆっくりと深呼吸をして、改めて大きな鏡に映る『自分』の姿と向き直る。そして、心の底からげんなりした。

(相変わらずの、超絶プリティーフェイス……。おまけに手足が細くて長くて、華奢なくせに巨乳だし。でもなんちゅーかこう、やっぱり美醜以前に人種の問題で、自分の顔とは思えんでござるー。違和感が仕事をしすぎな件ってやつだね!)

違和感といえば、シークヴァルトをはじめ、今まで会ったここの人々は、みな大変な美形である。その造形美には心の底からきゅんきゅんときめくけれど、それはたとえばハリウッド映画俳優を眺めているときのような、まったく現実感のないときめきであった。端的に言えば、ナマの至近距離で見るもんじゃない、というやつだ。圧がひどい。

これからは、ああいった美形たちの圧を、現実のものとして受け止めなければならないわけか。ツラい。ツラすぎる。

束の間、ずどんと落ちこんだ凪だったが、いつまでもくよくよしていても時間の無駄だ。

(よし。ここは、現状確認できるいいところを、前向きに見ていこう! 天使のような美少女を着飾らせるのって、きっと楽しいよね! あーでも、さっきまでは夢だと思ってたから普通に借りたけど、今唯一着られるあのワンピースって、絶対にお高いやつぅううううーっ! クリーニング代とか、めっちゃ高そう……)

とはいえ、いつまでも下着姿でいるわけにもいくまい。この屋敷で借りたものはそのうちお返しするまで、極力汚さないようにしなければ、と青ざめつつ、ワンピースを身につけ、靴を履く。

人前に出られる姿になって、ようやく人心地ついた。ベッドに腰掛け、凪は改めてこれからのことを考える。

(あのお兄ちゃんの顔をした世界の管理者? って、別にわたしが聖女さまスキルを活用しなくてもいい、みたいなこと言ってたけどさ。ちょっと冷静になって考えてみたら、人がこれからいっぱい死ぬかもしれませんー、この世界でアナタを含めた五人だけがそれに対処できますー、なんて言われて、知らんふりなんてできると思ってんのかゴルァアアー! ……って、思ってるから提案してきたんだよね。人でなしだから)

凪は、決して聖人君子などではない。世のため人のため、なんて、そういった崇高な志をナチュラルに抱ける人々がすればいいと思う。矮小なる一般市民は、普通は自分の人生を守るだけで精一杯なのだ。

そもそも、なぜ『聖女』。こっぱずかしい呼称にもほどがある。少しは、そうやって呼ばれる側の気持ちも考えろ。責任者出てこい。

思考が流れそうになり、何度か深呼吸をする。

──あくまでも凪にとっての最優先は、リオを殺した者たちに、その報いを受けさせること。その目的を果たすためなら、なんだろうと利用する。

そこまで考え、凪は思わず苦笑を浮かべた。

(『聖女であること』って、今のこの世界で最強のカードだよねえ。聖女さまのレンタル料、めっちゃお高いって言ってたし。……聖女として働いたら、そのぶんの一割くらいは、報酬としてもらってもバチは当たらないと思いたい。うん、そういうことにしておこう! この世界には、神さまはいないそうだから大丈夫! 知らんけど!)

何しろ、今の凪はお金がない、身よりもない、手に職もない、頼れる相手もない、帰る場所もないの、ないないないないない尽くしである。……ちょっと悲しくなってきた。

この状況では、いやでも『職業・聖女』として生活費を稼ぐしかないではないか。

しばしの間じっくりと考え、よし、と凪は両手の拳を握りしめる。

第一に、リオを殺した連中を見つける。見つけたあとのことは、またそのとき考える。

第二に、可能な範囲で聖女として働く。絶対に無理はしない。タダ働きもしない。

最後に、全部が終わったら、聖女業の報酬で小さな一軒家を購入して、シベリアンハスキーと一緒に暮らす。この世界にシベリアンハスキーがいなければ、そのときご縁のあった犬をお迎えする。できれば、大型犬。

そうやって今後の人生の大まかな道筋を決定すると、少し気持ちがスッキリした。

ただ、この人生設計は、これから凪が聖女としてガンガン働き、がっぽがっぽ稼ぐことが大前提だ。それと並行して、犬の育て方や躾け方だってきちんと学ばなければならないし、信頼できる獣医だって見つけておかなければならない。

大型犬はたくさん運動が必要と聞いているから、家は小さいほうが掃除が楽でいいけれど、庭は広ければ広いほどいいだろう。ひとり暮らしで犬を家族としてお迎えするからには、最期まで看取って号泣する覚悟はもちろんとして、自分に何かあったときに、愛情をもって引き取ってくれる場所を確保しておく必要もある。

(これは聖女業で稼ぎまくって、老犬ホーム的なものを設立するしかないか……。わたし自身も、この世界に老人介護施設がなかったら、完全に孤独死コースまっしぐらだな。これも全部、リオを殺したあほたんちんのせいだよね。よーし、慰謝料ガッツリふんだくるぞーう)

お金さえあれば、個人的に老後の世話をしてくれるプロを頼むことも可能だろう。凪は中学生になったときに、母から『お父さんもお母さんも、老後のケアは絶対にプロに頼む予定なの。その資金も地道にコツコツ貯めているから、あんたもお兄ちゃんも、何も心配することはないんだからね』と言い含められている。

そんな母は、父方の祖母に『介護は嫁の仕事でしょう!』と言われたとき、即座に『嫁に介護の義務はありません!』と言い返したこともある、とてもしっかりした人だ。

──そりゃあ、お父さんだけで手が回らないことがあれば、できる限り手伝うわよ。お父さんが困っていたら、助けてあげたいもの。

だけど、『長男の嫁だから』って、介護を丸投げされるなんて絶対無理。いまだにいるのよねえ、妻を夫側の人間にとって都合のいい、無料の労働力だと思っている旧時代の干物が。

今時の子たちは、その辺もちゃんと教育されているんだろうけど、古くさい価値観に縛られている人たちっていうのは、どうしてもいるからね。

凪も、恋人なら一緒にいて楽しい、好きだなって気持ちだけで選んでもいいと思うけど、結婚相手となると話は別よ? 妻より親を優先するような男だけは、絶対にダメ。親離れのできないボクちゃんに、自分の子どもを作る資格はないの。

うちのお父さんみたいに、『俺の選んだ妻に理不尽な文句を言うのなら、二度と親とは思わない』くらいのことは、当たり前に言える男性にしておきなさいね──。

今から思えば、あれは娘への教育的指導に見せかけたノロケだったのだろうか。凪の両親は、いい年をしていまだに休みの日にはいそいそとデートに出かけていく、バカップルがそのまま完熟したような夫婦なのだ。

そんな母から、しばしば老後の備えの大切さについて聞かされていた凪は、いずれ余裕ができたなら、この国の介護福祉状況について調べておこう、と決意する。基本的な行政サービスの状況次第で、老後に必要な資金は格段に差が出てくるはずだ。

リオがたった十五歳で殺されたこの世界で、絶対に平穏で幸せな老後を過ごしてやる。笑って大往生をして──死んだあとに本当に魂が流転するというのなら、またあの両親の娘として、あの兄の妹として生まれられたらいいと思う。

そこまで考えたとき、軽いノックの音がした。次いで、扉の向こうからソレイユの声が聞こえてくる。

「ナギちゃん、起きてる?」

「あ、はい! 起きてます!」

あれからどれだけ時間が経ったのかはわからないけれど、窓の外はまだまだ明るい。慌てて扉を開くと、どこか緊張した面持ちのソレイユが立っていた。彼女は、凪がすでに着替えているのを見て、ほっとしたようだ。

「よかった。ちょっとナギちゃんに聞きたいことがあるみたいで、団長が呼んでるんだ。いいかな?」

「はい、もちろんです」

ちょうど凪も、ここの責任者であるアイザックに聞きたいことがあった。いくら今後『職業・聖女』でガッツリ稼ぐつもりであっても、そもそもこの国の人々に聖女として認めてもらわなければ、ただの宝の持ち腐れである。だからといって、ただの孤児がいきなり「我、聖女ぞ?」と言ったところで、誰からも信じてもらえるわけがない。

先ほど聞いた話からして、どうやらこの国には聖女認定の儀なるものがあるようだ。ならば、まずはそこを目指すべきだろう。貴族であり、騎士団長という役職を得ているアイザックなら、その辺りのことにもきっと詳しいはずだ。

しかし、アイザックが凪に尋ねたいことというのはなんだろう。残念ながら、今のところ凪が持っているリオの記憶は、幼い頃から見続けてきた夢のぶんと、ついさっき甦った殺されたときの記憶だけだ。何か聞かれたところで、答えられる自信などないのだが──と首を傾げつつ、先ほどの部屋に案内される。

「失礼します。ナギちゃんを連れてきました」

「ああ、入れ」

ソレイユに促されて中に入ると、室内にいたのはアイザックとシークヴァルトだけだった。テーブルの上に広げられていた光る地図も、どこかに片付けられている。ソレイユはほかにやることがあるのか、一緒に入室してはこなかった。

ぺこりとふたりに会釈すると、ふと眉をひそめたシークヴァルトが近づいてきた。

「まだ、顔色が悪いな。ちゃんと眠れなかったのか?」

「いえ。ふかふかのベッドは、とっても寝心地がよかったです。ありがとうございました」

いい匂いのするイケメンに、「ちょっとトイレでケロケロしてました」と言えるほど、凪の羞恥心は死んでいない。ここは、笑ってごまかしておこう。とりあえず、男らしくも美麗すぎる顔面の圧がひどいので、イケメンは少し離れていていただきたい。

ケロケロのニオイが残っていたらどうしよう、と思っていると、再びソファーに座るよう勧められた。正面がアイザックなのは先ほどと同じだが、シークヴァルトは凪の隣ではなく、ソファーの背後に立っている。距離感は変わらなくても、姿が見えないだけで緊張感はだいぶ減った。

「お休みのところを呼び立ててしまい、申し訳ない。ナギ嬢。実は先ほど、ユリアーネ・フロックハートの捜索に参加していた王立魔導研究所の担当者から、彼女の居場所を発見したと報告があってね。こちらの第二部隊が現場に向かい、無事に彼女の身柄を確保した」

突然、これ以上ない朗報を聞かされた凪は、一瞬自分が耳にした言葉を信じられず、ぽかんとした。

「それ……本当ですか?」

「ああ。詳しいことは、今後の調査で明らかになるだろうが、本人確認は済んでいる。彼女に助力していた魔導士一名とともに拘束したのち、王宮に連行したのだがね。そのときの彼らの発言の中に──」

魔導士。

それは、あの白い姿をした男のことか。

何か言いかけたアイザックを遮り、問いかける。

「その魔導士って、白い髪に赤い目をした、お人形みたいな顔の男の人ですか?」

アイザックの目が、驚いたように見開かれる。

「その通りだ。きみはあの魔導士のことを、知っているのかね?」

知っているも何も、だ。

は、と吐息とも笑い声ともつかないものが、喉を震わせる。

「……わかり、ません。まだ、全部を思い出したわけじゃないので。ただ──」

頭が痛い。

目眩がする。

「い……っ」

ずきん、と鋭く凪を襲った頭痛に、悲鳴を上げて頭を抱える。

「ナギ!?

シークヴァルトの声。彼のにおい。

瞬くと、目の前に黒い服に包まれた腕があった。くずおれかけた体を、強い力で引き寄せられる。頭痛に苛まれる凪の耳元に、吐息が触れた。

「……ゆっくり、息をしろ。そう……ゆっくりでいい。そう、上手だ」

そのとき、意識の揺らぎかけた凪の脳裏には、こちらを蔑むように見下ろしてくる金髪碧眼の女の姿や、その女に平手打ちをされる記憶。そして、とろけそうな顔でその女に寄り添う、あの白い魔導士の姿などが、断続的に浮かび上がってきていたのだが──。

(ひえ、ひょ、いぃいゃあぁああーっ! リオの記憶が甦るなら、もうちょっと空気を読んで、時と場合と状況を考えてください! 超絶イケメンにぎゅーされて、優しく背中ぽんぽんの頭なでなでは、オーバーキルが過ぎますぅううううーっっ!!

決して愉快ではない記憶が甦る衝撃と、まったく逆方向からの強烈過ぎる衝撃に、遠のきかけていた凪の意識が戻ってくる。いっそ気絶してしまいたいと思うのに、耳元で優しく囁く声に全身がぞわぞわしてそれどころではない。

「ふ……ぅ……っ」

「……うん。いい子だ」

(うっっひぃいいいいいっっ!!

少し掠れたシークヴァルトの声は、大変セクシーダイナマイツであった。耳から妊娠するかと思った。

攻撃力の高すぎるシークヴァルトからのアレコレにより、完全にぐったりしてしまった凪だったが、徐々に頭痛が治まってきたこともあり、どうにか根性で立ち直る。

「も……大丈夫、です。すみません、でした」

「無理はしなくていいんだぞ? 少し、横になるか?」

お気遣いは大変ありがたいが、できれば今は控えていただきたい。これ以上のオーバーキルは、凪の心臓がキュッと逝ってしまう。ただでさえこの体の心臓は、一度ザックリ刺されて止まっているのだ。過度の負担をかけては、あまりにも可哀相ではないか。

ひとつ深呼吸をして、ぐらつく意識を立て直す。改めて姿勢を正した凪は、へらりと笑ってシークヴァルトを見た。

「ありがとうございます。シークヴァルトさん。本当にもう、大丈夫です」

「まだ、顔色がよくない。おまえが大丈夫だと思っていても、オレが無理だと判断したら、即休ませるからな」

(えー)

なんという過保護だろうか。たしかに彼は、アイザックから凪の護衛を命じられてはいたけれど、ちょっと行き過ぎな気がする。結局シークヴァルトは、凪の隣に腰を下ろした。

内心首を傾げながら、凪は膝を揃えてアイザックに視線を戻す。

「団長さん。お話の腰を折って、すみませんでした。わたしに何か、聞きたいことがあったんですよね?」

「ナギ嬢。本当に、無理をする必要はないのだよ」

気遣わしげなマッチョ紳士に、凪は少し笑って言う。

「体調が悪いわけではないんです。ただちょっと、忘れていたことを思い出すたび、頭が痛くなるみたいで……。あ、そうだ」

ぽん、と両手を打ち合わせる。

「さっき団長さんが言っていた、白い長髪に赤い目の魔導士のことなんですが。その人が、森でわたしをズタボロにした犯人なので、殺人未遂容疑でキッチリ取り調べてやってもらえますか?」

「……うん?」

アイザックが、首を傾げた。マッチョ紳士の仕草にしては、実にあざと可愛い。凪は危うく「イイネ!」と親指を立てるところであった。

「今、少しだけ思い出したんです。金髪碧眼の、泣きぼくろが色っぽい美人さんに殴られたこととか。さっき目が覚めたときには、森の中であの魔導士に、剣で斬られたことを思い出して……」

トイレでケロケロする羽目になったことを思い出し、つい顔をしかめて口元を手で覆う。そして、ふと首を傾げる。

「あれ? わたし、なんで生きているんでしょう?」

兄の姿をした人でなしは、凪の魂が心停止していたこの体を、瞬時に蘇生させたと言っていた。けれど、心臓をぐっさり刺されたのはもちろん、目覚めたときの惨状からして、ものすごく丁寧に斬殺されたはずである。こうして生きているのはもちろんありがたいのだが、まったく意味がわからない。

それにしても、あの白い魔導士は、いろいろと腹立たしいことをのたまっていたけれど、あれほど念入りにザクザク斬り刻むとはひどい話だ。いったいリオに、なんの恨みがあったというのだろう。

「……ナギ嬢」

アイザックの声が、かすかに震えている。

「ユリアーネ・フロックハートを捕縛した際、彼女はこう叫んだそうだ。──本物の聖女は、自分たちが殺してやった。ざまあみろ。自分を愛さなかった王太子ともども、この国の者たちもみな、せいぜい苦しみ抜いて死ぬがいい、と」

凪は、目を丸くした。逮捕された瞬間に、自らの罪を自供する犯人など、二時間ドラマの中にしか存在しないと思っていたのだ。

しかし、それ以上に気になるのは──。

「なんですか、その痴情のもつれ丸出しの、アホみたいな安っぽい捨て台詞」

「~~っそこじゃないだろう!? おい、団長! どういうことだ、それじゃあまるでナギが、本物の聖女だったみたい、な……」

隣で中腰になり、大声を出したシークヴァルトを、片手を挙げたアイザックが制する。

「ナギ嬢。聖女というのは、自然魔力の流れを整えることに特化した存在だ。そのため、一般的な魔導士が使うような魔術は、通常使用することができないのだよ」

だから、とアイザックが低い声で言う。

「聖女にはその身を守るための盾として、各国の最大戦力を護衛として付けるのが通例なのだ。我が国であれば、我々魔導騎士団がその任に当たることになっている」

「へ?」

間の抜けた声をこぼし、ますます目を丸くした凪を、エメラルドの瞳がまっすぐに見る。

「きみが着ていた衣服を検分したが、たしかに致命傷となったであろう複数の破損部位と、致死量以上の血痕が確認された。もしきみが本物の聖女であるにもかかわらず、それだけの傷を完全に修復してしまうほどの、高度な治癒魔術を発動したのだとしたら──それは、なんという奇跡だろうか」

「治癒魔術」

致命傷を負った体を完全回復させるなんて、そんな非常識な魔術が存在するのか。……そう言えば、兄の姿をした人でなしも、凪がこの体で生きていることを奇跡だと言っていたような気がする。

改めて驚いた凪だったが、よく考えてみれば、ここは一瞬で長距離を移動できる、ど○でもドア──もとい、転移魔術なるものがある世界だった。魔術という不可思議な技術は、凪が生まれ育った世界よりも、遙かに高度な恩恵を社会にもたらしているようだ。

(そう言えば、王都の上空には馬鹿でかい空中魔導都市とか、空中要塞とかが、普通にふよふよ浮いてるんだっけ? ……リアル天空の城! うっひょう! 見てみたい!)

うっかり明後日の方向に思考が飛びかけたが、今はそれどころではない。

新たな問題に気づいた凪は、へしょっと眉を下げた。

「魔導騎士団のみなさんを全員雇えるほど、聖女って高給取りなんですか?」

「………………んん?」

アイザックが目を瞠り、シークヴァルトがすとんと隣に腰を落とす。

「聖女に自分で自分の身を守る力がないから、護衛が必要っていうのはわかるんですけど。わたし、喧嘩すらまともにしたことがない、ただの孤児ですし。なんだか、結構危ないところにも行くみたいですし。でも、みなさん全員のお給料を危険手当付きでお支払いするとなると、どれくらいが相場なのかもわかりません。なので、聖女のお仕事をするのはいいんですけど、誰にも見つからないようにコソッとしにいくので、護衛とかはナシだと嬉しいです」

束の間、沈黙が落ちる。

ややあって、アイザックがどこか遠くを見はじめ、シークヴァルトは低く呻いた。

「おい……ナギ」

「はい。なんでしょう?」

軽く眉間を揉むようにしながら、シークヴァルトが言う。

「あー……その、なんだ。おまえ、自分が聖女だって自覚はあるのか?」

「自覚はありません。ただ、わたしを斬り刻んだ白い魔導士が、わたしのことを愚かな聖女と呼んでいたので、少なくともそう考えている人はいるのだと思います。なんだか、複数の男性から強姦される前に殺してやることを感謝しろ、とか言っていましたね」

シークヴァルトとアイザックが、同時に目の前のローテーブルを拳で叩いた。バキゴッ! という鈍い音とともに、ローテーブルがローテーブルだったものになる。……ぶ厚い木材というのは、人間の力で破壊されていいものではないと思う。

「わあ、すごい」

人間、あまりにどん引きすると、ありふれた感嘆しか出てこないらしい。凪が目を丸くしてローテーブルだったものを眺めていると、ぐぐぐ、とシークヴァルトが顔を上げた。