喉が、ひりつく。

「聖女種の発芽に力を食われることがなかったおまえの魂は、現在この世界の誰よりも力に満ちている。今のおまえは、リオの力で聖女となった肉体に、聖女種を発芽させられる膨大な力を持つ魂が、そのまま入っている状態だ。そして、おまえの魂の力は、鼓動が消えたばかりだったリオの肉体を、瞬時に蘇生させた。これは、我々の記録上はじめての現象だ。まさに、奇跡といっていい」

「……奇跡?」

混乱した心がどんどん冷えていくのが、自分でわかる。

リオは、優しい子だった。凪の知るほかの誰よりも。

彼女のことは好きではなかったけれど、本当は少しだけ羨ましかった。あんなふうに、誰に対しても優しく接することができるというのは、確かにリオの強さだったから。

リオと比べると、自分はどうしようもなくひねくれていて、可愛げがなくて……弱くて、ずるい。彼女が殺されたと知らされて、こんなにも息が苦しくなるほど辛くなるなんて、思わなかった。

「そこまで、知ってて……なんで、リオを助けてくれなかったの?」

「言っただろう。我々は、世界の管理者。支配者ではない。我々は本来、肉体を持つ者たちの行動には関与しない。ただ、今回のケースのように、世界の均衡が崩壊する危険が生じた場合に限り、その修正のため最低限の干渉が認められているだけだ」

何を言われているのか、理解できない。リオの死に対して何もしなかった自分が、そのことについて誰かをなじっていいわけがないと、わかっている。頭ではそうわかっているのに、どうしても受け入れられなかった。

リオが、死んでしまったなんて。

「わたしも……緒方凪の体も、死んじゃったのかな」

凪の魂がこうしてリオの肉体に入っているということは、元の凪の肉体は空っぽになってしまったということだ。魂の抜けた肉体がどうなるのかなんて知らないけれど、とても無事であるとは思えない。

こんなにひねくれたちっぽけな自分でも、今までそれなりにがんばって生きてきた。

凪は、自分が両親や兄に愛され、大切にされてきたことを知っている。なのに、まだ何も返していない。愛されてばかりで、守られてばかりで、彼らのためにまだ何もできていないのだ。それがひどく苦しくて、虚しかった。

しかし、兄の姿をした人でなしは、あっさりと首を横に振る。

「それが、これもちょっと想定外というか、我々も驚いたことなんだが。今、おまえの元の肉体には、リオの魂が入っている」

「へ?」

無意識に唇を噛んで俯いていた凪は、ぱっと顔を上げた。

「リオは、この世界で殺された。通常ならば、肉体に依存する記憶は引き継がれることなく、その魂は次の新たな肉体に宿るはずだ。だが──おまえの魂を強引に取りこんだ反動なのかな。もしくは、リオの肉体がこうしてまだ生きているからなのか。リオの魂はこちらでの記憶を持ったまま、おまえの肉体に定着している」

「……リオが……生きてるってこと? わたしの、体で?」

ああ、とうなずいた彼が、軽く目を細める。

「さすがに、無事とは言い難いがな。何しろ今言った通り、リオはこちらでの記憶を失っていない。つまり、自分が無惨に傷つけられ、殺された瞬間を覚えている。おまえたちは、まだ十五の子どもだ。とても平静ではいられないだろう」

「でも、生きてる」

たとえ、本来の体とは違う体でも。

生きているのならば、希望はある。

考えろ。

これから、どうすればいい。

どうすれば、リオは救われる。

「わたしたち……もう、元の体には戻れないの?」

「不可能だ。この世界はすでに、おまえという存在を受け入れたことで安定を取り戻しつつある。仮に、これからおまえが死ぬことになったとしても、種子の発芽でほとんど力を失ったリオの魂を、世界が再び求めることはない」

「……そう」

戻れない。帰れない。あの、穏やかで平凡で、幸せだった日々に。

そんなひどいことを突然突きつけられて、受け入れろというのか。

泣き叫びたいのに、心が麻痺をしているようで体が動かない。けれど今、すべてを投げ捨ててうずくまってしまえば、自分は何もできなくなる。

泣くのも、絶望するのも、今じゃない。

考えろ。

自分はまだ、自分の足で立っている。立って歩ける。

ただこの世界の聖女であったというだけで殺されて、きっと立ち上がることも出来ないほど泣いているのは、リオのほうだ。

「リオにも……そのうち、わたしの記憶が全部戻るの?」

「ああ。概ね十日もあれば、魂と肉体の同調は完了するだろう」

なるほど、と凪は両手の指を握りしめた。

凪の体で生きているリオに、凪自身の記憶が戻るというなら──。

「人でなしの世界の管理者。わたしの体に入ったリオに、こっちで辛かったこと……自分が殺されたときのことを、忘れさせられる?」

「本人の同意があれば、可能だ。確認する。──同意確認。リオの魂の記憶から、殺害される瞬間より前六ヶ月間の情報を、表層部分を除きすべて削除。精神状態の大幅な安定を確認した」

まさかの即時対応に、凪は唖然とする。

「対応が早すぎない?」

「現在、こちらと並行してリオの対応に当たっている我々と、情報を共有している。ああ、リオからおまえに伝言だ。──『ごめんなさい。わたしはずっと、優しい家族に囲まれている凪が羨ましかった。今、こんなことになっているのは、きっとわたしが死ぬ瞬間に、次に生まれるなら凪の世界がいいと願ったからです。本当に本当に、ごめんなさい』。以上だ」

唇が、震えた。

リオもまた、凪のことを知っていたのか。同じように、夢の中で凪の人生を眺めて──そして、当たり前のように家族から愛される日常を、羨んでいたというのか。

「……それ、違うんでしょ? わたしたちの体が入れ替わったのって、別にリオのせいじゃないんでしょ?」

「違う。一個体の魂の力で、恣意的に世界を越えることは不可能だ。おまえたちの現状は、あくまでもこの世界の意思によるもの。先ほどのリオの言い分は、死んだはずの自分がおまえの肉体を得たことに起因する、強烈な後悔と自己嫌悪。それにより、極度の判断力の低下に陥った結果の、後ろ向き過ぎる愚かな思いこみだ」

「言い方!」

人でなしに恥じない言いように、凪は地団駄を踏む。頭を抱え、深呼吸をした凪は、世界の管理者を見据えて言う。

「リオに、伝えて」

彼女のことは、好きじゃない。

誰よりも可愛くて素直で優しくて、何ひとつ勝てるところのない『もうひとりの自分』なんて、本当に妬ましくて好きじゃない。

けれど。

「大好き」

好きじゃない。でも、大好き。

まったく、バカみたいに矛盾していると思う。

それでも、今この胸にある全部の気持ちは、どれも絶対に嘘じゃない。

「リオが死ななくて、よかった。……本当に、よかった。こんなの全然、リオのせいじゃない」

だから、願う。

「泣かないで。ちゃんと、高校行ってね。たくさん友達作って、美味しいものいっぱい食べてね。あと、お父さんとお母さんとお兄ちゃんにも、大好きって伝えて。今までたくさん、ありがとうって。わたしは、こっちでがんばる」

リオならきっと、凪の家族を幸せにしてくれる。

そう、信じられるから。

「だから、リオもがんばって。一緒に、がんばろうね」

──凪の記憶がすべてリオのものになるのなら、彼女はこれから『緒方凪』として生きられる。