最後に、ソレイユが凪の首に巻いたのは、丸く小さな銀色の徽章がぶら下がった、黒のリボンチョーカーだ。表面には、剣と翼をモチーフにした図案が描かれていて、裏側の中央には金色に輝く透明な石が嵌まっている。
ソレイユが、少しすまなそうな顔で言う。
「この徽章が、ここでの身分証になってるのね。ただ、ナギちゃんは要保護対象だから、これには位置が捕捉できる魔導術式が組みこまれてるんだ。ナギちゃんが行方不明にならない限り、発動させることはないから、気分が悪いかもだけど勘弁してね」
(へー。GPS機能付きなんだ、これ)
ほとんど重さを感じないのに、すごいものだと感心する。
「いえ。わたしは、部外者ですから。安全管理上も必要な措置だというのはわかりますので、大丈夫です」
彼らに保護してもらったとはいえ、今の凪は不審人物以外の何者でもない。完全に無害な存在だと認められたわけではないのだろう。
「こんなによくしてもらって、申し訳ないくらいですし……。どこかに閉じこめておいたほうが安心だというなら、そうしてください」
立派なお風呂だけでなく、清潔で着心地のいい衣服までいただけたのだ。これ以上贅沢を言っては、バチが当たる。
だがそう言うと、ソレイユの眉間に深々と皺が刻まれた。
「あのね、ナギちゃん。あとで団長から、詳しい話があると思うけど……。ナギちゃんは誘拐事件の被害者で、同時に重要参考人で、全力で保護されなくちゃならない女の子なの。うちで一、二を争う腕利きのシークヴァルトさんを護衛につけたってことは、団長がナギちゃんを絶対に守るって決めたってこと。それだけは、覚えておいてね」
(……誘拐。そっか、そうなるのか)
凪としては、この夢の世界で『目覚める』たび、周囲の情景が異なっているのは当たり前のことだった。だから、あの森にひとりでいたときも特に慌てることはなかったけれど、よく考えてみれば、これ以上ないほど立派な犯罪被害者という立場である。
たしか、騎士団というのは地域の治安維持も担っていたはずだし、犯罪被害者の子どもを無下に扱うというのはあり得ないのだろう。
しかし、だからといってわざわざ護衛をつけてまで庇護するというのは、ちょっとやり過ぎではなかろうか。凪は、なんだか不安になった。
「何か、面倒くさいことに巻きこまれているんだろうな、とは思っていたんですけど……。その、ここのみなさんが捜していたという女の人は、いったい何をして追われているんですか?」
その問いかけは、ソレイユが想定していたものだったのだろう。彼女は少しも考える素振りを見せることなく、口を開く。
「聖女を騙ったんだって」
「……せいじょ?」
なんだかまた、日常生活ではまず聞くことのない単語が出てきた。
目を丸くした凪に、ソレイユは顔をしかめてため息をつく。
「ま、その辺も含めて、詳しいことは団長から聞いてね。……うん、どこから見ても、ぴっかぴかのパーフェクト! どろどろに汚れまくっていた可哀相な捨て猫が、洗ったら真っ白ふわふわの素敵な毛玉だったかのような驚きの仕上がり! 我ながら、いい仕事をした!」
そして、ぐっと親指を立てた彼女が、当然のように抱き上げようとしてくる。凪は、慌てて立ち上がった。少しふらついてしまったけれど、手足の感覚は軽く痺れている程度だ。
ぐっと親指を立て返し、できるだけキリッとした顔で言う。
「大丈夫! もう、歩けます!」
「……えぇー」
なぜかものすごく残念そうな顔をしたソレイユが、わきわきと両手の指を蠢かす。
「遠慮しなくてもいいんだよ?」
「ソレイユさんの力強さは信頼していますが、自分より小柄な女の子に人前で抱っこされるというのは、やっぱり恥ずかしいです。何より、ここから出たらシークヴァルトさんに交代されるのが確実である以上、全力で遠慮させていただきます」
超絶イケメンのお姫さま抱っこは、凪のメンタルをものすごい勢いで削ってくれたのだ。夢は願望の表れだ、なんていうけれど、この夢はリアリティーがあり過ぎて、本当に心臓が止まりそうなのが恐ろしい。夢の中で心不全を起こして死亡など、親不孝にもほどがあるではないか。
ソレイユが、こてんと首を傾げる。可愛い。
「ナギちゃん、シークヴァルトさんが苦手なの? あの人、わりと女の人に人気あるんだけど」
「苦手というか、格好よすぎて心臓に悪いです。遠くから眺めるぶんにはときめくだけで済むかもですが、あの美しいお顔は至近距離で見るものではないと思います」
大真面目に答えると、ソレイユが一拍置いて噴き出した。
「そっかー。あの顔は、心臓に悪いかー」
「はい。わたしはまだ、死にたくありません」
切実な凪の主張に、どうやらソレイユは納得してくれたらしい。それでも、手を繋いでの歩行介助は譲ってもらえなかったけれど、お姫さま抱っこよりは遙かにましだ。
踵の低い編み上げのショートブーツは、思いのほか軽くて履き心地がいい。ゆっくりではあるけれど、自力で歩けることに、心底ほっとする。
「辛かったら、遠慮なく体重かけてくれていいからね」
「ありがとうございます」
そうして浴場を出ると、壁に背中を預けて立っていたシークヴァルトがこちらを見た。彼は凪の姿を確認するなり、目を見開いて凝視してくる。そんな彼に、凪の手を引いていたソレイユがふんぞり返って口を開いた。
「どう!? シークヴァルトさん! キレイになったでしょう、見違えたでしょう、とってもとっても可愛いでしょう!」
「……オレは今、遠目にちらっと見ただけで、こいつにぴったりの服と靴を用意したこの屋敷のメイドたちに、そこはかとない恐怖を感じている」
あくまでも真顔で応じるシークヴァルトに、ソレイユが半目になって言う。
「そういうとこですよ、シークヴァルトさん。だからあんたは、見た目のわりにモテないんですよ」
「やかましい」
シークヴァルトが、ぎろりとソレイユを睨みつける。それから一呼吸置いて、彼は改めて凪に視線を向けた。
「歩けるようになったんだな。よかった」
「はい! お手数おかけしました!」
元気ですよー、もう自分の足で歩けますよー、と握りこぶしで主張する。そんな凪の様子を確認し、シークヴァルトはソレイユに言う。
「厨房の連中が、こいつに何を食わせればいいのか、悩んでる。おまえ、ちょっと向こうに行って、アドバイスしてこい」
「やったー! ……じゃない、了解しました! じゃあナギちゃん、またあとでね!」
引き留める間もなく、喜色もあらわにぴょんと跳びはねたソレイユが、あっという間にどこかへ消えた。
呆然とする凪に、シークヴァルトが気遣わしげに声を掛ける。
「無理はしなくていいからな。……あー。ナギ、って呼んで構わないか?」
「え? あ、はい」
突然の名前呼びに、つい動揺してしまう。
生まれてこの方、彼氏という嬉し恥ずかしい存在ができたことのない凪にとって、自分を名前で呼ぶ男性といえば、同居家族に限定されている。
どうやらお姫さま抱っこは回避できたようだが、イケメンとふたりきりというのは、それだけで充分すぎるほど緊張する事態なのだ。名前呼びの衝撃と相俟って、なんとも身の置き所がない気分である。
シークヴァルトが、小さく笑う。
「そうか。そう言えば、自己紹介もまだだったな。シークヴァルト・ハウエルだ。オレのことは、シークヴァルトでも、ヴァルでも、好きなように呼べばいい」
「………………ハイ」
超絶イケメンは、不用意にほほえんではいけないと思う。主に、その直撃を食らった一般市民の心臓のために。
もしかしたら、お姫さま抱っこがなくても、心臓への負担が減るわけではないのかもしれない。そんな切ない事実から目を背けつつ、凪は促されるまま歩き出す。
(今のわたしのトロくさい歩調に、ちゃんと合わせてくれるとか……。イケメンは、行動までイケメンなのか)
浴場への道中でも思ったけれど、やはり迷路のような造りの建物だ。そういえば、城塞として使われる貴族の館は、敵から攻めこまれたときの対処として、わざと複雑な構造にしているとどこかで聞いた。ここ──たしか、レディントン・コートといっただろうか。この館が魔導騎士団の団長であるアイザックの所有物だというなら、この複雑さもきっとそういうことなのだろう。
(アイザックさんのフルネームは……うん、覚えてない)
ソレイユが熱弁していた彼の筋肉への賛辞ならば、少し覚えているのだけれど。アイザック自身も、あれだけ立派な筋肉の持ち主なのだから、きっと筋肉には並々ならぬこだわりがあるに違いない。
見た目は素晴らしい筋肉マッチョ、中身は最高に礼儀正しいジェントル貴族。……これが、ギャップ萌えというやつだろうか。正直、推せる。
それからいくつかの廊下と階段を通過して、自分が何階にいるのかもわからなくなった頃、ようやくシークヴァルトが足を止めた。ぴかぴかに磨き上げられた重厚な扉には、獣の頭部を模した真鍮製のノッカーがついている。
「団長。ナギを連れてきたぞ」
「ああ。入れ」
そして扉が開かれた瞬間、凪は目を丸くした。
豪奢極まりない室内にいたのは、マッチョ紳士な騎士団長のアイザック。凪が英語科目の擬人化だろうかと疑った、金髪碧眼のノーブル系美青年。そして、ソレイユと同じ制服を着た──たしか、セイアッドと呼ばれていた日本人カラーの美少年だ。
彼ら三人が囲む大きなテーブルに広げられた地図は、どうやら魔導具であるらしい。図上のあちこちが光っていて、その光が点滅したり移動したりしている。
そんな面白地図への興味は尽きないが、室内のどこへ視線を向けても、顔面偏差値の高すぎるイケメンがキラキラしていて、凪は思わず「目が! 目がー!」と現実逃避をしたくなった。しかし、今更不審人物判定をされたくはないので、どうにか堪える。
こちらを見た三人が、揃って目を見開いて凝視してくる様子に既視感を覚えつつ、軽く頭を下げて礼を述べる。
「お風呂と着替えを、ありがとうございます。本当に、助かりました」
「……ナギ嬢? かい?」
アイザックに確認するように問われ、凪は小さく苦笑する。
「はい。わたしもさっき、お風呂の鏡で自分を見たら、汚れすぎていてびっくりしました」
「そ……そうか。うん。たしかに、先ほどのきみはひどい汚れようだったな。うん」
どうやら、自分が保護した相手のハイパーな美少女っぷりに、かなり動揺しているようだ。気持ちはわかる。
(リオは、いわゆる『無自覚天然美少女』だったけど、わたしは今の自分が客観的に美少女だって理解してるからなー。ていうか、自分目線だったからリオが何をしても生暖かく見守ってたけど、ぶっちゃけ『無自覚天然』って地雷です。背後から助走をつけて、全力のハリセンで頭をはっ倒したくなります。──ので、わたしはあくまで通常運転でいかせていただきます)
一通り自己分析をしたあと、凪はひとまず『今の自分は大変な美少女である』という事実から、全力で目を背けることにした。『美少女であることを自覚したガワだけ美少女』など、痛々しすぎて無自覚天然美少女よりも地雷である。
そろそろ本気で目を覚ましたくなってきたけれど、目覚めるタイミングを選べないのが夢というものだ。この夢で『目覚めた』当初は、体を自分の意思で動かせることに驚喜していたが、いい加減に面倒くさくなってきた。
ぼんやりとそんなことを考えていると、テーブルから離れたアイザックが、窓辺の応接セットを示して言う。
「少し、そちらで話をしよう。──ライニール。セイアッド。おまえたちは、そのまま第二部隊と第三部隊のフォローを続けてくれ」
金髪碧眼の美青年と、日本人カラーの美少年がうなずく。金髪碧眼の美青年は、ライニールという名前らしい。
いかにも魔術を使っているような彼らの様子に、好奇心でうずうずしてしまうけれど、凪は空気を読める日本人だ。アイザックの誘いに素直にうなずき、煌びやかな布張りのソファーに腰掛ける。
シークヴァルトが、当然のように自分の隣に落ち着いたことについては、諦めの境地で黙って受け入れることにした。そして、今更気がついたが、イケメンはいい匂いがする。
(おふう……なんかシークヴァルトさん、めっちゃいい匂いするでござるぅ……。さっきまでは、やっぱり鼻が麻痺していたのかなー。それだけ、自分が臭かったってことか。そんな臭さで、こんないい匂いがするイケメンに抱っこされてたとか、何それ羞恥で軽く死ねる)
軽やかに窓から飛び立ちたくなった凪に、アイザックが穏やかな声で語りかけた。
「では、ナギ嬢。これから、きみに今の状況を説明させてもらおうと思うのだが……。その前に、きみから何か聞きたいことはあるかね?」
低く落ち着いた彼の声には、それを聞いた者の気持ちを静める力があるのかもしれない。深呼吸をする余裕ができる。
少し考えた凪は、膝の上で指を握って口を開いた。
「聞きたいこと、ではないのですが……。わたしに現状を説明していただけるのでしたら、ひとつお願いしたいことがあります」
「ほう。何かね?」
柔らかく促すアイザックに、ちらりと窓のほうを見てから凪は言う。
「外の様子からして、今は春先なのだと思います。けれど、わたしがあの森で目覚める前のことで、最後に覚えているのは秋の恵みの感謝祭なんです」
「……ああ、そうか。やはり、そうなのだね」
それまで穏やかな微笑を浮かべていたアイザックが、軽く眉根を寄せる。
「ここ半年ほどの間に何があったのか、わたしは何も知りません。……いろいろ、わたしが覚えていることと、あなた方がおっしゃることの間に、齟齬があるようにも感じています」
ですから、と凪はアイザックの目を見て告げた。
「もし、この半年の間に、何かとても大きな変化が世の中にあったのだとしたら、それについても教えていただけると助かります」
今回、この夢の中で『目覚めた』ときから感じている、さまざまな違和感。ひとつひとつは小さなものでも、いくつも積み重なれば、明確な居心地の悪さに変わってくる。凪はさほど細かいことを気にするタチではないけれど、せっかく自分の意思で行動ができるのだ。どうせならば、スッキリとした気分で楽しく夢を見ていたい。
そんな凪の願いに、アイザックは少しの間考えるようにしたあと、やがてうなずき顔を上げた。
「了解した。──では、ナギ嬢。まずは、去年の秋頃から現在までに起こったことを、順に説明させてもらうことにしよう。その上で、今後きみがどうしたいかを決めてもらいたい」
「はい。ありがとうございます」
凪は、どこまでも純粋でお人好しな『リオ』のことは、正直あまり好きではない。嫌いとまではいかないのだが、どちらかと言えば苦手なタイプである。
それでも、幼い頃からずっと『夢の中の自分』として、決して短くない時間を共有してきたのだ。その『自分』を血で穢し、森の奥へゴミのように捨てた何者かに対する怒りは、間違いなく凪自身のものである。もし、凪に馬の合わない姉妹がいて、その姉妹がリオのような目に遭わせられたなら、こんなふうに思うのかもしれない。
(うん。犯人を見つけたら、ぐるぐる巻きにして体の自由を奪った上で、家畜の食肉処理場でもらってきた血をぶっかけて、わたしと同じサイテーな気分を味わってもらおう)
ハンムラビ法典が今どこにあるのかは知らないけれど、夢の中で適用したところで、誰に迷惑をかけるわけでもないだろう。
助走をつけて全力でぶん殴る、というのも、できればやってやりたいところである。しかし、非常に残念ながら、極度の運動音痴な上になんの鍛錬もしていない少女の細腕では、さほどダメージは与えられなさそうだ。その点、頭から大量の血をぶっかけられた場合の不快さは、凪自身が身をもって確認済みである。
目には目を、歯には歯を。そして、血には血を。
どこかのアブない思想家のようなことを考えながら、表面上はあくまでも真顔をキープしている凪に、アイザックは静かな口調で語り出した。
「ちょうど、去年の秋の終わりのことだ。この大陸のあちこちで、大規模な地脈の乱れが起こりはじめたのだよ」
「え?」
魔力には、大まかに分けてふたつの種類がある。
ひとつは、魔導士が生まれながら保有している、
それらの中でも、大地の奥深くを流れる膨大な自然魔力のことを、地脈といった。そして、地脈の流れに沿って濃縮された自然魔力が鉱石化したものを、魔導鉱石と呼ぶ。それらを精製することで、人々の生活に役立つ魔導結晶を手に入れられるのだ。そのため、どの国でも地脈の流れを把握するのは、最優先課題とされていた。
その地脈に乱れが生じるなど、凪は今まで聞いたことがない。アイザックが、眉根を寄せて言う。
「他国の被害が甚大な地域では、魔導石鉱脈の融解という事態が生じている。今のところ、我が国の地脈の乱れは市民生活に影響が出るほど顕著ではないが、決して看過できるものではない」
凪は、驚いた。
この世界で唯一のエネルギー資源といえる、魔導結晶。高位の魔導士の中には、己の保有魔力を結晶化させることができる者もいるらしいが、それはほんのわずかな例外だ。
市民生活の基盤となっている魔導結晶──その大元となる魔導石鉱脈の確保が、各国の国力に直結しているといっても過言ではない。その魔導石鉱脈が融解などということになれば、それこそ国家の一大事である。
「事態を重く見た王宮は、地脈の乱れに関するあらゆる事象の調査と対処のため、我々魔導騎士団を設立した。我々の主な任務は、乱れた地脈の流れにより被害を受けた土地の、現状確認。そして、そういった土地の乱れた魔力に影響されて凶暴化した、魔獣の討伐だ」
「まじゅう」
やはり、突然ファンタジックな単語を放りこまれると、一瞬意味を把握し損ねる。
幸い、魔獣という存在についての知識は、わずかながら一応あった。たしか、自然魔力が豊富に満ちる場所で発生するとされている、種族固有の魔術を操る獣のことだ。彼らは総じて非常に美しい姿と高い知性、そして人間の魔導士よりも遙かに膨大な魔力を保有している。それゆえ、滅多に人と馴れ合うことのない、誇り高い生き物であるとされていた。
そんな魔獣たちが、いきなり凶暴化したなら──と考えた凪は、その恐ろしさに青ざめた。
「それって……とっても危険なことなんじゃ」
「ああ、そうだ。だが、凶暴化した魔獣たちは、哀れなことに知性も理性も失っているのが大半だ。こちらが冷静に対処すれば、討伐することは不可能ではない」
哀れ。
凶暴化し、おそらく人々を襲う危険があるのであろう強大な獣を、アイザックは
……彼の立場で、それが正しいのかはわからない。だが、その気持ちは理解できる気がした。本来、命を奪う必要のない存在であったものを殺すのは、きっととても辛いことだから。
「その……凶暴化してしまった魔獣を殺すのではなくて、元の状態に戻すというのは、できないものなんですか?」
悲しい気持ちになった凪の問いかけに、アイザックは難しい顔になる。
「どんなに高位の魔導士でも、自然魔力の流れに干渉することはできない。それができるのは、聖女だけなのだ。聖女たちだけが、この世界に満ちる自然魔力の乱れを整えられる。だから、どこの国でも聖女の存在が確認されれば、国を挙げて保護することになっている」
凪の脳内では、すでに『魔力を貯め込む魔導結晶は、超高性能の電池です』という図式が完成していた。そこにいきなり『聖女』という浮世離れした単語がぶち込まれ、若干混乱してしまう。
(そういえばソレイユさんが、わたしを身代わりにして捨てたかもしれない女の人が、聖女を騙ったとかなんとか言ってたような?)
「そして、凶暴化した魔獣の被害が各地から報告されはじめた頃、我が国の聖女として認定された女性がいた。それが、ユリアーネ・フロックハート侯爵令嬢。──ナギ嬢。その聖女を騙った令嬢を捜していて、我々は森できみを発見したのだ」
ソレイユに聞いたときにも思ったが、なんだか意味がわからない。首を傾げた凪は、軽く挙手して口を開いた。
「……えぇと? お話の途中に、すみません。聖女さまって、世のため人のために何か立派なことをしたから、神殿の総本山にその功績を認められて、そう呼ばれるんですよね?」
まったく詳しくはないのだが、凪の認識している『聖女』というのは、みな一神教の教義の中で、その名に相応しい存在であると世に認められた女性たちだ。たしか、ジャンヌ・ダルクやマザーテレサがそう呼ばれていたと思う。
さまざまな奇跡や社会貢献を為し、多くの人々を救った立派な女性が、聖女と呼ばれるのは納得できる。しかし、なんの実績もないというのに、ただ珍しい能力を持って生まれたというだけで『聖女』と呼ばれるのは、おかしな話だ。
ならば、と凪は首を傾げる。
「その女性──ユリアーネさん? は、地脈の乱れをどうにかしたから、聖女と認められたのでしょう? だったら、騙るも何もないんじゃないですか?」
聖女と呼ばれるようになった以上、それは必ず何かしらの実績があってのことのはずだ。
そう言うと、アイザックは少しの間のあと眉間に拳を当てて俯いた。
「まったく、その通りだ。実際、どんな仕掛けを使ったものなのか、ユリアーネ・フロックハートはその歌で、地脈の乱れに影響され、濁ってひび割れた魔導鉱石を、見事に元通りにしてみせた。本人が逃亡してしまったため、そのからくりはいまだ不明だが……。現在、王立魔導研究所の魔導士たちが、全力で当時の記録を解析しているところだ」
「歌? ですか?」
ああ、とアイザックがうなずく。
「聖女のみが使える固有魔術、というものがあってね。その中でも、最も効果が高く広範囲に使用できるものが『聖歌』なのだ。私は実際に見たことはないのだが、聖女が歌えば、その周囲の自然魔力はすぐさま滞りなく調和しはじめ、凶暴化した魔獣すら理性を取り戻すことがあったという」
「あ、そうなんですか。だったら、ユリアーネさんが聖女さまの偽物でも、ほかの聖女さまに歌ってもらえば大丈夫ですね。音響系の魔導具に録音したものを、地脈の乱れが起きているところで流しまくれば、一発ですもん」
何やら大変な事態が起きているような雰囲気だったけれど、すでに解決策があるのならば、なんの問題もない。
不安になって損をした、と思っていると、なぜかアイザックがものすごくしょっぱいものを食べたような顔になっている。次いで、突然何かに気がついたかのように、大きく目を見開いた。
「アイザックさん? どうかしましたか?」
「いや……残念ながら、今の我が国に聖女と認められている女性は、存在しない──はず、なのだが」
強張った表情で言い澱むアイザックに、それまで黙っていたシークヴァルトが、低く鋭い声で言う。
「団長。ユリアーネ・フロックハートが本物の聖女を確保した上で、自分が聖女だと騙ったんだとしたら、いろいろと辻褄が合うんじゃねえのか。もちろん、『不世出の天才魔導士による聖歌の再現』という線も消えるわけじゃないが……。希望的観測を含めたとしても、可能性がゼロじゃない以上、その対処は検討するべきだ」
「……ああ。その通りだな」
うなずいたアイザックが、テーブルのほうに向けて命じる。
「ライニール。セイアッド。第二部隊と第三部隊に伝達を。対象を発見した場合、必ず生きた状態で確保せよ、と」
「了解」
「申し訳ない、ナギ嬢。少しの間、失礼する」
こちらを窺っていたらしいふたりが即座に応じ、アイザックもまた通信魔導具を使ってどこかに連絡を取りはじめる。凪は、内心で力いっぱい絶叫した。
(今まで、普通にデッドオアアライブだったんデスカー!? 怖いよ! 最初にこのヒトたちに会ったとき、即バッサリされなくて、本ッ当によかったあぁあああーっっ!!)
ガクブル状態で青ざめた彼女に、ひとつ息を吐いたシークヴァルトが言う。
「ナギ。聖女ってのは、そう簡単に生まれるものじゃない。実際、今の時点で聖女を確保しているのは、中央のレングラー帝国と、南のスパーダ王国の二国だけ。地脈の乱れは、大体三十年から五十年周期で発生するが、そのたび現れる聖女は、大陸全体で平均して五人か六人。少なければふたり。記録に残っている最大人数でも、七人だけだ」
「そうなんですか?」
それは、思っていたよりもずっと少ない。音響系の魔導具への『聖歌』の録音も、たった数人で担うとなると、なんだかものすごく大変そうだ。
シークヴァルトが、顔をしかめてため息をつく。
「あの女──ユリアーネ・フロックハートが、乱れた自然魔力を整えて見せたのは、聖女認定の儀のときのたった一度きりだけだった。おまえは、聖女の歌を音響系の魔導具に録音すればいいと言ったが、『聖歌』は聖女の膨大な力がのった歌声を、フルパワーで長時間放出し続けているようなものなんだ。それだけの出力に耐えられる魔導結晶なんざ、いくら侯爵家でもそうそう用意できるもんじゃない」
魔導具が発動できる力の大きさは、基本的に内蔵する魔導結晶の大きさに比例する。
また、一般的に流通している生活魔導具には、国の定めた製造管理基準により、必ず安全回路が組みこまれているのだ。そのため、魔導具に使用されている魔導結晶から、規定量以上の魔力が放出されることはない、とされている。
だが、どんなに安全を謳っている道具でも、百パーセントということはありえない。魔力の過剰放出で魔導具が壊れたり、魔導結晶が融解したりという事故は、凪も何度か耳にしたことがあった。
「だから、普通は聖女の歌を魔導具に録音しようなんて考えない。そもそも技術的に高難度過ぎて、試してみる気にもならないものなんだ」
(ハイ。無知なガキんちょが生意気を言って、本当にスミマセンでござる)
己の浅はかさにしょんぼりした凪に、シークヴァルトが続けて言う。
「だがもし、あの女が本物の聖女を秘密裏に確保して、その力を利用していたなら──それは、国家反逆にも相当する大罪だ。国を、いやこの大陸そのものを救える唯一の力を、己の私欲のために秘匿していたんだからな」
「……そう、なんですか」
基本的に平和で落ち着いた国で生まれ育った凪にとっては、いまいち理解しがたい感覚だ。けれど、聖女というのがこの世界でものすごく重要な存在であることだけは、ひしひしと伝わってくる。森にポイ捨てされていた自分とは、なんという違いであろうか。
シークヴァルトが、ひょいと肩を竦める。
「まあ、聖女を騙った時点で、王族への虚偽申告を筆頭に、数え切れないほどの重罪のオンパレードだったんだ。どう足掻いても、死罪は免れないだろう」
先ほどまでのデッドオアアライブ状態も、それなりの理由があってのことだったようだ。つくづく、彼ら魔導騎士団との出会い頭に、切り捨て御免をされなくてよかった。凪は密かに胸をなで下ろす。
同時に、少し不思議に思う。
「ユリアーネさんが聖女を騙ったっていうのは、どうしてわかったんでしょう?」
王宮の考え方というのはわからないけれど、神殿のものの考え方ならば、少しはわかる。彼らはとにかく、非常に格式やメンツというものを重んじるのだ。一度正式に聖女と認めたのならば、よほどの証拠がなければ、彼らはその決定を覆すことはしないはずである。
「あの女は聖女認定の儀をクリアしたあと、八度現場に出たんだが、いずれも地脈の乱れの解消に失敗している。そのたび、調子が悪いだなんだと言い訳していたが、さすがにおかしいという話になってな」
うわあ、と凪は目を丸くする。
「周りのみなさん、八回もユリアーネさんの失敗にお付き合いしたんですか?」
仏の顔も三度までだというのに、ちょっと心が広すぎるのではあるまいか。
「聖女がいる国は、そうでない国に比べて、地脈の乱れが大幅に抑えられているものなんだ。すでに魔導石鉱脈の融解がはじまっている国もある中、この国はいまだに魔獣の凶暴化だけで済んでいる。だから元々、この国に聖女が生まれている可能性は高いだろうと言われていた。もしそうじゃなくても、王宮側は──いや、国中の誰もが、聖女の出現を切望していたんだ。実際、過去には能力の発現に関して、非常に波がある聖女も存在していたしな。……みな、簡単には諦め切れなかったんだよ」
ひどく苦々しげに、シークヴァルトが言う。
たしかに、どんな方法を使ったにせよ、ユリアーネ・フロックハート嬢が一度でも地脈の乱れを解消する力を見せたなら、彼女に聖女の能力があるということを誰も疑わないだろう。
そして、希望を抱いたはずだ。
これでもう、何も心配することはない。今まで通りの穏やかな暮らしを、
だがその希望は、無惨に打ち砕かれて絶望に変じた。
この国の王宮と神殿が、『偽物の聖女を認めた』という恥辱とともに。
「最終的に、あの女の言葉がすべて嘘だったことを、国王陛下自ら魔術で確認して──ああ、おまえが森で団長に使われたやつな。それでようやく神殿側も、自分たちが騙されたことを認めるしかなくなった」
シークヴァルトが、ため息を吐く。
「そこまできて、みなやっと諦めることができた。だから……まさか、あの女とは別の、本物の聖女がこの国にいるかもしれない、なんて。誰もそんな、都合のいい希望を持つことはできなかったんだ」
また、新たに希望を抱くには、みな絶望しすぎていたから。
ひどく複雑な表情で、シークヴァルトが凪を見た。彼のゆっくりとした話し方は、そうやって言葉にすることで、自分の考えを検証しているように聞こえる。
「だが、おまえの言ったとおり、聖女の歌声を音響系魔導具に録音することができれば、地脈の乱れを整えることは可能だったかもしれない。多少大型の魔導具になったとしても、聖女のズルズルした衣装なら、それくらい隠せたはずだしな」
「なんだか……行き当たりばったり感が凄すぎですね」
地脈の乱れに干渉できるのが聖女だけだというなら、おそらくシークヴァルトの推察は当たらずとも遠からずというところなのだろう。だからこそ、今更ながらに同じ考えに至ったアイザックたちが、聖女を騙ったユリアーネ・フロックハートを、生きたまま捕らえようとしている。もし本当に聖女が存在していたなら、彼女がその居所を知っている可能性が高いから。
そこで素朴な疑問を覚えた凪は、シークヴァルトに問いかける。
「聖女さまがいない場合、どうやって地脈の乱れに対処するんでしょう?」
「他国にいる聖女に、多額の報酬を払って来てもらうしかない。聖女を擁する国は、ここぞとばかりにふっかけてくるだろうな」
大陸に二人しかいない聖女のレンタル料となれば、それはたしかにとんでもない金額になるに違いない。需要と供給のバランスが、悪すぎる。
現在、聖女を確保しているのは、中央のレングラー帝国と、南のスパーダ王国。いずれにせよ、聖女による救済が真っ先に施されるのが、自国の領土になるのは当然だ。彼らが聖女を国外に派遣するのは、そのあと──さらに言うなら、彼の二国はそれぞれの友好国を優先するだろう。つまり、聖女を擁する二国と交流のない国に、その救いの手が差し伸べられるのは、相当先のことになる。
「レングラー帝国とスパーダ王国のどちらかと、この国は仲よくしているんですか?」
凪の問いかけに、シークヴァルトが苦笑する。
「レングラー帝国の現皇帝は、常に領土を広げようとしている国粋主義の野心家だ。スパーダ王国は、かなり独自の文化体系を持つ国で、他国との交流は最低限。当代国王も、かなり排他的な御仁だな」
「ハエたたき?」
それはいったいどんな人物なのだろう、と首を傾げた凪を、なぜか目を見開いたシークヴァルトがまじまじと見つめてくる。それから、ふっと視線を逸らした彼は、ぼそぼそと口を開いた。
「……排他的、だ。スパーダは大陸の南端にある大国だが、他国との境界が広大な砂漠であることもあってな。交易はそれなりにあるものの、民間レベルの交流がほとんどない国なんだ」
「そうなんですね……すみません。一瞬、王冠を被った成人男性が、両手にハエたたきを構えて格好良くポーズを決めている姿を想像してしまいました」
聞き間違いを詫びた凪だったが、その途端シークヴァルトに、思い切り顔を背けられてしまう。同時に、少し離れたところから、ごふっという奇妙な音が聞こえた。そちらを見ると、テーブルのそばで作業中だったらしい金髪碧眼の美青年──ライニールが、片手で口元を覆ってぷるぷると震えている。
おや、と思って視線を戻すと、シークヴァルトも同じように顔を赤くして、細かく肩を揺らしていた。どうやら、笑いを堪えているらしい。
一方、マッチョ紳士なアイザックは困ったように苦笑しており、日本人カラーのセイアッド少年はわずかに眉根を寄せているだけだ。
よくわからないが、どうやら『ハエたたきを構えたスパーダ国王』という概念が、シークヴァルトとライニールの笑いのツボに嵌まってしまったらしい。
それにしても、と凪は思う。
(この世界の聖女さまって、ガチで国防と経済の要なんだなー。そりゃ、どこの国でも欲しがるわけだ)
凪が知っている聖女たちは、基本的に『貧しい民衆のために、命がけで頑張った女性』であったと思う。中には、時の権力者の意思に反した行動をした者もいたはずだ。
しかし、この世界における聖女は、ひたすら実利的な意味で、誰もが欲しがる存在である。何しろ聖女を手に入れた者は、富と安寧を約束されるのだ。聖女と認められれば、国から丁重に保護されるということだし、聖女を騙った女性もそういった特典に目がくらんでしまったのだろうか。
(でも、いくら裏技を使って聖女認定されたとしても、それが継続できなきゃ意味がないわけで。実際、ニセモノだってばれちゃってるわけだし。……本当は、もっとちゃんと聖女のお仕事をできる予定だったのかな?)
今のシークヴァルトたちは、『本物の聖女がこの国のどこかにいる』という可能性に、だいぶ気持ちが行っているようだ。しかし、もし聖女という生物兵器──もとい、巨大な金の卵がいなくても、地脈の乱れをなんとかできる技術が確立できたなら、そちらのほうがよほど商売として手広く行えそうな気がする。
そんなことを考えているうちに、シークヴァルトとライニールは、笑いの発作から解放されたようだ。スパーダ王国の国王というお方は、そんなにハエたたきが似合わない御仁なのだろうか。庶民的で、けっこう親近感を抱けると思うのだけれど。
シークヴァルトが、ひとつ咳払いをしてから口を開く。
「あー……悪かった。笑うつもりは──」
「ハエたたきを構えたスパーダ国王」
真顔で追い打ちを掛けると、ぶはっ! と、笑いのツボにはまったふたりが同時に噴き出す。
「お……おまえなあ……っ!」
「すみません。わたしの中の、笑いを提供したい欲を抑えられませんでした」
凪はあまり面白みのない性格をしているので、こんなふうに笑ってもらえるというのは貴重な体験なのだ。よって、反省はしているが後悔はしていない。
ほう、と胸に手を当てて息を吐く。
「ありがとうございます。これでもう、思い残すことはありません」
「おまえは、何を言っているんだ」
シークヴァルトが、半目になってツッコんでくれた。嬉しい。
凪が生まれてはじめていただいたツッコミに感動していると、軽やかなノックの音が響いた。アイザックが許可を出すと、豪華なティーセットと軽食をのせたワゴンを押したソレイユが現れる。
「失礼しまーす! お待たせ、ナギちゃん! 厨房の先輩方の力作だよー! いっぱいあるから、遠慮なく食べてね!」
弾むような声で言うソレイユの笑顔が、大変眩しい。そして、ワゴンの上の軽食も、大変華やかで美しかった。
小さく切り分けられた三種類のサンドイッチに、くるみのスコーン。添えてあるのは、ベリー系と思われるフルーツソースに、クロテッドクリーム。スープカップでほかほかの湯気を立てているのは、野菜のポタージュだろうか。四種類もあるプチケーキは、どれも繊細な見た目が可愛らしくて、食べてしまうのが惜しいようだ。
(って、今ソレイユさん、先輩って言った?)
それはまさか、この乙女が全力でときめきそうな軽食を作ったのが、戦闘行動が本職であるマッチョな騎士さまたちだということだろうか。
たしかに、料理とは体力勝負のものであると聞く。けれど、大変美味しそうなだけでなく、目にも美しい品々を前に、思わず『騎士……とは?』と考えこんでしまう。
そんな凪に、手際よくテーブルに軽食の皿を並べていったソレイユが、何やら恐る恐る問うてくる。
「ナギちゃん? どうかした、かな?」
「え? あ……すみません。こんなにきれいな食べ物を見たのは、はじめてなもので……。つい、見とれてしまいました」
これは間違いなく、SNSに載せたらものすごく反響がくるやつだ。芸術品と言っても、決して過言ではないと思う。
すごいなー、キレイだなー、とウットリしながら眺めていると、シークヴァルトがひとつ息を吐いてから口を開いた。
「ナギ。これはむさ苦しい野郎どもが作ったもんだが、味は悪くないはずだ。苦手なものがあったら残していいから、まずは食ってみるといい」
(あ、やっぱりこの芸術品は、むさ苦しい騎士のお兄さま方が作ってくださったものなのですね)
若干、微妙な気分になったものの、せっかく味のあるものを食べられそうなのだ。ありがたく『いただきます』をしようとした凪は、自分の手がごく自然に指を組み合わせる形になったことに驚いた。これは、リオが毎日行っていた食前の習慣である。どうやら、この体に染みついている習慣は、無意識にでてくる仕様らしい。
違和感がないとは言わないけれど、特に困るようなことでもない。まあいいか、と目を閉じ、そのまま胸の内で『いただきます』をする。
しかし、目を開いてみても、シークヴァルトもソレイユも軽食に手を付ける様子がない。アイザックたちは再び忙しそうな様子なのでいいとしても、よそ者の分際で真っ先に食べ物に手を伸ばすのは、さすがに躊躇われる。どうして食べないのだろうとシークヴァルトを見つめると、不思議そうに見つめ返された。
「どうした?」
「……あの、おふたりは食べないんですか?」
シークヴァルトが、当然のことのようにうなずいて言う。
「これは、厨房の連中がおまえのために作ったもんだからな。連中の許可なく勝手に手を出したら、命が危ない」
(ええー)
凪は呆気にとられたが、ひとりがけのソファーに腰を下ろしたソレイユも、うんうんとうなずいている。ここの人々は、安易に命を危険に晒しすぎではなかろうか。
大体、そうは言われても、すぐそばに人がいるのにひとりだけ美味しいものを食べるなど、食欲が湧かないにもほどがある。ソレイユに視線を移しても、にっこりと笑ってテーブルの上を示されるだけだ。
困った凪は、へにょりと眉を下げて口を開いた。
「すみません。おふたりとも、今はお腹がいっぱいで何も食べたくない、というのではないのでしたら、一緒に食べていただけませんか? こんなにたくさん美味しそうなものがあるのに、わたしひとりで食べるというのは、ちょっと……落ち着かないです」
落ち着かないというより、むしろいたたまれなくて罰ゲームレベルである。
軽く目を
「そうか、わかった。──ソレイユ、おまえも食っていいぞ」
「え!? いいの!? ホントに!?」
ぱあっと顔を輝かせたソレイユに、シークヴァルトが人の悪い笑みを浮かべて見せる。
「ああ。連帯責任ってやつだ」
「違いますー! わたしはただいま上官の許可をもらったので、無罪です! うわー、嬉しい! 厨房でつまみ食いさせてもらったけど、全部めちゃくちゃ美味しかったんだよねー!」
シークヴァルトが、半目になった。
「この数を全種類食ったのに、まだ食えるのか……」
「いくらでも入りますとも! 若いので!」
そうして、元気と食欲がいっぱいのソレイユにつられるように食べはじめた軽食は、どれも本当に美味しいものばかりだ。
サンドイッチに挟まれているのは、ミルク煮にした白身魚の身をほぐして、みじん切りにしたほうれん草と和えたもの。ふわふわのチーズオムレツ。ちょっぴりスパイシーな牛肉のホロホロ煮を交ぜたポテトサラダ。熱すぎないスープは、優しい野菜の甘みと香りがふんわりと広がる。
あまりの美味しさに、どれも食べるたびにびっくりしてしまう。そして何より感じ入るのが、厨房でこれらの軽食を作ってくれた人々の気遣いだ。
おそらく、凪が普通の食事に慣れていないことを知らされて、いろいろと工夫をしてくれたのだろう。用意されたすべてが柔らかな食感で、消化によさそうなものばかりだ。
食後の紅茶も、芳醇でありながらスッキリした香りが実に素晴らしい。素晴らしすぎて、『これが本当の紅茶だというのなら、今まで紅茶だと思って飲んでいたものは、いったいなんだったのかッ!』と、料理漫画のような台詞がリアルに脳裏に浮かんでしまった。
だが、空腹だったところに美味しい料理を詰めこんだからなのか、それとも単純に体力の限界だったのだろうか。
(ね……眠い……)
一通り軽食を食べたあと、急激に襲ってきた猛烈な眠気に、危うくティーカップを落としてしまいそうになる。それに気づいたらしいシークヴァルトが、ひょいと凪の手からティーカップを取り上げた。
「疲れているんだろう。少し、寝てくるといい。ソレイユ、ナギを客室につれていってやれ」
「え、あ……いや、すみません。大丈夫です、起きてます……」
アイザックの用事が済んだら、改めて彼の話を聞かなければならないのだ。それを待たずに、ぐーすか仮眠を取らせてもらうなど、失礼にもほどがある。
今にも上下の瞼がくっつきそうな目をこすりながらそう言うと、シークヴァルトが小さく笑う。
「何があったのか覚えていなくても、おまえがかなり大変な目に遭ったのは間違いないんだ。団長の話を聞いたところで、そんな寝ぼけた頭じゃきちんと考えられないだろ。無理をしたって、いいことなんて何もない。いいから、少し休んでこい」
「……はい。ありがとう、ございます」
なんだか眠すぎて、考えるのも面倒になってきた。どうせ、ここは夢の中。次に目が覚めたときには、きっと自分の小さな部屋だ。
そうして、半分以上寝ぼけながらソレイユに案内された豪華な客室の、これまた豪華な天蓋付きベッド。どうにかワンピースを脱いで椅子の背もたれに掛け、ぽふんとベッドに倒れこむ。おやすみ一秒で、凪の意識は闇に溶けた。
***
「いやあぁああああっっ!!」
ガラス細工が粉々に砕け散るような、少女の絶叫。
真夜中の空気を引き裂いたそれは、聞く者の胸まで引き裂くようだ。
「いや! いや、いやああああっ!!」
「どうした、凪!?」
末娘の高校合格祝いで、しばらくぶりに家族全員が揃っていた緒方家が、突如として騒然とした雰囲気に包まれる。
シンプルながらも可愛らしい雰囲気で統一された少女の自室に、真っ先に飛びこんだのは彼女の兄だ。
壁のスイッチで灯りをつけると、ベッドの隅で縮こまり、泣きじゃくりながら頭を抱える少女の姿が浮かび上がる。カタカタと全身を震わせ、大きく見開いたままの目から止めどなく涙を流し続ける様子は、尋常ではない。
彼女の兄──緒方家の長男、健吾は、ぐっと拳を握りしめた。できるだけゆっくりと妹のベッドに近づき、その傍らに膝を落とす。
「どうした。怖い夢でも見たのか?」
夢。
凪は幼い頃、よくおかしな夢の話をする子どもだった。『リオ』という名の少女になって、不思議な世界で暮らす夢。それが、ただの夢物語ではないと最初に気がついたのは、凪と一緒に眠る機会の多かった母親だ。
──自分のことを、『リオ』だって言うのよ。
昼寝をしていた幼い凪が、目を覚ますと不思議そうな顔をして辺りを見回し、母に向かって『あ。ナギのお母さまだ』と、心底嬉しそうに笑ったのだという。
最初は、幼児特有の変わった遊びかと思った。
だが、笑い方が違う。仕草が違う。甘え方が違う。
どこか遠慮がちに、けれどキラキラと輝く目で、恥ずかしそうに頬を染めながら『リオも、お母さんって呼んでも、いいですか?』と問われたとき、母は全力で抱きしめながら『もちろん、いいよおぉおおおーっっ!!』と絶叫したという。
二重人格、というのだろうか。
『リオ』は、滅多に出てくることはない。父は昔何度か見たことがあるというが、健吾はその状態の凪を見たことがなかった。
凪自身は、時折『リオ』が出てきていることに気づいていないようだ。
本来ならば、病院で診てもらうべきだったのかもしれない。けれど、凪が『リオ』の存在を認識していない以上、無理に受診させるのも気が引けた。何より、日常生活にはまったく差し障りがないこともあって、このままでも特に問題はないと思っていたのだ。
だが──。
「あ……あ、ぁあ……っ」
引きつった嗚咽を漏らす凪が、震える指先で喉を掻きむしろうとする。咄嗟にその手を掴んだ健吾に、大きく体を跳ねさせた凪が、怯えきった瞳を向ける。
途方もない違和感。
その瞳に映っているのは、『誰?』という単純な疑問だった。未知の相手に対する恐怖と、それ以上に大きな恐怖と混乱に、少女の喉が引き攣れた呼吸を繰り返す。
これは──健吾の知っている妹ではない。
ごくりと息を呑んだ彼は、まさかと思いながら、掠れた声で問いかけた。
「……リオ、か?」
健吾が誰よりもよく知っているはずの、なのにまるで知らない瞳が、くしゃりと歪んだ。
「は、い……っ」
どうして、と上擦った声で少女が言う。細い指先が、ひどく冷たい。
「わた、し……」
ボロボロと、新たな雫が幼さの残る頬を滑り落ちていく。
「ころされた、はずなのに」