第一章 夢の中で、目が覚める
瞼の裏で、光が揺れた。
ぼんやりと目を開くと、揺れる梢の向こうに白く眩い太陽の光が見える。
鮮やかな緑の映える、澄み切った青。
この空を、知っている。
涼やかな風が頬を撫でていく心地よさに、少女は小さく苦笑した。
(……また、この夢かぁ)
少女──緒方凪が、『夢の中で目を覚ます』なりそんなことを考えたのは、彼女にとってこれが珍しい事態ではないからだ。
最初にこの空の下で『目覚めた』のは、いつ頃のことだったか。両親や、年の離れた兄の証言から察するに、凪が物心ついた頃にはこの不思議な夢を見ることが日常だったように思う。
彼女の見慣れた、どこかくすんだ空とはまるで違う蒼穹は、何度見ても切ないほどに美しい。
だが、この美しい夢の世界は、他人に語るのは少々はばかられるものだった。
なぜなら、この世界でインフラの基盤となっているのが電気でもガスでも石炭でもなく、魔力という大変ファンタジックな代物だったのである。
凪は、自己評価ではあるけれど、わりと冷めたタイプの人間だ。もちろん、同年代の友人たちと全力でふざけたり、はっちゃけたりすることはある。
だが、自分の行動にはキッチリ責任を持つよう厳しく躾けられているし、周りの子どもたちが羽目を外し過ぎそうになったときにストップをかけるのは、常に凪の役割だった。
彼女は、兄がひとりのふたりきょうだいだ。ほんの幼い頃には『大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになる!』だの『アイドルになって、世の中を笑いの渦に巻きこみたい!』だのと、今から思うと全力で地球の裏側まで穴を掘りたくなるような、恥ずかしすぎる夢を抱いたこともある。
しかし、八歳年の離れた兄が、大変スーパードゥラ~イな性格をしていたために、凪は早々に己の分を弁えることができた。
……ものすごく善意として解釈するなら、凪が年相応の子どもらしいことを口にするたび、兄はいつでも真面目に応じてくれたと言えるかもしれない。
だが、『おれは、性犯罪者は問答無用で去勢すべきだと思っている。だが、周囲に迷惑を掛けることなく善良に生きているのならば、ロリコンやシスコンといった特殊性癖を持つ人種を、頭から否定するものではない。ただ単に、おれ自身が年上のお姉さまに可愛がられたい派だというだけなんだ』だの、『アイドルになるには、ゴリゴリの体育会系レベルの体力が必要らしいぞ。運動神経を母さんの腹の中に忘れてきたようなおまえには、ものすごく──いや、絶望的に難しいんじゃないか? 知らんけど』だのとのたまうのは、ちょっと正直すぎるのではなかろうか。
凪だって、好きで運動音痴に生まれてきたわけではないのである。ただ、頭でイメージした自分の動きと、実際の体の動きに、なぜだか差があり過ぎるだけだ。
そう主張すると、兄は『おまえはいつから、子育て終盤世代のマダムになったんだ』と、ものすごく哀れなものを見る目をした。腹立たしさのあまり、兄の秘蔵のエロ漫画(きれいなお姉さんが遊んでくれるOLものだった)を目の前で音読してやったのは、別にやり過ぎではなかったと思う。
それに、凪は
何はともあれ、兄のお陰でだいぶ世の中の世知辛さを知っている自分が、もうすぐ中学を卒業する年になっても、メルヘンの香りが漂う夢をたびたび見ている──などという、現在進行形の黒歴史。恥ずかしくて、誰にも言えやしない。
(せめて、この夢の中で自由に動けるなら、自分の脳みそがどんな愉快な妄想を爆裂させているのか、半笑いで楽しめたかもしれないけどさー……。基本的に、リオのしていることを、ただ見ているだけなんだもんなあ)
『リオ』というのは、この夢を見ているときの凪が、周囲の者たちから呼ばれている名だ。しかし、凪は今までリオを自分自身だと思ったことはない。
なぜなら彼女は凪と違い、ものすごく純粋でお人好しな女の子なのである。そのせいで損をすることも珍しくはなく、凪はたびたびイラッとしていた。リオと凪の共通点といえば、極度の運動音痴くらいのものである。まったく、嬉しくもなんともない。
夢は願望の表れだ、という説をどこかで聞いたことがあるけれど、もし自分が本当はリオのようなピュアっ子お人好しになりたいと思っているなら──と思考したところで、凪の脳はそれ以上の想像を拒否した。
リオの素直で優しい性格は、別に嫌いではない。ただ、たまに彼女の後頭部を「えー加減に、少しは学習せんかーいッ!」と、全力のハリセンでしばいてやりたくなるだけだ。
優しさとあざとさは、紙一重。
周囲にいる同年代の少年たちに対し、常ににこにこと優しく接するリオは、彼らの初恋泥棒だった。それは別にいいのだが、リオたちがある程度成長した頃、彼女を取り囲んだ少年たちに「リオは、誰が好きなんだ!?」とされた際、不思議そうに小首を傾げて「みんな、大好きよ? わたしの大切な友達だもの」とやられたときには、本気で気が遠くなりかけた。
そのときのリオが、物陰からこちらの様子を見ていた少女たちの鋭すぎる視線に、まるで気づいていなかったのが、また恐ろしい。リオは周囲の女性陣たちの地雷を、力いっぱい無邪気に踏み抜くタイプなのである。叶うことなら、全力で遠くに逃げさせていただきたい。
しかし、非常に残念ながら、凪は今までほとんどリオの体を動かせたことがなかった。周囲の女性陣からのヘイトを、まったく悪気なく順調に稼いでいくリオを、ひたすら黙って眺めているしかできないのである。
ごく稀に、硬く狭いベッドで『目覚めた』ときなどに、わずかながらその体を自由に動かせたことはあった。だが、そういうときは大抵真っ暗な夜中であるか、あるいはリオの体調が悪く寝こんでいるときだ。そのため、夢の中でもひたすら寝ているしかないという、大変暇なことになる。
そんなリオが暮らしているのは、国境近くの田舎町にある小さな孤児院だ。この世界でポピュラーな宗教団体が運営しているものである。そのため、子どもたちに言いつけられる手伝い仕事の中には、小規模ながら荘厳な神殿の掃除や、聖職者の使い走りなどが多くあった。
いつの間にか聞き覚えてしまった賛美歌は、とてもシンプルながら美しいメロディーで、リオもよく口ずさんでいる。
そんなことをつらつらと思い出しているうちに、ふと素朴な疑問が湧いてきた。
(ここ……どこ?)
今までに何度もこの夢の世界で『目覚めた』けれど、リオの行動範囲はとても狭い。ほとんどが住処である孤児院か神殿、ごく稀に活気溢れる街の市場。それらのどこにいるときであっても、日中であれば保護者の女性──厳格で愛想のないシスターたちや、きょうだい同然の可愛らしい子どもたちが、必ず近くにいたものだ。
しかし、今はどうだろう。
鬱蒼と茂る木々や、濃い緑のにおい。
どう見ても、神殿の美しく整えられた庭園ではない。そして、周囲に誰かがいる様子もなかった。こんな森の中で、リオがひとり寂しく寝転がっているなど、今までのパターンからは考えられないことだ。
(まあ、なんだかんだ言っても夢だから、どんな状況でも別に驚くことはないんだけど。……って、おぉおおー!? 明るいのに体が動かせる!? これはもしや、合格祝い的な!?)
めでたいことに凪はこのたび、無事に高校受験をクリアしたばかりなのである。四月から、憧れの可愛らしい制服を着られるのが楽しみで仕方がない。
両親や兄も、凪の志望校合格をとても喜んでくれて、昨夜は久しぶりに家族揃っての夕飯だった。ひとり暮らしをしている兄が、お祝いだと贈ってくれた腕時計は、入学式まで大切に机の上に飾っておくつもりだ。
「へぶっ」
指先を軽く動かせたことで、一気にテンションが上がった凪は、勢いよく体を起こそうとして失敗した。バランスを崩して倒れこみ、素っ頓狂な声を零してしまう。
やはり、そう都合のいい展開ばかりの夢ではないらしい。横になっているときには感じなかった、わずかな違和感と痺れるような倦怠感。これは、凪が唯一親近感を覚える、リオの運動音痴っぷりとは無関係の不快さだ。
ひとつ深呼吸をしてから、改めてゆっくりと慎重に体を起こす。
そして、どん引きした。
「うえぇー……」
リオの声は、ちょっと羨ましくなるほど澄んだ可愛らしいものだというのに、その魅力を完全にぶち壊すような重低音でうめいてしまう。
だが、何気なく見下ろした自分の体が血塗れの上、あちこち破れたメイド服を身につけていた場合、誰だって現実逃避のひとつやふたつはしたくなると思うのだ。
膝丈パフスリーブのワンピースは、おそらく元々は紺色なのだろう。しかし、その上に身につけたエプロンもろとも、どす黒く変色した血で汚れまくっているため、いまひとつ自信が持てない。そして、指先に感じていた違和感の正体が、乾いた血による動かしにくさだと理解した瞬間、思わず遠くを眺めてしまった。
しばらく現実逃避をしたあと、恐る恐る腕を持ち上げてみても、これといって痛みは感じない。素人目にも「ここ、めっちゃ景気よく切り裂かれたよね! きっと、真っ赤な血液ぶしゃーだったよね! 内臓がポロリしていなくてよかったね!」という箇所がいくつもあるのだが、やはり体に傷らしきものはなかった。
いくらファンタジックな夢とはいえ、リアリティーのかけらもない不条理さに、眉根を寄せる。
(まあ、怪我をしてないのは、ありがたい話なんだけどさー。痛いの、イヤだし。この夢、五感がばっちりある系だし。てゆーか、なんでメイド服? あ、リオってば意外と巨乳。成長期かよ、羨ましい)
凪はここ数ヶ月あまり、ずっと夜遅くまで受験勉強漬けだった。ベッドに入るなり、夢も見ないほど爆睡していたため、凪が覚えているリオよりも少し成長しているようだ。
リオは、幼い頃からとても可愛らしい顔をしていた。その上、性格も単純で学習能力の低いおバカさん──もとい、大変素直で他人を信じる純粋さを失わない少女であったため、概ね周囲の少年や大人たちから愛されていたように思う。……できれば、同年代の少女のお友達がほしかった。
それはともかく、こうして改めて見てみれば、以前は白く細いばかりだった四肢は、女性らしい柔らかさを帯びてすんなりとしなやかに伸びている。この成長具合から察するに、さぞ愛らしい美少女になっていることだろう。鏡が欲しい。
少々ひねくれたところがあると自覚している身としては、リオのようなピュアっ子と仲よくなれる自信はないけれど、可愛いものを見るのも愛でるのも大好きだ。将来は、もふもふのシベリアンハスキーを飼うのが夢である。
現実の凪は、ぱっと目を引くような派手さは皆無の、これといった特徴のない顔立ちだ。とはいえ、少なくとも目を背けたくなるような不細工ではないし、思春期真っ盛りの少女として清潔感にはキッチリ気を遣っている。
ありがたいことに、毎日栄養バランスばっちりの食事を用意してくれる母親のお陰で、健康状態に問題もない。久しぶりに会う親戚たちから、笑顔で「あら~、しばらく見ないうちにキレイになって!」と、お世辞を言ってもらえる程度の容姿である。
しかし、そもそも香ばしい醤油の香り漂う純度百パーセントの日本人である凪と、金髪碧眼でリアルに天使の羽が似合いそうなリオとでは、もはや比べる気にもなりはしない。何より、胸部装甲の厚みの違いときたら、人種間の格差社会とはこのことか、といっそ感心してしまうほどだ。
──体に傷はなくとも、不衛生極まりない血塗れの自分自身を意識した途端に、なんだか気分が悪くなってきた。どこかへ清潔な衣服を探しに行きたい気もしたけれど、立ち上がるのも億劫だ。近くの木の幹に背中を預け、息を吐く。
(このまま、ぼーっとしてたら、そのうちリアルで目が覚めるかなー。珍しく、明るいときの夢の中で動ける感じなのに、意味不明なスプラッタ仕様とか、なんか悔しい。……こんな血塗れ妄想を捻り出すとは、わたしの脳みそってば、受験勉強がそんなにストレスだったのか。なんか、すまんでござる。春休みの間は、完全ノンストレスなエブリデイの予定だから、勘弁してくれい)
凪が通う予定の高校は、そこそこ進学率のいい公立高校だ。いずれ授業がはじまれば、また勉強で大変な毎日になるのだろうから、それまで少しくらいの解放感に浸ってもバチは当たるまい。
それにしても、受験ストレスが原因と思われる血塗れ要素はともかく、このメイド服の妄想は一体どこから来たのだろう。特に、メイド喫茶でアルバイトをしたいという願望があったわけでもないのだが──。
(……ん? 誰か、近くに来てる?)
ふと、森を渡る風の自然なざわめきとは違う、藪を揺らすガサガサという音が聞こえてきた。人の声が、わずかに交じっている。
凪は、困った。
(血塗れドロドロはいやだけど、他人と会うのは面倒くさいなあ)
何しろ、この血塗れスプラッタである。メイド服を着た可憐な美少女(誰がなんと言おうと、客観的に見てリオは大層な美少女だ。断じて異論は認めない)が、どんな理由でここまでぼろぼろになっているのかはわからない。
だが、この惨状で誰かに接近遭遇した場合、大騒ぎされてしまうのは避けられないだろう。体が動かしにくい今、ろくに抵抗できない状態でもみくちゃにされるのは、全力で遠慮したいところだ。
(……五感バッチリタイプの夢って、ほんとヤダ)
リオが幼い頃、神殿の護衛らしき屈強な男に、頭をぐりんぐりんに撫でられたときの恐怖を思い出す。あのときは、本当に首がもげるかと思ったのだ。現実で目覚めたときに、自分の首が無事かどうかを何度も確認してしまった。
たとえ夢の中であったとしても、凪に苦痛を甘受する趣味はない。どうせ、あと数時間もすれば現実で目覚めるのだ。面倒ごとは極力回避すべし、ということで、凪は気怠さの残る体を引きずるように動かした。
しかし、その判断は少々手遅れだったようだ。木の幹に手をかけ、よいしょと気合いを入れて立ち上がろうとした瞬間、背後から鋭い声がかけられた。
「動くな」
低く強い、男性の声。
反射的に振り返れば、すぐ目の前に、太陽を鋭く弾く刃があった。
それは、現実世界ではまず目にする機会がない、全長一メートルはあろうかという人殺しの道具──剣。
(……わあ、すごい)
凪は、感嘆した。
もしかしたら自分の脳は、想像力や妄想力という点において、無限の可能性を秘めているのかもしれない。何しろ、その剣はまるでガラスか水晶のように透き通っている上に、淡く光を放っているのだ。
なんという、純度の高いファンタジー仕様。随分軽そうに扱っているように見えるが、もしや金属の剣よりも相当軽かったりするのだろうか。実に興味が尽きない。
そして、剣からその持ち主に視線を移した凪は、己の想像力の素晴らしさに、思わずぐっと親指を立てそうになる。
(ど、ストライク! です! さすが夢! ぐっじょぶ過ぎるぞ、わたしの脳ー!!)
片手で剣をこちらに向けたまま、軽く眉根を寄せてこちらを見据えているのは、びっくりするほど整った顔立ちの青年だった。凪が空気を読む能力に長けた日本人でなければ、その場で五体投地でもしていたかもしれない。
年齢は、二十歳前後だろうか。健康的に日に焼けた肌、少し前髪が長めのラフな印象の黒髪に、野生の獣を思わせる鋭い金色の瞳。
できれば、中二臭漂う瞳の色は、凪の見慣れた黒か焦げ茶色だと理想的だった。だが、この夢がそもそもファンタジー仕様である以上、あまり文句を言うわけにもいくまい。
それにしても、寸前まで何もなかった場所にいきなり現れるとは、この青年はいったいどんな身体能力をしているのだろう。不思議で仕方がないけれど、ここは「だって、夢だもの」で流しておくことにする。
しかし、どれほど凪の好みにどストライクなイケメンであっても、『これは、ヒトを殺すためのものでございます!』と全力で主張する凶器を自分に向けてくるのは、まったくもっていただけない。
青年は、黒地に赤いラインで縁取りをした、詰め襟の衣服を着ている。襟には金色の小さな
たしかイタリアの警察か何かが、こんな感じのやたらとスタイリッシュな制服を採用していた記憶がある。さすがはイタリア、世界のおしゃれ番長だ。
そうやって凪が現実逃避しかけたのは、目の前の青年と同じデザインの衣服を着た男たちが、次々に姿を現したからである。全員がもれなく抜き身の剣を手にしており、彼らの険しい表情と相俟って、威圧感がハンパではない。
凪は、深々とため息をつきたくなった。
(あー……。全員、美形ですかー。いや、普通にイケメンは好きですよ? 目の保養になりますし。眺めていて楽しいですし。ただし、どんなにイケメンだろうと、こっちに武器を向けて敵意マシマシな時点で、好感度は底辺を突き抜けてマイナスでござる。それにしても、ここまで各種イケメンを豪勢に取りそろえるとか、わたしの脳も随分がんばるなあ。疲れない? あんまり、無理はしなくていいのよ?)
黒髪青年の仲間らしい彼らは、ぱっと見ただけでもムッキムキの筋肉マッチョなナイスガイを筆頭に、さらさら金髪の正統派王子さまタイプ、中性的な長髪クール系美青年、そして少女と見紛うような童顔美少年まで、実にバラエティーに富んでいる。
彼らの背後に隠れてよく見えない者たちは、できればもう少し平凡な容姿であっていただきたい。そうでなければ、この辺りだけ美形濃度が高すぎて、飽和状態になってしまいそうだ。
とはいえ、巨大な凶器を持ち、いつでも自分を害することができる相手に囲まれる──それは、生き物としての根源に関わる、純然たる恐怖だ。たとえ夢だとわかっていても、あまり気分のいいものではない。
最初に動くな、と言われたから素直にじっとしているけれど、イケメンたちのご尊顔は充分堪能できたことだし、そろそろ現実で目覚めたいところだ。
凪がぼんやりと目の前の透明な刃を眺めていると、その持ち主である青年が、低く感情の透けない声で口を開いた。
「どうした。抵抗しないのか? 何を考えている?」
「……え?」
きょとんと瞬きをした凪は、少し考えて首を傾げる。そして、ぽつりと呟いた。
「夢の中で殺されたら、目が覚めるのかな」
ものすごくいやな目覚め方をしそうだけれど、このまま武装したイケメン集団に敵意を向けられる夢を見続けるのは、もっといやだ。斬られるのは痛いに違いないけれど、このファンタジックな剣なら平気なのかもしれないし、きっと一瞬のことだろう。何より、これは夢だ。斬られたところで、死にはしない。
ひとつうなずき、凪は黒髪の青年を見上げた。何度見ても飽きることを想像できない、ものすごく好みのタイプのイケメンだが、さすがに彼が自分を殺す瞬間は見たくない。
「あの、目を閉じてますので。できるだけ、ぱぱっとやっちゃってくれますか?」
そう告げて、目を閉じる。
しかし、いつまで経ってもなんの変化も訪れない。凪は、困った。
(えー……。これって、目を開けた瞬間にバッサリされるやつ? 怖い、怖い。それくらいなら、目が覚めるまでずっとこのままでいるもんねーだ。……わたしの脳って、もしかしたら受験科目を擬人化していたんだろうか。だとしたら、一番好みのお兄さんは国語かな。物静かそうなマッチョ紳士は数学? 英語は絶対、金髪の王子さまタイプだね!)
そんな馬鹿なことを考えていると、淡々としつつもどこか戸惑った響きの声が聞こえた。
「──団長。対象の様子がおかしい。風貌は手配書の通りだが、あまりに無抵抗すぎる」
(手配書?)
何やら不穏な響きである。凪は思わず目を開いた。……バッサリされなくてよかった、とひとまず胸をなで下ろす。
しかし、ここまで目が覚める気配がないとなると、少し不安になってくる。
(うーん……。もしかして、今回はロングタイプの夢なんだろうか。面倒くさいなあ)
この夢は、長いときには三日ぶんほど続くのだ。しかも、その間に場面が切り替わることはない。どれほど同じような日々を繰り返す夢でも、早送りもスキップもなく、キッチリと体感通りに時間が進んでいく。
逆に、何日もこの夢を見なかったあとに、夢の中では数時間しか過ぎていないこともあった。そんなふうに、時間の流れる速さが時折変わることはあるけれど、全体としてさほど大きなズレが生じたことはない。
もし今回の夢も長丁場になるのなら、現状を正確に把握しておきたい。この体に五感がある以上、痛かったり苦しかったりするのは全力で遠慮したいのだ。
ぐるりと周囲を見回すと、みな剣こそ構えたままだが先ほどまでの緊迫した様子はなく、どこか困惑した表情でこちらを見つめている。凪は、おののいた。
(イケメン集団の圧が怖いよ! すいません、コッチミンナです! わたしは高校生になっても、華やかな一軍の方々とは、ほどよい距離感で接していこうと決めているんです。イケメンというのは、液晶画面越しに見るのがちょうどいいモノなのですね。大変勉強になりました、ありがとうございません)
脳内で少々取り乱してしまったけれど、改めて黒髪の青年を見上げて口を開く。
「あのー、すみません。手配書って、なんですか? わたし、神殿の孤児院にいたはずなんですけど……。気がついたらここにいて、なんだか着た覚えのない服を着てますし、おまけに血塗れで気持ち悪いですし」
「……孤児院?」
青年が目を見開き、わずかに驚いた声で言う。
「随分、おかしな夢だなーと思っているところなんですが、みなさんどこかへ行ってもらえませんか? 怖いので」
剣は怖いが、イケメンの圧も怖いのだ。早く、いつもの夢に戻りたい。
そんな凪の切なる願いも虚しく、青年の背後から威圧感が最上級の、筋肉マッチョイケメンが進み出てきた。
(うわー……。でっかーい……)
太陽に透けて輝く赤銅色の髪、軽く二メートルはありそうな巨大な体躯。その逞しすぎる肩ときたら、凪が余裕で腰掛けられそうだ。
年頃は、二十代後半から三十代前半といったところだろうか。少なくとも、絶対に十代ではないはずだ。こんな立派な筋肉を保有していい十代は、昭和の少年漫画に出てくる世紀末覇者だけだ。
黒服の胸には、交差した剣と杖を模した徽章がついている。威風堂々、という単語を体現したかのような偉丈夫は、凪の姿を一瞥すると、青年に向けて静かに命じた。
「剣を下げろ、シークヴァルト」
「はい」
シークヴァルト、と呼ばれた黒髪の青年が、剣を鞘に戻す。目の前の脅威が消え、凪はほっと胸をなで下ろした。どうやら自分で思っているよりも、ストレスを感じていたようだ。
このまま彼らが消えてくれればありがたかったのだが、残念ながらそう上手くはいかないらしい。新たに凪の目の前にやってきた偉丈夫が、その体の大きさを感じさせない動きで地面に膝をつく。そして視線の高さを合わせると、森の美しさをそのまま映した鮮やかな緑の瞳で見つめてきた。
「失礼、お嬢さん。我々は、ルジェンダ王国魔導騎士団の者だ。私は団長のアイザック・リヴィングストン。きみの名前を伺ってもよいだろうか?」
凪は、困惑した。アイザックと名乗った相手が、びっくりするほど紳士的な態度を示してくれたからだけではない。
彼女の知る限り、ここルジェンダ王国に、魔導騎士団という組織は存在していなかった。国家を守る主な武力として存在しているのは、まず王宮を守護する近衛騎士団。次に、各地の砦で国境防衛を担う、十二の騎士団。それらのほかにも、金銭で仕事を請け負う民間主体の戦闘集団があるらしい。だが、騎士団と名乗っているからには、公式の予算で動いている集団であるはずだ。
この夢の中で、今までこんな設定の
それはともかく、今はこちらの名を聞かれているのだから、どう答えるかが最優先事項になるわけだが──。
(ここで緒方凪、ってゴリゴリの日本人の名前を名乗るのもなー。だからって、リオって呼ばれても、自分の名前じゃないから咄嗟に反応できなさそうな気がする。まあ、どうせ夢だし。リオも特に名字はなかったっぽいから、とりあえず下の名前だけでいいか)
ひとつうなずき、彼女は応じた。
「凪、です」
「そうか。では、ナギ嬢。きみに、いくつか尋ねたいことがある。正直に答えてくれると助かる」
凪はあやうく、ぶほっと噴き出すところだった。
(嬢って! ヤバい、この人マジで紳士さんだ! 変態と書かないタイプの、ホンモノの紳士さんだよ!)
ぷるぷると震えそうになりながら、どうにかうなずく。
「ありがとう。きみは先ほど、神殿の孤児院にいたと言ったが、それはどこにある、なんという孤児院なのだろう?」
「西の国境近くのノルダールという町にある、ルベリウス神殿所属の聖パウル孤児院です」
アイザックが、一瞬ひどく驚いたようにしたあと、ぐっと眉根を寄せる。
「……ノルダールの孤児か。きみの年齢は、いくつなのかね?」
「十五歳です」
元々が捨て子なので正確な年齢はわからないけれど、孤児院の記録では凪とリオは同い年だったはずだ。
簡単な質問にほっとしつつ、素直に答えた凪だったが──なんだか先ほどから、黒服イケメン集団の様子がおかしい。何やらひどく動揺しているふうなイケメンたちを、片手を上げることで制したアイザックもまた、ものすごく険しい表情になっている。
一体どうしたのだろう、と首を傾げると、一歩下がった位置にいたシークヴァルトが、額を押さえて低く呻いた。
「……隊長。対象を見つけたら、全力でボコっていいか?」
「問題ない。許可しよう」
シークヴァルトの問いかけにひどく不快げに応じ、アイザックが凪に向き直る。そして軽く頭を下げ、彼は言った。
「申し訳ない、ナギ嬢。私はきみの姿を確認したときからずっと、魔術できみの言葉の
「まじゅつ」
突然飛んできた究極のファンタジー要素に、凪は大きく目を見開く。ものすごくアホっぽい発音をしてしまったのは、不可抗力なので勘弁していただきたい。
この世界で、様々な機能を有する魔導具の動力源が、魔力という不思議パワーであることは知っている。魔導具の内部には、それぞれ魔力を宿した魔導結晶なるものが入っていて、スイッチを入れることで設定された魔術が発動する仕組みだ。たとえ、使用しているうちに魔導結晶が内蔵していた魔力が尽きたとしても、新たな魔導結晶と入れ替えれば、その魔導具は再び使えるようになる。
よって凪は基本的に、この夢の世界における魔導具は家電製品、魔導結晶は高性能の電池と認識していた。残念ながら、充電式電池タイプの魔導結晶やコンセントに類するものは、まだ見たことがない。
そして、魔導結晶を使わずとも、自らの肉体が有する魔力で、一般に流通している魔導具とは比較にならないほど高度な魔術を発動できる者を、魔導士と呼ぶ。けれど、このファンタジーな夢の世界でも、魔力を持って生まれる者はあまり多くないらしい。魔力持ちは、そのほとんどが貴族だというから、当然か。
そこまで考えたとき、先ほどのアイザックの自己紹介を思い出す。
(あ、そっか。この人たち、自分たちは魔導騎士団だーとか言ってたっけ。はじめて聞いたけど、名前からしてそりゃ絶対、魔術が使える系の集団だよね)
つまりアイザックは、今までの凪との会話を、嘘発見器に掛けていたようなものだ、ということか。
なるほど、と納得した凪は、アイザックを見上げた。
「別に、気にしていないです。……えぇとつまり、あなたの魔術? で、わたしはあなた方が捜していた誰かではない、と判断された感じなんでしょうか?」
「その通りだ。きみは、我々の捜索対象ではありえない」
強い口調で断言され、凪は首を傾げる。
「でも、最初はわたしをその捜索対象さんだと思ってたんですよね?」
「それは、本当に申し訳ない。言い訳になるが、我々は上からの命令で『王宮の侍女服を着た金髪の若い娘』を捜索していたのだ。きみが今着ているのが、その侍女服になる」
ただ、とアイザックは小さく苦笑した。
「その捜索対象は、今年十八歳になる貴族の令嬢だ。おそらくだが……令嬢の逃走を手助けした何者かが、彼女によく似た容姿のきみを
凪は思い切り顔をしかめ、ぐっと両手の指を握りしめる。
ここで『目覚める』前のことは、まったくわからない。だが少なくとも、孤児であるリオが貴族の令嬢と間違えられるとなれば、誰かがそう仕組まなければありえないことだ。こんな超絶美少女フェイスの持ち主がそうそういるとは思えないけれど、年頃の近い金髪の娘であれば──そして、全身を血塗れにして汚しておけば、追っ手の目をごまかせるとでも考えたのだろうか。
「もし本当にその通りなら、犯人を全力でぶん殴ってやりたいです」
汚すにしても、何も血を使わなくてもいいではないか。気持ちが悪いし、鼻が麻痺しているのか自分ではわからないけれど、ひどいにおいになっていそうだ。
腹立たしさのあまり、ドスの利いた声で低く言うと、一瞬目を見開いたアイザックが楽しげに笑った。そして、改めて居住まいを正して言う。
「そうだな。そのときは、きみの手が痛まぬように、私が代わりに殴ってあげよう。──ナギ嬢。きみの身柄は、ひとまず我々が保護させてもらう。今後の安全が確認されるまでは、我々の庇護下にいてもらうことになる」
(はあ。それは提案ではなくて、決定事項なんですね)
選択の余地がないことに若干もやっとしたけれど、考えてみれば別に拒否する理由もない。もしここで誰とも出会えないままでいたなら、現実で目が覚めるまで、ずっと血塗れの格好でいたかもしれないのだ。そう思うと、心底ぞっとする。
凪は、ぺこりと頭を下げた。
「お手数をおかけして、申し訳ないです」
「いや、きみが謝るようなことではない。──シークヴァルト。今からおまえを、ナギ嬢の護衛とする。彼女は、ノルダールの一件における重要な証人だ。今後は、彼女の安全を最優先に行動するように」
アイザックの唐突な命令に、シークヴァルトが躊躇なくうなずく。
「了解した」
(へ?)
護衛やら証人とはなんのことだ、と彼女が目を丸くする間に、立ち上がったアイザックが背後を振り返る。
「こちらが囮だったのなら、対象はすでに別方向へ脱出しているはずだ。一度砦へ戻り、第二、第三部隊と情報のすり合わせをする」
イケメンたちから口々に了解の声が返り、それを受けたアイザックが再び凪を見た。
「では、ナギ嬢。今から帰還ゲートを開くので、シークヴァルトにしっかりと掴まっていてくれたまえ」
「え? って、ふぉおおぅえあ!?」
相手の言葉の意味を理解するより先に、凪が素っ頓狂な声を上げたのは、なんの前触れもなくシークヴァルトに体を持ち上げられていたからである。しかも、いわゆるお姫さま抱っこというやつだ。
(近い、近い、近いーっ!! いいぃいいやぁああーっっ! イケメンという人種は、自分の顔面が一般庶民の心臓に与えるダメージについて、きちんと認識しておくべきだと思います!)
硬直した凪が内心で盛大に絶叫していると、シークヴァルトが金色の目を細めてふっと笑う。凪の心臓は、無事殉職した。
「元気なヤツだ。落ちないように、ちゃんと掴まっていろ」
(顔面最終兵器野郎が、何を言う……。わたしのライフを返してください……)
どうにか根性で蘇生した凪は半目になりつつ、シークヴァルトの袖の辺りを指先で摘まんだ。今更とも思うけれど、乾いた血でバリバリの汚れた手で、他人様の清潔な衣服を鷲づかみにするのは、ものすごく抵抗があったのだ。
(掴まってろっていうなら、そうしなきゃダメな感じなんだろうし。ここで置いていかれて、次に会う人がいい人とは限らないし。しょせんわたしは、長いものには巻かれがちな日本人なんですー。うふふー)
と、すぐ近くで強烈な白い光が溢れた。驚いてそちらを見れば、アイザックが片手をかざした先に、直径二・五メートルほどの輝く円がある。その円周は幾重にも連なる複雑な文字と数字の羅列で、内側は一点の陰りもない純白の光。
(おぉーう……。ファンタスティーック……アメイジーング……ぐれいとびゅりふぉー……)
半ば現実逃避をしながら、美しい光を呆然と見つめているうちに、その場にいた者たちが次々と輝く円の中に飛びこんでいく。そして、凪が心の準備をする間もなく、彼女を抱えたシークヴァルトもそれに続いた。
「……っ」
凪は咄嗟に目を閉じ、ぎゅっと体を強張らせる。
衝撃は、何もない。しかし、再び目を開いたとき、世界は一変していた。
凪たちのいる場所から少し離れた、緩やかな坂の上に見えるのは、イメージ的にヨーロッパの貴族が住まう館のような、豪奢極まりない建造物だ。窓の数を数える気にもなれないくらいに巨大で、目を奪われるほど美しい。けれど荘厳な神殿の建物とは違い、華やかでありながらどこか質実剛健な雰囲気が漂っている。
その館から赤いレンガの道で繋がっているのが、今凪たちがいる広場だ。凪の通っている中学の、グラウンドくらいの広さはあるだろうか。ただし、ここの地面には正方形の石畳が延々と敷き詰められており、土埃とは無縁でありそうだ。
広場の先には、森とは違う観賞用の木々が並ぶ庭園や、石積みの小さな平屋の建物がいくつか見える。そして──。
「お疲れさまでした! 随分お早いご帰還でしたね!」
「お疲れさまでした。第二部隊、第三部隊からは、今のところ特に連絡はありません」
どこからやってきたのか、最後に光の輪から現れたアイザックの前で元気に敬礼していたのは、凪と同じ年頃に見える少年少女だった。明るくテンションの高い小柄な少女と、対照的に物静かな口調の少年だ。
ふたりとも揃いの詰め襟を着ているが、上着はほかの面々と違い、白地に爽やかな青色のラインが入っている。ズボンが濃紺なのは、さすがに白では汚れが目立ちすぎるからだろうか。
アイザックは彼らに向かってひとつうなずくと、シークヴァルトに抱かれたままの凪を片手で示して口を開いた。
「我々の捜索担当地域で、対象の身代わりとされていた少女を保護した。少女の状態から判断して、対象の逃亡を手引きする者たちがいる可能性が高い。セイアッドはその旨を各部隊の隊長に伝え、それぞれの状況を確認しろ。ソレイユは、彼女──ナギ嬢を湯殿にご案内を」
その指示に、ぱっとこちらを振り返った少年少女は、これまたやはりと言うべきなのか、ふたりともとても可愛らしい顔立ちをしている。体を自由に動かせることといい、今回の夢は本当にサービスがいいようだ。実に、目に楽しい。
細身ながら長身の少年は、サラサラの短髪も切れ長の瞳も、黒に近い茶褐色だ。その色彩だけなら見ていてほっとするのだが、美少年すぎて近寄りがたい上に、彼は凪を見てあからさまに顔をしかめた。
……別に、傷ついたりしていない。ちょっぴり、その場で土下座したくなっただけである。何しろ今の凪は、決して衛生的とは言い難い。むしろ、不潔さの塊のような状態なのだ。美少年を不快にさせて、申し訳ない。
一方、少女のほうは、少年の胸の辺りまでしか身長がなかった。小柄で華奢な体つきながら、いかにも元気いっぱいという雰囲気である。
ふわふわの明るいオレンジ色の髪を顎のラインで切りそろえ、少し吊り気味の大きな水色の瞳が好奇心旺盛な子猫のようだ。実に華やかで愛らしい姿だが、カッチリとした詰め襟の衣服が不思議に似合っている。
少女は凪の姿を認識した瞬間、そのふっくらした頬を両手で挟んで絶叫した。
「いぃいやあぁああーっ!! 血だらけ! ボロボロ! 女の子に、なんてことしてくれてんのー!?」
キーン、と耳鳴りがするほどの、素晴らしい声量である。そうしてすっ飛んできた少女は、両手をわたわたと落ち着きなく動かしながら、青ざめた顔で言う。
「けっ、怪我! すぐ医務室に……っ」
そんな彼女の頭を、凪を器用に片手で抱え直したシークヴァルトが、無言でどついた。……結構、いい音がした。大丈夫だろうか。
「……っいったー! 何すんの、シークヴァルトさん!」
頭を抱えた少女が、くわっと喚く。シークヴァルトは、淡々と応じた。
「よく見ろ、ソレイユ。コイツは、怪我はしていない」
「え? あ、そうなの? ……いやでも、これだけ血だらけだったら、怪我をしてるのかどうかなんてわからないじゃん」
むー、と頬を膨らませる少女は、とてもとても可愛らしい。その頬をつついてみたくて、凪は指先がうずうずした。
どうやら頭蓋骨がかなり頑丈らしい少女が、明るく弾むような声で言う。
「まあ、怪我がないならよかった! でも、血だらけボロボロなのは、絶対よくない! ので、お風呂に行こう!」
「……だから、最初からそう指示されていただろう」
シークヴァルトのぼやきが聞こえているのかいないのか、少女は凪に向けて、にぱっと笑う。
「こんにちは。あたし、騎士見習いのソレイユ・バレル。ソレイユって呼んでね!」
「あ、はい。凪です。よろしくお願いします──って、そろそろ下ろしてもらえませんか、シークヴァルトさん!?」
ソレイユが、あまりにも普通に挨拶してくれたからだろうか。唐突に我に返った凪は、猛烈な恥ずかしさに襲われた。同年代の可愛い女の子との初対面のご挨拶を、初対面の超絶美形に抱っこされながらするとは、恥ずかしすぎて目眩がしそうだ。
しかし、シークヴァルトの腕は小揺るぎもしなかった。
「おまえはあの森に捨てていかれるときに、魔術で自由を奪われていたんだ。直接触れてみてわかったが、身体麻痺の術式の痕跡が残っている。しばらく体を動かすのにも支障が出るだろうから、諦めておとなしく運ばれていろ」
「……ええぇー」
言われてみれば、森で目覚めたときから、不自然なほど体が動かしにくかったのだった。普段の凪なら、今頃全力でじたばたと暴れて──シークヴァルトの腕から転げ落ちた挙げ句、余計な怪我をしていたかもしれない。残念ながら彼女には、そつなく地面に降り立つ運動神経はないのである。
凪が遠いところを見たくなっているうちに、ソレイユの案内で巨大な館の奥にある浴場へ連れていかれることになった。
(うーん。ここは、建物全体が迷路になっているのかな?)
そんなばかなことを考えてしまうくらい、入り組んだ複雑な造りになっているこの館は、アイザックの個人的な所有物であり、同時に彼ら魔導騎士団の本拠地であるらしい。
「ちなみに、全然覚えなくてもいいんだけど、団長の正式な名前はザ・ライト・オノラブル・アイザック・ケイン・ロード・リヴィングストン・オブ・エルフィンストーンっていうんだよ」
ソレイユが口にした、あまりにも長いアイザックの正式名に、凪は目を丸くした。そんな彼女に、シークヴァルトが淡々と言う。
「すまない、言い忘れていた。ここは、おまえのいたヘイズ領の北に隣接する、エルフィンストーン領の中心にあるリルバーンという街だ。この館は、レディントン・コート。団長──エルフィンストーン領の領主、リヴィングストン伯爵の別邸だ」
凪は、思わず真顔になった。
(情報が多すぎる! いきなりそんな大量に詰めこまれても、ちょっと処理しきれません!)
我が脳ながら、よくこんな細かい設定まで練り込んでくるものだと感心する。いったい、どこから捻り出してきたのだろうか。自分の妄想力が、ちょっと怖い。
それにしても、と凪は少し不思議に思う。
「団長さんは、あんなに立派な筋肉なのに、貴族なんですね」
なんとなくだが、凪のものすごく勝手なイメージとして、高貴さと優美さの塊であるお貴族サマと、ムキムキのマッチョは共存しないような気がしていたのだ。
少しの間のあと、シークヴァルトがぼそりと口を開く。
「武門の貴族であれば、鍛えた体をしていることは珍しくないと思う。ただ、団長ほどの見事な筋肉の持ち主は、オレも今まで見たことがない」
ソレイユが、その大きな瞳をキラめかせながら、ぐっと両手を握りしめる。
「ホント、あの筋肉はすごいよね! めちゃくちゃ鍛え上げられてて重量感もバッチリでありながら、しなやかさと柔軟性をも兼ね備えた、完璧な筋肉! 美しさと実用性を見事に融合させた、もはや芸術品とも言えるあれこそ、まさに雄っぱいの鑑ッ!!」
「おまえは、何を言っているんだ」
(あ。シークヴァルトさんが、ツッコんだ)
どうやら、ソレイユはマッチョ好き、シークヴァルトは寡黙なふうで意外とツッコミタイプであるようだ。
「筋肉は、男のロマンですー!」
「ほう。では、女のロマンはなんなんだ?」
ソレイユが無言になった。どうやら彼女は、女性のロマンにはあまり理解が深くないらしい。なんだか、彼女とは気が合いそうだ。
やがて騎士見習いの少女はひとつうなずき、やけにキリッとした顔になった。
「いくら美味しいご飯を食べても、太らない体です!」
「それは、ロマンではなく願望だ」
そんな彼らのやり取りに、凪はおや、と瞬いた。
「ここの食事には、味があるんですね」
ぴたり、とふたりの動きが止まる。ものすごくぎこちない動きでソレイユが振り返り、シークヴァルトが感情の透けない声で問うてくる。
「……おまえは今まで、何を食っていたんだ?」
「孤児院で出されていたのは、人間の生命維持に必要な栄養がすべて入っているという、粉っぽくて味のない焼き菓子みたいなものと、水です」
市場で美味しそうな屋台などを見かけたことはあるけれど、凪はこの世界の夢を見ているときに、孤児院の食堂以外でものを食べた経験がほとんどなかった。ほんの幼い頃には、どこかで甘いお菓子を口にしたこともあった気がする。しかし、その記憶はすでに遠く、曖昧だ。今となっては、毎回の食事で出されていた、栄養補助食品めいた物体しか覚えていない。
非常に残念ながら、それらは決して美味しいと言えるものではなかった。栄養は満点なのかもしれないけれど、ものすごくパサパサしていて、すぐに喉が詰まりそうになるのだ。食事の時間になるたび、心底うんざりしたものである。
今回の夢はかなりサービス精神に溢れているようだし、もし味のある食事ができたら嬉しいことだと考えていると、ソレイユが顔を真っ赤にして叫んだ。
「はぁあああーっ!? 何それ、あり得ない!」
「ソレイユ。──コイツがいたのは、ノルダールの孤児院だ」
激昂していた少女が、再び動きを止めた。少しの間のあと、掠れた声で口を開く。
「それって……例の、魔力持ちの子どもたちを集めていたっていう?」
(へ?)
凪は、困惑して首を傾げる。
「わたし、魔力なんて持ってないですよ」
もしリオが魔力を持っていたなら、幼い頃の検査でそう言われていたはずだ。
孤児院の子どもたちも、幼い頃にみな魔力適性検査を受けていたけれど、今まで誰ひとり検査で引っかかった者はいない。魔力を持って生まれるのは貴族階級に多いというから、当然といえば当然か。
しかし、シークヴァルトはソレイユの言葉を否定しなかった。その意味が、凪にはわからない。
本当に今回の夢は、話がいろいろとおかしいな、と思っていると、ふたりは何やら視線で会話をしたようだった。ひとつ息を吐いて、ソレイユがにこりと笑う。
「そっかー。ここのご飯はすっごく美味しいから、期待しててね!」
「おまえが風呂に入っている間に何か用意しておくよう、厨房に伝えておく」
どうやら今回は、このまま食事のターンまで目が覚めなければ、味のあるものを食べられそうだ。凪は、なんだか不安になった。
(これはもしや、美味しいものが出てきた瞬間に目が覚めるパターン? ……あんまり、期待しないでおくことにしよう)
それから、『どちらのセレブ向けリゾートスパですか!?』という風情の大浴場に到着し、その豪華さに圧倒されてしまったものの、ひとまず体を清められることにほっとする。一刻も早く、この血塗れ状態から解放されたい。
しかし、入り口待機となったシークヴァルトが、凪のお姫さま抱っこをソレイユに継続させるとは思わなかった。
「ああああの、ソレイユさん!? わたし、ゆっくりなら歩けますよ!? たぶん!」
「大丈夫、大丈夫ー。あたし、魔導騎士団の見習いだよ? 身体強化魔術くらい、基本のキだよ? ナギちゃん軽すぎだし、十人くらい余裕で持てるよ!」
忘れかけていたファンタジー要素を唐突に突っこんでこられると、咄嗟に抵抗は難しい。高さはだいぶ変わったけれど、揺るぎなさはまったく変わらない腕に軽々と運ばれてしまう。
それから、汚してしまうのが申し訳なくなるほど美麗な浴場で、テキパキと手際のいいソレイユに介助されながら、凪はようやく全身の汚れを洗い流すことができた。床のタイルが乾きかけの血で汚れていくのを見るたび、どれだけ自分が汚れていたのかがわかって、我ながらどん引きしてしまう。
風呂を誰かに手伝ってもらうなど、ほんの幼い頃以来だ。最初は恥ずかしさでいっぱいだったけれど、体を上手く動かせないのだから仕方があるまい。
実際、上着を脱いでシャツの袖とズボンの裾をまくり上げたソレイユは、おそらく負傷者の介護訓練も受けているのだろう。非常に手慣れた様子で、凪は次第に恥ずかしさを忘れてリラックスすることができた。
一通り汚れをこすり落としてもらったあと、美しい幾何学模様を描くタイル張りの湯船に肩まで浸かると、凪は深々とため息をついた。ほのかに甘い花の香りのあるお湯が、体の芯までじんわりと温めてくれる。
「気持ちいいです……」
「そりゃーよかった。はーい、ここに頭のせて、楽にしててねー。トリートメントとマッサージするからねー」
ソレイユの指先が、爽やかな柑橘系の香りのするトリートメントで、長い金髪を丁寧に手入れしていく。ほどよい力加減で頭皮から肩までマッサージされて、その心地よさにうっかり眠りそうになってしまう。ソレイユは騎士見習いだというが、美容師のほうがよほど向いているのではなかろうか。
(夢の中で寝ちゃいそうとか……。でも、気持ちいい……。今回は、本当にいい夢だなぁ……)
そうしてふわふわした気分のまま風呂から上がると、真新しいワンピースを着せられた。さらりとした柔らかな肌触りが、とても上質な布地であることを伝えてくる。白と淡いブルーを基調としたそのワンピースは、とても可愛らしいデザインだった。胸元と短い袖は、幾重もの薄いレースに覆われていて、ウエストに巻かれた大きなリボンと、裾のたっぷりとした白いフリルが華やかだ。
(うん。こういう素敵なワンピースが普通に似合うのが、さすが金髪碧眼の超絶美少女だよね。意外性がなさすぎて、別に驚きはしないです)
いかにも高価そうな