第九章 大きな家族


「──では皆、ゆるやかに楽しまれよ」

 ラフルッタ王の宣誓のもと、王宮では獣人の国モルビド共和国の使節団を歓迎するための夜会が催されていた。

 国交を断絶していた隣国の使節団が数十年ぶりに来訪するとあって、その規模は大きい。

 煌びやかな装飾の大広間には、王により招かれた貴族たちと使節団がいた。

 鮮やかなドレスに身を包む淑女や令嬢たち、歓談の声、シャンパングラスを盆に載せて回る給仕。会場に配置されたテーブルには軽食が提供されている。

 一方、モルビドの使節団は大半が軍人であり、ほとんどが揃いの黒の軍服を身に纏っている。見慣れない獣人が揃いの軍服で塊になっている様さまは、夜会においては異様な光景でもあった。

 表立っての諍いさかいこそないが、会場にはどこかピリピリとした空気が漂っている。

「……ちっ、ケモノ風情が」

 体躯も大きく、中には獣の耳が見えている獣人族のその様子を、あからさまな嫌悪を示しながら睨みつける貴族もいる。

 残念ながら、獣人というものに対する偏った意識が、このラフルッタ王国の一部ではまだ蔓延はびこっている。古くからの貴族ならば尚更なおさらだ。

「……」

 だが、それは獣人国モルビド側も同様だ。

 同胞たちを悪魔の道具によって奴隷のようにこき使っていたラフルッタ王国を、そう簡単に許せるはずもない。会場の隅の方でのその侮蔑に満ちたやりとりは、発達した身体能力を持つ獣人たちの耳にも当然入っている。

「……全然友好って雰囲気じゃないですよねえ、団長」

 使節団の中にいた、明るい茶色の髪を持つ狐獣人の青年は、人好きのする笑顔を浮かべながら隣にいる男に話しかける。

「……まあ、そうだな」

 団長と呼ばれた黒髪の男は、静かに同意した。

 目立った対立はしないが、歩み寄ろうともしない。見かけだけは華やかで豪華なこの会場も、人の腹の中も並べられた料理も、すっかり冷えきっている。

 隣国との国交断絶をなんとかしようと祖国を送り出されたモルビド共和国の者たちだが、先祖が奴隷としてその命を軽視されていたことを当然忘れはしない。

 しかし、いくら身体能力が高かろうと、このラフルッタ王国の者が使える魔法というものに対しては、なす術すべはない。魔道具も同様だ。

 火と水のような相容れない存在であるのに、隣接しているという地理的状況から、友好な関係を築かなければならないという葛藤かっとうを抱えている。

「わ、あれ、なんだろ?」

 夜会会場の一角で、一際大きな歓声が上がったため、茶髪の狐獣人はそちらを振り向いた。

 とあるテーブルに令嬢たちが集まり、きゃあきゃあと賑にぎやかな声をあげている。獣人に対する悪口かと思って別の兎獣人が耳をすませたが、そういった話は聞こえてこない。

「なにやら、珍しい菓子が提供されているようですね」

 捉えた情報を団長にそのまま伝える。

「確かに、甘い香りがするね」

「ふむ……菓子か?」

 こう着状態のように思えたこの会場で、あの一角だけ空気が確かに和らいでいる。何やら小さな容器に入った黄金色の食べ物を、若い女性が喜んで食べていた。

 その隣では、茶色のタワーからとろりとした液体が噴水や滝のように上から下へと鍋に流れていく様子が見える。甘い香りは、確かに獣人たちの鼻にも届いている。

 モルビド使節団の面々だけではなくラフルッタ国の貴族たちまで呆気に取られたようにそれを見つめていることからして、何やら新しい催しであるらしかった。

「モルビド共和国使節団の皆様」

 そのちょっとした騒ぎの反対側から声がした。

 すっかり向こうの様子に気を取られていた団長と呼ばれている男の前に立つのは、柔らかな笑みを浮かべる金髪の男だ。

「この度は、長い旅路をお疲れ様でした。私はルーチェ商会のウーヴァと申します」

 しなやかに腰を折るその男は、ただの商人のようには見えなかった。どちらかといえば、貴族に近い。

「商人がなんの用だ」

 団長の隣の虎獣人が牙を剥いて威嚇いかくする。気性が荒く喧嘩っ早いことで有名な男である。

 ヒイ、と周囲から声が聞こえ、脂ぎった貴族の男どもがこちらを畏怖の表情で見つめていた。

「商人ですから、もちろん商談です。時間がないので単刀直入に申し上げますが、獣人国の皆様は〝魔道具〟には興味がありませんか」

 だが、目の前の男は全く揺るがない。未だに笑顔を崩さず、真っ直ぐにこちらを見ている。

 魔道具。忌まわしき隷属の道具。そう考えた虎獣人が今にも獣の姿に変化しようとするのを、団長は片手で制した。

「この国の若者は、歴史を学んでいないのか?」

 地を這うような声にもウーヴァは動じない。想定内である。

「もちろん存じております。ただ、魔道具はとても便利な代物でもあり、そうですね……たとえば、私のような魔力なしの元貴族でも使えるように、現在も改良を重ねています」

 ウーヴァはその紫水晶のような瞳で、自分よりも背丈も体格もいい男たちを真っ直ぐに見渡し、そして微笑んだ。

「我が国随一の魔道具師であるメーラ・ベラルディ伯爵が、モルビド共和国との取引を望んでおられます。彼女が生み出す魔道具は既に我が国でも品薄でして。たとえばあの卓では、魔道具を使って作った甘芋のパフェやチョコレートフォンデュなどを提供しております。ご興味がありましたら、ぜひ別室でお話をしたいと思っております」

 ここで怯んではいけないと、ウーヴァは自分に言い聞かせる。使節団の来訪は願ってもない好機であり、今後の自分自身の道を切り開くのに必要なことだ。

 だからこそ、体の奥底から湧き出る、今にも震え上がって逃げ出したいという本能をなんとか理性で抑え込む。

 一種の賭けのような気持ちで、ウーヴァは涼しい顔で回答を待った。

「魔力なしの元貴族……か」

 ウーヴァの言葉を聞いた壮年の団長は、笑顔の下に緊張を忍ばせるウーヴァを一瞥し、それから人が集まる卓を見る。

 先ほどよりさらに盛況となり、給仕に立つ男女も忙しそうだ。

 獣人国では力が全てであるように、この国では魔力が全て。その中で、魔力なしで生まれた元貴族の男。

「──そうだな。君の覚悟に免じて、話を聞かせてもらおうか」

「っ! ありがとうございます」

「団長!?」

「話を聞いてからでも遅くはないだろう」

 モルビド共和国の使節団の一人はそう言って、ウーヴァに手を差し出したのだった。


◇◇◇


 ウーヴァが使節団の数名と共に別室に移動していくのを、同じ会場にいた私はちらりと横目に見た。

(うまく……いっているのかしら?)

 ウーヴァのこの場での役割は、彼らの興味を引くことと、誘導すること。

 どこかピリピリとしたこの会場の空気の中で、ウーヴァは彼らと堂々と対峙していたように思う。

 私はこうして給仕のメイドに扮ふんして会場の反応を窺っていたわけだけれど、やはりまだ獣人族に対する意識は根深いように感じた。

(あんなにもふもふで素敵なのに……どうしてなのかしら)

 私はリーベスの狼姿を思い出しながら、つい口を尖とがらせる。人でありもふもふでもあるなんて、とっても良いことだと思うのに、世論はそうではない。

 できることならメーラももふもふの犬になって、黒い狼となったリーベスと野を駆けたり日向ひなたぼっこをしてみたいと思ったりもする。

 でもそうすると魔道具開発はできないから、それは困ると思う私もいる。

「……ねえねえあれって、ウーヴァ様でしたよね?」

「伯爵家を出奔しゅっぽんしたというのは本当のようね……それにさっき〝魔力なし〟だって」

「まさか! でもご本人が言うのだから。本当なのかしら……?」

「ショックですわ。社交界の恒星でしたのに!」

 パフェ作りをする私の前で、令嬢たちが声をひそめて会話を交わしている。

 やはりウーヴァは顔が広いらしく、この場で彼のことに気がついた人は多いようだ。社交界の恒星だなんて二つ名があったとは、まるで知らなかった。

「メーラ様。そろそろ移動しましょう」

 隣に立つのはリーベスだ。白いシャツに黒のベストというシンプルな出立いでたちながら、やはり彼の顔立ちも興味を引くらしく、令嬢たちがうっとりとした顔でリーベスから菓子を受け取ってゆく。

「ええ、そうね」

 そんな彼に声をかけられたため、私は後ろを振り向いて、別のメイド──一緒に来てもらっていたプルーニャとカミッラに目配せをした。

 この使節団の歓迎会の場にこうして魔道具を売り込みに来ることについて、王家からの許可はしっかりと取っている。

 王子から届いた書簡は、私の新しい婚約を勧める内容だったために放置していたけれど、その返事と称して私が願い出たのは、この隣国使節団の歓待に、魔道具を作る一族として一枚噛ませて欲しいというものだった。

 王家としても大規模な夜会を開催予定であり、貴族の一員でもあるベラルディ家にも声をかける予定だったそうなのだが、まさか給仕側で参加するとは思ってもいなかっただろう。

 私は目の前に並べられた調理魔道具たちを見る。

 ハンドミキサーにアイスクリームメーカー、フォンデュ鍋にブレンダーが並ぶ。

 モモコの発案で、旬の甘芋を用いてパフェを作る実践的な宣伝をすることになった。

 蒸した芋をブレンダーで滑らかなペースト状にし、ミルクアイスと層になるように重ねてホイップクリームを載せる。

 夜会用に食べやすく小さく作ったパフェを、完成したそばからテーブルに並べていくと、目新しいものに目がない令嬢や淑女たちは目を輝かせている。

 さらにフォンデュ鍋にはタワーのようなパーツを取り付け、さらに華やかなチョコレートフォンデュを楽しむことができる逸品となった。

 この三ヶ月の間に改良に改良を重ねた魔道具は、かなり圧縮した魔法回路を用いることで消費する魔力量を抑えることが可能となった。

 ボタン型の魔道具には凝縮した魔力を投入し、それを魔道具にセットすることで、魔力がない人でも道具を使用することができる。

「では二人とも、頼んだわね」

「はい。いってらっしゃいませ、メーラ様」

 リーベスと二人、名残惜しいが、盛況なテーブルから離れる。

 その場で食べられるパフェやチョコレートフォンデュについても、私と同じく出席者の心を掴んだらしい。

(あら……獣人の方も全く興味がないわけではなさそうね)

 色とりどりのドレスに身を包んだ令嬢たちの人垣の後ろで、獣人使節団の一員だと思われるメンバーもこちらの卓を見ている。

 既に列に並んでいる人もいて、ひとまず目立つことには成功したと言えるだろう。

 貴族は新しいものが好きだという話をウーヴァがしていたから、思い切ってこの特別な夜会を狙ってみてよかった。

 会場を出たリーベスの背中を追いながら、私も別室を目指す。

「メーラ様、お手を。お召し替えはしなくともよいのですか?」

「ええ、このままでいいわ。すぐにでもお話ししたいもの」

 私はリーベスの手を取って、先を急いだ。

 手筈てはずどおりに進んでいれば、この先の部屋にウーヴァが使節団の人を招いているはず。

 そこで改めて、ベラルディ伯爵家当主として彼らに時間をとらせてしまったことを謝罪し、それから新しい魔道具を紹介する計画になっている。

 とあるドアの前でリーベスが立ち止まる。

「緊張……されていますか?」

 ここに、彼らがいる。どうやら私は顔が少し引き攣つっていたらしい。

「ええ、とっても」

 ずっと領地に下がっていた引きこもり令嬢からそのまま当主にまでなった私だ。足りないものは圧倒的に多いし、今この瞬間も、できることなら工房に取って返して引きこもりたいとさえ思ってしまう。

 胸に手を当て、バクバクと大きく打つ心臓をなんとか落ち着かせようと、深い呼吸を繰り返す。

 それでも前に進みたいのは、私にも欲しいものができたからだ。

「大丈夫です。メーラ様には、皆がついています」

 俺も──と言いながらリーベスは私の手を引き上げ、その指先にそっと唇を落とした。

「リッ、リーベス?」

「緊張が解けるおまじないです」

 私が狼狽ろうばいすると、リーベスは悪戯いたずらっぽく笑う。確かに心臓はまだドキドキしているけれど、それは先ほどまでの不安からくるものとは違っている。

 確かに緊張は解けたような気がする。

「……えーっと、ベラルディ伯爵とその従者の方。仲がいいのは結構なのですが、そろそろ中に入ってもらってもいいですか?」

 扉が開き、呆れたような顔のウーヴァが手招きをする。私たちの存在に既に気がついていたらしい。

 ただ、その表情にはどこか安堵が見える。ウーヴァも私たちが来て安心したようだった。

「──じゃあ行きましょう、リーベス、ウーヴァ」

 私は気を引き締めて、その部屋の中へと足を踏み入れた。

 今すぐには難しくとも、魔道具の楽しさや便利さを皆に楽しんでもらいたいと思う。

 人を苦しめる道具ではなく、人を助けるものであることをわかってほしいとも。

「モルビド共和国の皆様、初めまして。ベラルディ伯爵家当主、メーラと申します」

 私は胸を張り、前を見た。

「それでは、始めさせていただきます」

 前髪もゴーグルもなく、視界を遮るものは何もない。それでも、不思議と怖くはない。

 あとでもふもふを見せてもらえたりしたらいいな、と少し不純な動機を織り交ぜながら、私はリーベスとウーヴァと共に、魔道具の説明を始めたのだ。


◇◇◇


 窓を開け放っていた執務室に、さらりと涼やかな風が入ってきた。

「すっかり秋だわ。もうあれから一年になるのね」

 私はふと書類を捌さばく手を止めて、そこに刻まれた日付けを見る。

 あの全ての変化の始まりとなった婚約解消騒動から早くも一年が経つ。

 父の後を継いだばかりで名ばかりの当主だったあの頃より、少しは当主らしくなれただろうか。そんなことを思いながら、領民から寄せらせた陳情書や、必要な書類に目を通す。

 こんこん、と執務室の扉をノックする音が聞こえて、「どうぞ」と声をかける。

 部屋に入ってきたリーベスは、以前のような従者服ではなく、正装を身に纏っていた。

「リーベス、お帰りなさい。早かったのね。お出迎えができなくてごめんなさい」

 予想外の人物がそこにいて、私は慌てて椅子から立ち上がり、彼の元へと駆け寄った。

 リーベスは目の下の隈がひどく、とても疲れた顔をしている。

「いえ、俺が早く帰ってきたかっただけですので。馬車はまだ、あと一週間は到着しないでしょう」

「まあ、もしかして……」

「はい。馬車の到着が待ちきれなかったので、俺だけ先に戻ってきました」

 馬車よりも早い移動手段──それはきっと、リーベスが黒狼の姿で駆けてきたことを意味している。獣型となったリーベスの身体能力はとても高く、隣国までの道のりも、あっという間だという。

 今回は訳あって、リーベスは彼の生まれ故郷であるモルビド共和国へと旅立っていた。馬車で往復ひと月ほどもかかるはずの全行程だが、予定より一週間も早くとんぼ返りしてきたらしい。

「メーラ様、失礼します」

「えっ」

 リーベスの側へと歩み寄ったところで、伸びてきた長い腕に掴まり、そのまま強く抱きしめられた。ぎゅうぎゅうと力を込めるものだから、背中が軋きしみそうだ。

「……メーラ様のにおいだ……落ち着く……」

「え、やだ、ちょっと、嗅ぐのはダメよ」

 私の首元に顔を埋めるリーベスがそんなことを呟くものだから、恥ずかしくなってしまう。彼の前髪が首筋に触れて、くすぐったい。まるで大きな犬さんに戯れられているようだ。

 私はお返しに、リーベスのしなやかな黒髪を撫でる。サラサラだ。

「これでようやく、触れられます。名実ともに、貴女を俺の番にできるんですね」

 うっとりとした声色のリーベスが、そんな言葉を漏らす。

「うまくいったのね」

「はい、アルデュイノさんとウーヴァさんと共に、これを」

 少しだけ体を離したリーベスは、胸元から何やら青い封蝋がついた書状を取り出した。

 そこに刻まれているのは、獣人の国との正式な通商許可と、それから、獣人国におけるリーベスの身分を認める文言だった。

「すごいわ……!」

「はい」

 私が書状とリーベスの顔を何度も確認するように視線を往復させると、リーベスはくすりと微笑む。

 あの時に話し合ってみんなで協力することに決めてから、私たちはそれぞれの役割に邁進まいしんした。

 モモコはゼンセのいろいろな便利な道具や流行りの食べ物を、イラスト付きで私に教えてくれた。それを元に作った魔道具を、商会を新たに立ち上げたウーヴァが流通させる。

 彼が手始めに手がけたパフェ専門のカフェテリアは、貴族の間でも平民の間でも人気が出て、ベラルディ伯爵家の名はあっという間に世間に広まることとなった。

 これまで細々と日用品を開発していた頃と比べて、それはもう爆発的に。

 私たちに協力することに最初は難色を示していたメローネ伯母様も、お茶会などでカフェの新作メニューや新しい魔道具について尋ねられることが増えたことが嬉しかったらしく、最近では率先して手伝ってくれている。性格も多少は丸くなった。

 そうして資金を得た私たちは、最終目標へ向かって動き出した。

 リーベスの故郷、獣人の国は、今はほとんどの国と貿易をしていない。だからそこに目をつけ、彼らでも扱えるような魔道具を作り、売る。

 獣人であるリーベスと、魔力のないウーヴァ。彼らが易々と便利な道具を扱う姿は、獣人の国でも興味を引き、少しずつ販路を拡大していった。

 そして今回、異例の早さでかの国直々の通商許可とリーベスの爵位を賜たまわることになったのだ。

 一代限りの男爵ではあるが、貴族の仲間入りをしたことは間違いない。そしてそれは、私たちの最後のハードルを乗り越えたことになるのだ。

 ようやく、正式な婚約ができる。

「メーラ様、愛しています。ずっと一緒にいて欲しいです」

「ええ、もちろんよ」

 リーベスはまた、私の首元に顔を埋める。そのまますりすりと甘えるように頭を擦り付けるものだから、可愛らしくて笑ってしまう。

 彼のふわふわの黒髪をまた撫でると、ぴくりと反応して、少しだけ動きが止まる。

「リーベス?」

 名前を呼びかけると、温かい吐息といきを感じた後、首元にちくりとした痛みを感じた。

「えっ、あの」

「メーラ……」

 顔を上げたリーベスの赤い瞳は、とろりととろけている。なんだか変だ。

 酒に酔っているような、熱に浮かされているような、どこかふわふわとした表情を浮かべている。

 私の背中に回った彼の手が、髪を束ねていたリボンをしゅるりと解いたものだから、まとめられていた髪が背中に落ちた。その間も強い力で抱きしめられたままで、私は身動きが取れない。

「リーベス、どうしたの? ほら、しっかりして」

「これまでたくさん我慢しました。もうメーラ様は俺のものです。俺の……」

「きゃあ!」

 どう考えても正気ではないリーベスの腕をペシペシと叩いていると、私は急に抱き上げられた。

 ふわりと宙に浮いてしまった以上、下手な抵抗ができるはずもなく、横抱きにされた私は、どさりとベッドの上に下ろされた。

 ギラギラと燃えるように赤いリーベスの瞳の後ろに窓の景色が見える。

 夕日はすでに姿を隠し、空の色は赤から群青色に変わろうとしている。そして、今夜は──

「メーラ様、愛しています。メーラ……」

 よそ見をしていたところ、私の唇に触れたのはリーベスのそれだった。意識を目の前の彼に戻した私は、そっと腕を伸ばして、彼を抱きしめる。

「……うん。これからはずっと一緒ね。リーベスが旦那様で、伯母様と爺やがいて。モモコとウーヴァは、私たちの義理の弟妹になるの」

「……はい」

 ふわふわと黒髪を撫でているうちに、リーベスの姿にだんだんともふもふが増してゆく。

(今夜は満月だったのね)

 空には既に、まん丸の月が浮かんでいた。

 リーベスが急いで帰ってきたのは、きっとこのこともあったからなのだろう。まだしっかりとは獣化コントロールができていないため、満月の夜だけは未だに狼に戻るのだ。

 熱に浮かされたようにしていたのは、変化の前触れだったのだろう。

「おやすみなさい。未来の旦那様」

「わふ……」

 すっかり大きな狼となったその毛並みを撫でているうちに、リーベスの呼吸は規則正しくなってゆく。

 寝食も忘れて、昼夜問わずに走り続けてきたのだろう。早く、吉報を伝えるために。

 リーベスの身体から力が完全に抜ける前に、私はそこから抜け出した。しっかりと瞼を閉じて、狼のリーベスは眠ってしまっている。

「──おやすみ、リーベス。よい夢を」

 もふもふとした頭を撫でて、ベッドから離れる。

 私もこの吉報を伝えなければ。他でもない、大切な義妹に。

 モモコの部屋を訪ねると、彼女はまた机に向かって何かをガリガリと描いていた。

「モモコ。あなたに報告があるの。ウーヴァは約束をやり遂げたわ。……貴女もそろそろ、結論を出さなくてはね」

「ひゃっ」

 モモコの部屋で彼女にそう伝えると、それこそ桃のように淡く頬を色づかせる。

 この一年、ウーヴァの猛攻はすごいものだった。

 我が家に来るたびにモモコに甘い言葉を投げかけていたし、どこから入手したのかは知らないが、モモコの好みのセリフやらシチュエーションを学び、実践していた。

『オシからの供給が過多……!』と度々言っていたモモコも、そろそろネングノオサメドキというやつなのだろう。

 モモコがぼそぼそと呟いていただけだから、正確な意味はわからないけれど。

「けっ、結論はずっと前に出てるんです、出てるんですけど……ウーヴァさんの前だと、きっ、緊張するんです!」

「あなたたちもいずれ夫婦になるのだから、いい加減慣れないと」

「うわーーん、お義姉様の方がいつの間にか恋愛上級者になってるぅぅぅ」

 こうして騒がしいモモコも、一週間後にウーヴァが訪ねてきたら、また顔を真っ赤にしてしおらしくなるのだろう。

 ウーヴァがこの機会を逃すはずはない。確実にモモコにしっかりと求婚するに違いない。

 そしてモモコも、恥じらいながら頷くのだ。その様子は容易に想像がつく。

 私はモモコとなったペスカを見つめながら、感慨深い気持ちになった。

 一年前とはまるで違う家族の形が、確かにここにあった。

 これからがますます楽しみだ。リーベスがいて、モモコたちがいて、みんなで支え合って、また家族が増えて……そうしたら、どんなに素敵なことだろう。

(とても楽しみだわ。これから先のことも、ずっと)

 私は顔を真っ赤にして嘆いている義妹の……モモコの頭を撫でながら、大きな幸福感に包まれていた。