第八章 作戦会議


 私がリーベスの秘密を知ってから、早くも三日が経とうとしている。

 籠かごにたくさんの食べ物を詰めて、私は工房の扉を開いた。

 もはや私の別邸と化しているこの場所の、普段はあまり使わない奥の部屋へと迷わず進む。

「リーベス、具合はどう?」

 部屋に入るなり、私は目の前に横たわるリーベスに声をかけた。

 だけど、それらしき返事はない。

 代わりに聞こえるのは、「ぐる……」という可愛い鳴き声と、それから耳をぺたりと下げた姿。

 大きな身体を小さく丸めた黒いもふもふが、赤い瞳で私の方を見ている。

 弾けるようにもふもふの姿になったリーベスは、あれからずっとこのままの姿でいる。

 爺やの話によると、彼はこの黒い犬さん──じゃなくて、狼の姿になると、おしゃべりができなくなるらしい。

 獣人は不便ね、とも思ったのだが、どうやらそれはリーベスだけが特殊ということだった。

『本来であれば、獣人は獣の姿でも自由に話せますし、変化も自由自在です。……ですが、リーベスはどうやら〝そう〟ではなかった。だから群れから捨てられた可能性が高いのです』

 リーベスがこうして黒い狼の姿になってしまった初日、爺やはそう教えてくれた。

『捨てられた……』

『国境近くの孤児院にいたと本人は言っていますが、なにぶん幼い頃なので記憶がないようで。獣化のコントロールもできていなかったので、孤児院の前に捨てられたのではと』

『まあ……』

 爺やが語るリーベスの出自は、私が思ったよりもずっと悲しい話だった。

『この邸で、リーベスを見つけたのはメーラ様でしたね。大変安心したと思います』

 爺やは、静かにそう教えてくれた。

 我が家に迷い込んできた傷だらけの仔犬は、幼い頃に故郷を追われたリーベスだったらしい。

 獣人であれば、隣国モルビドの出身になるはず。そこから国境の孤児院、我が伯爵領に到るまでの間、小さいリーベスは──あの黒い仔犬はずっと独りだったのだ。

 それから、私が知らないうちに、爺やはリーベスを保護して、こうしてここまで面倒を見ていたというのだ。

『……私、知らなかったわ』

『この国には、まだ根強い差別があります。それに、どうしてもお嬢様の元で働きたいと言うリーベスの真剣な眼差しを見たら、手を差し伸べずにはいられなかったのですよ』

 目を細めながら、爺やは私とリーベスを交互に見た。その頃からずっと、私たちのことを見守ってくれていたのだろう。

 厳しくも優しい、爺や。

 家族以上に、大切な人だ。

『満月の前後だけ獣化してしまうことがわかってからは、人気のない小屋で過ごさせるようにしていたのですが……何分、それ以外で獣化することはなかったので、原因がわかりません』

 爺やは困り果てたようにため息をつく。

『リーベスのお休みは、そのためだったの?』

『はい。どうしてもその期間だけはお嬢様の従者を務めることができませんので』

『そうだったのね』

『では私めは、この現象を解決するために各種文献を漁ってきます。リーベス、安心して過ごしなさい』

 爺やは優しい眼差しを黒い狼に向けて、そっと、ひと撫でする。それから急いで部屋を出ていったのだった。

 ──未だに原因はわからず、奔走ほんそうの日々は続いている。

 私はそんなやりとりを思い出しながら、籠から食べ物を取り出した。

「リーベス。あなたに食事を持ってきたわ。爺やから聞いたとおりに、果物と、それからお肉と……」

 リーベスの前に食事を並べると、彼はのっそりと立ち上がり、私の隣にお座りをした。

 その背中をふわふわと撫でると、心地いい温もりが返ってくる。

(元の姿に戻れなかったら、ずっとこのままなのかしら)

 そんな思いが去来する。この姿も可愛いけれど、やっぱりお話もしたい。

「──今日はモモコと隣の部屋で、また新しい道具を作るの。ブレンダーというのですって。新鮮なジュースを作るものらしいわ」

「くるる……」

「大丈夫よ、きっと爺やが何とかしてくれるもの」

 どこか不安げな声を出すリーベスに、私は微笑みかける。

 そうだ。今一番不安なのは、本人だ。

 私はそう思い直す。きっと解決策は見つかる。

「これから少し騒がしいかもしれないけど、我慢してくれる?」

 そう問いかけると、黒い狼はこくりと頷いた。

 それからしばらくすると、工房にモモコがやってきて、本格的にブレンダーとやらの製作に取り掛かることになった。

 例に漏れず、彼女のスケッチブックには素晴らしい絵が描かれている。

 それを見ながら、そして、モモコから説明を聞きながら、私は詳細な設計図を作り上げてゆく。

「……お義姉様とこうして開発するの、すっごく楽しいです。わたしは絵を描いてるだけですけど」

「まあ。でも貴女の絵や発想がなければ、きっと私も大したものは作れないと思うわ」

「えへへ。じゃあわたしたち、最強姉妹ですね!」

 照れたように頬を染めながら、モモコは満面の笑みを見せる。

 これから先も、こうして過ごせたら楽しいだろう。そう思っていると、彼女は急に眉を顰ひそめた。

「……ところで、リーベスさんって、まだあのもふもふのままですか?」

 声量を下げ、心配そうに私を見つめるモモコに、私はこくりと頷いた。

「ええ。そうなの」

「……そうですかぁ~。絵本とかだと、こういう展開なら、お姫様のキスとかで元に戻ったりするんですけどね~」

「キス……?」

「呪いで獣の姿になった王子が、真実の愛を知った時に元の姿に戻る、なんてのもありましたね」

「真実の愛……」

「あっ、でも、爺やさんが何か見つけてくれるといいですね……。お義姉さまとリーベスさんが困ってるのに、童話のことを持ち出したりして、不謹慎でした……」

 言いながら、モモコの声はしゅるしゅると小さくなる。その桃色の瞳は慮おもんばかるようにわたしの様子を窺っている。

「心配してくれてありがとう。原因がわからないから、なんでも試してみる価値はあると思うわ。道具作りも、試行錯誤の繰り返しだもの」

「お義姉様……!」

「じゃあ早速試してみましょう」

「うんうん、頑張って……って、えっ、お義姉様!?」

「キスをしたらいいのね」

「決断が早い!」

 なんだか糸口が見つかったような気がして、私は立ち上がった。モモコが戸惑っている声も聞こえたが、今はこの可能性に縋りたい。

 私の気持ちは告げたけれど、そのままこうなってしまったため、彼の気持ちは聞けずじまいだ。

 ──ただ手をこまねいているよりは、試してみた方がいい。お祖父様も、何度も挑戦しながら魔道具を開発していたもの。

「リーベス、ちょっといいかしら」

 そう思った私は、リーベスがいる部屋の扉を思いっきり開けた。

 私が急に部屋に入ってきたことに驚いたのか、寝そべった状態から頭を起こした彼の両耳はピンと空を向いている。

 どうやら眠っていたらしい。

 話せはしないけれど、物問いたげに首を傾げる仕草は、とにかくもふもふで可愛らしい。

「リーベス、ちょっと試したいことがあるの」

 歩みを進める私は、あっという間に彼の元へと辿り着いた。

 そしてしゃがんで姿勢を落とすと、まずは顎下のもふっとした場所を撫でる。

「ふわふわ……」

 くすぐったそうにしながらも拒否しないということは、リーベスにとっても気持ちがいいのだろう。

 こっそりプルーニャに仕入れてもらった『犬の育て方』の本を熟読した甲斐があった。

 そのまま両手で耳の後ろをわしゃわしゃとすると、ピンと立っていた耳は垂れ下がり、リーベスはうっとりと瞼を閉じてしまった。

(──よし、試すなら今ね)

 両手でわんちゃんの耳の後ろを撫でながら、私はそっとその額に唇を落とした。

 かなり昔、寝る前にお父様がやってくれたことがある。後にも先にもあの一回だったけれど、だからこそ印象に残っているおやすみのキスだ。

「!!! わふっ!?」

「きゃっ!」

 額にキスをした途端にリーベスが飛び起きるものだから、体勢を崩した私はそのまま彼に倒れ込んでしまった。

 驚いて目を閉じて衝撃に備えると、もふっとした毛皮に包み込まれた。そしてその拍子に、何か湿ったものが私の唇を掠めたような気がした。

「……メーラ様」

 目を閉じていると、下から聞こえてきたのはいつものリーベスの声だった。

 そういえば、先ほどまで感じていたもふもふの毛の感触はない。

 確かにぎゅうと包み込まれてはいるが、それは、人の腕だ。

 目を開けると、いつものリーベスがそこにいた。

「リーベス、元に戻ったのね」

「……はい。なんとか……」

「良かったわ、心配したのよ。ああでも、犬さんの姿もとっても可愛かったのだけれど」

「……あの、メーラ様」

「どうしたの、リーベス? 何か身体の調子でも悪いのかしら」

「大変言いにくいのですが、俺の上から降りてもらえますか。……その、目を閉じたまま」

 リーベスの顔が赤く染まり、赤い瞳は心なしか少し潤んでいるように思う。

 彼の言葉にハッとして自分の状況を顧みると、赤くなるのは今度は私の番だった。

 一糸纏わぬ姿(多分)の彼の上に、馬乗りになっている。そうだった。リーベスはこの前もそういうことを言っていた。

「……! ご、ごめんなさい、リーベス。すぐにどくわ……!」

 再び目を閉じて、その上にさらに自らの両手を添えてしっかりと自分の視界を遮ると、私はあたふたと彼の上から降りた。

 自分の顔が、湯気を出しているのではと思うほどに熱い。

 真っ暗な視界でその場に座り込んでいる私の耳に、がさがさと何か衣擦れのような音が入ってくる。

(……確か爺やが、着る物を用意していたはずだわ。それを見つけたのかしら)

 頭の中で努めて冷静に私がそう考えていると、部屋の外から誰かの話し声と、足音が聞こえてくる。

 ──どうやらそれは、この部屋に向かってきているようだ。

「メーラ様! ようやく原因がわかりましたぞ!」

「あっちょっと、爺やさんってば~!」

 扉の開いた音とその声に、私は目を開ける。

 強く瞼を押さえていたからか、少し白みがかった淡い視線の先には、嬉々とした顔の爺やがいて。

 その後ろでは困った顔のモモコが、爺やを懸命に引き留めようとしていたようだった。

「おやリーベス。戻ったのか」

「リーベスさん、戻ったんですね! ということは……ひええええ、おとぎ話って最高!!」

 二人の様子に、私もちらりと後ろを振り返る。

 リーベスは既にズボンとシャツを着込んでいて、今は袖口のカフスボタンを留めているところだった。

「……このたびはご心配をおかけしました。メーラ様。それに、モモコ様とアルデュイノさんも」

 目が合うと、赤い瞳を細めてゆるりと微笑まれる。

 その表情はとても柔らかく、そしてなんだかとてもキラキラと輝いて見える。

「戻ったということは……リーベス、もしかすると」

「……おそらく。そうだと思います」

 爺やとリーベスに意味ありげな視線を向けられた私は、もちろんなんのことかわからずに首を傾げる。

「メーラ様、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか。話をしたいのです」

 私の前に跪ひざまずいたリーベスは、殊勝しゅしょうな態度でそう述べる。座り込んでいる私より、少しだけ高い目線。真剣な表情に、私はこくりと頷く。

「……では」

「きゃあ、リーベス!」

「しっかり掴まっていてくださいね」

 ふわりと横抱きに抱きかかえられ、その浮遊感に慌てて彼にしがみつく。そしてそのままの状態で、リーベスはスタスタと歩き出した。

 背後からは「お姫様抱っこ……!」というモモコの声と、「そういえばモモコ様、ウーヴァ様がいらしていますぞ」という爺やの声がする。

 なんとなく、慌てふためくモモコの様子を思い浮かべつつ、私はしっかりと彼に掴まった。

 私を抱えたまま、リーベスはどんどん歩みを進める。

 そのまま屋敷を出て向かった先は、庭園の一角だった。

 四阿あずまやが設置されたその場所は、私が小さい頃からよくお散歩の途中で休憩していた場所でもある。

「メーラ様。この場所を覚えていますか。幼い貴女が、私を見つけてくれた場所です」

 彼の腕の中にいる状態のまま、私はリーベスを見上げた。優しい瞳が私を見ている。

 その様子に、私はこくりと頷いた。

「ええ、もちろん。あっちの茂みから、黒いわんちゃんが出てきたの。よく覚えているわ」

 一人で遊んでいた時、ごそごそと揺れる茂みを固唾かたずを呑んで見つめていたら、そこから現れたのは仔犬ちゃんだった。

 震えていて、どこか不安そうに私を見上げていたことを、昨日のことのように思い出す。

「あの時、貴女が拾ってくれて本当に救われた。だから恩返しがしたいと思いました。アルデュイノさんは、突然また変化が解けて人の姿になった俺を見つけて保護してくれたのです」

「……じゃあ、あの時すぐにいなくなったのは」

「メーラ様が工房に用事があると言って庭園を去った後、人型になりました。それをアルデュイノさんが見ていて、事情を知って匿かくまってくれました。俺が獣化をコントロールできるまで。お陰で、満月が近づく数日以外は人の姿でいられるようになったのです」

 そう言ったあと、リーベスは私を四阿のベンチにゆっくりと降ろした。

 てっきり彼も隣に座るのかと思ったのだけれど、私の手を取ったまま、リーベスは座る私の前に跪く。

「……ずっと、従者としてお仕えするつもりでした。ウーヴァ様と結婚したその後も。忌いまわしいこの身が許す限りは」

 そっと指先に触れたのは、リーベスの唇だ。

 その仕草にどきりとしていると、そのまま顔を上げたリーベスは、射るような瞳を私に向ける。その色は、燃えるような赤だ。

「……ですが、あなたの気持ちも知ってしまっては、もう手遅れです。あなたは俺の番ツガイだ。愛しています。もう俺からは手放せません」

「つがい……?」

「獣人にとって、生涯の伴侶はんりょです。この先、貴女が他の者を好きになったとしても、俺はそれを許さないでしょう。俺があなたに選ばれなかったとしても、その男を鋭い爪で引き裂いてしまうかもしれない。……そんな俺が、怖くはありませんか?」

 リーベスは真剣な表情を崩さない。私の右手を掴む彼の手に、少し力が入ったように感じる。

 番つがいという言葉を聞いたのは初めてだったが、それが獣人にとって大切な存在であることは伝わってくる。

「それに、獣人は魔法が使えません。ウーヴァ様が思い悩んでいたように……その、貴女の稀有な才能が、この伯爵家の歴史が途絶えてしまうかもしれません。ただでさえ身分が違うのに、俺の存在は貴女にとって邪魔になってしまう。だから──」

「ふふっ」

 彼の言葉を頭の中で反芻はんすうした私だったけれど、出たのはそんな笑い声だった。

 まだ話の途中だったがために、呆気に取られたような顔のリーベスが私をじっと見ている。

「だから」のその先は、聞かなくてもいい気がした。私がリーベスを好きで、リーベスも私を大切に思ってくれている。それでいいと思うから。

「それって、とっても素敵だわ! リーベスは、これからもずっと私と一緒なのね」

 知らない人と家を出て行ったお母様。

 お母様よりも仕事を大事にしていたお父様。

 遊び人として有名だった伯父様。

 いつも高圧的で、冷たい伯母様。

 私の周りにいたのは、そんな人たちだった。

「リーベス。私と、本当の家族になってくれる? 貴方のホットケーキを、ずっと食べたいわ」

 ずっと欲しかった。そんな人が。

 仮初かりそめめではない、大切な人が。

「──っ、もちろんです。メーラ様」

「難しいことは、爺やにも相談しましょう。もう、一人で悩んでいてはダメだからね」

 これからのこと、身分のこと、獣人のこと。きっと解決しなければならないことはたくさんあるけれど。

 この伯爵領で、これまでと変わらない生活を送る分には何の問題もない気がしてくる。

 左手をそっと差し出して、彼の頭に載せる。

 そのまま柔らかな黒髪をふわふわと撫でると、不機嫌そうな顔のリーベスがそこにいた。

「……俺は、今は人型です」

「ふふっ、この姿の時も、撫でてみたかったの」

 笑いながらそう言うと、無表情になったリーベスはさっと立ち上がった。あっという間に私を見下ろす形になる。

 首を傾げた私に対して、リーベスは相変わらず憮然ぶぜんとした顔だ。

「──じゃあ、俺も好きにしますね」

 ずっとここに触れたかったので、という掠れた声が聞こえたあと。

 彼の親指に軽くなぞられた私の唇は、そのままゆっくりと塞がれることになった。


◇◇◇


(メーラ、遅いな)

 今日も今日とて、ウーヴァは待ち人来らずの状態だ。

 用事があるといってベラルディ伯爵家当主直々に呼び出されたわけだが、どういうわけだか一向にメーラはこの場に現れない。