ベッドの横にある椅子に腰掛けたリーベスは、そう言って微笑んでくれる。

「ありがとう。絶対よ? 眠るまでそこにいてね?」

「今日のお嬢様は、随分と甘えん坊ですね。──仰おおせのままに。ごゆっくりとお休みください。そうだ。絵本でもお読みしましょうか?」

 冗談っぽくそう告げるリーベスに、私は安心して笑顔を返した。

 先ほどまでの悪夢が少しチラつくけれど、指先から伝わる温もりが、それを溶かしてくれる。

「……ううん。そこにいてくれるだけでいいわ。ありがとう、リーベス。帰ってきてくれて」

 リーベスの手を、私も両手で包み込む。

 それからその温かな手をゆっくりと引いて、頬ずりをした。大きな手が気持ちいい。

「メ、メーラ様……!?」

 戸惑うようなリーベスの声が聞こえたけれど、私はゆっくりと瞳を閉じる。

 リーベスが帰ってきた。嬉しい。

 確かな安心感に包まれて、三日ぶりに穏やかな気持ちで眠りにつくことができた。

 リーベスがそばにいてくれたからか、悪夢に魘うなされることもなかった。


◇◇◇


「──メーラ様。ここ二日、あまり食事をとられていないとプルーニャから聞きました。消化のいいスープと、お好きなホットケーキをご用意しました」

 何度目かの微睡まどろみから目を覚ますと、部屋には美味しい匂いが充満していた。

 リーベスが押してきたワゴンには、深めのスープ皿とホットケーキが載っている。

 満月のようにまあるいホットケーキはいつもどおり三段に重なっていて、バターの芳醇ほうじゅんな香りとシロップの甘い匂いが同時に鼻腔をくすぐる。

(とっても美味しそうだわ)

 ぐっすりと眠ったり少しの間覚醒したりを繰り返しているうちに、なんだか気分も体調もスッキリしたように思う。

 身体は正直なもので、途端に胃がぐうぐうと動き出して痛いくらいだ。私はそっと右手でお腹をさする。

 リーベスお手製のホットケーキ。もちろん食べないなんていう選択肢があるわけがない。

「食べられる分だけで大丈夫ですよ。急にたくさん食べるとよくありません」

「……でも、お腹が空いたわ」

「まずはスープを。それから、ゆっくり食べていきましょう」

 すぐにでもホットケーキにナイフを入れたかったけれど、リーベスは私のために言ってくれているのだから、それを無下にするわけにはいかない。

「わかったわ。ありがとう」

 ホコホコと湯気が上がるスープは、これもまた好物の南瓜ポタージュだ。おひさま色のスープをひと掬すくいして口に運ぶと、温かく甘く、体にじんわりと染み渡るようだった。

「……美味しい」

「よかったです。顔色も随分よくなりましたね」

「ええ。今ならホットケーキもたくさん食べられそう!」

「たくさんはダメです」

「でも……とってもお腹が空いているのよ?」

「ダメです。胃が驚いてしまいますから」

「……わかったわ」

 厳しい顔をしたリーベスは、絶対にお代わりを許してくれなさそうだ。

 残念だけれど私はこれ以上の説得を諦めて、目の前にある三枚のホットケーキをゆっくり味わって食べることにした。三枚は大丈夫という判断らしい。

 とろけたバターの塩気とシロップの濃い甘み、その二つを受け止めるふわふわのホットケーキ。ひと口食べれば、その美味しさに次々とフォークを走らせてしまう。

「メーラ様。ゆっくりしっかり三十回噛んでくださいね」

「まあ! 私はもう十八歳で大人なのに、ふふ」

 幼子を嗜めるようにリーベスが人差し指を天に向けるものだから、私はおかしくなって笑ってしまう。

 あれだけ食欲がなかったのが嘘のように、私はリーベスが作ってくれたふわふわのホットケーキをぺろりと平らげることができた。

「リーベス、ごちそうさま。私、貴方のホットケーキがとっても好きだわ」

「お口に合ってなによりです」

 大満足で食べ終えると、リーベスは迅速じんそくに皿とテーブルを片付ける。

(いろいろと嫌な思い出も多いこの家だけれど、リーベスと一緒に過ごした思い出はとても大切なものだわ)

 真面目に働く従者の横顔を眺めながら、私はそんなことをぼんやりと思う。

 本当に、リーベスにはお世話になってばっかりだ。

「そうだわ、リーベス。何か欲しいものはない?」

 日頃の感謝の気持ちから、私は彼にそう提案した。

 一瞬動きが止まったリーベスは、不審なものを見るような目でこちらを振り向く。

「どうしたんですか、急に」

「いつもお世話になっているから、何かお返しできたらなと思ったの。私、結構いろいろ作れるから、魔道具でもいいわ」

「……大丈夫です。俺には必要ありません」

「そんなこと言わずに。魔道具じゃなくても、なんでもいいのよ?」

「──っ」

 ガシャン、と大きな音がした。

 どうやらリーベスが手を滑らせて、片付け中のお皿がぶつかってしまったらしい。幸い割れてはいないようだけれど、リーベスがこういうミスをするなんて珍しいことだ。

「リーベス、大丈夫……? 本当になんでもいいのよ。うちは蓄えもあるし、貴方へ贈り物をするくらいの甲斐性はあるわ」

 皿をまた片付け直すリーベスの背中に、私はまたそう投げかけてみる。私のような若輩者がこの伯爵家の当主を務めていることで心配させているのかもしれないけれど、お祖父様とお父様が作り上げてきた発明品の売却益はまだまだ健在だ。

 少し高価なものだって作れるし、購入もできる。

 そんなことを考えていると、リーベスの肩がびくりと揺れて、大きなため息までもが聞こえてきた。

「……次からは、俺がいない時には倒れないでください」

 リーベスの赤い瞳は、とても真剣だった。

 月に三日しか取らない大切な休暇のタイミングで主人が体調を崩したとなれば、責任を感じてしまうのもわかる。

「気をつけるわ」

 私も神妙な顔で返事をする。

 リーベスはそっと私の方へ近づいてきて、ゆっくりと手を伸ばす。彼の長い指が頬に触れ、親指で目の下をそっと擦られる。

 手袋の質感がどこかくすぐったい。

「泣くのもダメです。少し腫れてしまっていますね。食事のあとは目を冷やしましょう」

「……ありが、とう」

 魘されながら、私は泣いていたらしい。ぱちぱちと瞬きをしていると、ふとリーベスに顔を逸らされた。

「準備してきます」

 そしてそのまま、従者は部屋を出て行く。

 リーベスがいなくなると、途端に寂しくなったような気がする。その日は結局そんな調子で、ふわふわとした夢見心地のまま一日がゆっくりと過ぎた。


 翌朝目を覚ますと、明らかに体調が良くなっていた。

「よし。身体もすっかり軽い」

 私は大きく伸びをした後、食堂に下りて食事をとることにした。

 そうすると、ちょうど入り口の前でモモコに出会う。

「あっ、お義姉様! もうお身体は大丈夫なんですか?」

 私を見つけたモモコは、花が咲くような笑顔になる。それから俊敏に駆け寄ってきた桃色の大きな瞳が、私を覗き込んだ。

 眉をへにょりと下げて不安そうなその表情から、モモコの気持ちが伝わってくる。

「ええ。ありがとう、モモコも何度も様子を見に来てくれていたわよね」

「はい……心配で……! でも、お元気になって良かったです」

 にこにこと愛らしい笑顔を浮かべるモモコに礼を言って、一緒に食堂に入る。

「早速だけど、今日からまた作業をするわ」

「そうなんですか? わたしもご一緒したいです」

「もちろんよ。私も助かるわ」

 朝食をとりながら、私とモモコは数日ぶりに工房で作業をする約束を交わす。

 ──そしてそれから半刻後には、私たちはもう工房にいた。

 作業が途中になっていたフォンデュ鍋の試作品を完成させることが今日の目標だ。

「ふんふ~ん。推し~萌え~」

 工房で作業をしながらふとモモコを見ると、また楽しげに絵を描いている。謎の鼻歌まで歌って、随分とご機嫌だ。

(オシとモエ。モモコがよく使っている言葉だわ。……あら?)

 そんな分析さえできるようになった私がモモコを見ていると、ふとその顔に違和感を覚えた。

「モモコ、その傷は何?」

 その白い頬に、うっすらと赤い線のようなものが見えたのだ。

 突然の問いかけに驚いたらしいモモコは、慌てて紙を隠すように腕で覆うと、困ったように私を見上げる。

「ふえっ! あっ、いえ、えーっと、これはあの時お母さまの爪がぶつかったみたいで、えへへ」

 頬を叩かれた時に、メローネ伯母様の爪が引っかかり、傷になってしまったという。

「まあ、あの時の……」

「わたしも気がつかなかったんですけど、全体の腫れが引いたら傷になってて。ウーヴァさんに言われて気がつきました」

「そうなのね。痛くはない?」

「はい。ほとんど痛くないので大丈夫です。爺やさんにもよく効く軟膏なんこうを出していただきましたし、そのうち消えますよ~」

 えへへ、と笑うモモコを暫く見つめる。

 そこまで深い傷ではなさそうだから、時が経てば消えてしまうだろう。その点は安心だ。

「……メローネ伯母様は、その、よくペスカを叩いていたのかしら?」

 あの日聞けなかったことを、私は尋ねる。

 モモコの言葉を借りれば、そのようなことを言っていたように思う。その時はバタバタとしていて、しかもそのあとは他でもない私自身が体調を崩してしまったものだから、その答えをずっと聞けずにいた。

「……そう、ですね。記憶によれば。この屋敷に来てから、何かとお義姉様と比較しては叱しかられていたみたいです」

「知らなかったわ。伯母様はいつも私の前ではペスカのことを褒めていたから」

「うーん、そういうのもあって、ペスカはいろいろと捻ねじれちゃったのかもですね……って、まあ、わたしのことなんですが」

 寂しげに笑うモモコの表情に、かつてのペスカの姿を重ねる。

 私は義妹という存在が苦手だった。

 いつもどこか高慢で、それでいて甘えた仕草で、でも狡猾こうかつで──

 それでも母親がいて、その人から一身に愛されているように見えた。

 もしかしたら、そんなところが羨うらやましかったのかもしれない。綺麗なドレスを着てクルクル回ると「可愛いわ」と褒めてくれる唯一無二の存在がいることが。

 ペスカも寂しかったのかもしれない。歪な家族の中で、私と同じように。

 そう思うと、これまでのことが、少しだけ違って見えるような気がした。

「そういえば、モモコはあれからウーヴァと会って仲直りでもしたの? あの時は結局バタバタ帰ってもらうことになったと思ったけれど……」

 いろいろと考えていたら、先ほどのモモコの言葉に少し引っかかりを覚えた。

 さっき彼女は、頬の傷のことをウーヴァから指摘されたと言っていた。そんな話ができるような距離で、二人が話したということだろうか。

 そしてそれは少なくとも、すぐに解散したあの日ではない。

「私が寝込んでいる間に、ウーヴァが訪ねてきたのかしら?」

「……っ、お義姉様ってば名探偵ですね~~~!」

 首を傾げながらそう問うと、何故だかモモコは顔を真っ赤にして恨めしそうに、そう叫んだ。当たりのようだ。

「……ウーヴァさんはあの日は『日を改める』と言って帰ったんですが、翌日に再度訪ねていらして。でもお義姉様が倒れられてお辛そうだったので、わたしが対応していました。勝手なことをしてごめんなさい」

 どことなく目を揺らしながら、モモコがそう説明してくれる。

 本当はあの日も、ウーヴァは何か急用があって訪ねてきたのだろう。だけれど、運悪くメローネ伯母様と鉢合わせしてしまい、それが叶わなかった。

 その後体調を崩してしまったのは私が悪い。ただ、ウーヴァも事前に来訪を伝えておくなどの手段もあったわけなのだからとも思ってしまう。

「ありがとう。モモコ」

 礼を言うと、モモコはふるふると首を左右に降った。

「わたしもウーヴァさんに以前のことを謝りたかったので、この機会にと思いまして! そう思って謝ったら、ウーヴァさんの方も謝ってくれて……なんというか、爺やさんが止めるまで、二人でずっとお互いに謝り合っていました」

 応接間でぺこぺこと頭を下げ合う二人。

 以前だったらきっと想像もつかなかった状況ではあるけれど、今となっては容易に想像がつく。

「そう……。それでどうして、モモコはウーヴァの絵を描いているの?」

 先ほどは、男女二人の人物画のようなものがちらりと見えた。モモコは時折、こういった絵を描いている。なぜかよく隠しているけれど。

「ぶえええええ!? えっ、なっ、お、お義姉様、みみみみ%#¥$!?」

 私の問いかけにモモコは、ガタリと机に手をついて勢いよく立ち上がった。

 耳まで真っ赤に染め上がり、悲鳴のような奇声のような声をあげている。

 立ち上がったせいで先ほどよりもよく見えるようになった彼女の手元の紙の中で、金髪を揺らすウーヴァのような人物がふんわりと微笑んでいた。

「ちちちち、違っ、こここっ、これは推しのファンアートですから! けけけ、決して、ウーヴァさんではありませんっっ」

「オシ」

「はいっ、そうです、推しですからーーー!! ウーヴァさんではないですので! 解釈違いです!!!!」

 ばばばば、と音がするくらい俊敏な動きで、モモコは絵を書いていた紙をめくる。

 そのせいで、先ほどからちらちら見えていた微笑みのウーヴァの姿は、全く見えなくなってしまった。

 その姿形と金髪の造形がどうもウーヴァのように見えたため、てっきり本人を描いているものだと思っていたけれど、違ったようだ。

(私がフォンデュ鍋を作っている間、にこにこと楽しそうに笑顔を浮かべながら絵を描いていたモモコはとっても可愛いかったわ)

 楽しそうに、時折謎の笑い声を挟みながら作業をしているモモコがちらちらと見えていた。それをとても微笑ましく思っていたのだ。

 私に、誰かを『可愛い』と思える気持ちがあったことを再認識させられた。

「私の勘違いなのね。ごめんなさい」

 オシという概念はわからないが、彼女が言うオシという存在がウーヴァに似ていることはなんとなくわかった気がする。

「ほっ、ほんとに違いますからね!? ウーヴァさんのことを、そんな怪しい目でなんて見てませんから」

 違いますから、と何度も念を押すモモコに謝って、私は作業に戻る。

 オシ。

 とっても好きなもの、という意味なのだろうか。

 作業をしながら、私は少し考え事をする。

「……ねえ、モモコ。あなたって、絵ならなんでも描けるの?」

 可愛い、という単語で懐かしい記憶を思い出した私は、モモコにそう問いかけていた。

 私の思い出の中にある、唯一の可愛いもの。小さい頃、うちの庭に迷い込んだ小さな命。

「よっぽど複雑じゃなければ。何度も言いますけど、これはウーヴァさんじゃないですからね!」

 警戒させてしまったのか、モモコは私から隠すように紙を厳重に抱きしめてしまった。

 相変わらず顔は赤く、瞳は潤んでしまっている。

「あのね、仔犬の絵を描いてもらいたいの。黒くて小さくて、お目目がまん丸で可愛い子」

 そんなモモコに苦笑しつつ、私はそうお願いした。

 快く承諾してもらい、それからお互いに黙々と作業をすること小一時間ほど。

「できた!」と声をあげたのは、私とモモコがほとんど同時だったように思う。

 私は顔を上げて、モモコに声をかける。

「モモコ、できたわ。例のフォンデュ鍋よ」

「お義姉様、わたしもできました! ふわふわ仔犬ちゃんですっ」

 少し興奮しながら、お互いに完成品を得意げに見せ合う。

 私の手元には、桃色のコロンとした、形をした陶器のような見た目の小さな鍋。

 下のコンロ部分とはかっちりと底が噛み合うようになっていて、温度調節のためのつまみもつけた。

 これで、焦げやすいらしいチーズフォンデュやチョコレートフォンデュを適温で楽しむことができるはずだ。

 微力ながらも、ほとんど全ての属性の魔法を扱えるのは、ベラルディ家の血筋と言えるものだろう。

 そしてモモコが掲げる紙の中には、あの仔犬がいた。丸くてふわふわで、つぶらな瞳の可愛いあの子だ。

「モモコ、すごいわ。あの子ね……!」

「ええっ、お義姉様すごすぎです! お鍋めちゃくちゃ可愛い~! やっぱり最初はチョコからにしますか!?」

 お互いの作品を見て褒め合っているところに、工房の扉がノックされる音がする。

 時間的に、きっとリーベスだろう。

「どうぞ」

「失礼いたします。お茶の時間にいたしませんか」

 声をかけると、やはりリーベスの返事がある。

 そして扉を開けた彼の元へ、私はモモコが描いた絵を持って一目散に駆け出した。

「ねえ見て、リーベス! 可愛いでしょう? モモコが描いてくれたの。私が小さい時に、ちょっとだけお世話した仔犬なの。あなたにも見せたくて」

「……!」

「黒い毛がふわふわで、赤いお目目がまん丸で。お芋をたくさん食べたのよ」

 驚いたような表情のリーベスに構わず、私は話し続ける。

 あの仔犬と出会ったのは、リーベスがこの屋敷に来る前のことだ。

 庭園で見つけた小さな黒い仔犬は、ちょっとだけ汚れて震えていたけれど、洗って乾かしてあげると、すぐにふわふわになった。

 そして、その頃からメイドをしていたプルーニャが持ってきたふかし芋を、はぐはぐと勢いよく食べたのだ。

 とても可愛く、初めてに近い我儘を言って、夜も一緒に眠った。

 お父様にも勇気を出して話をして、飼うことができるようにといろいろ考えた。だがその仔犬は、一週間もしないうちにいなくなってしまったのだ。

 既に家を出て行ったお母様と、書斎にこもりきりなお父様。

 一人で過ごす私の寂しさを埋めてくれる、とても素晴らしい存在だった。だから、いなくなった時は、たくさん泣いた記憶がある。

「……リーベス?」

 嬉々として彼に絵を見せた私だったが、リーベスから返事はない。

 いつもだったら、「可愛い絵ですね」とか「素敵ですね」と言ってくれるはずなのに、彼はその絵を凝視したまま固まっている。

「あっ! なんかこの仔犬ちゃんって、リーベスさんと感じが似てますね。髪の毛が黒いところとか、目が赤なところとか」

「そう言われるとそうね」

 明るいモモコの言葉に、私は相槌あいづちを打つ。意識はしていなかったけれど、真っ黒な毛並みとまん丸の赤い瞳は、リーベスの持つ色と同じだ。

「っ!」

 リーベスの方をまじまじと見ると、彼は手に持っていた焼き菓子を床に派手にぶち撒まけてしまった。

「……申し訳ありません、取り乱してしまい……」

「いいのよ。もしかしてリーベスは、犬が苦手だったのかしら?」

「ああ~、そういうこともありますよねっ! わたしの友だちも、小さい頃に放し飼いにされてた犬に追いかけられたとかで、仔犬さえ苦手でしたもん」

 三人で、すっかり割れたり欠けてしまったクッキーを拾い集める。

 今はすっかりいつもの表情だけれど、完璧に仕事をこなすリーベスが、こんな失敗をする姿を見たのは初めてで少し微笑ましくも思える。

「もふもふわんこ、わたしは飼ってみたかったんですよね~。ずっとマンション暮らしだったから」

 最後のかけらを拾い上げたモモコは、にこにこと楽しそうだ。

「そうね、私も飼いたいと思ったけれど……」

 犬の姿絵だけで固まってしまうということは、リーベスは相当な犬嫌いに違いない。

 絵にびっくりするほど苦手なら、実物はもっと苦手だろう。

 諦めようかしら、という気持ちでリーベスを見ると、彼の赤い瞳も私の方に向いていた。

「──メーラ様は、犬が飼いたいんですか?」

 どこか硬さのあるリーベスの声に、しゃがんでいた体勢から立ち上がった私は、ちらりとモモコの絵を見て答える。

「昔のことを思い出したら、飼いたくなったの。あの時、すごく幸せな気持ちだったなあって。本当に、とっても可愛かったのよ? 噛んだりもしなかったし、とってもお利口さんだったわ」

「……っ、そうですか」

「でも大丈夫よ。リーベスが苦手なら、無理は言わないから」

 なんとなく、しゃがんだままで私より低い位置にいるリーベスの頭に手を伸ばして、ふわりと撫でる。

 どことなく寂しそうな目をしていたように思えたから。

「……勝手ながら……他の犬は、飼わないで、欲しいです」

 顔を伏せてしまったリーベスの表情は見えない。

 だが、途切れ途切れに呟く声は、確かに聞き取ることができた。

「ええ、わかったわ」

 嫌がられないのをいいことに、私はリーベスの髪をまた撫でた。いつもは私よりもかなり高い位置にある彼の頭を、こうして見下ろすのは珍しいことだ。

 どことなく満足感が生まれて、彼を安心させるように何度も撫でる。

「……こっ、これは……名作の予感……!!!」

 そんな私たちの傍では、新しい紙を手にしたモモコが、鬼気迫る表情で何やらガリガリと書き殴なぐっている。

 ゴーグルと前髪のカーテン越しではあるけれど、実に楽しそうに見える。

「メーラ様、大変申し訳ありません。お茶請けを台無しにしてしまいまして」

「もったいなかったけれど、きっと鳥さんが食べてくれるわ。そうだわ、せっかく完成したのだから、このフォンデュ鍋の試運転をしてみましょう」

 眉を下げるリーベスを宥なだめていたら、我ながら妙案を思いついた。お菓子はダメになってしまったけれど、私の手元には出来立ての魔道具がある。

「動作確認もしてみたいから、厨房に行ってもいいかしら」

 私のその提案で厨房に移動することになった私たちは、料理長にお願いしてチョコレートフォンデュ用の材料を用意してもらった。モモコ監修だ。

 暫くすると、しゃっきりと立ち上がったリーベスだったが、どうもまだ様子がおかしい。

 なかなか私の方を見ようとはせずに、目が合ってもふいと逸らされてしまう。

 今も、少しだけ私と距離を置いた彼は、窓際でそっと私たちを見守っているような形だ。

「わあ~! お義姉様、いい感じにチョコがとろっとろですよ!」

「本当だわ。焦げついてもいないみたいだし、ちょうどいいみたいね」

 刻んだチョコレートを鍋部分に入れて起動のための魔力を込めると、フォンデュ鍋はほんのりと温かくなった。

 チョコレートがちょうど気持ちよく溶けて、それでいて焦げ付かない温度──それが動作ボタン一つで調整できる。

 串に刺さった苺などのフルーツや、角切りにされたパンが並ぶ中で、モモコはほくほく顔で鍋の中を覗き込んでいる。

 用意してくれた厨房の料理人たちも、興味津々しんしんといった様子でこちらを見ている。

「チョコが滑らかになったら、こうして、串に刺さった苺とかをこの中にどっぷり浸けるんです」

 モモコは苺の串を手に取ると、それをそのままチョコの中に差し入れた。軽く捻るようにして持ち上げると、苺はしっかりとチョコを纏っている。

「それでこれをひと思いに、がぶりです! ……! 美味しいい~」

 苺を口に入れたモモコは、頬に手を当てながら蕩とろけるような笑顔を見せる。

 その笑顔に惹かれて、私も苺の串を取った。順番に、全部の種類を食べるのだ。

「ほんと……、美味しいのね、これ」

 口に入れると、まずは温かいチョコレートの甘さを感じる。そして、苺を噛むことで、さわやかな酸味が広がり、またすぐに次のものを食べたくなる。

 デザートといえば、完成された焼き菓子といったイメージしかなかった私だが、モモコが食べたがるものはどれも、作る楽しさがある。

 テーブルマナーうんぬんを考えれば、溶けたチョコにそのままフルーツやパンを浸けながら食べるなんて、今まで考えられなかったことだ。

「パンもまたいいんですよねぇ~、じゅわっとチョコがしみて……うーーん、やっぱり最高でふ!」

「まあ、それも美味しそうね」

「皆さんも食べましょう! チョコフォンデュはわいわい食べるのがいいんですよぉ」

 モモコの誘いに戸惑う料理人たちは、私の方をちらりと見た。確認の意味があるのだろう。

 主人と使用人が一つの鍋を囲むだなんて、通常ならありえないことだ。

 でもそれは、モモコの感覚とはきっと違うのだ。それに倣うのは、開放的でとても楽しい。

「そうね。これは試作品なのだから、皆にも食べてもらいましょう。それでもっと、美味しくなるわ」

「では、失礼します。メーラ様方」

「ポンペルノさん! ずるいですよ、俺もっ!」

 私がそう告げると、料理長を筆頭として料理人たちは、我先にと串を手にした。その光景が、微笑ましく思える。

 思い思いに串に果実やパンを刺し、チョコレートの沼に浸ける。それを口に運んだ後の恍惚とした表情が、全てを物語っている。体験型の甘味とは、今までになかった概念だ。

(リーベスはもう食べたかしら)

 わいわいとしたその雰囲気に浸りながら、私はリーベスが先ほどまで立っていた場所を見る。

「あら……?」

 さっきまでそこにいたはずの彼の姿は、いつの間にかなくなっていた。

 リーベスはどこに行ったのだろう。

 賑わう厨房では、モモコを中心に、みんなチョコレートフォンデュに夢中だ。

 まだリーベスは食べていないはずだから、ぜひ食べて欲しいと思ったのに。

 キョロキョロと見回すが、やはりそこにあの馴染みの黒髪はない。

「メーラ様、どうしましたか?」

「リーベスの姿が見当たらなくて。さっきまでいたと思ったのだけれど」

 近くにいた料理人の一人が、私の様子を見かねて声をかけてきたため、私はリーベスの姿を探していることを告げる。

「リーベスさん……? あれ、さっきまでいましたけどね……?」

「あ。俺さっき、その裏口から外に出ていくのを見ましたよ」

 一人は私と同じくリーベスの姿を見失ったようだったが、別の料理人が指を差しながらそう教えてくれた。その方向には、裏口の扉がある。

(爺やにでも、呼ばれたのかしら。それとも体調が悪いとか)

 彼が私の側を離れる時、こうして何も言わずにいなくなるのは稀だ。何故か気になって仕方がない。

「そう。ありがとう、助かったわ。じゃあ私はリーベスを探しにいくわ。ここは任せていい? 火加減には気をつけてね。つまみの火力は最大にしないように」

「はい、わかりました!」

 ぺこりと頭を下げる料理人にそう言って、私は裏口から外に出た。

 あまり来たことがない場所ではあるが、全く知らないわけではない。

 表の庭園とは違って、少し生い茂った樹木があるこの場所は、風が気持ち良い。

 思うままに建物の壁づたいに足を進めて、角を曲がったところで、見慣れた後ろ姿を見つけた。

「リーベ……」

 声をかけようとしたところで、私はそこにリーベス以外の人がいることに気がついた。

 青空の下ではためく真っ白なシーツの前で、リーベスは誰かと会話をしているようだった。

(あれは……カミッラだわ)

 モモコ付きの侍女でもある彼女は、いつも明るく、笑顔が素敵な女性だ。

 そんなカミッラが、満面の笑顔でリーベスと話している。

 角から足を踏み出して、彼らの名前を呼べばいい。簡単なことだけど、金縛りにあったように声も足も出ない。

 ただ、視線だけは彼らに釘付けになって、食い入るように見つめてしまう。

 二人は私が見ていることなんて、全く気がついていない。

 カミッラは何か言いながら笑って、リーベスの胸元をべしべしと叩いていて。

 その時ちらりと見えたリーベスの横顔は、いつものきりりとした大人びた表情ではなく、どこか気を抜いた、柔らかいものに見えた。

(……っ! ……??)

 どくり、と心臓が嫌な音を立てた。

 それが何かはわからない。だけど、この場にいるのは嫌だと思った。

 急いで厨房に戻ると、ほっぺにチョコレートをつけたモモコが、両手に苺の串を持って私の元へと駆けてきた。

「お義姉様、早く早く! なくなっちゃいますよ~!」

「……ふふ、ありがとう。モモコ、頬が汚れているわ」

 その様子に安堵しながら、なんとか心を落ち着かせる。

 あれは、なんだろう。そして、私の心の中のこのぐるぐるとした、焦燥感に似た気持ちは、一体なにかしら……?

「へへ、ありがとうございます~」

 モモコから苺の串を一つ受け取って、空いた手で彼女の頬を綺麗にしてあげると、彼女はくすぐったそうに微笑んだ。


◇◇◇


 チョコレートフォンデュを堪能した日から一週間が経った頃、桃子は首を捻った。

(んん~?)

 何かが、おかしい。桃子がそう気付いたのは、義姉のメーラが作ってくれたフォンデュ鍋で、今度は昼食にチーズフォンデュを楽しんでいた時だった。

 とろりと蕩けるチーズに、軽く炙あぶったパンをつける。口の中に入れると、まろやかな塩味がじゅわりと広がって、とにかく美味しい。

 鍋から串を持ち上げた時に、恒例のびよーんと伸びるチーズの様子もまた素晴らしい。

 全くもって仕組みはわからないが、メーラの作ったこの鍋は、とにかく完璧だ。

「最高に美味しいです~~」

 桃子がはふはふしながら次々に粉吹き芋や腸詰めなどを口に運ぶ間に、目の前のメーラも優雅に食べ進めている……のだけど。

 桃子がメーラの後ろにちらりと視線を向けると、いつもどおりに黒髪のリーベスが凛とした表情で控えている。

 この主従の尊い光景はいくらでも見ていられるし、お代わりだってしたいくらいなのに、そんな二人の様子が、この前からどこか変なのだ。

「チーズのフォンデュも美味しいわね」

 儚げに微笑むメーラは、どこか覇気はきがない。

「……でしょう! チョコとチーズは、二大フォンデュなんです! このお鍋だったら、串揚げもできそうですね」

「あらあら、もう次のお料理なの?」

「ええ! お義姉様のおかげで、なんだって再現できそうで最高です」

「まあ」

 くすくすと笑ってくれるけど、その表情には影が差しているように思う。

(んー? んんーー?)

 いつもなら必要以上に甲斐甲斐しくお世話を焼いていたはずのリーベスも、メーラの隣に座るようなこともせず、ただじっと立っている。

 やっぱりおかしい。この前まで、お代わりが欲しいくらいにべったり最高の主従だったはずなのに、二人の間には見えない壁があるように思える。

(どうしたんだろう)

 そう思いながら、桃子はまた次の串へと手を伸ばす。心配ではあるけれども、食欲には抗えない。

 桃子は二人の様子を注視しつつ、どんどんとチーズフォンデュを食べ進めた。


「お義姉様! お茶でもいかがですか。わたしのお部屋で」

 食後、桃子は思い切ってメーラを部屋に誘ってみた。この家はメーラのものであり、居候の身であるのに変だけれど、そんなことは言っていられない。

 尊い主従には、いつも見つめ合っていてもらわないと困るのだ。桃子の生き甲斐なのに。

「ええ、いいわよ」

「二人っきりでお話ししたいです。相談もあって……」

 桃子はちらちらとメーラの顔色を窺う。今日は研究をしていないため、いつものゴーグルはしていない。長い前髪は流すように耳にかけている。

「わかったわ」

 メーラが快諾してくれたため、桃子は人払いをして二人きりになった室内で、まじまじとメーラの様子を見つめる。

 物憂げな表情を浮かべるその人は、なんというか、前よりも色っぽいような、そんな印象を受けた。

「……あの、お義姉様」

 意を決した桃子は、メーラにおずおずと話しかける。

 こちらを向いてくれたメーラは、首を傾げながら桃子の言葉の続きを待っているようだ。

(くうっ可愛い……! 儚げなお義姉様も素敵……!)

 桃子は心の声がまろび出ないように気をつけて、一度咳払いをした。息を吐くように騒いでしまうのは前世からの悪い癖だ。

「こほん。あのその、お義姉様とリーベスさんって喧嘩でもしましたか?」

「っ!」

 わたしの問いかけに、お義姉様はわかりやすく肩を震わせる。やっぱり何かあったみたいだ。

 少しだけ俯いていたお義姉様は、顔を上げてわたしのことを真っ直ぐに見た。

「その……えっと、私が悪いの。リーベスの顔をしっかりと見ることができなくて、素っ気ない態度をとってしまって」

「え? お義姉様がですか?」

「少し前に、彼が他のメイドと……カミッラと楽しそうに会話をしているのを見てから、私の身体がおかしくて。リーベスを見ると、このあたりがこう、ぎゅっとなって」

「…………!」

 メーラが心臓のあたりを手のひらで押さえる様子を見て、桃子は絶句した。

 慌てて両手でしっかりと、自分の口に栓をする。だって今口を開いたら、叫んでしまいそうだ。

(尊すぎぃぃぃぃ!!!! 何これ何これ、お義姉様可愛すぎやしませんか!? リーベスさんと話してたカミッラさんっ、何やってくれてんですかぁぁぁぁーーーでもグッジョブぅぅぅぅ!!!!)

 純白をさらに漂白したかのようなメーラの混じりっ気のない可愛らしさに、桃子は目眩を覚える。その「心臓のぎゅっ」は、かつても桃子にも覚えがある。

 あの、推しにそっくりなあの人が微笑みかけてくれた時──って、今はそんなことはどうでもいい。

「……私の身体、どこかおかしいのかしら」と不安げなメーラを、まずは愛でなければという謎の使命感すら湧き上がってくる。

 すーはーと鼻息荒く深呼吸をして、桃子は叫んでしまいそうな自分をなんとか落ち着かせる。

(落ち着くのよ桃子。二次創作が具現化したからって、溶けてる場合じゃないわ)

 モモコは既にこの伯爵家の女主人であるメーラとその従者リーベスを題材にした尊い主従の薄い本を書き上げていて、侍女のカミッラやプルーニャにも布教済みだ。

 カミッラは〝こちら側〟の人間なので、その点は安心なのだが、その辺りをかいつまんでメーラに伝える語彙力が不足している。

「お義姉様、落ち着いて聞いてください」

 興奮を抑えようとするせいで、無駄に低い声が出てしまった。まるで患者に病状を伝える医者のようだ。

「その胸の痛みは、病気ではありません。まあある意味、病ではありますが」

「まあ、そうなの?」

 びっくりした顔で桃子を見つめるメーラの無垢むくな緑の瞳が眩しい。尊い。天使。

 既にこの世界では成人しているはずで、この伯爵家の当主であるメーラなのに、その辺りの知識は全くないらしい。

 前世で知識だけは浴びるように得てきた桃子とは違って、穢けがれなき魂だ。泣ける。好き。

 桃子は再度自身を落ち着かせるように大きく息を吸って、それから時間をかけて吐いた。その後、ようやく口を開く。

「──それはずばり、恋の病です!」

 どこかふわふわした気持ちになりながら、桃子は興奮のまま高らかにメーラに伝説の病の名を告げたのだった。