第五章 満月の日


 ベラルディ家の屋敷には、お父様の研究室と化している書斎兼研究室とは別に、当主としての執務を行うための部屋が設けられている。

 今日はその部屋に朝からこもり、書類の整理をしながら、リーベスから日課の報告を受けていた。

「リーベス、いろいろと報告をありがとう」

「いえ、お役に立てて光栄です」

 伯母様やモモコの様子を含むベラルディ家全体のこと、王都のこと、諸国のことなど、話題は様々だ。

 曲がりなりにも当主なので、楽しい魔道具開発の時間が終われば、お仕事もしっかりしなければ。

「メーラ様、こちらで最後です」

「ありがとう。あら、これは……」

「はい。先ほど使者により届けられたようです」

 私はリーベスから封書を受け取る。ぺらりと裏返すと、王家の紋章が封蝋ふうろうに刻まれていた。

 ペーパーナイフで封を切り、中から書を取り出す。

 その内容は、『メーラ・ベラルディ伯爵とウーヴァ・ケルビーニ伯爵子息との婚約解消書類を受理した』旨の通知だった。ペスカとウーヴァの婚約についても、諸々の手続きを経て正式に決定したらしい。

「……例の書類ですか?」

「ええ。そうみたい」

 リーベスも内容が予想できていたようで、私が読み終わるのを待ってそう声をかけてきた。私はその書を封筒に戻し、処理済みのカゴに入れる。

(なんだかあっという間だったわ)

 あの婚約解消騒動から、長いようで短い一ヶ月が経とうとしていた。

 リーベスや爺やたちとも再度しっかり話をして、ペスカことモモコとメローネ伯母様の処遇については、一旦保留という運びになった。

 その判断の後押しとなったのが、モモコの世話を任せていたメイドたちだ。

 彼女たちも揃ってモモコのことを擁護していた。やはり第三者から見ても、モモコは性善であるらしい。

 聞き取りの際、『オシカツを見習いたい』だとか『モエは大切です』だとか、よくわからないことを言うメイドもいて、それはまるでモモコの発言そのものだった。

 そんなこんなで、もう暫くの間、モモコたち母娘はこの邸に滞在することになる。

 まだ彼女たち二人の関係性がどうなるかよくわからないので、モモコと伯母様の居室は分けたままだ。

 あれから本邸に全く顔を出すことがなくなった伯母様は、居丈高な振る舞いが以前よりもおとなしくなったと聞いている。

 伯母様担当のメイドは、ペスカのことが相当堪えているようだと言っていた。

「メーラ様、封書がもう一つあるようです」

「え?」

 リーベスの指摘で、私は机の上にもう一つ特別な封蝋がなされた手紙があることに気がついた。王家から二通も手紙が来るなんて、とても稀なことだ。

(何かしら。先ほどの封書は予想がついたけれど、他に王家からの用件があったかしら)

 私は首を傾げながら開封し、中の書を広げる。

「……」

 冒頭から読み進め、そしてそれを私は『処理不要』カゴに投げた。

「よろしいのですか?」

「ええ。全く必要のない書だったわ。返事も書かなくてよさそう」

 内容は、婚約者がいないベラルディ家当主に新たな縁談を斡旋あっせんするものだった。ウーヴァとの婚約を解消したことで、余計な気を回してくださったらしい。

 残念ながらしばらくそういった縁談からは遠ざかりたい。『必要があれば』という書きぶりだったので、必要なければ返答せずともいいだろう。

「どなたからだったのです?」

「第一王子と書いてあったわね。まもなく立太子されると新聞に書いてあったけれど」

「だ、第一王子……!? 恐れながら、拝見しても?」

「いいけれど……。あらでも、もうすぐ出発の時間ではない?」

 腰を折るリーベスの様子を見ながら、私は予定表を一瞥する。

 今日から毎月恒例のリーベスのお休みの日だ。彼は決まって月に三日、休暇を取って、屋敷から離れることになっている。

 前回この休暇から戻ったのは、まさに婚約解消される前日のことだった。

「リーベスのお休みは今日からだったわよね」

「はい。その予定です。しかし……」

 リーベスはどこか怪訝けげんな表情をしたまま、カゴを注視している。

「お家の方も貴方の帰りを待っているのでしょう」

 家業の手伝いがあると聞いている。毎月きっかりと休暇を取るくらいだから、きっと重要な案件に違いない。

 私がそう言うと、顔を上げたリーベスはどこか迷いのある表情を見せた。

「今回はいろいろと気になることがあるので、お嬢様のお側を離れたくないのですが……」

「リーベスは心配性ね。大丈夫よ」

 後ろ髪を引かれる様子のリーベスに、私は苦笑しながら言葉を紡ぐ。

 これまでずっと続けてきた慣習を、この家の当主が私になって早速途絶えさせるわけにはいかないという妙なプライドもある。

「ね、リーベス」

 心配そうな顔をして私を見下ろす彼を安心させるために、彼の右手を取る。

 両手で包み込むようにすると、一瞬だけぴくりと指先が動いたが、そのまま私のされるがままになっている。

「……お嬢様。俺がいない間の研究は程々になさってくださいね。睡眠と食事はしっかり取ってください。おやつは適度に。また過労で倒れないようにしてくださいね。それと、俺の休暇中の代わりは、プルーニャが務めますので。それから──」

「ふふ。私はもう成人したのよ? 前みたいに倒れるなんてことはしないわ。夜更かしは、ちょっとはするかもしれないから約束はできないけど」

 口酸っぱく言ってくるリーベスに正直にそう答えると、彼は低い声音で「メーラ様?」と私の名を呼んだ。

 確認するような、窘たしなめるような口調だ。

 確かに以前、ずっと工房にこもりっぱなしになって、睡眠不足で倒れていたことがあった。ほんの一、二年前の話だ。

 血相を変えて部屋に飛び込んできたリーベスは、その日から一層私の世話に力を入れるようになった。

「わかったわ。そういえば、湯浴み中に寝てしまって貴方を驚かせたこともあったものね。気をつけるわ」

「……っ、そ、そう、ですね」

 そう約束すると、彼の頬がぶわりと赤みを帯びる。

 その頬に触れようとした手は、リーベスの左手にぱしりと受け止められた。

「とにかく! 無理はなさらないでください。モモコ様とお茶会をするのもいいかと思います。また新しい道具を思いつくといいですね」

「そうね。また作戦会議をしなきゃ」

「──それから、その手紙の件は、また戻ってきてから話を聞かせてください」

「ええ」

 真剣な眼差まなざしのリーベスと話をしていると、扉がノックされた。

 顔を出したのは爺やだ。

「うおっほん。そろそろいいですかな? リーベス、出発の時間だ」

 口元に右手を当てて咳き込みながら、爺やの視線はリーベスに向けられている。

 掴んでいた私の手をゆっくりと離すと、リーベスは礼儀正しく腰を折った。

「……では、メーラ様。今度こそ行って参ります」

「ええ。いってらっしゃい」

 顔を上げたリーベスは、まだ名残なごり惜しそうな表情を浮かべつつ、爺やに続いてこの部屋を出て行った。

 パタリと扉が閉まると、この部屋にいるのは私だけになった。

 外から聞こえる鳥の囀さえずりが、いつもより大きく聞こえる気がする。

(リーベスは三日後にはまた戻ってくるのだから、寂しくはないわ)

 ……そのはず。

 彼がいなくなって、なんとなく心細くなった気がして、私はその気持ちを振り払うように首をふるふると振った。

 それから午前中は執務に専念し、領民から寄せられた請願書を確認したり、茶会の誘いに断りの手紙を書いたりした。

 一仕事終えた私は、モモコを午後のお茶に招待する。

「お義姉様! 誘ってくれてありがとうございます」

「いらっしゃい。モモコ」

 相変わらず、モモコになったペスカは人の良さそうなにこにこの笑顔で私の元へと駆けてくる。

 人格の入れ替わりという前例のない状況で、一人知らない世界で戸惑いも多かっただろうと思う。

 それでも周囲を照らすような彼女の底抜けの明るさは、きっと天性のものなのだろう。

 その証拠に、彼女にここまで付き添ってきたメイドたちも、揃って笑顔だ。例の『オシカツ』メイドのカミッラなんて、今日も艶々としたいい顔をしている。

「ここでの暮らしには慣れた?」

 ここで数年暮らしてきた、ペスカの容貌の彼女にそう聞くのも不思議な感じがする。

 そう思いながら問いかけると、彼女はまた花が咲くように笑う。

「はい! 最初はいろいろ戸惑いましたけど、魔道具も便利だし、カミッラさんもジーナさんも、それに最初は怖いと思った爺やさんも、みーんな優しいです」

「良かったわ」

「……ちなみにあの、爺やさんって、『セバスチャン』って名前だったり……します?」

 何故だか声をひそめたモモコは、よくわからない質問をしてくる。

 彼の名前はアルデュイノだ。

 そう教えると、あからさまにがっくりと肩を落とした。

「爺やの名前の定番なのに……」と呟いているが、きっとこれは、いつもの前世のアレなのだろう。

 私も少し、モモコのことがわかってきたように思う。

 それに、メイドの名を親しげに呼ぶなんて、以前のペスカからしたら考えられないことだ。

 そんなことを考えていると、プルーニャがワゴンを押しながらお茶とお菓子を持って来てくれたようだった。

 その様子を見ていたモモコは、不思議そうに首を傾げる。

「あれ? 今日はリーベスさん、いないんですか?」

「ええ。リーベスはいつもこの時期にまとまったお休みを取るの。戻るのは三日後よ」

「そうなんですね。それは、寂しいです……。萌えが不足しちゃう……」

「え? なあに?」

「いえっ! なんでもないです!」

 彼女の呟きの最後の方がよく聞こえず、聞き返したが、モモコは慌てたように手を振った。

(寂しいと、聞こえたわ。モモコもリーベスに会いたいのかしら)

 そう考えると、何故だか息苦しくなったような気がして、それを不思議に思いながら私は、プルーニャが淹れてくれた紅茶を飲んだ。

 今日のお菓子はクッキーで、一枚一枚に、白い砂糖で繊細な花の模様が描かれている。

「わあ……すっごく可愛いですねぇ! アイシングクッキーってやつですね。リーベスさんの置き土産ですか?」

「いえ、これはプルーニャが作ったのよ。彼女は手先が器用なの。刺繍も得意なのよ」

「ええっ!? あ、いえ、素晴らしいですね……?」

「そうなの。素敵よね」

 そばに控える屈強なプルーニャと、繊細なお菓子を何度も見比べているモモコは、小動物のようだ。

 明るくて、可愛らしくて、ずっと見ていられる。

 リーベスがいない間は少し退屈な気持ちになるのだけど、今回はモモコのお陰でその気持ちも薄らぎそうな気がする。

 ふと、窓の外を見上げると、空には白っぽく掠かすれた月が浮かんでいた。

「あーっ、明日は満月なんですねぇ。この世界でも、空の感じはわたしの世界と一緒で嬉しいです」

 私に倣って空を見上げたモモコは、嬉しそうに声をあげる。

「そうね。この感じだと、確かに明日は満月だわ」

 月は、ほとんど丸い形をしていた。この分だと、明日の夜にはきっと満ちる。

「あ、あのお義姉様。この世界の月って、何か棲んでたりしませんか?」

「生き物ということ? いえ、そんな話は聞いたことがないわ」

 急にそんなことを聞かれて、私は目を丸くしてしまう。月に何者かが棲んでいるだなんて、考えたこともなかったからだ。

「そうなんですねえ。異世界だし、もしかしてって思ったんですが」

 ちょっとだけ残念、と言いながら、モモコはプルーニャお手製のクッキーに齧かじり付く。

「わたしが元住んでいた国では、月にはうさぎが棲んでいるという謂れがあったんですよお。まあ、作り話なんですけど」

「そうなのね」

「それで、こっちは本当にウサギみたいな生き物が棲んでたりしないかなって思ったんです。魔法だってあるし!」

「可能性は否定できないわね。全てのことに、絶対などないもの」

 知らないだけで、もしかしたら月には何者かが棲んでいるかもしれない。モモコのような存在を知ったことで、私の世界が広がったように。

「お義姉様って、なんだかとってもクールですねえ」

 モモコの言葉に、私はどきりとしてしまった。ほとんど祖父に育てられた私は、どこか達観していたようで、母にも伯母にも『可愛げがない』とか『こちらを見下している』だとか、そういうことをずっと言われてきた。

 モモコにもそう思われてしまったのだろうか。

「……めっっっちゃくちゃかっこいいです、その考え方! そうですよね、可能性は無限大です! わたしもそう思います!」

「あ、ありがとう……」

「お義姉様がそんな風に柔軟な考え方だから、魔道具開発もお上手で、皆さんに慕したわれているんですね!」

 私の不安をよそに、モモコはきらきらとした桃色の目を極限まで見開いてこちらを見つめている。

 そんな風に前向きに言われたことは初めてで、褒められ慣れていない私は、ただただ紅茶を口に運ぶ。

(──私は、私のままでいいのかしら)

 まだドキドキしている。私はこっそりと周りにいる使用人たちの表情を盗み見る。

 こっそりのつもりだったのに、彼女たちはしっかりと私を見ていて、パチリと目が合うと、温かく微笑まれてしまった。全員から。

「お義姉様のお手伝い、これからもバシバシやりたいです」

 モモコのその言葉に、私は慌ててそちらを向いた。

「私からもお願いしたいわ。あなたが教えてくれるのは面白い道具ばかりだもの」

 どちらかというと、これまではポットやライトなど、実用的な道具がメインだった。もちろんそういった道具は必要不可欠ではあるのだけれど、モモコが教えてくれる器具たちは、実用的でいて、とても楽しい。

 今はまだ高価すぎて世間一般に流通させるには至らないけれど、お父様が遺のこしてくれた素材の知識や今後の魔法回路の省略の研究を経れば、十分市販化できそうなものもある。

「えへへ……わたし、またお義姉様に再現していただきたいものがあるんです。フォンデュができるお鍋なんですけど」

「ふぉんでゅ」

「ええっと、実はもう書いてきていて」

 モモコがそう言うと、部屋に控えていたカミッラが素早くモモコの側へとやってきた。その手には、以前から彼女が使っていたスケッチブックを携えている。

 カミッラからそれを受け取ったモモコは、ぱらぱらと数枚の頁をめくった。

「こーんな感じで、小さいお鍋があって、ここでチョコレートとかチーズとかを溶かしながら、パンとかに絡めて食べるんですよ」

 モモコの絵には、陶器のような素材でありながら、ころんと小振りなフォルムの卓上鍋のようなものが描かれている。

「卓上コンロと鍋が一体化したようなものかしら……でも随分と小型なのね」

 この世界にも卓上コンロと呼ばれるものはあるが、かなり大きい鍋に対応するもので、大きくて場所をとる。

 こんな可愛らしいサイズのものはなく、使用される鍋もシンプルなものばかりだ。

 そもそも、調理器具にデザイン性はあまり求められていなかったのかもしれない。

「色も可愛いのね」

 私がまじまじと彼女のデザイン画を眺めていると、嬉しそうな声が横から入ってくる。

「そうなんです。カラーもいろいろあって、赤とか茶色とか……黄色とか深い緑も可愛いんですよ~! わたしもお母さんと選ぶ時、結構悩みましたもん」

「そうなのね。実用的なものばかりで、こういうデザインにこだわったものはあまり見たことがなかったわ」

「あっ! そういえば、このちっちゃい鍋で、串揚げもやってました。串に刺したひと口大の具材を揚げて……揚げたてを食べると美味しいんです」

 嬉しそうに笑うモモコの中には、それでその「ふぉんでゅ」や「クシアゲ」を楽しんだ記憶があるのだろう。彼女が先ほど言っていた「お母さん」は、きっとメローネ伯母様ではない。

(小さくて多機能な……卓上コンロと鍋が一体化した調理器具)

 ざっと眺めて、頭の中で構想を練ってゆく。

 カラーバリエーションがある小鍋。これまでにない観点で作り上げるこれは、きっと、素敵なものになるだろう。

 既存の大型のものを軽量化し、デザイン性を高める工夫をする必要がある。きっと厨房に参考になるものがあるだろう。それを改良することから始めたらよさそうだ。

「じゃあ、最初の鍋はモモコの色にしましょう。桃色のお鍋もきっと可愛いわ」

「お義姉様、どこまで天使なんですか……!」

「せっかくだから、赤や緑も作ってみましょうね」

「絶対可愛いです!」

「明日、早速取り掛かってみるわ」

「わたしもお供します」

 魔道具を製作している間は、何も余計なことを考えずに済む。

 この部屋にいつもの従者の姿がないことを寂しく思う気持ちも、魔道具製作に取り掛かれば吹っ飛ぶに違いない。

 私は心の奥底でそんなことを考えながら、リーベスがいないお茶会を和なごやかに過ごした。

 ──その夜、私は慣れない事務作業で疲れていたからか、すぐに眠りについた。そのせいか、かなり早い時間に目が覚めてしまった。

 窓の外はまだ暗く、昼間に見たほぼ丸い月が、未だ煌々こうこうと光を放っている。

(お着替え……ご飯……)

 どこか覚醒しきれない頭で、私は呼び出しボタンを押す。ポーンという音が鳴った後、しばらくの静寂があった。

 どうしたのだろう。いつもならばボタンを押して、音も鳴らないようなすぐのタイミングで扉が叩かれるのに。

『──メーラ様、お待たせしております。すぐに参りますのでお待ちください』

 その女性の声に、私はハッとした。プルーニャだ。

 リーベスは今日も休暇中だというのに、いつもの感覚でボタンを押してしまった。

「ご、ごめんなさい。プルーニャ。早すぎたわね。大丈夫、私また寝るわ」

 そのことに気がついてしまい、私は恥ずかしくなってしまった。おかげで目もしっかり冴さえ渡った。

『いえ、大丈夫でございます。リーベスより承っておりますので。お食事はどちらにご用意いたしましょうか?』

「えっと……お部屋にお願い」

『承知いたしました。まず身支度を整えさせていただきますね』

「ええ」

 プルーニャとの通信が終わり、私はとぼとぼとベッドへ戻って端に腰掛ける。

(毎日のことだから、私ったらすっかり気が抜けてしまったのね)

 慣れているはずなのに、なぜだか急にリーベスの不在が大きなことのように思えてくる。

(ここ数ヶ月でいろいろなことがあったもの。仕方がないわ)

 心の中のざわめきの理由をそう結論づけたところで、部屋の扉がノックされ、プルーニャたちが入室してきたのだった。


 いろいろとあった早朝から数時間後にモモコと工房で合流し、新しい調理器具の作成に取り掛かることにした。

 モモコは今日も、私が製作する横で絵を描きながら、にこにこと楽しそうにしている。

 ちらりと覗くと、「チョコレートフォンデュ」や「チーズフォンデュ」の絵が美味しそうに描かれている。

「とっても美味しそうね」

「へへ。クリスマスとかお誕生日とか、特別な日に食べてました。みんなでわいわい楽しいんですよ~」

「じゃあ、これが完成したら、こちらでもあなたのお誕生日のお祝いができるわね」

「……っ」

 何の気なしにそう言うと、モモコはいつもの笑顔をクシャリと歪ませた。

 何かまずいことを言ってしまっただろうか。

「お義姉様……こんなわたしでも、お祝いしてくださるんですか」

 モモコの声は、絞り出したように小さい。

「? ええ。あなたが良ければ」

 これまでのペスカの誕生日は、共に過ごしたことなどなかった。いつも伯母様と二人で出掛けていることは知っていたけれど、本当に関わり合うことはなく過ごしていた。

「嬉しいです! とっても楽しみにしています」

 泣き笑いのような顔で、モモコは弾んだ声を出す。

 その顔を見て、ますますこの魔道具を完成させなければという思いが高まった。

 プルーニャが運んできてくれた昼食をとり、その後にまた二人で工房にこもる。

(……よし、始めましょう)

 私は心の中で号令をかける。今日もうまくいきますように。そんな願掛けの意味合いもある。

 目の前にある熱伝導の良い金属に両手をかざすと、手のひらが眩まばゆく光る。

「わあ~……何度見ても面白いです」

 私が魔力を注ぐことによって金属の粒が板になり、鍋に変わってゆく工程を、モモコは目を輝かせて眺める。

「大きさはこのくらい?」

「あ、はい。そのくらいで、深さは……えーっと、串カツくらいだから……このくらいです!」

「わかったわ」

 人差し指と親指を尺のようにして深さを測るモモコに頷きを返した。

 今回は調理場から拝借してきた大型の魔導コンロを参考に、それを軽量化してゆく形で開発を進めることになっている。

 その核となる鍋の部分を丁寧に成形していくと、コロンとした小ぶりの鍋のようなものが仕上がった。

 あとはこれをベースに、魔法回路とコンロ部を研究する必要がある。

「……ふう」

 私が深く息を吐くと、モモコも集中して絵を描いていた。

 この調子だと、夕方には完成できそうだ。

 そう思い、また別の素材を取り出した時のことだ。

「メーラ様! 大変です」

 工房に、モモコの専属メイドであるカミッラが慌てた様子でノックと同時に駆け込んできた。

 お茶の時間にはまだ早い。

「まあ、どうしたの? そんなに慌てて」

 彼女に返事をした私もそうだが、隣のモモコもぽかんとした顔をしている。

 続くカミッラの言葉に、私たちはさらに驚いてしまう。

「──ウーヴァ様がお嬢様たちを訪ねていらっしゃったのですが、あの、ちょうどメローネ様と遭遇してしまい……その……」

 歯切れの悪い彼女の言葉は、何か良くないことが起きていることを物語っていた。


 カミッラに誘導されて着いた先は、庭園だった。

 ちょうど門から入ってきてエントランスへ向かうウーヴァと、別邸から出てきた伯母様が庭園で鉢合わせしてしまったらしい。

「ウーヴァ様も事前に来訪の連絡がなかったもので、一度メーラ様にご確認をと思い、庭園を散策していただくことにしていたのです。そうしましたら……」

「いいのよカミッラ。あなたたちが悪いわけではないもの」

 足早に進みながら状況を説明する青い顔のカミッラに、私はそう告げる。

 まさかここでウーヴァとメローネ伯母様が会ってしまうなんて、誰も想像はできないだろう。

 慌てて工房を飛び出した私の後ろには、しっかりとモモコもついてきている。

 庭園の花木がどんどん近づいてくるにつれて、罵倒するような女の金切り声が聞こえてきた。

 伯母様とウーヴァ、二人の姿もはっきりと見えてくる。

「……この詐欺師さぎし! 貴方にはすっかり騙だまされたわ! そんなみすぼらしい身なりで、よくここへ顔が出せたわね!」

 顔を真っ赤にした伯母様は、前回同様に平民のような格好をしたウーヴァを激しく責め立てている。

「貴方のせいで! 可愛いペスカもおかしくなってしまったわ。貴方のやったことが、ペスカの心を蝕むしばんだのよ! 大した身分もないくせに、よくも娘に近づいたわね!」

 久々に彼女の毒の言葉を聞く。

 何もかもを人のせいにする。それは私だったり、お父様だったり、使用人だったり。

 きっと私たちが到着する前にも、罵倒されていたであろうウーヴァは、ただしっかりと前を向き、その言葉を受け止めている。

「貴方のせいで、何もかも終わりよ……! わたくしがこれまでやってきたことが、台無しだわ。この責任、どう取ってくれるのっ!」

「──伯母様、いい加減に……」

 いくら言っても、腹の虫がおさまらないのだろう。

 いい加減に止めようと、ようやく近くまで来た私が声をかけようとした時、メローネ伯母様が右手を振り上げるのが見えた。

 危ない、私がそう思った時には既に遅く、その手は振り下ろされていた。

 パァンという乾いた音が、いやに静かな庭園に響く。

「な、ぺ、ペスカ……?」

「ペスカ、どうして」

 私の目の前で、ウーヴァを庇うように立ったモモコが、頬を赤く腫らしていた。

 伯母様もウーヴァも、驚愕の表情のまま固まっている。伯母様に叩かれたのは、モモコだった。

「……お母様。そうやって、うまくいかないとすぐに手をあげるのは悪い癖です。ペスカのことも、陰でよくぶっていたでしょう」

 ゆっくりと顔を上げながら、モモコの瞳は怒りに燃えていた。伯母様をしっかりと睨みあげ、地を這うような声を出す。

 この低い声が、あのモモコから発せられているとはとても思えない。

 勢いよく叩かれたからか、頬はどんどん赤みを増してゆく。

「……ずっと、ペスカは貴女の支配下にいました。言われたように振る舞って、一緒になってお義姉様に八つ当たりをして」

 噛み締めるように、モモコは言葉を紡ぐ。

(前に、ウーヴァの家に行った時とよく似ているわ)

 また以前のように、ペスカの記憶が彼女に混じり合っているのだと、何故か自然とそう思える。

 モモコがペスカの心の奥を代弁しているのだ。

「貴女が……お母様がそんなだから……! あの日、ペスカは絶望で倒れたんです。貴女の願いを、叶えてあげられないからっっ!!」

 ぶわり、と。

 また彼女の瞳から涙が流れる。

 モモコはまた、ペスカのために怒っているのだろう。

 一見すると仲睦まじく、結託しているように思えた伯母様とペスカ。だけれど、先ほどのモモコの言葉からすると、こうした折檻せっかんをペスカは日常的に受けていたことになる。

 伯母様もウーヴァも黙り込み、庭園に静寂が落ちる。聞こえるのは啜すすり泣くペスカの声だけだ。

 ウーヴァは揺れるモモコに手を伸ばそうとしつつ、何やら逡巡しているように思える。

 私はグッと足に力を入れて、モモコに走り寄った。

「モモコ。早く冷やさないと腫れが残ってしまうわ。邸に戻りましょう。カミッラ、ウーヴァを応接間に案内してくれる? 伯母様は別邸にいてください」

「うわあぁん、お義姉様ぁ~!!!」

 モモコに駆け寄ると、彼女はようやく縋るものを見つけたように、私に抱きついてきた。

 ぐすぐすと泣くモモコにぎゅうぎゅうと抱擁され、私は思わずその頭を撫でる。

(私は、ずっと義妹が──ペスカのことが苦手だった)

 可愛い顔をして、私に意地悪をする。でも伯母様やお父様の前では、しおらしく、可愛い妹に徹する彼女が。私の物を奪っていく彼女が。

(でもそれも、ペスカのごく僅わずかな一面にすぎなかったのね)

 簡単に過去の日々をなくすことはできないけれど、理解はできてきた。

 そして今は、モモコだけが私の唯一の家族のように感じている。

「顔を上げて。そう、上手ね。少し触れるわね」

 私は彼女の赤く腫れた頬に手を当て、ひやりとした冷気を送ったのだった。


◆◆◆


 領地の町外れにある山小屋のような簡素な小屋で、リーベスは横になっていた。

「リーベス、調子はどうかね」

 控えめなノックの後、開いた扉から、グレイヘアをきっちりとセットしたベラルディ伯爵家の家令であるアルデュイノが顔を出す。

 メーラから『爺や』と呼ばれ親しまれる彼は、リーベスにとっても恩人だ。

「グルル………」

 大丈夫です、と返事をしようと思ったのに、リーベスの口からは、そんな獣じみた声しか出なかった。

 実際、獣なのだから仕方がないのだが。

「……相変わらず、その姿になると迫力があるなあ。しかしリーベス、これはいつまでも隠し通せるものではないぞ? 私も老い先短い身だ。ずっと守ってはあげられない。……そろそろお嬢様に打ち明けてみてはどうかね」

 満月になる前後三日間、リーベスは決まって、この人気ひとけのない場所で過ごす。

 普段は人と変わらない見目をしているが、獣人の血が流れるリーベスは、どうしてもこの期間だけは邸にはいられない。

 この時期が来ると決まって、黒く大きい狼の姿になってしまうのだ。

「きっと大丈夫だと思うがねぇ」

 近づいてきたアルデュイノさんは、ゆっくりとリーベスをもふりと撫でる。

 幼い頃から世話をしてくれているこの人には、リーベスも頭が上がらない。

 どういう経緯があったのかはわからないが、リーベスはもともとこのベラルディ領より北にある辺境伯領の孤児院にいた。

 とある満月の夜。

 眠っていたリーベスは、身体中の血が沸騰するかのような苦しみで目を覚ました。

 今でも覚えている。苦しみながら見た窓の外には、ぽってりとした丸い月が浮かんでいた。

 その視界がだんだんと細くなり、身体中がキシキシと痛む。

 苦しくて丸まっていたリーベスは、満月に照らされている室内に、人のものではない影があることに気がついた。

(──襲われる!)

 野犬が孤児院に侵入してきたと思ったリーベスは、息苦しい身体に鞭むち打って、咄嗟とっさに身を起こす。

 体調不良のために隔離されていたことが功を奏したため、この部屋には誰もいない。

 逃げなければ。

 その一心で、リーベスは部屋を飛び出し、そのまま外に出た。

 ふと見ると、野犬の影も並走してくる。

 どうやら野犬はリーベスを追ってきているらしい。

 それだったら、と、リーベスは孤児院から離れることを決意した。他の子どもを襲わせるわけにはいかない。

(できるだけ遠くに……!)

 そこからは無我夢中だった。異様に走るスピードが早いことも、四肢の動きがおかしいことも、興奮していてすぐには気がつかなかったのだ。

 ずっと走り続けて喉が渇いたリーベスは、馴染みの沢に立ち寄った。

 水面に映るのは、黒い犬。ずっとリーベスが逃げ惑っていた野犬の影と同じ形をしていた。

(これは……俺、なのか……?)

 ──リーベスはそこで初めて、自分自身が獣になっていることを知ったのだ。

 そして初めて獣化してしまった夜、走り続けたリーベスは、いつの間にかベラルディ伯爵家に迷い込んでいた。

 そしてそこで、メーラやアルデュイノに出会ったのだ。

「リーベスも大きくなったなぁ」

 アルデュイノはいつの間にか、ブラシを手に、本格的なブラッシングを始めた。

 確かに出会った頃はまだ仔犬だったが、今では体躯たいくもかなり大きくなった。

 そのブラシの規則正しい動きに心地よくなり、リーベスはうっとりと瞳を閉じる。

(お嬢様に、このことを告げる……)

 貴女が信頼している従者は、実は獣人なのだと、あの優しい人に告げるのか。

 獣人は、この国では迫害された歴史のある人種だ。他所よそには獣人の国家もあるが、まだこの国での地位は低いだろう。

 リーベスはメーラの反応をずっと恐れていた。

 ずっと騙していたのかと、責められてしまったらどうしたらいい。

 気持ち悪いと思われるくらいなら、ずっとこのままでいたい。

 そんな気持ちが渦巻く。

 先日、メーラの元婚約者であるウーヴァが魔力なしで、そのことを長い間隠していたという事実を知った時。

 リーベスは『自分と同じ』だと、思った。

 だからこそ、ウーヴァの気持ちが痛いほどわかり、なんだか神妙な気持ちになってしまった。

「……そうだ、リーベス。今日は大変なことがあったんだよ」

 声のトーンを落としたアルデュイノの様子を訝いぶかしく思い、目を開けて首を傾げる。

 リーベスが聞いていることがわかったのか、彼は今日の出来事を話し始めた。

「実は……ウーヴァ様が突然いらっしゃってね。細心の注意を払っていたつもりだったんだが、庭園でメローネ様と遭遇されてしまったんだ」

「ぐる?」

 なんだそれは。リーベスは横たわっていた身体に力を入れ、上半身を起こした。

「……報告によるとメローネ様が一方的に責め立てていたようだが、そこにお嬢様とペスカ様が駆けつけられた」

 アルデュイノは眉を下げながらそう語る。

 何故ちょうどリーベスがいない時に、そんなことが起こるのだろう。

 やけに甘ったるい香りをさせながら、苛烈な物言いでメーラを責めるあのニンゲンが、リーベスは一番嫌いだったというのに。

(……いや、一番は他にいるか)

 心の中で、リーベスはこっそり訂正した。

 メーラを何より傷つけていたのは、あの母娘おやこではない。

 彼女の実の父母こそが、メーラの心を蝕む思い出の発端だ。

 リーベスが考えている横で、アルデュイノは大きなため息をつく。

「私もちょうど留守にしていてね……。夕食の時にはいつもと変わらないように見えたが、今晩からお嬢様は体調を崩されるかもしれない。プルーニャには言付けてある」

「!」

 思わず立ち上がってしまったリーベスだったが、目に映るのは黒いふさふさの足。この姿で駆けつけることはできない。

 リーベスのいないところで、メーラが苦しむなんて、あってはいけないのに、この身体がもどかしい。

「……ではな、リーベス。明日また迎えを寄越すから」

「わふっ!」

 疲れた様子のアルデュイノが去った小屋で、リーベスはもふもふの大きな身体を丸めて考えていた。

 緑の瞳をきらきらさせながら、熱心にものづくりに励む姿。

 林檎のような頬をむぐむぐと動かしながら、幸せそうにお菓子を食べる姿。

 お嬢様に……メーラ様に、会いたい。

 夜が深まり、満ちた月の光に照らされると、その気持ちは余計に大きくなるように感じた。