味方が増えたことが嬉しいのか、伯母様は嬉々としてペスカに近づくと、彼女が俯いたままにもかかわらず、早口でそう捲し立てた。

 婚約者を奪うなどと言っている時点で、そっちの方が非道な気もするが、そんな常識的な話をしたところで、彼女たちは意に介さないだろう。これまでもそうだったように。

 お父様とメローネ伯母様とペスカと私。私たちは四人はいつも歪いびつで、家族と呼べるほどの繋がりなどなかった。

「お嬢様、ここは俺たちが」

 隣で控えていたリーベスから声がかかる。

 顔を上げると、リーベスの向こう側では、爺やと他の使用人たちも一様にいい笑顔を浮かべている。

「ありがとう。でも、大丈夫」

 私も、この歪な家族に向き合わなければ。

 そう思って顔を上げると、メローネ伯母様はちょうどペスカに何やら話しているところだった。

「ほら、あなたも人の心のないこの極悪非道の義姉に何か言っておやり! ……どうしたの、ペスカ? きゃっ!!」

 それは、初めて見る光景だった。

 いつも伯母様の言いなりだったペスカが、自分の名を呼ぶメローネ伯母様の手を煩わずらわしそうに払ったのだ。

 そしてそのまま、彼女は顔を上げてゆっくりと私に近づいてきた。

 異変を察知して私の半歩前に出たリーベスの背中越しに見える彼女の表情は、どこか凛々りりしくて。やはりいつもとは違って見える。

 誰もが彼女の様子に困惑している中で、ペスカは私の──正確には私を庇かばうように前に立ったリーベスの正面で止まり、真っ直ぐに前を見据えた。

「お義姉様」

 凛りんとした桃色の瞳は、しっかりと私を捉えている。

 何を言うつもりなのか、と、私たちが身構えた瞬間。

「ほんっっっとうに、申し訳ありませぇえええぇぇん!!」

 がばりと床に額をつけるようにうずくまったペスカは、これまで聞いたことがないような大きな声をあげた。

「「え……?」」

 目の前に広がる予想外の光景に、私を含め、この場にいた者たちは皆固まってしまった。

 これまで彼女の口から謝罪めいた言葉を聞いたことがないのももちろんだし、彼女が自ら地べたにひれ伏すなんてことが現実として受け止められないのだ。

(──何かしら、この体勢。極限まで頭を下げているということ……なの)

 これまで見たことのない姿で拝むように頭を下げるペスカを、私は不思議な気持ちで見下ろす。

「ペ、ペスカ! 何をしているの! そんな格好、淑女がはしたないわ!」

 唯一、素早く復活したメローネ伯母様がペスカに駆け寄り、彼女を立ち上がらせようと手を引く。

 私もリーベスや爺やの顔色を窺うかがったが、皆どうしたらいいのかわからないようで、困惑の表情を浮かべたままだ。

 ペスカは腕を引くメローネ伯母様を、射るような鋭い視線で睨にらみつけた。

「……はしたないのは、お母様とわたしです! 人の婚約者を奪とるだなんて」

 そう声を張り上げたのは、ペスカだった。何が起きているのか、全くわからない。

「それに、記憶によれば、わたしたちはこれまでもお義姉様の優しさに甘えてやりたい放題だったではありませんか! ……朝起きた時は美少女転生に浮かれてたのに、思い出すことが嫌な感じばっかりで、こっちも正直引いてんですよ!」

「ペスカ……?」

 上体だけを起こした体勢でメローネ伯母様を見据えたペスカは、語尾荒く言葉を紡つむいでいく。聞いたことのない口調だ。

『てんせい』や『ひいてる』とはどういう意味なのだろう。

 完全にいつものペスカとは違う様子に驚いていると、彼女は床に座ったまま私を見上げた。

「お義姉様。今更だとは思いますが、これまでにわたしが奪っ……いただいた装飾品やドレスは全てお返しします。それに、ウーヴァ様のことだって……」

「あ、待って、ペスカ。ウーヴァの件は気にしないでいいわ」

 言い募るペスカに、私は慌てて返事をする。

 急いだせいで、食い気味になってしまった。

「えっ、でも、彼はずっとお義姉様の婚約者で、わたしの我儘で……」

「昨日の手続きで正式に婚約は解消されたし、今はあなたが彼の正式な婚約者よ。もう取り消せないわ。同じ人ともう一度婚約するなんて、ありえないもの」

「そんな……!」

 そう告げると、先ほどまで威勢の良かったペスカは、わかりやすく青褪あおざめた。

 がっくりと項垂うなだれた彼女は、呪文のような言葉を床に向かってぶつぶつと呟つぶやいている。

「えっウソ、終わった……第二の人生がお世話になってる人の婚約者寝取りスタートとか、詰んでる……そもそもわたしたちって平民暮らしをしていたところを叔父さんに拾っていただいたんじゃなかった……? いや、なんなのこの感じ……転生って、もっとこうキャッキャウフフなチート展開じゃないの」

 繰り出されるのは呪文のような言葉だらけで、彼女の言うことは三割も理解できなかったように思う。

「ねぇリーベス、『ねとり』ってなあに?」

 かろうじて聞き取れた単語を隣のリーベスに聞いてみると、彼は眉を寄せたかと思うと、あからさまに目を逸らした。

「……お忘れください。お嬢様は知らなくてもいい言葉ですので」

「では、爺や?」

「おや、私は最近耳が遠くて。なんでしたかのお」

 リーベスがその調子だから私は爺やに矛先ほこさきを向けてみたのだが、それもあっさりとかわされてしまった。

 ネトリ……どうやら誰も教えてくれない気らしい。

 現に、私と目が合った使用人たちはわかりやすく目を逸らして、中には口笛を吹いたりしている者もいる。とっても下手だけど。

(──それにしても、ペスカの言動がおかしすぎるわ)

 これまでこの子とこんな風に会話を交わしたことがあっただろうか。まあ、今もまともとは言えないけれど、きちんと受け答えをしていることが珍しい。

 この家に招いた時には既に、私に対して敵意を剥き出しにしていたのに。目の前にいる少女は、いたって素直だ。

 ちらりとメローネ伯母様に視線を送ると、彼女は彼女で、娘の豹変ぶりに驚きを隠せないようで、目を白黒させていた。というか、ほぼ白目である。

「ペスカ」

 私が彼女の名を呼ぶと、泣き出しそうな大きな瞳が私を見上げる。桃色の瞳を震わせるその姿は、小動物のように可愛らしい。

「どうしたの? あなた、昨日までと随分様子が違うけれど。何かあったの?」

 制止するリーベスに目で合図を送り、私は一歩前に出る。

 このペスカからは危険が感じられないのだ。それはリーベスも同じだったらしく、黙って私を見守ってくれている。

 私の問いかけに、彼女の瞳がふるりと揺れたかと思うと、彼女は急に立ち上がって、私に突進して抱きついてきた。

「うわぁぁん、お義姉様ぁぁぁ! こんなやらかしちゃってるわたしの心配までしてくれるなんて優しすぎますぅぅ!!」

「あ、あの、ペスカ?」

「わたし、その日は季節限定の安納芋のパフェが食べたくて急いでたんです。そしたら猛スピードのトラックが交差点に突っ込んできてぇ。そのあと目覚めたら、ここにいたんですよぉぉ!! パフェ食べながら読もうと思って買ったラノベも手元にないし、記憶を辿たどったら、悪い思い出ばっかでぇえっ。ずっと発売日を待ってたのに、どうせなら、読んでからがよかったあぁー!」

 思いの丈たけを吐き出しながら泣き叫ぶペスカらしき少女の言葉は、訳のわからない話ばかりだ。だけどこうしてぎゅうと抱きつかれていると、何故だか頼りにされている気がして、心がじんわりと温かくなってくる。

「ぱふぇ、とか、らのべ、とかはよくわからないけれど……貴女も大変だったのね?」

 私の胸元でえぐえぐと泣いているペスカっぽい少女の頭を撫なでながらそう言うと、彼女は瞳にいっぱい涙を溜めたまま私を見上げた。

「ううっ、こんなに優しいお義姉様に、ペスカはこれまで何てことを……っ。ラノベだったら、姉の婚約者を寝取る系妹なんて、ざまあされて然しかるべきなんですよ! 本当にいくら謝っても謝りきれません……!」

「貴女は、ペスカではないのね?」

 明らかにこれまでのペスカとは違う人格だ。

 気付けば私は、ぐずぐずと泣きじゃくる彼女に自然とそう問いかけていた。

「……そうっ、ですね。わたしはペスカでもあるんですが……前は、桃子と呼ばれていました」

「そう……貴女はモモコというのね。不思議な響きだわ。リーベス。ペス……いいえ、モモコを落ち着かせたいわ。温かい飲み物と……何かお菓子を用意してくれる?」

 とりあえず彼女を落ち着かせるのが先決だと思った私は、隣で固まっているリーベスにそう声をかけた。

 ペスカとモモコ。彼女の中には二つの人格が存在している。それがどういう仕組みなのかは全くわからないけれど。

 これまでのことを覚えているということは、彼女の中にはペスカとしての記憶もきちんとある。それに加えて、私の知らない単語を連発するモモコという存在も、彼女の中に確かにあるのだ。不思議なことに。

「わかりました。すぐにご用意します。メローネ様も別邸に戻っていただきますね」

「ええ、お願い」

 リーベスの言葉に私が頷くと、それを合図にリーベスや使用人たちは、各々が俊敏な動きで去っていく。

 機能停止していたメローネ伯母様は、爺やの指示のもと、屈強なメイドによって回収されていった。

 私はペスカ──今はモモコだという少女の背中をぽんぽんとさすりながら、彼女の口から紡がれる知らない世界の話に耳を傾けることにした。


 部屋には私とモモコ、それからリーベスが残った。

 椅子に座った彼女はそれから、勢いよくいろいろな話を目まぐるしく話し続け、リーベスが差し出した紅茶を一気に飲んだら、糸が切れた人形のようにテーブルに倒れ込んでしまった。

「……眠ってしまわれましたね」

 リーベスが呆れたように言う。

「ええ。疲れているのでしょう」

 私も目の前でテーブルに突っ伏している義妹だった少女を見て、ふうとため息をついた。

 倒れた時は突然のことに驚いてしまったが、すやすやとした寝息が聞こえてきたから、ホッと胸を撫で下ろす。

「プルーニャは戻っているかしら。ペスカを客室に運んでもらいましょう」

「はい、そうしましょう」

 リーベスは部屋の外に控えているメイドに声をかけにゆく。

 彼女の住まいである別邸に、とも思ったけれど、今彼女は非常に混乱しているようなので、伯母様と共にいるのは良くないだろうと判断した。

 ちなみにプルーニャというのは、メローネ伯母様を横抱きにして別邸まで運んでいった屈強なメイドだ。彼女ならばペスカを易々やすやすと運んでくれるだろう。

「お待たせしました。メーラ様」

「プルーニャ。お願いがあるのだけれど、ペスカを運んでくれないかしら。整えている客室があったでしょう。そこにお願いするわ」

「承知いたしました」

 すぐに部屋に来たプルーニャは、ペスカを赤子のように抱き上げると、颯爽さっそうと部屋から出ていった。

 やはり彼女に頼んで正解だった。とっても素早い。

 ペスカたちが去ってしまうと、ティーセットが並べられているこの空間にいるのは私とリーベスだけになった。

 片付けを始めそうになった彼にもう少し話がしたいと我儘を言って、私はリーベスを隣の席に座らせることにした。

 最初は断ろうとしていたリーベスだけれど、最後は折れてくれた。

「……ねえリーベス。ペスカが……モモコが言っていたこと、どう思った?」

 彼女の話はあまりに突飛で、私が理解できたのは一割にも満たなかったかもしれない。

 彼女自身もとても混乱していて、涙ぐんだり言葉に詰まったりと忙せわしなかった。

「俺は信用していません。お嬢様に許してもらうための演技の可能性もあります。今までのペスカ様の行動を思えば、信頼度は低いかと」

 私のティーカップに新しい紅茶を注ぎながら、リーベスは綺麗な赤い瞳を剣呑に細める。

 そう言われれば、そうなのだけれど。いまいち腑ふに落ちないのだ。

 これまでのペスカと、どうしても一つに繋がらない。

「ぱふぇ、という食べ物を、リーベスは知っている?」

「……いえ、存じません」

「他にもいろいろと言っていたわね。ラノベにネトリに、スマホ……だったかしら。トラックという乗り物はどんなものなのかしら。あとは、デンシャ。みんなでそれに乗り込んで遊びに行ったり仕事に行くって言っていたわ。ぎゅうぎゅうで苦しい時もあるって。それって、馬車とは違うのよね」

 彼女の口から紡がれたのは、聞いたこともないような食べ物、乗り物。異なる文明、違う国の、お伽話とぎばなしのようなことばかりだ。

「モモコが暮らしていたニホンには、魔法がないんですって。でも、とても便利だと言っていたわ。デンキやワイファイがあるから、って。どんな仕組みなのかしら」

「……」

 私が話すことを、リーベスは静かに聞いている。

 この国では、魔力が全てだ。そして、その魔力を扱えるのは貴族に限られている。

 貴族が多く住む王都は魔力や魔道具に満ちていて、それなりに便利な暮らしができるが、その半面、魔力の供給がない田舎では、まだまだ不便な生活を強いられている。

 便利な生活を享受していたという彼女は、てっきりそのニホンという国家の王族なのかと思ったけれど、ただの平民だと言っていた。

 そもそも貴族のような身分制度なんて、ニホンではとっくの昔に廃止されている、とも。

 平民でも便利に暮らせる世界──それは、どんな世界なのだろう。

 ペスカがこれまでのことを言い逃れるために思いつきで話したにしては、あまりにもこの世界とは現実離れしていて──それでいて、どこか真実味があった。

「……お嬢様がその話を信じるのなら、俺も信じます」

「リーベス……」

 モモコが話した世界の話に私が思いを馳はせていると、仕方がないとでも言いたげに、リーベスは表情を崩した。

 とても綺麗な笑顔だ。

「お嬢様はもう、その世界を信じているのでしょう?」

 彼の問いかけに、私はコクリと頷いた。

「だって、あの話が全て空想だとしても、とても楽しそうな話じゃない? 研究のしがいがあると思うの。アンノウイモ、というのは、とても甘くて美味しい甘藷かんしょなのですって。私もあの子が言っていた『ぱふぇ』という食べ物を作って、リーベスと食べたいわ」

「俺と……ですか?」

「ええ! だってリーベスは、昔から甘藷が好きでしょう。リーベスが我が家に来る前に、うちに迷い込んだ黒い仔犬こいぬも甘藷が好きだったから、タイミングが似ていてよく覚えているの」

「……っ」

 私がにっこりと微笑むと、リーベスは短く唸うなって、さっと顔を背けてしまった。

 心なしか、耳の先が赤い気がする。

 幼い日のその仔犬は、三日もするといつの間にかいなくなってしまって悲しい思いもしたけれど、爺やからきっと親元に帰ったのだと諭さとされて安堵もした。そんな思い出まで鮮明に思い出してしまった。

 ふと気付けば、私の侍従はとても神妙な顔をして私を見つめている。

「どうしたの? リーベス。おいもが好きでも恥ずかしくないと思うわ。ほくほくで美味しいもの」

「いや……違……」

「だから私、モモコからもっといろいろと話を聞こうと思うの。なんだかいろいろなイメージが湧いてきて、今なら何でも作れそうだわ!」

 モモコの話はとても刺激的だった。今すぐ工房にこもりたいくらい。

 ──だけど、楽しいことに取り掛かる前に、私たちにはあと一つ問題が残っていることもわかっている。

 こほん、と咳せき払いをしたリーベスは、表情をいつもの凛としたものに戻すと、口を開いた。

「ペスカ様が今後もあの状態だとすると……ウーヴァ様との婚約の件はどうなるのでしょう?」

「……それなのよね」

 ほんとに、それ。鮮烈な婚約解消から、まだ一夜しか経っていない。だというのに、私たち──特にペスカを取り巻く状況は大きく変わってしまった。

 私は全く別人格になってしまった義妹に思いを馳せつつ、最後に紅茶を一口飲んで喉を潤うるおした。


◆◆◆


 桜井桃子はどこにでもいるハタチの大学生だった。

 都会すぎず田舎すぎない都市に地方から出てきて、一人暮らしをしている。

 毎日自分が選んだ講義を受けて、たまに寝てしまったり、課題のレポートを提出したり。

 そして夜は、学費と、とある趣味のためにアルバイトに励んでいた。

「よーし、今日はパァッと使うぞぉ!」

 休日になり、桃子は身支度を済ませてリュックを背負った。

 大学もアルバイトも休み。今日は一日自分の好きなことができる。

「ふ、ふふ……特典SSペーパー、絶対に全種類制覇してみせるっ!!」

 彼女が狙うのは、行きつけの書店に入荷する、部数限定の特典付きライトノベルだ。

 各書店でいくつか異なる内容のショートストーリーが読めるため、推し作家さんを応援するためにも、絶対に全部制覇したい。

 もしかしたら他にも、好みのライトノベルがあるかもしれない。タイトルや表紙、それから帯のあらすじを読んで選んだ本が、自分にジャストフィットした時の快感といったらない。

「それに、今日から始まる安納芋のパフェも絶対に食べたいし、他にもいろいろチェックしたいなぁ」

 桃子は足取り軽やかに家を出て、今日という日に胸を躍らせる。

 大好きな本が入手できて、大好きなスイーツが食べられて。それに今日は夜更かしもしていいし、何をしてもいいのだ。

 秋の爽さわやかな風が、桃子の頬を撫でる。

「今日はなんだか、とってもいい一日になりそう!」

 水のように澄み切った高く青い空に、綿のような薄い雲がかかっている。

 まさに秋晴れの今日に、桃子はそんな予感がした。

 そしてその後、望みどおりたくさんの本を購入した桃子だったが、安納芋のパフェを食べることは叶かなわなかった。

 カフェを目指して歩いているところで、信号無視の車が横断歩道に飛び込んできたのだ。

(あれ……なんだろ……身体が動かない……)

 強い衝撃を受けて倒れた桃子は、急なことに頭が追いつかない。

(ちょっと寝たら……ラノベ読も……)

 周囲が騒がしい気がするが、その全てが煩わしく思えて、桃子はそっと目を閉じた。


 それは、長いようにも一瞬にも感じる眠りだった。

 桃子がゆっくりと目を覚ますと、見慣れない天井が目に飛び込んできた。

 精巧な模様の入った、とても綺麗な壁紙だ。こんな部屋、漫画でしか見たことがない。

(あれ……うちってこんなにメルヘンチックだったっけ……というか、いま何時かな? ちょっと、えーと、スマホスマホ)

 覚醒しきれない頭で、ぼおっとしながら、桃子は枕の下に手を伸ばす。

 いつも寝る時は、スマートフォンを枕の下に置いていた。だからその習慣でゴソゴソと探してみる。

(あれ……ない……?)

 どれだけ手を動かしても、一向にスマホは出てこない。昨夜はどうしていただろうか。

「えっと、昨日は確か……ううっ……!」

 スマホを探す手がかりになればと昨日のことを思い出しそうとした時、桃子の頭にずきりと鈍い痛みが走った。

 割れるような激しい痛みに桃子は思わず両手で頭を押さえて、ベッドの上で芋虫いもむしのように丸くなる。

 ──どのくらいそうしていただろうか。

 少し痛みが落ち着いた時に恐る恐る目を開けると、さらりとした髪の感触が指の間を流れていった。

 その色は、淡い茶色だ。

(えっ……何この髪色。わたし、黒髪だったよね……?)

 一晩で髪の色が変わってしまったというのだろうか。いやそんな馬鹿な。寝ぼけて髪を染めたなんてこと、あるはずもない。

 桃子はひどく混乱しながらのそりと立ち上がり、やけにメルヘンな部屋をぐるりと一周見渡した。

 まだ夢の中なのだろうか、この空間は。何の手がかりも得られない。

「あ、鏡がある……!」

 そんな時に見つけたのは、部屋の中央にある姿見だ。

 桃子はそれにそっと近づいて──

「ひえっ、だ、誰!?」

 そこに映る知らない少女の姿に、思わず大きな声をあげた。

「これ……なに。まさか、わたしなの……?」

 ぺたりと鏡に手をつけば、鏡の中に映る美少女も桃子の方を見て、目を丸くして驚いている。

 その様子を呆然ぼうぜんと眺めていると、桃子は再び立っていられないほどの激しい頭痛に襲われた。するとどうだろう。鏡の美少女も、顔を青くして倒れそうになった後、床に這はいつくばった。

 桃子はよろよろと床を這うように進み、またベッドに戻る。

「……異世界転生って本当にあるんだ……?」

 ふかふかのベッドに身を沈めた桃子は、思わずそう呟いていた。

 頭が痛すぎて目も開けられず、ぐるぐると思案する。

 以前の生活では考えられないような、お姫様のようなベッド。部屋も広く、それまでの自分にとっては快適なお城だったワンルームとは格別に違う。

「……何コレ。ほんとに意味わかんないんだけど」

 桃子はうっすらと目を開けた。あまりにも異常事態すぎて、じわりと涙も浮かんでくる。

 割れるような頭痛が唐突に治まると、いろいろな情報が彼女の脳内に一気に溢あふれた。

 まるで映画を早回しで観たような感覚だ。気持ち悪くなって、桃子は眉間みけんに力をぐっとこめて、きつく瞼を閉じた。

 異世界転生。

 それは桃子にとって非常に馴染みのある言葉だった。

 ラノベやファンタジーの世界観が大好きで、特に主人公が転生者であるような小説や漫画は好んで購入していた。

 前世が日本人である主人公が、その知識を持ったまま異世界に生まれ変わり、その溢れる知識と能力を武器に逞たくましく生きてゆく──そんな話が大好きだったのだ。

 だがその場合、大抵の主人公は、悪役令嬢になってシナリオを改変して逆ハーレム状態になったりだとか、パーティーから追放されたけど後々チートが発覚して無双するとか、最終的に幸せになっていたと思う。

「ううっ……ペスカ……何やっちゃってくれてんの……」

 だが、現在の桃子の状況は一味違う。

 状況からして、パフェを食べに行く途中で事故に遭あったのだろう。前世の自分のことを、そこまでは思い出せた。

 だが、先ほど桃子の脳内に一気に流れ込んできたのは、何も前世の記憶だけではない。これまでの自分自身──このペスカ・ベラルディという十六歳の少女のことだ。

「思いっきり姉のものを奪う系の妹じゃん……知ってる、そういうの……」

 桃子の嘆きは、柔らかなシーツに吸い込まれていく。

 芋づる式に思い出したペスカの記憶では、義姉にドレスや宝石が贈られる度に、母と共にゴネてゴネてゴネて、それを奪う──といった行為が日常茶飯事だった。

 それは亡き父から彼女への誕生日プレゼントだとか、家を出て行った母親の思い出の品だとかだが、そんなことはお構いなしだった。

 それに、だ。

(それで最後には婚約者までって。どんな義妹なの、ほんとに……)

 こともあろうに、桃子は『義姉の婚約者を誘惑し、二人の婚約を解消させた義妹』として転生を果たしてしまったようだった。

 読んでいた小説では、ひどい未来を変えるために、幼少の頃から努力する展開が多かった。

 だけど今、それを成すべき時期はとうに終わっている。

「ちょっと待って、理解が追いつかないよう」

 足をバタバタさせながら、桃子は必死に頭の中の記憶を辿った。

 義姉の名前はメーラ。あとからこの家に入ったぺスカにも優しく──どちらかといえば無関心だったような気もしなくはないけど──意地悪さは皆無だった。

 苦手な社交の場はとことん避けているようだったけれど、ベラルディ家の名と義姉の才能のすごさはどこに行っても噂の的だった。

 そしてそれを、青筋をピクピクさせながら無理やり微笑む母メローネと共に、ペスカも居心地悪く聞いていた。そんなお茶会での記憶がある。

 同じくベラルディ家の血を引いているはずなのに、メーラとペスカでは、その与えられた才能も置かれた立場もまるで違った。

 放蕩ほうとうの末に廃嫡はいちゃくとなった父。伯爵家の長男に嫁いだはずが、全ての計画が頓挫とんざしてしまった母。そして、父の死後は叔父に拾われ、そのことによって母からの期待を一身に背負うことになってしまったペスカ。

(うっ、ちょっと……情報量が多いよお)

 モモコの中に、ペスカの抱えていたものが全て流れ込んでくる。

 美しく着飾ったその腹の中で、いつもどこか鬱屈うっくつとした気持ちを抱え、それをメーラに当たることで昇華させようとしていた節ふしがある。

 だって義姉は、なんでも持っているのに、何も欲しがらない。

 それが悔しくてたまらなくて、奪いたかったのだ。彼女を困らせたかった。

 それで最終的に、義姉の婚約者であるはずのウーヴァとペスカは恋仲になってしまっていたらしい。

(落ち着けわたし……ええっと、昨日わたしたちはお義姉様にそのことを告げて、婚約解消を迫ったのよね)

 昨日、メーラと婚約者のウーヴァと三人で話をした。

 婚約者を奪ったら、義姉はどんな顔をするのだろう。そう期待を込めて。

 そうしたら、義姉は動揺もせずに部屋を出て行った。それを驚きの感情で見送ったところははっきりとペスカの記憶にある。

 悔しいという負の感情が、勝手に湧いてくる。

(それから、どうしたんだっけ。お義姉様が部屋を出た後、何か話したような)

 部屋に残ったままウーヴァと何かを話して──よく覚えてはいないが、その内容にペスカはひどく怒って、そのまま卒倒したような気がする。

 ──そこからのぺスカの記憶が、ない。

「うえっ……なんなのぉ、このタイミング……今更謝っても許してもらえるレベルじゃないよぉ~~」

 桃子はめそめそしながら、枕にさらに顔を埋めた。すでにしっとりと濡れているそれは、もはや心地よさの欠片かけらもない。

 異世界で、とんでもないスタートラインに強制的に立たされている。逆境にもほどがある。

「それに、安納芋のパフェ……」

 直前までの桃子の願いはそのパフェ一択だった。だからなのか未練ありありで、思い出すとますます食べたくなってしまう。

 角切りのお芋のパウンドケーキ、生クリーム。それからお芋の餡あんと、ソフトクリーム、甘い焼き芋。

 それらが層になったパフェ。食べたら口中に秋の味が広がったことだろう。

(他の季節のパフェも食べたかった……っ)

 暫くそのままの格好で突っ伏していた桃子は、ジタバタするのをぴたりとやめた。

(……いつまでもこうしてたって、仕方ないよね)

 ひとつため息をついたあと、心を決めてのそのそと起き上がる。

 くしゃくしゃになったワンピースはそのままにベッドから降り、クローゼットらしきところを開ける。

 すると、フリフリらぶりーな桃色の服が大量に出てきた。ペスカはごちゃごちゃしたものが大好きだったようだ。

 桃子は半目になりながら諦めの境地でそこを漁あさると、唯一端っこの方にシンプルなワンピースがあった。

 義姉から〝もらった〟けれど、趣味じゃないからと一度も袖を通していなかったものだ。

「いやほんと……申し訳ない……」

 他に着られる服がないため、桃子はそれを急いで着込む。

 ここは別邸だ。義姉のメーラがいるのは本邸。母の気配はないようだから、きっといつもどおり彼女もそっちにいるのだろう。

 桃子は必死にペスカの淡い記憶を辿る。そして本邸へと急いだのだった。