第二章 焦らずに、少しずつ前に進む
五月になってから、俺はアイリンに文字を教え始めた。言葉は喋れないけど、文字を勉強すれば自分の意志を表現できるはずだ。
「あうあう」
「そう、それが『アイリン』……お前の名前だ」
「あう!」
アイリンが木の枝で地面に自分の名前を書いた。やっぱりこの子は頭がいい。少し勉強しただけなのにもう自分の名前が書けるなんて。
「ふむ」
「レッドよりマシだな」
「認める」
俺は頷いた。アイリンの聡明さには感心した。
「それはそうとして……レッド」
「ん?」
「今から『南の都市』へ行く。ついてこい」
南の都市へ?
「ちょっと待て、アイリンは?」
「もちろん置いていく」
「いや、アイリンを一人にしておくわけにはいかないだろう」
爺の顔が
「まったく……分かった。しかしお前が面倒を見ろ」
「ああ」
俺はアイリンに近づいた。
「アイリン」
「あう」
「今から一緒に南の都市へ行く。俺から絶対
「あう!」
アイリンは『分かりました!』という顔で頷いた。
俺はまず自分の肌を隠すためにフードを被った。そして爺と俺、アイリンは一緒に道を歩き始めた。アイリンとしては小屋に住んでから初めての遠出だ。
「しかし……南の都市か」
南の都市は『都市』だけに町とは比べ物にならないほど大きい。港のおかげで商業が発達していて、毎日数えきれないほどの商品が取引される。まさに活気
だが……その活気溢れる都市の裏では、商業の利益を
アイリンをそんなところに連れて行くのは危ない。でもだからといって一人にしておくわけにもいかない。
「爺、どうして南の都市に行くんだ?」
「お金のためさ。作戦のためのお金はいくらあっても足りない」
爺は杖で俺の肩を軽く
「今までは私一人で
「分かった」
鼠の爺が一体どうやってお金を稼いでいるのか、最初から疑問だった。今日その疑問が解けるのか。
南へと進めば進むほど道が広くなっていく。そして時々荷馬車や行商人たちとすれ違う。南の都市で取引をしている人々だ。
「あう……」
やがて南の都市についた時、アイリンが小さい声で
都市の入り口から小さな店がずっと並んでいて、大勢の人間が商品を運んだり客を引くために
「ここで余計なことするな、レッド」
「分かっている」
無能な警備隊は気にする必要も無いけど、この都市の裏にある裏組織らと張り合うのは
「アイリン、俺の手をしっかり
「あう!」
俺とアイリンは互いの手を
「こっちだ」
鼠の爺が
「あう……!」
アイリンが大きい声を出した。港の向こうに広がる果てしない海……その
「ここら辺で待っていろ」
爺は一人で港の
「アイリン、あの『海』をもっと近くで見たくないか?」
「あう!」
アイリンが
「あうあう!」
海の風と
「……この海の向こうにはな、別の大陸の国々があるらしい。こことは食べ物から服装まで何もかも違うそうだ」
「あうあう!」
「そうだな。俺も行ってみたい」
俺の目的はこの王国の
「あう!」
でも不思議な気持ちだ。アイリンの
「レッド」
鼠の爺が戻ってきた。俺ははっと気がついて身を引き
「これ、お前が持っていろ」
爺が俺に何かを
「爺、このお金はどうやって稼いだんだ?」
「ものを売って稼いだのさ」
「でも爺は何も持っていなかったじゃないか」
「へっ、お前も本当にまだまだだな。私が売ったものは……この中にある」
爺は自分の頭を指さした。
「知識を売ったのか?」
「もっと正確に言うと『情報』だ。私は情報を売ってお金を稼ぐ」
なるほど、つまり爺は『情報屋』をやっているのか。
「私はいろんなところに知り合いがいてな。知り合いの間の情報交流を手伝うだけで多大な価値を生むんだ。少しでも頭が回るやつなら、情報の大事さを理解しているからな」
爺は簡単そうに言ってるけど……情報を売ってこんな大金を稼ぐためには、相当な知略と行動力が必要だろう。つまり爺くらいの人物じゃないと難しい。
「で、俺の仕事は何だ? 俺も情報を売るのか?」
「お前には身体を売ってもらう」
身体……?
「『夜の仕事』さ。楽しみにしていろ」
「おい、爺。まさか……」
「
ここに来るまで何時間も歩いたんだから、アイリンも
---
「おい、アイリン。起きろ」
「あう……」
俺は宿の部屋で
「移動する時間だぞ」
「……あう!」
アイリンは『ごめんなさい!』という顔で
「まったく……」
「アイリンはまだ子供だから仕方ないじゃないか」
「お前、その子に
顔をしかめている爺と俺がそんな会話をしていると、アイリンが「あう!」と言いながら何度も頭を下げる。
「ちっ……もういい、さっさと行くぞ」
俺たちは月明かりを浴びながら夜の都市を歩いた。昼の人込みや
「あそこが『夜の仕事』をする場所だ」
爺が杖で前方を指した。そこには倉庫みたいな大きい建物がある。俺たちが建物に近づくと、門番の大男が爺を見て目を丸くする。
「まさか、鼠の
「久しぶりだな」
大男と爺が
「まさか参戦するんですか?」
「いや、私はもう歳が歳だからそんなことはしない。その代わりに……」
爺が親指で後ろに立っている俺を指差す。
「私の
「爺さんの弟子?」
大男が俺を
「確かに強そうですね。ところで、そっちの子供は?」
「友人の子供だ。事情があってちょっと預かっている」
「まあ……分かりました。爺さんの連れなら問題ないでしょう。どうぞ入ってください」
大男が
「何してんだ! もっと殴れ!」
「殺せ! 殺せ!」
建物の中には大勢の人が集まり、
「爺、ここは……」
「見りゃ分かるだろう。『
爺が杖で殴り合っている二人の男を指した。
「あの二人の中でどっちが勝つか、お金を
「なるほど、
人々が
「博打は人間社会に
二人の男は血だらけになっても戦い続ける。人々は二人が血を流せば流すほど興奮する。アイリンはそんな光景に
「人間には
「中毒者たちを利用してお金を稼ぐやつらがいるのも、いつの時代だって同じだろう?」
「その通り」
俺たちは二階に登る階段に近づいた。階段の前に立っていた二人の大男は、爺の顔を
二階は酒屋のような感じで、数人の男が席に
「鼠の爺さん……?」
やつらは爺の登場に
扉の中は
長身の男は爺の顔を見ると、席から立ち上がって挨拶する。
「おお、これは鼠の爺さん。お久しぶりです」
「久しぶりだな、ロベルト」
爺が挨拶を返した。『ロベルト』と呼ばれた男は「さあ、どうぞお座りになってください」と言った。俺たちは足を運んでテーブルに座った。
俺はロベルトを注視した。まるで貴族のように
「今日はどのようなご用件ですか? まさかの復帰?」
「いや、今日は私の弟子を連れてきた」
「弟子ですか?」
ロベルトの
「私はこの場所を運営しているロベルトと申します。失礼ですが、お顔を拝見できるでしょうか」
「ああ」
俺はフードを外して
「ほぉ」
俺の赤い
「なるほど、もう外見だけで強そうなお方ですね」
むしろ
「お名前は?」
「俺はレッドだ」
「初めまして、レッドさん。今後ともよろしくお願い
ロベルトは
「そっちのお
「友人の子供だ。事情があってちょっと預かっている」
「そうですか」
アイリンは少し怯えた顔だ。ロベルトから
「それで、今日はレッドさんがご
「ああ。でもこいつ、今日が初めてだから軽く一戦だけ
「分かりました」
ロベルトが部屋の隅に立っている部下を手招いて、小声で何かを指示した。すると部下は「はい!」と答えて部屋を出る。
「試合を手配しました。少し時間がかかりますから、
爺と俺がその
そして数分後、ロベルトの部下が部屋に入ってきて大声で報告する。
「まもなくレッド様の試合が始まります!」
「よろしい。では
俺たちとロベルトは一緒に部屋を出て、二階の隅まで行った。そこには階段があった。
「この階段を降りたら、試合場に
「知らないけど、
「左様です」
ロベルトが笑った。その笑顔だけ見れば親切な
「私も観覧させて頂きます。どうかいい試合になりますように」
俺は軽く頷いて階段を降りた。爺は無表情で、アイリンは心配げな顔で俺を見つめる。
階段を降り切ると長い通路が見える。通路は鉄網で囲まれた空間、つまり『試合場』に
「……
期待と興奮で胸がときめいてきた。この『夜の仕事』が好きになりそうだ。
---
やがて俺が『試合場』に一歩入ると……鉄網の向こうの観客たちが
「何だ、あいつ!? 肌が赤いぞ!」
「気持ち悪いな! 早くくたばれ、化け物!」
俺は鼻で笑った。これくらいの
「皆さん、この試合にご注目ください!」
試合場の真ん中に立っている男が叫んだ。進行係なんだろう。
「今まで三戦三勝した『マックス』様に、今日新しく登場した『レッド』様が
試合場の向こうにはもう一人の男が立っていた。あいつがマックスなんだろう。俺より背は低いが結構筋肉質の男だ。
「皆さんも
こいつ、余計なこと言いやがって……。
「さあ! この試合、生き延びるのは果たしてどちらでしょうか! 皆さん、思い切って賭けてください!」
進行係が言い終えると、人々がまるで
「マックスに五十だ!」
「赤い
まるで俺自身が商品になった気持ちだ。なるほど、だから『身体を売る仕事』なのか。
ロベルトの部下たちが急ぎ足で動き回り、観客たちから集金する。それが終わるとまた進行係が叫び始める。
「皆さんの熱気に感謝致します! それじゃ、マックス様とレッド様の試合を開始します!」
進行係は素早く試合場から
「マックス、あんなやつは早く殺してしまえ!」
「赤い野郎! お前の方がでかいから先に打って出ろ!」
観客たちが狂ったような
なるほど、このマックスというやつはただの
力なら俺の方が上、素早さならマックスの方が上だ。そしてこの鉄網に囲まれた空間……どんな戦いになるかはもう予想済みだ。
「お前ら、いつまで見つめ合うつもりだ!?
観客の
「いいぞ、マックス! そのまま殴り倒せ!」
「赤い野郎! 何やってんだ!? お前も殴れ!」
落ち着け……俺は自分にそう言い聞かせた。ここで焦ってマックスを追いかけたところで、やつの素早さに
「この
他のやつらがどう
「マックス! マックス!」
観客たちはもうマックスの勝利を確信している。いや、観客たちだけではない。マックス本人も勝利を確信して笑っている。しかし……お前の『勝ったと思って油断した時』こそが、俺の反撃の時だ!
「あ!?」
観客たちが
人間は
マックスは無様な姿で地面に倒れ、気を失う。もうこれ以上殴る必要も無い。
「そんな……」
「マックスが……」
観客たちが言葉を失う。この静けさ……実に気持ちいい。どれだけ
「……よくやったぞ! 赤い野郎!」
観客の一人が叫んだ。それをきっかけに、あちこちで歓声が上がる。
「お前のおかげで
「
へっ、この俺を
---
試合場を出て二階に上がると、小さな誰かが俺に抱きついてくる。
「あう……!」
アイリンだ。アイリンは
「心配するな。俺は
まだ
「あんなやつに手こずるなんて、お前もまだまだだな」
後ろから
「別に手こずってねぇよ」
「そうかい? 戦いがもう少し長引いたら、お前の方が先に倒れたぞ」
このクソ爺……相変わらず正確だな。
「とにかく、ロベルトがお前に直接
「分かった」
俺は足を運んで爺の
「レッド、あの男には注意しろ」
その言葉に「ああ」と答えた後、俺はロベルトの部屋に入った。
「レッドさん」
テーブルに座っていたロベルトが立ち上がり、俺に近づく。
「素晴らしい試合でした」
「ありがとう」
「報酬をどうぞ」
俺は革袋を受け取った。結構な量の硬貨が入っている。
「結構多いな」
「レッドさんのデビュー戦でしたし、少し多めにしておきました」
「それもありがとう」
「どういたしまして。ところで……爺さんからお聞きしましたが、レッドさんはまだ十七
「ああ」
「十七歳でこの強さ……本当に素晴らしいお方だ」
ロベルトが
「では、またのご参戦をお待ちします」
「ああ」
ロベルトの鋭い眼差しを後ろにして、俺は部屋を出た。
---
南の都市を出た時は、もう深夜になっていた。俺たちの小屋まではまた何時間も歩かなければならない。爺と俺は別にいいけど、アイリンには無理だ。
「アイリン」
「あう?」
「俺の背中に乗れ。背負ってやる」
「あうあう!」
アイリンは驚いて首を横に振ったが、俺が「早く乗れ」と
軽い。この子はどうしてこんなに軽いんだろう。アイリンの
「
鼠の爺が
「まさか
「何言ってんだ」
俺は鼻で笑った。
「俺に限ってそんなことは無い。いつかは何もかもぶっ
「そうかい」
爺が頷く。
「とにかくお前にはこれからもあの格闘場で働いてもらう」
「お金のため?」
「お金のためでもあり、
爺の声が冷たくなった。
「南の都市で……少なくとも一年以上生き残れ。それが目標だ」
「『勝ち続けろ』じゃなくて『生き残れ』か」
「もちろんだ。負けたからって
「もう一度言う。俺に限ってそんなことは無い」
「へっ、口だけは一人前だな」
それから俺と爺は
---
俺が姿を現すと、いつも通り
「ほ、本当にあんなのがいたのか!?」
「くたばれ! 赤い化け物!」
「待っていたぞ、レッド!」
格闘場の観客たちは
「皆さん、大変お待たせしました!」
進行係が全力で叫ぶ。
「これから七戦七勝の『フランコ』様と、三戦三勝のレッド様の対決が始まります!」
俺は今日の相手のフランコを見つめた。
「レッドに四十だ!」
「フランコに三十だ! 赤い野郎をぶっ殺せ!」
観客たちは進行係の言葉も待たずに、もうお金を賭け始める。一秒でも早く俺とフランコの
「格闘に対する皆さんの熱狂的な愛に感謝致します! それでは、存分に楽しんでください!」
集金が終わると、進行係が素早く
俺とフランコは互いに向かって歩き、手が届く距離まで近寄った。そして同時に笑った。お互い同じことを考えていたのだ。
「若造が……楽しみ方を知っているな」
フランコは笑顔でそう言ってから、俺に拳を振るう。もちろん俺も同時に拳を振るった。その結果……互いの拳が互いの頭を直撃して、二人は同時にふらつく。
「おおおお!」
「すげぇー!」
観客たちが歓声を上げる。
「……やるな、若造!」
「へっ」
俺たちは互いに向かって拳を振るいながら一緒に笑った。不思議な話だが……楽しい。同格の相手と真正面から殴り合うこの瞬間が……俺にはたまらないほど楽しいんだ!
「完全に
観客の一人が叫んだ。その通りだ。これはもう
「
「
誰が上で誰が下なのか、それを決めるために二
「うぐっ……!」
「くっ!」
「若造が!」
フランコが笑いながら最後の一撃を放つ。俺も
「うっ……!」
俺は一歩
「ふふ……」
フランコが笑顔のままゆっくりと倒れていく。全力でぶつかった結果に満足したんだろう。その気持ちも理解できる。
「レッド様の勝ちです!」
進行係が試合場に入ってきて宣言した。観客たちの興奮が最高潮に達し、俺は試合場から出た。
---
二階に上がると、
「お疲れ
少年は感激した顔で俺にタオルを渡す。
「ありがとう、トム」
俺はタオルで血と汗を
トムはこの格闘場を運営している『ロベルト組』の下っ
「こちらが今回の報酬です」
「ああ」
俺はタオルをトムに返して硬貨の入った革袋を受け取った。ロベルトの不在中には、こうしてトムが俺に報酬を渡してくれる。
「レッドさん、傷の
「要らない。それよりアイリンは?」
「お嬢さんは奥の部屋です」
俺は足を運んで奥の部屋に入った。するとテーブルに座っていたアイリンが俺に
「あう……!」
泣き顔で俺に
本当はアイリンに試合を見せたくなかった。この子は俺が一発殴られるだけで
「あうあう」
「いや、治療は要らない」
俺が断ると、アイリンが
「分かった。治療してくれ」
「あう!」
俺は大人しくテーブルに座ってアイリンに手当てを任せた。アイリンは
---
格闘場を出ると、俺たちは深夜の冷たい空気に包まれた。これではアイリンが
「……そうだ、明日は外食しよう」
「あう?」
俺の
「爺は二、三日くらい戻らないらしいし……お金もあるからな。いい食堂を探してみよう」
「あう……」
「いいんだ。たまには少し
「……あうあう!」