第二章 焦らずに、少しずつ前に進む



 五月になってから、俺はアイリンに文字を教え始めた。言葉は喋れないけど、文字を勉強すれば自分の意志を表現できるはずだ。

「あうあう」

「そう、それが『アイリン』……お前の名前だ」

「あう!」

 アイリンが木の枝で地面に自分の名前を書いた。やっぱりこの子は頭がいい。少し勉強しただけなのにもう自分の名前が書けるなんて。

「ふむ」

 ひるしていた鼠の爺が小屋から出て、勉強中のアイリンをながめる。

「レッドよりマシだな」

「認める」

 俺は頷いた。アイリンの聡明さには感心した。

「それはそうとして……レッド」

「ん?」

「今から『南の都市』へ行く。ついてこい」

 南の都市へ?

「ちょっと待て、アイリンは?」

「もちろん置いていく」

「いや、アイリンを一人にしておくわけにはいかないだろう」

 爺の顔がゆがむ。

「まったく……分かった。しかしお前が面倒を見ろ」

「ああ」

 俺はアイリンに近づいた。

「アイリン」

「あう」

「今から一緒に南の都市へ行く。俺から絶対はなれるな」

「あう!」

 アイリンは『分かりました!』という顔で頷いた。

 俺はまず自分の肌を隠すためにフードを被った。そして爺と俺、アイリンは一緒に道を歩き始めた。アイリンとしては小屋に住んでから初めての遠出だ。

「しかし……南の都市か」

 南の都市は『都市』だけに町とは比べ物にならないほど大きい。港のおかげで商業が発達していて、毎日数えきれないほどの商品が取引される。まさに活気あふれる商業都市だ。

 だが……その活気溢れる都市の裏では、商業の利益をえさに多数の裏組織がうごめいている。おかげで身元不明の遺体が発見されることも少なくないが……もちろん警備隊のやつらもはいしているから、犯人がつかまることはめつにない。

 アイリンをそんなところに連れて行くのは危ない。でもだからといって一人にしておくわけにもいかない。

「爺、どうして南の都市に行くんだ?」

「お金のためさ。作戦のためのお金はいくらあっても足りない」

 爺は杖で俺の肩を軽くたたく。

「今までは私一人でかせいできたけど、今日からはお前にも働いてもらうぞ」

「分かった」

 鼠の爺が一体どうやってお金を稼いでいるのか、最初から疑問だった。今日その疑問が解けるのか。

 南へと進めば進むほど道が広くなっていく。そして時々荷馬車や行商人たちとすれ違う。南の都市で取引をしている人々だ。

「あう……」

 やがて南の都市についた時、アイリンが小さい声でつぶやきながら俺の腰に抱きついた。その気持ちも理解できる。アイリンにとって、こんなにたくさんの人が行き来している光景は初めてのはずだ。

 都市の入り口から小さな店がずっと並んでいて、大勢の人間が商品を運んだり客を引くためにさけんだりしている。もう都市全体が一つのきよだいな市場のようだ。ちつじよだけど活気に溢れていて、自然に人々が集まってくる。

「ここで余計なことするな、レッド」

「分かっている」

 無能な警備隊は気にする必要も無いけど、この都市の裏にある裏組織らと張り合うのは流石さすがにまずい。殺人より夕食のこんだてを決めることの方が面倒くさいと思っている連中だ。

「アイリン、俺の手をしっかりつかんでいろ」

「あう!」

 俺とアイリンは互いの手をにぎった。こんなところでアイリンが迷子になったら大変だ。

「こっちだ」

 鼠の爺がひとみの中へ足を運んだ。俺とアイリンは注意しながら爺を追った。そして三十分くらい歩いた時、目の前の風景がいきなり青色に染まる。

「あう……!」

 アイリンが大きい声を出した。港の向こうに広がる果てしない海……そのあつとうてきな風景に驚いたんだろう。俺も初めて海を見た時、まったく同じ反応だった。

「ここら辺で待っていろ」

 爺は一人で港のすみへ行ってしまった。

「アイリン、あの『海』をもっと近くで見たくないか?」

「あう!」

 アイリンがうなずいた。俺たちは足を運んで海に近づいた。

「あうあう!」

 海の風とにおいを感じながらアイリンが笑った。俺とは全然違う……じゆんすいな子供の笑顔だ。

「……この海の向こうにはな、別の大陸の国々があるらしい。こことは食べ物から服装まで何もかも違うそうだ」

「あうあう!」

「そうだな。俺も行ってみたい」

 俺の目的はこの王国のめつぼうだ。そんな俺に、アイリンを連れて海の向こうの国々を旅する日は……たぶん来ないだろう。でも……。

「あう!」

 でも不思議な気持ちだ。アイリンのな笑顔を見ていると、俺の胸にまっていたいかりが少しずつけずられていくような……そんな不思議な気持ちがする。これは一体何なんだろう。

「レッド」

 鼠の爺が戻ってきた。俺ははっと気がついて身を引きめた。

「これ、お前が持っていろ」

 爺が俺に何かをわたした。これは……こうがたくさん入っているかわぶくろだ。

「爺、このお金はどうやって稼いだんだ?」

「ものを売って稼いだのさ」

「でも爺は何も持っていなかったじゃないか」

「へっ、お前も本当にまだまだだな。私が売ったものは……この中にある」

 爺は自分の頭を指さした。

「知識を売ったのか?」

「もっと正確に言うと『情報』だ。私は情報を売ってお金を稼ぐ」

 なるほど、つまり爺は『情報屋』をやっているのか。

「私はいろんなところに知り合いがいてな。知り合いの間の情報交流を手伝うだけで多大な価値を生むんだ。少しでも頭が回るやつなら、情報の大事さを理解しているからな」

 爺は簡単そうに言ってるけど……情報を売ってこんな大金を稼ぐためには、相当な知略と行動力が必要だろう。つまり爺くらいの人物じゃないと難しい。

「で、俺の仕事は何だ? 俺も情報を売るのか?」

「お前には身体を売ってもらう」

 身体……?

「『夜の仕事』さ。楽しみにしていろ」

「おい、爺。まさか……」

くわしい説明は後だ。ま、夜になるまで時間もあるし……ゆっくりとするか」

 ここに来るまで何時間も歩いたんだから、アイリンもつかれているはずだ。爺の言葉が気になるけど、今はそんなことよりこの子を休ませてやりたい。おれはアイリンと一緒に爺を追って港から離れた。

---

「おい、アイリン。起きろ」

「あう……」

 俺は宿の部屋でているアイリンを起こした。

「移動する時間だぞ」

「……あう!」

 アイリンは『ごめんなさい!』という顔でばやしんだいから降りた。そして一緒に宿を出ると、夜空の下で爺が待っていた。

「まったく……」

「アイリンはまだ子供だから仕方ないじゃないか」

「お前、その子にあますぎないか?」

 顔をしかめている爺と俺がそんな会話をしていると、アイリンが「あう!」と言いながら何度も頭を下げる。

「ちっ……もういい、さっさと行くぞ」

 俺たちは月明かりを浴びながら夜の都市を歩いた。昼の人込みやそうおんは消え去ったが、船乗りたちやぱらいがいまだに道を往来している。本当に活気溢れる都市だ。

「あそこが『夜の仕事』をする場所だ」

 爺が杖で前方を指した。そこには倉庫みたいな大きい建物がある。俺たちが建物に近づくと、門番の大男が爺を見て目を丸くする。

「まさか、鼠のじいさん……? おお、こりゃ本当に久しぶりですね!」

「久しぶりだな」

 大男と爺があいさつわした。

「まさか参戦するんですか?」

「いや、私はもう歳が歳だからそんなことはしない。その代わりに……」

 爺が親指で後ろに立っている俺を指差す。

「私のを連れてきた」

「爺さんの弟子?」

 大男が俺をぎようする。フードを被っているから顔は見えないだろうけど。

「確かに強そうですね。ところで、そっちの子供は?」

「友人の子供だ。事情があってちょっと預かっている」

「まあ……分かりました。爺さんの連れなら問題ないでしょう。どうぞ入ってください」

 大男がとびらを開けてくれて、俺たちは建物の中に入った。

「何してんだ! もっと殴れ!」

「殺せ! 殺せ!」

 建物の中には大勢の人が集まり、てつもうの向こうに向かって叫んでいた。そして鉄網の向こうでは……二人の男が必死に殴り合っている。

「爺、ここは……」

「見りゃ分かるだろう。『かくとう場』だ」

 爺が杖で殴り合っている二人の男を指した。

「あの二人の中でどっちが勝つか、お金をけるんだ」

「なるほど、ばくか」

 人々がねつきようてきに叫んでいる理由が分かった。

「博打は人間社会にひつといっても過言ではないさ」

 二人の男は血だらけになっても戦い続ける。人々は二人が血を流せば流すほど興奮する。アイリンはそんな光景におびえて、俺の後ろに隠れてしまう。

「人間にはごろきんちようや不安を解消するための手段が必要だ。それに博打は勝った時のえつと負けた時のくやしさがきようれつだ。一度そのげきを味わったら、中毒者になるのはいとも簡単……いつの時代だって同じさ」

「中毒者たちを利用してお金を稼ぐやつらがいるのも、いつの時代だって同じだろう?」

「その通り」

 俺たちは二階に登る階段に近づいた。階段の前に立っていた二人の大男は、爺の顔をかくにんしてすぐ道を空けてくれた。

 二階は酒屋のような感じで、数人の男が席にすわってお酒を飲んでいた。一階のねつきようとは裏腹の静けさ……つまりこいつらが、下の中毒者たちを利用してお金を稼いでいる裏組織だ。

「鼠の爺さん……?」

 やつらは爺の登場におどろいたようだ。しかし爺はやつらを無視して、二階のおくの部屋まで行って扉をノックした。すると中から「入って下さい」という男の声が聞こえてきた。爺は迷いなく扉を開いて中に入り、俺とアイリンはその後を追った。

 扉の中はれいかざられている広い部屋だ。じゆうたんかれていて、まるで貴族の居所みたいだ。部屋の中には数人の男がいたが、一番目立つのは真ん中のテーブルに座っている長身の男だ。

 長身の男は爺の顔を見ると、席から立ち上がって挨拶する。

「おお、これは鼠の爺さん。お久しぶりです」

「久しぶりだな、ロベルト」

 爺が挨拶を返した。『ロベルト』と呼ばれた男は「さあ、どうぞお座りになってください」と言った。俺たちは足を運んでテーブルに座った。

 俺はロベルトを注視した。まるで貴族のようにゆうな男だ。美中年という言葉がぴったりだろう。だが……俺は直感的に分かった。こいつは裏組織の『ボス』だ。このかんろくちがいない。

「今日はどのようなご用件ですか? まさかの復帰?」

「いや、今日は私の弟子を連れてきた」

「弟子ですか?」

 ロベルトのするどまなしが俺に向けられる。

「私はこの場所を運営しているロベルトと申します。失礼ですが、お顔を拝見できるでしょうか」

「ああ」

 俺はフードを外してがおを見せた。

「ほぉ」

 俺の赤いはだを見ても、ロベルトは別に驚かない。

「なるほど、もう外見だけで強そうなお方ですね」

 むしろかれは笑顔を見せる。流石裏組織のボス、といったところか。

「お名前は?」

「俺はレッドだ」

「初めまして、レッドさん。今後ともよろしくお願いいたします」

 ロベルトはれいただしく挨拶してから、アイリンの方に視線を移す。

「そっちのおじようさんは? まさか爺さんのお孫さん?」

「友人の子供だ。事情があってちょっと預かっている」

「そうですか」

 アイリンは少し怯えた顔だ。ロベルトからあつ感を感じ取ったんだろう。

「それで、今日はレッドさんがごしゆつじんなさるのですね?」

「ああ。でもこいつ、今日が初めてだから軽く一戦だけたのむ」

「分かりました」

 ロベルトが部屋の隅に立っている部下を手招いて、小声で何かを指示した。すると部下は「はい!」と答えて部屋を出る。

「試合を手配しました。少し時間がかかりますから、いつしよにお酒でも?」

 爺と俺がそのさそいを断ると、ロベルトは部下に水と果物などを持ってこさせた。爺は水だけ飲み、俺は緊張しているアイリンにリンゴを渡した。アイリンは両手でリンゴを掴んで食べ始める。

 そして数分後、ロベルトの部下が部屋に入ってきて大声で報告する。

「まもなくレッド様の試合が始まります!」

「よろしい。ではみなさん、行きましょうか」

 俺たちとロベルトは一緒に部屋を出て、二階の隅まで行った。そこには階段があった。

「この階段を降りたら、試合場に辿たどり着きます。試合の規則はごぞんでしょうか?」

「知らないけど、で相手をなぐたおせばいいんだろう」

「左様です」

 ロベルトが笑った。その笑顔だけ見れば親切なしんだ。

「私も観覧させて頂きます。どうかいい試合になりますように」

 俺は軽く頷いて階段を降りた。爺は無表情で、アイリンは心配げな顔で俺を見つめる。

 階段を降り切ると長い通路が見える。通路は鉄網で囲まれた空間、つまり『試合場』につながっている。

「……おもしろそうだな」

 期待と興奮で胸がときめいてきた。この『夜の仕事』が好きになりそうだ。

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 やがて俺が『試合場』に一歩入ると……鉄網の向こうの観客たちがを飛ばしてくる。

「何だ、あいつ!? 肌が赤いぞ!」

「気持ち悪いな! 早くくたばれ、化け物!」

 俺は鼻で笑った。これくらいのじよくならもう聞き慣れている。

「皆さん、この試合にご注目ください!」

 試合場の真ん中に立っている男が叫んだ。進行係なんだろう。

「今まで三戦三勝した『マックス』様に、今日新しく登場した『レッド』様がちようせんします!」

 試合場の向こうにはもう一人の男が立っていた。あいつがマックスなんだろう。俺より背は低いが結構筋肉質の男だ。

「皆さんもうわさくらいは聞いたことあるでしょう! そう、このレッド様こそが噂の『赤い肌の少年』です! あの少年がここまで成長したんです!」

 こいつ、余計なこと言いやがって……。

「さあ! この試合、生き延びるのは果たしてどちらでしょうか! 皆さん、思い切って賭けてください!」

 進行係が言い終えると、人々がまるでくるったかのようにさわぎ始める。

「マックスに五十だ!」

「赤いろうに三十! いや、六十だ!」

 まるで俺自身が商品になった気持ちだ。なるほど、だから『身体を売る仕事』なのか。

 ロベルトの部下たちが急ぎ足で動き回り、観客たちから集金する。それが終わるとまた進行係が叫び始める。

「皆さんの熱気に感謝致します! それじゃ、マックス様とレッド様の試合を開始します!」

 進行係は素早く試合場からけ出した。もう俺とマックスの戦いを止められるものは無い。

「マックス、あんなやつは早く殺してしまえ!」

「赤い野郎! お前の方がでかいから先に打って出ろ!」

 観客たちが狂ったようなかんせいを上げる。しかしこの狂気じみた空気とは裏腹に、俺とマックスは静かにたがいを睨んだ。

 なるほど、このマックスというやつはただのけん好きではない。ちゃんと相手の戦力をきわめて動こうとしている。俺も同じことを考えているから分かる。

 力なら俺の方が上、素早さならマックスの方が上だ。そしてこの鉄網に囲まれた空間……どんな戦いになるかはもう予想済みだ。

「お前ら、いつまで見つめ合うつもりだ!? こいにでも落ちたのか!? 早く戦え!」

 観客のあおりと共にマックスが動き出し、俺の頭をねらってこぶしるう。俺はうでを上げてそれを防ぎ、はんげきしようとしたが……もうマックスは俺から離れている。

「いいぞ、マックス! そのまま殴り倒せ!」

 しゆんに接近してこうげき、そして俺が反撃する前に素早くだつ……いわゆる『いちげき離脱』だ。マックスは一撃離脱を何度もり返し、俺は何度も攻撃をらった。口の中から血の味がする。この痛み……全て予想通りだ。

「赤い野郎! 何やってんだ!? お前も殴れ!」

 落ち着け……俺は自分にそう言い聞かせた。ここで焦ってマックスを追いかけたところで、やつの素早さにもてあそばれるだけだ。勝つためには……落ち着いて待たなければならない。『反撃の時』を。

「この鹿ろう! 何故なぜ反撃しないんだ!?

 他のやつらがどうえたって関係ない。俺は俺のやり方で戦う。俺のやり方で勝つ。

「マックス! マックス!」

 観客たちはもうマックスの勝利を確信している。いや、観客たちだけではない。マックス本人も勝利を確信して笑っている。しかし……お前の『勝ったと思って油断した時』こそが、俺の反撃の時だ!

「あ!?

 観客たちがきようがくの悲鳴を上げる。マックスが再びいちげきを放ったしゆんかん……俺の拳がマックスの顔面を強打したのだ。美しいほどのちよくげきだ。

 人間はだれしも、頭にしようげきを受けると動きが止まる。もちろんマックスのやつも例外ではない。俺はやつが気を取りもどす前に接近し、もう一度顔面に拳を放った。血が飛び上がり、拳から相手の鼻がくだけるかんしよくがする。

 マックスは無様な姿で地面に倒れ、気を失う。もうこれ以上殴る必要も無い。

「そんな……」

「マックスが……」

 観客たちが言葉を失う。この静けさ……実に気持ちいい。どれだけけいべつされようが、どれだけ侮辱されようが……最後は俺が勝つ。俺の拳でだまらせる。

「……よくやったぞ! 赤い野郎!」

 観客の一人が叫んだ。それをきっかけに、あちこちで歓声が上がる。

「お前のおかげでおおもうけした!」

らしい戦いだったよ!」

 へっ、この俺をめるのか。ま、俺にお金をかけたやつらはうれしいだろう。俺は観客たちの歓声を後ろにして、試合場から退場した。

---

 試合場を出て二階に上がると、小さな誰かが俺に抱きついてくる。

「あう……!」

 アイリンだ。アイリンはなみだを流しながら俺を見上げる。俺が殴られるのを見てかなり衝撃を受けたんだろう。俺はそんなアイリンの頭をでてやった。

「心配するな。俺はだいじようだ」

 まだどんじゆうな痛みが残っているけど、別にいい。俺の身体はがんじようだ。

「あんなやつに手こずるなんて、お前もまだまだだな」

 後ろからねずみじじいの冷たい声が聞こえてきた。俺は爺を睨みつけた。

「別に手こずってねぇよ」

「そうかい? 戦いがもう少し長引いたら、お前の方が先に倒れたぞ」

 このクソ爺……相変わらず正確だな。

「とにかく、ロベルトがお前に直接ほうしゆうを渡したいようだ。部屋に入ってみろ」

「分かった」

 俺は足を運んで爺のそばを通り過ぎようとしたが、その瞬間、爺が小さい声でささやく。

「レッド、あの男には注意しろ」

 その言葉に「ああ」と答えた後、俺はロベルトの部屋に入った。

「レッドさん」

 テーブルに座っていたロベルトが立ち上がり、俺に近づく。

「素晴らしい試合でした」

「ありがとう」

「報酬をどうぞ」

 俺は革袋を受け取った。結構な量の硬貨が入っている。

「結構多いな」

「レッドさんのデビュー戦でしたし、少し多めにしておきました」

「それもありがとう」

「どういたしまして。ところで……爺さんからお聞きしましたが、レッドさんはまだ十七さいだと」

「ああ」

「十七歳でこの強さ……本当に素晴らしいお方だ」

 ロベルトががおを見せる。

「では、またのご参戦をお待ちします」

「ああ」

 ロベルトの鋭い眼差しを後ろにして、俺は部屋を出た。

---

 南の都市を出た時は、もう深夜になっていた。俺たちの小屋まではまた何時間も歩かなければならない。爺と俺は別にいいけど、アイリンには無理だ。

「アイリン」

「あう?」

「俺の背中に乗れ。背負ってやる」

「あうあう!」

 アイリンは驚いて首を横に振ったが、俺が「早く乗れ」とうながすと、少しためらってから俺の背中に乗る。そして間もなくねむりについてしまう。

 軽い。この子はどうしてこんなに軽いんだろう。アイリンのせた身体を背負い、俺はそう思った。

やさしいな、お前」

 鼠の爺があざわらうような口調で言った。

「まさかいまさら人間が好きになったとか、ふくしゆうなんか止めたくなったとか、そんなんじゃないだろうな?」

「何言ってんだ」

 俺は鼻で笑った。

「俺に限ってそんなことは無い。いつかは何もかもぶっこわして、この王国を滅ぼす。これは絶対だ」

「そうかい」

 爺が頷く。

「とにかくお前にはこれからもあの格闘場で働いてもらう」

「お金のため?」

「お金のためでもあり、たんれんのためでもある」

 爺の声が冷たくなった。

「南の都市で……少なくとも一年以上生き残れ。それが目標だ」

「『勝ち続けろ』じゃなくて『生き残れ』か」

「もちろんだ。負けたからってあきらめるやつは……らない」

「もう一度言う。俺に限ってそんなことは無い」

「へっ、口だけは一人前だな」

 それから俺と爺はちんもくの中で夜道を歩いた。二人の足音と虫の鳴き声、そしてアイリンのいきが聞こえてくるだけだった。

---

 俺が姿を現すと、いつも通りと歓声がむかえてくれる。

「ほ、本当にあんなのがいたのか!?

「くたばれ! 赤い化け物!」

「待っていたぞ、レッド!」

 格闘場の観客たちははんきようらんになる。俺の姿に驚くやつら、俺を侮辱するやつら、俺の暴力を期待するやつら……この光景ももう見慣れた。

「皆さん、大変お待たせしました!」

 進行係が全力で叫ぶ。

「これから七戦七勝の『フランコ』様と、三戦三勝のレッド様の対決が始まります!」

 俺は今日の相手のフランコを見つめた。きようあくそうな顔をしている、三十歳くらいの大男だ。体格なら俺と同格で……今までの相手の中で一番大きい。こいつが町中を歩くだけで人々が怯えるだろう。俺も人のことは言えないけど。

「レッドに四十だ!」

「フランコに三十だ! 赤い野郎をぶっ殺せ!」

 観客たちは進行係の言葉も待たずに、もうお金を賭け始める。一秒でも早く俺とフランコのとうが見たいのだ。

「格闘に対する皆さんの熱狂的な愛に感謝致します! それでは、存分に楽しんでください!」

 集金が終わると、進行係が素早くげ出す。これから始まる死闘に巻きまれたくないんだろう。

 俺とフランコは互いに向かって歩き、手が届く距離まで近寄った。そして同時に笑った。お互い同じことを考えていたのだ。

「若造が……楽しみ方を知っているな」

 フランコは笑顔でそう言ってから、俺に拳を振るう。もちろん俺も同時に拳を振るった。その結果……互いの拳が互いの頭を直撃して、二人は同時にふらつく。

「おおおお!」

「すげぇー!」

 観客たちが歓声を上げる。きよかん二人の、ぼうぎよ無しの殴り合い……! 確かに滅多に見られるものではない!

「……やるな、若造!」

「へっ」

 俺たちは互いに向かって拳を振るいながら一緒に笑った。不思議な話だが……楽しい。同格の相手と真正面から殴り合うこの瞬間が……俺にはたまらないほど楽しいんだ!

「完全にじゆうたちだな!」

 観客の一人が叫んだ。その通りだ。これはもうかくとう同士の試合ではない。もっと原始的で、もっと本能的な……野獣たちの格付けし合いだ!

えんりよは要らんぞ!」

こうかいするなよ!」

 誰が上で誰が下なのか、それを決めるために二ひきの野獣がぶつかり合う。相手の拳を避けることなく、ただひたすら真っ向勝負を繰り広げる。つうの人なら一発で気を失うほどの攻撃が何度も的中したが、両者とも一歩も引かない。血とあせが空中に飛び散り、観客たちが悲鳴に近いだいかんせいを上げる。

「うぐっ……!」

「くっ!」

 まんしんそうになった俺たちは同時に手を止めた。そして同時に気付いた。次の一撃で勝負が決まるということを。

「若造が!」

 フランコが笑いながら最後の一撃を放つ。俺もぜんしんぜんれいの力を一点に集中して……フランコの笑顔に拳を打ち込んだ。二人の拳が交差し、強烈で重々しいごうおんひびき渡る。

「うっ……!」

 俺は一歩あと退ずさった。まるでおおつちで打たれたような衝撃が全身に広がり、足がふるえて気が遠くなる。しかし……最後まで立っているのはこの俺だ!

「ふふ……」

 フランコが笑顔のままゆっくりと倒れていく。全力でぶつかった結果に満足したんだろう。その気持ちも理解できる。

「レッド様の勝ちです!」

 進行係が試合場に入ってきて宣言した。観客たちの興奮が最高潮に達し、俺は試合場から出た。

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 二階に上がると、がらの少年が近づいてくる。

「お疲れさまです! 本当に素晴らしい試合でした!」

 少年は感激した顔で俺にタオルを渡す。

「ありがとう、トム」

 俺はタオルで血と汗をいてから、小柄の少年『トム』を見つめた。

 トムはこの格闘場を運営している『ロベルト組』の下っだ。まだ十六歳だけど誠実で、正直に言うと裏組織には似合わないやつだ。

「こちらが今回の報酬です」

「ああ」

 俺はタオルをトムに返して硬貨の入った革袋を受け取った。ロベルトの不在中には、こうしてトムが俺に報酬を渡してくれる。

「レッドさん、傷のりようは……」

「要らない。それよりアイリンは?」

「お嬢さんは奥の部屋です」

 俺は足を運んで奥の部屋に入った。するとテーブルに座っていたアイリンが俺にけ寄ってくる。

「あう……!」

 泣き顔で俺にきつくアイリンを安心させるために、その小さい頭を撫でてやった。

 本当はアイリンに試合を見せたくなかった。この子は俺が一発殴られるだけですごく悲しむからだ。しかし鼠の爺が遠くに出かけてしまうと、アイリンに小屋の留守番を任せるわけにもいかないから仕方なく格闘場に連れてくる。

「あうあう」

「いや、治療は要らない」

 俺が断ると、アイリンがなみだにらみつけてくる。こうなったらこの子に勝てない。

「分かった。治療してくれ」

「あう!」

 俺は大人しくテーブルに座ってアイリンに手当てを任せた。アイリンはしんけんな顔になり、小さい手で俺の傷に薬をってくれた。

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 格闘場を出ると、俺たちは深夜の冷たい空気に包まれた。これではアイリンが風邪かぜを引くかもしれない。そう思った俺はアイリンを背負って宿へ急いだ。

「……そうだ、明日は外食しよう」

「あう?」

 俺のとつぜんの提案にアイリンは少し驚いたようだ。

「爺は二、三日くらい戻らないらしいし……お金もあるからな。いい食堂を探してみよう」

「あう……」

「いいんだ。たまには少し美味おいしいものを食べてもばちは当たらない」

「……あうあう!」