アイリンの声が明るくなった。顔は見えないけど笑っているんだろう。何だか俺も気持ちが軽くなり、いつの間にか試合の疲れも忘れてしまった。

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 翌日の朝……俺はフードを被かぶり、アイリンと一緒に『南の都市』の港を見回った。

 港は朝から人で混んでいる。船からいろんな商品を下ろす船乗りたち、その商品を市場まで運ぶ労働者たち、市場に集まって商品を取引する商人たち。多くの人々が活気溢あふれる風景を作っている。

 アイリンは楽しそうな顔でそんな風景を眺ながめる。この子には何もかも新しん鮮せんなのだ。俺はアイリンにいろんな風景を見せてやりたくなった。

「物見もいいけど、そろそろ何か食べよう。腹減った」

「あう!」

 俺たちは大通りのパン屋に入って焼き立てのクリームパンを買った。そしてそれを一緒に食べながら歩いた。

「あうあう!」

「うん、美味しいな」

 クリームたっぷりのパンを食べて、アイリンはとても幸せな顔になる。

「……これからはもっと一緒に出で掛かけるべきだな」

「あう?」

「いや、何でも無い」

 港の次は海辺だ。俺とアイリンは一いつ旦たん街から離はなれて……地平線の向こうまで広がる、青くて綺き麗れいな海に近寄った。

「あう!」

 アイリンが無む垢くに笑う。

「自由に遊んでいいぞ、アイリン」

「あう……?」

「もちろんだ。砂遊びなんか、やったことないだろう?」

 アイリンは少し迷ってから砂すな浜はまに座り、楽しそうに砂の城を作り始める。

「あう、あうあう!」

「ん?」

 アイリンが指で砂浜に文字を書いた。それは……『レッドも一緒にしよう』だった。

「お、俺?」

 俺は困こん惑わくしたが、アイリンはそんな俺の手を掴つかんで座らせる。

「……へっ、この俺が砂遊びか」

『格闘場の赤い化け物』と呼ばれている俺が砂遊び……とんだ冗じよう談だんだ。

「ま、俺も砂遊びなんかやったことないな」

 アイリンも俺も、爺の小屋に住む前には底辺人生だった。日々生き残ることに精せい一いつ杯ぱいで、砂遊びなんかやったことが無いのだ。

 俺は自分の赤い手を動かして、アイリンの小さい手が作った城の周りに壁かべを立てた。

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 正午になって、俺たちは海辺から街に戻った。

 昼食は食堂で食べたい。しかしなるべく慎しん重ちように動かなければならない。何しろ今はアイリンが傍にいる。

『赤い化け物』である俺は、外出する時はいつも頭にフードを被って手に包帯を巻いている。面めん倒どうくさいことを避さけるために自分の肌はだ色いろを隠かくしているわけだ。しかしお店で物を買う時ならいざ知らず、食堂で食事をするには不便すぎる格好だ。だが俺が食堂でフードを脱ぬぐと、それだけで騒ぎが起こる可能性がある。

 俺自身が侮辱されたり喧嘩を売られたりするのは別にいい。でもアイリンにはそんな悲しい思いをさせたくない。平和なところで美味しいものを食べさせたい。

 人目を避けて静かに食事できる食堂を探すべきだ。でもそんな都合のいい場所が簡単に見つかるはずもなく……俺はアイリンの手を掴んでひたすら歩き続けた。

「レッドさん!」

 大通りを歩いていた時、誰かが俺を呼ぶ声がした。振り向くと小柄の少年が見えた。

「やっぱりレッドさんとお嬢さんだったんですね!」

「トムか」

 それは『ロベルト組』の下っ端であるトムだった。こいつは俺おれとアイリンに慣れている。フードを被っていても俺だと分かるだろう。

「こんなところでお二方に出会うなんて、嬉しい限りです!」

「アイリンならともかく、俺に出会ったことが嬉しいことか?」

「もちろんです! 自分にとってレッドさんは憧あこがれですから!」

 俺は思わず苦く笑しようしてしまった。何で俺に憧れるんだ?

「トム、お前はこの都市に詳くわしいだろう?」

「はい、自分はこの都市で生まれ育ちましたから」

「ちょうどよかった。いい食堂を紹しよう介かいしてくれないか?」

「食堂、ですか?」

「ああ」

 俺は俺の手を掴んでいるアイリンをちらっと見た。

「アイリンと静かに食事したいんだ。なるべく人目を避けてな」

「あ、そうですね」

 トムは俺の状じよう況きようを理解した。

「それならいいところがあります。案内しますね!」

「助かる」

 俺とアイリンはトムの後を追った。本当に親切なやつだ。どうして裏組織の下っ端なんかやっているんだろう?

「あそこです」

 大通りから少し離れたところにある、普通の民家のように小さな食堂。確かに静かそうだ。

「少々お待ちください。少し話をしてきます」

「分かった」

 トムが先に食堂に入り、しばらくして出てきた。

「話がつきました。どうか食事を楽しんでください」

「トム、お前はもう昼食を取ったのか?」

「いいえ、自分もまだですが……」

「なら一緒に食べよう。俺のおごりだ」

 俺の提案にトムは何度も遠慮したが、結局一緒に食事することになった。

「いらっしゃいませ!」

 食堂に入ると、女性従業員が親切な態度で迎えてくれた。

「レッド様とアイリン様ですね。どうぞこちらへ」

 俺たちは一番奥の席に案内された。絶ぜつ妙みように壁に隠れている席だ。なるほど、ここなら変な目で見られることも無い。俺は席に座ってフードを外した。

「手て際ぎわがいいな、トム」

「実は、さっきの従業員が自分の姉でして」

「そうだったのか」

 俺は頷うなずいた。

「で、この食堂の人気献こん立だては何だ?」

「鶏にわとり料理です。丸焼きやスープが無難ですね」

「ならそれにしよう」

 三人分を注文して少し待っていたら、女性従業員が料理を持ってきた。

「あう!」

 アイリンが目を丸くする。丸焼きもスープも見るからに美味しそうだ。

 俺たち三人は食事を楽しんだ。アイリンもトムもずっと笑顔だったし、俺も楽しかった。なるほど、これがいわゆる『平和で楽しい時間』なんだな。確かに悪くない。

 だが……俺は胸の奥おくから違い和わ感かんを感じた。

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 深夜に目が覚めた俺は、まずアイリンの寝ね顔がおを確かく認にんしてから小屋を出た。

 月が明るい。俺は拳に包帯を巻いて頑丈な木の前に立ち、力ちから一いつ杯ぱい殴なぐった。重々しい音と共に木が揺ゆれる。

「はっ!」

 牽けん制せいからの一撃、騙だまし討うちから連続攻撃、相手の内臓を狙う急所攻撃……今まで身に付けてきた格かく闘とう技ぎを繰り返した。こうしていると……少しずつ雑念が消えていく。

「こんな時間に何してるんだ、レッド?」

 聞き慣れた声に振り向いたら、鼠の爺が月明かりを浴びながら立っていた。

「もう戻ってきたのか、爺」

「必要なものが揃そろったから早期帰宅したのさ」

 爺は大きな革かわ袋ぶくろを持っていた。何か作戦のための用品でも買ってきたのかな。

「で……何を焦あせってこんな時間に拳を振るってるんだ、お前?」

 爺がまた聞いてきた。しかし俺は答えなかった。

「ま、お前の気持ちは分からんでもない。少し強くなったから、早く結果を出したいんだろう? でも物事には順番がある。焦りすぎると逆効果をもたらすだけだ」

「分かっている。それに……俺が焦っているのはそれだけが理由じゃない」

「じゃ、何だ?」

 俺は少し間を置いてから口を開いた。

「昼間にアイリンと南の都市を見回った。途と中ちゆうでトムというロベルト組の下っ端も合流して、楽しい時間を過ごした。まさに平和な日常だった」

「おい、まさか本当に復讐を止めたくなったんじゃないだろうな?」

 爺の反応に俺は鼻で笑った。

「もう言ったじゃないか。俺に限ってそんなことは無いと。その逆だよ」

「逆?」

「ああ」

 俺は視線を落とした。

「俺がやろうとしていること、俺がやりたいことは……平和とは正反対の暴力だ。俺が進めば進むほどアイリンは悲しむだろう。そのことが頭から離れないんだ」

「へっ、『赤い化け物』がまるで人間のように悩なやんでいるのか」

 爺の顔が歪ゆがむ。爺はアイリンが俺に悪い影えい響きようを与あたえていると思っているんだろう。

「そんなことは仕方ないんだよ。お前は暴力でしか自分を表現できないからな」

「確かに」

 俺は素す直なおに認めた。爺はそんな俺をじっと見つめてから、再び口を開ける。

「ま、しかし……暴力と平和が共存できないわけではない。いや、むしろ暴力が平和を生むことすらある」

「何?」

 爺は杖つえで地面を軽く叩たたいて、話を続ける。

「今から千年以上昔、遥はるか東に『シンメイ』という王国があった。領土が広くて人口も多い強大国だったが……王が後こう継けい者しやを残さずに死んでしまい、内戦が起きて国全体がバラバラになってしまった」

 俺は爺の話に耳を傾かたむけた。

「それで何十年も混乱が続いた。毎日あちこちで軍隊がぶつかり合い、数えきれないほどの人々が死んでいった。そんな中で、一人の男が『暴力を以もって混乱を鎮しずめる』と宣言した」

「暴力を以って混乱を鎮める……」

「その男は地方の小領主に過ぎなかったが、戦争ではまさに無敵だった。他の領主を次々と撃げき破はし、やがては自分の旗の下で王国全体を統一したんだ」

 そんなやつがいたのか。何か……胸がドキドキする。

「少し混乱もあったけど、統一された王国はすぐ平和になった。男は本当に暴力で混乱を鎮めて平和をもたらしたのだ。そして人々は……その男のことをこう呼び始めた」

 爺が杖で地面に文字を書いた。俺はそれを口に出して読んだ。

「『覇は王おう』……」

「そう、これが覇王の伝説だ」

 爺は俺に近づき、杖で俺の肩かたを軽く叩く。

「私はこの王国を滅めつ亡ぼうさせることさえ出来れば、別にその後はどうでもいい。それからの道はお前が決めろ」

 俺が爺を見つめると、爺は俺の視線を無視して小屋に向かう。

「修しゆ羅らとなり、ひたすら破は壊かいを続けて怒いかりを発散してもいいし……覇王になって混乱を鎮めてもいい。どちらにしろ、焦らずに進むことを忘れるな」

 一人になった俺は、月明かりの下で考えに耽ふけった。