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ちくちくちくちく。ちくちくちくちくちくちく。
(ふぁぁぁぁ……面倒くさぁ~……)
マグノリアは手元の刺繍を刺しながら、小さくため息をついた。
裁縫、刺繍にレース編み。人によっては糸を紡いでタペストリーを織ったりもするのだそうだ。昔のお嬢様の手仕事は凄いと慄く。しかし多分、立場と身分上お小遣いを稼ぐ一番手っ取り早いと言うか取り組みやすい方法が『お裁縫』なのであるからして、マスターしない手はないのである。取り敢えず覚えた外国語の単語や、歴史年表、法律その他の暗記物を心の中で暗唱しながら、基本的な刺繍や裁縫をロサから学ぶ。
ロサは手芸女子だったようで。
お母様もといウィステリアとの邂逅の後、ついでにと下着や足りないリネン類の発注も済ませると、すぐさま自分の刺繍枠をマグノリアへ貸し、余り布を差し出し、基本のステッチや簡単な図案の教示を買って出たのであった。
本を読み漁る不気味な三歳児よりも、貴族令嬢らしくお裁縫をする方が嬉しいらしい。
ロサは稀に見ぬ……というか、マグノリアの記憶で、初めてのフィーバーぶりだった。
多分彼女の日々の言動から『大人しく控えめ、言い訳や口答えをせず従順で、見た目が可愛い愛され女子』みたいな女の子がマグノリアが進むべき道と思っているクサい。家族に厭われているから、せめて嫁ぎ先では可愛がられろ的な配慮なんだろうか。もしくは両親の方針なのか。疑問である。
(かと言って笑顔だけっつーのもどうなの? そんな胡散臭い女、信用ならんけどね~)
全くもって手芸女子ではなかった日本のマグノリアも、まあ、最低限家庭科を学んではいる。プライベートで小物の一つや二つ作ったことくらいはあるわけで。ましてや十年以上独り暮らしをしていれば、繕い物やちょっとした縫物くらいはお手のものなわけで。好きでも嫌いでもなければ、上手くはなくても基本的なことくらいは出来る。……それがいけなかったのだ。
初めての針仕事である筈なのに。幼女が初見ですいすい針を動かす様子に、頬を染めたロサは珍しく手放しでマグノリアを褒め称え、火が付いた。手芸女子は総ての持ちうる技を伝授すると息巻き、暇があれば刺繍かレース編みをやらせようとグイグイ来る。
(とほほ……)
しかしミシンという文明の利器を知る身としては、延々と続く手縫いのちくちくに目がショボショボ、指はズキズキ、気持ちもしょぼーーんとして来るわけで。
「……よいちょっと」
テンションの低い声で刺繍糸を切った。
刺繍をしたり、レースを編んだり。刺繍をしたり、綻びのリペアをしたり、刺繍をしたり。刺繍をしたり刺繍をしたりレースを編んだり刺繍をしたり……げんなり。
目の前では嬉々としてロサが刺繍をしている。刺しながらマグノリアの手元や刺し跡を見て、アドバイスや新しい方法などを教えてくれたりするのだ。何時間も。
まあ娯楽がないのだ。……暇つぶし兼職業訓練とでも思うしかあるまい。タダで教えて貰えるんだもの。有難い……筈。そう自分に言い聞かせる。
そして習い始めて半月後、ついに小さくなって放置されている服に鋏を入れることにした。少しキツくなり始めたワンピースを、誰か……使用人さん達の子に下げ渡すことがあるのかロサに確認すると『無い』とのことだった。更には今後、妹が産まれた場合に備え取って置くべきか確認したら絶句されてしまった。
(えー? だって、手動で糸紡ぎするのが普通の時代ですよね? 布、作るの大変ですよね?)……なんて心の中で言い募る。
まあ、ぶっちゃけ手持ちの洋服、多分人に下げ渡せるようなシロモノでもないっちゃないわけで。別に悪いことも何にもしていない(多分)マグノリアがこの待遇なのである。万一下の子が妹だった場合、服はお下がりでって言われかねないんじゃないかと思うのも仕方がないだろうというもの。
再確認しても歯切れが悪かったので、取り敢えず先の心配より今の改善・節約かと思い、思い切って鋏をいれた。
八枚はぎのワンピースを取り敢えず、腹部の縫い目をバラした。そして丁寧に縫う。
成長してもある程度使えるように、切り替え部の一辺を、糸を丁寧に解いてはかがる。
タンスの奥深くに仕舞われていた乳児期の部屋着らしきものを、切り替えと同じくらいの大きさに切り、これまた小さくなって仕舞われていた服のレースや半端なフレア部分を段々に縫い付け、幅を広げる為一つの切り替えのように元のスカートと合体させた。
腹部は少し空きを作ってボタンをつけ、脱ぎ着しやすいようにする。
裾にも余ったワンピースの腕部分をばらしてフレアを作り縫い付ける。お腹部分には太いリボンとボタンループを縫い付けて、サイズを好きに絞り変えられるようにした。
……数日掛かってリメイクスカートの完成である(わー! パチパチ!!)。
フリルの付いた切り替え部分を、前に見せても後ろにしても可愛らしい。……よく見ると縫い目が微妙にガタガタだが。フリルやレースで隠れてるから(?)多分大丈夫だろう。
完全に素人の作った怪しい製作方法だけど、着られればよいと結論付ける。
(なんか思ったよりフリフリで、オバさんこれ着るの恥ずかしいけど。見た目美幼女だから大丈夫なのか?)
取り敢えず、先に練習布一式と一緒に納品されたブラウスと合わせて着られるだろう。
そしてブラウスだけ新調すれば数年……しばらくの間着られる代物だ。SDGsかつ資金節約的な活動の一環。
しかしあまりにもラブリーな一品になってしまい、不安になって、ニコニコ顔のライラとキラキラおめめのデイジーに確認する。
「こんにゃ感じだけど……ほぼ部屋の中で着りゅから、大丈夫だよにぇ?」
「マグノリア様、とってもお可愛いらしいですよ!」
「……フリフリで、幾ら何でもおかしくにゃい?」
「えー!! もっとフリフリでも大丈夫ですよっ!?」
「それにしても……斬新で可愛らしい手直しですね……お針子も真っ青ですわ!」
(えぇぇぇ~~……?)
ライラとデイジーには拳を振り上げられながら大絶賛された。褒め過ぎな気もする。お仕えする家のお嬢様への気遣いと忖度を感じてしまうのは気のせいか。
日本時代に穿き古しのデニムと余り布で作った、誰にでも作れるリメイクスカートの応用版。デニムと違って切りっ放しに出来ないのがちょいと難点だ。布の特性上全部端処理しないとイカンから……すっごい面倒なことだ。
侯爵令嬢が着て大丈夫な代物かはわからないけど、まあ今迄が今迄だろう。
(しかし、女子はズボン――この時代はというかこの世界は、か。ブリーチーズ? トラウザース? そんなかんじのものを穿いては駄目なのかなぁ?)
穿いている女性を見たことがないから穿かないんだろうな……と。現代人だった前世を思うと、足さばきがとっても楽そうで諦めきれず、無駄に頭を捻ってみる。
乗馬服はどうか。女性の乗馬服、この時代はスカートなのだろうか。ズボンの乗馬服、作ったら怒られるかも――そう思いつつロサを見ては、シュルシュルと希望がしぼんだ。
取り敢えずは気力が持てば、次は背中をバッサリちょん切って限りなく三角に近い台形の布を足すフィッシュテールというかバックフレアーというのだったか、背中の真ん中ら辺に別布で切り替えを入れたワンピースもいいかもしれないと思う。シフォンのような柔らかい生地で波打つように足したらきっと可愛い筈だ。
(自分にとっては小さくなった服の身幅を増やす為の、貧乏リメイクなんだけどねぇ)
ここまで手慣れれば、そろそろライラとデイジーの贈り物にも取り掛かれそうである。
そんなこんなをつらつらと考えながら裁縫作業に図書室通いにと勤しみ、ウィステリアとの邂逅を振り返る。
しばらく振りに会った筈の母親や彼女の侍女達の様子と口振りから、理由は解らないけどかなり疎まれている事実はしっかりはっきり、理解できた。
自主学習は少々ペースダウンし、自分を取り巻く環境をリサーチする必要性をひしひしと感じ……何せここは封建制度まっしぐらな世界。昔の王侯貴族の毒殺や暗殺やらを思い出してはひとりでヒンヤリしたのだ。
(解毒の本も図書室にあるだろうか)
古くからいる使用人の方々に会ったときに輪に加わっては世間話(?)をして、それとなーく話を振ってみたり、建領の歴史や家系図を調べたりしてみた。
まず法律的に、アスカルド王国では基本男子が家督を相続する。その辺は地球のサリカ法典……まで厳格ではないものの、多分それに近いシステムだ。
跡継ぎに女子しか居ない場合、アスカルド王国では女性が継ぐことも稀にあるらしいが、多くは婚姻をして婿が当主兼跡継ぎになるか、親類から男児の養子を迎えて継がせることが大半らしい。この時点で子どもとしての優先度がぐーんと大きく、兄であるブライアンに傾くことがわかる。
マグノリアが男子なら、長男に何かあったときのスペアとしての役割があるのだろうけど。
ほぼ現実的に家督を継ぐことがない女子ということからも、ミソっかす的な立場なのだろう。
言わずもがなというか、まあこれは予想の範囲内だ。
日本でも憲法が改正される前は、家督も財産も長男が相続するのが決まりだった。王侯貴族が跋扈するこの世界、旧憲法やサリカ法典的な決まりだったとしてもちっとも驚かない。かと言って女児がすべて疎まれるかといえば、そうでもないそうで。
基本的には大事に育てられる筈であり、現にマグノリアを疎んでるウィステリア自身は子煩悩な両親に蝶よ花よと可愛がられて育ったらしい。
一時期、社交界の花であったバートン伯爵令嬢ウィステリアは色々な意味で有名で、ありとあらゆる話が知られている。問えば、同じ話を聞かないくらいに数々のエピソードを披露された。
名家であるバートン伯爵家の長女。上に兄がふたりいるそうだが、たった一人の娘ということで家族に溺愛されて育ったこと。とっても甘え上手であること。はっきり言えば我儘なこと。
一見弱々しそうだが、同性には結構キツい性格であること。勉強は大嫌いだが、なかなか世渡りには長けていること。成績が悪くギリギリで進級していた為、そんなこんなで王立学院の後期課程に通いたくないので結婚に焦っていたこと。
社交界が大好きなこと。自分を飾り立てるのも大大大好きなこと。社交以外は怠け者なこと。湯水の如くお金を使いまくること。選民意識が強いこと。ギルモアの領地へは殆ど出向かないこと(結婚式以来行ったことがないらしい)。派手な社交の出来る王都が大好きなのだろう。
感情の起伏が激しくて、目下の人間に当たり散らすこと。不出来なので、侯爵夫人でありながら家政には一切タッチさせてもらえないこと……とまあ出るわ出るわ。
極めつきは伯爵家ながら名家出身で美しい為、現国王のお妃候補の一人に名前が挙がった事がある(らしい)が……あまりにも出来が悪い上に、こともあろうか自分はお妃候補なのだと吹聴しまくっては、すぐさま話が立ち消えたとのことだった。
(――うん。今のところ全然好きになれる要素がないや)
頭が良くないのは個人差があるし、仕方ないし特に何とも思わないけど。
頭が悪くたって良くったって愛情深く、一生懸命に子育てしたり働いたりしてる親は沢山居る。そりゃあ現実的には成績や能力も生きてく上では多少関係はあるかもだが。あくまで多少の域を出ない。それよりも心持ちや関係性の方が余程重要だし尊い。
(私だって、特に頭が良いわけでもないしねぇ)
それに、ダメならダメで努力くらいするもんなんじゃないのか。贅沢させて貰ってるなら、領民や領地の為に何かするとか考えないものなのか。
ノブレス・オブリージュの精神は何処へ?
(たまたま良い家柄に生まれただけなのに、実力も伴わないで選民意識って何なの。それ、選ばれてねぇから!)
高位貴族にはそういうご夫人も珍しくはないのだと言う意見もあったが。
使用人達は色々な立場や仕事内容で、それこそ平民から貴族階級までいろいろな人が居る。我儘で綺麗な奥様に、嫉妬したり羨んだり妬んだりやっかんだりって感情も、もしかしたらあるかもしれないと思う。
……だから、話も多少盛られちゃってる可能性もある。鵜呑みにはしない。けど揃いに揃って否定的な言葉ばかりしか聞こえて来ないというのもどうなのか。
一回しかない例の邂逅の件を思い起こしても、なんだかなぁという対応だった。まあ、彼女は彼女なりに、もしかしたら、そうなってしまった理由とか生育歴とかの理由があるのだろうとも思うけど……百歩譲って。
ただそれ以上にあまりお近づきにはならない方がよいという、本能的な警報が頭の中で鳴り響いている。
エマージェンシー! エマージェンシー!! 注意せよ! と。
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邂逅の後しばらくして、侯爵夫人付きの侍女が「お話がしたい」と言い硬い表情でデイジーと共にやって来た。確か採寸のときウルウルしていた侍女の一人だ。デイジーのご実家のお得意様である男爵家のご令嬢だそうで、元々顔見知りなのだという。
ソファに座るよう促すと、リリーと名乗った彼女はペコリと頭を下げて着席し、ぽつりぽつりと話し出した。
彼女の家の家政は芳しくないそうで、学院の後期への進学を止め、家計の足しにする為に侍女になる決心をしたらしい。
貴族と言っても色々なようで、なかなか苦労をしているようである。
その昔彼女の母親が過去にバートン伯爵家で幼いウィステリアの侍女をしていた為、伝手でバートン家に面接に行ったのだそうだ。バートン家は名家ながら穏やかな家風で知られているため、気分屋のウィステリアが嫁いだ後ならば、世慣れしていない年若い娘でも委縮せずに働けるだろうという彼女のお母様の配慮だったのだが。
ところが蓋を開けてみれば、気心知れた(?)侍女の娘ならばと何故かギルモア家で働くよう言い渡されたとのこと。マグノリアが生まれてひと息ついた頃で、上にも小さなブライアンがいて大変だろうと、バートン伯が義息子である侯爵に侍女の補充を願い出たのだそうだ。
「……侯爵家で充分な人をちゅけれなかったのかちら?」
「いえ、奥様には都度必要な人数以上の者がお仕えしている筈です」
きっぱりと言い切られた。
それはそれは。侍女頭も家令も、言われたジェラルドもびっくりしただろうなぁと遠い目になる。それとも妻の実家が突然嫁ぎ先の人事に口を出すと言うか、人員を送り込んで来るって普通なのだろうか。
イメージ的に、お輿入れと同時に慣れた侍女を連れて来るなら普通であるが。何と言うか、この子は違うようだが、場合によってはバートン家での良くない企み含みで寄越したと取られかねない気がすると思うのは、マグノリアが穿ち過ぎなのだろうかと首を傾げた。
「バートン伯爵って、時節を読まれにゃい方なのかちら……」
ロサは、マグノリアの幼児らしからぬ呟きに微妙な顔をする。
「……御祖父様は、温厚で堅実な方でいらっしゃいますわ。ただ、ご自分の娘である奥様を、とてもとても慈しまれているので……」
(うん。悟った。子どもにとてもとても激甘な、溺愛系親父!)
その割にこっち来て数か月、溺愛系バートン伯爵家の皆様に会ったことはない。
マグノリアは首を傾げる。普通、娘の子どもなら目に入れても痛くない程だろうに……
(外孫はあんまり愛情湧かないねってタイプとか、子どもは可愛いけど孫は他人みたいなもんですからタイプの人々なのだろうか)
もしくは伯爵達も認めるのはブライアンだけなのか。マグノリアを秘する為に、両親が極力会わせないようにしていることも考えられる。
話は続く。
「母が話を伺って、難色を示したのですが……。その、ご主張がはっきりされている方なので……ご出産と育児でお疲れなところ、不慣れな私が粗相をしてしまってはいけないとお断りしたのです。ですが是非にと何度も仰ってくださって……断り切れなくなってしまい、お仕えすることになったのです」
ふむふむ。我儘で気性が激しいから、苛められたらたまらんと彼女のお母様がやんわりお断りしたのにもかかわらず、ゴリゴリと押し切られちゃったという事か。
男爵家、それも傾いちゃってる系のお家の人にイケイケな伯爵家の人が『お願い』したら、それはもう命令に等しいだろうというもの。
「そりぇは、何だか申ち訳なかったでしゅね。知らぬこととはいえ、身内が無理を言ってしゅみまちぇんでちた」
マグノリアは眉を八の字に下げてリリーを見やる。
「いいえ! とんでもない……お嬢様は何も悪くありません!! 私、許せないのです……!!」
意を決したように勢い良く顔を上げる。
つぶらな瞳はウルウルと潤み、唇を引き結び。小刻みに震える顔は真っ赤だ。
「え……っと、大丈夫、でしゅか?」
プルプルと震えるリリーに恐る恐る声を掛けると、ババン!! とテーブルに両手をついた。
「自分はそんなに甘やかされて育っておきながら、お嬢様を蔑ろにすること。家のことは何もなさらず、フラフラと必要ない社交ばかりにかまけているところ、散財ばかりなさるところ。ご自分の侍女に優しいお心遣いをされるお嬢様に、あのような言葉を投げかけるところ……!」
「おやめなさい、口が過ぎますよ!」
ロサがひきつった顔でリリーを窘めた。
「……申し訳ありません……。主に対して言って良い言葉でないことは重々理解しております。ですが!」
堪えるように俯いていた頭を上げると、はっきりとロサを見て告げる。
「私は人としてあの方を認められません。あの方は親じゃない……たとえ罰せられても、私は撤回致しません!」
全員が沈黙する。重い空気が流れた。立場上窘めたロサも、固まって両手を祈るように組み見守っているデイジーも、固く口を閉ざしたままだ。
誰が味方か。誰かは何某かの意志を汲んで動いているのか。マグノリアは考える。
庭師のおじいさんや、洗濯係のおばさん達。調理場の下働きの人々。侍女や従僕、執事たちの噂話。彼等の言うおおよその人物像と、リリーの言う母親像は合致している。
『我儘で怠け者、贅沢好きの侯爵夫人』
真っ赤な顔で、強張った表情で訴える少女が嘘をついているようには見えない。ただの三歳児に嘘を言ったところで何がどうなるのか。
……不味い言質を与えず、話を聞く分には問題ないだろうと結論づけた。
「わたちの為に怒ってくりぇてあいがとう。でしゅが、悪評を口にちて誰かに聞かれた場合、貴女が叱りゃれてちまいましゅよ。ロサもデイジーも、わたちを思って下しゃっての発言なので、口外ちないようお願いちましゅ」
困ったようなロサと、こくこくと何度も頷くデイジーを見て、幼女のうるうる&大きな穢れなきまなこ(※当社比)で念押しする。
さて。
「わたちは、何故しょんなに疎まれているのでしょうか?」
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『わたちは、何故しょんなに疎まれているのでしょうか?』
そう澄んだ瞳で問われたが、目の前の侍女三人は固まったまま何も答えられなかった。
疎まれている。
三歳のご令嬢がさらりと何でもないように、だけど確信を持って紡いだ言葉。勿論、彼女がそう発言するのも致し方ない程の環境に置かれているのは明白な事実。
「疎まれているにゃら大人ちく言うがままにちているべきなのでしょうが、わたちにも感情がありましゅので。……駄目なところを直ちて改善しゅるならそうちたいでしゅ。改善出来にゃくても理由くらい知りたいというのは、おかちいことでしゅか?」
現実には関係性を改善したいとは思っていないのだが。子どもにそう言われれば、情報を引き出し易くなる一助くらいにはなるだろうか、と考えたり。この状況がなぜ引き起こされているのか確認をしないことには対策も不備が出る。出来得る限りの情報を引き出したい。
「疎まれておられるなど……!」
ロサが慌てて言い募る。ふたりの侍女は気遣わしそうにロサとマグノリアを交互にみつめ、小さく首を振った。
「…………。気のちぇいだと? では、ロサはわたちが家族に愛しゃれ、侯爵令嬢とちて過不足なく暮らちていると? 何か月も家族と食事どころか、ロクに話しゅことも会うこともしぇず。兄は絹の服を纏い、妹は木綿や麻の服を着りゅ。大きにゃ兄には子ども用の家具が使われ、小ちゃな妹は上等とはいえ、身体に合わない大人のお古の家具がしょのまま使われる。これが一般的な高位貴族の令嬢の暮らち方なのでしゅね?」
そんなわけある筈がない。三人とも答える術がなく固まっているので、静かな口調のまま仕方なく推測を述べていく。
「べちゅに、今の暮らちをどうこう批判ちようと怒っているのではありましぇん。侍女の皆しゃんが、両親の代わりに一生懸命お世話ちてくれているのは知ってましゅ。子の衣食住や生育方針を主人でありゅ侯爵夫妻の意向を是としゅるのは、侍女とちて当たり前のことでしゅもの。……ただ、知りたいのでしゅ」
三歳児とは思えない落ち着きと会話の内容である筈が、見た目と舌ったらずな口調、圧迫面接のようなカオスな状況に、三人の侍女は疑問を持つこともせずに淡々と話すマグノリアの様子を息を詰めたままでみつめた。
「……幾つか理由を考えたのでしゅが。出産のときに大変過ぎてお母しゃまは死にそうににゃったとか」
「いえ、とっても安産でございました……」
「わたちのしぇいで、他の兄弟などが亡くにゃっていゆとか」
「いえ、ご出産はお二方のみです」
ロサが立ち直り静かに答えて行く。まあそうだろう。多分そんな理由じゃないと思っている。では。
「嫌いな誰かに似ていりゅか……そう、実は不義の子とか」
不義の子。それが一番しっくり来る。
間違いなくウィステリアが出産したのなら、不貞の果てに身籠った子ども。違うなら、何らかの理由でジェラルドの不倫相手か愛人の子どもを引き取らされた。……よくある事とはいえ、世間体が悪いから母が産んだことにしているだけ。
それなら、父母どちらにとっても地雷だろう。
デイジーも口には出さないものの、家族の様子から同じように考えていたのか、ロサとリリーを静かにみつめたままだ。ロサは青ざめて首を横に振っている。リリーはちらりとロサを見たが、話す様子がないと判断すると、ぐっと眉間に力を込めては大きく鼻から息を吐いた。
「違います。お嬢様は正真正銘、ご両親のお子様です! 私はマグノリア様がお生まれになって一か月半ば程でこちらに参りましたが、奥様のお身体のご様子から見て、ご本人が出産されたのは間違い御座いません!」
出産は大変だ。産後の肥立ち……身体の戻り(体調も見た目も)とか、気持ちの浮き沈みとか。母乳が出るとか、大量の悪露があるとか。どうしたって隠しようのない色々がある。……出産の経験は前世でないけども。齢三十三、多少の知識はあるわけで。
侍女にお世話して貰う身としては、それらを隠し続けるのは至難の業というかまず無理であろう。ましてや地球基準と比べ医学も然程発達していないだろうと思う。故に回復には時間が掛かるだろうから尚更だ。
それにあの性格だから(推測だが)、何か不都合があれば『あいつを産んだせいで』とか、文句の一つや二つくらい言っていたに違いない。
「そして、マグノリア様のそのお色はギルモア家の御血筋で間違いありません。逆にアスカルド王国でそのお色は、ギルモア家のものでしかありえません!」
なんと。このピンクピンクしい原宿系っぽいような、乙女チックでミルキーな色合いはギルモア家の色だと言う。剣と筋肉の家系に、何とも似合わない色味だ。
(そこは恰好良く、銀髪とか黒髪とかじゃないんかーい!)そう突っ込みを入れたい。
次々に明かされる(?)事実に、疎まれる理由がわからないデイジーとマグノリアはふんふんと頭の中で纏めながら相槌を打つのみ。
「奥様は、マグノリア様がギルモア侯爵家のご令嬢で、とても見目麗しく、大変お可愛らしいから、お気に召さないのです!!」
リリーの短く文節を区切って念を押すような言葉と叫ぶような最後の言葉に、デイジーとマグノリアの口がぱっかーーんした。
時が止まった。十秒くらい。……ロサの視線が痛いので、むぐっと口を閉じる。
「…………。……ええっと? 要しゅるに、お母しゃまのご実家より爵位が上で、見た目がこんにゃ(?)だから気に入りゃないってことでいいのかちら?」
自分の娘の癖に、侯爵家――という名のほぼ公爵家の令嬢で、そこそこ美幼女――多分ウィステリアより美人になる見込み?(なのか??)――だから気に入らないと?
(なんだ、それ。そんなアホなことあるんか?)
他に理由があるのではと思いロサを見るが、何とも言えない表情で目線を下げている。
(……うわぁ。本当らしい)
ウィステリアさんはとんだ家庭内マウンティング女子だったのだ……!
(何、その理由!! あっほくさ~~~!!)
しかし。古今東西、女の嫉妬程怖いものもないのだ。ときに感情に任せて思ってもみない事が降りかかる……
なまじっか権力があると質が悪い。数々の地球の歴史が証明している。注意注意。
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謝るデイジーとリリーを宥めてお礼を言うと、部屋の中はロサとふたり、静かになった。
正直気まずい。
「……歴代のご当主様の肖像画をご覧になりますか?」
ロサは確認を取るまでもなくそうしようと思っていたのであろう。静かに重い樫の扉を開くと、マグノリアに廊下へ出るよう促した。
長い長い廊下を歩き、階段を下り幾つかの角を曲がると、大きな回廊に出る。
美しい白壁にずらり、幾つもの肖像画が掛けられていた。歴代の当主やその家族たちだ。日本人という感覚が勝る今のマグノリアには、こちらの世界の先祖と言う存在はいまいちピンと来ない。遠い異国の誰かでしかない彼らを見ても、しっくりと来ることもないし胸にストンと落ちることもない。
美術館の絵画を鑑賞しているような感じとでも言えばよいだろう。かつての地球で世界史の教科書に印刷された『歴史上の偉人たち』を見るような、そんな他人事な感じだ。
金色の豪華な額に収まったそれらを順番に見て行くと、大きな額縁の中に四人の家族が収まったそれがあった。赤毛の大柄な中年男性は、深い蒼色のジュストコールを粋に着こなして落ち着いた風貌だ。髪を綺麗に撫で付け、隣の女性の腰に手を添えて守るように立っている。色味は違うものの意志の強そうな目元や引き締まった口元など、どことなくブライアンに似ている。
ただ、薄茶の瞳は兄の瑠璃色のそれよりも優し気に細められていた。
そして守られるように横に立つ女性。マグノリアと同じ色をした小柄な美しい女性が描かれている。
(確かに、ピンク色の髪に朱鷺色の瞳だ……)
儚げで、まるで周りの空気に溶けて消えてしまいそう。やや垂れ気味の大きく丸い瞳。色づいた小さな唇。小振りな形良い鼻。きめの細かい陶器のような肌。
薄蒼色のドレスが良く似合う、まるで童話のお姫様を絵にしたような姿だった。
描かれた姿は絵をみつめるマグノリアの特徴とよく似ており、絵の中の女性と『マグノリア・ギルモア』には、確かに血縁関係がある事が見受けられた。
年齢不詳な見た目は若い娘なのか大人なのかわからない。安心し切ったように細い華奢な身体を男性に寄せ、嬉しそうに微笑んでいる。
その右には同じく赤毛で、先出の男性を更に大きくした見目の。まるで少年漫画のキャラクターのような筋骨隆々な大男だ。簡易鎧にマントをまとった若い大男が剣を片手に、にやりと笑って立っている。
若いと言っても三十歳前後ではあろう。髪を無造作に揺らし、笑いつつも鋭い眼光は濃い茶色。威風堂々と言う言葉がぴったりするような見た目ながら、何処かいたずらっ子のようで。同時に自由闊達と言う言葉も似合いそうな印象を受ける。描かれた男性同士、色味も顔も似ているので親子か兄弟かなのだろう。
そして中央の椅子には若い女性が座っている。
柔らかな金色の髪に榛色の瞳。知性と品性を兼ね備えたような、理知的なキリリとした女性。こちらは落ち着いた風貌で、二十代後半といったところか。
(……この人。瞳が違うだけで全体的に親父さんに似てるんだ……)
マグノリアの父であるジェラルドは、ピンク色の女性の柔らかい雰囲気と垂れ気味の瞳の形を、そしてそれ以外は中央に座る理知的な女性を混ぜたような風貌だ。瞳の色は中年男性と同じ薄茶色。
(成程。他の絵と比べて比較的新しいみたいだから、近しい年代の筈。母親なのか姉なのか……親戚の家族構成が分からないけど、きっと親父さんの家族なんだ)
「先代と先々代……左のおふたりがマグノリア様の曾祖父母様。右の男性と中央にお座りのご婦人が祖父母様です」
ロサが安心しましたか? と言わんばかりにしっかりとした口調で説明する。
安心?
父は彼の祖母と母親に、兄は曾祖父と祖父に。マグノリアは曾祖母に似ているらしかった。確かに血の繋がりは感じられるのに、あるのは似ているという事実だけで。なんの感慨も湧いてこない。ただただ不思議な感覚だ。
曾祖父母……近いような遠いような存在に、もう一度肖像画のふたりを見る。
……安心? 何を? 実際に両親と血の繋がりがあったから?
別に今更、実子だろうが養子だろうが知ったこっちゃない。
(それよりも、幼児虐げてるって事実の方が重要だってぇの!)
得も言われぬ、うねるような感情が湧き上がったが。しかし、それをロサにぶつけたところで八つ当たりでしかないだろう。瞳を伏せ感情に蓋をするように深呼吸をした。
「…………。仲が良さしょうなご家族ね。血のちゅながりが無くて疎まりぇるのも、本当の親子でありにゃがら疎まりぇるのも、どっちもどっちなのかちらね?」
ロサはひゅっと小さく息を呑んだ。思った言葉とは違う返答だったのだろう。
――本当だ、と笑顔で答えると思ったのか。
――良かった、と涙でも浮かべると思ったのか。
残念ながら一般的な三歳児の正解が解らない。更に残念なことに、可愛らしい回答が出来るほど素直でもなければ、飲み込んで達観出来る程老成してもいなかった。
しばらく無言のまま時が過ぎる。
二人以外に誰も居ない回廊は、酷く静かだ。
「……お嬢様……」
小さくマグノリアに呼びかけると、胸元で握りしめた手に、ぎゅっと力を込める。彼女が何かに耐えるときや、何かを飲み込むときによく行う癖だ。マグノリアは静かに彼女を見上げる。
「最近のお嬢様は変わられました……。一体何があったのですか? 何を考えていらっしゃるのですか?」
決して引かないという意志が見て取れる。痛々しく傷ついた瞳と、引き結ばれた唇がマグノリアの答えを待っていた。……何故彼女が傷つくのか。
(この場合、傷つくのは当事者の私じゃないの?)
――ロサは誰の意向でどんな指示の上、何が目的でマグノリアの世話をしているのか。排除か、駒か。家族のスケープゴートなのか。
身分差や立場的にも主人に逆らうことは出来ないだろうと理解出来る。親に、配偶者に、老いては息子に。上位者に、権力者に。ずっと従順であるべく育てられた人間なのだろう。
きっとこの世界の大半の人がそうなのだ。それもわかる。だから。
他人である彼女達に助けて貰おうと考えるのは、お門違いだ。
(見誤るな、マグノリア! 冷静になれ)
何があったかなんて――『違う世界の人間の意識に変わりました、元は地球という星に住む日本人です』――そう伝えて理解されるのだろうか? 頭がおかしくなったと思われるだけじゃないのか?
取り敢えず、三歳の幼児に出来ることは限られている。経済的にも物理的にも。
マグノリアはため息を飲み込み、静かに言った。
「…………。人間は成長すりゅものでしゅよ」
ロサは疑わし気に、じっとマグノリアをみつめる。マグノリアもロサの瞳をじっとみつめた。
沢山の肖像画達が、乾いた瞳でふたりを見ていた。
数日程ロサはどことなく遠慮がちであったが、更に数日が経ち、通常に戻った様子だった。
マグノリアは毎日日課として小さな刺繍を一つか二つ刺すと、図書室に籠る日々に戻った。ロサは何も言わなかった。
マグノリアは分厚い書物をゆっくりと開く。それはギルモア家の家歴書だ。
ギルモアの発祥はかなり古くはっきりとした内容は残されていない。国家として纏まっていない時代には小国を治めていたという説もあれば、どこぞの豪族であったという説もある。はたまた戦闘民族だったという言い伝えや、神に任命された国を護る守護者であったとか……なんだそれと言いたいが……実に様々であった。
地球の歴史だって、遥か過去における国の成り立ちや所謂古代など、明確に解っていないなんてことはそれなりにあるわけで。その場合、神話物語から始まるのはセオリーのひとつだと言っても過言じゃない。事実を書き残すという行為が取り入れられるのがだいぶ後世だったり、政治的な背景から修正されたり改竄されたりするのが歴史書なのだから仕方ないとも言えるだろう。
少なくとも八百~九百年程前には『ギルモア家』が複数の歴史書に散見されることから、千年くらいは続く家門らしいと察せられた。今の王家が王位に就き二百年足らず。前王朝は三百年程続いたというから、幾つもの王家に仕えた古くからある旧家ということだ。
『大陸』と呼ばれているこの広大な土地は、魔法の国と言われるモンテリオーナ聖国、海の国と言われる軍事国家のマリナーゼ帝国、そして花の国と呼ばれるここ、アスカルド王国の三つの大国と、中小十個の国とがひしめく土地だ。
集落で助け合う時代は終わり、人が増えれば権力が生まれる。知恵が増えれば策略と陰謀が引き起こされる。富が、権力が増えれば言わずもがな。
世界が違かろうが、人の歩みと歴史は地球と変わりないようで。
三百年ほど前から戦争があちこちで始まり、特に最後の百年は『大戦』もしくは『百年戦争』と呼ばれ、大陸全土を飲み込んだ戦闘が苛烈を極めたと歴史は語る。その百年に及ぶ大戦に終止符を打ったのがアスカルド王国の前王と、当時元帥だったジェラルドの父。先代のギルモア侯爵である。
元々アスカルド王国で軍や国防の要を担って来た家門の一つがギルモア家だが、その歴代の武人の中でも屈指の強さを持つと言われているのが当時ギルモア侯爵だったマグノリアの祖父だ。
肖像画でのみ知る、屈強な大男である祖父。勿論マグノリアは会ったことがない。
十年ほど前に新たな領地を賜り、現在はアゼンダ辺境伯となっているそうな。
戦乱の時代に、名将と名高い父と亡国の妖精姫と呼ばれた美しい母との間に、一人息子として生まれたギルモア家五十六代目当主、セルヴェス・ジーン・ギルモアは、幼い頃から様々な武術の修練を受け重ねる。卓越した身体能力と恵まれた体躯、そして才能を遺憾なく発揮し十八歳でギルモア騎士団に正式入隊。その後各地を転戦し、弱冠二十歳にして五つの国を攻め落とし、幾人もの武将をその手に掛けた。
中でも暴虐の限りを尽くしたと悪名高い『悪鬼皇』と呼ばれた砂漠の国の皇帝の首を取る大金星を挙げた事で、大陸中にその名が轟く事となった。
二メートルを超す赤毛の大男。剛健な筋肉に覆われた、小山のような身体。剣を振るう鬼気迫る様子から『赤い悪魔』だとか『悪魔将軍』、『赤鬼将軍』と呼ばれ、大層恐れられていたらしい。
そして今から二十年ほど前……正確には十八年前。
武力と話し合いとを尽くし、荒廃し切った大陸の未来を憂えたアスカルド王の働きかけによって、大国三国の不可侵条約が締結された。それを皮切りに各国とも条約が結ばれ終戦を迎える。
そうして大陸全土を巻き込んだ百年に及ぶ大戦は一応の終結を迎えた。
……とはいえすぐに平和になる筈もなく、内乱や内戦、小国同士の小競り合い、侵略や略奪などが起こり、十年近く大陸のあちこちで混迷を極める。国の数も形もその時その時で変え、復興と疲弊とをくり返しながら進んで行った。
そして後の約十年、今やっと平和な時代が訪れたそうだ。
図書室の窓の外を見る。
緑が溢れ、色とりどりの花が咲く美しい中庭。小鳥が歌い蝶が羽を揺らす、平和の象徴みたいな美しい箱庭。
そしてギルモアの歴史も紡がれる。セルヴェスには実子が一人、養子が一人。年の離れたふたりの息子がいる。結婚が早いこの世界で、セルヴェスは珍しく二十八歳で結婚した晩婚派だった。長男は彼が三十一歳の時に誕生している。
長男は、実子である第五十七代目当主、ジェラルド・サイラス・ギルモア。
長子らしく真面目で落ち着いた彼は、常に戦地に赴く父に代わり幼い時分より母を助け、領政を共に担う出来た少年であった。頭脳明晰で沈着冷静。荒々しい祖父と父に比べ、貴公子然とした美しい少年。
そんな少年でありながら『ギルモア』のご多分に漏れず、私設騎士団を統べる剣技も兼ね備えており、父が内戦地で怪我を負った際には、未だ学生で十六歳の若さでありながら領地に残されていた騎士団を連れて戦地へ赴き、初陣でありながらも敵将を捕らえ捕虜とした上に、相手軍の裏をかき見事撤退させるという武功を挙げているそうだ。
誰よりもギルモアらしいと言わしめる心根を持った惣領息子。ギルモアは国防の為に私設騎士団を持つことを許された数少ない家門である。故に、武術や剣技に優れた武人に注目されがちではあるが、本来の役割は『国の護り』。
幼少より家門を守り、領地・領民を守り、ときに倒れた父を守り。必要とあらばその知力と武力を持って戦を制する。ギルモアの精神と役割を体現する若きご当主様。
マグノリアが見た父は、決して小柄ではないものの身長は平均よりやや高いくらい。服の上からは屈強で堅牢な筋肉の塊は見当たらなかった。
誇張でないのなら……あの漫画チックな筋肉ダルマな祖父の絵姿から、父ジェラルドの優美な姿は連想できない。親子詐欺である。
(そっか。あの厚みのある、ごつごつした手は剣を握る手なのか)
いや、意外に剣ではなく、バトルアックスとかハルバートなんかを振り回しているのかもしれないが。
(文官と言うから、てっきり文系のインテリウラナリ青年を予想していたのに)
歴史書が改竄されていないのならば、裕福な生まれとは言えなかなかの苦労人である。
そして優男な見た目に反して、意外にも武闘派であることが窺える。更に、王立学院は前期・後期とも首席で卒業しているらしい。
(……何これ。どこのチートキャラなんだろう。親父さんに忖度してないか??)
どうまかり間違ってウィステリアと結婚したのか。こう言っては何だが、もっと良い人が居ただろうに。見た目なのか。ワガママ言って振り回す娘が可愛い系なのか。
エリートお坊ちゃまが反抗心から羽伸ばしーので、目端の利くキャバ嬢に引っ掛かってデキ婚するっていう前世のパターンがちらつく。若しくは箱入りお嬢様が無意識のうちにワザと駄メンズに引っ掛かって、自分を敢えてボロボロにするっていう隠れメンヘラパターン。この場合、お嬢様じゃなくお坊ちゃまなのだけど。
……夫婦にしか解らない色々があるのだろう、きっと。そっ閉じである。
蓼食う虫も好き好き。夫婦喧嘩は犬も喰わない。割れ鍋に綴じ蓋。そっ閉じ。
そして次男のクロード・アレン・ギルモア。
アゼンダ領がまだアゼンダ公国という小国だった頃、戦災孤児となった身の上。
戦争で侵略して来た国々により被害を受けた男爵一家の唯一の生き残りだったそうで、生まれたばかりで隠し部屋に隠され、衰弱しているところを助っ人として出征していたセルヴェスが見つけ、保護し引き取ったと記載がある。実子であるジェラルドの十歳下。
小さな頃から非常に優秀で、こちらも王立学院を前期後期ともやはり首席で卒業している。在学中に教師と共同研究をしては色々認められていた為、学院では稀代の天才と呼ばれていたらしい。必然的に次期アゼンダ辺境伯でもある。
その優秀な頭脳を学院に残り活かすことを切望されながら、当然の様に卒業後はギルモア騎士団に入隊し、騎士として養父と一緒に騎士団と辺境伯領を束ねているとある。
騎士としてもかなり強く、ギルモア騎士団でも五本の指に入る剣豪で、セルヴェスの再来と言われており、黒髪のその姿から『アゼンダの黒獅子』と呼ばれていると記載されている。まだ若い上に既に戦後なので大きい武勲は無いようだが、記載内容が本当ならこちらもチートの塊である。更に薄幸の孤児属性。キャラの大渋滞である。
『悪魔』とか『黒獅子』とか二つ名もイタい。なにやら邪眼が疼きそうだ。
九歳でアゼンダへ移領した為、それ以前に描かれたのであろう小さい頃のものだが、祖父と祖母、父とクロード少年が並んで描かれた肖像画も例の回廊に飾ってあった。
ちょっと緊張した表情で兄であるジェラルドの隣に立っていた幼い叔父は、黒髪で青紫の瞳をしためっちゃ美少年だった。ジェラルド少年が癒し系のほんわか美少年(見た目は)なら、クロードは怜悧な、と言う言葉がぴったりな、切れ長の瞳に高い鼻梁、やや薄い唇のどえらい綺麗な端麗――スッキリ・キリリとした淡麗系美少年だった。
(しかし……我が兄は今後大丈夫なのだろうか)
王子様カラーで態度も王子様(尊大)なブライアン少年に思いを馳せる。父も叔父も嘘っぽい程に文武両道で、挙句祖父は鬼とか悪魔呼ばわりされる程の伝説の騎士である。
兄……『武』は如何程の実力か解らないけど、『文』は多分壊滅的にダメダメな気がするとマグノリアは思う。性格的に策略とかも無い……感じで、限りない小物感が漂うのだ。
戦争が無くなったことと、アゼンダ辺境領が出来て国境に守りを強めた方が良いとの判断から、ギルモア騎士団は名はそのままに、事実上西の辺境地を護ることとなった。
この辺は大人の色々な事情があったのだろう。マグノリアは勿論その場に居合わせたのではないから、正しい内容までは正確には解らないが、なぜ騎士団の名を変えないのか、とか。そもそも武家の名門から騎士団を取り上げた理由は、とか。色々察せられるところや思いつくところはある。
叔父であるクロードがアゼンダ辺境伯予定ならば、ブライアンは将来のギルモア侯爵だ。よって兄がギルモア騎士団を継ぐことはほぼないであろうから、指導者の器うんぬんというのは考える必要がないのだろう。しかし。
学院では、周りにも教師にも常に比べられそうで辛そうだし、ギルモアの後継者というのも余程才能に溢れていないとプレッシャーが半端なく凄そうである。天才・秀才の中の凡人は途轍もなくキツそうだ。考えるだけでご愁傷様としかコメントが思い浮かばない。マグノリア自身だったとしたら、きっと途方に暮れる筈だ。
まあ、そうして家門は続けど約千年に及ぶ国護りとしてのギルモア家は無くなり、アゼンダ辺境伯家にその役割が移行されたわけだが。
誰よりもギルモアらしいギルモアであるというジェラルド。
……幼少期から戦地を転々とする父親とは碌に触れ合えず、常に父の死に怯え、幼い身でありながら母親と義理の弟を守り、家門を任され。やっと平和になったかと思えば自分は子ども時代を過ぎ、家族は自分を残して居なくなってしまった。
ジェラルド少年のよすがであったであろうギルモアは早くに継いだが、それまでの歴史が意味する真のギルモアに非ず。
「なりゅ程、なりゅ程」
マグノリアは歴史書の文字を瞳に映しながら、独り言ちる。
多分先代のギルモア侯爵夫妻は、根は善良な人達なのだろう。孤児を引き取り、書かれていることが正しいのなら、実子と同じようにきちんと養育出来る人達だ。
自分の息子に期待し過ぎたのか。良く出来た子だったから安心してしまったのか。
時勢も悪かったのだろう。本来ならちゃんと気配り出来る人達だったんだろうに。
陞爵を蹴って敢えて領地を二つにしたのも、多分出世欲も名誉欲も無い人だったのだろう。当時の情勢が解らないからはっきりとは言えないものの、多分それで正解なんだろうけど。
父――ジェラルドの為には公爵になった方が良かったのかもなぁと考える。
きっと、拗れなかった筈だ。色々。
「戦争ってこあいね」
ポツリと零した呟きが、静かな図書室に溶けた。
程度の差こそあれ、過去のその時代、ジェラルド少年のような子どもは沢山居ただろう。会ったことのない叔父と同じような境遇の子どもも。更には誰にも助けられず掬いあげられず、儚く土に還った子ども達も沢山居たことだろう。
(自分が置かれている境遇を肯定はしないけど)
ジェラルド少年のやるせなさはちょっと解る気がして、小さくため息を吐いた。
******
ギルモアの歴史とジェラルドのあれこれに想いを馳せては黄昏ながら、アゼンダ辺境の資料かバートン伯爵家の資料はないものか、マグノリアが本棚をぐるぐると徘徊・物色していると、若い執事が息せき切って図書室に飛び込んできた。
誰も居ないと思っていたのだろう。
勢いよく開いた扉にびっくりし、目をまん丸にして振り返ったマグノリアを見て、執事はびっくりしたように肩を跳ね上げると勢い良く頭を下げる。
「お嬢様! 申し訳ございません……!」
「いいえ」
マグノリアが気にした風でないことを確認すると、慇懃に再度頭を下げ前を移動して行った。見習いだろうか。
そして彼は鍵の付いた書棚を開ける。書類を探しているようだった。
(……あの中、何が入ってるんだろう?)
マグノリアはちらりと書棚を見遣る。時折、執事達が開け閉めしている鍵付きの書棚。
普通、本当に大切なものや重要なものはジェラルドの執務室や金庫の中だろうから、過去の領収書(この世界に領収書があればだが)や帳簿のようなものだろうかと推測する。
若しくは領地のちょっとした書類とか――領政なのか家政なのか解らないけれど、どのくらいの規模でどんな感じなのか、実際の経営の書類なんかをちょっと覗いてみたいと常々思っている。
執事は幾つかの紙束を左手に抱えると、表面の文字を確認しながら鍵をかけた。
『ガチャリ』
いつもより大きな音に違和感を覚える。
執事を見遣ると書類を確認しながら扉を閉めたからか、鍵の合わせの部分……デッドボルトだったか……それが、嵌っていない。
(おおぅ! チャンスだっ!!)
慌てているらしい執事は当然気付かない。マグノリアは、執事が部屋を出て行くのを固唾を呑んで静かに待つ。
そして今は手元に視線を戻した、静かに刺繍をするロサの様子を確認しながら。そっと下段の扉を開ける。
ちょっとドキドキしながら中を覗き見ると、開封された手紙の束と紐で括られた幾つもの紙束、そして何冊かのノートが置かれていた。手紙の宛名は殆どがジェラルド宛だ。紙束の上の方は何かの記録か。ノートの表紙を見ると、数字が書かれていて順番に並んでいるようであった。
(……日付? 年号?)
パラパラと捲ってみると、購入費、交際費……と、勘定科目めいた記載が目に入って来る。
(ビンゴ!!)
マグノリアは後ろ手に二冊掴み、ゆっくりと音がしないように扉を閉める。
いつものように無難な本の間に挟み、一ページ目に視線を落とす。
身体が奥からジンジンするように熱い。悪いことをしているときの、罪悪感と高揚感の反応だ。熱を逃すように深呼吸をすると、ロサの気配を確認しながら帳簿の確認をすることにした。
結果から言うと、対外的には大したものでない、ただのギルモア家の家計簿的な帳簿である。しかし、マグノリア的には大当たりだ。色々と『違い』を客観視出来る証拠が欲しいと思っていたのだ。
前世で何度か見たことがある簿記の体裁は取ってないので解り難いが、日付と人の名前、商品名や内容(勘定科目っぽいもの)が記載されており、月毎に纏められていて、数か月に一度総計が記載されていた。パッと見てノートを抜いたと解らないように途中のものを抜いた。
解っていることとはいえ、どちらのノートもウィステリアの服飾費がすんごい金額でびっくりだ。
石板に幾つかの勘定科目と金額を走り書きする。念の為、勘定科目は日本語で、数字はギリシャ数字ではなくアラビア数字で記入しておく。ロサに石板を見られても解らないように。
確認しながら、苦笑いするしかない程に家庭内格差が酷い。
(……これも書いておくか)
母の愛猫の予算も書いたところで、はたと中二階に視線を向ける。
図書室はジェラルドの領域でもある。ロサ同様、何故かマグノリアを訝しがっているらしく、休みの日などに図書室に詰めては、しれっと上の椅子に座って様子を窺っていることがあるのだ。
(……ブラフって事、あるのかな。でも敢えてこの罠を張る理由がない。……たまたま?)
今朝は登城をする為に馬車に乗り込むのを見かけたので、ここには居ない筈だ。
急いでノートを書棚に戻し、ゆっくりと螺旋階段を上って行く。
階段を上り切った開けた空間の先にあるマホガニーのコンパクトな机は、濃い飴色に使い込まれている。ゴシック式の緻密な彫刻の背もたれがついた椅子が、持ち主の居ない空間に佇んでいるようだ。
音消しの為の絨毯はシンプルな深緑。備え付けの本棚を背にし、座り心地の良さそうなソファが置かれている。
ふと見ると、便箋のような紙の束が机の上に無造作に置かれていた。右側にはガラス製のインク壺。親父さんが仕事をするときに使うものだろう。
(ふむふむ。数枚失敬しても解らないかな?)
まさか枚数を数えていたりはするまい、と考えるに至る。
あの鍵は、果たしていつまで開いているだろうか?
ここの紙に写し取るにしても、ちまちまと石板に書いていたのでは埒があかないだろう。
******
ロサが夕食を取っている間、ライラがお世話に来てくれた。
栗色の髪に飾られた真新しい髪飾りを見つけて褒めると、婚約者に貰ったのだと頬を染める。思わず冷やかしたくなるが、真面目で典型的な貴族のご令嬢であるライラには逆効果だろう。
心の中で笑いをかみ殺し、幸せそうなライラの表情を堪能する。
「ちゅごくよく似合ってりゅ。……お母しゃまは今日も夜会?」
「はい。今日はご夫妻でお出掛けです」
「しょうなのね。夜会だと夜遅くて眠しょうだね」
ライラは、屈託のないマグノリアの言葉にホッとしながら苦笑いした。
「……お帰りがだいぶ遅いので、明日は旦那様もお休みを取られるかもしれませんね?」
計算通り、ライラはジェラルドの予定を零してくれた。きっと夜中まで不在なのだろう。
今日はツイているようだ。
「朝、起きりぇないもんねぇ」
にっこりと微笑みながら不自然に思われないよう、心にもないことを呟く。
……図書室の書棚は重要度合から考えると、施錠の確認が甘そうである。見たところ、一応鍵が掛けられているだけであって、実際見られても然程問題がなさそうな書類だった。
戸締りの際に確認されてしまうだろうか? もしくは確認が終わった書類を戻す際、閉じられてしまうだろうか。
(親父さんは今日登城しているから、帰って来て夜会の支度に追われるだろう。この後に図書室に行く可能性は低い筈……)
一気に写せればいいのだが、昼では侍女の眼があるから大量には持ち出せない。
かと言って、鍵が開けっ放しである事は偶然。今度いつ遭遇出来るか解らない。
一か八か、確認するなら今夜だ。ただネックがある。
「……お兄しゃま、淋ちいから一緒に寝てくれにゃいかにゃ?」
「……。お伺いしてみましょうか?」
ライラは困ったように眉を下げた。
ブライアンはあまりマグノリアを好いていない。断られる可能性が高いだろう。
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「はぁ? 何故僕がマグノリアと一緒に寝てやらないといけないんだ!」
思った通りブライアンの反応は芳しくなかった。
しかし最近は(散策以外は)滅多に無理を言わないマグノリアが言ったのだ。余程淋しくなってしまったのだろうと思い、ライラはもう一度念押しする。
「未だ三歳ですし……お兄様が大変お好きなのでしょう。やはり、お願いを聞いていただくことは難しいでしょうか?」
「イヤだね」
吐き捨てるように言う。ライラはため息を飲み込んで、小さく頭を下げた。
(本当に……何故こんなに蔑ろにするのかしら……? あんなにお可愛らしい、小さい妹姫が頼んでいるのに)
「ご無理申しまして、申し訳ございませんでした。マグノリア様にはお断りしておきます」
ブライアン付きの侍女達も、困ったような顔をしている。
みんな我儘なブライアンよりも、可愛らしく屈託のないマグノリアに、なんとか力添えしたいと思っているのだろう。
ブライアンは睨むようにライラを見ると、退室するよう手を払った。
最近はお茶会も嫌がるようになり、兄妹のかかわりはダフニー夫人の授業以外は無くなり、関係は元に戻ってしまった。
ライラはがっかりするであろうマグノリアを思うとやるせなく思い、扉を閉めると共に大きく息を吐きだした。
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「……しょう。確認ちてくりぇてあいがとう。嫌な思いをしゃしぇてちまってごめんね、ライラ」
やはり断られたか。マグノリアにとっては予想通りではあったが、言い難そうに報告するライラについ申し訳なく思ってしまう。
一時期、兄妹の関係は改善したかに見えたが、ここに来て悪化の一途を辿っているのだ。
多分、兄付きの侍女達の様子やダフニー夫人の反応を見て、妹が疎ましいのだろう。
(三歳のちびっこに本気で嫉妬しなくてもねぇ。どんだけちっせぇ奴なんだろう。自分が真面目に勉強しろっつーの!)
物理的には今世、そんな奴と血の繋がりがあると考えると切ないものがある。
ついつい心の声も口汚くなるというもの。
別に、ブライアンと本当にお泊り会をしたかったわけではない。
理由は扉の重さだ。一見同じ色合いで作られた扉なので解りにくいのだが、明らかにブライアンの部屋の扉とマグノリアの部屋の扉では、重さが違うのだ。
……たまたまなのか故意なのかは、考えないようにしている。
(扉を自力で開けるか、窓を伝って忍び込むかのどっちか)
この場合、窓からは最終手段だ。念のため図書室の一番端にある窓の鍵は開けて来たが、几帳面な使用人に閉められてしまってるかもしれないし。……多分それ以前に、色々と長さが足りなくて遂行出来ない可能性が高い。だから正攻法で普通に部屋から出るのだ。しかし扉が開かないのでは本末転倒だ。
(ブライアンが眠った後に、こっそり彼の部屋から出れたら良かったのだけど……)
「大丈夫よ。一人で寝れりゅ」
安心させるようにライラに笑いかけると、ややあって、ライラも控えめに微笑んだ。
仕方ない。ダメ元で、やれるだけやってやる。そう心密かに気炎を吐いた。
ベッドに入りロサに就寝の挨拶をすると、マグノリアは眠ってしまわないように頭の中で何度もシミュレーションをする。
三歳児の身体は不便だ。力も無ければ体力もない。そして夜はすぐに眠くなる。うっかり眠ってしまったら、次に起きるのは間違いなく朝だ。
今夜は当主夫妻が居ないので、お屋敷の人達もいつもより早く仕事を終えることだろう。
使用人同士で食事や酒を楽しんだり、街へ繰り出したり。部屋でゆっくり寛いだり。
図書室がある区画は、遅くなればそうそう人に逢うこともない筈だ。
意外にも図書室は施錠しないという。以前、仕事が終わった後に勉強をした見習いが居たそうで、勉強したい者の為に常時開放してあるのだそうだ。
もっとも、現在プライベートで図書室を使う人は殆ど居ないそうだが。
「……しょろしょろ行けりゅかな」
あれから二時間程が過ぎた。小さな声は思ったより大きく部屋に響く。気をつけなければ。マグノリアは起き上がると、暗い色のワンピースに着替えた。そして目立つ髪に手巾をかぶり顎の下で結ぶ。目立つ髪を隠し、少しでも闇に紛れる為だ。……見た目が変だが背に腹は代えられない。
念のため鍵穴から廊下を確認して、周りに人が居ないことを確かめる。
施錠された扉を開ける為、音が響かないよう慎重にサムターンを回した。
そして、
(どおぉうりゃあああああぁぁぁぁぁーーーー!!!!)
渾身の力で踏ん張ってドアノブを掴み、全体重を掛けて押して押して押しまくる。
(つーか、何キロあるんだよっ! このドア!!)
心の中なので、完全に前世の言葉遣いだ。お嬢様の皮は寝巻と一緒にぶん投げておく。
今はこの、アホのように重い扉をどうにかするのが先だから。長引けば長引く程、ヘタって扉は開かなくなる。
短期決戦、時間との勝負だ。
(ドォ根じょぉぉぉぉおおおおぉぉぉっっ!!!!!!)
小綺麗な顔は、今現在トンデモナイ事になっているだろう。
『根性のあるカエルの漫画』も真っ青な、歯が剥き出しのいきみ顔。
荒い呼吸と、低い唸り声のような音が口から洩れる。きっとホラーだ。
長いのか短いのか。
カチャリ。小さな音を立てて扉が薄く開いた。喜ぶ間も息つく暇も無く思い切りもう一押しし、急いで大きくなった隙間に足を挟み込むと、身体を滑り込ませ廊下を見渡す。
(誰も居ない!)
閉まらないように足と腕を扉の隙間に挟みながら、身体を抜いて行く。素早くポケットから折りたたんだ黒い布をデッドボルト付近に噛ませ、完全に閉まらないようにする。
本当なら、板や踏み台なんかのしっかりしたものをストッパーにしたいところだが、万一誰かに見られたら扉が開いていることが解ってしまうのでナシだ。
見回りが巡回しているときに見つかり難いように、布を噛ませてデットボルトとストライク――小さい閂みたいな、扉が閉まる仕組み部分――をカバーしておけば、ずっと少ない力で開けられる筈だ。
そして扉が重いからこそ、しっかり挟まったままでいてくれる筈だ。
(やってやった……!)
大仕事を終え一息つきたいところだが、先を急ぐ。誰も居ないのを確認しながら、暗い廊下を小走りで走り抜ける。窓辺は月明かりが差し込んで、ほのかに明るく闇を照らしていた。マグノリアは明かりを避けるように影の中を走り続ける。
不思議なほどに心が凪いで、頭は芯がキンと冷えたように冴えている。
何故だか周りの景色がいつもより鮮明に見え、物の輪郭がくっきり見えるように感じた。
図書室の扉は、押せば簡単に開いた。
音がしないようゆっくりと扉を開き中を確認するが、あたりまえのように誰も居ない。安堵して小さく息をつく。ひっそりと静まり返って却って耳が痛いくらいだ。
鍵付き書棚に手を掛けると、こちらも何の抵抗も無く開いた。中から最新から十年分のノートを引っ張り出して、小走りで中二階の机に急ぐ。そして昼に確認したままに置いてあった紙とペンで、各年の必要事項を手早く、しかし漏れがないよう記入していく。
――程無くして全て書き終わり、やっと詰めていた息を大きく吐き出した。
白い月明かりと真っ黒な木の影をみつめながら、未だ両親が乗る馬車が帰ってこないことを確認すると、机の上を素早く片付け、床下に痕跡が残っていないか確認し、急いで階下へと下りる。そしてノートを違和感がないよう、並び順や方向を慎重に確認しつつ元通りにしまうと、再び小走りで部屋に向かった。
帰りに誰かに見つかったら、苦労が水の泡だ。今頃になって全身に冷汗が流れる。
電気が無い程の時代だ。指紋やDNAの判別は万一にもないかと思うが、念のため使っていない手巾で触った個所を全てふき取った。
(まるで事件の犯人になった気分)
でもまあ、たとえ無駄になったとしてもやらずに後悔するより、拭いて安心しておく方が精神衛生上よいだろう。
しばらくして再び寝巻に着替えベッドに入ると、安心からか泥のように眠った。