閑話 変わった娘(ジェラルド視点)
「お嬢様には、家庭教師をお付けにならないのですか?」
嫡男である息子の、殆ど進んでいない教育の進捗を報告に来たダフニー伯爵夫人が、娘のことを聞いてきた。
「……まだ三歳ですからねぇ。早いのではないでしょうか?」
――いつの間にあれの存在が漏れたのか。予定外の時期に漏れ、聞かれたら答えるべく用意していた言葉を苦笑いと共に伝える。
元々女子への教育には熱心でないこの国は、七歳前後から少しずつ、行儀や教養などを学ばせるのが従来だ。……もっとも高位貴族やまともな人間なら、それよりも小さな頃からそれらを教えて然るべきでもあるのだが。
五年前に王子が誕生し、今では年近い貴族の早期教育が持て囃されている。
……少しでも未来の国王の側へ侍る為。男子なら側近として。女子なら妃として。
それによって齎されるのは国や民への必要な何かではなく、自分や家への権力や富の集中だ。
金は必要だ。綺麗ごとを言うつもりはない。しかし程度の問題でもある。
数家ある公爵家に年頃の娘がいない為、諸外国からのお輿入れが持ち上がらない限り、王太子妃は侯爵家からのお輿入れということになるだろう。
外国要人との婚姻はときに大きな同盟の契機となる半面、厄介な足枷になる場合もあるのだからして。平和の架け橋と言う体のいい人質やスパイ。平和な今、各国の均衡を崩してまでお輿入れして来ようとする国もないであろう。
本命は筆頭侯爵・シュタイゼン家ご令嬢ガーディニア。
そして自称侯爵家の当家の娘。……勿論、隠された姫であるマグノリアは現時点では候補に挙がってはいない。
後は高位貴族の家々が、虎視眈々と地位を獲得すべく蠢いているのが現状だ。
――誰でもいい、早くマグノリア以外で決まってしまえばよいのに。
本来未定の筈の未来は、未定のまま、違う現実に取って代わってしまえばよいと思っている。
なんにせよ、シュタイゼン家は何が何でもこの縁談を纏めたい筈だ。「筆頭侯爵家」の面目を、ここぞとばかりに詳らかにしたい筈であるから。噂では四歳になるご令嬢は大変見目麗しく、二歳になるや否や侯爵家の総力を挙げて施され、始められたお妃教育も順調。なかなか賢いご令嬢らしいともっぱらの噂だ。是非ともあの我儘な王子様を抑え込めるような、聡明な女性に成長して欲しいものだ。
……王家としては当家と婚姻を結びたいのだろうが。
さすれば彼奴らは合法的に大手を振って、タダでギルモアの持てる戦力と頭脳、潤沢な資金源と支持基盤が手に入る。だから、マグノリアの存在が知られてしまうと面倒な事になる。婚姻という一番簡単な方法で取り込まれてしまうからだ。
意味は違えど、傾国の美女とはよく言ったものだ。
彼奴らはあっという間にアゼンダ辺境を守る騎士団も、アゼンダとギルモア両方の財産も飲み込むだろう。老体の父親は再び戦火に押しやられ、優秀過ぎる弟の剣も頭も使い潰し、美しい娘はよい様に貪られ、操り易い息子は打ち捨てられる。
そして国は再び混乱を極め、大戦のあの頃へ転がり落ちるように逆戻りだ。
現在の王家は、そう考えてしまっても仕方ないような脆弱さを持っている。
先王と、父である前ギルモア候がなしえた百年に及ぶ大戦の終結。その後の長い戦後処理――それは小競り合いと混乱の十年と、後に復興を進めた十年と言える――平和な世の中を実現するために、長い長い年月が必要だった。
比較的被害が少なかったアスカルド王国ですら、やっと終わった戦いの日々に国民も国そのものも疲弊し切っていた。近隣国の小競り合いが落ち着き、一応の平和が訪れた十年程前。長年の功績を称え父を公爵にしたがった先王が、新たな領地を与えて陞爵しようとした。新たな領地とは言っても、かつての大戦で父がぶんどった小さな公国だった土地である。
森と湖の国。元アゼンダ公国。
大国であるマリナーゼ帝国と隣している場所柄か、王国の直轄地になっていながら、何故かずっと父……前ギルモア侯爵とその私設騎士団が国境を守っていた辺境の土地だ。
一方面倒を嫌がった父は、飛び地になってしまう領地も具合が悪かろうと、周りがどう領地の線引きを変えれば良いかと頭を悩ませているうちに、元々の『ギルモア侯爵領』をそのままに、賜った新領地を『アゼンダ辺境領』として建領した。
まだ領地も近隣諸国も安定していないからとか、屁理屈を並べ立てては周りを言い包め、当時成人して一年も経たない私に相談という名の決定事項を叩きつけると、ギルモア侯爵の一切合切を余すところなく押し付けた。更には自分はアゼンダ辺境伯だと王と大臣達に認めさせた挙句、母と幼い弟を連れて風のように移領して行ってしまった。
当時の混乱と戸惑い、そしてぶつけ処のない怒りと失意は今でもはっきり覚えている。
……実際、あの場所を上手く治めて行けるのは父しか居なかっただろうし、また父が適任だったろうとも思う。他国に睨みを利かすには軍事に秀でた人間が治めた方がよいことは明白であり、父なりに色々と考えた上での選択だったのでもあろう。
私は戦火を駆け巡る『悪魔将軍』の跡取りとして、いつ何時、父が戦死し家督を継ぐことになるやもしれなかった。よって小さい頃から様々な心構えをさせられていたし、だいぶ早くから母と家令によって領政の手ほどきも受けていた。
十四・五歳からはほぼ、戦場にいる父に代わって広大な候爵家の領主の仕事を実質引き受けていたといえる。終戦を迎えたとは名ばかりの緊迫した情勢の中、父は変わらず内戦や内乱を抑える為に戦地を転々としており、家に帰ってくることは稀であったからだ。それもあって父もあんな無謀な交代劇をやってのけたのだろう。
やれる、というある程度の信頼と確信もあってこそと思う。
それでも父が連れて行った弟に想いを馳せると、どうして自分は連れて行ってもらえなかったのか……慣れたギルモア侯爵は熟せても、公爵家の嫡男としては足りえないと言われたようで。だって別に、そのまま陞爵しても誰も文句は言わないのに。
しばらくは鬱々とした毎日だった。
父としては公爵と呼ばれ今以上に国政に組み込まれることも、宮廷雀共との付き合いの煩わしさも、我が家に権力が集中してしまい当時燻っていた貴族内の均衝を崩すことも避けたかったに違いない。ましてやその厄介ごとは父だけで済む筈はなく、家族にも魔の手は伸びることは必須。未だ九歳になったばかりの弟も、養い親である父が連れて行くのは道理だ。それにクロードにこそアゼンダを譲りたかったのだろう。……解ってはいる。
自らの子どもとして引き取ったからには、無責任なことをする人たちではなかった。
実子も養子も変わらない愛情を注ぎ、厳しく躾け、対等に扱うのが我が両親だった。
まあ、そんなこんなで対外的には侯爵家としているが、事実上公爵家と等しく扱われており、家格がなんとなく逆転している現状をシュタイゼン家は良しとしていない。
そんな気持ちは判らないでもないが、正直どうでもいい。家格のイザコザよりも、国を真に安定させなくてはならない。
先王は切れ者であったが、現王は微妙なところだ。
その息子である王子は今のところ、我儘で怠惰だ。
大戦の制圧により表面上平和に保たれているが、いつまた不穏な世の中に戻るかわからない――――今のうちに国内や領内の力を付けて置くべきだ。
今の王家に膝を折りたくも無ければ、大っぴらに主君として頂きたくもない。宰相や大臣になりコントロールするという手もあるが、足を掬われれば権力側に飲み込まれハイリスクだ。まして、意味の分からない現王家の面々のゴリ押しを留めるのに苦労する姿しか予想出来ず、別の方法で護るべきものを護った方がやり易そうだと帰結された。
父が何処まで考えていたのかはわからないが、権力を持つことを否としてくれるのは有難い。
結婚相手を選ぶのは簡単なようでいてなかなか難しい。大恋愛で家格など関係なく結ばれる場合もあるが、ごく稀だ。大概は同じような家格同士で婚姻することが多い。
低位貴族が高位貴族の中で過ごすことや社交を行うことには、思っているよりも大きな苦労と気苦労がある。育ってきた中で培われる意識や感覚、立ち居振る舞い、言わずとも伝わる常識など様々な要因があるからだ。長年違いをあちらこちらに感じながら暮らすことは、なかなかしんどいものであると思う。それは逆も然り。
低位貴族でありながら高位貴族と縁を結ぼうと自ら考えるご令嬢は、得てして可愛い顔をしつつも上昇志向も野心も強い傾向がある。親も同じだ。
そのくらいのしたたかさがなければ容易につぶされ、心と身体を病んでしまい兼ねないのだ。
旧家でのんびりした気質の穏健派で知られるバートン伯爵は、出世欲もなく、こちらへ利を寄越せとせがむことのない好人物だ。彼の娘であるウィステリアは、社交界で話に上る程度に程々に美しく、面倒事が嫌いで依存心の強いご令嬢だ。その性質からか意外に機微に敏感で、自分が出来る限り面倒を負わないように立ち回るのが上手い。しかし勤勉ではないので勉学や家政などはせず、歌やダンスに興じたい『愛らしい女性』であった。
浅はかなところもあるが、親に似たのか下心は少ない素直なご令嬢。
意外にも彼女は、それなりに大きな、しかし許せる範囲での散財はするが、浮気をする様子はなかった。それから十年。世間一般的にはおしどり夫婦として通っている。無論、こちらも浮気などしない。修羅場やら賠償金やら、要らぬ厄介事は避けた方が利口だ。
世にアピールするような浮気などせずとも、周囲にわからないよう男の欲を解消する方法など幾らでもあるのだ。
十九になるやならぬで家督を継がされ、半年後に結婚。その一年後には息子が産まれた。
息子は見た目以外突出したところがない、ごく普通の少年に育った。
それでもギルモアの血なのか、剣術が好きなようで自分の祖父を尊敬し、騎士か軍人になりたいそうだ。……剣は好きでも特別上手いわけではない。私は文官ではあるものの、一応ギルモア家の長男でもある。有事、父亡き後にはギルモア騎士団を率いる可能性もあった為、騎士としても仕えられる程度に鍛えられている者の目から見てそう思う。
とは言え家柄や年回りからいって将来は近衛隊にでも入り、王子の護衛騎士にでも成るのだろう。
……いや、好むと好まざるとにかかわらず、きっとそうなる筈だ。
そして、三年前に産まれた娘。
運悪く王子と同年代に産まれてしまった娘は、絶世の美女に生まれた。『亡国の妖精姫』と呼ばれた父の実母である、娘にとっては曾祖母に当たる人にそっくりの容姿。アゼンダ公国と同じ、今は地上から無くなってしまったとある北の国特有の珍しいピンク色の髪と朱鷺色の瞳。娘の誕生と入れ替わりのように亡くなった自分の祖母でもある彼女の、儚げで嫋やかな肖像画を見て成程と思う。面倒事の予感に当時は思わずため息が出た。ため息が出てしまう自分にも、再びため息が出る。
シュタイゼン嬢は二歳から出来得る限りの教育をされ、四歳にして宮廷へ上がるマナーを学び、既に簡単な外国語を話せるらしい。家格が多少劣ろうが、こちらがこのまま育てばあちらが未来の王妃に向いていることは一目瞭然である。
私は敢えて早期教育を放置し『のんびり』と育てることにした。念には念を入れ、お披露目をせず存在を隠匿する。……罪悪感が無いわけではない。しかし、娘の未来を考えればその方が絶対に良い筈なのだ。乳児期にお披露目をしていない、イコール瑕疵持ちだ。貴族社会でお披露目をしない人間は、目に見えずとも何か問題があると思われるであろう。妻もあんなに張りきった息子のときとは違い、お披露目のおの字も口に出さない。……きっと、妻なりに考えるところがあるのだろう。
息子が学院に上がる頃に隙を見て地方の修道院へ預け、五・六年簡単な教育を施させる。
そして王都から離れた土地の口の堅い信頼の置ける低位貴族へ、上乗せした持参金と共に嫁に出す。……少々早いが年少での婚姻がないわけではない。デビュタント前に夫人になれば王都での華々しい社交界デビューを行う必要もなく、わざわざ辺境から王都に来ることもないであろう。王家との接点はないに等しいし、最悪出自が王家にバレたとしても、既に傷もので瑕疵持ちの娘なぞ何にもならない筈だ。
本来なら、きっと社交界の大花として崇められただろう娘。
普通なら沢山の人に称えられる筈の人生が、勝手に瑕疵を付けられ、家族に顧みられることも無く知らぬ間にうらぶれる娘に憐憫の念を持つ。
――王家を手玉に取れるだけの胆力や、社交界と王宮を牛耳るような能力があればまだしもだが。おっとりし過ぎており、大人しい娘。……そして今後育つであろう筈の未来の娘に、それを求めるのは無理なことは明白だ。
更にはここ一・二年程は体調が安定しているが、きっかけ次第で再び体調を崩すことも考えられる。お披露目をしなかったのは画策でもある反面、本当に体調を崩し易いということも事実であったのだ。そんな、色々な意味で弱い娘。
万一にも愚かな王家の王妃になんぞになって、良い様に使い潰されるよりよいだろう? それよりも悪いのは――
「……そうですか。勿体ないことです」
ダフニー伯爵夫人は何かを言おうとして、口を閉じた。
賢夫人は一見おっとりとした無欲で人畜無害そうなジェラルドが、見た目とは裏腹な、抜け目ないタイプの男であることを知っているのだ。
「シュタイゼン家のご令嬢は、それはそれは素晴らしいお子様だそうですよ」
張り合うつもりはないと暗に示すと、夫人は水縹色をした瞳を伏せ、小さく息を吐いた。
「……そういうことではありません……お伝えしたところで無意味ですわね。失礼致します」
「娘のことは他言無用で」
瑕疵を匂わせると、夫人は表情を変えず小さく頭を下げて部屋を出て行った。
……なかなか辛辣で棘のある言葉だ。
そういえば、マグノリアにしばらく会っていないと思い至る。
外にも内にも余計な波風を立てない為、社交には妻と連れ立って勤めている。
社交界でのジェラルドの評価は『忙しいのに子煩悩で愛妻家』ということになっていた。
――美しく、教育すれば王妃になれると言うことか? そう言う口振りでもなかったが。
ダフニー伯爵夫人の、無表情でいて哀しそうな瞳を思い出しては小さく首を捻る。
王宮を離れて長いとはいえ、王家が以前の王家とは違うと知っているだろうに。
しかし、何故娘の存在が知れたのか……確認して念の為、隠匿対策をした方が良いかもしれない。
色々思い返してはため息がついて出て、気晴らしに騎士物語でも読もうかと思い図書室に足を向けた。
中二階の奥のソファに座り、物語を読むつもりがついつい近年の帳簿を開いていると衣擦れの音が聞こえて来た。カチャリと扉が開いて誰かが入って来る。
この家で自分以外にここへ来る者は殆ど居ない。珍しいことだと思い、ジェラルドはそっと階下に意識を向けた。
「おおぅ……」
小さな声が聞こえてきたので、そっと様子を窺う。居たのは侍女に連れられたマグノリアだった。
壁一杯に収まる書籍を見て小さな頭を左右に振る様子は、まるで小動物のようだ。大きな丸い瞳も相まって愛らしい。とても……。思わず無意識に小さく息を漏らした。
同時に建領から続く貴重な蔵書を、汚されたり破られたりしないかとハラハラする。相手は三歳の幼児。猿みたいなモノだ。
意外にも娘は吟味するようにゆっくりと書棚の一つ一つを見て回り、部屋の様子をぐるりと確認しているようだ。中二階へ視線を上げたので気づかれないよう、少し奥へと身体を戻す。
時折若い侍女に説明されたり、自分から確認しては気になった書棚に目を留めている。
王立学院の教科書を見遣ると、しばし考えるような素振りをし、それとなく、視線を外している侍女を確認しては何冊か開いてパラパラと頁を捲り、小さく頷き、手にとっては机の上に置いて行く。
……もしや、内容を確認している? ……まさか。
ふとよぎる馬鹿馬鹿しい考えに自ら否定する。マグノリアに再び目を向けると、別の書棚の前に立っていた。また少し考えたように上の方を見て、左右に瞳を動かすと、右上の書棚から図鑑を手に取った。
机の上に置かれた教科書を見た侍女に、選んだ本は難しくはないかと遠まわしに諭されるも、『お兄さまと一緒です!』と言い、取って付けたような笑顔で答えていた。
そのまま声を掛けずにふたりを見送る。
……何故だか気持ち悪いくらいに違和感がある。何故だ?
どうも娘は図書室だけでなく、庭や調理場など屋敷の至るところへ出歩いているらしい。元々かなり大人しい質であったし、マグノリア付きのロサは言わずともこちらの意を汲んでいると思っていたが、違ったらしい。
ウロウロされて何処で誰に見つかるとも限らない。他家程ではないとはいえ、多少は人の出入りもあるのだ。現にダフニー夫人に見られてしまっている。
沈着冷静が売りな筈の自分が、珍しく急いていることに苦い笑いを漏らす。頃合いを見て人を替えるか強く言い含めるかする必要があるだろう。もしくは早々に修道院へ教育に出してしまうのも手かもしれない。そう考えるに至って硬く拳を握り締める。
……しかし、何故急に?
それから家に居るときは頻繁に図書室へ出掛けた。疑問を持っているのも一つだが、何故か足が向いてしまうのだ。中二階の席に座り、来る度に見かける娘の観察をする。
最初は侍女に『大人ぶりたい子ども』を装っていた様子だったが、程無くして侍女達も『勉強好きな子ども』と認識したのか、好きに本が見られるよう集中出来るように少し離れた椅子に座っては、時折見守ることに落ち着いたようだった。
侍女達はマグノリアが知っている文字を拾って読んでいるとしか思っていないようだが、それにしては不自然な程に選ぶ系統が同じ分野だ。マグノリアはその日その日で読む分野を決めているようで、系統立てて数冊を机の上に置いては結構な速さで目を通して行く。
その速さから、侍女は理解しているとは夢にも思っていない様子だが、目の動き、ときに無音で動かす口の動きから、どう見ても読み込んでいるとしか思えない。
――何故だ? 何故読める!?
字が読める読めないの範疇ではない。学院の教科書の後期専門科目の、補足や理解を深める為の補助参考書や専門書類だ。……理解出来ているのか? 三歳の子どもが? 困惑と戸惑いしかない。
おかしい……それならば何故? 今までのおっとりし過ぎる程な様子は何だったのか。
本当は賢かったとしても、物心もつかない人間が大人に人格を偽りきれるとは思えない。第一、何故そのようなことをする必要があるのか。
しばらく様子を見ていたが疑惑が確信に変わった頃、図書室に居るマグノリアと直接話をしてみることにした。
偶然を装って声掛けすると、今迄のように恐々と遠慮がちに甘えようとするのではなく、明らかに警戒した表情でこちらの視線を窺ってきた。
丸い愛らしいだけだった朱鷺色の瞳には、冷えた理知的な光が浮かんでいる。
――読んでいた筈の本は、上下の図鑑ですっかり隠されていた。
「……お父しゃま? 三か月以上ぶりでしゅね。ご機嫌麗しゅう」
取り繕った微笑で、綺麗なカーテシーで告げる言葉には棘を感じる。……もしや嫌味なのかと思い至り、茶色の瞳を眇めた。
今迄の娘は、淋しい、構って欲しいと言いながら、自分が蔑ろにされていることも疎まれていることも理解せず、只々愛情を与えられずにくすんだ瞳をしていた。他人行儀に行われたカーテシー。見本のように優雅な身のこなし。いつの間にかくり返し練習が重ねられたことを物語る美しい動作。
今、目の前の瞳には、こちらを値踏みするような強い意志が見えた。
「偉いね、ご本を読んでいるのかい?」
頭に手を載せるといつものように笑顔を見せるでもなく、ピクリと小さく肩を揺らし、警戒を強めた様子が伝わって来る。そしてさりげなく本を見てから私を見上げた。
「あい。お豆やおやちゃいの本を見ていましゅ」
答えにつられ下を見る。確かに絵が多く、絵本代わりに子どもが眺めていても通りそうな本だった。人好きのする、優しい笑顔を心掛ける。
「美味しそうだ。他には何を見ているんだい?」
マグノリアは重そうに、よいしょ、と言いながら一番下の本を押し出す。
「……おはにゃの本でしゅ」
――こちらも同じ理由か。上手く誤魔化すものだと感心する。間に挟んであるだろう専門書を問いただそうか迷ったが、多分言い訳を用意されていることが容易に察せられ口を閉じた。
形だけの笑顔を張り付け、遥か下にある娘の顔をみつめる。……一体この子は誰だ?
まるで、子どもの振りをした大人だ。
一見どうでもよい会話をしながらこちらの反応を見ると、警戒、嘲り、探り……と、綺麗な笑顔に厳しい視線を滲ませている。こちらの受け答えから考えや対応を分析しているとしか思えない様子に、思わずジェラルドも警戒心を強めた。
こちらも娘の様子を窺っていることを感じたのだろう。やんわりとこちらを気遣いつつ、追い出しを掛けられた。無視して話を続けようとしたところ、あっさり暇を告げて部屋へ帰って行ってしまった。
思わずあっけに取られ、目を瞬かせる。あれが本性だったのか? 与えなさ過ぎて、自ら目覚めたのか。
――――まるで別人だ。
一緒に食事をと声を掛けたら、全く期待しない瞳と声で、
「はぁ……? ご無理なしゃいませぬよう」
と、素っ気なく返された。娘の事情を感づいているのであろう侍女の、期待に満ちた輝く笑顔との対比が酷い。
「…………」
娘は変わった。全く子どもらしくない、優秀で抜け目ない、変な娘に。
娘が変わったのなら、本来訪れる筈のあの忌まわしい未来も変わるのだろうか? いつか心を……そう思ったところで、ハッとして拳を握りしめる。
現時点で未来が良い方向に変わるかどうかは不確かだ。ほんのちょっとの変化を認めたくらいで楽観するには未だ早過ぎるだろう。一番は、彼女と家族の真の安全を守ることだ。……たとえ誰に理解をされなかろうとも。
いつかのダフニー伯爵夫人の、去り際の乾いた無表情な顔が浮かんで消えた。