しかし綺麗な茶色の瞳はちっとも笑っていない。微かに瞳を眇めると、窺うようにマグノリアの手元の本へ視線を走らせた。
「……お父しゃま? 三か月以上ぶりでしゅね。ご機嫌麗しゅう」
他人行儀にカーテシーをし、ちょっとした嫌味を交ぜる。
きっと三歳児が発する言葉に、嫌味を込めているとは思わないだろう。
「偉いね、ご本を読んでいるのかい?」
言いながら大きな手をマグノリアの頭に載せる。優男に見えて、意外にしっかりした厚みのある大きな男の手だった。
マグノリアはさりげなくまん中の本――法律解説の本が隠れていることを確認し、再び父親へ顔を向ける。
「あい。お豆やおやちゃいの本を見ていましゅ」
園芸の本。絵が多く子どもが眺めていても通りそうな図鑑を、ロサや、万が一不味い誰かが来たときの為に置いておくことにしていた。
「美味しそうだ。他には何を見ているんだい?」
一番下の本を押し出す。
「……おはにゃの本でしゅ」
こちらもダミー。後、虫の図鑑と動物の図鑑、魚の図鑑が書棚にある。
初見の頃、単語を覚える為にそれぞれ何度か見たが、虫に関してはあれ以来二度と開いてはいない。
「そっか。ここには絵本がないんだね。ブライアンの部屋かな?」
「……。そうなのでしゅね」
自室にも図書室にもないので、てっきり子ども用の絵本はない世界なのかと思っていたのに。ちゃんとあったのか。
嫡男には与え、マグノリアには与えない。いやはや。(……今更っちゃ今更だけど、凄い露骨な対応だな、おい)そう心の中で毒づく。
「お父しゃまは、今日はお休みなのでしゅか?」
本からジェラルドの意識をひっ剥がすべく、世間話を振る。
「登城……お城でのお仕事は休みを貰ったんだよ。領地の仕事が溜まっているからね」
ジェラルドはそう言うと、小さくため息をついた。
「しょうなのでしゅね……」
先日読んだ領政の教科書と領地経営の本を思い浮かべる。王都から馬車で半日程の比較的近い場所にあると聞く、ギルモア侯爵領。どんな所なのだろう。都会なのか、自然に溢れた場所なのか。それとも工業地帯か。
侯爵家の領地と言えばどデカいのであろう。経営が教科書の通りになんて行くわけがない。多分、人に任せているのが大部分とはいえ、取り纏めやら監督やらで大変なんだろうなぁと。つらつらと余所事を考える間。
「…………」
何かを考えあぐねるように視線を落とすこの世界の父親。
改めて――本当に娘が可愛くはないのだと再認識もする。いや、彼なりの愛情があるのかないのかはわからない。何故ならそれを察せられる程に父親を知らないからだ。わからないが、マグノリアの知るそれとは大きく違うことだけは確かで。
一応、形だけにこにこしている顔は子ども相手に気を抜いているのか、全く笑っていないのが丸わかりだ。温度を感じない薄茶色の瞳。……なぜそんなにマグノリアが気に食わないのだろうか? 聞いてみたところで答えないだろうが。――以前の「私」が何かしたのだろうかと記憶を辿る。
記憶にあるマグノリアは、侍女たち以外殆ど誰にも会わず話もせず、ぼんやりとした女の子だった筈だ。憶測だが、他の人とあまりにも交流がない為、心の動きに乏しい性質になってしまっていたのではないかと考えている。
第一まだ三歳である。「とんでもない事」をしでかす腕力も能力もない。
執務に関する大切な書類や家宝か何かを壊したかと思ったが、如何せん、部屋の外に出ようにも重厚なあの部屋の扉は幼児には開けられない代物なのだ。
殆ど外へ出ることもない。同じ年頃の友人どころか、兄も両親も、親戚にも会わない子ども。
――――軟禁されてる――――? そう、頭を過った。
「……お忙しくて、大変でしゅね。おちごと頑張ってくだちゃいましぇね」
暗くなる思考を一旦外へと追いやり、詳しく探るにしても深入りするにしてももう少し情報が必要だなと思い、いとまの挨拶をする。
「えっ……もう行くのかい?」
「あい。おちごとの邪魔になってちまいましゅので」
ふむ、と頷くと、
「……時間が取れたら、一緒に食事をしようね?」
にっこりと、だがまるで瞳が笑っていない笑顔を見せると再び頭に大きな手を載せた。
話を聞いていたデイジーが嬉しそうに、お昼はお父様とご一緒ですねと笑いかける。
……他人のことなのに喜び勇んでる様子に、居たたまれなくなる。
(そりゃぁね。侍女達だっておかしいと思うのだろう)
デイジーは、性格の素直ないい子だ。自分が関わっている小さい子が家族からみそっかすにされていれば、気にもなるのだろう。
(ずっと両親に愛されて育っているのだろうなぁ)
子は親に無償の愛を捧げられるものと思い込んでいるのだ。ギルモア家の様子に、内心首を傾げているのだろう。
でも、その思い込みは大半であって全員じゃない。現実には誰しもが溢れる母性や父性があるわけでもないし、ましてや全ての親が子に無償の愛を注げるものでもないのだ。
無償の愛すら、時を経ていつの間にか、本人も知らぬ間に条件付きの愛に変わってしまうことすらある。常識や生活、当たり前と思い込む要因で、意識する間もなく心が変わってしまうのはよくあることだ。そして歪んだ家族関係は、悲しいかな、いつの時代にも何処の世界にも存在する。それらは日本でもあった。
(幸い、顔も名前も思い出せない日本の家族には、愛して貰った記憶の残渣があるのが救いだねぇ)
だからこそ、無償の愛は美しく尊くもあるのだから。
「……多分社交じりぇいだと思う。『今日』と言ってないち、忙ちいみたいでしゅしね」
マグノリアは醒めた瞳で返す。
「そんなことございませんわ! お忙しくっても、お食事くらいご一緒して下さいますよ!」
侯爵自ら仰ったんだからと、言い聞かせるように一生懸命に力説しながら、お昼の為にマグノリアの髪を結っている。
(いやいや。『お食事くらいご一緒する』なら、三か月の間にしていると思うよ)
そう心の中で呟く。
案の定、時間になっても呼び出されることはなく、だいぶ過ぎた頃に耐え切れず確認に行ったデイジーは、可哀相な程に項垂れながら、調理場に残されていた昼食を運んで来たのだった。