しばらくして小休憩となった。集中力が続かないブライアンに合わせ、座学の時間は一時間程度に区切られているようだ。確かにずっと同じ事を続けるより、変化させた方が効率が良いことは地球でも実証済みだ。
二時間目は算術である。
極々簡単な足し算と引き算であった。計算の答えは言わずもがな、記号すらも日本と同じなので、数字を覚える以外特にすることはない。
うーむ。マグノリアは難しい顔をしながら心の中で唸る。
(……つーか、記号も一緒なのか。何で? 不自然なくらいに一致することが多くない?)
例のごとく教科書を盗み見ながら、数字の形を覚える。ギリシャ数字も大きい数はうろ覚えだ。うっかり数字を書かないように気を付けながら、落書きを石板に描く。
ブライアンは、一生懸命指を折ったり空を睨んだりしながら問題を解いている。
妙な引っ掛かりにざらりとしていた気分が、頑張ってる子どもの表情に幾分癒される。
男の子だからもしや算数が得意なのかもという偏見認識の鉄板を思っていたが、先ほどの詩歌と同じであまり得意ではないようだった。
(……うん。そうだよね)
勉強が結構苦手な子は多少の優劣と例外はあれど、基本的に全教科苦手だろう。頭が良い女の子は文系だけが得意なわけでなく、数学だって化学だって物理だって得意だった。
なんなら、前世には『リケジョ(理系女子)』って言葉だってあったのだ。
同じように成績の良い男子は、理系だけじゃなく言わずもがな、国語だって英語だって社会だって得意な傾向がある。それ真理。
そして、考え方など色々な説明をしている夫人の言葉をブライアンが必死に写しているが……悲しいかな。多分、次の日には殆ど彼の頭に残ってはいないだろう。ブライアンは黒板丸写しタイプであるらしい。
……何となく、学習においての先行きが見えるように感じる。
ぶっちゃけ、成績なんて社会に出たらそんなに関係はないけれども。
きちんと努力が出来るかとか頭の回転が速いかとか、情報の取捨選択能力とか。ゆっくりでも物事を読み解ける力があるかとかは、多分関係がある。
彼は、どうも頭を使ったりすることが苦手な上、要領が良いタイプではないようだ。
領地経営とか、余程信用のおけるしっかりした代理人(?)を立てないと、うっかりやらかしてしまうタイプに見える。
楽しい時間はあっという間だ。
三時間目はダンスという。そちらも後学の為に見たかったが、ロサが頃合いと思ったのか暇を告げていた。……あまり我を通すと次がなくなってしまうので、大人しく従う。
マグノリアも例のたどたどしい口調で礼を述べる。
「ダフニー伯爵夫人、お忙しいとこりょをお邪魔ちてちまいまちた事、かしゃねてお詫びいたしましゅ。お邪魔しゅる事をお許ちくだしゃいまして、本当にあいがとうごじゃいまちた」
幾つか単語も覚えられたし、こちらの世界の詩とか、知らないことを学べて良かったと思った。何より文化的なことに触れることが出来て、満足感が半端ない。
兄にもお礼と暇を告げる。
しばしマグノリアの様子をみつめていた夫人は、静かに語りかけてきた。
「……お嬢様は石板をお持ちですか?」
「いいえ?」
首を横に振る。
夫人は小さくため息をつき、頷くと、ロサが夫人に返却した石板をマグノリアへ渡す。
「どうぞお持ちください」
「……宜ちいのでしゅか? わたくちは夫人の生徒ではありましぇんのに」
遠慮がちにお嬢様らしい言葉遣いで確認すると、ダフニー夫人は小さく頷いた。
「こちらは侯爵家の備品ですわ。授業で細かい説明をするときに使用しているだけで、備品室に予備が幾つもありますのよ。……下働きの見習など、文字が読めない者が勉強するときに使うものですから、お嬢様がお持ちになっても誰も文句は言いませんよ」
「しょうなのでしゅね! あいがとうごじゃいましゅ!!」
夫人の気遣いが嬉しくて、本気の笑顔がこぼれた。こっちに来て初めてちゃんと笑った気がする。紙はあれどそこそこ高価なため、誰に聞いてももらえずに諦めていたのだ。
それとこちらをと言いながら、文字と数字の一覧表らしい薄い木札を手渡してくれた。
「こりぇは……」
「近所の子ども達に渡しているものですので、遠慮なさらずとも大丈夫です」
「本当に、あいがとうごじゃいましゅ!」
お嬢様らしくない――頬を紅潮させながら満面の笑みを浮かべる様子を見て、ダフニー夫人は苦笑いをした。初めて見る子どもらしい表情だ、と思ったから。
「またいつでもいらして下さって結構ですよ。大人しくされてましたし、妹君がご一緒の方が兄君もきちんとお座りになっていられるようですからね」
いつの間にか移動しているブライアンのいるであろう、大広間の方向を見ては小さなため息をついた。
「あい!」
頭を下げ、部屋に戻りながら、そっと木札と石板を撫でる。ロサはそんなマグノリアの様子をじっと見ていた。
思えば夫人は、始めから見定める様な確認するような視線を投げかけていた。服装や雰囲気などから、きっと何かを感じ、察したのだろうかと推測をする。
何の関係もない大人が……この世界に来て初めてだ。本物の、心からの気遣いを受けた。
ちょっとの時間の関わりでしかない相手が気を遣わせないように、しかし最大限の心遣いを示してくれたことが、マグノリアには殊の外嬉しかった。
心は大人だけど、疎外されて嬉しいわけではない。子どもになってしまったのは身体だけでなく心もなのか……真っ暗なベッドの中や明け方の部屋の中で一人、傷ついた気持ちに追いつかないときがある。
いきなり知らない場所で子どもになってしまい、生まれた先で両親には存在をないものとして扱われ。兄には見下され……侍女達はそれなりに優しく対応してくれるが、腹心の筈であるロサは、誰かの指示なのかもしくは考えがあってなのかはわからないが、一物抱えて接しているように見えた。
積極的、消極的に拘わらず、敵意ばかりの世界。
……もし両親が愛情深かったとしたら、この世界で子どもとして一から生きていくことを選択したかもしれない。
兄が心を砕いてくれたなら、拠りどころとして頑張ろうと思えたかもしれない。
実質育ててくれているロサが、本心から味方の大人なら。この世界でも大丈夫と笑って、未来への希望を持つことが出来たかもしれない。
出来ない自分を、誰かのせいと言い訳にしてはいけない。
人間、誰だっていつだって、やれる範囲の中で最善を尽くすのだ。
……だけど。物理的には三歳でしかないマグノリアが、見知らぬ世界で誰も頼れないというのは、考えてしまえばとてつもなく恐ろしいことだ。溢れだしそうな理不尽への嘆きと愚痴を、中身が大人であるからこそ出来る理解と諦めと、ちょっとの矜持で無理やり抑え込んでいるに過ぎない。恐怖だからこそ、立ち止まってなどいられないのだ。泣いても何も解決しない。不条理なそれらに、怒りに、身を任せる時間すらも惜しい。
「……ロサ」
静かに石板を差し出す。夫人の気持ちだけを受け取れればいい。
そんな諦観したマグノリアとは対照的に、ロサは静かに瞠目した。
「お嬢様……?」
「誰かに、わたちにこういう物を渡ちてはいけにゃいと、止められていりゅのではにゃいでしゅか? あなたが叱りゃれることは本意ではあいましぇん」
ロサは凪いだ瞳のマグノリアをみつめながら、きゅっと胸の前で指を握り込むと、ゆっくりと左右に首を振った。
何度も紙をと言っても、一向に替わりのものすら差し出されなかったこと。お願いしなければ、マナーすらも教えてもらえていなかったこと。こちらが働き掛けなければ、侍女の三人以外誰とも接点がなかったこと。
塞いだ顔をすると、笑顔『だけ』を注意されること。
……まるで人形を育てているみたいだ。
ロサが独断でしているとは考え難い。誰かに指示されているか、意を汲んでそうしているのか。両親に放置されているから蔑ろにしてやると悪意を持って行うには、彼女は善良過ぎる気がする。
「……いいえ。いいえ、そのようなことは。折角夫人が文字表を下さいましたし、これでお勉強なさいませ」
ロサは儚く微笑むと、大丈夫だと言わんばかりに力強く頷いた。
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文字表は、一日もしないうちに覚えてしまった。そう、マグノリアは元日本人である。
ひらがな・カタカナの五十音は言うに及ばず、漢字数千字を普通に覚え使い熟すという教育がなされる民族だ。たったの三十字(この世界のアルファベットもどきは三十字だった)。数字も基本十個の数字を組み合わせる程度で……ましてやどこかで見たことがある文字だ。瞬殺である。
ただ、アルファベットに似ているということは表音文字だろう。表意文字とは違い、雰囲気で読んだり理解することが難しいとも言える。ある程度の規則性はあるだろうが、それを身につけるまでは手探りだし丸暗記になるだろう。膨大な単語を覚えるのはそれなりに手間が掛かりそうだとため息をついた。
ダフニー夫人の授業には、毎回というのは流石に引率する侍女達にもマグノリア的にも憚られ、二・三回に一度の割合でお邪魔している。
質問や発言をしたいのは山々だけども、どう考えても三歳児にそぐわないものになってしまいそうだし、第一、正式に教えを乞うている身でもない。謂わば、無料受講を見逃して貰っている立場なのである。ちゃんと学習した方が良いのはブライアンでもあるし、ここはグッと我慢我慢……と思っている。
指定席となりつつある兄の隣に座り、授業を受ける様子には違和感がない。
集中力がないブライアンに比べて、鬼気迫るような表情で授業を受けるマグノリアに、正直、侍女達もダフニー夫人も感心と称賛の念を持っている。
……そんな周りの様子を感じているブライアンは、正直面白くない。
元々両親の影響もあってか、彼はマグノリアに対してあまり良い感情を持っていない。常に自分が一番でありたい少年は、度々やって来ては先生に褒められる妹が疎ましくてしょうがないのだ。
そしてもう一人。たった一人の正式なマグノリア付きであるロサも、今の様子にうっすらと危機感を抱いていた。両親に疎まれている少女を守る為には、目立たずひっそりと、隠れるように育てなければいけない。
自分には、根本的にはマグノリアを助ける力はない。それならば、長い人生を出来るだけ安全に暮らせる術を身につけさせた方が良い。――そうロサは考えている。
ほんの一か月半前まで、マグノリアはとても大人しい、穏やかな子どもだった。
だがある日を境に、ガラリと性格を変えてしまった。
表面上変わったところはない。寧ろ、駄目なものや無理なことには滅多にワガママを言わなくなり、こちらを思い遣るような言動を見せるようになった。
まず、両親に会いたいと駄々を捏ねることが一切無くなり、替わりにマナーを教えるようにと言って来た。いつも大人しく座っていた筈が、自分たち侍女に沢山の質問を浴びせかけ、何かを確認しているような様子を見せ始めた。こちらが促さなければ外へ出ることすら無かったのに、自分から頻繁に庭に出向くようになった。そして一旦廊下へ出れば、好機とばかりに色々な場所を見たがる。
すれ違う下働きの者を以前のように避けるのではなく、労い、笑顔で積極的に話し掛け、慣れると自分達へとは違う質問を浴びせるようになった。
紙と書くものが欲しいと言われ、屋敷の外に出ることは出来ないのかと請われ。
兄妹仲が悪く、苦手だった筈のブライアンとお茶会をしたいと請われ。兄君に嫌味を言われれば今までのように涙を浮かべるでもなく笑って受け流し。
手伝いでマグノリアにつくふたりの侍女にも、部屋の外へあまり出さないように、余計なことは答えないようにと釘を刺したが、怪訝そうな顔をされて理由を尋ねられた。
そして、屋敷に雇われるときに旦那様や家令に言い含められる『当家の娘について他言はしない』という契約の内容にも疑問を呈された。
そんなことがあってか、漂う侍女間の微妙な緊張感を察すると。
マグノリアはロサには何も尋ねることは無くなり、何かを考えるかのようにずっと窓の外を見るようになった。頭の中で綴りを反復しているのだが、ロサは知る由もない。そして、ロサの休憩や休日などに庭や屋敷内の散策へ出向き、自分の疑問を確認する行動を起こすようになった。
そして今。いつの間にかダフニー夫人の許しを得て兄君と同じ授業を、兄君よりも理解して聴いている。きっと、近いうちに見つかってしまう。どんな未来が待っているのか、想像がつかない。下手をしたら……瑕疵をつけて遠くへ嫁がされてしまうかもしれない。そうしたら、もう二度と屋敷の誰とも逢うことはないだろう。
可哀想な侯爵令嬢をどう守ればよいのか、ロサは途方に暮れていた。
一方のマグノリアは、ダフニー夫人から渡された文字表を写したり、ダミーのお絵描きをしたりしながら心の中でブライアンと一緒に課題をし、覚えた単語の書き取りをして『幼女が兄の真似をして勉強をしている風』を強く装いながら、夫人の齎してくれる知識を貪欲に聞きかじっていた。
まだ基礎力が相変わらずな兄にそれらを施しながら、少しずつ、歴史・文法・算術・詩歌・文学・音楽史……ときには論理の初歩や哲学的な話へと無理ない範囲で伸びていくダフニー夫人の手腕に、いたく感心をしていた。
この世界は解らないことだらけだけど、知識欲が旺盛になってしまったらしいマグノリアにとって、知らない文学や詩歌、哲学の類は『面白いもの』であった。
やることが他に何もないということもあるし、不安からの逃避もあるのだろう。更には圧倒的に足りない娯楽のせいか、面白いほどに知識が頭に沁み込んで行く。
ブライアン相手の講義であるから、簡単かつわかり易い。兄は悪戦苦闘しつつ勉強しながら、一つの題材で他の教科の基礎力も少しずつ磨かれて行くという寸法である。
学習指導要領なんてものはなく、『学校』や『基礎知識』の示すものが曖昧なこの世界において、現実的な読み書き計算、マナーに加え、貴族として浅く広い教養を身につけるという方法は、なかなか現実に沿った選択なのかもしれなかった。
何かに興味を持ち、より深い教養を身につける手助けと下準備をし、心への種を植える。
多分そういうことなのだろう。ダフニー夫人は良き教師であった。侍女達の話によれば、若い頃は王宮で女官をしていたそうだ。
元々貴族の家庭教師は、自分の専門について教えることが多い。貴婦人である貴族女性は、マナーや行儀を教えることが多いそうで、音楽や文学など、他にも得意なものがあれば加えることもあるらしい。
歴史や算術など他の教科は、本来学者や元教師など、専門家の分野なのだ。
わざわざ専門家にご教授願う程の能力と興味が、ブライアンにあるのかは甚だ疑問だけれども……多くの教科を解り易く、かみ砕いて教える夫人の能力は大したもんだと思う。
マグノリアが『つもり風』を装っていることも、薄々気が付いているようで。
「お嬢様にも差し上げましょうね」なんて言いながら、兄のそれより詳しい文法の説明やら、読んでおくべき本のリストなどを、基礎的な課題のプリントならぬ木札に紛れ込ませて渡してくれる。
……マグノリアは良くわからないと、さり気なく視線を外して誤魔化しているが、「その内お役に立てば」そう、意味あり気に微笑んでくる。コワい。けど有難い。
あまり頻繁に出入りすると、あっさり足がつきそうだなと考えながら、アスカルドの文字でアスカルドの文法に則って簡単な作文を書く。我ながらだいぶ上達したとマグノリアは思う。この世界で記憶が朧げながらも三年、曲がりなりにも生活していたお陰で一応話せるからなのか。はたまた日本での知識があるからなのか。もしくはマグノリアの基本スペックが高性能なのか。説明を受ければ、当たり前のように簡単に身についた。
この様子なら、ボキャブラリーが増えれば、ある程度は本から知識を得ることも容易いだろう。
将来的にこのまま目覚めず、転生してしまった世界(仮)で生きて行く場合、貴族として生きて行くことと平民として生きて行くこと、両方を想定して学ばねばならない。
基本は平民として生きて行こうと考えている。
のびのびウハウハお姫様ライフも捨てがたいが、この両親の下ではそう遠くない未来に、とんでもないところに嫁に出される未来しか想像出来ず、のびのびもウハウハも出来ないと思っているからだ。
元々日本で平民として暮らしていたのだから、こちらの平民の常識を身につければ何とかなるのではないかと思う……おおよそ知る家事や労働が二十一世紀の日本に比べて、べらぼうに重労働であることは想像に難くないが。
どう転んでも根っからの貴族ではないマグノリアにとって、貴族社会に馴染んで社交界で生きて行く、という未来が全く思い浮かばない。それよりも、平民として生きるという選択は、至極当然のように感じた。
願わくは、地球の中世のように暗黒時代ではなく、ある程度衛生的で医術が発達していてくれることを祈るばかりだ。
一番面倒なのは、今の忘れられた存在として無教育のまま幼いまま、貴族社会に放り出されてしまう場合だ。無力すぎる。
ライラが教えてくれた教養の座学の範囲は、出来る限り早々に学んでしまいたい。
……勉強が出来たからどうとも言えないのだが、知っている筈の知識は持っていた方が弱みが少ないだろう。何につけ誤魔化される範囲も少なくて済む筈だ。前世での知識の必要性程には、一般的な貴族の、それも嫡子でもない子女には求められていないだろうと思う。それぞれの分野を数十冊程読み込めば、取り繕えるくらいの付け焼き刃程度には何とかなるであろうと考える。
無理強いされない限り、貴族が通うという王立学院に行くつもりもない。両親も多分、入学させるつもりもないであろう。
……最終手段は修道院だ。
ラノベでは悪役令嬢が幽閉される場所にされているが、地球の中世・近世の修道院は、結構女性に寄り添った施設であり、受け皿でもあった筈。
勿論幽閉先の一つでもあっただろうけど、本当の幽閉は屋敷の離れや収容塔や牢獄だ。
修道院は礼儀の学習場所であり、駆け込み寺であり、炊き出し支給場所であり、老人ホームであり。「困ったら修道院」的な――この世界ではどうなんだろう。
以前に、この世界は『修道院から結婚』だと瑕疵になる、みたいなことを聞いた気がするが……『修道院から就職』という選択肢は存在しないのだろうか。
(今度ライラにでも聞いてみよう)
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「おおぅ……」
デイジーに図書室に連れて来てもらう。ここまで長い道のりだった!
武家の家門と聞いてあまり期待していなかったが、意外にも沢山の蔵書があった。
ギルモア家はそこそこ古い家柄らしく、かなり年代を経た書物や歴史書、領地・領政に関するもの、それぞれの時代の当主が好んだのか、文学や芸術的な分野のもの……そして、武家らしく沢山の兵法書が揃えられていた。
雰囲気は、小中学校の図書室という感じだろうか。
柔らかなカーテンに遮られた光と、穏やかにたゆたう小さな埃と。古い本独特の匂いと、嗅いだことがないこの匂いは羊皮紙なのだろうかと自らに問う。
何故か懐かしいような、安心する香りがする。
壁に作り付けられた高い、大きな本棚が隙間なく並ぶ。四、五十帖程の部屋の端の方に、こぢんまりと置かれた机。間を縫うように遮るように、幾つかの設置式の本棚が人が通れるくらいの隙間を開けては背中合わせに置かれており、それぞれに沢山の蔵書が並んでいた。
中二階になった螺旋階段の上にも机と本棚があるらしく、階段を見上げながらマグノリアは小さく息を吐いた。
(図書室に螺旋階段。すっごい素敵……!)
一般的な貴族の館の蔵書がどんなものなのかはわからないけど、取り敢えず小棚一つとか、スカスカではなく、ちゃんと充分過ぎる蔵書を目の前に安堵した。
「鍵が掛かった書棚以外の本は、自由に借りられるそうですよ」
「わたちが借りても大丈夫かちら……」
「お嬢様はご本を汚したりされないでしょうから、大丈夫ですよ」
ぐるりとゆっくり見て回ると、棚の下の端の方に、誰かの使ったものらしい王立学院の名の入った本がある。
(……教科書なのかなぁ)
顎の下を指で摘まみながら考える。多分、取り敢えずこれらを読んでみる方が効率がよいだろうと思い、数冊を手に取って机の上に置く。絵本のような類はなく、仕方なくダミーとして、また物の名前を覚える為にもと園芸書のような図版が多い本を一冊選んだ。
「デイジーも本、持って行くよね? そりぇともここで少し読んでかりゃ帰りゅ?」
「いえ、時間が掛かってしまうといけませんから、決まったらお部屋へ帰りましょう」
埃っぽい図書室に長居は無用と、デイジーはマグノリアが選んだ本を手に取る。
「流石にお子様が読む本は、ここには殆どないですからねぇ……あら、これは難しいのではないですか?」
教科書を見て、申し訳なげにマグノリアを見て眉を下げる。
「お兄しゃまと一緒でしゅ!」
幼女の真似したがりを演じておく。まあ、と華やかな笑みを浮かべると、
「よくお勉強の本とわかりましたね! 王立学院の前期課程の教科書ですねぇ……」
中身をパラパラと捲って確認する。そして、こちらもいいかもしれませんよと言って、デイジーが見繕った短い物語も加えてくれた。
「重いよね? 手ちゅだうよ!」
手を伸ばすと、キョトンとした後にくすぐったそうに笑って、薄めの本を一冊手に持たせてくれた。
幼女のお手伝い心を汲んでくれたのであろう。優しくて、なんて可愛いんだろう。
思わずニンマリしてしまった。
数日を掛けて、学院の各教科の教科書を前期・後期の両方を読んだ。
幸いと言うべきか、国語も算術も自然科学もおおよそ小学生、良くて中学生レベルの内容であった。手応えがないとも言えるが、一度読めば覚え返すこともなく問題がない事が判ったのはとても良かった。
この世界特有の内容のもの――歴史や地理、領政、法律は初めから覚える必要がありそうだが、元々求められている学問レベルがさして高くはないので、一般教養レベルの扱いならば、何度か教科書を読み込めば取り繕える範囲だろうと思う。後はゆっくりと必要な関連書を読み込んで行けばいいだろう。
流石に外国語は少々遣り込む必要があると考え、ダフニー夫人の授業も本では勉強しきれない、マナーと外国語に多く出入りするようにしている。
教養的な科目である文学、詩歌、哲学などの教科書は、物理的な娯楽のない環境下においてただの楽しめるご褒美読書になっている有様だった。小説やポエム、自己啓発書やエッセイを読む感じである。そしてご褒美なので、覚えようと思わなくても勝手に頭に入る。
この間、三か月。早いもので、こちらで目覚めてから季節が一つが過ぎた。
季節はいつの間にか、秋に変わろうとしている。帰る帰れないについては考えるのを止め、取り敢えず目の前の問題に取り組むことにシフトするしかないと結論付けた。
ふとしたときに、日本の家族や職場はどうなっているのだろうとか、マンションの私の部屋はどうしたんだろうとか……あちらの身体はどうなったんだろう――と、取り留めもなく考えることがあるが。
自分の意志でどうしようも出来ないことを考えても、現にどうしようもない。ならば目の前にある出来ることに集中しなければ、精神がどうにかなってしまいそうでもあった。
この頃には侍女たちには「勉強が大好きな子」という変人認識になったようで、兄の授業に潜り込まないときは図書室に籠るようになった。部屋にも持ち帰るが、あんまりにも専門的な本ばかり持ち出すと怪しまれるので図書室で読み込む為だ。……充分に違和感のある幼女だとは思うが、大っぴら過ぎないよう、一応の配慮をしている。
大人しくしているので彼女たちも息抜きに充てているのか、遠巻きに一人になれるのも有難い。年がら年中誰かに近くで見ていられるのも、正直息が詰まるのだ。
ふと聞きなれない足音が聞こえ、静かな扉の開閉音がした。
ふわり……嗅いだことがあると記憶が反応する、グリーンノートの香りが近づいて来る。
(――誰だ?)
咄嗟にダミーの図鑑で読んでいた本を上下に挟み込み、上に置いた本を開く。
開いたページには、豆類の一覧が写実的に描かれているのを瞳の端が捉えた。
「……おや、マグノリア?」
柔らかな金を溶かし込んだような緩くウエーブする淡い金髪を後ろで括り、少し垂れ気味な茶色い瞳の二重は、成程、優男。微笑んだように綻んだ唇とあいまって、一見おっとりとしてすら見える。
ジェラルド・サイラス・ギルモア侯爵。マグノリアの父親だ。
温かみのある色彩と華美過ぎない上品な華やかさ、そして柔らかな風貌の為か、日本人としてのマグノリアが覚醒(?)してから初めて見る父親は、年齢よりも若く見える。記憶通りなかなかのハンサムだ。
言うなれば大人っぽさが混じり始めた、癒し系イケメンアイドルっぽい。
年齢の割に少し高めに感じる声は、それでもしっとりと落ち着いたトーンで。イケボだ。正統派の王子様ボイスってやつ。
(二児の父が王子様ボイスって! オッサンの声じゃないなんて!!)