第一話 事案(?)な家族
目覚めて一週間が経った。
長い長い夢で、いつもの狭いけど落ち着く部屋で目が覚めるのでは――――と毎日毎日思っていたが。未だその兆候はない。
ここでの極々普通の日常が、一分一秒、当たり前に流れている。
マグノリア・ギルモアは、記憶によれば三歳だった。
この世界で初めて会った人間が侍女だったので、お嬢様なのだろうとは思ったが。記憶をたどれば『ギルモアこうしゃくけ』と浮かんだ。
こうしゃく家……公爵なのか侯爵なのか。三歳のマグノリアには判らないようだが、どちらにしろ凄いご身分らしい。
あくまで地球と同じ階級基準で考えるならば、だけど。もしも公爵家ならば、地球基準ならば傍系王族かもしれない。ゾッとする。
お嬢様というよりお姫様だろう。意味がわからん。
日本総中流家庭なんて言葉があったけど、いやいや、現代の日本にも現実には高低差はだいぶあったわけで。貧富の差は勿論、目に見えるような見えないような、日常にも時折ニュースでも顔を覗かせる特権階級格差。
高級住宅街の大豪邸に住む人々。
タワーマンションのペントハウスで、何百万円もするワインを何本も開け、ご機嫌なパーリィ☆ナイツを繰り広げる信じられないようなお金持ちな人たちの話。
アッパーで、ラグジュアリーで、マーベラスな生活?(どんなや!)
そうかと思えば、貧困の為に給食しか満足に食べられない子どものニュースとか。
保険証が無く、病気にも拘わらず病院にかかれない人々とか。
綱渡りのその日暮らしをする家族の記事とか。
慎ましく日々を営む、貧しい生活。
いつの間にか絡め取られるように落ちていく人々。何故か当たり前のように被せられる冤罪があれば。
希望すれば大概のことが無かったことに出来る、特権階級故に罰せられない、秘密裏に特別な立場や権力を持つ人たち然り。
日本にも表立った身分差はないけど、高低差はきっちりカッチリあったのだ。
お世辞にも元のマグノリアの家はセレブとはほど遠く……ミドルもミドル、テレビや雑誌で見た様々な節約を重ねる母親が家を切り盛りする、正真正銘・正統正式な(?)中流家庭出身だ。
だから、貴族の生活なんて全然わからない。
昔読んだ、ヨーロッパが舞台の歴史漫画を思い浮かべる。
舞踏会、決闘、伝染病。毒に剣、戦争と宗教、育ちゆく思想。
封建社会、ギルド、荘園制度。十字軍、騎士、絶対王政。
はたまた広大な後宮。ひしめく陰謀と光と影――――
そう、そんなの漫画や映画、小説の世界でしかない。
時代や国によってマチマチだろうけど、現実には何もわからない。
遥か昔の『なんちゃってヨーロッパ』のキーワードしか出てこない。
(ましてここ、多分地球じゃなさそうだし)
ため息しか出ない。
出る出ないと言えば、出てきたナイフとフォークに一瞬慄いた食事だったが、取り敢えず継ぎ接ぎだらけの付け焼き刃なマナーを、過去のマナー本を読んだ記憶から引っ張り出してきた程度で事足りてホッとしたのは目覚めた初日。
なまじ大人ではなく幼児で助かったと思ったのはご愛敬という奴か。
何も知らなくても、これから覚えればよいからだ――――これからもこの生活が続くとするならばだが。
喋れるから字も読めるのかと思ったが、マグノリアの記憶に『文字』は無かった。まだ習っていないらしい。
マグノリアの世界は狭い。
ほぼ、自分の部屋と、たまに庭の散歩。
まだ小さいからなのか、習い事の類はない。
(お金持ちなのに、子どもの教育には熱心な家庭じゃないのかなぁ)
家庭によっては零歳から始められる日本の習い事事情を思い出しては、首を捻る。
年齢的に発達度合いのばらつきは大きいので、文字に興味のない子なら見向きもしない反面、三歳程になれば自分の名前くらい書ける子もそれなりにいるだろうに。
この世界は幼児教育は行わないのだろうかと部屋を見渡すが、何もない。
本音としては、暇過ぎるからテレビとは言わないまでも、絵本とかお絵描き帳とかぬり絵とか、何かあったらとても助かるのにと思う。
日本でのマグノリアは幼児教育的な習い事はしていなかったものの、比較的厳しく育てられた記憶がある。二歳頃にはひらがなやカタカナではあるが、自分や家族の名前、特定の単語の幾つかを――『いぬ』、『ねこ』、『はっぱ』程度だが――ヨレヨレの字で書いていたと思う。読みも然りで、短く簡単な絵本くらいは自分で読んでいた筈だ。小さな本箱から絵本を選んでは、読める文字をたどたどしく指で拾っては追った記憶がある。
そのせいもあってか、色々な知識を自分で取り込むことに慣れており、書籍に限らずネットやテレビで気になる情報があると自らひと通り調べる癖がついていた。
(それはともかく……貴族ともなれば、小さい頃から貴人らしい教育をされてそうなのに)
別に勉強が好きなわけじゃないけど。落ち着かない豪奢なお部屋で、延々と何もしないっていうのも結構ツラいのだ。
そしてこの世界の家族について。
父親はジェラルド・サイラス・ギルモア。二十九歳。
まさかの年下(中身の年齢は)である。
……何処かで聞いたことのある名前だなぁとモヤモヤしつつも、まあ父親だからなぁ、名前くらい聞いたことあるに決まってるか。そう納得する。
マグノリアの記憶では、淡い金髪に優しそうな茶色の瞳を持つ紳士で、領地経営を執り行いながら、城で文官としても勤めているらしい。なかなか働き者のようだ。
母親はウィステリア・ギルモア。二十六歳。若い。
薄い茶髪に紺碧色の美しい瞳をした有閑マダムだ。
何でだろう、母親の記憶が父のそれより少ない。育児は女の仕事なんて言わないけど、現実的に関わる比重はどうしたって母親が多い。ましてや乳幼児となれば尚更だ。
しかし名前と顔以外、なんの知識もない。
貴族だからなのか、もしくはマグノリアはお父さんっ子なのだろうかと記憶を辿る。
そしてもうひとり。
マグノリアには六歳差の兄が一人おり、名前はブライアン・クリス・ギルモア。ギルモア家の嫡男だ。
父親譲りの金髪と、母親に似た瑠璃色の瞳の、なかなか美少年な九歳児。
ナマの金髪碧眼である。王子様カラーである。
優美な姿の両親より僅かに野性味がある勝気な表情は、もしかすると祖父母から受け継いだ、本来ギルモアが持ちうる特色なのかもしれない。
……しかし。
この一週間、その誰とも会っていない。貴族の家族関係って、こんなにも希薄なものなのだろうかと再び首を捻った。
することもないので、歴史オタクの同級生が話していた『貴族の生活』だったか。記憶を掘り起こす。……確か、社交が忙しい時期は、何週間も会わないこともあると言っていたが。それって全員となのだろうかと記憶の中の同級生に問う。
(まあ、ボロが出ないと言えば出ないのだろうけども)
お世話係が居るとはいえほっぽり投げ過ぎなのではないだろうかと、成人した記憶がある身としては子どもの情操教育が心配になるのは仕方がないであろう。
中身過ぎている方のアラサーとしては、今の無防備な状態で、知らない人でしかない彼らが構ってくれなくても全然大丈夫だけれど。正直助かるけれどもと思いつつ。
『三歳のマグノリア』は、淋しかっただろうなぁ、とも思う。
二十一世紀の日本だったら、お金は掛けてるけれどもネグレクト予備軍だ。
気になって三度程ロサに聞いてみたが、
「お父様はお仕事でお忙しい。お母様はお茶会(もしくは夜会)で……」
との毎回同じ答えに、聞くのを止めた。
――企業戦士なんて言う死語……今風(?)に言えば「社畜」なんて言葉を知る身としては、仕事は百歩譲ってまだわかる。が、茶会や夜会にくり出す時間があるのなら――いや、貴族だから家の義務とか、行かなきゃいけない理由があるのかもしれないけど――いくら何でも子どもの様子を、ひと目見に来るくらいの暇はあるだろうと思うのだ。
親戚付き合いやご近所付き合い(?)を一身に任される奥さんというのも、大変だとは理解するが。
(朝から夜中まで忙しいの? ほんの数分の隙間時間もないくらいに?)
絶対嘘だろ!
そして、兄だ。
窓の外で元気に剣の練習をする少年を見遣る。
遠目なのでよくはわからないが、質の良い服であるのが見て取れる。
マグノリアは、若草色のスカートに白い丸襟の付いたワンピースであるが、粗末な木綿か麻のそれである。
動き易いので全然文句はない。ないが。
小さいから汚すから……と言われればそうかもしれないが、『お姫様』の着るものとしてはだいぶ質素であると思うのだ。ネグリジェに比べ結構ゴワツキがある。
自分の着ている服と部屋を交互に見比べる……言わずもがな、部屋に備え付けられた豪奢な家具との対比が酷い。
多分、窓に掛かってるカーテンの方が上質な布である。
多分、丈夫に作られた侍女のお仕着せの方が、布質も仕立ても良さそうなくらいだ。
お出かけのときに着るのであろうか、作らないわけにはいかなかったのかわからないが、袖を通していなさそうなフリフリの豪華なドレスが二枚(生地の感じから春夏用と秋冬用だろう)と、数枚の質素なワンピース。
それらが大きなウォークインクローゼットの中に、スッカスカに収まってる。
それらを見て、マグノリアは腕を組む。
(……財政難?)
もしくは、
「疎まりぇてりゅ?」
******
――――そして。目覚めて一か月が経った。
夢はまだ覚めないらしい。以下略。
――――『万一これが現実だったら』ということを考えなくてはならない気がする。
どんなに長かろうとも、常識的には夢落ちが現実的ではあるのだけれども。
そう、いつだって世界は不思議で満ちているのだから。
あれから何度か兄に会ったが、うるさいくらいに少年だった。だが両親には未だ一度も会ってない。
(もう、これは完璧にアウェイだ)
正しく対応するために、現状をきちんと整理しなくてはならない。
色々と質問するマグノリアに怪訝そうにしながら答えるロサを見て、ヤバい、と焦り。
不自然じゃない程度に、他のお世話係にも分散して質問をし。
ときに使用人達の噂話に聞き耳を立て、迷った振りをして屋敷の中を調べ回り、庭のお散歩ついでに下働きの輪に紛れ込む。
そうしてマグノリアの持つ記憶や、新しい知識を補完していった。
結論から言うと、この世界は地球ではない。
……少なくとも二十一世紀の地球ではない。
まず、アスカルド王国という国。
この国の名前らしいが、今まで聞いたことがない。
国連に加盟している国全部を知っているわけじゃないけれど、ある程度の文化水準のある国であるにもかかわらず、記憶に掠りもしないのは不自然だ。
そして今がいつなのか。聞いたら、知らない年号なのか西暦なのかで答えられた。
テレビもラジオもネットもない……それどころか、多分、電気がないのだ。部屋の光源は蠟燭やランプである。びっくりだ。
それが国の王都の貴族の館で、である。
電車もバスも、車もない。
替わりに馬、もしくは馬車。もしくは徒歩である。
無い無い尽くしでそれはそれは、往年の某東北出身大物歌手のヒット曲が頭の中を回りそうな勢いである。
閑話休題。
着ている服や名前から受ける印象と生活の様子から見て、どこかの世界の、近世もしくは中世ヨーロッパのような時代のどこかの国、ではないだろうか。
英語にドイツ語、フランス語……っぽい言語。説明するならば、地球の幾つかの国の言語が混ざりあっているように感じる。
そして身分。
やはり平民と貴族がいるらしい。無礼即打首とまではならないものの、身分差はそれなりであると聞いた。
現代日本人の感覚では、暮らしにくい世界だなと思う。
そして、ギルモア家の爵位は侯爵家だった。
なかなかどうして、名門の家柄であるらしい。祖父が武勲を挙げ、褒美に他の爵位と領地が回ってきたらしく。そちらを祖父が拝命するにあたり、結構前に本元のギルモアの爵位一式を嫡男であった父が譲り受け、継いでいるとのことだ。
領主の仕事と城勤めの二足のわらじで、記憶通りそれなりに忙しいことは本当のようである。そんな中でも母と一緒に社交にも出ているらしく、世間的には愛妻家で通っているとのことであった。
母はこれまた名門伯爵家の出身で、社交が大好きな女性とのこと。
なかなかの美姫だったらしく(今でも朧げな記憶では美人だ)、若いころは社交界の三花? 三大名花? とにかく社交界で綺麗な女性を花に例えるのだそうで、そんな風に呼ばれていた一人だったそうだ。
蝶よ花よとうたわれた正真正銘のお嬢様は、家庭や子どもを顧みるよりちやほやされる方が楽しいのだろう。
人間、誰しも褒められる方が嬉しい。自己顕示欲が大きいのなら尚更だ。
もしかしたらこの世界、貴婦人は社交に精を出すのが当たり前なのかもしれないので、お口バッテンであるが。
(この世界の寿命がどのくらいなのかはわからないけど、まだそれなりに若いのだろうしね)
やっても褒められない(?)家のことなんかより、お友達と遊び歩く方が好きな人はどの世界にもいる。
兄と両親は、びっくりなことにそれなりに顔を合わせているらしく、数日前に母から珍しいお菓子を貰ったと自慢していた。
……小さい妹に分けるでも気遣いするでもなく、マウントを取ってくる姿は子どもらしい子どものようである。
コイツも味方ではないということかと、マグノリアは渋い顔をした。
(地球で兄は妹を溺愛するって言ってた奴、誰だ!? 出てこい!)
教育について確認すれば、各家庭によるそうであるが、十三歳から貴族の子の多くは王都にある王立学院に入学し、十八歳で卒業すると説明された。前期三年・後期三年。地球でいう中学と高校のようなものであろうかと推測する。
王立学院の中に『専科』と呼ばれる、大学と大学院が混ざったような研究所らしきものがあり、研究者になる人は学院の専科に残り、そこで研究をしたり教鞭をとったりするのだとも説明された。
更に義務教育なんて概念がない世界では、城へ勤めない人や女子は学院に入学しない人もそれなりに居るそうで。幼少期や学院未入学者には各家庭で教師を雇い、各々、必要なものや基本的な学問を学ばせるそうだ。
ある程度の家の人間は、小さな頃から身につけるのに時間が掛かり、かつ社交に必要なマナーや音楽、ダンスや外国語を学ぶそうである。
――――まだお目通りしていないから、本当のところの両親の性質は解らないが。
こりゃ、早いところ撤退を考えた方が良さそうだと自分に言い聞かせる。
怪しい香りがプンプン漂っている。
完璧にハブられているっぽい。
昔の貴族の女子なんて(嘘か本当かは知らんが)、家の駒にされるのが殆どだったと聞いたことがある。あまり愛情が無さそうな家族からすると、家への利益重視ばかりで、下手すればトンデモなところへ嫁がされる可能性すらある……かもしれない。
マグノリアにはケチっている養育費から鑑みても、なまじお金を掛けられてたら、回収せんとばかりに何を要求されるのか解ったものじゃない。
取り敢えず、衣食住は賄ってもらっている。
……よくわからない現状で、ベーシックインカムがしっかりしてるのは素直に有難い。
うん。
自立が早そうな、元居た世界より何百年も昔みたいなこの世界の時間は、有限であると幼心(?)に刻んだ。
******
ロサがお休みのときや休憩のときなどに、シフト制(?)で普段は屋敷の別の部署で仕事をしている、デイジーとライラという侍女が交替でついてくれることが多い。
デイジーは平民の裕福な商家のお嬢さんで十七歳。ライラは子爵家のご令嬢で十八歳だそうだ。
豪商の娘や低位貴族の子女が身分の高い家門の侍女になり、行儀見習いを受けたとして嫁ぐときの箔付けにするらしい。
なるほど。ありそうである。
ふたりとも十代の娘さんらしく朗らかだ。沢山の愛情を受けて育った彼女たちには裏表がない。侯爵家として充分吟味された人柄、高い能力ではあるけれど、ある意味人生の綺麗なところしか知らない善良で愛らしい真っ新なお嬢様たちだ。
二十一世紀の日本で、情報にもそれなりの現実にもまみれた……中身アラサーの、無垢な美幼女の皮を被ったオバはんが頑張って作ったキラキラした瞳(※当社比)で質問すると、「好奇心旺盛なのですね」と言って、微笑ましそうに色々と教えてくれる。有難い。
(やっぱ女の子は素直が一番だよね! オバちゃんそう思う!!)
オバちゃんのすさんだ気持ちが、可愛い女の子たちの笑顔で洗われるようだ。
そう、ホクホクしながら情報を搾取……いや、徴収する。
デイジーには、平民の生活や仕事の種類、平民女性の色々、街の様子やしきたりやら何やらかを教えてもらっている。
平民の人たちは、基本小さい頃(十歳前後)に本格的に見習いとして就職するらしく。
十五・六歳で職人等としてある程度の仕事を任されるようになったり、結婚したり……と。まあ、大人とみなされるらしい。
法律的には平民も貴族も十八歳で成人らしいが、そこは年齢縛りの罰則とかがあるわけでもなく。別段強い拘束力はないそうで、結婚も飲酒も特に年齢に関係はないとのことだ。
(十五か……)
盗んだバイクで――いや、馬か?――荒ぶり走り出すお年頃に、一人前にカウントとは。
いやはや。人生早いなぁ。生き急いでいるなぁと遠い目をする。
三十過ぎても、定職には就いてるけど(多分)結婚もせず(確か)、割に自由にフラフラしていた……ような?
三十代も半ばで結婚するどころか、それ以上の人たちも増えた前世日本時代。
マグノリアが特別行き遅れというわけでもなければ、入籍はせず事実婚を選択する人、はたまた生涯独身を貫くことすらも特別というわけでもなかった時代だ。生活スタイルも婚姻も、多様性の時代。
そりゃあ、圧倒的にある程度の年齢で結婚するのが大多数ではあったのだが。
だからマグノリアも全然焦ってもおらず、仕事に趣味に、それなりに人生を楽しんでいたのだ。確か。
しかしここに来て、過去のツケを一気に清算させられる勢いなんだろうか……と。
そう思うとため息しか出ない。
ライラには貴族女性の生活や常識なんかを根掘り葉掘り聞いた。必要となる教育や教養の範囲等々。
彼女は音楽が好きということなので、得意の声楽を披露してもらいながら、簡単な楽譜の読み方も教わる。地球のそれと大きく変わらないようでほっとするが、果たしてこの世界の楽器が弾けるかどうかは疑問である。
……一番得意だった(=練習した)楽器はリコーダーである。
そう、小学校ではソプラノリコーダーを。それ以降はアルトリコーダーを。
小学校の鼓笛隊で何度も練習させられた校歌も。ノスタルジックな『コンドルは飛んで行く』も、コミカルな『茶色の小瓶』も。『アマリリス』だって『こきりこ節』だって、今でも指が覚えている……が。この世界にリコーダーはあるのだろうか?
あったとして、一般的にお嬢様が教養として披露が可能な楽器なのか。疑問である。
地球では、演奏家として凄い人達は沢山居たと思うし、子どもの頃大好きだった某教育番組のオープニング曲を奏でるグループもいて、マグノリアは大好きだったのだけど。
でも、お嬢様の得意な楽器には、あまり出てこないような気がするのだ。フルートだとお嬢様っぽいけれども。
(……こんなことなら、お母さんに言われたときに楽器を習っておけばよかった……)
遠い日本で身体を動かすのが好きだったマグノリアは、ピアノか水泳と言われ迷わず水泳を取ったのだった。
(ううぅ……)
芸は身を助けるとはよく言ったものだ。
演奏とか……歌もそれ程上手いわけではない。無理ゲー過ぎるだろうと泣けてくる。
そして。成人は先出の通り十八歳というものの、それ以前に結婚するのも平民と同じく全然アリなそうで。家の都合でだいぶ早くにお輿入れ、なんてことも多々あるらしい。
法律なら、もう少し権限強めでお願いしたかった。何のための法律なのか。
貴族の娘が行儀見習いとして以外に働くことは少なく、「学院卒業と同時に結婚」か、「卒業後行儀見習いをして結婚(ライラがこれ)」「学院に行かず家で教育を施され結婚」のどれからしい。
ごく稀に「修道院で教育され結婚」という家に見放されたか隠された存在か、理由があって天涯孤独か……つまり瑕疵持ちとして認識される、というものもあるそうだ。
例外は、学院で好成績を収めた人が女官として試験を受けて王宮に召し上げられるか、縁故で王宮の女官や侍女になって、自分の家格よりも格上のより良い結婚相手を探したり……なんてことくらいであるらしい。
……すんごい、結婚がついて回る世界だ。
女性の自立がかなり難しい世界なのなら、仕方がないのだろう。国や時代、それぞれで考え方も常識も違うのは地球だって同じことだ。
まかり間違って、トンズラする力を付ける前に嫁に出されてしまったら。十代……まさか、それに満たない年(一桁)で放り出されるとは思いたくない。この世界が許しても、マグノリアの中では犯罪である……そんな状態で貴族の嫁姑戦争に狩り出されたり、ロリコン爺のお嫁さんとか……恐怖以外の何ものでもない。イヤ過ぎる(涙目)。
ロサには両親に恥をかかせないため、行儀やマナーを覚えたいと伝え、初歩的なそれらを学んでいる。
……何というか。色々質問するとロサは違和感を覚えるらしく、怪訝そうな態度を取られることが続いた。元々のマグノリアは大人しく、ぽわぽわした系の子どもだったからだ。
確かに、ぼーっとした性質らしく記憶が朧げ、且つ穴だらけで如何ともしがたい。
多分一番お世話をしてくれている人だからだろう、日本人の記憶が表面化したことで、今までのマグノリアとは様子が違って見えるのだと思う。何か言いたげにみつめられたり、渋られたり。質問の意味や理由を確認されることが多くて、彼女に質問するのは止めることにしたのだ。
ボロを出さない為には、原因から遠ざかる方が良い。
どうせなら必要な別のことに置き換えて、効率化――面倒事の回避と時間の短縮に努めた方が良いだろう。
本来、突っ込んだ内容は家庭教師に教わるそうだが、初歩は乳母や侍女頭など、家や教える子に深く携わる者が教えることもあると聞く。
軒並み積み上がっていくであろう、養育費という名の生活費を返せと言われるようなことがあった場合、負債はなるべく少ない方が良い。
長い間侯爵家に勤めるロサなら、その辺りはバッチリなハズだ。多分。
訝しがる様子に、『お家の為に~、お父様の為に~、お母様の為に~』をくり返して、彼女が納得し易い理由を提示する。
元々は辺境へ移領した祖母(父の母親)の侍女だったそうで、移領の際に慣れたベテランの使用人が何人かこちらに残ったそうだ。本人の事情だったり、新しい当主夫妻のサポートをする為なのだろう。よって、当主家族の名称を出して迷惑を掛けたくないからと言えば、安心するのか笑顔を見せる。
(本来、子に教育を施すことは家を盛り立てる上で大切なことであると思うけどね。それが男子でも、たとえ女子でも)
……子ども、ましてや女子なんて。父親の持ち物的な社会であろうこの世界は、モラハラ対応気味に考えておいた方が心と懐の傷が浅かろうと思うのだ。
折角お姫様並みの境遇に生まれ変わりながら、何とも世知辛いことである。
ここ一か月はため息ばかりが出てしまい、良くないと思うものの、それも仕方ないと思うのだった。
(私、悪くない!)
そして時折、兄を呼んでおやつを食べながら、小さなお茶会ごっこをする。
今まで行き来のなかった兄妹が交流を持つのも不思議がられたので、マナーの練習をしたいからお兄さまに教えてほしいと兄をおだて、周りの侍女たちを無理やり納得させた。
お茶とお菓子を提供しながら、自慢話やマウンティングを聞き流す。
同時に彼のマナーを観察したり、学んでいるという勉強の話などを聞き出す。ケツの穴の小さ……子どもらしい兄の懐柔と情報収集である。
二年程前から本格的に勉強を始めたそうで、教科書を見せてもらったが、並んでいるのはアルファベットに似た文字とギリシャ文字のようなものだった。
数字もほぼギリシャ数字。そして十進法。
――――妙な引っ掛かりを覚えつつ、苦労なく覚えられそうではあると小さく頷いた。
兄はあまり勉強は得意ではないようで、剣やダンスといった身体を動かすものの方が好きだという。わかる。日本でも体育が好きな男子は多かった。
九歳なのにたどたどしい筆跡を見て、跡継ぎよ大丈夫かと思わず不安になるが……ギルモア家は武人として代々王家に仕える家門であり、文官をしている父が珍しいのだそうだ。
(それにしてもこれは……)と思いながら。昔の識字率の変遷、確か日本の寺子屋制度との比較だったか……歴史の授業で浚った朧げな諸外国の数値を思い出し、もし地球と同じような生活・文化水準を経ているのならば、もしや当時の海外(?)の九歳児とはこんなものなのかもしれないと無理やり納得をする。
同時に、普段使う文字や計算などは商人である平民や、使用人である屋敷に仕える低位貴族の方が強いのかもしれないとマグノリアは思った。
とにかく、文字を覚えなければならない。
デイジーとライラに「これは何というの?」「どう書くの?」と聞きながら、身の回りの単語を覚えていく。周りに聞くだけでは欲しい情報を充分に仕入れられないだろうから、出来る範囲で自主学習が出来る状態にしたい。
武家の家門故どの程度収穫があるのかわからないけども、貴族の屋敷なのだから自国の歴史書くらいはあるだろう。
(……あるよね? 脳筋一族とはいえ、トレーニングルームもとい練習場だけではなく、図書室くらいあってほしい……)
そうじゃないと、マグノリアが自力で学ぶという計画の大半が大きく狂ってしまう。
ロサと一緒のときはひたすら覚えた単語を頭の中で繰り返し、定着させていく。見つからないように目を盗んで、指で文字を繰り返し綴る。
数学は四則演算と簡単な図形など、多分地球でいうところの『算数』の範囲が出来れば大丈夫なのではないかと思う。今まで聞いた話を総合するに、一般的な生活で、二次関数や微分積分を使うような風には思えない。まあ、日本でも仕事関連でもない限り、一般生活で自ら漸化式も微積分も使わないが。少なくとも学校以外でマグノリアがそれらを活用したことはなかった。こちら特有の未知の内容がない限り今更覚えるまでもなく、数字さえ覚えてしまえば何とかなる筈だ。自学自習は過去の癖で、ある程度は慣れているのだ。
(剣術はどうだろう。自衛くらいは出来るようになるべきか)
窓から剣の練習をする兄の様子を見ながら、型を幾つか覚え、夜や早朝の侍女が居ない時間帯に、筋トレをしたり濡れタオルを持って素振りの練習をする。
役に立たぬ子どもはいらんと、いきなり切り捨てられないとも限らない……とまで考えが至るところに、あまりにも不安定な心と立場にため息と共に涙が滲みそうになり、慌てて唇を噛んだ。
******
トントン、ブライアンの部屋の扉をノックする。
「お勉強中失礼致します」
ロサが声掛けし、相手の返事を待って入室すると。
目の前には、ブライアンの家庭教師であるダフニー伯爵夫人がいた。
専門ごとに教師が代わることが多いそうだが、女性でありながら学問に造詣が深いらしく、基本的な内容を習う兄は、夫人に必要な勉強を全て教えて頂いているそうだ。
優秀だけどとても厳しい人だという。
ゴクリ、とマグノリアは唾を飲み下し、深く腰を落とす。ロサに習った淑女のカーテシーだ。
「初めまちて、ダフニー伯爵夫人。ギルモア侯爵家がいち女、マグノリアと申ちましゅ。お勉強中に、お声がけ失礼いたちました。静かにちておりましゅので、兄の近くにおりましゅこと、お許ちいただけましゅでしょうか?」
グレイヘアーをひっつめてお団子にした、切れ長の水縹色をした瞳をじっとみつめる。
不在がちの両親に、淋しくて兄の近くにいたい幼女を装うテイである。
……なかなか、圧が……眼力がスゴい。そしてマグノリアの毎度おぼつかなすぎる口調。内心苦笑いが漏れた。
「…………」
じっとマグノリアをみつめるダフニー夫人に、ロサが困ったように口添えした。
「大変申し訳ございません、夫人。お嬢様がどうしてもお兄様のお近くにと……。失礼かと思いましたが伺わせていただきました」
こちらでマグノリアが目を覚ましてから、びっくりするくらい聞き分けの良くなったお嬢様が、兄に甘えたい(?)とグズり、ついつい突撃を許してしまった――という図である。
ダフニー夫人は少し考え、小さくため息をつくと、
「……静かにしていて下さるなら、構いません」
夫人の確認が取れると、兄の侍女達によって手際よく小机と小さな椅子が並べられる。
了承されホッと息をつきたいところだが、微笑みながら軽く膝を折りお行儀良く感謝の意を表してから、そそくさと椅子に座った。
(っていうか、小さい椅子あったんだ……)
自室にある大きな椅子に、毎度毎度踏み台で登って腰掛ける身としては、ブライアンの部屋にあるもう使わないだろう小さい机と椅子に、なんだかなぁと思う。
「あいがとうごじゃいましゅ」
そんなもやもやを隠して、ニコニコと礼を言う。
やったー! 心の中でガッツポーズをした。取り敢えず潜り込み成功である。
兄とのお茶会で毎度毎度、愚痴を聞かされていた個人授業の様子。
正直やるべきことがあるのも、文明や文化に触れられるということも、マグノリアとしては非常に羨ましいものであった。どうしたら参加出来るものか、色々シミュレーションしていたのだ。
『幸運の女神は前髪しかない』と言うけど、別の偉い人は『急いては事を仕損じる』と。挙句の果てには『急がば回れ』と言う。
そしてこれまた別の人は『虎穴に入らずんば虎子を得ず』とも言うわけで。
いっそのこと、考え無しに飛びついてしまいたいけれど。
マグノリア・三歳は、残念なことに、非常にリスクの高いと思われる立場に立っている。
この場合石橋を叩いて渡った方が失敗が少なかろう、という心の声もとい、元マグノリア・三十三歳の意見を採用したのだ。
だって、ロサや家族に言ったところで自分に家庭教師がつけられるとも思えなければ、まかり間違ってつけられたらつけられたで、トンデモな代償を求められても困るのだ。
散々考えた挙句、事前に参加したいと言っても了承されないだろうから、ここは幼児の特権(=ぐずり)を行使して突撃するのが宜しかろうと、至ってシンプルな結果に落ち着いたのである。
さあ、いざ行かん! 異世界の学問の初歩の初歩、の世界へ!!
一時間目は詩歌だった。
そういえば、昔のヨーロッパも韻文を習うという事を思い出す。ゲーテが得意だったのは何韻文だったかと逸れる思考を慌てて引き戻し、ちろりとブライアンを見れば。
……兄の眼は死んでいた。
(少年よ、ガンバ!)
今日は簡単な四行詩だった。実際に前世で四行詩を目にしたことはないので、どんなものなのかと教科書を盗み見る。
日本でも雅な方々は折に触れ俳句や短歌を詠む。こちらの貴族もポエムなど、日常的に詠むんだろうかと疑問に思う。
そんなこんなを考えながら、前世の授業で習った古典のあれこれを思い出しつつ、夫人の講義を聴く。
ブライアンがペンを走らせる音と、夫人の説明する声。侍女達の動く衣擦れの音。
よく晴れた空の下、こずえに集う小鳥たちのさえずり。
黙って前を見ていたり、兄の教科書を覗き込んだり。時折兄を気にしている様子を見せるマグノリアを見て、ブライアン付きの侍女達はほっこり癒され、ロサは騒がないことにホッと胸を撫で下ろし、ダフニー夫人は密かに感心していた。
しばらくして、目の前に暇つぶし用の石板が置かれた。
ちょっとびっくりしながらも、マグノリアは夫人にペコリと頭を下げる。
(ほわ~! 初めて見た! 昔は日本でも使っていたらしいけど……)
小さい子にはお絵かき帳。鉄板である。
しかしこの世界ではいたずら書きに使う程、紙は低価格では流通していないのだ。そこでくり返し使える石板の出番というわけだ。
前世ではマグノリアの親の時代でさえも、石板を見たり使ったりする人は少数派であろう。
砂鉄を利用して作られていて、壊れなければ半永久的にくり返し使用できる『お絵かきせん〇い』が定番である。マグノリアに至っては言わずもがな。色々なおまけ……人気キャラとコラボして、なぞったらキャラ絵が描けるステンシルのようなシートと磁石が付いたデラックスなものから、百円ショップで売られている、小さい、お出掛けのときの暇つぶし用まで。
そっと、マグノリアは初めて見る石板をなでては、ゆっくりとろう石を滑らせ、書き心地を確認する。けっして綺麗な線とは言えないけど、久しぶりのものを書く感覚に、思わず口元が緩んだ。
子どもらしく(?)花の絵を描きながら、兄のよれよれした様子を横目に課題を一緒に心の中でこなす。バレないよう指で小さく綴り、説明を聞く。
題材になってる詩歌の音読。次は写しだ。
ノートの上を這う、たどたどしくゆっくりなブライアンの手元をハラハラと覗う。
夫人の書評と解説。染み入るように落ち着いた深い声は、経てきた経験と人柄の、その両方の深さを感じさせた。大切なところを二度言い、よくわかるように夫人がトントンとブライアンの教科書の該当箇所を指さす。
(おおぅ、そこが今日のキーワードか……)
忘れないようにマグノリアが石板に写す。前世なら教科書にマーカーをするところだ。
ちらり、ブライアンがのぞき込み、目をしばたたかせた。
「マグノリア、字が書けるのか?」
(うっわあぁぁっ! ヤバイ!!)
思わず固まりそうになり、深く息を吸う。……背中には嫌な汗が伝った。
「……い、いえ……ここの、しゃっき夫人が指をちゃちて仰った、本のとこりょを真似ちただけでしゅ。……合ってましゅか?」
(つい気を抜いて書いちまった……バカバカ、私の阿呆!)
――ほぼアルファベットですからね~。日本では小三からローマ字を習いますし。今は英語も小学生から学んでますからねぇ。更には大学の第二外国語はドイツ語でしたし、字くらいは見れば書けますよ~と。誰になのか己自身になのか、心の中で言い訳をする。
「見ただけでお書きになれるとは、凄いですね」
ダフニー夫人が石板をのぞき込む。さりげなく綴りをチェックされている……気がする。
「……あいがとうごじゃいましゅ」
にこにこ。動揺を悟られないよう、マグノリアはなるべく目を動かさないように気を付け、曖昧に微笑む。にこにこ。そしてアセアセだ。
(兄ぃぃ! もう少し集中して自分の課題をやってほしい!)
そう八つ当たり&懇願をする。