「いたい……」

 夢なのか、はたまた現実か。

 何がどうしてこうなったのか?

「落ちちゅけ、わたち」

 …………。

 心持ち回りにくくなったように感じる口調と高い声にまゆひそめ、小さくため息をついた。

 焦っているとき程気持ちを落ち着けろ。深呼吸して足りない酸素を頭に回せ。冷静さを取りもどせ。そう自分に言い聞かせる。

 ちらり、鏡へ瞳を向ける。

 目の前にはようえん児くらいの幼女が、しかめっつらをしてうでを組んでいた。

 カクカクと両手をこうに動かしたり、ジャンプしたり。小学生の時にしこたま練習したムーンウォークを往復してみたり、変顔をしたりしてみる。

 ……『私』で間違いなさそうだ。なつとく出来ないがそう結論づける。

 動いている。こちらが動くたびに。人形や絵ではなく、生きた人間。

(私は誰だ?)

 考えても考えても、三十三年間馴れ親しんだ筈の名前は出てこない。代わりに。

「まぐのりあ・ぎるもあ」

 私は、マグノリア・ギルモア。

 くり返し、自らに問う度にかぶ名前。

 そして次々に浮かぶ、この世界の生活のたくさんだんぺん。小さなこの子の記憶。

 頭でもぶつけて、夢でも見ているのだろうかと首をかしげる。

 めいせきってやつなんか? と。

 それとも、頭がおかしくなってしまった……とか。

(ありえる。だって、通常のはんじゃ考えられんし!)


 名前も顔も思い出せないが、日本の街並み、職場でせわしく行きかう人々、四季の風景、風を切る赤い自転車のハンドル。

 休みに買い物をするスーパー。通勤する満員電車の日常。

 たまに帰る実家の匂い。

 近所の大きな犬。

 断片的に頭の中にある、もう一人の自分の記憶。

 お母さんが育ててるだんの花。

 住宅地の電信柱にとまるせみの鳴き声。

 小学校の頃の、運動会の空に行きかう赤とんぼ。

 たまに降る雪に足を取られ、都会の道で転ぶニュース……

 多分五歳にもならないだろうこの子に、そんなもうそうが出来るのだろうか?

 動画で流れてた景色? テレビで観た風景?


「おじようさま?」

 さらさらとした衣擦れの音と共に、五十代だろう、やや丸みを帯びた体形の女性が続き部屋のとびらから顔をのぞかせる。

 大きくかたね上げてり向くと、黒いお仕着せらしいワンピースドレスをまとった、やさしそうなとびいろの瞳の女性が微笑んだ。

「目を覚まされたのですね。おはようございます、お嬢様」

 誰、と言う前に勝手に口が動く。小さな小さな、愛らしい声で。

「……おはよう、ロサ」

 この人はロサ。ロサ・ラグレー。

 マグノリアのそばづかえで、ギルモア家のじよ

 まるで当たり前のように、そこにある記憶。


 何故なぜ、日本の記憶が思い出しにくく、なのに知らない子どもの記憶がせんめいにあるのか?

 何故、くろかみのアラサー女性ではなく、ピンク髪の幼女なのだ?

 何故、駅近の小さなワンルームじゃなく、ごうな白壁の部屋にいる?


 トラ転。

 大人なのにラノベが好きな、アイツから借りた本のぼうとう

 アイツ……中学からの友人の、アイツの名前はなんだった?

 ――異世界転生。

 転移? しようかん? ひよう? 転生? 成り代わり?

 馬鹿馬鹿しい設定が、頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え。

 サーーッと、背筋に冷たい何かが走る。

(いや。トラックにぶつかっていないし。川にも落ちてないし。飛行機にも乗っていなかったから、ついらくなんてしてない筈)

 階段から転げ落ちた記憶もない。酒にってもいなければ、病気でもなかった……筈。あくまで自覚のある範囲でだが。

(……つうに寝ただけだし)

 色々読まされた設定のひとつ……ある日、病気かなんかで発熱した後に目覚め、前世と『ある物語』を思い出すそれ。

 だけどそれ、前世的なところで、病気で急死とか事故で急死、もしくは意識不明の重体とか、何かフラグ的なやつがあるのがセオリーじゃないの!? そうむなしく自らに問いかける。

(いきなりまえれもなく転生しちゃうの!?


 悪役転生後、ゲーム知識で逆転そう? 神様にこうしようして、チートでスローライフ?

 勇者やじゆうじん、大ほう使いと、てんやわんやのとうばつ旅行? 前世の仕事を転生先で、オーバーテクノロジーが世界を救う?

 否定したいのに、じわじわと脳にせまり来る。

 アラサー女子が部屋で寝ていたら、目覚めていきなり異世界に転生していた件。

(そんなん、アリなんか!?

「ははははは……」

 小さいかわいた笑い声がれる。その声は少し、ふるえていたかもしれない。

「……お嬢様?」

 ロサはゆっくり近づくと、不思議そうにマグノリアをみつめた。