九章 揺れる心



「模試の点数見たよ。頑張ったね」

 涼の部屋に来てから二か月経ち、毎晩涼に教わっていたせいで、だいぶ成績が上がった。

 なんだかんだ高学歴だけあって、要領がいい。

 頑張ったぶんだけたくさん褒めてくれるのは嬉しかった。

 どちらにせよ、勉強をしっかりして、夜は何度も交わってから熟睡しているせいか、生活にもメリハリがついている。

 友達には最近肌の艶がいいけど化粧品変えたのとか、いきなり成績が上がったのはなぜか聞かれるけれど、うまく答えられない。

 普通に考えたら不健全な生活が、案外健康にも勉強にもよかったようだ。

「うん。成績も上がったし、そろそろ帰らないと」

 さすがにいつまでもここにいるわけにはいかない。

「いや、それが義母さんからもう少し見てほしいって頼まれた。まだ勉強も足りてないし」

「ええっ」

 母までも味方につけてしまったらしい。このまま毎晩あんなことをされていたら、おかしくなってしまう。

 涼が怖いというよりは、依存し溺れていく自分が怖い。

 基本的に避妊はしているが、こんな爛れた関係を続けるのはよくないとわかっている。

 そんなことを考えていると、スマホが鳴った。

「あ、和也くんだ」

 話がしたいとメッセージが来ている。

 まゆの意思ではないが、実際浮気したようなものだ。このまま付き合いつづけるなんてできない。

 あれから何度も連絡はきたが、涼がいるせいもあって、まともな話はしていない。

 とりあえず、自分の部屋でこっそり返信した。

「そろそろちゃんとしなきゃ」

 明日は涼が出社するらしいので、放課後近くまで来てもらうことにする。

「和也くん!」

「まゆ」

「連絡できなくてごめんね」

「いや、俺こそごめん。真面目なまゆにあんなことして……お兄さんにも見られたし大丈夫だった?」

 その義兄に、あの後犯されまくっているとは言えない。

 昨晩は、涼に三度ほど抱かれた。最近では帰宅早々求められることが多く、昨日はリビングのソファで交わってから、浴室で二度目、ベッドでも求められて、結局応じてしまった。

 駄目だと思っているのに、そのどれもが濃厚でおかしくなるほど気持ちよかった。

 義兄としての優しい仮面を捨てた涼は、まさにケダモノだった。

 スタミナも性の知識も普通のレベルではないことだけはわかる。

 まゆはもう涼の魔の手から逃れられない。

 もう和也の目をまっすぐ見ることすらできない。

「あの、私やっぱり今は勉強に専念したくて」

「別れるってこと?」

「……ごめん」

「わかったよ。卒業したら、また告白してもいい?」

「──もう忘れて」

 名残惜しそうな和也に別れを告げ、そのまま帰った。

 落ち込んだ気持ちのまま、マンションに戻ると、すでに涼がいた。

「どこ行ってたの?」

「えっと、和也くんと会ってた」

 嘘をついたら、逆に怖いので、正直に話す。

 野性的というか異常に勘がいいので、恐ろしい。

「そう。なに話したの」

「別れてきた」

「なんで?」

「な、なんでって」

 あれだけまゆの体を好きにしておいて、全く悪びれずに聞いてくる。涼に毎晩犯されているのに、他の人と知らん顔で付き合えるはずがない。

 あまりに無神経だ。そもそもただ欲望の捌け口にされているだけな気がしてきた。

「おいで、少し話そう」

「うん」

 ソファに座るよう促され、隣に並んで座る。腰を抱かれ、距離を詰められる。

「まだ好きなの」

「わからないよ」

 正直わからなくなっていた。そもそも好きだったのかさえも。

 好きと、好感と、恋心と友情と、どれも似ているが区別できない。

 ただはっきり言えるのは、涼との関係だけは、それらを越えている特殊なものだ。

「いつから付き合ってたの」

「一か月前に、友達と一緒に映画を見に行って、その時に会ったの」

「全然お互いのことなんて、知らないで付き合ったわけね」

「そうだけど……涼くんだって色んな女性いたでしょ」

「いないよ」

「嘘つき! 遊んでたの知ってるんだから」

「そんなことないって。そりゃまゆちゃんがちっちゃい頃は、女として見てたわけじゃないけど、今はまゆちゃんだけが好きなんだよ」

 のらりくらりと都合の悪いことは、ごまかしているように見える。

 確かに泊まり込みの甲斐あって、成績は上がった。けれど、勉強以外の時間はほとんどベッドの中だった。激務とは思えないほどの絶倫ぶりで、まゆを翻弄した。

 玩具を挿入されたり、目隠しやらタオルで縛られたり、ありとあらゆる変態行為をされた。

 そのどれもが、不快感や恐怖を越えて深く暗い悦びをまゆに教えた。

 知らなくていい世界に、気づけばどっぷりとはまっている。

 もはや、涼に抱かれる前のまゆとは別人だった。

 安全日は、ここぞとばかりに中に欲望を注ぎ、そうでない日は避妊こそするものの、倒錯した行為を強いてくる。

 その異常なやり方に体がどんどん馴染んで、日に日に変わっていくのが怖い。

 昔見た夢を思い出す。

 熱を出して朦朧としていた時、布団に潜り込んできた涼とキスして抱き合う夢。

 ──あれは夢じゃなかったのかも。

 その時以来、まゆの性癖は歪み、そのことを思い出しながら自分を慰めるようになってしまった。

 するたびに罪悪感と、背徳感でやるせなくなる。

 だから、和也に告白された時、ようやくまともな恋愛ができるかもしれないと受け入れたのだった。

 それなのに、結局涼の異常な性欲によって調教され、飼いならされている。

 涼との行為は、少女漫画のように甘くなんてなかった。

 一見優しそうな顔をしているが、夜は陰湿にまゆを追いつめるのが好きなようだ。

 まゆの意思を無視して、強制的に快楽を教え込むだけの倒錯した欲望にまみれた行為。

 それなのに、自分は全然拒めない。

 成績は上がり、母親はもっと涼くんに教わりなさいと言い出す始末。

 毎晩不純な行為にせっせっと励んでいるとは、とても言えない。

「別れたのは、どうして?」

「だって、涼くんに変なことされてるのに、もう付き合えない」

「僕のせいにするんだ」

「む、昔変な夢見たの。熱出してる時……」

「どんな夢?」

「……」

 涼の余裕のある笑みを見て、あれは夢ではなかったと確信する。

「ま、まさか。あれ夢じゃない?」

「うん。あんまりかわいかったから、ちょっとつまみ食いしたけど、最後まではしないように我慢したよ。寝たままですごいよがってたから、半分意識ありそうだったもんね」

「私の意思なんてどうでもいいの?」

「意思ねぇ……。まゆちゃんが僕に依存して離れられなくなったらいいなとは思ってる」

 発言がサイコで怖い。関係を持ってから、涼の知らざる一面を知った。

「あの、もうえっちなことはしたくない」

「どうして?」

「私もう家に帰る。ここにいちゃいけない気がする」

 毎晩ありったけの快楽を与え、美味しい食事を作り、実家では買ってもらえなかったような物を好きなだけ買い与える。

 涼のしていることは優しさに見えて、まゆを駄目にする手段に過ぎないのではないか。

 愛情の振りをした支配。優しさを装った束縛。

 和也のような素朴な裏表のない人間といたほうが、幸せな気がしてきた。

 ──ここにいたらダメになっちゃう。

 まゆは、無言で部屋に戻り荷物を整理し始めた。

 荷物をまとめて、部屋を出ようとすると、扉の前に涼がいた。

「本当に帰るの?」

「うん。もう愛のない行為はいや。アクセサリーも服もいらない」

 まゆが言うと、涼はなんとも言えない寂しそうな顔をした。

「好きって言ってくれたけど、涼くんすごい遊んでたし、信用できない。ホントなら、身体の関係より心のが大事だよね」

「愛がない? むしろ愛しかないのに──じゃぁ、最後に一緒に食事しよう。まゆちゃんの好きなビーフストロガノフ作ったからさ。そしたら笑って今までのこと忘れて、義理の兄妹に戻ろう」

 あれほどまゆの体に執着していた涼が、あっさりと引き下がって拍子抜けしてしまう。

 表情もどこか悲しげで、罪悪感を刺激した。まゆは黙ってその提案を受け入れた。

 夕飯の支度をして、二人でテーブルにつく。

「美味しい……。でもいつもと少し違う」

 相変わらず料理が上手で、こんな時だけれど感心してしまう。

「ちょっといつもと味を変えてみたんだ。デザートのチーズケーキもあるよ」

「ケーキまで?」

 最近まゆのために色々研究してくれているのは気づいたが、ケーキまで作れるようになっていたとは。

 一緒に紅茶も淹れてくれたが、自分で淹れるものより明らかに香りも味もよい。

「どうしたら、こんなにいい香りになるの? ケーキも美味しい」

「もう一つ食べる?」

「太っちゃうよ」

「食べたら車で送るから」

 断ったものの、あまりに美味しくて結局食べてしまった。

 帰るつもりがすっかり遅くなってしまう。

 スマホが鳴り、母親からメッセージが入る。先ほど、実家に帰るからと連絡したばかりだ。

『お父さんもお母さんも発熱してしまいました。移るとよくないから、もう少し涼くんの家にいてね』

「どうしたの?」

「お母さんたち、熱があるから、もう少しここにいてって……」

「そうしなよ。もう遅いしね。なにもしないから安心して眠ればいい」

「でも……自分で帰るって言ったのに」

「気にしなくていいよ」

 食事を終え、入浴を済ませると一人で部屋に戻った。

 ──涼くん、なんか寂しそうだった。

 もっと強引に引き止められると思っていたから、拍子抜けした。

 体だけに執着しているようで、それが嫌だったけれど、まゆがしっかり拒めばもう不埒なことはしないような気がしてきた。


 毎晩一緒に寝ていたから、一人でベッドに入るのは久しぶりだ。

 約束通り、涼は入ってこない。

 なかなか寝付けず、目を瞑ると涼にされた行為を思い出してしまい、悶々とした。

 無意識に自分の胸を揉み、下着の中に手を入れた瞬間、我に返る。

 ──隣の部屋に涼くんがいるのに。

 うっかり声や吐息を聞かれたら、また変なことをされてしまう。

 まゆは何度も寝返りを打って、ようやく眠りについた。

 そして、例の夢を見てしまう。繰り返し見る涼とむつみ合う夢だった。

 慌てて飛び起きると、ひどく喉が渇いていた。

「み、水」

 キッチンに水を飲みに行くと、ちょうど風呂から上がった涼が上半身裸でビールを飲んでいるところだった。

「どうしたの? 顔真っ赤だよ」

 自分を毎晩抱いていた逞しい体。

 もうそういうこともなくなるのだと思うと、急に裸を見るのも恥ずかしくなる。

 均整の取れた体には、筋肉がしっかりとついていて、胸も隆起して男らしさに満ちている。

「な、なんでもない。お水飲みにきたの」

「そう」

 ごくりと冷たい水を飲み干すと、まゆは部屋に戻った。

 涼の裸体が目に焼き付いて離れない。



 それから三日ほど経ったが、涼が手を出してくることはない。

 普通の恋愛がしたいと言うと、美術館に連れて行って、デートのようなことをした。

 一度映画を見ながら長いキスをしたが、襲われることはなかった。

 帰宅すると、部屋にはいつもと違う香りがした。リビングの脇にあるアロマポットの横に見慣れない瓶が置いてある。

 ──そういえば、和也くんが催淫作用があるアロマがあるって言ってたな。

 一度そう思うと、淫らな記憶が次から次へと甦り、お腹の奥がきゅっとした。

 品のない言葉でねだるように強要され、意思とは無関係に絶頂させられたこと──。

 もう一度あの快楽を知ってしまったら戻れない気がする。

「もう駄目……」

 ふらふらとベッドに戻ると、自分の胸を揉みしだき、下着に手を入れた。

「はぁッ……ぅ」

 火照った体が、刺激を求めている。自分でいじっても涼にされるような快感は得られず、欲求不満のため息だけが漏れた。

 ──欲しい……。

 指でいじっても、絶頂には程遠く、しかも全然欲しいところに届かない。涼の巧みな手管を思い出すほどに物足りなさに切なさが増す。

「んっんっ」

 まゆが身を捩っていると、扉が開いた。涼が立っていた。