八話 前の俺、今の俺



「それはあんたが正解ね」

 土曜の自宅、カウンセリング前の十三時。

 キッチンに立ってくれているは、俺の話を聞いてためいきいた。

 リビングには魚の匂いが漂っているが、焦げないかが不安だ。

 俺は食卓を拭きながら、明日香に返事をした。

「そうか? 正解には思えないぞ、正直」

 明日香が返事をしなかったので、俺は続けた。

「直接的にいじめられてる訳ではなさそうだったけど。マズい環境に身を置いてる人を見捨てることには変わりない」

 食卓に滑らせるタオルに、力を込める。

 まっていた僅かな汚れが、真っ白なタオルに吸い込まれていく。

 ひなとゆめさきの遭遇をたりにしてから、二日がった。

 時間が経っても胸につかえたものがいまだにのぞけず、明日香に事の次第を話して相談したのだ。

 しかし返ってきたのは、意外に冷たい答えだった。

「二人がめてたとしてもよ。その辺りは本人たちの問題でしょ?」

「でも、人が一人困ってるんだぞ」

 明日香はキッチンから焦げたさばを持って、リビングに現れた。

 結局焦げてしまった鯖に普段ならツッコみたいところだけど、今はそんな気分じゃない。

 明日香はか初めからツッコまれることが頭になかったようで、諭すように言葉を並べた。

「あのねー。困ってる人を見つけるたびに助けてたら、この先の人生キリがないっての。どこかで線引きしなさいよ」

 キッチンに戻った明日香は電気を消し、またこちらに視線を流す。

「実際あんたもそう思ったから、ひなちゃんに無理やり介入しなかったんでしょ。あんた自身が一回その判断を下したんだから、もうそのままでいいわよ」

 胸中をさらけ出すような発言に、俺は思わずくちごもった。

「つ……冷たいなっ」

「そう?」

 彼女との間柄を互いに合意していることから、何らかのきずながあると考えていた。

 しかしの反応を見るに、全くそうではないらしい。

 明日香は俺の胸中を察したのか、肩をすくめてこちらに近付く。

「当然でしょ。私たち彼女同士よ? あんたを中心に集まってるだけで、私たちは他人同士。むしろ敵に近いくらいだし」

 食卓前の椅子に腰を下ろした明日香は、続けて言う。

「それに、ゆめさきさんは三大派閥の中で唯一ちゃんとした派閥よ。一回見逃すような中途半端な心持ちで逆らわない方がいい。私にとってはあんたの方が大切なのよ」

「……逆らわない方がいい、ね。ひなもそのニュアンスでなんか言ってたけど、理由でもあるのか?」

 リーダー格という理由だけでは、明日香はそんな忠告はしない気がする。何しろ明日香だって、夢咲と同じ三大派閥の筆頭なのだ。グループは見たことないけど。

 思った通り、明日香は頭をいた。

「……まあいずれ知るかもしれないし、教える分には全然いけど。余計なことはすんじゃないわよ?」

「はーい」

「ほんとに?」

「まじまじ」

 俺が口角を上げてみせると、明日香はジトッと目を細める。

 しかしそれ以上追及することなく、口を開いた。

「ああ見えて彼女、有名企業の社長令嬢なの。彼女の取り巻きを除いたら、一部しか知らないことだけどね」

 社長令嬢。

 有名企業の社長令嬢。

「──えっ、社長令嬢!? 全然イメージと違うな!」

「ええ。あんた、知識自体は残ってるのよね? だったらユメサキグループって覚えてんでしょ」

 明日香の問いかけに、俺は脳内へ検索をかける。

 三秒、四秒──

「うーん……ない」

「なんでないのよ!?

 明日香がびっくりしたようにツッコミを入れる。

「あんなに有名なのに……そんなにバカだったっけ? まあデリケートな問題だし、この辺にしとくけど」

「この辺のあんばい間違えてないか? 今お前普通にディスってたぞ」

「記憶違いじゃないかしら」

「なめんな俺の記憶力!」

 俺は箸をの前に置きながら、精一杯の抗議をした。

 しかし明日香は何食わぬ顔で両手を合わせ「いただきます」と言って、目の前に置かれたお箸を取った。

 食べ始める前にと、急いで明日香に問いを投げかける。

「じゃあ明日香は、俺がゆめさきに同じことされたらどう場を収めるんだ」

 焦げたさばに向かっていたお箸がピタリと止まった。

 明日香はおもむろに視線を上げて、僅かに考える仕草を見せる。

 そして拳をガッと握った。

「とりあえず夢咲さんの顔面ぶん殴るかな!」

「何も収まってなくない!? むしろ死ぬほどめる気がするんだけど!」

「当然でしょ、あんたは私の彼氏なんだから。人の彼氏に手ェ出しといてまともに歩けると思うなって、めたした女に分からせてやんのよ」

「怖い怖い、発言が暴力的で怖い! どこの番長だ!」

 俺がおびえた仕草をみせると、明日香は目をまばたかせた。

 そしてこともなげに言葉を返す。

「番長ではないけど、荒れてた時期もあったって言ったでしょ。ほんとにぶん殴る訳でもなし、そんなに怖がらないでくれる?」

「ほんとにぶん殴りそうだから怖いんだよなぁ……」

「あのねー、さまに迷惑かける行為はしてないっての」

 明日香は髪をきながらそう言って、少し遠い目をする。

 そして思い直したように口を結んだ。

「……ま、あんたの家族にはお世話になっちゃったけどね」

「……そうか。でもまあ、母さんは迷惑に思ってなかったんだろうな」

「お母さんはそうだと思うけど。あんたが気にしてくれてたかは分かんないわよ? そこが良かったんだけど」

「そ……そうか」

「……ん? なによ」

 ──〝良かった〟。

 過去形なことが気になったが、当時の話をしていたのだし、他意はないだろう。

 俺は目を伏せる。

 若干気まずい空気が漂っているのは気のせいだろうか。

 さばの香ばしい匂いが心を和らげてくれて、俺は小さく息を吐く。

 どれも今考えても仕方のないことだ。

「てか、そんだけうでぷしがあるならゆめさきなんて余裕で止められるんじゃないのか」

「男子のけんと一緒にすんな。一回めたらそこで終わんのよ、女子の人間関係はね」

 だから慎重にならざるを得ない。

 でも、俺のためならそれらのリスクも顧みず助けに入る。

 にとってのひなは、そうじゃない。

 この単純明快な思考回路に、俺は納得してしまっていいのだろうか。

 ──今日のカウンセリング終わりまでに、答えを決めるか。

 今はこの昼食を楽しみたい。

 事態の解決案は、既に一つだけ浮かんでいた。

 それは自分にある程度の人気が備わっていて、初めて実現できる策だ。くいけば──この昼食が最後になる可能性も、なきにしもあらず。

 食卓を挟んで向かい合う。

 二人で両手を合わせて、「いただきます」と声を発する。

 俺はコップに水をぎながらいた。

 先に明日香にコップを渡し、その後自分のコップに注ぐ。

 明日香はコップを受け取り、言葉を返した。

「ありがと」

 食事の前の一杯。

 俺と明日香は同時に水を飲み干して、空になったコップを食卓に置いた。

 焦げた鯖の味噌煮をお箸でつつくと、皮がパカリと割れる。

 中から柔らかそうな身が、溶けるようにほぐれた。てっきり丸焦げだと思っていたが、驚きの事実だ。

 味噌のにじんだ身をすくげ、口に運ぶ。

 ……温かい。

 家庭の味にしたつづみを打つ。

 見た目が真っ黒でも、味が良いこともあるらしい。

 先ほど不意に浮かんできた解決案を使っても、この時間はちゃんと残ってくれるだろうか。思案しながら、める。

「めっちゃい……」

「でしょ? オムライスはほんとにたまたまだったのよ」

 明日香は目尻を下げて、同様に食す。幸せな時間。

 数十秒黙々と食事をたのしんでから、明日香は自身のスマホに視線を落とし、眉をひそめた。

「……あれ、カウンセリングの時間って何時だっけ」

「んー。…………十四時」

「今は十三時二十九分。家から病院は何分くらい?」

「……三十分」

 は目をパチクリさせた。

 カウンセリングの時間まで残り三十一分。

 あと一分。いやもう五十秒くらいか。

 少しずつ意味を解釈していった明日香は、やがて食卓にバンッと手を置き立ち上がった。

「ちょっ何のんに食べてんのよ!? 行くわよ遅れるじゃない!」

「いでででで行く行く一人で歩けるから!」

 耳を引っ張られて椅子から転げ落ちそうになりながら、俺は自宅を後にする。

 もう一度このご飯を食べれますように、とささやかな願いを込めながら。


 ◇◆


「ギリギリになってすみません!」

 座るなり謝罪すると、お医者さんはかぶりを振った。

 そして間に合えば何でもいいとばかりに言葉を紡ぐ。

「それでは、君の状況を改めておさらいしておこうか」

「お、おす……お願いします」

 テンションの差で引きそう。

 ここが病院であることを思うと、俺が浮いているんだけど。

 お医者さんは数枚の紙をみの看護師さんに渡し、何らかの情報を共有した。

 看護師さんの真剣な表情から察するに、三股などの俗な情報が書かれていないことだけは確かだ。

「記憶喪失の種類は判別できても、原因の特定には至らず。状況としては──不運な事故だが、君自身はほとんど無傷。脳に異常も見つからなかった」

「異常がないのに記憶吹っ飛んだんですよね。脳みそって怖いっ」

 俺は肩をすくめてみせる。

 軽い調子で返事をしたからか、お医者さんの後ろにたたずむ看護師さんがクスリと笑った。

 三股の件がバレていても、なんだかんだで仲は良好だ。

 これが大人おとなの余裕というやつなのかもしれない。

 お医者さんはチラリと看護師さんに視線を流し、すぐこちらに戻した。

「そうだね。あるいは異常があっても、現代の医学では見つけられないのか。その辺りは定かではないが」

 お医者さんが言うのならそうなんだろう。

 自分よりはるかに知識のある人間からの言葉は、みにせざるを得ないところがある。

「ほえー……やっぱ脳みそのことってむずいんですね」

 あくまで軽い調子で返す俺に、お医者さんは苦笑いした。

 どうやらこのスタンスに思うところがあるらしい。

 だけど俺だって、なにもお医者さんを困らせたくてこのスタンスを貫いているのではない。

 定期的に赴くカウンセリングは、単刀直入に表現すれば苦手の一言だった。

 この時間は、自分が一人の人間として欠落した存在だと言われている気がするのだ。

 まあ、ぶっちゃけ何も間違ってない。

 十六年の記憶が欠落した存在は、健常な人間からすれば異常に違いないから。

 だけどその事実を改めて突き付けられる場へ赴くのは、俺本人からすればやっぱりつらいものがあるのだ。

 カウンセリングという雰囲気だけでも和らげないと、その後の時間は毎度テンションが落ちてしまう。

 だけど、今日はそんなことは言ってられない。

 緊張も相まって、俺は一旦話を変えようと口を開く。

「にしても、記憶失っても意外とすぐに退院できましたよねー。俺、あと数週間は長引くと思ってました」

「ああ。そういう意味では、さな君が高校生、そして学生証を持っていて幸いだったよ」

「え。何でですか?」

 この状況が幸いかどうかはさておき、言葉の真意に理解が及ばなかった俺は間の抜けた声を出す。

 雰囲気を変えるための話題転換だったが、意図せず興味をそそる返事だったのもある。

 お医者さんはこともなげに「考えてもみなさい」と言葉を連ねた。

「仮に成人した君が身分証明書を持参していなかったらと思うと。自分を証明するものが何もない成人は、知り合いとの再会がない限り引き取り先もない」

 知人に関する記憶がゼロだと自覚した時のことを想起する。

 過去を想起しようとしても真っ白なキャンバスしか浮かんでこなかった、あの瞬間のことを。

「君の知人から警察への届出がなかったら詰みだ。役所での手続きを踏まえ、無料低額宿泊所で記憶が戻るのを待つ日々。記憶の戻る保証がない以上、戸籍の再取得も視野に入れなければいけない」

「うぇぇ……あっぶなかった、耐えた……」

 現実を聞いて背筋が震える。

 今回は学生証があったから、高校を通じて親の連絡先につながり、身元確認が完了した。

 俺自身は父と連絡を取っていないものの、医療費も滞りなく支払われた。かわ先生の計らいか何かでおさななじみであるに連絡がいき、目が覚めた瞬間にはそばにいてくれた。

 目覚めた瞬間に明日香が傍にいなければ、ひどい混乱におちいった可能性もある。

 明日香と会話をしたことで、自身の記憶がないというのをいち早く自覚できたのだ。

 そう考えると、明日香のお見舞いはこれ以上ないほど助かったといえる。

 その後三人の彼女で脳みそがシェイクされるくらい混乱したけれど、まあそれを踏まえてもだ。

 幸いと評されるのは妥当。

 不幸中の幸いとはよく言ったもんだ。

「記憶喪失なんて、普通はドラマや映画の世界にしかないイメージですよね? そんな世界に迷い込んだばかりにしちゃ、やっぱ俺って恵まれてますね」

 そう言葉を返すと、お医者さんの後ろにいる看護師さんはあきれたように「ほんとポジティブねえ」とほおを緩めた。

 お医者さんも今しがたの返事に関しては看護師さんと同じような感情を抱いたのか、いつになく優しい笑みを浮かべる。

「そうか。それなら、君が想像しているよりもはるかに記憶喪失は身近になるな。ドラマや映画の題材に引っ張りだこだから、そう思ってしまうのも仕方ないがね」

「俺みたいな人って現実にも結構沢山いるんですか?」

「いや、沢山というほどじゃない。患者が少なくつ、ただちに命の危機にひんしない症状は研究が進みづらいのが現実だが、記憶喪失にはある程度の治療法が確立されている。つまりその程度には患者がいる訳だな」

「へー……なるほど。じゃあその治療法が……」

さな君は説明するたびにいてくるな。さては私の話を全然聞いてないな?」

「んなことないです、今言おうとしてたんですよ!」

 慌ててかぶりを振る。

 全て覚えているけれど、大事なことを何回も確認しておきたいだけだ。

 お医者さんは「まあいい」と息を吐き、口を開いた。

 覚えが悪いと思われていたらとっても不本意です。

「何度かのカウンセリングでも言ったことだけどね。君自身が、ストレスのない環境に身を置くこと。それが最も手軽にできる治療法で、最も有効な可能性が高い」

「言おうとしてましたって……」

 そんなことでいいのだろうか、と想起するたびに思うから。

 治療法を聞くまでは、てっきり記憶を取り戻すために原因となるものを探して向き合わなければいけないのだと考えていたから。

 お医者さんは以前の俺の思考を見透かしたように、目を細めた。

「君自身の健康のためだよ。……さな君。君は自分の身体的、精神的な健康を何よりも充実させることに注力してるか? 親しい間柄の人間がいれば、惜しみない協力を仰ぐ……しっかりやっているのかい?」

「うーん。協力に関しては、ちょっと身勝手かなって思いつつも──」

「身勝手じゃない。治療だよ。まずはある程度自分本位になりなさい。君は自身の健康を棚に置いて、他人を優先しすぎている」

「今言おうとしてたんですよ。なんで全部俺が聞いてないことになってるんですか!」

 俺は口を閉じて、鼻から息を吐く。

 自分の健康を棚に置いている訳じゃないし、頼っているつもりだ。

 これ以上頼ることなんて正直思いつかない。

「それならいけどね。少なくとも記憶を取り戻すまでは、自分にとって最もごこのいい場所に身を置きなさい。そして居心地の悪い場所はなるべく避けること」

 お医者さんはカルテをテーブルに置いて、俺に向き直った。

「ふとしたきっかけで思い出すのは、何も奇跡の連続なんかじゃないのだし」

「分かってますよ……記憶の欠片かけらの手掛かりとか、そんなの自販機の裏に落ちてる訳でもないですし」

 俺はありがわの顔を思い浮かべながら言った。

「記憶喪失する前の手掛かりを探し、心をいたずらに刺激することなんかでもないからね」

 お医者さんは首を縦に振って、園児を諭すような声色で続ける。

「君が心因的なストレスから解放されること。記憶の回復には、まずそれが大前提にあると思いなさい」

 お医者さんの言葉にそのまま従うのなら、この先随分自分に甘い判断を下していくことになる。

 これは今の俺にとっては本来都合の良い言葉のはずだ。

「君自身が積み上げた過去と向き合うこと。それは記憶を取り戻してからの話だよ」

 お医者さんはそう言った後、「もちろん、引き続き専門医にも取り次ぐがね」と付言した。

 いつもの質問事項が始まろうとしていることが分かって、俺は慌てて制止した。

「ちょっと──待ってください」

「ん?」

 お医者さんは動きを止めた。

 そして俺の表情を見て、真剣なまなしを返す。

「ストレスありそうな環境に、自分から飛び込みたいんですけど……そしたらもう、記憶って戻らないんですかね」

 ひなの顔を思い浮かべながら、そういた。

 派閥の主であるゆめさきに逆らおうとすることは、学校生活において多大なストレスにつながる恐れもある。この思考回路自体がお医者さんのいうストレスにもなり得る。

 それどころか、今俺が頭に描いている解決法を実行すればストレス過多に違いない。

「やめておきなさい」

 そう答えたお医者さんの後ろから、看護師さんも「ふざけちゃダメよ?」とたしなめてくる。

 ところがどっこい、こちとら至っておおだ。

「じゃあ訊きますけど、目の前でいじめがあったらどうするんですか。今は確証ないですけど、でもそれが本当にあったら俺は──周りを頼れば助けてあげられると思ってるんです」

 事情を察した看護師さんは、驚いたように目をまばたかせる。

 お医者さんは厳しい顔をして、ためいきいた。

「……倫理的には素晴らしいけどね」

「記憶を優先しても、記憶が戻る保証なんてないんですよね? じゃあ、今の俺が動いた方が良くないですか!」

「保証はないけれど、戻る確率は上がるよ。君は戻りたくないのかい?」

 俺の言葉に、看護師さんが反応した。

「君は自分の記憶と倫理観、どっちが大事なの」

「……それは」

 俺が答えあぐねて、医者に視線を移す。

 すると、お医者さんが代わりに口を開いた。

「記憶だよ」

「……そう、ですか」

「逃げるが勝ちな場合もある。医者として言えるのはここまでかな」

 もしあれがいじめでも、ストレスが掛かるなら見捨てろということか。

 お医者さんがカルテに視線を落とす。

 いつもの質問事項が始まる。

 入院中を含めれば何度目かになるカウンセリングも、今回は頭に入らなかった。


 ◇◆


「カウンセリングどうだった? 記憶戻りそう?」

「いや、全然。うんともすんとも」

「なにそれ、あんたやる気あんの?」

 は不満げに声をとがらせた後、空を見上げた。

 少し冷たい風が吹く。

 俺は気分を入れ替えるため、一度辺りに視線を巡らせた。

 帰路にあるせんしき

 通学路にある川と同じでも、支川であることから横幅はかなりせばまっている。

 そこでは体格が一回り小さな中学生たちが数人遊んでいた。

 部活帰りだろうか。

 横を向くと、明日香は懐かしむように目を細めていた。

 バシャン。

 みず飛沫しぶきの音が聞こえて、視線を戻す。

 制服のズボンをロールアップした男子中学生が、川に入り込んでいた。

 以前の俺にも、あんな時期があったんだろうか。

 ……ない気がするな。

 むしろ、今の俺がやりそうなことだ。

「なあ、明日香」

「ん、なに?」

「前の俺って、今の俺とは全然違うんだよな?」

「え?」

 明日香は中学生に向けていた視線をらして、目をまばたかせる。

「……そうね。まあ、かなり違うかな。全然違う訳じゃないけどね」

「だろうな」

 短く答えて、頭をいた。

 今からする質問は、結構体力を使う。

「俺って結構、一人で行動する割には評判良かったんだよな」

 明日香は一瞬視線を上げて、口元を緩めた。

「あー……まあさすがに気付くわよね。うん、割と一目置かれてたわ」

 明日香は、その理由が自身やありがわであることは告げてこない。

 ……気を遣ってくれてるのか。

「それ、全部明日香と有栖川と仲良かったからだろ?」

 明日香は目を瞬かせた。

「ひなちゃんから聞いたの? それ、あんたみにしちゃった訳」

「え、まあ」

 俺の返事に、は無言で目を伏せた。

 そういえば、前の俺は自分の目で確かめることにこだわっていたきらいがある。

 今の俺の思考回路に、明日香はいくらか落胆したようだった。

「……ゴメン」

「え? 何が」

 明日香はそう言って、俺にあお色の瞳を向ける。

 そして息を吐いて、言葉を続けた。

「あんたね、バカ? 私とかと仲良いだけで、あんたの評判まで良くなる訳ないでしょ」

「へ?」

 この状況で、俺のフォローしてくれるとは思わなかった。

大人おとなの余裕、みたいなのがあるって評判だったのよ。私から言わせれば、あの頃のあんたは人間関係から逃げてただけだったけど……まあそれは人の捉え方次第だし」

「お、大人の余裕? 俺が? まじ?」

 今の自分には到底あるとは思えないものだ。

 周囲に無関心というのも、今の俺からかけ離れている。

「うん。目立つ男子ってたいていバカやってるじゃない? でもあんたは、その落ち着きが紗季と仲良いことで光の当たる場所にさらされた。物珍しさで、周囲の目を引いたってだけ」

 明日香は遠い目をしながら言葉を紡ぐ。

「……普通は落ち着いてるって理由だけじゃ目立ちはしないしね。そこは紗季に感謝するところじゃないかしら」

 明日香はあえて自身を省いて言った。

 ありがわが有名モデルだから、要因のほとんどは彼女であると考えているのか。

「……そっか。じゃあその俺とけんした理由、そろそろいていいか」

「全然〝じゃあ〟でつながってなくない?」

 明日香は返答に窮したように口を閉じた。

 記憶喪失を自覚した当初に訊いた時、自宅に訪れてくれた時。

 今までに二度質問したことだが、どちらもかんばしくない反応を示された。

 ……まだ教えてくれない、か。

 俺は諦めて、緩やかな流れの川に視線を落とす。

 すると、不意に答えが飛んできた。

「私を頼らなかったからよ」

「え?」

「だからムカついたの。私から一方的に怒って、疎遠になったのよ」

 はあっけらかんとした口調だった。

「言いたくなかったらいいんだけどさ。ありがわとかひなを──三人の彼女を許容する理由ってなんなんだ」

 風が吹く。五月にしては、カラッと乾いた風だった。

「……私にあんたを縛る資格がないからかな」

「どういう──」

「あんたの記憶が戻ったら、その辺りはおのずと思い出せるわ」

 明日香は短く答えた後、俺に向き直った。

「だからさ。記憶戻ったら、しっかり頼ってよね」

「……頼りたいんだけどな。このやり取りを覚えられてるかどうか」

 少なくとも、今の俺は明日香に頼りたいと思う。

 でも、〝今の俺〟と〝前の俺〟は──人としての在り方が違いすぎる。

 話を聞けば聞くほど、他人に思えてならないほどに。

 今の俺にとって、接する人の中で最も心の波がせいひつになるのがみなと明日香だ。

 明日香と距離を置く以前の自分は、やはりどうも今の自分とかいしている気がしてならない。

 なにより、三股の件だって。

 ひながゆめさきめていることだって、前の俺は気付いていたはずだ。

 今の俺には見過ごしたくないことでもんもんとしてしまう事柄を、前の俺はやすやすと──

「……あんた、助けるつもりなんでしょ」

「え?」

「……ひなちゃんがもし危なくなったらよ。絶対助けるつもりでしょ」

 静かな問いかけだった。

 だからこそ、明日香がそれを確信しているのが伝わってくる。

「うん。だって、見過ごせないだろ」

 明日香はおもむろにこちらを凝視する。

 まばたきが一度される度に、長いまつが揺れ動く。

 あお色の瞳は、今の俺を通じて何を見ようとしているのだろう。

 きっと、彼女は。

「……分かったわよ」

 明日香は観念したように嘆息した。

「……念のため聞いておいてあげる。あんたがあの子を助ける場合、何をしようとすんのかをね」

「……さっすが俺の彼女」

ちやさないで、殴られたいの?」

「ギリギリ殴られたくない!」

「そこは普通に殴られたくないであれ!」

 やっぱり、は優しい。

 だからこそ巻き込みたくない気持ちもあるが、最終的に明日香に迷惑が掛からないようにしたらいい話だ。

 考えはあった。

 だけどこの考えは自分の評判を落とすことにもつながる。

 明日香は俺の話を聞くと、今度は盛大にためいきいた。

「あんた、それやったら自分の学校生活どうなるか分かってる?」

「うん。まあ、崩壊するんじゃね?」

「バカなの、じゃあ協力なんて嫌よ! ひなちゃんはい子かもしれないけど、なんだって今のあんたがそれやる必要あんのよ!」

「今の俺だからやらなきゃいけないんだよ」

 願望にも似た言葉に、明日香は押し黙った。

「……あんたが記憶戻った時まで、困ることになんのよ?」

「上等だね。まあ何とかなるだろ、戻った時の俺って器用そうだし」

「今のあんたも困るから言ってんの」

「あー、それは全然良い」

「どうしてよ」

 答えを直球で言うかしゆんじゆんする。

「……記憶が戻ったら、今の俺がどうなるか考えたことあるか?」

「さあ……元に戻るだけじゃない? 分からないけど」

 元に戻る。

 それでは今の人格はどうなるのだろう。

 俺が今積み上げている時間が、そのまま忘却の彼方かなたにいく可能性。

 記憶が戻った途端、喪失中に積み上げた時間が消える可能性はゼロじゃない。

 無事に記憶を取り戻したとしても、その後の俺が今この瞬間に得ている記憶を全て無駄だと捨て去るのなら、それも忘却と何ら変わらない。

 今の俺、存在そのものが無駄になる。

 俺は拳を握り、空を見上げる。

 二匹のかげろうが旋回して消えせる。嫌になるほど広大かつ虚無の空が、視界を支配している。


 ──病室にいた時、ありがわからの差し入れで二冊の小説を読んだ。


 二冊とも、記憶喪失の主人公の作品だ。

 一冊は青春小説。

 主人公は仲間とともに記憶の欠片かけらを集めて、自らの青春を取り戻す。

 同じ境遇にもかかわらず、俺は全く共感できなかった。

 一冊はファンタジー小説。

 主人公は記憶喪失を受け入れて、新しい仲間と新しい人生を歩み出す。

 こちらの方が、俺には何倍もたのしく読めた。

 真っ白な環境から積み上げていく人生が羨ましいと思ったのだ。

 今の俺が人格を別々に考えてしまうのは、あまりにも以前の記憶が真っ白だからだろう。

 過去を積み上げて人は生きる。

 周囲の人間は自分を映す鏡。

 人間関係は人の道程そのものだ。

 その人間関係を再構築する過程は、生まれ変わりと同義。

「……協力はしてあげる。でも、その代わり教えて」

 はいつになく緊張した面持ちで、俺に目をくれた。

「……あんた、記憶取り戻したいわよね?」

「……当たり前だろ。だから学校に行ってるんだ」

 灰色の雲から涙があふれる。

 この胸にザワつく感情は、きっと自覚してはいけないものだ。