六話 ひなの推し活



 目を覚まして数秒後、俺は枕元に転がっていたスマホに視線を落とした。

 無意識の行動だったが、今まで何百回と繰り返してきた動きな気がする。人間関係に関わる記憶ではないから、恐らくこの思考は間違っていない。

 スマホには、またもやラインの通知が複数届いている。

 昨夜届いていたであろうラインのメッセージを開く。

 ──一人目は唯我独尊カノジョのありがわ

『SA : 週末デートに行きたいなあ』

 昨日と同じく脈絡のない内容だ。

 アイコンは有栖川本人の後ろ姿で、さすが有名モデル。

 背中越しにもはっきりプロポーションの秀逸さが伝わってくる。

 ──二人目は後輩カノジョのふえひな。

『hina : 結局昨日会えませんでしたね……死にたい……。今日は絶対に会えるように願ってます』

 昨日よりも少々重い内容だ。

 アイコンは犬の画像で、単純に愛くるしい。

 ──三人目はおさななじみカノジョの

『Asuka : おやすみ、今日はお疲れ様! 明日は遅れないようにね!』

 こちらを気遣ってくれる内容だ。世話を焼いてくれるようなもんごんに、俺はありがたく思う。

 アイコンは本人の正面からの画像。楽しげにダブルピースをしている。

 記憶が戻ったら、俺はこれらの通知に何を思うのだろう。

 ちゃんとありがたいと思うのだろうか。

 この関係をなんとかしなければ、なんてまともなことを思うのだろうか。

 ……だけど今は、この思考よりも大事なことがある。

 スマホの画面に表示された、明日香からのラインのメッセージ。

 唯一、送られたメッセージである。

『Asuka : ちゃんと起きてる?』

 二日目も気遣ってくれるあたり、明日香は昨日も一日中気を配ってくれていたのだろう。

 隣のクラスは物理的な距離こそ近いものの、一枚の壁を挟むだけで接する時間は著しく下がる。

 には今日一日あった出来事も共有しておいた方がいいな。

 俺は思考を巡らせながら、スマホに指を走らせる。

 昨日はありがとう、そしてごめん。

 謝罪するかは、外を見れば明らかである。

 カーテンの隙間から漏れ出る日差しに片目をつぶりながら、俺はまたつぶやくのだった。

「……終わった」


 ◇◆


 二日連続遅刻という蛮行に、明日香が怒らない訳がなかった。

 電話先で明日香の雷が落ちる。

『あんたっ、私昨日言ったわよね!? 学校内の世話係はだけど、それ以外は私なの! 遅刻みたいな問題起こしたら、怒られるのは私なんだけど!』

「本当にまじでごめんなさい! 目覚まし設定してたのに、なんか起きたら昨日と同じ時間だったんだ!」

『それぜんっぜん言い訳できてないわよ、めちゃくちゃ普通の寝坊じゃない!?

 始業時間の十分前。

 俺はいまだ学校まで三十分ほど掛かる距離にいた。

 耳元から鳴り響く大音量に背筋を凍らせながら、俺は音量を二つ下げる。

『全然脅す目的で言うんじゃないけどね、あんた次遅刻したら落とし前として頭バリカンで丸めるから!』

「脅し以外の何物でもないんですけど!? 落とし前とか単語のチョイスがヤンキーすぎる!」

 俺は一人大きな声を上げた。

 思春期の男子に向かって鬼畜すぎる罰だ。

 能動的に丸めるのなら何ら問題ないが、他人から強制される髪型の中では最も避けたい部類である。

 明日香は校門前で待ってくれていたらしく、朝から相当不機嫌だ。

『先生今日は出張ないから、朝じゃなくても挨拶できるわ。だからあんたのミッションは、今日学校にキチンと来ること。できる?』

「できるできる、今もう向かってるところだから!」

 俺がそう言葉を返すと、明日香は明瞭な声色で答えた。

『良かった。じゃあ、私は先に登校しておくから。しっかり学校来なさいよ? 絶対サボんないでね!』

「やけに念入りだな、そんなに信用ないのか?」

『ないわよ!』

「了解しました、なる早で行きます!」

 俺はの勢いに押され、敬礼のポーズをしてみせる。

『そういうのいいから、明日は寝坊しないでね!』

 ブチッ!と電話が切れる。

 俺の挙動を電話先から察したのだろうか。

 ……後でもう一回謝っておこう。

 スマホをポケットに入れて、俺は襟で首元をパタパタあおいだ。

 明日香の怒気に反応して汗があふれたのだろうか、心なしか身体からだっている。

「……あちい」

 俺はそうつぶやいて、辺りに視線を巡らせた。

 見慣れた通学路で、俺はさっさと早歩きをする。

 ゆうざき高校は自宅から川沿いを二十分ほど歩き、更に山の麓を十分ほど進んだ先に立っている。

 この時間帯の川沿いはランニングや犬の散歩をする人が多いようで、逆に同じ高校生らしき人は見当たらない。

 遅刻しているのだから当然だけど、外にもかかわらず少し肩身が狭い思いだ。

 しかしその緊張も数分歩を進めるにつれて、次第に解けていった。

 この通学路は川の匂いがして、歩くのがたのしい。

 せんしきに入った当初は人が優に五人は並べるような道幅だったが、今は三人が限度といったところ。

 幅が狭くなっていくに連れて人の数も減っていき、今は俺しか歩いていない。

 ついには人とすれ違うには苦労しそうな幅となったところで、本日いくつ目かの階段が現れた。

 十段ほど登ってみると、先ほどの河川敷と同じくらいの幅を擁する縁道が広がっている。河川敷は緩やかな下り坂になっていたらしく、思っていたより川との距離は遠くなった。

 それでも川のせせらぎは耳にここよく、あさの暖かさと相まって微睡まどろむような感じだ。

「……ん?」

 不意に、視線がきつけられた。

 十メートルほど先。

 茶髪ボブの女子が手で何かをいじりながら、ベンチでぼーっと空を眺めている。

 それだけなら気に留まることでもないのだが、その女子は制服を着ていた。見たところ、同じ高校のデザインだ。しかも靴を脱いで、ベンチに三角座りしている。

 角度の関係で、顔の全貌は視認できない。

 迷った末、その場を無言で通り過ぎることにする。

 この遅刻必至の時間にベンチでほうけているということは、それなりの事情がありそうだ。もし不良だったら怖い。

「ちょ……えっ、あのっ、その!」

 女子の前を通り過ぎた直後、背中に声が掛かった。

 俺の足が、意志とは裏腹にピタリと止まる。まるで身体からだが勝手に反応したように。

 恐る恐る振り返ると、茶髪の女子がこちらをぐ見ていた。

 遠目では分からなかったが、その顔は見覚えのある人物だった。

 というより、彼女だ。

 手でいじっているものも、ただのキャラのキーホルダーだった。

「な、なんで無視するんですか!? もしかして先輩……また記憶喪失に?」

 ふえひなが大きな瞳をウルウルさせてくる。

 これが特に計算されていないとすれば……うん、すさまじいな。

「ご……ごめん、遠目だと分からなかった。おはよう、ひな」

「挨拶あっさり! もっと心を込めてください! オタクには毎朝推しからの供給が必要なんです!」

「いや、しばらくその供給はなかったんだろ? 俺入院してた訳だし」

「だから今日待ってたんですよ!!

「俺を待ってて遅刻してるの!?

 俺が仰天すると、ひなはか誇らしそうに胸を張った。

「当然です。もうずーっと我慢してたんですから!」

 ……うそいていなさそうなのがひなの恐ろしいところだ。

 ふんすふんすと鼻から息を吐き、はしばみ色の大きな瞳を一杯に広げている。

 ここまで執着してくれるのなら、一つの疑問が湧いてくる。

 その割には、俺はひなとあまりラインをしてこなかった。

 一日に一回、ラインを一件交わすかどうか。彼女の性格にかんがみれば、毎日連続通知が届いていても不思議じゃないはずだ。

 何しろ、一日二百件連絡してきたらしい後輩である。

「我慢とか言ってくれる割には、連絡頻度普通だったよな。昨日返信した時も既読つくの遅かったし」

 近寄りざまの俺の言葉に、ひなが目をパチクリさせた。

「だ、だって……」

 何故かありがわの顔がよぎる。

 発言までにタメを作られたら、何かとんでもない言葉が飛んでくる気がしてならない。

「──先輩の負担になるじゃないですか。連絡するってことは、連絡が返ってくるってことですし……私のために、返信の手間を取っていただくのは申し訳ないっていいますか」

「めっちゃマトモ!? なんでそこは謙虚なんだよ!」

 予想外の返事に、思わずツッコんでしまった。

 変なことを言われるのではないかと警戒したこと自体が申し訳なくなってしまうほどだ。

 ──そういえば、以前病室で過ごした数分でもそうだった。

 確かに三股を許容する時点でどこか変わっている部分はあるし、ちょっと彼氏を好きすぎるきらいもある。

 しかしひなは、決して自分を押し付けない。

 あくまで後ろから付いてこようとするだけなのだ。

 彼女に対する恋心は、今の俺にあるかは分からない。

 だけど一先輩としては、後輩を可愛かわいく思うには充分なやり取りだった。

「じゃあさ、この時間はどうなるんだ?」

「ふふー、それはですね。あっナントそれはですね!」

 ひなはベンチからピョコンと跳ねて靴を履き、キーホルダーをポケットに入れる。

 そして両手で人差し指を立て、口角をキュッと上げた。

「先輩はどっちにしても登校するので、その時間は不変です。つまり先輩と一緒に登校しちゃえば、先輩の手間を要さず一緒に過ごせるという寸法です!」

「なるほどな」

 確かに立ち止まらなければ、余分な時間を要することはない。

 ワクワクしながら隣に並んでくるひなに、先輩としてちょっとしたいたずら心が湧いた。

「俺、登校中にやることあるんだよな~」

 ひながピタリと立ち止まる。

 そしてフルフル震えながら、俺に視線を上げた。

「ふ……ふぇぇ。じゃあ私もうちょっとベンチに待機しときます……」

 そう言ってひなは、俺からの返答を待たずにトボトボベンチへ帰還する。

 すぐに冗談であることを伝えようと待機していた俺は、慌ててひなの腕に触れ制止した。

「ご、ごめんごめんうそ! 一緒に登校しよう、な!」

 ひなは振り返って、目をまばたかせる。

 瞬きするごとに、しょぼんとした顔にみるみる生気が宿っていくような気がした。

「はい! 先輩と一緒に登校します!」

 冗談を特に非難することもなく、ひなはさい隣に並ぶ。

 従順な後輩。

 かつての俺は、そんなところにれたのだろうか。

 ありがわへの質問とかぶるが、俺はひなにもくことにした。

「なあ、ひな」

「はいっなんでしょう!」

「なんで俺なんか好きになったんだ? なんで三股許容できるんだ」

 すると、はじめてひなが不満そうな表情を浮かべた。

「俺なんか……なんかなんかじゃないですけど。そうですね……自分に自信があるからこそ、一人で行動していても良い目立ち方をしてる先輩への憧れというか……。三股は許容というより、むしろ三大派閥のお二人と並べられて光栄すぎるといいますか……」

「……よく分からないけど。じゃあどういう経緯で付き合ったんだ、俺たち」

「それは簡単です。毎日推しへ愛を一回伝えてたら、ふとした拍子にオッケーいただきました! 先輩からしたら面倒事を処理するような感覚かもですけど、まぁ結果オーライです」

 ……それ、一旦場を収めようとしただけな気が。

 本来なら断れば済む話だけれど──以前の俺ならそんな判断を下しかねない。何せ複数人も彼女を作るやからだし。

 俺は一旦思考を捨てて、しきを見渡した。

 さざめく木。せせらぐ川。

 春の匂いとともに、学校の気配が漂っているのが分かる。

 ……この感覚は、きっと前の自分のものだ。

 感覚に覚えがあっても──人格に覚えがない。誰にも理解されないであろう奇妙な感覚。

 一人だときっとこの微妙なかいが恐ろしく、周囲を重い世界に捉えていただろう。

 彼女三人とはいびつな関係性であるが、俺は間違いなく救われている。

 覚えのない人格が形成した関係性というのだけが、今の心に引っ掛かるけれど。

 風が吹く。

 ひなが、思考を巡らせる俺に視線を向けた。

「……先輩? その、そのそのそのっその」

「どうしたどうした落ち着いてくれっ」

 急に壊れたロボットみたいになったひなは、二回三回と深呼吸する。そして意を決したように口を開いた。

さんとか、ありがわ先輩とか。私なんかよりも頼りになる人、先輩の周りには沢山います」

 ひなは自身の胸にギュッと手を当て、言葉を続ける。

「でも、先輩を一番推してるのは私なので……誰にも頼れなくなる時があっても、私は無条件に先輩の味方ですからっ」

 それは弱々しくも、芯のある声だった。

 ずっと胸に秘めた感情を、この機会に吐露してくれたのかもしれない。

「……なんでそこまで。今の俺、記憶ないんだぞ」

「お……推し活です。推しの力になりたいのは当然ですよっ」

 無償の愛。ひなはそれが推し活だとのたまっている。

 何の解決もできないとひなは言った。

 だけど、追い込まれた際に誰かがいるだけで助かる人もいる。

 病室で目覚めた時、入院している時、自宅で過ごす時。

 どれも全て孤独だったら、自分を保てていたか自信がない。

 今の俺には、それが如実に分かる。

 前の俺は、この後輩に日々感謝を告げていたのだろうか。

 ……告げていないだろう。

 それは明日香や有栖川との会話から察せられる。

 だから今は、せめて心からのお礼を。

「……ありがとう。ひながいるだけで助かってるよ」

「……ふひへへへ。供給ポイント1アップ、ひなのレベルが3上がりました」

「どういう計算だよ!」

 ひなは満面の笑みで歩を進める。

 そして浮き立つ歩調で、俺に一つの事実を告げた。

「あと、先輩。さっきからずっと言えなかったんですけどね」

 ひなは、数秒のしゆんじゆんの末に口を開いた。

「……ずっとファスナー開いてますよ」

「……それはもっと早く言って??」

 俺は急いで全開になっていたファスナーを上げる。

 復帰二日目の朝、さいさきが良いのか悪いのか。

 俺は横で元気に跳ねるひなに目をやって、雲一つない空を見上げた。


 ◇◆


「また遅刻したぁ」

 授業が終わった途端、隣の席のありがわがニヤニヤと笑った。

 復帰後に一時間目をまだまともに受けられていない俺は、返す言葉が見つからない。

「これには仕方ない事情が……」とつぶやくので精一杯だ。

 有栖川は教科書を机の中にしまいながら、クスクス笑った。

「えー、事情ってなぁに?」

「目覚まし鳴らなかった!」

「そうなんだぁ、それなら仕方ないね」

 とは全く異なる返事に、俺は目をまばたかせる。

 しかし代わりに、前の席に座るたかが口を挟んできた。

「おいおい、仕方なくはないだろ? さなの理由が通るなら、俺も遅刻したいって!」

「そうかなぁ。そういうこともあるんじゃないかな」

 有栖川は高尾に向けて笑みを浮かべる。

 高尾は次の授業に必要な教科書で顔を仰ぎながら、口を開いた。

「有栖川、真田に甘いなー。絶対普通に寝坊しただけだと思うんだけど」

「全く同じことおさななじみにも言われたよ……」

 俺が答えると、高尾は軽快な笑みを見せる。

「まあ、だろーな。みなとってしっかりしてそうだし」

「否定はしないけど、抜けてるところもあるぞ」

 真っ黒になったオムライスを想起しながら、俺は微妙な反応をする。

 しかしたかは「幼馴染っていいよなあ」と和やかに言った。

 高尾大和やまと

 ツーブロックに暗めの茶髪が特徴の彼は、体育会系の雰囲気を醸し出しながらも、爽やかな印象を受ける。

 先程の授業では教科書に載っている物語の感想を近くの席の四人で共有する時間があったのだが、たかほとんど押し黙っている状態の俺に積極的に意見をいてくれた。

 昨日の印象は間違っていなかった。

 つまり、とっても気のいやつだ。

 高尾が視線を横にらし、ありがわに訊いた。

「そういえば、有栖川も遅刻したことないよな?」

「へー、そうなんだ」

 昨日の授業を爆睡していただけに、かなり意外だ。

 有名モデルの仕事がどれくらいの量かは分からないが、忙しそうだし。

 高尾の発言を意外に感じていると、有栖川はアッシュブラックの髪を無言でいた。

 高尾が戸惑ったように首をかしげると、ようやく有栖川が口を開く。

「私は遅刻とかどうでもいいけど」

「はは。相変わらず興味ない話題には塩対応だな」

「……そういう子よ、有栖川さんは」

 高尾の隣から声が聞こえて、俺は視線を横に向ける。

 あかい髪をなびかせるゆめさきがこちらに身体からだを向けるところだった。

 今しがたのやり取りは慣れたものなのか、あきれたように笑っている。

 隣で有栖川が「去年も同じクラスだったの」と教えてくれた。うん、雰囲気は悪くない。

 以前言っていた通り、三大派閥とは名ばかりで抗争のようなものはないみたいだ。

 筆頭同士が普通に言葉を交わすのが良い証拠である。

「有栖川さん、やっぱりさなとは仲良いのね」

 ……おい、〝とは〟ってなんですか。

 気になるもんごんがあり、有栖川に目をやる。

 有栖川は何食わぬ表情で夢咲に視線を返していた。

「あれ、もしかして私がゆう君を独り占めしちゃってるから嫉妬中?」

「嫉妬なんてしてないわ。なんでそう思ったのよ」

「ん~。久しぶりの勇紀君としやべりたいのかなって」

「あのさぁ、答えづらいこと言わないでくれる?」

「二人とも待ってほしいんだけど、本人目の前にいること忘れてない? これ裏でやる会話じゃないか?」

 俺が言葉を挟むと、ゆめさきは含みのある笑みをこぼす。

「てか夢咲とありがわって、去年同じクラスだったのか」

「そだよ。私の名前も覚えてないくらいだし知らないよねー……つかほんとに覚えてすらなかった? 名前も聞いたことなかった?」

 夢咲の質問に、俺は背筋を伸ばす。

 やばい。

 そういえば俺、昨日のやり取りから三大派閥も知らないことになっている。

「ご……ごめん。俺、結構忘れっぽくて」

 夢咲のプライドを傷付けていなければいいけど。

「ふうん。まあいいけど」

 夢咲は短く答えて、有栖川に向き直った。

 すると有栖川は何を思ったのか、とんでもないことを口走る。

ゆう君はこの一げつんなの記憶捨ててきたんだあ。だからちょっとしやべったことあるくらいじゃ、勇紀君は忘れちゃってるよ?」

「うおおおい何言い出すんですかアナタ!?

 俺は慌てて有栖川に言葉を放つ。

 しかしたかは、苦笑いして肩をすくめた。

「あー、だから昨日ちょっとぎこちなかったのか!」

 俺の動きが一瞬止まる。

 くやっていたつもりだったが、初対面の人にもバレるくらいだったのか。

「俺の名前はさなの記憶にとどまれないってことか? なあ真田。俺去年、体育祭の時に一回だけ話したことあるんだけどな」

 そうは言いながらも高尾は全く怒っていないらしく、冗談ぽく肩に手を回してくる。

 俺は戸惑いながらも、「いやー、たはは」と何とか笑顔を作った。

「そうそう。名前を覚えてもらってるのは、ギリギリ私くらいだよ」

 有栖川が助け船を出してくれる。

 だったら最初からおとしいれるなと言いたい。

「有名モデルでギリギリか。じゃあ俺も夢咲も認知されてなくて当然だな、あはは」

「うるさい、アンタと一緒にすんな!」

「ひどすぎて泣きそう」

 夢咲の返答に高尾がガックリうなれた時、別の男子から声が掛かった。

「今日の日直、黒板消ししておいてー! 次の授業さわ先生だから、やっとかないとキレられるぞ!」

 高尾は「やばっ」と一言残して、この場からフェードアウトする。

 途中退出の多い人だ。

 ゆめさきも俺たち二人と会話を続けるつもりはないらしく、「私も準備しなきゃ」と机の中をいじり始めた。

 休み時間なのにせわしない、教室の雰囲気。

 ……やっぱり、なんか懐かしいな。

 たかのことは覚えていなかったけれど、休み時間の空気はここいい。

 言葉では形容しがたい感覚に浸っていると、ありがわが「よいしょ」とこちらに距離を詰めた。

 奥行きのある香りがこうに侵入し、脳裏に情景がよぎる。

 ──柔らかい唇。

 病室で実行された、唐突なキス。

 思わず体を硬くしたが、さすがに同じ事態は起こらなかった。

 代わりに小声で耳打ちをされる。

「ね? 記憶喪失とか、普通誰も信じないよ」

「……だからって次はやめてくれよ、心臓に悪いし」

「心臓悪いの?」

「そういう比喩だよ!」

 有栖川がコロコロ笑う。

 俺が言葉を続けようとする、その時だった。

 廊下から見覚えのある人影が現れた。

 ライトゴールドの髪をたたえた女子生徒。

 おさななじみであり恋人のだ。

 教室で雑談に花を咲かせていた男子の一部が、話を中断して明日香に熱い視線を注ぐ。

 男子の一人が明日香の姿を視認すると「え!? 珍し!」と驚きの声を上げる。そして隣の男子が「壮観だぁ」と声を漏らした。その理由は明白。

 ──二年三組の教室に三大派閥の筆頭がせいぞろいだ。

 ぜんとした歩調でこちらに近付いた明日香は、俺と有栖川を交互に見た。

「ごめん。ちょっといい?」

 明日香が俺たち二人に言葉を投げる。

 有栖川はその声にゆっくりまばたきして、スッと視線を明日香に向けた。

 心臓が大きく脈打つ。

 俺は一気に緊張していた。派閥とやらは、もはやわいしような問題だった。

 何せこの二人は俺の──

「あれ、明日香さん。どうしたの?」

 心なしか、いつもの声色より少し冷たい。

 俺は内心平穏を祈りながら、二人へ交互に視線を移す。

「なぁに? あ、モデルになってくれる気になった?」

「違うわよ、モデルはいくら誘われてもやらないから」

 は小さく息を吐いて、言葉を続けた。

「……ゆうをちょっと貸してくれない? 私、勇紀をかわ先生に会わせなきゃいけなくて」

 紗季がありがわの名前だと理解するのに数秒を要し、湯川先生が以前言っていた担任の先生だと理解するのに更に数秒要した。

 本来なら早めに登校して湯川先生に挨拶するべきだったのだが、俺の寝坊たちがそれを阻止してしまったのだ。

 明日香にも湯川先生にも後でしっかり謝らなければいけないが、今はそんなことよりも。

 二人の彼女のやり取りがどうなるか、俺はドギマギしながら見守るしかない。

 有栖川が変なことを口走らないように祈らないと。

 その有栖川が、いつになく朗らかな声を出した。

「それなら私が付き添うよ? 同じクラスだしっ」

「ううん、大丈夫。同じクラスだし、紗季は勇紀の分のノートを取ってあげて。戻るまでちょっと時間かかるかもしれないから」


 ピキリ。


 あれ、今二人の間に亀裂が入ったような。

「も、もしもーし……」

 恐る恐る話し掛けるが、何と二人はガン無視である。

 有栖川はゆっくりまばたきした後、口元に弧を描く。

 そして少し考える仕草を見せた。

 ……次に出てくる言葉、絶対ロクなものじゃない。

 盛大に嫌な予感がして、俺は「ゴホン!」と大きくせきばらいした。

 有栖川がチラリと俺を横目に見て、小さく息を吐く。

「……ふう。いいよ~。いってらっしゃい」

「……ありがと。じゃあ勇紀はついて来て」

「お、おう」

 一触即発の雰囲気に、俺は一つ結論付けた。

 やっぱりこの二人を校内で会わせるのは、避けた方がいい。

 特に俺の眼前では。


 ◇◆


ってありがわからモデルに勧誘されてるんだな。すげーじゃん!」

「……」

 またまた、びっくりするくらいのガン無視。

「明日香さん……?」

 先ほどに続けてビビりながら名前を呼ぶと、明日香のがギロリと光った。

 俺はたじろいで、思わずガーッとわめく。

「ほ、他の人としやべっても気にしないって言ってたじゃないですか!」

「言ってない!」

「言ってましたけど!?

 昨日の会話を思い出させようとしたが、明日香は自信満々にスッとぼけた。

 しかし、これには一応明日香なりの思惑があるらしい。

「気にしないけど、ムカつくだけ」

「それって気にした結果の極致なのでは……?」

 明日香はピタリと立ち止まり、壁に寄りかかって前髪をかき上げた。

 若干乱雑な仕草に、心を落ち着かせようとしているのが分かった。

「あんたを優先したら気にならないけど、いざたりにしたらムカつく時もあるってことよ。彼女としては健全だと思うんだけど、悪い?」

「全然悪くないです、ボス。イエッサー!」

「話は終わり。行くわよ、付いてきなさい!」

 明日香は壁から離れ、ツカツカ廊下を進む。ノリがいのか、まだ怒っているのか怪しいところだ。

 髪がなびくたびに良い匂いがしてくるが、今は口にするのがはばかられる。

 結果、俺は話をらすことにした。

「そういえば、俺の担任の先生ってどんな人なんだ? 電話でやり取りしたけど」

 明日香は少しを空けたが、今度はしっかり答えてくれた。

「まあ、嫌な先生じゃないと思うわよ? あんたの世話係を誰にするか考えて、私に打診してくれるくらいだしね。しっかり私たちのことを見てる証拠よ」

「な……なるほどなーそりゃあ良い先生だわ」

「もうちょっとあいづち頑張りなさいよ、さっきの話続けてほしい訳?」

「続けてほしくない!」

「素直か!」

 は階段を登りながら、そうつっこんだ。

 絶対領域が見えそうになって、俺は視線を横に流す。

 そして、に言葉を紡いだ。

「でも、実際世話係は助かってるよ。入院中に相手してくれたこともそうだし、一昨日は掃除もしてくれただろ? ほこりまってるエリアとか、俺自分じゃ分かんなかったし」

「でしょ? 掃除の前には料理もしてあげたしね」

「焦がしてたけどな」

「それは忘れなさい!」

 明日香は少しむくれて振り返った。

 そしてあの光景を脳内から消したかったのか、話題をすぐに戻した。

「てか、先生の話だっけ。そう、唯一確定してるのはあんたの部活の顧問でもあることかな」

「顧問? 俺部活やってたってこと?」

 俺、自分について初耳のことが多すぎる件について。

 明日香はこともなげにうなずいた。

「ええ、サッカー部だったのよ。だからちょっと厳しい一面もあるかもね」

「うげぇぇしんどそぉぉ」

 反射的にげんなりした声を出すと、明日香は目をパチクリさせた後に吹き出した。

「あは、何その変な声。大丈夫、どちらかといえば私の方よ。先生に目をつけられてたのは」

「ええ……明日香が? 派閥の筆頭なのに?」

「あんた絶対派閥って言いたいだけでしょ! 派閥なんてOGきっかけで面白おかしく広まっただけで、ほんとはそんなのないんだからね。あー、広まった意味が今分かったわ、んなあんたみたいに楽しくて言ってるんだ。ほんとヤダ」

「はは、かっこいいしその説が濃厚だな。でも目つけられるなんて、一体何やらかしたんだよ」

 くと、明日香は口をとがらせた。

「失礼ね、何もしてないわよ。ちょっと髪が明るいとか、第二ボタン外してるとか、そういう理由」

「あーなるほど、風紀的な理由ね」

 丁度空いた窓から風が入ってきて、明日香の髪が大きくなびく。

 病室や外の世界では、明日香のライトゴールドの髪は少し目立つ程度だった。

 しかし場所が高校だと、クラスの雰囲気によってはとんでもなく浮いてしまいそうな髪色でもある。

 平たくいえばギャルという属性がピッタリな外見になっており、先生方から見れば小言を言いたくなるのだろう。

 俺の視線に何を思ったのか、はライトゴールドの髪を指でクルンといじった。

「これ、やっぱり黒に染め直した方がいいかな。……私も考えなくはないんだけどさ」

「いや、そのままでいいだろ。似合ってるし」

 風紀を乱すという先生方の主張も理解はできる。

 だけど個人的には、黒よりも今の髪色の方が明日香に似合う気がした。

 本人に似合っている髪色を支持するという、至って単純な思考回路。

 そんな俺の返事に、明日香は目を見開いた。

 反射的に出た言葉だが、明日香にとってはプラスに働く発言だったようだ。

「あ……ありがと」

「おい、なんで急にしおらしいんだよ」

「……なんでもない。ちょっとうれしかっただけ」

「なんでもなくねーじゃん! 照れるからやめろってそういうの!」

「あはは、ごめん。うん、さっきの件は私が大人おとななかったことを認めましょう。気を付けます」

 は肩を揺らして、上機嫌そうにあっけらかんと笑った。

 本当に気にならないというように、彼女の表情は明るいものだ。

 俺は一旦あんして、歩を進める。

 記憶を取り戻したいという理由はあれど、んなとの関係を続けるのは少し罪悪感もある。だけどそれで記憶が戻るなら明日香だって許してくれるはずだ。

 承諾済みなので、元々怒っている訳ではないかもしれないけれど。

 ──記憶が戻る前の俺に罰を与えるとしたら、どんな罰がいいんだろうな。

 周囲から見ればいささか変テコであろう思考を巡らし、無言で歩く。


 しばらくすると、西校舎の廊下へ辿たどいた。

 東校舎よりもいくらか寂れた廊下は何だか異質な雰囲気を感じる。

 十数秒ほど歩いて立ち止まり、明日香が視線を上げた。

 明日香にならって見上げると、プレートには『職員室』と記載されていた。

「さ、着いたわよ!」

 明日香は口角を上げて、プレートをビシッと指し示す。

「あー、待ってくれ。そういえば、今日は遅刻してごめんなさい」

 俺が謝ると、明日香が「今言うの?」と苦笑した。

「職員室に来た途端に謝ってもらってもね~」

 その返事に、何かもっと誠意のある謝罪はできないかと思考を巡らせる。

 しかし悲しいかな、とつの機転が利かずにパクパク口を開け閉めしただけだった。

「あはは、変な顔。じゃあその顔がかわ先生にも通じるか試してみましょうか」

「待て、もうちょっとちゃんとした言い訳考えさせてくれ!」

 ガラリ。

「うおおい!?

「言い訳なんてしなくていいわよ、怒ってはないと思うし」

 そう言って迷いなく進んでいく明日香に絶望しながらついて行くと、女性の先生が俺たちに反応した。

 昨日の一時間目に授業をしていた、若い先生だ。

 俺たち二人を手招きしているあたり、あの人が湯川先生か。

 長机に挟まれた狭苦しい通路を縫うように移動して、湯川先生の元に辿たどく。

 肩まで伸びた巻き髪の湯川先生は、二十代後半から三十代前半といったところか。

 メイクで目尻を僅かにげており、大人おとなの女性という印象を受けた。

「あーさな君、昨日ぶり! 色々と大変だったねぇ」

 てっきり遅刻について怒られると思っていた俺は、肩透かしを食らう。

「いえ、それほどでも……」

「どこで張ってんのよ、めちゃくちゃ大変でしょうがっ」

 横からが口を挟んだ。

 確かに記憶喪失は大変なことなのだが、条件反射で口をついて出てしまったのだ。

 まるで、この人には何回も怒られてきたような。

 かわ先生は僅かに笑みを浮かべてから、真剣な表情に戻った。

「おとうさんから事情は聞いてます。しばらくは大変なこともあると思うから、できるだけ出席点とか融通利かせられるようにするわね。あとは気分が悪くなったら、適宜保健室に行くこと」

「はい。ありがとうございます」

 ……父さんか。

 関係性が希薄だが、最低限学校への連絡などはしているようだ。

 そうでなければ一人暮らしをさせている状況が露見するから、なんて不純な動機のような気がするけれど。

 そして息子である俺としても、に今の環境は変えたくない。

 父さんは病院にも学校にも連絡してくれた。

 今はそれだけで充分だ。

 とうさんが望んで俺と顔を合わせないなら、能動的に接触を図るほどのモチベーションは俺にはなかった。

「それと、私は湯川です。昨日は自己紹介できなくてごめんね? 私、去年も君の担任だったから。あの場で自己紹介すると、んなに違和感覚えさせちゃうと思って」

 湯川先生の発言に、俺は思考を中断して返事をした。

「いえ。周りに事情を伏せようとしたら、どうしたってそうなりますから……それに、去年の俺を知ってる先生が担任だと回復にもつながりそうでうれしいです」

「そう言ってもらえると助かるわ」

 湯川先生はニコリと口角を上げた。

「ということで、さな君にはサポート係をつけようと思ってね。みなとさんとありがわさんにそれぞれ頼んであるから、先生の他は彼女たちを頼って。他の生徒は君の事情を知らないし。よね?」

 湯川先生が明日香に視線を移した。

「はい。むしろゆうの話は、私一人でとどめたかったですけど」

「そんなこと言わないでよー、さすがの湊さんも他のクラスの中までは目が届かないでしょ?」

「カメラ仕掛ければ届きますけど」

こええよやめろ!」

「冗談よ、うっさいわね」

「にしては声が平板すぎるんだよ!」

 俺が息を吐いてみせると、かわ先生は目をまばたかせてからジッと見つめてきた。

 まるでこちらを観察しているような印象を受ける視線だ。

みなとさん、さな君ってかなりはつらつとしてるね?」

「はい。元々こんな性格でしたよ」

「そうなの。去年はあんまりしやべれなかったから……」

 湯川先生は気を取り直したように、書類に目を落とした。

「部活とかの話は、また今度でいいかな。今は色々あるだろうし」

「おお、助かります。俺今運動とか自信ないんで」

 そう答えると、湯川先生は優しい笑顔でうなずいた。

「そうね、今は大変な時期だし。君の事情に助けになってくれる人はここにいるから、一人でまずにね」

「ありがとうございます……先生厳しいって言われてましたけど、めっちゃ優しいですね」

「私厳しいって言われてるんだ……ショック……」

 湯川先生は予想外にダメージを受けたらしく、ガックリうなれる。先生の様子に、は慌てたようにフォローした。

い先生ですよ! ホラ私が髪染めなくていいのって先生のおかげですしっ」

「湊さん……それすごく都合の良い先生って言ってるように聞こえるわ」

「うげっ、退散しよ」

 明日香はそそくさと職員室を後にする。

 後ろから追いついてきた俺に、明日香は頭をきながら言葉を紡ぐ。

「良い先生でしょ?」

「お前のお陰でよく分かったけど。あの先生に心配してもらえるなら、記憶無くなったのも悪くないな」

「ばか、それは全然悪いわよ。早く取り戻しなさいよね」

「分かってるよ、ジョークだって」

 俺は軽く笑ってから、言葉を続ける。

 古びた廊下は、やけに声を響かせた。

「なあ、今までの俺ってなんで友達いなかったんだ?」

 明日香は一旦立ち止まり、思案するように顎に手を当てた。

「難しいわね。うーん……人にあんまり興味なかった感じ? まあ、ただのボッチしつね」

「なんでストレートに言ったの? 最初オブラートに包もうとしてくれてたよな?」

「面倒になった」

「せめて弁明しろ!」

 俺のツッコみに、は肩を揺らして笑う。

 彼女の笑顔を見ながら、俺は思考を巡らせた。

 過去の性格。

 同じ〝さなゆう〟にもかかわらず、どうも今の性格とかいしている気がする。

 少なくとも──今の俺も、俺なんだけどな。

 古びた校舎の匂いが、鼻の奥をツンと突いた。