五話 隣の席の有栖川
あっという間に四時間目までの授業が終わり、昼休みの開始を示すチャイムが鳴る。
記憶の刺激される音。
俺は確かにこの学校に通っていた。
人を覚えていなくても、そう確信できるのはホッとする。
この調子なら、少しずつ記憶は戻っていきそうだ。
チャイムの余韻に浸りながら、俺はスマホをポケットから取り出した。
すると、二つの通知が届いている。
『hina : 先輩、今日ちゃんと学校に来れてますか?』
『Asuka : 調子どう?』
心配させすぎだろ、俺。
一旦心配を
まずはひなへの返信だ。
『Yuki : ありがとう、遅刻したけど何とか到着した!』
二百件ラインを送ってきた割に、意外と普段は控えめらしい。
次は
『Yuki : 授業終わったー! 調子はふつう! 今から昼休みだな!』
すると、今度はすぐに既読マークがついた。
『Asuka : 元気か笑 調子良さそうでなにより笑』
『Yuki : だから普通だって! 昼休みどうする?』
『Asuka : あんたはどうしたいの?』
『Yuki : 帰りたい!』
『Asuka : その選択肢だけはないわよ』
冷静なツッコミに口元を緩ませる。
文字のやり取りでツッコまれると、中々シュールだ。
この調子でお昼休みも一緒に過ごせれば、楽しい時間になるだろう。
しかし、明日香は別のことを考えているらしかった。
『Asuka : 今日はクラスの人たちとお弁当食べたら? クラス替え以来の登校だし、記憶
『Yuki : え、まじか!? めっちゃ不安なんだけど、初日は明日香に色々教えてもらえる特典とかないのか』
『Yuki : つーか、明日香が隣のクラスってのも今日知ったしな!』
『Asuka : それはゴメン』
『Asuka : お昼食べながら色々教えるのは全然いいんだけどさ、あんたそーいうのは自分の目で確かめるんじゃなかったっけ?』
その一言に、
……そうだな。
明日香に教えてもらうより、まずは自分で。
『Yuki : そうするわ。ありがとう、出陣してきます』
『Asuka : いってら!笑』
俺はスマホをポケットにしまい、決意と共に顔を上げる。
自分の目で、教室の人物相関図とやらを確かめる。
そのためには行動あるのみだ。
「スマホいじっちゃいけないんだぞぉ」
「うおあ!?」
甘い匂いが近くなり、俺は俊敏に後方へ避難した。
薄ピンクの唇が
「
「いや、いや。全然全然違うけど」
俺はブンブンかぶりを振って言葉を返す。
すると、
「何かビビってる?」
「ビビってない! 言っただろ、寝坊しただけだって!」
俺は
有栖川はおもむろに腰を上げて、俺の片付けを妨げるような距離に接近した。
「えーほんとかなぁ」
「近い近い近い」
「ふふ。気になるなあ、私も遅刻しようかなぁ。そうだ、明日一緒に遅刻しない? ちょうど今日スタバの新作出たんだ、飲もうよ」
「無理だわ、俺既に出席点とかやばいんだから!」
高校生にあるまじき誘いへ即座に断りを入れて、俺は素早く辺りを見回した。
有栖川の挙動に、周りの反応は様々だ。
熱い視線を投げる男子や、和やかな笑みを浮かべる男子。
お弁当を食べながら雑談する女子、一人で読書中の女子。
主に男子たちの反応が素直すぎる。
しかし同じクラスで一
ひとまず、嫉妬の炎で殴りかかってくる男子がいないようでホッとした。
いや、記憶を失う前に殴りかかられるべきだったけど。
そう思った俺が、辺りに巡らせていた視線を前方に戻した瞬間だった。
夢咲はふとした瞬間にこちらを見ていたようで、偶然目が合っただけ。
それなのに俺は視線を
一旦朝方のことについてお礼を言おうと、口を開く。
「夢咲、朝はありがとうな」
「……」
「……ガン無視?」
「ううん。どいたま」
「あれ、やっぱ俺嫌われてる……?」
まだ何もしていない気がするんですけど。
でも見ようによっては、
クラスのリーダーポジションであろう人間から嫌われた疑惑はダメージが大きく、落ち込みまくっていたらチョイと袖を引っ張られた。
振り向くと、
「じゃ、行こっか」
「へ? どこにだ」
「決まってるじゃん、お昼ご飯だよ。はい、お弁当持って」
有栖川は俺の
俺は自分の弁当箱に視線を落として、思案した。
──丁度いい。
俺も有栖川には、色々と
様々な
俺は素直に
◇◆
弁当箱を片手に、廊下を進む。
赤色の上履きは二年生の
やがてすれ違う生徒の上履きは青色に変移した。
「青色の上履きって何年生なんだっけ?」
「んー、一年生じゃなかったかな。分かんないけど」
「なんで分かんないんだよっ」
仮にも二年生まで在学しておいて、信じられない発言だ。
しかし発言の主が有栖川だったら納得しそうになるのが恐ろしい。
きっと周りに興味がないんだろうな。
これだけ際立った容姿を持つ女子だ。
自分が興味を持たずとも寄ってくる人は絶えず、寄ってくる人への興味だけでリソースを削られているに違いない。
……全員に興味ない可能性もあるけれど。うん、全員に興味ない方が
興味がないからこそ彼氏が彼女を三人も作っている状況も難なく受け入れてると考えたら、不思議としっくりきた。
まだロクに話していないにもかかわらず、勝手な解釈かもしれないけれど。
そう考えながら渡り廊下を移動して、東校舎から南校舎へ移る。
外へ出て
扉にはしっかり
しかし柵の手前は小さなスペースになっており、二人なら何とか座れそうだ。
有栖川がスペースに腰を下ろして、階段にプランと足を投げ出した。
隣に促されて、俺は思わず口を開く。
「なあ、こんな
「大丈夫だよ。元々私たち、仲良かったもん。それにここは
〝誰か〟の指し示す対象が〝彼女〟であることを察しているのか、有栖川はそう付言した。
「でも……そんなの確信できるか?」
「うん。
「変な言い方やめろよ!」
俺はそうツッコんで、視線を横に
四階からは運動場が一望できるが、それ以上のものは見えない。
住宅街の屋根が少し見えるくらいで、景観としてはマンションのベランダの方が良い。
しかし、この微妙な景観には見覚えがあった。
有栖川と通っていたかは定かじゃないが、俺が此処に来ていたことは本当のようだ。
「ね。学校は慣れた?」
「聞くの早くない? まだ登校して数時間しか
「順応力ないなぁ」
「あなたの基準がバグってるだけでは……」
「そんなことないもーん」
有栖川は制服のリボンを緩めて、首元をパタパタ
黒の下着が見え隠れして、俺は
しかしそれでは
この狭いスペースでは座れる場所は限られており、俺は結局有栖川の隣に腰を下ろす。
有栖川は「ふふ、ようこそ」と俺の太ももをツンと
甘い香りが
「
「えー、変な質問。彼女だからじゃダメなの?」
「ダメ。彼女が三人いる時点で、なんかダメ」
「そっかー、困っちゃったな」
「じゃあ君のお世話係だから、かな?」
「お世話係?」
オウム返しをすると、有栖川は「ぐっ!」と言って親指を立てた。
悔しいけれど、その仕草や発言一つ一つがとても
「先生からも頼まれててね。でもやっぱり、私が君と一緒にいるのはそんなの関係ないかも。君じゃなかったら断ってたし」
有栖川は目尻を下げる。
……このままじゃ危ない。
何が危ないかというと、心を乱されそうで危ない。
俺は返答に窮し、何とか言葉を絞り出した。
「た、食べようぜ? ささっとさ。できるだけ超特急で」
「えー、
「照れてない!」
「ぷ、そういうことにしといてあげよ」
有栖川はそう言いながらも素直に応じて、手を合わせる。
彼女の「いただきまぁす」という気の抜けた挨拶にも、何度か聞いたような
……本当に仲が良かったんだな、俺たち。
「ぱかり」
有栖川が明るい声とともに弁当箱を開けると、豪勢な中身が
弁当の中身なんてどの生徒も変わらないようなイメージだが、有栖川のそれはどれも
しかし一線を画しているのは食材よりも、弁当箱そのものである。
八角形の弁当箱は木で作られており、中は四つの
俺の弁当箱はプラスチック。
木箱の隣に並べると、何だかちゃちに見えてしまう。
そして弁当箱の蓋を開けると、自ら作った
冷凍食品も交ざっており、とてもじゃないが有栖川の弁当とは比較したくもない。
料理している最中は、出来る事が増える感覚もあって
だけど今、それをほんの少し後悔し始めている。
出来栄えから思うに、市販のお弁当にしていた方が良かったかもしれない。
「いただきっ」
「うお!?」
唐突に横からお箸が伸びて、冷凍食品の
「ふふ、冷たーい。これ冷凍食品だ?」
「そ──そうだよ! 焼売なんて、自分で作れないし。こちとら焼売が食べたかったら冷凍食品しか選択肢がないんだ!」
「これも
つまらない言い訳に全く耳を貸さない有栖川は、今度は牛肉を掻っ攫う。
冷凍食品の並びに交じった牛肉
「うん、
「く……お世辞はやめろって。そんな豪勢な弁当食べてる人が、半額の牛肉美味しく感じるかっての」

「
「ふごがぁ!?」
急に
何とか弁当箱は守って、俺は抗議した。
「な、なにすんだ! 弁当
「大切なんでしょ? そのお弁当」
「え?」
「これ、君が料理したんだよね。君自身の残した成果。……それって大切じゃん? 君の大切なものだから、
「この数個分の価値はあるね。等価交換だ、受け取り
……あれ、何かちょっと
今の自分を肯定してくれるような言葉に、素直に喜びたくなってしまった。
「あ……ありがたき幸せ。でも弁当大切なのは当たり前だろ、昼ご飯なんだから」
俺が弁当箱を差し出すと、有栖川は「そうとも言う~」とクスクス笑いながら唐揚げを三個入れてくれた。
……照れ隠しの返事も大らかに受け入れてくれる。
有栖川、心の余裕が
三人の彼女という状況を受け入れているのも、その在り方が影響しているのか。
「有栖川、大事なこと
「なぁに?」
「有栖川って、ほんとに俺のこと好きなのか」
その質問に、有栖川は目をパチクリさせた。
「ん、好きだよ? どうしたら百パーセント信じてくれるのかな」
「いや……そうだな……」
返事の内容が
「エッチする?」
「バカ、冗談でもやめろよ!」
「冗談じゃないもん。私たち付き合ってるんだよ?」
有栖川は口角を上げて、上目遣いを続ける。
アッシュブラックの髪が
大きな瞳がこちらを
「……し──したことあんの?」
「それは君とって意味?」
「う……ん」
歯切れの悪い返事に全て察したのか、
「まだないよ。だからこそ信じてもらえるかなって思ったの」
前の俺、手を出していなかったのか。
正直めちゃくちゃホッとしたけれど、それと今焦らないこととは話が別だ。
「……そ、そんなの……いや、でも」
しどろもどろになっていると、有栖川は更に続けた。
「実際にシたら、ちゃんと分かると思うよ。こればっかりは断言できないけど」
有栖川は「出たらいいなぁ」と付言して、俺の様子を
長い
「そんなあっさり言って……怖くないのか」
「うん、愛情が勝つ」
俺は口を閉じる。
いけないと分かっているのに、赤面しているのが自分でも分かった。
「ふふ、
「やめてくれ、あんまり見るな」
これ以上有栖川を直視できなかった俺は、弁当箱に視線を落とす。
今の俺が、彼女を好きかは分からない。
だけど
「……なあ、なんで俺が好きだったんだ?」
「えー? 照れちゃうなぁ。さては照れたいんだね?」
有栖川はクスクス笑いを
「私に興味なさそうなところかなぁ」
「……興味なさそうだから好きになるのか?」
先ほど俺は、有栖川に対して人に興味がなさそうだという感想を抱いた。
その答えが返ってくる気がして、耳を澄ませる。
有栖川はコクリと
「なるよ。ほら、私って三大派閥だし。世間的には割と有名人だし。周りには私に好意持ってる人とか、悪意持ってる人とかばっかりだし。私に興味自体がない人って全然いないの」
有栖川は恥ずかしげもなく、まるで
「変な目で見てくる割に、丁重に扱ってくれるし。でも君は、私のことけっこーゾンザイに扱うの。もうそれが気持ち良くって」
「へ、変な理由だな……恋愛ってそういうもんなのか?」
「ふふ、そういうもんです」
俺もそれに
太陽は照る。
温かい胸中に呼応するような春風が吹いて、平和な時間が過ぎていく。
有栖川の周りには、やはり人が寄ってたかるようだ。
以前の俺は、それと
記憶を失う前の自分に思いを
俺は寂しくなってきた弁当から視線を上げて、横を見る。
有栖川がこちらに視線を返し、俺の体は硬くなる。
緊張を
「なあ、そういや三大派閥って言ってたよな。それって何のことだ?」
病室でチラリとその
三大と
「あれ、明日香さんから説明なかったの?」
「うーん、誰かに自発的に質問しようと思って、聞くのやめたんだよな。有栖川に質問するなら、正直あんまり意味なかったかもだけど」
「意味ないなら教えなーい」
「ごめんなさい!」
失言に思わず頭を下げると、有栖川はクスクス笑った。
冗談のようで、俺は胸を
「えっーとね。私、
「は、明日香も!?」
驚いて弁当を落としそうになる。
夢咲
だけどよくよく考えてみれば明日香の容姿は人目を
本人から事前説明があったら、割とすんなり受け入れられるような話だ。
「派閥って言われてるだけで争いがある訳じゃないし、あんまり説明するところはないかな」
「なんだ、そうなのか。良かったー荒れてなくて、
「ヤンキー高校じゃないからね」
その様子を見ながら、俺はもう一つ
有栖川が学校内で有名人であることは想像に
「あと一ついいかな」
「ひぃよ~」
「有栖川って、有名人なのか?」
連続の質問に嫌な顔ひとつ見せなかった有栖川が、目を大きく見開いた。
そして頬張っていたものを
「え、もしかして今知ったの? 私言ってなかったっけ!」
「い、言われてないけど。有名人って、世間からってニュアンスだったよな?」
俺が訊くと、有栖川は自身のポケットを指し示す。
意図を測りかねていると、「スマホ取って」と端的に言われた。
「いや、自分で取ってくれよ」
「両手塞がってるもん。ほら見て、お箸とお弁当ぉ」
有栖川は両手で示してみせた。
そんなもの太ももに置けと言いたいところだが、それに対しての返答も用意されている気がする。
仕方なく、俺は手を伸ばした。あくまで仕方なくだ。
「し、失礼します……」
「きゃーエッチ」
「昭和の反応かっ」
「こんなに透き通る肌なのに?」
「自分で言うなっての!」
確かに日光の全てを
顔はおろか
いや今そんなことはどうでもよくて。
「もっと見る?」
「見ない!」
そして有栖川のポケットからスマホを探り当て、ようやく取り出した。
派手なブランドロゴが刻印されたスマホケース。持つ手が震えるが、階段に落としたらすぐに割れてしまいそうだ。
「暗証番号は3154だよ」
「有名人なのにめっちゃあっさり言うじゃん……」
「君は彼氏だし別にいいよ。いいから、はよ見て。インスタ開いてプロフィール見てみぃ」
「ちょっと待て、インスタグラムな……」
『Saki Arisugawa
フォロー205 フォロワー245605』
「……ハア!? 24まん!? ごせ……ごせ!?」
「すごいでしょっ、さすが有名モデルっ」
「すごすぎるわ、フォロワーの桁どうなってんだ!? 相当な有名人じゃねーか!」
俺は隣に座る人間のすごさを初めて認識し、心の底から震え上がった。
有栖川は俺の反応に満更でもなさそうに
「そうなの、全然
「凄いな確かに……いやでも、靡いたから付き合ったんじゃないのか?」
「違うよ、私が無理やり付き合わせたんだもん」
「め、めちゃくちゃなこと言うな……でもまあ、それならびっくりするくらいの鉄人だわ」
年頃の男で、有栖川に靡かないなんてことがあり得るのだろうか。
実際今の俺はこうして驚嘆してしまっているというのに。
「
俺が素直な感想を吐露すると、有栖川は頬を膨らませた。
「あーっ他の彼女の名前出したっ。デリカシーなさ男め」
「いや、だって……」
──そもそも別れようとしたのを引き留めたのは有栖川だろ。
そう言おうとして
そもそもという話をするなら、全て前の自分に責任が帰する。
「ごめんなさい、気を付けます」
「何考えてたか当てるね?」
「へ?」
「別れようとしたのに止めてきたのはお前だろ。いやでもそもそも前の俺が三股なんてしなければ……まぁいいや、考えるのやめた。ここは
「後半が違う、最後は圧倒的に違う!」
「てことは前半は正解だぁ」
「だーっ俺のばか!」
俺は自分の額を殴る。
馬鹿な頭を
有栖川は俺の挙動にまた笑って、言葉を連ねた。
「別に後半も良いと思うけどね。今の君は何にも覚えてないんだから、何にも責任ないと思うよ? 楽しむだけ楽しんじゃえっ」
「いや、普通に責任はあるだろ。記憶が無くても、一応俺が俺であることには変わりない訳だし。俺がどう思うかはさておき、周りから見ればさ」
「わぁすごい、仮面ライダーが言ってそうなセリフだ」
「
確かにヒーローが言いそうな口上だったが、本心なので仕方ない。
俺は一息
「今のこの関係を続けてるのはな、あくまで記憶を戻すためだろ。それは
今の俺が記憶を取り戻すことを優先した結果ならまだしも、前の俺が作った彼女なのだから。
有栖川は一度視線を外に
「お医者さんからは何て言われてるの? 記憶の戻し方とか」
耳
退院するまでに何度もあったカウンセリングでは、その説明を何度もされた。
「……記憶を戻すには、元いた環境に身を置くのが大事って言われたよ。あとはなんか、逃げることも大事だとも言ってたな」
「そっか。私から逃げたら何されるか分かんないしね。元いた環境に身を置けて、ストレスからも解放される。最高じゃん、一生付き合おうよ」
「一生は嫌だ! 尻に敷かれる未来が見える!」
俺がそっぽを向くと、有栖川は耳をチョイと引っ張った。
「ふふふ」
「……な、なんでしょうか」
「ううん。やっぱり君は、記憶が無くなっても君なんだって思ってさ」
「どこを見てそう思ったんだよ……」
「私に興味なさそうなところ? 君が照れてるのは、私みたいにすっごい
こともなげな口調に、思わず目を
「いや、そんなことは」
「私はそれでいいよ。前もこうして言い寄ってたし、ちょっと段階が戻っただけだしね」
「え?」
俺が戸惑いの声を上げると、
「私ねぇ。君の記憶があってもなくても、どっちでもいいんだ。君とこの関係を続けられるなら、私はそれで」
有栖川はニコリと笑う。
「これから積み上げていけばいいし。むしろほら、有利になるし? 私、今までは二人目だった訳だから。
「なんというか……よく二人目とか、そういうので付き合うことになったよな。しかもお互い合意の上で」
「うん。きっと君、私を断るのが面倒だったんじゃないかな? 明日香さんをどうやって納得させたのかは分からないけど」
返答できずにいると、有栖川はパクパク弁当を平らげていく。
有栖川も、特に俺の返答を求めている訳ではないらしい。
本来何かしらの言葉を返した方がいいはずだ。
だが俺は、自身の弁当を平らげることに集中力を割いている。
自覚はある。
今何の言葉も返さないのは、ストレスから逃げる行為。ただの
しかし有栖川はそれを
自分のペースに巻き込むくせに、俺のペースも尊重してくれる。
……これが演技じゃないとしたら、俺は有栖川について誤解していたみたいだ。
唯我独尊に見えて、きっと有栖川は人を気遣う。
「言い忘れてた」
有栖川がこともなげに
「君の言うことなら、私は何でも聞いてあげるからね」
何でも。普通ならその範囲は常識内に
それなら、一つだけある。これからの生活に欠かせないことが、一つだけ。
俺は意を決して、口を開いた。
「じゃあ、一つだけいいか」
「なあに? やっぱり
「違う。……学校ではちゃんと友達として接してくれ」
「
「どんな耳してんだ!」
「……ふう。もう、つまんないなぁ」
「私といれば、色んなチャンスがあると思うよ。生かすも殺すも君次第」
昼休みが終わる。
記憶喪失の俺にとって、意味深な言葉を残して。
◇◆
放課後の空気が好きだ。
窓が開け放たれた廊下は風が気持ち良い。
人通りの少なくなった廊下は、二年三組の教室よりも
教室よりも開放感があるからだろうか。
校庭から聞こえる運動部の掛け声や、吹奏楽部の奏でる音色。
「今日はどうだった?」
合流した
昼休みには合流しなかった
職員室前の廊下に集合したのは、担任の先生に挨拶するためだ。
「ねー、聞いてる?」
「聞いてるよ、先生いなくて残念だったよな」
「そんな話してないわよ!」
明日香は不満そうな顔でそう言った。
俺は小さく笑いながら、「ごめんごめん」と謝罪する。
「ったく。まあ、先生とは元々朝に挨拶できる予定だったしね。遅刻するから予定ズレちゃっただけで」
「先生、出張のタイミング悪いよなー」
「明日はしっかり時間取ってもらえるから大丈夫よ。で、もう話戻していい? 今日は一日どうだったの」
「楽しかった!」
「うん、その答えが聞けてよかったわ」
明日香はそう言いながら、自分の下駄箱へ歩を進める。
明日香の外履きは、同じ列の数メートル離れたところに仕舞ってあるらしい。
俺は自身の上履きから、黒のスニーカーに履き替える。
汚れの目立たないスニーカーに視線を落として、思考を巡らせた。
普通に笑えるんだな、俺。
三人の彼女がいるという自覚を持ちながら、我ながら図太い話だ。
自分の話だという認識はあっても自分のした結果だという自覚が薄く、また本人たちが承諾しているというのが要因だろう。
記憶がないのだから感情が追いつかないのはある意味当然だと思うものの、いつまでも続けられる関係ではない。
しかし今の俺には
今週の学校が終わったら、休日にはカウンセリングがある。その時に少し相談してみよう。
「お待たせ!」
「おす。じゃー帰るか」
俺は
校舎を出ると、丁度運動部が外周で走ってくるところだった。
ジャージ姿の男子生徒で構成された列の中に、見覚えのある生徒がいる。
俺は思わず口を開けた。
「あ、
一つ前の席に座る男子生徒。
「早速名前覚えたんだ。偉い偉い」
明日香が面白そうに言ったところで、高尾がこちらの視線に気が付いた。
すると列を抜けて、俺の方に駆けてくる。
「よ、
「相変わらず?」
俺が
「そーだよ、俺みたいな人間にはマジ
「いや、高尾も夢咲と仲良さげじゃん」
「あれは仲
苦笑いといっても、作為的な笑みだ。
本心では満更でもないんだろう。
俺が返事をしようとすると、先に
「高尾君、私たちはそんなんじゃないわよ?」
「あはは、だから余計
「嫌よ、別に仲良くないのに」
「うわきっつ!? もうちょっと優しくして!」
高尾は和やかに笑い、俺に視線を戻した。
「
「おおお……高尾、やっぱりもしかしなくても激良いやつか?」
軽く感動しながら
「おう、めっちゃ良いやつだ! だから女子皆んなに広めてくれ、俺モテたいから! 真田からの発信だと絶対モテる!」
「素直すぎるわ、その真意はまだ隠しとけ!」
俺のツッコミに、高尾は白い歯を見せて笑う。
……俺、友達がいない割に結構評判良かったんだな。
以前の俺は、一体どんなマジックを使って三人を彼女にして、友達も作らず世渡りをしていたんだろう。
その二つって両立できるものなんだろうか。
そんな思考を頭の隅に、男同士の会話を楽しんでいると明日香が
「会話の途中で悪いけど、皆んないなくなったわよ?」
高尾は「やべっ」と振り返る。
一緒に走っていた部員たちの姿はとうに見えなくなっていた。
「行くわ、ごめん! 真田、また明日な!」
高尾は
さすがは運動部。
そして、高尾への感想は一つだ。
「めっちゃ良いやつ……」
「そうね。変な人だけど、まああの子と席近いなら私も安心だわ」
明日香は
その柔らかい笑みをさっきも見せてくれたら、
そうは思いつつも、自分以外には見せない
有栖川の存在感に対抗できそうなほど、明日香も鮮烈な外見だった。
実際三大派閥とやらの筆頭らしいし、有名モデルとも同格扱い。
こんな存在が俺の彼女を名乗っているなんて、今でも信じられない。
「……三大派閥筆頭さーん」
ふざけながら呼び掛けると、明日香はゲンナリしたように顔を
「うわ、最悪。もう知ったの!?」
「説明しといてくれよな、筆頭さん。すげえじゃん筆頭さん!」
「うっさいイジってくんな! あんなしょーもない
「代償おっも!? ごめん二度と言わないわ!」
有栖川と異なり、明日香は三大派閥とやらに何の愛着も湧いていないようだ。……ある意味明日香らしいな。むしろ有栖川が興味ありそうなのが意外だ。
そう考えながら、
学校から出たばかりなのにと訝しむと、明日香が「あれは中学よ」と教えてくれた。
「ひなちゃんもあそこ出身だったはずね」
「へえ、ひなもか。だから知り合いだったんだんだな」
ひなとの交際期間は半年らしいから疑問には思っていたが、合点がいった。
前の俺は、何らかのきっかけであの中学にいたひなと知り合ったんだろう。
明日香が俺に話しかける。
「そんなことより、
「ん、どした」
「
「え? 働くって──」
返事をせずにいると、明日香は「正気?」と笑った。
「有栖川さんよ。今日一緒にお昼ご飯食べてたでしょ?」
「たべ……!?」
その問い掛けに、俺は思わず口を
隣を歩く明日香が、チラリとこちらに視線を
大通りを曲がると、視界に入る景観が中学から住宅街になる。歩を進めていくにつれて、その住宅街の雰囲気も変わる。
瓦屋根が多めだった景観が、西洋風の家々が立ち並ぶものへ変移する。
「……おーい、何で黙ってるの?
「食べて……たべ……」
「なに隠そうとしてんのよ。別に私、本人から聞いてるから──」
「ほえ?」
歩きながら、俺は思わず両手を合わせた。
「いや、ごめん! 他の彼女と学校で
「何勝手に焦ってんのよ、そんなの気にしてたら三股なんか許容できないでしょ」
「おお、すっごい変なセリフ……」
「うっさい!」
俺が「いででで!」と反応すると、明日香は僅かに口元を緩めた。
とんだドS彼女である。
「
「そ、そうかそれを知ってたのか。なんだー良かった、帰るかゴウホウム」
「急に態度変わりすぎよ!」
明日香は遠ざかる俺の首根っこを
「紗季が世話係だってことを知ってるのは私だけだからね。あの子がサボってるようなら私に言いなさい」
「分かったよ」
俺は明日香の手から何とか逃れながら、言葉を続けた。
「でも、ほんとに何も思わないのか? 俺ら、一応付き合ってるのに」
彼女たちの存在を認知してからスマホで何度「彼女」「三股」のワードを検索したか分からない。
調べていた時は、恋愛関連の記事にはいつも「嫉妬」の二文字も見え隠れしていた。
「嫉妬」はまさに今しがたの状況に該当しそうな
「思わないっての。まあ
明日香はあっさり笑って、視線を前方に戻した。
「でも、周りの目とか……そういや
「うん。もちろん周りにはバレてないからね、私たちの仲。だから頭のことと同様、わざわざ言わないでね」
周りに言わないのは当然だ。
それは自身を守るためでもあり、彼女たちを守るためでもある。
そう考えていると、明日香が一歩先に出て通せんぼする。
くるりと振り向いた直後、口に人差し指を当ててきた。
柔らかい、指先の感触。
「分かった?」
「──ふぁかった」
「あはは、よろしい」
明日香は
再び歩き始めるが、俺は数秒その場で立ちすくみ、慌てて追い掛ける。
「そういえばこれ言うの忘れてたわね、危なかったー」
明日香は自身の胸に手を当てて深く息を吐いている。
本来登校日前に言っておく予定だったらしい。
「三大派閥のことといい、大事なことは伝えてくれよな」
「だって、何が大事か分からないくらいあんた忘れちゃってるんだもん」
明日香は口元を緩めて言った。
柔らかい声色だ。
……そりゃ、三人の彼女を
関係の始まりだって全く覚えていないから、この関係を始めると決断した理由だって分からない。
今の自分になってから少し
「ほんとに忘れちゃったんだなあ、俺」
「自分で言ってりゃ世話ないわね」
明日香は笑う。
夕焼けに染まった空に、カラスが三羽