五話 隣の席の有栖川



 あっという間に四時間目までの授業が終わり、昼休みの開始を示すチャイムが鳴る。

 記憶の刺激される音。

 俺は確かにこの学校に通っていた。

 人を覚えていなくても、そう確信できるのはホッとする。

 この調子なら、少しずつ記憶は戻っていきそうだ。

 チャイムの余韻に浸りながら、俺はスマホをポケットから取り出した。

 すると、二つの通知が届いている。

『hina : 先輩、今日ちゃんと学校に来れてますか?』

『Asuka : 調子どう?』

 心配させすぎだろ、俺。

 一旦心配をふつしよくするために、二人に返信をし始める。

 まずはひなへの返信だ。

『Yuki : ありがとう、遅刻したけど何とか到着した!』

 しばらく待ったが、既読マークはつかない。

 二百件ラインを送ってきた割に、意外と普段は控えめらしい。

 次はへの返信だ。

『Yuki : 授業終わったー! 調子はふつう! 今から昼休みだな!』

 すると、今度はすぐに既読マークがついた。

『Asuka : 元気か笑 調子良さそうでなにより笑』

『Yuki : だから普通だって! 昼休みどうする?』

『Asuka : あんたはどうしたいの?』

『Yuki : 帰りたい!』

『Asuka : その選択肢だけはないわよ』

 冷静なツッコミに口元を緩ませる。

 文字のやり取りでツッコまれると、中々シュールだ。

 この調子でお昼休みも一緒に過ごせれば、楽しい時間になるだろう。

 しかし、明日香は別のことを考えているらしかった。

『Asuka : 今日はクラスの人たちとお弁当食べたら? クラス替え以来の登校だし、記憶うんぬん除いてもクラスの人とはまないと』

『Yuki : え、まじか!? めっちゃ不安なんだけど、初日は明日香に色々教えてもらえる特典とかないのか』

『Yuki : つーか、明日香が隣のクラスってのも今日知ったしな!』

『Asuka : それはゴメン』

『Asuka : お昼食べながら色々教えるのは全然いいんだけどさ、あんたそーいうのは自分の目で確かめるんじゃなかったっけ?』

 その一言に、せわしなく画面に走らせていた指を止める。

 ……そうだな。

 明日香に教えてもらうより、まずは自分で。

『Yuki : そうするわ。ありがとう、出陣してきます』

『Asuka : いってら!笑』

 俺はスマホをポケットにしまい、決意と共に顔を上げる。

 自分の目で、教室の人物相関図とやらを確かめる。

 そのためには行動あるのみだ。

「スマホいじっちゃいけないんだぞぉ」

「うおあ!?

 ありがわが隣の席から身を乗り出してきた。右手にはか棒キャンデイがまれている。

 甘い匂いが近くなり、俺は俊敏に後方へ避難した。

 ありがわはその様子を目をパチクリさせて眺めた後、ふっと口元に弧を描く。

 薄ピンクの唇がつややかで、男子の心をドキドキさせる。病室でのキスが脳裏をよぎった。

ゆう君、なんで今日遅れたの? しっかり朝ご飯食べたいタイプ?」

「いや、いや。全然全然違うけど」

 俺はブンブンかぶりを振って言葉を返す。

 すると、ありがわは小首をかしげた。

「何かビビってる?」

「ビビってない! 言っただろ、寝坊しただけだって!」

 俺ははじかれたように自分の席に戻り、教科書を机に収納する。

 有栖川はおもむろに腰を上げて、俺の片付けを妨げるような距離に接近した。

「えーほんとかなぁ」

「近い近い近い」

「ふふ。気になるなあ、私も遅刻しようかなぁ。そうだ、明日一緒に遅刻しない? ちょうど今日スタバの新作出たんだ、飲もうよ」

「無理だわ、俺既に出席点とかやばいんだから!」

 高校生にあるまじき誘いへ即座に断りを入れて、俺は素早く辺りを見回した。

 有栖川の挙動に、周りの反応は様々だ。

 熱い視線を投げる男子や、和やかな笑みを浮かべる男子。

 お弁当を食べながら雑談する女子、一人で読書中の女子。

 主に男子たちの反応が素直すぎる。

 しかし同じクラスで一げつも過ごしていればさすがに慣れもあるのか、こちらに視線を向けていた男子たちもすぐにおのおのの会話へ戻っていく。

 んな授業終わりの目の保養をするのが日課になっているだけのようだ。

 ひとまず、嫉妬の炎で殴りかかってくる男子がいないようでホッとした。

 いや、記憶を失う前に殴りかかられるべきだったけど。

 そう思った俺が、辺りに巡らせていた視線を前方に戻した瞬間だった。

 ゆめさきようと視線が交差する。

 夢咲はふとした瞬間にこちらを見ていたようで、偶然目が合っただけ。

 それなのに俺は視線をらすことができなかった。

 一旦朝方のことについてお礼を言おうと、口を開く。

「夢咲、朝はありがとうな」

「……」

「……ガン無視?」

「ううん。どいたま」

 ゆめさきはスックと立ち上がり、お弁当箱を片手に教室から出て行ってしまった。

「あれ、やっぱ俺嫌われてる……?」

 まだ何もしていない気がするんですけど。

 でも見ようによっては、んなの注目を浴びる中で友達宣言をさせるのは嫌われる理由として事足りるかもしれない。

 クラスのリーダーポジションであろう人間から嫌われた疑惑はダメージが大きく、落ち込みまくっていたらチョイと袖を引っ張られた。

 振り向くと、ありがわがこちらを見上げている。

「じゃ、行こっか」

「へ? どこにだ」

「決まってるじゃん、お昼ご飯だよ。はい、お弁当持って」

 有栖川は俺のかばんから弁当箱を引っ張り出し、口角を上げる。

 俺は自分の弁当箱に視線を落として、思案した。

 ──丁度いい。

 俺も有栖川には、色々ときたいことがある。

 様々なうわさが流れていそうな有栖川だからこそ、自分の目で確かめられるチャンスは復帰初日の今しかない。

 俺は素直にうなずき、有栖川から弁当箱を受け取った。棒キャンディは断った。


 ◇◆


 弁当箱を片手に、廊下を進む。

 赤色の上履きは二年生のあかし。その二年生たちは、皆んなすれ違いざまにチラリと俺たちに視線を向ける。

 やがてすれ違う生徒の上履きは青色に変移した。

「青色の上履きって何年生なんだっけ?」

「んー、一年生じゃなかったかな。分かんないけど」

「なんで分かんないんだよっ」

 仮にも二年生まで在学しておいて、信じられない発言だ。

 しかし発言の主が有栖川だったら納得しそうになるのが恐ろしい。

 きっと周りに興味がないんだろうな。

 これだけ際立った容姿を持つ女子だ。

 自分が興味を持たずとも寄ってくる人は絶えず、寄ってくる人への興味だけでリソースを削られているに違いない。

 ……全員に興味ない可能性もあるけれど。うん、全員に興味ない方がありがわらしい気がする。

 興味がないからこそ彼氏が彼女を三人も作っている状況も難なく受け入れてると考えたら、不思議としっくりきた。

 まだロクに話していないにもかかわらず、勝手な解釈かもしれないけれど。

 そう考えながら渡り廊下を移動して、東校舎から南校舎へ移る。

 外へ出てせん階段を登っていくと、視界に屋上が現れた。

 扉にはしっかりなんきんじようが掛かっており、進むことはできない。

 しかし柵の手前は小さなスペースになっており、二人なら何とか座れそうだ。

 有栖川がスペースに腰を下ろして、階段にプランと足を投げ出した。

 隣に促されて、俺は思わず口を開く。

「なあ、こんなひとのない場所で誰かに見られたらさ」

「大丈夫だよ。元々私たち、仲良かったもん。それにここはさんも来ないし」

〝誰か〟の指し示す対象が〝彼女〟であることを察しているのか、有栖川はそう付言した。

「でも……そんなの確信できるか?」

「うん。は私たちの巣だからね」

「変な言い方やめろよ!」

 俺はそうツッコんで、視線を横にらす。

 四階からは運動場が一望できるが、それ以上のものは見えない。

 住宅街の屋根が少し見えるくらいで、景観としてはマンションのベランダの方が良い。

 しかし、この微妙な景観には見覚えがあった。

 有栖川と通っていたかは定かじゃないが、俺が此処に来ていたことは本当のようだ。

「ね。学校は慣れた?」

「聞くの早くない? まだ登校して数時間しかってないんだけど」

「順応力ないなぁ」

「あなたの基準がバグってるだけでは……」

「そんなことないもーん」

 有栖川は制服のリボンを緩めて、首元をパタパタあおいだ。

 黒の下着が見え隠れして、俺はとつに目を逸らす。

 しかしそれではいささか不自然に映りそうなので、座る場所がないか探すフリをした。

 この狭いスペースでは座れる場所は限られており、俺は結局有栖川の隣に腰を下ろす。

 有栖川は「ふふ、ようこそ」と俺の太ももをツンとつついた。

 甘い香りがこうに入り、俺は目をまばたかせる。

ありがわ、なんで俺をお昼に誘ってくれたんだ?」

「えー、変な質問。彼女だからじゃダメなの?」

「ダメ。彼女が三人いる時点で、なんかダメ」

「そっかー、困っちゃったな」

 ほど困っていなさそうな声を出し、有栖川は小首をかしげる。

「じゃあ君のお世話係だから、かな?」

「お世話係?」

 オウム返しをすると、有栖川は「ぐっ!」と言って親指を立てた。

 悔しいけれど、その仕草や発言一つ一つがとても可愛かわいい。いやそうじゃなくて。

「先生からも頼まれててね。でもやっぱり、私が君と一緒にいるのはそんなの関係ないかも。君じゃなかったら断ってたし」

 有栖川は目尻を下げる。

 ……このままじゃ危ない。

 何が危ないかというと、心を乱されそうで危ない。

 俺は返答に窮し、何とか言葉を絞り出した。

「た、食べようぜ? ささっとさ。できるだけ超特急で」

「えー、せわしないなあ。さては照れたな?」

「照れてない!」

「ぷ、そういうことにしといてあげよ」

 有栖川はそう言いながらも素直に応じて、手を合わせる。

 彼女の「いただきまぁす」という気の抜けた挨拶にも、何度か聞いたようなみがあった。

 ……本当に仲が良かったんだな、俺たち。

「ぱかり」

 有栖川が明るい声とともに弁当箱を開けると、豪勢な中身があらわになった。

 弁当の中身なんてどの生徒も変わらないようなイメージだが、有栖川のそれはどれもきらびやかだ。

 しかし一線を画しているのは食材よりも、弁当箱そのものである。

 八角形の弁当箱は木で作られており、中は四つのひし形の木箱で仕切られている。

 俺の弁当箱はプラスチック。

 木箱の隣に並べると、何だかちゃちに見えてしまう。

 そして弁当箱の蓋を開けると、自ら作ったしろうと丸出しのおかずたち。

 冷凍食品も交ざっており、とてもじゃないが有栖川の弁当とは比較したくもない。

 は「お弁当作ってあげようか?」と提案してくれたが、黒焦げのオムライスで不安になっていた俺は昨日自分で作ってしまったのだ。

 料理している最中は、出来る事が増える感覚もあってたのしかった。

 だけど今、それをほんの少し後悔し始めている。

 出来栄えから思うに、市販のお弁当にしていた方が良かったかもしれない。

「いただきっ」

「うお!?

 唐突に横からお箸が伸びて、冷凍食品の焼売しゆうまいさらわれた。

 ありがわは制止する間もなく焼売を口に放り込み、そしやくし始めた。

「ふふ、冷たーい。これ冷凍食品だ?」

「そ──そうだよ! 焼売なんて、自分で作れないし。こちとら焼売が食べたかったら冷凍食品しか選択肢がないんだ!」

「これももらおっと」

 つまらない言い訳に全く耳を貸さない有栖川は、今度は牛肉を掻っ攫う。

 冷凍食品の並びに交じった牛肉いため。スーパーで買った半額の牛肉を、焼肉のタレと一緒に炒めたものだ。

「うん、し。これはゆう君の味がするね」

「く……お世辞はやめろって。そんな豪勢な弁当食べてる人が、半額の牛肉美味しく感じるかっての」

ひねくれちゃんめぇ」

「ふごがぁ!?

 急にりようほおわしづかみにされて、俺は階段からずり落ちそうになる。

 何とか弁当箱は守って、俺は抗議した。

「な、なにすんだ! 弁当こぼしたらどうすんだよっ」

「大切なんでしょ? そのお弁当」

「え?」

「これ、君が料理したんだよね。君自身の残した成果。……それって大切じゃん? 君の大切なものだから、しく感じる。だから全然お世辞じゃないよ」

 ありがわはそう言って、豪勢なお弁当箱から唐揚げを取り出した。

「この数個分の価値はあるね。等価交換だ、受け取りたまえ」

 ……あれ、何かちょっとうれしいな。

 今の自分を肯定してくれるような言葉に、素直に喜びたくなってしまった。

「あ……ありがたき幸せ。でも弁当大切なのは当たり前だろ、昼ご飯なんだから」

 俺が弁当箱を差し出すと、有栖川は「そうとも言う~」とクスクス笑いながら唐揚げを三個入れてくれた。

 ……照れ隠しの返事も大らかに受け入れてくれる。

 有栖川、心の余裕がすごいな。

 三人の彼女という状況を受け入れているのも、その在り方が影響しているのか。

「有栖川、大事なこといていいか?」

「なぁに?」

「有栖川って、ほんとに俺のこと好きなのか」

 その質問に、有栖川は目をパチクリさせた。

「ん、好きだよ? どうしたら百パーセント信じてくれるのかな」

「いや……そうだな……」

 返事の内容がまとまらずに思案していると、有栖川は小首をかしげた。

「エッチする?」

「バカ、冗談でもやめろよ!」

「冗談じゃないもん。私たち付き合ってるんだよ?」

 有栖川は口角を上げて、上目遣いを続ける。

 アッシュブラックの髪がなびいて、彼女の耳元をあらわにした。

 大きな瞳がこちらをのぞき、彼女の世界に吸い込まれるような感覚になる。

「……し──したことあんの?」

「それは君とって意味?」

「う……ん」

 歯切れの悪い返事に全て察したのか、ありがわは口元に弧を描いた。

「まだないよ。だからこそ信じてもらえるかなって思ったの」

 前の俺、手を出していなかったのか。

 正直めちゃくちゃホッとしたけれど、それと今焦らないこととは話が別だ。

「……そ、そんなの……いや、でも」

 しどろもどろになっていると、有栖川は更に続けた。

「実際にシたら、ちゃんと分かると思うよ。こればっかりは断言できないけど」

 有栖川は「出たらいいなぁ」と付言して、俺の様子をうかがってくる。

 長いまつが思慮深く揺れている。

「そんなあっさり言って……怖くないのか」

「うん、愛情が勝つ」

 俺は口を閉じる。

 いけないと分かっているのに、赤面しているのが自分でも分かった。

「ふふ、可愛かわいい」

「やめてくれ、あんまり見るな」

 これ以上有栖川を直視できなかった俺は、弁当箱に視線を落とす。

 今の俺が、彼女を好きかは分からない。

 だけどうれしいことを言われているという自己認識は明確に存在していた。

「……なあ、なんで俺が好きだったんだ?」

「えー? 照れちゃうなぁ。さては照れたいんだね?」

 有栖川はクスクス笑いをこぼしてから、晴天に視線を流した。

「私に興味なさそうなところかなぁ」

「……興味なさそうだから好きになるのか?」

 先ほど俺は、有栖川に対して人に興味がなさそうだという感想を抱いた。

 その答えが返ってくる気がして、耳を澄ませる。

 有栖川はコクリとうなずいた。

「なるよ。ほら、私って三大派閥だし。世間的には割と有名人だし。周りには私に好意持ってる人とか、悪意持ってる人とかばっかりだし。私に興味自体がない人って全然いないの」

 有栖川は恥ずかしげもなく、まるでうたうかのように言葉を紡ぐ。

「変な目で見てくる割に、丁重に扱ってくれるし。でも君は、私のことけっこーゾンザイに扱うの。もうそれが気持ち良くって」

「へ、変な理由だな……恋愛ってそういうもんなのか?」

「ふふ、そういうもんです」

 ありがわは初めてほんの少し恥ずかしそうな笑みを浮かべて、食事を再開する。

 俺もそれにならって、頂いた唐揚げを口に放り込む。

 んだ瞬間に肉汁が口内で躍り始め、高級そうな味に俺はしたつづみを打つ。

 太陽は照る。

 温かい胸中に呼応するような春風が吹いて、平和な時間が過ぎていく。

 有栖川の周りには、やはり人が寄ってたかるようだ。

 以前の俺は、それとまぎやくだったということか。

 記憶を失う前の自分に思いをせながら、弁当を半分ほど食べ終える。

 俺は寂しくなってきた弁当から視線を上げて、横を見る。

 有栖川がこちらに視線を返し、俺の体は硬くなる。

 緊張をすように、俺は気になっていたことをいた。

「なあ、そういや三大派閥って言ってたよな。それって何のことだ?」

 病室でチラリとそのもんごんがあった時はさして気に留めなかったけれど、によるとこの学校の人間関係には派閥があるらしい。

 三大とのたまうからには勢力争いみたいなものがありそうだし、自らを女王様と言ってのけた彼女に訊いておきたい。

「あれ、明日香さんから説明なかったの?」

「うーん、誰かに自発的に質問しようと思って、聞くのやめたんだよな。有栖川に質問するなら、正直あんまり意味なかったかもだけど」

「意味ないなら教えなーい」

「ごめんなさい!」

 失言に思わず頭を下げると、有栖川はクスクス笑った。

 冗談のようで、俺は胸をろす。

「えっーとね。私、ゆめさきさん、明日香さん。まずこの三人が、それぞれの派閥の筆頭なんだけど……」

「は、明日香も!?

 驚いて弁当を落としそうになる。

 夢咲ようは何というかイメージ通りだが、明日香は派閥とやらとは無縁だと思っていた。

 だけどよくよく考えてみれば明日香の容姿は人目をくし、言動だって堂々としている。……何ら不思議じゃない。

 本人から事前説明があったら、割とすんなり受け入れられるような話だ。

「派閥って言われてるだけで争いがある訳じゃないし、あんまり説明するところはないかな」

「なんだ、そうなのか。良かったー荒れてなくて、けんばっかりだったらどうしようかと!」

「ヤンキー高校じゃないからね」

 ありがわほおを緩めて、をペロリと平らげた。

 その様子を見ながら、俺はもう一つくことにする。

 有栖川が学校内で有名人であることは想像にかたくないが、先程の世間的に有名というもんごんが気になったのだ。

「あと一ついいかな」

「ひぃよ~」

「有栖川って、有名人なのか?」

 連続の質問に嫌な顔ひとつ見せなかった有栖川が、目を大きく見開いた。

 そして頬張っていたものをえんした後、とんきような声を上げた。

「え、もしかして今知ったの? 私言ってなかったっけ!」

「い、言われてないけど。有名人って、世間からってニュアンスだったよな?」

 俺が訊くと、有栖川は自身のポケットを指し示す。

 意図を測りかねていると、「スマホ取って」と端的に言われた。

「いや、自分で取ってくれよ」

「両手塞がってるもん。ほら見て、お箸とお弁当ぉ」

 有栖川は両手で示してみせた。

 そんなもの太ももに置けと言いたいところだが、それに対しての返答も用意されている気がする。

 仕方なく、俺は手を伸ばした。あくまで仕方なくだ。

「し、失礼します……」

「きゃーエッチ」

「昭和の反応かっ」

「こんなに透き通る肌なのに?」

「自分で言うなっての!」

 確かに日光の全てをはじかえしてきたかのような肌だ。

 顔はおろかあらわになった肌のどこにもシミ一つ視認できず、生まれてこの方ケアを欠かさなかったのだろうと推測できる。

 いや今そんなことはどうでもよくて。

「もっと見る?」

「見ない!」

 ありがわがお箸を持った手で襟をまんだので、反射的に頭を下げる。

 そして有栖川のポケットからスマホを探り当て、ようやく取り出した。

 派手なブランドロゴが刻印されたスマホケース。持つ手が震えるが、階段に落としたらすぐに割れてしまいそうだ。

「暗証番号は3154だよ」

「有名人なのにめっちゃあっさり言うじゃん……」

「君は彼氏だし別にいいよ。いいから、はよ見て。インスタ開いてプロフィール見てみぃ」

「ちょっと待て、インスタグラムな……」


 『Saki Arisugawa

 フォロー205 フォロワー245605』


「……ハア!? 24まん!? ごせ……ごせ!?

「すごいでしょっ、さすが有名モデルっ」

「すごすぎるわ、フォロワーの桁どうなってんだ!? 相当な有名人じゃねーか!」

 俺は隣に座る人間のすごさを初めて認識し、心の底から震え上がった。

 有栖川は俺の反応に満更でもなさそうにほおを緩める。

「そうなの、全然なびかなかった君ってすごくない?」

「凄いな確かに……いやでも、靡いたから付き合ったんじゃないのか?」

「違うよ、私が無理やり付き合わせたんだもん」

「め、めちゃくちゃなこと言うな……でもまあ、それならびっくりするくらいの鉄人だわ」

 年頃の男で、有栖川に靡かないなんてことがあり得るのだろうか。

 実際今の俺はこうして驚嘆してしまっているというのに。

がいたからそうなったのかな」

 俺が素直な感想を吐露すると、有栖川は頬を膨らませた。

「あーっ他の彼女の名前出したっ。デリカシーなさ男め」

「いや、だって……」

 ──そもそも別れようとしたのを引き留めたのは有栖川だろ。

 そう言おうとしてとどまった。

 そもそもという話をするなら、全て前の自分に責任が帰する。

「ごめんなさい、気を付けます」

「何考えてたか当てるね?」

「へ?」

「別れようとしたのに止めてきたのはお前だろ。いやでもそもそも前の俺が三股なんてしなければ……まぁいいや、考えるのやめた。ここは大人おとなしく謝って三人共と良い関係を保っとこう。そして記憶が戻るまでしいところだけ食べちゃおう、いやもはや食べあさろう! ……って思ったね?」

「後半が違う、最後は圧倒的に違う!」

「てことは前半は正解だぁ」

「だーっ俺のばか!」

 俺は自分の額を殴る。

 馬鹿な頭をありがわのスマホででも殴りたいところだったが、傷付いたら困るのでとつの判断でとどまった。

 有栖川は俺の挙動にまた笑って、言葉を連ねた。

「別に後半も良いと思うけどね。今の君は何にも覚えてないんだから、何にも責任ないと思うよ? 楽しむだけ楽しんじゃえっ」

「いや、普通に責任はあるだろ。記憶が無くても、一応俺が俺であることには変わりない訳だし。俺がどう思うかはさておき、周りから見ればさ」

「わぁすごい、仮面ライダーが言ってそうなセリフだ」

ちやすなそこ!」

 確かにヒーローが言いそうな口上だったが、本心なので仕方ない。

 俺は一息いて、有栖川に告げた。

「今のこの関係を続けてるのはな、あくまで記憶を戻すためだろ。それはもひなも……多分納得してる」

 今の俺が記憶を取り戻すことを優先した結果ならまだしも、前の俺が作った彼女なのだから。

 有栖川は一度視線を外にらしてから、また俺に戻した。

「お医者さんからは何て言われてるの? 記憶の戻し方とか」

 耳ごこい声で問い掛けられて、俺は想起した。

 退院するまでに何度もあったカウンセリングでは、その説明を何度もされた。

「……記憶を戻すには、元いた環境に身を置くのが大事って言われたよ。あとはなんか、逃げることも大事だとも言ってたな」

「そっか。私から逃げたら何されるか分かんないしね。元いた環境に身を置けて、ストレスからも解放される。最高じゃん、一生付き合おうよ」

「一生は嫌だ! 尻に敷かれる未来が見える!」

 俺がそっぽを向くと、有栖川は耳をチョイと引っ張った。

「ふふふ」

「……な、なんでしょうか」

「ううん。やっぱり君は、記憶が無くなっても君なんだって思ってさ」

「どこを見てそう思ったんだよ……」

「私に興味なさそうなところ? 君が照れてるのは、私みたいにすっごい可愛かわいい人に誘惑されてるからでしかない。私自身には、正直あんまり興味ないでしょ」

 こともなげな口調に、思わず目をまばたかせる。

「いや、そんなことは」

「私はそれでいいよ。前もこうして言い寄ってたし、ちょっと段階が戻っただけだしね」

「え?」

 俺が戸惑いの声を上げると、ありがわは春風になびく髪を耳に掛けた。

「私ねぇ。君の記憶があってもなくても、どっちでもいいんだ。君とこの関係を続けられるなら、私はそれで」

 有栖川はニコリと笑う。

「これから積み上げていけばいいし。むしろほら、有利になるし? 私、今までは二人目だった訳だから。さんに負けてる自覚はあったんだぁ」

「なんというか……よく二人目とか、そういうので付き合うことになったよな。しかもお互い合意の上で」

「うん。きっと君、私を断るのが面倒だったんじゃないかな? 明日香さんをどうやって納得させたのかは分からないけど」

 返答できずにいると、有栖川はパクパク弁当を平らげていく。

 有栖川も、特に俺の返答を求めている訳ではないらしい。

 本来何かしらの言葉を返した方がいいはずだ。

 だが俺は、自身の弁当を平らげることに集中力を割いている。

 自覚はある。

 今何の言葉も返さないのは、ストレスから逃げる行為。ただのとんそうに過ぎないと。

 しかし有栖川はそれをとがめる様子を一切見せない。

 自分のペースに巻き込むくせに、俺のペースも尊重してくれる。

 ……これが演技じゃないとしたら、俺は有栖川について誤解していたみたいだ。

 唯我独尊に見えて、きっと有栖川は人を気遣う。

「言い忘れてた」

 有栖川がこともなげにつぶやいた。

「君の言うことなら、私は何でも聞いてあげるからね」

 何でも。普通ならその範囲は常識内にとどまるだろうが、有栖川の場合は本当に逸脱しても聞いてくれそうだ。

 それなら、一つだけある。これからの生活に欠かせないことが、一つだけ。

 俺は意を決して、口を開いた。

「じゃあ、一つだけいいか」

「なあに? やっぱり大人おとなの階段登りたい?」

「違う。……学校ではちゃんと友達として接してくれ」

せつぷんしてくれ?」

「どんな耳してんだ!」

「……ふう。もう、つまんないなぁ」

 ありがわは不満そうに口をとがらせて、弁当箱の蓋を閉じた。

「私といれば、色んなチャンスがあると思うよ。生かすも殺すも君次第」

 昼休みが終わる。

 記憶喪失の俺にとって、意味深な言葉を残して。


 ◇◆


 放課後の空気が好きだ。

 窓が開け放たれた廊下は風が気持ち良い。

 人通りの少なくなった廊下は、二年三組の教室よりもいささか快適だ。

 教室よりも開放感があるからだろうか。

 校庭から聞こえる運動部の掛け声や、吹奏楽部の奏でる音色。

 だいだいいろの光に照らされながら、俺は安らぐ心を見つめている。

「今日はどうだった?」

 合流したが、俺にそういてきた。

 昼休みには合流しなかったおさななじみも、放課後はすぐに連絡をくれた。

 職員室前の廊下に集合したのは、担任の先生に挨拶するためだ。

「ねー、聞いてる?」

「聞いてるよ、先生いなくて残念だったよな」

「そんな話してないわよ!」

 明日香は不満そうな顔でそう言った。

 俺は小さく笑いながら、「ごめんごめん」と謝罪する。

「ったく。まあ、先生とは元々朝に挨拶できる予定だったしね。遅刻するから予定ズレちゃっただけで」

「先生、出張のタイミング悪いよなー」

「明日はしっかり時間取ってもらえるから大丈夫よ。で、もう話戻していい? 今日は一日どうだったの」

「楽しかった!」

 ばこに着いた俺は、開口一番に元気な声を出す。

 は安心したように笑みをこぼした。

「うん、その答えが聞けてよかったわ」

 明日香はそう言いながら、自分の下駄箱へ歩を進める。

 明日香の外履きは、同じ列の数メートル離れたところに仕舞ってあるらしい。

 俺は自身の上履きから、黒のスニーカーに履き替える。

 汚れの目立たないスニーカーに視線を落として、思考を巡らせた。

 普通に笑えるんだな、俺。

 三人の彼女がいるという自覚を持ちながら、我ながら図太い話だ。

 自分の話だという認識はあっても自分のした結果だという自覚が薄く、また本人たちが承諾しているというのが要因だろう。

 記憶がないのだから感情が追いつかないのはある意味当然だと思うものの、いつまでも続けられる関係ではない。

 しかし今の俺にはいささか重すぎる選択で、一旦考えを放棄した。

 今週の学校が終わったら、休日にはカウンセリングがある。その時に少し相談してみよう。

「お待たせ!」

「おす。じゃー帰るか」

 俺はかばんを肩に掛けて、下駄箱に背を向ける。

 校舎を出ると、丁度運動部が外周で走ってくるところだった。

 ジャージ姿の男子生徒で構成された列の中に、見覚えのある生徒がいる。

 俺は思わず口を開けた。

「あ、たかだ」

 一つ前の席に座る男子生徒。

 ゆめさきと仲良さげな彼は、屈強な男子たちと一緒に大きな掛け声を上げつつ走っている。

「早速名前覚えたんだ。偉い偉い」

 明日香が面白そうに言ったところで、高尾がこちらの視線に気が付いた。

 すると列を抜けて、俺の方に駆けてくる。

「よ、さな! 二人で帰宅とか相変わらず見せつけてくれるな~」

「相変わらず?」

 俺がき返すと、高尾は軽快に笑った。

「そーだよ、俺みたいな人間にはマジまぶしいって!」

「いや、高尾も夢咲と仲良さげじゃん」

「あれは仲いって言えるのかなあ」

 たかは頭をいて、苦笑いする。

 苦笑いといっても、作為的な笑みだ。

 本心では満更でもないんだろう。

 俺が返事をしようとすると、先にが口を挟んだ。

「高尾君、私たちはそんなんじゃないわよ?」

「あはは、だから余計まぶしいんだろ。いいなー青春、またよかったら俺も交ぜてくれよ」

「嫌よ、別に仲良くないのに」

「うわきっつ!? もうちょっと優しくして!」

 高尾は和やかに笑い、俺に視線を戻した。

さな。久しぶりの学校とか、多分メンタルしんどい時もあるだろ? ゆめさきとかありがわってちょっと癖あるし、何かあったら俺も頼ってくれよ。まあたいていんなも手貸してくれるだろうけど、席近いのは縁だしな」

「おおお……高尾、やっぱりもしかしなくても激良いやつか?」

 軽く感動しながらくと、高尾は両手を腰に当てて胸を張ってみせた。

「おう、めっちゃ良いやつだ! だから女子皆んなに広めてくれ、俺モテたいから! 真田からの発信だと絶対モテる!」

「素直すぎるわ、その真意はまだ隠しとけ!」

 俺のツッコミに、高尾は白い歯を見せて笑う。

 ……俺、友達がいない割に結構評判良かったんだな。

 以前の俺は、一体どんなマジックを使って三人を彼女にして、友達も作らず世渡りをしていたんだろう。

 その二つって両立できるものなんだろうか。

 そんな思考を頭の隅に、男同士の会話を楽しんでいると明日香があきれたように言った。

「会話の途中で悪いけど、皆んないなくなったわよ?」

 高尾は「やべっ」と振り返る。

 一緒に走っていた部員たちの姿はとうに見えなくなっていた。

「行くわ、ごめん! 真田、また明日な!」

 高尾はせわしなく駆けていき、とんでもないスピードで姿を消した。

 さすがは運動部。

 そして、高尾への感想は一つだ。

「めっちゃ良いやつ……」

「そうね。変な人だけど、まああの子と席近いなら私も安心だわ」

 明日香はほおを緩めて、歩を進める。

 その柔らかい笑みをさっきも見せてくれたら、たかはもっと喜んだだろうに。

 そうは思いつつも、自分以外には見せない微笑ほほえみにうれしくなったりした。

 ありがわと同様、も一際目立つ存在だ。

 きらびやかなライトゴールドの髪に、あお色の瞳。

 有栖川の存在感に対抗できそうなほど、明日香も鮮烈な外見だった。

 実際三大派閥とやらの筆頭らしいし、有名モデルとも同格扱い。

 こんな存在が俺の彼女を名乗っているなんて、今でも信じられない。

「……三大派閥筆頭さーん」

 ふざけながら呼び掛けると、明日香はゲンナリしたように顔をしかめた。

「うわ、最悪。もう知ったの!?

「説明しといてくれよな、筆頭さん。すげえじゃん筆頭さん!」

「うっさいイジってくんな! あんなしょーもない話に巻き込まれるなんて恥よ、次私にそれ言ったら記憶飛ぶまでぶん殴るから!」

「代償おっも!? ごめん二度と言わないわ!」

 有栖川と異なり、明日香は三大派閥とやらに何の愛着も湧いていないようだ。……ある意味明日香らしいな。むしろ有栖川が興味ありそうなのが意外だ。

 そう考えながら、とは別の校門を出ると、ゆうざき高校より一回り小さい校舎が視界に入った。

 学校から出たばかりなのにと訝しむと、明日香が「あれは中学よ」と教えてくれた。

「ひなちゃんもあそこ出身だったはずね」

「へえ、ひなもか。だから知り合いだったんだんだな」

 ひなとの交際期間は半年らしいから疑問には思っていたが、合点がいった。

 前の俺は、何らかのきっかけであの中学にいたひなと知り合ったんだろう。

 明日香が俺に話しかける。

「そんなことより、ゆう

「ん、どした」

はちゃんと働いてくれそう?」

「え? 働くって──」

 返事をせずにいると、明日香は「正気?」と笑った。

「有栖川さんよ。今日一緒にお昼ご飯食べてたでしょ?」

「たべ……!?

 その問い掛けに、俺は思わず口をつぐんだ。

 隣を歩く明日香が、チラリとこちらに視線をす。

 大通りを曲がると、視界に入る景観が中学から住宅街になる。歩を進めていくにつれて、その住宅街の雰囲気も変わる。

 瓦屋根が多めだった景観が、西洋風の家々が立ち並ぶものへ変移する。

「……おーい、何で黙ってるの? いてるんだけど」

「食べて……たべ……」

「なに隠そうとしてんのよ。別に私、本人から聞いてるから──」

「ほえ?」

 ありがわの意図が全く分からず、とんきような声を出す。

 歩きながら、俺は思わず両手を合わせた。

「いや、ごめん! 他の彼女と学校でしやべるのって、やっぱりあんまりよくないよな? 魔が差した訳でもないんだけど、そうだな。うん、記憶のためにといいますか……?」

「何勝手に焦ってんのよ、そんなの気にしてたら三股なんか許容できないでしょ」

「おお、すっごい変なセリフ……」

「うっさい!」

 は眉をひそめて二の腕をつねる。

 俺が「いででで!」と反応すると、明日香は僅かに口元を緩めた。

 とんだドS彼女である。

はクラス内の世話係だし、なおさら気にしないわよ。ていうかひなちゃんでも、他の女子でも気にしないっての」

「そ、そうかそれを知ってたのか。なんだー良かった、帰るかゴウホウム」

「急に態度変わりすぎよ!」

 明日香は遠ざかる俺の首根っこをつかみ、り戻す。

「紗季が世話係だってことを知ってるのは私だけだからね。あの子がサボってるようなら私に言いなさい」

「分かったよ」

 俺は明日香の手から何とか逃れながら、言葉を続けた。

「でも、ほんとに何も思わないのか? 俺ら、一応付き合ってるのに」

 彼女たちの存在を認知してからスマホで何度「彼女」「三股」のワードを検索したか分からない。

 調べていた時は、恋愛関連の記事にはいつも「嫉妬」の二文字も見え隠れしていた。

「嫉妬」はまさに今しがたの状況に該当しそうなもんごんだが、明日香にとっては違うのだろうか。

「思わないっての。まあたりにしたらムカつく時もあるけど、そんなの言ってたら今のあんたは困っちゃうしね」

 明日香はあっさり笑って、視線を前方に戻した。

「でも、周りの目とか……そういやたかは知らなかったな」

「うん。もちろん周りにはバレてないからね、私たちの仲。だからのことと同様、わざわざ言わないでね」

 が言葉を返して、立ち止まる。

 周りに言わないのは当然だ。

 それは自身を守るためでもあり、彼女たちを守るためでもある。

 そう考えていると、明日香が一歩先に出て通せんぼする。

 くるりと振り向いた直後、口に人差し指を当ててきた。

 柔らかい、指先の感触。

「分かった?」

「──ふぁかった」

「あはは、よろしい」

 明日香はほおを緩めて、指を離す。

 再び歩き始めるが、俺は数秒その場で立ちすくみ、慌てて追い掛ける。

「そういえばこれ言うの忘れてたわね、危なかったー」

 明日香は自身の胸に手を当てて深く息を吐いている。

 本来登校日前に言っておく予定だったらしい。

「三大派閥のことといい、大事なことは伝えてくれよな」

「だって、何が大事か分からないくらいあんた忘れちゃってるんだもん」

 明日香は口元を緩めて言った。

 柔らかい声色だ。

 ……そりゃ、三人の彼女をれいさっぱり忘れるくらいだしな。

 関係の始まりだって全く覚えていないから、この関係を始めると決断した理由だって分からない。

 今の自分になってから少しったが、自分の話であるにもかかわらず思考が分からないことが多かった。

「ほんとに忘れちゃったんだなあ、俺」

「自分で言ってりゃ世話ないわね」

 明日香は笑う。

 夕焼けに染まった空に、カラスが三羽ひしようしていた。