四話 初登校



 教室の扉を開ける。

 知らない人間が一斉にこちらを凝視する。

 それまでザワついていた教室が静まり返り、沈黙に支配された空間に躊躇ためらいながらも入室する。

 自分の席が分からない。

 自分の立ち位置も分からない。

 クラスという箱庭に入れられた哀れな異物は、まるでそれが当然だというように受け入れる。

 空いている席があった。

 恐らくあれが自分の席だ。あそこに座れば、この身に注がれる周囲の視線も少しは落ち着くだろう。

 近付いて、近付いて、自分の机に向かっていく。

 机に何かが置いてあった。

 花だ。

 白い花。

 何かをほう彿ふつとさせる花。

「ねえ、君さ」

 誰かが呼んだ。

 見覚えのない、初めましての人間たちが、いびつな笑みをこちらに向けていた。

「──死んでなかったんだ」


 ◇◆◇◆


 勢いよく上体を上げた。

 背中まで汗がびっしょりで、息が上がっている。

 額から垂れてきた汗を拭いながら、俺は苦笑いをした。

「……なんっつー不吉な夢だよ」

 今日が俺にとっては初登校という日なのに、もう少しマシな夢はなかったのだろうか。

 俺はまだザワザワとする心を落ち着かせながら、深い息を何度か吐く。

 十六畳ほどの寝室に、一人には大きすぎるダブルサイズのベッド。

 ノロノロとした動きで床に降り立ち、ローテーブルに置いてあったスマホを手に取った。

 画面には緑色の横線が沢山入っている。大量のラインの通知だ。


『hina : 先輩、今日から学校ですね! 会えるの楽しみです!』

『hina : 帰り道とか会えたらうれしいですね~』

 後輩カノジョであるふえひなからの、ストレートな好意。


『SA : 今日学校サボりたいねぇ』

 唯我独尊カノジョであるありがわからの、脈絡のない謎のお誘い。


『Asuka : 着いた!』

『Asuka : 一分経過しました』

『Asuka : あれ、今日の待ち合わせ時間って七時半よね?』

『Asuka : 準備に手間取ってるの?』

『Asuka : まさか寝坊?』

『Asuka : 不在着信』

『Asuka : 不在着信』

 おさななじみカノジョであるみなとからの、鬼の催促。


 俺はスマホをベッドに放る。

 理由は明白だった。

「しょ、初日から遅刻……終わった……」

 現在時刻は八時。高校の始業時間は八時半。

 自宅から高校までは三十分ほど掛かる。

 初登校で遅刻なんて──

 いや、初登校じゃないか。

 初登校は今の俺にとってというだけで、周りからみれば数週間も休んでいた人間が遅刻するという状況に過ぎない。

 ……それなら、病弱という設定を周知させたら何とか通るかもしれない。

 支度の時間を含めれば焦っても間に合う見込みはないし、諦めなくても試合終了だ。

 ……開き直って、いっそ二度寝でもしてみるか?

 いやいや、やっぱり明日香に悪い。

 鈍い頭でそんな考えを巡らせていると、ポロンと通知音が鳴る。画面を見ると、


『Asuka : おいコラ!』


「やばいやばいやばい」

 俺は勢いに押されるようにパジャマを脱ぎ捨て、明日香に『ごめん、ただの寝坊。今から行きます!』とラインを送る。

 支度をしようと服を脱ぎ捨てた時、スマホが震えた。

『Asuka : バカ!』

 ストレートすぎる。

 思わず口元を緩めて、俺は支度を再開する。

 さっきよりも、ほんの少しせわしなく。


 ◇◆


「なんで目覚ましかけてないのよ!? このバカ!」

「ごめんって、次気を付けるから!」

「次なんてないわよ、先生に土下座しなさい!」

「厳しすぎない!? 一応俺病み上がりなんですけど!」

 高校への通学路を駆けながら、と言葉を交わす。

 視界に流れるしきがビュンビュン変わり、同時に息切れが激しくなってくる。

 遅刻とはいえ朝方だ、元々はのんびり歩くつもりだった。

 しかし明日香は地図アプリに指し示された待ち合わせ場所で、俺の到着をずっと待ってくれていたのだ。

 その結果彼女も遅刻する事態になってしまい、申し訳が立たないので一緒に走っている。

 だけど、そろそろ限界だった。

「明日香!」

「え? なによ、急に立ち止まって!」

 俺は膝が笑っているのを確認し、笑顔でガッツポーズを作った。

「登校は諦めよう!」

 スパンッ!と頭がはたき落とされる。

「ふざけんな! 学校行かなきゃ何も始まらないでしょ!」

「だって走れないんだよ、体力の低下がえぐい! 絶対前はもっと走れてたはずなのに!」

 頭を押さえながら言葉を返すと、明日香は押し黙った。

 立ち止まった明日香も息切れ中で、肩が大きく揺れている。

 スッと前髪をかき上げる明日香に、俺は恐る恐る質問した。

「俺、そんな黙っちゃうほど運動神経悪かったの?」

「違うわよ。……はあ、もういいわ。歩きましょうか、どうせ遅刻だし」

「こんなに走ったのに……」

「走りたいの? 歩きたいの? どっちなの」

「休みたい」

「せめて進みなさいよ!」

 明日香はまたたたかんばかりの形相だったが、今度はとどまったらしい。

 ついでに先ほどのことで謝罪もしてくれた。

「てか、頭叩いてごめん。ついね」

「あー、全然いいよ。ある意味叩かれて当然だしな」

「へえ、全然いいんだ。……叩いたら何か思い出したりしないかしら」

「俺の頭は昭和のテレビじゃないんだよ!」

「冗談よ」

 明日香は肩をすくめて、身体からだをグッと伸ばした。

「復帰初日で遅刻か~、先生に何て言い訳させようかしら」

「言い訳なんて必要か? 普通に寝坊でいいだろ」

「あんったねー、お忘れかもしれないけど世間じゃ遅刻は悪なのよ? 私だって高校上がってからほとんど遅刻してないんだから。遅刻すると登校するのダルくなるし」

 は肩をぐるぐる回しており、何となく身の危険を感じた俺は数センチ距離を取った。だがゆうだったようで、何事もなく歩を進めていく。

 その代わり一歩進むごとに、足取りが何となく重くなっている気がした。

「うーん、言われてみれば確かに遅刻して学校に行くのってちょっと嫌だな。……うわ、なんかほんとに嫌になってきた。えっ足おも!?

「仕方ないでしょ、あんたがアラーム掛け忘れたんだから! ったく、どうやったらアラーム掛け忘れるのよ」

「明日香だって昨日タイマー掛け忘れて料理焦がしてただろ!」

「料理と一緒にすんな! てか私ほんとは料理いんだからね!」

 その割にはオムライスにあるはずの卵が縮れて真っ黒だった気がする。

 しかし追及を続けると不機嫌になりそうだったので、俺は一旦辺りに視線を巡らせた。

 先ほどまで走っていたのは川沿いの小道。

 この通学路に関しては鮮明に覚えており、目をつぶってもある程度歩けそうだ。

 ……本当に目を瞑ってみようか。

 そう思案していると、不意に明日香が口を開いた。

「そういえば、んなには言わない方がいいわよ」

「え? 何を」

 思考を中断してき返すと、明日香はあきれたように息を吐く。

「決まってるじゃない。あんたの記憶がすっ飛んだことよ」

 俺は口を閉じた。

 記憶について、前に俺が軽い調子でげんきゆうした時は「軽すぎるわ!」と怒っていたのに、ここ数日はすっかり慣れたものだ。

 しかし、確かに明日香の言うことも考えておかないといけない。

「でもさー、記憶喪失って言ったら、先生に気遣ってもらえて成績に色つけてもらえそうだぞ? それこそ遅刻許してもらえたり」

「理由が不純すぎるわね。それに、先生方はもう知ってるはずよ? ゆうが入院してから、学校には連絡がいった訳だし。だからこれ以上広めない方がいいって言ってんのよ」

「ぬあー、そうか」

 最初はクラスメイトの顔を覚えるのに苦労するだろう。

 だけど記憶喪失であることを露見させて、同級生の皆んなに気遣われる方が精神的にキツそうだ。

「なら、うん。言わなくてもいいかな」

 できればんなには普通に接してもらいたいし。

 周りから見れば俺は普通じゃないのだろうが、今の俺にとってはこれが普通であり、既に日常は始まっている。

 余計なうわさだけが一人歩きすれば、人間関係をどう左右するか不明瞭。幸いのサポートを得られる環境下であることから、最初から言う意義は薄そうだ。

「うん。そうしましょ」

 明日香は俺の返事に小さくうなずいた。

「まだ五月半ばだし、クラスのグループもそこまで固まってないと思う」

「……グループかあ」

 俺は静かに目を伏せた。

 胸がぐるぐると重くなる。

 足取りも、先程よりも更に重い。

 退院時、身体からだに異常は見つからなかったはずだ。

 しかし学校という現実が明確な形として現れた今、気分は沈んでいき、ためいきが出そうになる。


 ──不安なんだな、俺。


 緊張しているのだろう。

 頭でどれだけ考えたって、どれだけ笑ってみせたって、結局は学校に行くのが怖いのだろう。

 俺自身、人と話すのは好きだと思う。

 三人も彼女を作るくらいだ、それ自体は間違いない。

 だけどそれは、明日香や看護師のように心を通わせた人に限る。

 顔も知らない、覚えていない人間が、俺のことをどう思うか──人にどう思われるかが、怖いのだ。

「なー。やっぱり学校、明日からとかじゃダメか?」

「はい~? あんた──」

 言いかけた明日香は戸惑ったようにまばたきして、口を閉じる。

 そして上目遣いでこちらをうかがった。

 あお色の瞳が、発言の真意を探ろうと揺れている。

 やがて明日香は、キツめの表情をふっと緩めた。

「……言ったでしょ? あんたには私がいるし、私以外にも味方はいるわよ」

 安心感を覚える柔和な笑み。

 優しく諭すように、は言葉を紡いでくれる。

「事前に学校の人物相関図とか詳しく説明しようかなって考えてたんだけど、に先入観与えるのもいけないかなって控えてたの。不安なら、やっぱり説明しましょうか?」

「いや……どうしようかな」

ゆうこう──ゆうざき高校って、最近まで芸能科があった学校なの。そのごりでよく分かんない派閥とかもあるし、聞いてた方が便利だとは思うわよ」

「……いいや、俺の目で確かめる」

 思わず掘り下げたい単語も出てきたけれど、まずは自発的な行動から知識を得たい。

 記憶を失う前の在り方から導き出される思考回路かは定かではないが、無性にそう思った。

「そ。良かった」

 心なしか、明日香の返事は少しうれしそうだった。

 ──以前の俺もそういうだったのかな。

 風が吹く。

 いつもより一段と強い風に、木々が踊るように揺れる。

 しかし力強く茂った緑葉が枝から離れることはない。

 人の在り方も、きっと。

「てか、なんでそういうの昨日までに教えようとしてくれなかったんだよ。俺がもし相関図を事前に把握しておきたくても、今の会話がなきゃ聞く時間なかっただろ」

 単純な疑問だったのだが、明日香は痛いところを突かれたという顔をした。

 一瞬でいつもの顔に戻ったけれど。

「まあ……私にも色々考えがあるのよ」

「ふーん。ほんとは?」

「忘れてた」

「……意外と抜けてるよな、お前」

 俺が小さく笑うと、明日香は不満そうに唇をとがらせた。


 ◇◆


 学校の中は自宅や通学路と同様、ほとんどの記憶が残っていた。

 廊下を移動している際は、しきが変移するたびに既視感を覚える。

 いろせた景色が、次々にいろどりを取り戻す感覚。

 まだおぼろげな彩りではあるものの、時間がてばより鮮やかになってくるはずだ。

 明日香と一緒に、教室の近くに辿たどく。

 東校舎二階。階段に最も近い教室が、かつての俺がいた二年三組だった。

「じゃ、私はここで抜けるわ」

「えっなんで!?

「私、隣の二組だからね。頑張んなさい、昼休みにラインしてあげるから」

「ちょっ──

 止める間もなく、は二組の教室に消えて行った。

 てっきり同じクラスだと思っていた俺は、誰もいない廊下をぼうぜんと眺める。

 隣のクラスなら、もっと前に言っておいてほしかった。

 一旦俺は、教室の窓から誰にも見られないように、中腰の体勢になる。

 ドクン、ドクン。

 唐突に訪れた危機に、自分の心臓が早鐘のように鼓動しているのが分かる。

 ……俺一人。

 教室に入るのは、俺一人。

 派閥があるような学校だ。

 いざ挨拶するとなると身体からだいささこわってしまう。

 全員が初対面同士の環境ならいざ知らず、俺だけ初対面の環境では全く話が違う。

「転校生ってのはこういう気持ちなのかね……」

 思わずそうつぶやいた。

 俺の場合クラスメイト側は覚えてくれているので、転校生の方が過酷な状況に違いない。

 全国にいる転校生には頭が下がるおもいだ。

 ……何にせよ、まずは挨拶。

 この挨拶への反応で、俺のクラスでの立ち位置は大方把握できるはず。

 だからこそ怖い瞬間なのだが、いつまでもこうしていてはらちが明かない。

 俺はスックと腰を上げる。


 ──さん


 意を決して、音を鳴らしながら扉を開けた。

 教室に入ると、一人、また一人とこちらに反応を示す。

 視線が次々と俺の身体に降り注ぐ。

 全身にクラスメイトの視線を感じながら、俺は大きく口を開いた。

「おはようございます!」

 開口一番、大きな声でのご挨拶。

 さあ返ってこい、元気な挨拶!


「「………………」」


 …………誰からも返ってこない。


 うそだろ、おい。

 まるで時間が止まったようだ。

 俺が発した挨拶、誰にも届いていない説。

 そう思ってしまうほど、一人たりとも声を上げない。

 の不吉な夢が脳裏をよぎり、拳をギュッと握り締める。

 ……仮にも久しぶりの登校だし、友達がいれば誰かが軽く声掛けしてくれるくらいの気遣いがあるって思っていた。

 しかし、現状誰も助け船を出してくれる気配がない。

 誰かいないかと、素早く視線を巡らせる。

 まず目が合ったのは、窓際の最前列に座る女子生徒だった。

 燃えるような赤髪のツインテールに、すみれいろの瞳。

 高い鼻筋に、大きくもがった目は二メートルほどの距離からでも印象的だ。

 先程は「派閥がある」と言っていたけど、もしそれが本当ならその筆頭になっていそうな外見だった。

 教室内でダントツ目立つ赤髪女子に、俺は無言で助けを求める。

 赤髪女子がげんな表情を浮かべた。

「……? 何見てるのよ」

 抑揚のない声色で言葉が紡がれる。

 ──鬼の塩対応。

 もうちょっと優しい対応を期待してたんですけど。

 あからさまな塩対応で、少なくとも久しぶりの登校をしてきた友達に対する反応ではないことは明白だ。

 だからといって、今この教室には頼れる人間がいない。

 か先生はいまだに教室におらず、クラスメイトたちは無言でこちらを見つめるばかり。

 一度話しかけたんだし、こうなったらもう開き直るしかない。

 俺は早足で赤髪女子に近づき、目の前に立つ。

 ぼうぜんとしている赤髪女子の前にかがみ、小声で話しかけた。

「おはよう。ひ、久しぶり」

「……」

「が、ガン無視……?」

「……いや、ゴメン。……おはよう?」

 なんだその

 まるで〝こいつ私としやべるんだ〟というような。

 ……もしかして俺、この教室に友達が一人もいなかったのか?

 友達の少ない人間が急にリーダーポジションの女子に話しかけたから、カースト格差で硬直させてしまったのか。

 色々と予想外、予想外だ。

 てっきり自分を朗らかな性格だと捉えていたので、普通に友達がいるはずだと高をくくっていたのに。

 だけどよくよく考えてみたら、三人に彼女を名乗られる高校生は普通じゃない。

 いや、だからこそ友達がいると確信していたのだけれど──にしても、が人間関係についての事前説明を省いていた理由が分かった気がする。

 語るほどの人間関係が無かった。

 不本意ながら、その可能性は非常に高い。

 三人の彼女を作っておきながらどういうことだと思うが、三人も彼女を作るやつの人格なんて分かるわけない。

 三人の彼女を作ったばかりに、他の人間関係をおろそかにした可能性だってある。

 しかしまだどれも可能性の域を出ないし、そういったマイナスの結論にならないことを祈るしかない。

 それより直近で問題なのは、自分の席が分からないということだ。

 困ったことに席が三つ空いており、どちらにせよ誰かにかないといけない。

「あ、あのさ。俺、今日から君の友達になりたいんだけど……」

 そう言うと、それまで静まり返っていた周囲が少しざわついた。

 赤髪女子はほんの僅か眉根を寄せたものの、やがてあっさり返事をする。

「……いいよ。よろしく」

「よ、よろしく!」

 ガバッと頭を下げる。

 見た目は少しキツそうだったけど、い人そうで良かった。

 おかげでようやく本題を切り出せそうだ。

 恐らく小声にする意味はないが、羞恥心から自然に声が小さくなる。

「なあ、俺の席ってどこだっけ……」

「え?」

 赤髪女子が目をまばたかせて、すぐに納得したらしくうなずいた。

「ああー……そっか、席替えしてから来てなかったもんね。ていうか、クラス替え初日からいなかったっけか」

 赤髪女子の発言に、俺は目を見開いた。

 ……高校二年生になってから一度も登校していなかったのか。

 それなら周りの反応にも納得だ。

 間抜けな話だが、自分がいつから登校していないか明確な時期をからいていなかった。だとすれば、彼女の名前を訊くのもほど不自然ではないだろう。

「俺、さなゆうっていうんだ」

「へえ」

 赤髪女子は短く答え、口を閉じる。

 沈黙。

 沈黙ってまじか。

 緊張しながら言葉の続きを待つ。

 まさか自己紹介の返事が二文字ということはないはずだ。ないはずだろ? 頼むよマジで。

 無言の待機に何かを察したのか、赤髪女子はさい口を開いた。

「……下の名前は初めて知ったわ。私、ゆめさきよう

 狙い通り、彼女は名前を教えてくれた。

「夢咲陽子さんかー」

 改めて見つめると、そうぜんとした美しさだ。

 がった目という第一印象はメイクによるもので、まぶたには真紅のアイシャドウが施されている。

 素の美麗さを洗練させたしようしやたる容姿がゆえに、少し身構えてしまうところがある。

 しかしそれは同時に頼もしさでもあり、堂々としたたたずまいはクラスのリーダーに似合いそうな印象でもあった。

 三人の彼女がいることを知ったら、真っ先にきゆうだんしてきそうな人だ。

「ジロジロ見ないで?」

「ごめんなさい!」

 俺は再度頭を下げる。

 教室という箱に数十人の生徒が集まると、リーダーポジションが現れるのは道理。

 仮に夢咲さんがリーダーだったとしたら、嫌われてしまっては非常に困る。

 本当にリーダーだったらの話だが──

 その疑問への答えは、一瞬で返ってきた。

 夢咲は手に持っていたシャーペンを机に置いて身体からだを後ろに傾けたのだ。

んな、さな君がよろしくだってー」

「えっ」

 最前列の席から放たれた一言。

 無造作な仕草から出てきた掛け声に、うつむいていたほとんどの生徒がこちらに顔を向ける。

 思わず立ち上がって姿勢を正した俺に、ゆめさきの隣に座る男子が吹き出した。

「めっちゃ姿勢いいじゃん。真田、よろしく~」

 その返答を皮切りに、皆んな次々に口を開く。

「よろしく!」「俺らの担任かわだよ、アタリだ」「このクラスいぞ~」「よろしくお願いします」「ま~す」

 ノートを書く手を止めて、皆んなおもい想いの挨拶をしてくれる。

「お願いします! よろしく! よろしくです!」

 俺はリーダーに嫌われていなかったというあんかんから、一人一人に元気な挨拶を返す。

 やはりと言うべきか、皆んなから久しぶりの友達に向けるような挨拶はない。

 悲しいかな、友達がいないという推測は間違っていなかったようだ。

 しかし特別悪い印象を持たれている訳でもなさそうなのが幸いだ。

「意外と親しみやすくない?」とか、「結構明るい」みたいなプラスの反応が聞こえてくる。

 表情の明るい生徒が多い気がするし、クラスの雰囲気も悪くない。

 内心胸をろしていると、ゆめさきが俺の腰骨あたりをトントンとたたいた。

さなの席はここ。私の斜め後ろで、たかの後ろ。高尾は今さっき、真田に姿勢いいじゃんってイジッてきたこいつね」

「いじってはないって! 違うからな!」

 高尾と呼ばれた男子が抗議の声を上げる。

 ツーブロックで制服を着崩している彼は、クラスのムードメーカーだろうか。

 顔がちょっとこわもてだけど、実は優しい人間だと見た。

 夢咲は高尾の抗議を全く気に留めず、細長い指を後ろにズラした。

 指し示された場所を確認しようと、俺はかかとを上げる。

 夢咲の後ろの席には、アッシュブラックの頭がうつ伏せになっていた。

「あと、ありがわさんの隣でもあるね」


 ──今なんて言った。


「え、有栖川?」

 唐突に出てきた耳みのある名前に、俺は思わずき返す。

 夢咲はうなずいて、「仲いっしょ?」と言った。

 仲が良い。

 口が裂けてもこの場で彼女なんて言えないけれど、仲が良かったこと自体は間違いではないと思う。彼女なんだし。

 というか有栖川は同じクラスだったのかよ、言ってくれよ。

 そう思考を目まぐるしく巡らせていた時、後ろからバタバタと足音が聞こえてきた。

 振り返ると、先生が教室に飛び込んでくるところだった。

 服装は上下そろってグレーのジャージ。

 ロングでパーマの髪を後ろに束ねる、女性の先生。

 年齢は二十代後半くらいだろうか。お世話になった看護師と同年代という印象だ。

「ごめん、お待たせ──って、あ!」

 先生は俺の姿を視認すると、若干焦ったように口を開いた。

「真田君! ごめんね、今忘れ物取りに行ってて……久しぶりの登校は大丈夫だった?」

「は、はい。あの、長い間休んですいませんっ」

「元気になったのね。じゃ、君は有栖川さんの隣。そこの空いてる席に座りなさい。有栖川さん。有栖川さん!」

 先生がせわしなく名前を連呼する。

 俺はアッシュブラックの頭頂部に視線を送ったが、唯我独尊カノジョはどうやらグッスリ寝ているらしかった。

ありがわ!」

 先程よりも張りのある呼び声に、有栖川の頭頂部がビクリと動く。

 そして有栖川の机の下から「むぁ」というくぐもった声が聞こえた。

 いかにも眠そうに目をしょぼつかせながら、有栖川が上体を起こす。

 有栖川はどうやらかなり深い眠りについていたらしい。

 寝起きなのにとんでもない美人がそこにいた。

「有栖川さん。おはようございます」

 先生の挨拶に呼応して、有栖川の口角がニコリと上がる。

 そして、軽快な声が返ってきた。

「おはよー先生。い夢見れたよ」

 病室にいた時と変わらない、せせらぎのような声。

 こともなげな返事に、クラスメイトの一部がクスクス笑う。

 たったそれだけのやり取りに、俺は確信した。

 このクラスのリーダーは恐らく、赤髪のツインテールを揺らすゆめさきよう

 しかし最も注目を浴びる存在は──

「……あれ、ゆう君もいるじゃん。今日休むんじゃなかったんだ?」

 クラスが再びシンとなる。

 有栖川との会話を、誰も邪魔できないというように。

 異様な雰囲気に飲まれ、俺は上ずった声で言葉を返す。

「いや、誰も休むとか……」

「ふうん?」

 病室では刺激が強いと思っていた声色だった。

 しかし教室という場で聞く彼女の声色には、いささか異なる印象を受ける。

 それはなみなみが打ち寄せる中で、川のせせらぎが聞こえるような。

 かすかなせせらぎを聞こうと集中すれば、波の音たちが意識の外へ追いやられるような。

「勇紀君の席、私の隣だよー」

 特に大きな声を発した訳ではない。

 しかしフリフリと手を振る有栖川には、この教室でたった一人隔絶されたかのような別格の存在感があった。

 アッシュブラックの髪色も、黒色が大多数な教室の中ではおもいのほか目立つ。

 しかし有栖川の存在感を強めているのは髪色ではない。髪色だけなら、目下に座す夢咲が圧倒的だ。

 ありがわの声は耳に響く。有栖川の一挙手一投足は不思議と目をく。

 無意識に興味をそそられ、気付けば五感で追っている。

 そんな魅力を有栖川は秘めている。

 ……こんな存在が彼女なんて。

 こんな存在彼女だなんて。

 バチ当たれ、俺。いや当たったのか。

「ほら、さな君。自分の席について」

「は、はい」

 先生にかされるように、俺は自分の席に歩を進める。

 ……現状、このクラスに友達はほとんどいない。

 だけどゆめさきようを含め、この二人を味方につけたら学校生活には百人力か。

 俺は有栖川の隣に赴く途中に立ち止まり、夢咲に視線を移した。

「あ、ありがとう。これからよろしくお願いします」

「何回よろしくすんの。また後でね」

 夢咲は小さく笑って、あっさりノートに視線を落とした。

 そのノートは一瞬見ただけでも要点がまとめられているものだとわかり、普段からに授業へ取り組む夢咲の姿勢がかいえる。

 着崩した制服やメイク、多少適当にも思える口調を考慮すると少し意外だった。

 これから、沢山の意外があるのだろう。

 だけどあれだけあった不安は少しふつしよくされた。

 教室で最初に言葉を交わしてくれた夢咲。

 登校日前にお見舞いに来て、二人目に彼女を名乗った有栖川。

 二人の存在に思考を巡らせながら、俺は自分の席に腰を下ろした。

 窓際から二列目、前から二番目。

 ここが、真田勇紀おれの席。


 ──どっちにしても、やっと学校に来たんだ。


 何も分からないゆえの不安が、意外といけそうだという期待感へ変移していく。

 かばんの中をいじり始めた俺に、有栖川は明るい声色で話し掛けてきた。

「久しぶりなのに遅刻なんて、やるね君」

 右隣に目をやると、有栖川はこちらに小首をかしげてほおを緩めていた。

「わ、わざとじゃない。寝坊しただけだ」

「そっかそっか。有望だね」

 ありがわがクスクス笑いをこぼすと、前から鋭い声が飛んでくる。

「そこ、私語は慎んで。話をするなら後にしなさい」

「はーい先生」

 有栖川は和やかな笑顔で手を上げる。

 一時間目は国語の時間。俺はかばんから取り出した準備物を、机の上にザッと並べる。

 教科書を開いて、筆箱からシャーペンを取り出す。

 真っ白なノートは、俺自身の記憶のよう。

 名前と日付を書き込んで、黒板の文字を写し始める。

 ……ここからだ。

 今日からここに書き足していけばいい。

 俺は決意を新たにして、意識を授業に集中させた。