一話 記憶喪失



 目が覚めると病院だった。

 まるで理解が追いつかないが、目が覚めると白い天井が現れたのだ。

 左手をかざして眺めてみると、ぼんやりしていた視界が段々明瞭になっていく。

 ……自分がこの状態になってから、どれくらいの時間がっているんだろう。

 頭の中で病院という単語がぐるぐる回っている。

 起き上がらないまま、真っ白な天井とにらめっこして数十秒。

 不意に右脚の太ももあたりに負荷を感じた。

 サッと背筋が凍る。

 混乱しているのか、今まで自分が何をしていたのか覚えていない。

 そんな状況下で右太ももにのし掛かる負荷に、吐きそうなほど緊張してしまう。

 自覚するのが怖かった。上体を起こして、今一度違和感の正体を確認するのが怖かった。

 ……もし、足が動かなかったら。

 もし、少しでも動かしづらくなっていたら。

 この状況から考慮して、十二分にあり得る話だ。

 ギュッと唇をめ、意を決して勢いよく上体を起こす。


 ──女がいた。


 女?

 女が、自分の太ももにうつ伏せになっている。

「……あの、大丈夫すか」

 明らかにこちらの方が大丈夫じゃないはずなのに、自然とそんな言葉が口をついて出た。

 背中まで掛かったライトゴールドの長髪が、太陽の光を反射する。

 手入れの行き届いた髪だ。

 それが規則正しい動きで、静かに上下している。

 耳を澄ませばスゥスゥという寝息も聞こえてくる。

 どうやらうつ伏せになっている女は、人様の太ももを枕にして熟睡しているらしい。

 顔は見えないので誰かまでは判別つかないものの、状況から察するにずっと自分を看病してくれた人のようだ。

 とはいえ、患者の太ももを枕にするのはがなものか。

「あの、もしもし」

 彼女の左腕を、ツンと指でつつく。

 起きない。

 もう一度突いてみる。

 起きない。

 今度は「もしもーし」と言いながら、身体からだを揺らした。

 こんな状況下でも、男よりも柔らかい感触は変わらない。

 ピクリと女の身体が動いた。

「むぁ!?

 こちらもびっくりするくらいの勢いで、女子が顔を上げた。

 大きなへきしよくの瞳に、高い鼻筋。

 小さくまとまった桜色の唇からは、熟睡の影響からか透明の液体が垂れている。

 顔付きから推察するに、同じ年くらいか。

 彼女の視線がグリンッとこちらへ向けられると、数秒の沈黙が降りた。

…………うええ!? いつ起きたの!? どんなタイミングで起きたの!? なんで私が寝てる時に起きたの!?

 目が合って早々にまくてられて、思わず顔をらした。

 大きい声は寝起きの人間にとっていささか耳みが悪い。

 この病室には自分と彼女以外の人間はいないようだったが、それを踏まえてももう少しボリュームを抑えてしやべってほしい。

 というより、内容が些か失礼な気がする。

「随分なご挨拶だな。いつ起きようが自由だろ」

 そう答えると、彼女は目をパチクリさせた。

「あんた、どうしたの? 外傷なしって聞いてたけど、やっぱり頭打ってたってこと?」

「へ?」

「だって、最近口利いてなかったのに」

 ……そうなのか。

 状況から察するに、この可愛かわいい顔立ちの女の子は寝落ちしてしまうほど自分のお見舞いに時間を費やしてくれていた。

 つまり、自分とかなり親しい仲だ。

 そんな人と口も利いていない時間があったなんて、一体全体どういうことだ。

 混乱した頭でも、彼女の可愛さは微動だにしない。可愛いは不変。

 男子の中で可愛い容姿は、それほど確固たる地位を築き上げるもの。

 その存在と口を利かないなんて、自分は鉄の心でも持っているのだろうか。

 でも確かに、彼女を見てもよこしまな感情は刺激されていない。

 それどころか、これは──

「……なあ。その最近っていうのは、いつ頃からだ?」

「え? ……数げつくらいかな。高二に上がってからなんて、ほとんど喋ってなかったかも。……忘れたなんて言わせないわよ?」

「忘れた」

「おい!」

「いや、違うんだ」

 みつきそうな彼女を慌てて手で制止する。

 その仕草に違和感を覚えたのか、彼女はげんな表情を浮かべた。

「……大丈夫? とりあえず、そう。お医者さん呼ばなきゃね」

 彼女は思い出したかのように言って、腰を上げた。

 こちらを通り越して、ナースコールのボタンを押す音が後ろから聞こえる。

「呼んだ。すぐに来てくれると思うけど──」

「誰だ」

「え?」

「誰だ、お前」

 口から出た言葉は、色を帯びていなかった。

 何の感情も込もっていない。何の感情も込められない。

 抑揚のない問い掛けに、彼女は唇を震わせる。

「あんた、何を言って──」


「誰だ、俺」


 瞬間、ガラリと扉が開く。

 知らない人の人生が始まる音が、頭の中で鳴り響いた。


 ◇◆


「診断の結果だが、さな君は系統的健忘である可能性が高いね」

「はあ」

 他人のような自分の名前に、とりあえず反応する。

 カウンセリング中に分かったことだが、真田ゆうというのが自分の名前らしい。

 鏡を見せてもらったが、自分の顔にさえ覚えはない。

 初見の時は〝これが普通なのかな〟という、第三者目線の感想になった。ただこの顔が自分だという自覚は早くも既に芽生え始めているので、何とも奇妙な感覚だ。

「平たくいえば、記憶喪失。これには数種類あって、中には今までの人生を全て忘れてしまうものもある。真田君の場合、辛うじてそういった重いたぐいではない」

 自分の名前や顔すらも覚えていなかったのに、重くないのか。

 その事に驚いていると、医者はポケットからスマホを取り出した。

「これが何かわかるかい? 用途は?」

「スマホですね。携帯とか、パソコンみたいな使い方」

「そうだ。今のやり取りから分かるように、真田君は自身の生活に関わる知識は覚えている。3×6は?」

「9です」

「……」

「……18です」

「そうだ。君、しばらくそういうのは紛らわしいから控えなさい」

「すいません」

 死にたくなるくらい冷ややかな目に、俺は視線を横に逃した。

 医者が言うにはこうだ。

 俺が忘れ去ってしまったのは、人間関係。

 親や友達、直接関わったことのある人間の記憶は全て忘却の彼方かなたらしい。

 それはもちろん、先ほどお見舞いしてくれていた女子も例外ではない。

 あのかなしそうな顔を見ると、何だか少し胸が痛んだ。

「先生。俺、今待ってる子が哀しそうにしてた時……ちょっとだけ哀しかったんです。これって、記憶喪失を越えたきずな、みたいなものがあるんですかね」

「ない」

「ないんだ!?

 肯定されることを前提に話を進めようとしていたので、俺は驚いてった。

 医者の隣にいる看護師さんが「ちょっと先生」ととがめるような声を出す。

 しかし医者は、悪びれる素振りも見せずに続けた。

「すまない、断言するには尚早だった。ただ、それは恐らく君元来の優しさだよ。赤の他人が泣いても心を痛めてしまう、優しい在り方なのが君だった。それだけだ」

「おお……そっちの方がなんかうれしい気がする」

 俺の返答にわざとらしい意図を感じてくれたのか、看護師さんはクスリと笑って、すぐに口を閉ざした。

 どうやら笑ってはいけないと遠慮されているらしい。

 ……当然だ、目の前にいるのは記憶喪失の高校生なのだから。

「いいっすよ、笑ってくれて。俺もそっちのが楽なんで」

 目覚めてこの方、しやべる人全員に気遣われている。

 身体からだに負傷があるならしかるべきだが、幸い肉体は健康だ。

 人に気遣われたくないというこの気持ちは、俺の性分か。

「……強いね、さな君は。それも元来の強さなのかな」

「だと思いますよ。正直、なんか楽しいですもん。これから色んな初めてがあるってことでしょ?」

 看護師に向かって、ニッと口角を上げてみせる。

 気遣われるのが申し訳ないのか、無意識に強がっているのか、それとも本心から湧き出る言葉なのか。

 視線を戻すと医者は何か言いたげに口を動かしたが、出たのは吐息一つだけだった。

「……よろしい。後はこれからのことを話して、今日は一旦病室へ戻ろうか」

「うぃーす」

 軽い返事を口から出す。

 自分が何者か分からない。

 当初乱れていた感情は、少しずつ落ち着いてきている。

 ……こんなに特殊な現実なのにな。

 人間、意外とどんな環境にも慣れてしまうものらしい。


 ◇◆


 看護師に付き添われながら病室の扉を開けると、先程お見舞いに来てくれていた女子が振り向いた。

 俺の姿を視認して、へきしよくの瞳が揺れ動く。

「……あっ」

 女子は小さく口を開けて、声を漏らした。

 そして視線を床へ落として、おもむろに近付いてくる。

 隣にたたずむ看護師がつぶやいた。

「戻るね」

「え?」

「二人で話したいこともあるだろうし。幸い今の君の身体からだは、ほとんど健康そのものだから」

 そう言って、本当に看護師は廊下へ歩いて行ってしまった。

 職務放棄と紙一重の気遣いである。

「ねえ」

「ん」

 振り返ると、ライトゴールドの髪が顎付近にまで接近していた。

 至近距離で見る彼女の瞳は人工的なまでに輝いており、同年代からの良い扱いが予想できる。

「私のこと、ほんとに覚えてないの?」

「うん。ごめんな」

「……そう」

 女子の視線は、現実がまだ受け入れがたいというように床に落ちたままだ。

「ほんとに、全く?」

「全然、一切、れいにぽーん」

「……さっきから軽い!」

 女子が眉をひそめてこちらを見上げた。

 彼女の瞳には涙がまっていて、俺は慌ててかぶりを振った。

「いや、ごめん。あんたを忘れたことへの罪悪感がない訳じゃないんだ。ただ開き直らないと、やってらんないだけで」

「……っ。そうよね。ごめん」

 女子はまたかなしげな表情を浮かべて、うなれた。

 その拍子に透明なしずくが一滴落ちる。

 ズキン。

 ──医者いわく。

 この胸の痛みは恐らく元来の俺に備わった感情であり、その人個人への感情とは無関係。

 ……だけど。

「あのさ、元気出してくれよ。あんたにそんなに哀しい顔されたら、俺の胸が痛むんだ」

「え?」

「だから、哀しまないでくれ。あんたが哀しんだら、俺もつらい」

 この子に少しでも元気が出るうそなら、誰からもとがめられることはないだろう。

「……ゆう

 女子は顔を上げて、ぎゅっと唇を結んだ。

 そして何度か目をまばたかせて、目にまった雫を袖でグイッと拭い去る。

 あらわになった瞳には、力強い光がともっていた。

「私はみなと。勇紀、あんたと同じ十六歳でゆうざき高校の二年生」

「そうか。名前は湊さんか」

 答えると、湊明日香は目を瞬かせる。

 そしてフルフルとかぶりを振った。

「……さん付けはやめて」

「ご、ごめん──今までは湊って呼び捨てしてたか? 俺たち、どんな関係だったんだ」

「まあ、そこからよね。私たちはおさななじみよ」

 幼馴染。

 幼い頃からの友達関係。

 ──だからお見舞いに来てくれたのか。

「……まじか。じゃあやっぱり長い付き合い、なのか」

「それだけじゃないわ」

 湊明日香は大きく一つ、息を吐く。

 まるで、何かを覚悟するような息だった。

 彼女が息を吐くたびに、自分の記憶を失った実感が湧いてくる。

 十六年。

 十六年という積み上げてきた人との時間が、頭の中から消えせた。

 きっとこれから、自分を原因とした憂う顔を幾度となく見ることになる。

 さな勇紀という人物がこれまでの人生で人間関係を積み上げていれば積み上げているほど、この時間は長くなる。

 でも不思議と、それを憂う気持ちはほとんど湧いてこなかった。

 俺が思考を巡らせている間、みなとしやべらない。

 重苦しい言葉を吐くかしゆんじゆんしているのか。

 数秒後、彼女は嘆息してからこちらを見上げた。

「私はあんたの──彼女です」

…………彼女?」

 一瞬、思考が停止する。

 目の前にいる湊明日香の顔が一瞬ボヤけて、すぐに明瞭な顔になる。

 思考がつながった俺は、慌てて返事をした。

「って、恋人のことか!? あ、じゃあ口利いてなかったってことは──」

「うん、けんしてたのよ。でももうそれどころじゃないし。ゆうが病院に運ばれたことを知った時は頭が真っ白になって、これまでのことなんて全部吹っ飛んだ」

「そ──そうだったんだ。それは……なおさら申し訳ないな」

 吹っ飛んだのは俺の記憶もだ、なんて軽口はとてもじゃないがたたけなかった。

 恋人という関係性において、彼氏の記憶が無くなるなんてつらいに決まっている。

 たとえ喧嘩で口を利いていなかったとしても、こうしてお見舞いに来てくれるのがそれを証明している。彼女の表情を見るにまだ軽口を叩けるような時ではない。

 いつかはその時が来るのだろうか。

 かつてあったはずの、日常の色が戻る日。

 十六年分の厚みが戻る日が。

 日常がどんなものだったかすら、俺には思い出せないというのに。

「うん。私も後で看護師さんに説明聞いてくるから、あんたの力になれるように頑張る。しばらく身の回りのことは任せてよ」

「身の回りって?」

「ご飯とか、あとはお風呂とか?」

「いやいや、それは」

 この通り身体からだはピンピンしているのだから、彼女といえどそこまで世話になる訳にはいかない。

「そういうのは大丈夫だよ。スマホの操作とか、そういう生活面の知識は残ってるんだ。帰る家もあるんだし、湊にそこまで世話してもらわなくても大丈夫」

 言葉を並べながら、少し違和感があった。

 その正体を突き止める前に、明日香が俺の鎖骨にそっと触れる。

「いいから、私がしてあげたいの。……あと、私のことは明日香って呼んで」

「え?」

「私、あんたの彼女なのよ。下の名前で呼ぶのが普通よ」

「そう、か。……じゃあ。質問していいか?」

「なに? なんでもいて」

 明日香は視線を上げて、口元を緩めた。ホッとするような、柔和な笑みだった。

 胸が溶かされ、ほだされていく感覚。

 現時点で訊きたいことは一つだけ。

 明日香が彼女となると、今までの関係性をしっかり把握しておきたい。

 記憶喪失が判明してから間もないが、そういうところにまで気が回るあたり、自分が受けたショックというのはそれほど深刻ではないのかもしれない。

 俺はゴホンとせきばらいして、口を開いた。

「俺たち、なんでけんしてたんだ?」

「……それは」

 明日香の顔が曇る。

 たとえショックで喧嘩が吹っ飛んだといっても、こちらに非があったのなら謝罪するのが道理。そんな思いもあっての質問だったが、明日香は口角を上げるだけだった。

「……また今度話すわ。今はちゃんと休むこと。他には?」

 なんでも訊いてという発言は、俺の知らないところで撤回されたようだ。

 何となく空気が重くなった気がしたので、場を和ませるべく口を開いた。

 早く軽口をたたける仲に戻るには、今しかないと衝動的に思ってしまった。

「あー、じゃあこれが今日最後の質問だ」

「うん。なんでも」

「俺たちってどこまで進んだ?」

「ん? もう一度言って」

 少し声が冷たくなったのは気のせいだろうか。

 質問の選択を誤った。

「……なんでもないです」

「ふふ。ならよし」

 でも、笑いは引き出せた。

 明日香の微笑ほほえみを見ていると、何だか温かい。

 胸から湧き出るこの気持ちは、以前の俺のごりだろうか。

 それとも、今の。