そこは奈落の底よりもくらい闇。

 前後左右どこに向いても光一つなく、ただただ恐ろしいという感情が襲いかかってくる。

 もしここに何時間といれば、それだけで精神がおかしくなってしまうことだろう。

「……ここは」

 先日ヴリトラと出会った雷の城のときと似たような感覚。

 なにも見えない暗闇を見据えながら、シズルはこれが夢と現実の狭間はざまだということがわかった。

 それに気づいた瞬間、目の前の闇が光り輝き、視界が開け始めた。

「やあシズル君」

 その光の中から、一人の男性が現れる。

 かいじゃヨルムンガルドにわれたはずのその男の名は──。

「クレス……さん」

「呼び捨てでいいよ。僕は敬意を払われるべき人間じゃないからね」

 クレスは家族にするように、自然に笑いかけてくる。

 つい先日、お互いの命を賭して戦っていた相手とは思えないほど穏やかな雰囲気だ。

 この昏い闇の中において、彼の存在だけが少し温かく、そして生命力に満ちていた。

「ここはどこですか?」

「ヨルムンガルドの中──」

「っ──!?

「というわけじゃないから安心してくれ」

 いつの間に、と思って一瞬だけ身体を硬直させてしまったシズルは、それが冗談だとわかりクレスをにらむ。

「ごめんごめん。ちょっと場を和ませようとしただけなんだけど」

「冗談にしてはたちが悪すぎですね。父上だったら無言で斬りかかってるところだと思いますよ」

「あはは、間違いない」

 柔らかく笑う様は本当に楽しそうで、先日の作り物の笑みとはだいぶ違うなと思う。

 まあ夢なんてこんなもんか、なんて思っているとクレスが首を横に振る。

「これは夢じゃないよ」

「え?」

「大精霊同士の共鳴、とでもいうのかな。まあ細かいことはいいとして、僕は今ヨルムンガルドの腹の中から君に語りかけてるんだ」

 そうしてクレスが軽く腕を見せると、そこには黒い蛇がまとわりついたような影が出来ていた。

 影にはまがまがしい魔力が渦巻いており、見ているだけで背中がぞっとする。

「もう、時間がない」

 その影はどんどんとクレスを侵食していた。おそらく彼の全身が影に覆われたその瞬間、世界蛇ヨルムンガルドは復活するのだろう。

 今ならわかる。彼はずっとこの蛇を一人で押さえ込んでいたのだ。

「……グレンと一緒に魔王を倒して西の地に行き、僕はそこに地獄を見た」

 不意に、遠い目をしながらクレスが語りだす。

 勇者として戦争の首謀者であった魔王とルージュを倒したクレスは、魔族領の住民たちの生活を初めて知ることになる。

 そこで見たのは、王国の人間たちと同様に笑い、泣き、そして苦しむ魔族の人々。

 そして戦争の勝者として魔族たちを虐げ始める、人間たちの悪意。

「いやぁ、あれは驚いたね。それまで僕の周りの人間はみんな良い人ばっかりだって思ってたんだけど、それは『僕にとって』良い人ってだけだったんだから」

「それは……」

 人間というのはそういうものだろう。誰に対しても良い人間なんていないし、逆に言えば誰にとっても悪い人間もいない。

 だからこそ自分がどうあるべきか、というのが大事なんだと思う。

「まあだからどうってわけじゃないんだけどさ、ふと思ったんだ。故郷を奪ってしまった償いをしなきゃって」

 結果、クレスはただ一人魔族領に残ることになる。

 魔王の一人娘であるヘルを人質にすることで魔族たちが反旗を翻さないようにして、魔族領の復興を目指してきたのだ。

 父を殺したクレスが、娘のヘルや魔族に認められるはずがない。

 だが彼はどこまでも魔族たちのために尽くし続け、信頼を獲得していった。

「それからしばらくは、平和な日々だった」

 人と魔族はわかり合えない。

 ずっとそう教えられてきたクレスは、それが間違いだったと自身の手で証明したのだ。

 ヘルがいて、アストライアがいて、認めてくれる魔族たちがいて……。

 いずれは王国とも和解できる日が来ると、本気で信じていた。

「そうして魔族領にやってきて十年くらいったころかな。魔族領よりさらに西の地に、とてつもない存在が復活しようとしてるのに気づいたのは」

 クレスがその予兆を感じたのは、魔族領の西の地で活動をしていた黒龍ディグゼリアが突然アストライア王国に向かう姿を見たときだ。

 だがクレスはディグゼリアを討伐することはできなかった。

 なぜなら、そんな黒龍よりもずっと危険な存在が魔族領を飲み込もうとしていたから。

「……それが世界蛇ヨルムンガルド」

「うん。神の気配を感じたからか、それとも復活に気づいて神が干渉したからか、どっちが先かはわからない。ただあの時点でわかっていたことは、かの大魔獣が復活を遂げれば世界は終わるということだけだった」

 かつては敵としてしか見ていなかった魔族たち。

 それが今では仲間だと思うようになっていたクレスにとって、魔族領は第二の故郷だった。

 だからこそ守りたいと思い、西の地へと向かって危険な存在を倒すことを決める。

 それが『勇者』というものだから。

 だが──。

「初めて見たとき、正直言って震えたよ。勇者と呼ばれ、光の大精霊アストライアと契約をしていようと関係ない。あれは、とても人の手に負える存在とは思えなかった」

 クレスがその地にたどり着いたとき、封印はほとんど解かれようとしていたらしい。

 封印から漏れ出す力だけでもすでに凶悪で、クレスにも光の大精霊アストライアにも、この存在をどうにかできるだけの力がなかった。

「だから僕は、世界蛇ヨルムンガルドを自分の中に封印することを決めた」

 クレスは光の大精霊の契約者。

 すでにその身体は普通の人間とは異なり、大精霊の加護が備わっている存在だ。

 ヨルムンガルドを倒すことはかなわなくとも、アストライアの力を使って神々の封印を強化することはできるだろうと思ったという。

「結果は知っての通り。ヨルムンガルドの封印に成功して、二十年近く復活を遅らすことができたってわけだ」

「……二十年」

 微笑ほほえむクレスに対してシズルは、なんて恐ろしいことをしたのだろうと思う。

「あれは人が抑えられる存在じゃないですよね?」

「そうだね」

 自身を封印の媒体とし、アストライアの魂を懸け、そしてヘルという大精霊に匹敵する魔力の持ち主の力を借りてヨルムンガルドを封印することに成功したクレスたちだが、その代償は大きかった。

 破壊の権化であるその力をいつまでも抑えきれるものではなく、漏れ出る魔力は魔族領にむ魔物たちを狂暴化させ、魔族たちも人間に対する憎悪を深めていくことになったのだ。

 それは直接干渉しているクレスですら例外ではなく、近くにいたヘルと共に長い間感情を抑え続けてきた。

 だが──。

「残念ながら、ヨルムンガルドの影響を一番受けたのがヘルだった。あの子は父である魔王とその側近をすべて失ったから……」

 心に闇を抱えていればいるほど、ヨルムンガルドの影響を強く受ける。

 故郷も家族も失った彼女が、いくら強い精神力をもって自制しようとしても、蛇はそれを許さない。

「だからあんなにルージュを憎んでいたんですね」

「うん。下手に止めると相反する精神が悪影響を及ぼしかねないから、ある程度は望み通りにさせることで発散させたんだ」

 このままではいずれ、アストライア王国に対する敵意が爆発し、本格的な戦争となるだろう。

 そう予見したクレスは、自分が主導権を握る形で戦争を始めた。かつて泥沼化した悲惨な戦争のようになることを避けるために。

「まあ、それは王国に侵攻した理由の一つでしかないけどね」

「一つ?」

「僕の本当の目的は、君だよシズル」

 いつまでもヨルムンガルドを封印し続けることもできず、最悪の時代が幕を開けてしまうという危機感があった。

 そんな焦りをクレスが覚えていると、ある日アストライア王国から一つのうわさが流れてくる。

 ──六属性とは異なる、新しい精霊に愛された赤ん坊が生まれた。

 ──赤ん坊が、災厄の黒龍ディグゼリアを討伐した。

 ──神のちょうあいを受けた赤子を襲ったドラゴンは神の怒りを受けた。

 普通ならそんな眉唾な話、信じることはなかっただろう。

 だが黒龍が討伐されたという噂を聞いたとき、この赤ん坊こそが世界蛇を滅ぼすために神々が送り込んだ存在なのだと確信した。

 それから十八年。

 クレスはずっと待ち続けた。神々が生み出した世界の救世主となるべき赤ん坊が成長するのを。

「王国のパーティーで君を見たとき、すぐにわかった。だって明らかに他とは違う『神の力』を宿していたから」

「だったら……最初からそう言ってくれれば」

 そう言いながら、実際にヨルムンガルドの力を肌で感じたシズルは、クレスがそうしなかった理由はわかっていた。

「俺の力が足りなかったから……」

「もしすでにヨルムンガルドを滅ぼす力を秘めているのであれば、すぐに話すつもりだった。だけど……」

 足りなかった。シズルの力はたしかに世界最強クラスであったが、しかしそれは大精霊の契約者レベルの話。

 神々ですら恐れた最凶最悪の魔獣を倒すには至らない。

「君にはもっと強くなってもらう必要があったんだ」

「……」

 だからクレスたちはグレンを斬り、王国を襲撃した。

 力が足りないシズルの敵として、最後の壁として在るために。

「そして君は神々の力のすべてを己のものとし、僕という壁を打ち破って今ここにいる」

「──っ!」

 クレスの言葉に反論をしようとして、しかし言葉に詰まってしまう。

 そんなシズルをクレスは微笑ましそうに見ながら、うっすら白銀色の魔力を解き放った。

「君が気にする必要はない。これまで出た犠牲は僕の力不足によるものだ。だから、その業はすべて背負ってくよ」

「……え?」

「その代わり、約束してほしい。世界蛇ヨルムンガルドを倒し、世界を救うことを」

 白銀色の魔力はゆっくりとシズルの方へと近づいていき、吸い込まれるように消えていった。

 瞬間、クレスの身体が薄くなる。まるで生命力すべてをシズルにささげたような──。

「待って!?

 シズルが手を伸ばす。

 しかしそれより早く世界が再び闇に包まれ、クレスの姿もまた見えなくなってしまった。

 同時にシズルの意識がゆっくりと落ち始める。

 それはまるで眠くなって寝てしまうような、それでいて深い眠りから覚めるような、不思議な感覚だった。


      


 世界蛇ヨルムンガルドが復活するまで、あと一日。

 シズルは軍の総司令官であるホムラに呼び出されて、彼の部屋に行く。

 すでにそこにはローザリンデもいて、二人で談笑しているところだった。

「おうシズル。よく来たな」

「二人とも、もうは大丈夫そうでよかったです」

 シズルが戦場に到着したとき、二人はともに深い怪我を負っていた。

 特にホムラの方はまんしんそうと言っても過言ではないほどのダメージを受けていたはずだが、とんでもない回復力だと思ってしまう。

「イリスのおかげだ。あの子が懸命に魔術をかけてくれなければ、今も他の兵士たちと同じようにベッドで寝ていることだろう」

「そういうことだな。まったく、大精霊の力っつーのはとんでもねぇな」

「あはは……」

 その言葉がイリスだけではなく、シズルのことも指しているのはすぐにわかった。

 すでにホムラたちには、ヨルムンガルドのことを話したときにヴリトラの正体についても話している。

 さすがにあれだけの戦いをしておいて、これ以上誤魔化すことができないし、なによりこれからの戦いにおいて正確な情報を隠すことは誰かの死につながるから。

「……ったく、とんでもねぇことになったな」

 ホムラは窓の外を見ながら、ぽつりとつぶやく。

 彼の視線の先には、昨日よりもさらに大きくなった黒い球体が脈動を繰り返していた。

 その度に地面がわずかに揺れ、その頻度はどんどんと高くなっているようにも思う。

「正直、少し意外でした」

「あん? なにがだ?」

「兄上の声が震えていることが、です」

「……」

 シズルの言葉にホムラはなにも言わず、ただ黙って外を見続ける。

 ただ、その拳はぎゅっと握りしめられて、震えを抑えようとしているようにも見えた。

「兄上ならこの状況、英雄になるチャンスだとでも言うだろうと思ったのですけど……」

「そうだな」

 ゆっくりと振り返ったホムラの表情は、とても複雑なものだ。

 決して恐怖に飲み込まれたようなものではない。ただ、この状況を喜ぶような顔でもない。

「たとえば今の俺が、なんの肩書もないただのホムラ・フォルブレイズだったら、お前の言うように英雄になるチャンスだって喜んだかもしれねぇ」

 シズルの知っている兄は、どんな敵を前にしても不敵な笑みを失わず、ひるまず、ちょとつもうしんするように正面からたたつぶそうとする男だ。

 だがしかし、今のホムラは『フォルブレイズ家領主』。

「俺の命は、俺だけのもんじゃねぇ」

「……」

「まったく、自分でもちょっと驚いたぜ。ガキのころからこうなる自覚はずっとあったし覚悟もしてきたつもりだが、いざこうして領主になったらよ……俺は簡単に死んじゃいけねぇんだって思い知らされた」

 それは、この戦争が始まったときから彼が背負ってきた宿命とも言えるもの。

 より多くの敵を倒すために無茶はするだろう。より多くの民を助けるために命も懸けられるだろう。

 だがしかし、自分以上に無茶ができる相手がそこにいれば、自分は無茶を抑えなくてはならない。

 それが一国一城のあるじが取るべき選択であり、それができるからこそ領主なのだ。

「兄上は昔から、意外と考える人ですよね」

「……なんも考えず、ただ戦うだけだったら楽なんだけどな」

「本当ですよね」

 たとえば自分とホムラが領主の息子ではなく、英雄の息子でもないただの冒険者だったら……。

 きっとどんな危険なダンジョンでも恐れず突き進み、正面からそのすべてを喰らい尽くしていくことだろう。

「まあ仕方ないですよ。悪いのは、不意打ちを受けて簡単に倒れた父上ってことにしましょう」

「はは、そうだな。そういうことにすっか」

「とりあえず、今日はじゃんけんの必要もありませんね」

 シズルの軽口にホムラは笑いながら、シズルの肩を軽く叩き──。

「お前にすべてを託す」

「ええ、託されました。その代わり、後ろは任せましたからね」

「おう」

 いつもなら、どっちが先に敵に向かうか決めるためにめる二人。

 だがしかし、今日このときはお互いにやるべきことをしっかりと理解していた。

「俺とロザリー、それにフォルブレイズ軍がしっかり守ってやるからよ、お前たちは派手に決めちまいな」

 ホムラの言葉にシズルはしっかりとうなずくのであった。


 ホムラの部屋から出て、城壁の上から世界蛇ヨルムンガルドを睨む。

「明日か……」

 ヴリトラから世界蛇の特性について聞いていたことで、フォルブレイズ軍ではすでに作戦は決まっていた。

 すでに地上にいたはずの魔王軍はその姿を消している。その大部分が、ヨルムンガルドに喰われたのだ。

 今下手に近づけば、闇の球体を守るように大地から伸びている黒い触手によって、シズルたちも同じ目にあうことだろう。

「シズル様……」

「ルキナ」

 先日と同じようにルキナが隣にやってくる。違うのは、この場にルージュがいないことだ。

「シズル様は、怖くないのですか?」

「ん、どうだろ……」

 死ぬのは当然怖い。一度本当に死んでいる身としては、もう一度経験したいとは到底思わなかった。

 だがしかし世界蛇ヨルムンガルドが怖いかと聞かれると──。

「実はそんなに怖いとは思っていないかな」

「どうして……」

 そんな気持ちを素直に告げると、ルキナは困惑した様子を見せる。

「どうしてシズル様は、そんなに強いんですか? 私は今、怖くて怖くて仕方がありません。感じるんです……あれは本当に世界を喰らう存在。きっと万全の状態のルージュでも勝てないくらいで……」

「一人じゃないから」

「え?」

 ヨルムンガルドの影響だろうか。まだ昼間だというのに空は昏く、どこかあかぐろい雲が辺り一面を覆っていた。

 そんな空を見れば、天変地異とも世界の終わりとも思う人間は多くいるだろう。

 だがシズルはそれを見て、なんだかとても『ファンタジー』だなぁと思う。

「俺は昔から色んな物語が好きで、こういう場面も何度も見てきたんだけどさ」

「シズル様?」

 独白するようにシズルはゆっくりと言葉を紡ぐ。

 闇の大精霊ルージュ、大魔獣フェンリル、元勇者のクレス。

 その誰もが楽に勝てる相手ではなかった。

 いつもボロボロになり、負けるかもしれないと思いながら戦ってきた。

 だが不思議と、今は違う。

「俺は一人じゃないから」

「え?」

「兄上も、ローザリンデも、イリスも、それに……ルージュとルキナも一緒に戦ってくれる。俺たちの背中をマールやフォルブレイズの戦士たちが守ってくれる」

 シズルは再びヨルムンガルドを見る。

 世界すら喰らう化け物? 神ですら封印することしかできなかった? そんなものは──。

「物語のラスト、ハッピーエンドを迎えるための前準備にしか見えないって話だよ」

 シズルは巨大な雷を生み出すと、ヨルムンガルドに向けて放った。

 その一撃は大地を削りながら迫り、そして衝突する直前で黒い闇の帯に打ち消される。

「ルキナ……俺は物語はハッピーエンドが好きなんだ。途中でどんな逆境にあっても、大変だったとしても、最後はみんなで笑い合いながら過ごす、そんな終わり方が好きなんだ」

 ルキナは幼いころからずっとつらい目にあってきた。

 そんな彼女だが、ずっと一人で自分にできることを考えて、戦い続けて、そうして笑い合える未来にたどり着いた。

 シズルは正直言って、世界のこととかはどうでもいい。

 この世界に転生するときは、すべてを守れるヒーローに憧れた。そうなりたいと思った。

 だけど今、改めて思うのは家族や、手の届く範囲の人たちが笑顔でいられる世界であってほしいということだけ。

 そして、このいとしい女性をずっと守り続けられるような自分でありたいと、そう思う。

 それが多分、この世界で『生きる』ということなのだから。

「約束するよ。俺は君を幸せにする。だから、こんなところで立ち止まるつもりなんてない」

「それは……あの……」

 なにかを言いかけるルキナを強く抱きしめる。

 本当は、この戦いが終わったら結婚しようと言うつもりだった。

 だがなんとなく、前世的にそれは良くない気がしたので言葉にするのをやめておく。

 ──このヘタレ男。

 ──シズルはヘタレだな。

 聞こえるはずのない大精霊たちの声が聞こえた気がするが、それはあえて無視。

 そしてゆっくりと正面からルキナを見ると、彼女は潤んだ瞳でこちらを見上げていた。

「ルキナ……」

 シズルはゆっくりと顔を近づける。ルキナもまた、ほんの少しだけ顔を近づけてきた。

 彼女の温かい身体をしっかりと抱きしめながら、その小さな唇にキスをする。

 それは小鳥がついばむような、触れ合うだけの簡単なもの。

「はは……」

「ふふ……」

 しばらくして、離れた二人は自分たちの様子になんとなく笑い合う。

 今にも世界を喰らう魔獣が復活しようとしているのに、自分たちはなにをやっているのかと少しおかしく思ったのだ。

 ふと、初めて出会ったときの彼女を思い出した。

 己を押し殺し、すべてを諦めていた彼女が、今ではこうして笑顔を向けてくれる。

「俺たちが出会ったころ、ルキナすごく泣いてたよね」

「な、なんでそれを今言うんですかシズル様!?

「いやなに、ちょっと昔の君を思い出してたらつい」

「うぅー……そうでした。シズル様は昔から意地悪でした!」

「あはは、ごめんごめん」

 自分が転生したことで救われた人がいる。そう思うとうれしくなった。

 シズルはヴリトラから転生した理由を聞いたが、あんな化け物と戦うために転生したと言われても正直困る。

 それよりも、この愛しい少女と出会い、彼女を幸せにするために転生したと言われた方が男としてやる気が出るというものだ。

「ねえルキナ。手を握ってもいい?」

「はい」

 二人は並んで立ち、手を握りながら世界蛇ヨルムンガルドを見る。

 シズルは世界のしゅうえんのような光景を目にしながら、それでもやっぱり怖いとは思わなかった。

 なぜなら、こうして隣でぬくもりを伝えてくれる大切な人がいるのだから。

「みんなで勝とう。それで、そのあとは幸せになろう」

「はい……」

 彼女から伝わってくる温もりに、もう恐怖はなかった。

 それからシズルたちはなにも言葉を発せず、ただ地平線の先を眺め続ける。

 これはただ、日常の先にある幸せのための道でしかないのだと、そう言い聞かせるように。