勇者クレスとの戦いから数日。

 じょうさい都市マテリアの城壁から見える巨大な闇色の球体は、昼夜問わずまがまがしい力を放ちながら成長を続けていた。

 ヴリトラから聞いた情報は、シズルが転生したという部分以外はすべて共有している。

 おかげで今、ホムラを筆頭とした軍の上層部は大慌てで対策を練っているところだ。

かいじゃヨルムンガルド……」

 神々の創り出した、世界を壊すためだけに生まれた存在。

 その名をつぶやくだけで、シズルの心が少しざわめいた。

 もしかしたら雷神様の感情が、ヴリトラを経由して伝わっているのかもしれない。

「あれを倒せって、ずっと言われているような気がして仕方がないな」

 思わず天を仰ぐ。本来は青い空が広がっているはずのそこは、真っ昼間だというのにあかぐろく染まっていた。

 これは雷神様の怒りなのか、それともヨルムンガルドのよどんだ魔力が世界を侵食しているからか、どちらにしてもまるでゲームのラストダンジョンに出てきそうな空だとシズルは思った。

「……ふぅ。それにしても、世界蛇とはよく言ったものだね」

 改めて世界蛇の卵とも言える黒い球体を見る。

 封印状態であるそれ自体には依然として大きな動きはない。

 ただ時折、城壁の外に存在する魔物たちがまるで母のもとに向かうようにふらふらと近づいていくのだ。

 そして集まった魔物を、球体は黒い帯を使って捕らえるとそのまま捕食してしまう。

「……ひどい光景だ」

 魔物たちに意思があるようには見えなかった。まるで世界蛇に食べられることを望んでいるかのように、近づいていく。そして蛇のお腹が膨れると、いつものように城壁前をはいかいするのだ。

 一日に数回、蛇は魔物を呼び寄せ、足りない魔力を補うように捕食していく。

 その度に封印が弱まり、代わりにヨルムンガルドの力が増していった。

 まるで、生きとし生きるすべての存在を取り込もうとするかのように成長していく姿を見ていると、恐ろしさ以上に嫌悪感の方が強く感じてしまうものだ。

「シズル様……」

 背後からやってきたルキナが隣に立つと、不安そうな声を出して腕に抱きついてきた。

 闇の大精霊であるルージュの契約者である彼女には、あれがどれほど深い闇を抱えているのかが人一倍伝わっているのだろう。

 そんな彼女の不安を少しでも和らげるため、シズルはいとしい婚約者を優しく抱き寄せる。

「大丈夫……絶対に俺がなんとかするから」

「……はい」

 ヴリトラの話では、世界蛇ヨルムンガルドが復活するまでそう時間はかからないという。

 城下ではエリザベートとイリーナが指揮を執って、フォルブレイズ領の住民の避難がなされていた。

 今このマテリアの街にいるのは、シズルやフォルブレイズの兵士たちだけだ。

「どちらにしても、あそこまできたら封印が解けるまでは待たないといけない。そうだよね、ルージュ」

「……そうね」

 少し離れたところで立っていたルージュは、鋭い視線で闇色の球体をにらんだままうなずく。

 そこにあるのは一体どういう感情か、シズルにはわからない。

 ただなんとなく、いつもよりもずっと冷たい瞳で黒い球体を見つめるその姿こそ、大精霊の本来あるべき姿なのかもしれないと思った。

「アンタはあれ、どうにかできると思う?」

「え?」

「あの化け物よ。あれは古代の神々がいた時代でも倒しきれなかった正真正銘の化け物。私でさえ、あれを滅ぼすことはできないわ」

 それはシズルが初めて聞いた、ルージュの弱音だったのかもしれない。

 世界蛇ヨルムンガルドを背にして、まっすぐシズルを見つめる血のような深紅の瞳は、どこかシズルを試しているようにも見えた。

「……私にとって、この世界は守るべき場所じゃない」

「ルージュ……」

「大精霊の使命は世界を守ること? くだらないわ。私はただ、マリアとの約束を果たせればそれでいいの」

 ──私が死んだら、ルージュは一人になっちゃうでしょ?

 ルキナの母であるマリアは、死を間近にしてなお親友であるルージュのことをおもい続けていた。

 ──私の遺志は、心は、きっとこの子に受け継がれる。そして、この子が大きくなって子どもが生まれたら、その遺志は次の子に受け継がれるの。そうすればあなたのそばにはずっと私の心がある。私の心は死んでも残り続けるの。それってとっても素敵なことじゃない?

 そしてその言葉の通り、彼女は命を懸けて思いを未来につないだ。

 大精霊はこの世界で最もわがままで、自分勝手な生き物だ。

 そんな彼女にとって──。

「ただ私にとって大切なのは、あの子の想いを未来に連れていくことだけよ。それをあんなこっとうひんみたいな化け物に壊されるわけにはいかないの」

 彼女はシズルの腕の中からルキナを奪うと、とても大切な宝物を扱うように抱きしめた。

「もう一度だけ聞くわ。本当に、アンタにはあれがどうにかできるわけ?」

「できる」

 二人の間に沈黙が流れる。だがそれも一瞬。

「……我ながら、甘くなったものね」

 ルージュは少しだけなにかにあきれたようなため息をつくと、ルキナをシズルに返す。

 思えば、こうして彼女がルキナを手放したのは初めてのことではないだろうか。

「いい、ルキナ。もし危なくなったら遠慮なくこの男を盾にするのよ」

「ルージュ……」

「まあ、そんなこと言わなくても、コイツなら死んでも守るでしょうけどね……」

 とても小さな声で呟かれたその言葉は、シズルたちの耳には届かなかった。

「ルージュ? なにか言った?」

「なんでもないわ。まあ、マリアとの約束のためだし、あの蛇をたたつぶすのは手伝ってあげるわ」

 それだけ言うと彼女は影の中へと消えていく。

 残されたシズルとルキナは、そんな素直じゃない彼女に対して少しだけ笑ってしまった。

「……少し休もうか」

「はい」

 ヴリトラの見立てでは、世界蛇ヨルムンガルドが復活をするのは三日後。

 封印状態ではどれだけ強い力で攻撃しても効かず、それどころか防衛本能から手痛い反撃を喰らいかねないという話だ。

 復活までなにも打つ手がないというのはもどかしい気持ちもあるが、シズルたち側からしても民の避難、そして体調を万全に整える時間が必要だった。

 そうしてシズルはルキナを連れて、マテリアの城に用意された部屋に向かう。

 今はほんの少しでも、彼女と一緒にいたいと思ったから。


      


 翌日、シズルは人が集まる一室に入る。

 そこには先日までの戦争で戦い続けた兵士たちが横になっており、苦しそうなうめき声を上げていた。

 声を上げられるということは生きているということ。それは戦場に出た人間にとっては幸運なことであるが、それでも苦しいものだ。

 そしてそんな彼らを救うべく、一生懸命動き続けている者たちがいる。

「シズル様!?

『え、シズル?』

「やあマール、それにイリスも」

 怪我人は多く、とても医者が足りない。

 そのためフォルブレイズ家からも医療の心得がある者は医療スタッフとしてここに派遣されており、この二人もそうしてマテリアまでやってきた。

「あ、せっかく来ていただいたのですが……今は」

『うん、怪我人を診ないと……』

 元々戦闘メイドとしての教育を幼いころから受けていたマールは手当てもできるし、重傷者の怪我を診ることにも慣れている。

 イリスの場合は風魔術で治療ができる。

 そんな二人だからこそ、猫の手も借りたい状況において重宝されていて、メイド服を怪我人たちの血でらしながら、多くの戦士たちの命を救ってきた。

 ここで治療されている怪我人たちから見れば、彼女たちはまさしく白衣の天使そのものだろう。

 だが──。

「ねえ二人とも、なんで俺がここに来たか、わかるかな?」

「え……と」

『……ぅぅ』

 ニッコリ笑いながら言うと、二人はそっと視線をらす。どうやら自覚はあるらしい。

「医者たちから陳情があったよ。俺付きのメイドたちが己を顧みることなく働き続けてて、いい加減あの子たちを休ませてくださいってさ」

「で、でもシズル様!?

『まだまだ怪我人が多いし、休んでなんていられないよ!』

 シズルの言葉に、二人は反論する。

 ここの医者たちからは働きすぎだから休めと言われているはずなのに、彼女たちは休む気が一切ないまま動き続けていた。

 二人は確かに、普通の女性よりもずっと強いし体力もあるだろう。

 だがしかし、三日以上もの間ほぼ不眠不休で働くのはやりすぎだ。

 だからこそシズルは黙ってもう一度ニッコリ笑いながら口を開く。

「二人とも、休もうか」

「はい……」

『はい……』

 シズルのプレッシャーに観念したように、二人は頷くのであった。


 そうしてシズルの部屋にやってきたメイドの二人は、黙って椅子に座らされる。

 その横では、シズルがテキパキと紅茶の準備をするので、慌てて立とうとするのだが──。

「二人とも、今日は仕事から離れて休むように」

「あのーシズル様? そういうのは従者である私たちがやることでして」

『そうだよシズル。シズルは主人なんだから私たちに任せて……』

「駄目」

 たった一言にシズルの強い意志を感じ取った二人は、黙って座り直す。

 ここで踏み込めば、またさっきまでのことを追及されかねないと理解したのだ。

「こうして自分で紅茶をれるのも久しぶりだなぁ」

 思わず鼻歌を歌いながら、カップにお茶を注ぐ。

 その姿は意外にも様になっており、メイドの二人が驚いたような顔をしていた。

 ヴリトラが紅茶を淹れるのが好きだったから、よく二人でティータイムを楽しんだものだ。

 その際に色々と教えてもらうことになり、いつの間にかシズルも紅茶の淹れ方が上手になっていた。

「ふふっ」

 ふと思い出すのは、ヴリトラが紅茶を注ぐ姿。

 あの小さく丸い身体で必死にティーポットを持つ仕草は、なかなかにあいきょうがあったなと思う。

「シズル様、いつの間にこんな……」

しい』

「気に入ってくれてよかった」

 鍛錬がくいかなかったときなど、よくヴリトラがリラックス効果のあるハーブティーを用意してくれた。

 その細かい効果などはわからなかったが、彼の心はしっかりと伝わってきたものだ。

「さて、二人とも。医者も言ってたけど、働きすぎだよ」

「でも、今はそんなことを言っている場合ではありません!」

『私を守るためにゲオルグは怪我をして……』

 二人そろって慌てたように声を上げる。

「あのね二人とも、落ち着いて。まずはマール」

「はい……」

「とりあえず、もう戦争は終わったんだ。これ以上魔王軍が攻めてくることもなければ、怪我人が増えることもない」

 マテリアの外ではまだ魔物がうろついているとはいえ、すでにその魔物たちを指揮する者は誰もいないのだ。

 時々黒い球体の餌として食べられるだけで、魔物たちに脅威などはなかった。

 もっとも、その黒い球体が問題なわけでもあるが、しかし今はまだ大人しいまま。

 下手に刺激さえしなければ、あと数日はなにも起こらないだろう。

「うっ……でも私はフォルブレイズの人間として……」

「こんな風に自分を犠牲にしてまで働こうとしたなんてうえの耳に入ったら、ガリアまで強制連行されちゃうよ」

「あぅっ……」

 その言葉に、マールは言葉に詰まる。

 一生懸命なのは彼女の美徳であるが、だからこそフォルブレイズ家のために、という気持ちが前面に出すぎているのであまりいい状況とは言えないだろう。

 化粧で誤魔化しているが目の下にはクマが出来ており、明らかに睡眠不足なのが見てわかる。

「今マールが無理をしなきゃいけないことなんて、ないんだよ?」

「でも……私はシズル様の護衛でもあるのに危険からは守れず……フォルブレイズ家の人間でありながらできることもなくて……」

 シズルにとってマールは姉のような存在だ。

 それこそシズルがこの世界に生まれたときからずっと傍にいて、見守ってきてくれた。

 彼女がこのフォルブレイズ家をとても大切に想ってくれていることは知っている。

 だからこそ、こののピンチにできることがないかと思い、こうして己のことを顧みずに働き続けたのだろう。

 しかしそんな彼女の姿は、シズルにとって望むべきものではない。

「俺にとってマールは日常そのものだよ」

 この剣と魔法のファンタジー世界に転生したシズルにとって、ここはある意味で夢のような場所だった。

 父親は英雄で、母親は自分のせいで身体が不自由になり、兄は領地を継ぐべき人間だというのに破天荒に生きている。

 フォルブレイズ家の家族は前世ではあり得ないような人ばかりで、まだ世界にんでいないシズルにとって『非日常』の人たちだったのだ。

 そんな中で、マールだけは違った。

 毎日傍にいて、太陽のような笑みを浮かべてくれる。

 そうして自分が悪いことをするとしかってくれる、まさに姉のような存在。

「シズル様?」

「だから、あんまり無理しないで。俺が帰ってきたときに、笑顔でおかえりって言うのはいつも、マールの役目なんだからさ」

「っ──」

 シズルの言葉を聞いたマールは感極まったように言葉を詰まらせた。

 そして突然、ポロポロと涙を流し始める。

「え? ちょ、え!?

 いきなりのことにシズルは戸惑い、どうしようと慌ててしまう。

「あ、ちが……これは違うんです! ただ、ただうれしくて! それで!」

「嬉しくて泣くの!? えーと、あ、えーと……」

『シズル、シズル』

「なにかなイリス!?

『とりあえず、こうぎゅっとして顔を隠してあげたらいいと思うよ』

 イリスのアドバイスがどういったものかを考えるよりも前にシズルは行動に移す。

「ぇ、ぁ、ぅ……?」

 腕の中で嗚咽おえつをこぼすマールは戸惑った様子。

 だがしかし状況に慌てていたシズルは自分の行為をあまり理解せず、ただただ強く抱きしめ続けた。

 そうしているうちに、自分がいつの間にか彼女を抱きしめられるようになっていたことに少しだけ驚く。

 昔は自分が抱きしめられて、彼女の腕の中にすっぽり収まっていたはずなのに。

 ──もう、十八年だもんな。

 この世界に転生してから十八年、彼女との付き合いはそれだけの長さになる。

 母であるイリーナとは面会時間が決まっていたし、忙しい父グレンはそこまで一緒にいる時間はなかった。

 だからこそ、このマールがこの世界で過ごしてきた中で、一番長く傍にいた。

「ありがとうマール」

 ふとこぼれた言葉。

 こんなありふれた言葉が多分、今の自分の本音なんだろうなと思う。


『マール、寝ちゃったね』

「うん……よっぽど疲れてたんだと思う」

 腕の中で泣き疲れたマールをベッドに横たわらせて、シズルは再び椅子に戻る。

 正面で紅茶をすするイリスは以前会ったときよりも成長していて、女性らしい雰囲気だ。

 エルフは美人揃いなことで有名だが、イリスもその例に漏れず、可愛かわいらしさよりも美しさが増してるように見えた。

「イリスもあんまり無茶はしちゃ駄目だよ」

『……うん。ごめんなさい』

 ペコリ、と頭を下げる仕草は以前と変わらず。

 この数日はかなりバタバタしていて、久しぶりにフォルブレイズ領に帰ってきたというのに彼女たちと話す機会をほとんど持てなかった。

 だからか、こうして向かい合うと少しの気恥ずかしさと、懐かしさを感じてしまう。

「ゲオルグの容態はどう?」

『うん……かなり傷は深いけど、もう大丈夫』

「そっか……よかった」

 イリスたちがクレスと戦っている現場にたどり着いたとき、すでにゲオルグは深い傷を負っていた。

 はたから見れば間違いなく致命傷。

 しかしイリスの『風の祝福ディアドラ・ブレス』のおかげでなんとか一命を取り留めたらしい。

 もしゲオルグがいなければ、ホムラもローザリンデもイリスも、もっとひどい怪我を負っていただろう。

 イリスとフォルブレイズ領を守るためにこの場に参上してくれた彼には敬意しかなかった。

「目が覚めたら、お礼を言わないとね」

『うん……私も』

 これから先の戦いは厳しいものとなる。

 ゲオルグほどの戦士が一緒に戦ってくれればこれほど心強いことはなかったが、彼の傷は深い。

 これ以上の戦闘はできないだろうし、これ以上の無理をさせようとは思えなかった。

『シズルは、世界蛇ヨルムンガルドと戦うの?』

「うん。あれのこと、イリスも知ってたんだ」

『私の中にいるお母さんが全部教えてくれたから……』

 イリスは風の大精霊ディアドラが生み出したけんぞくであり、その力のすべてを受け継いだ、次世代の大精霊とも言える存在だ。

 そんな彼女でさえ、世界蛇のことを思うと不安そうな顔をする。

『あれは神でも倒せなかった正真正銘の化け物だよ。たとえシズルが逃げても誰も文句は言えない。なのに、逃げないの?』

「逃げないよ」

『なんで?』

「この世界には、守りたいものが多すぎるから」

 それは心の底から言える本心。

 前世ではただのサラリーマンだった自分が、英雄とも言えるだけの力を手に入れた。

 だがそれは決して自分一人で手に入れたものではない。

 ルキナも、マールも、これまで優しく見守ってくれてきた家族も、そして──。

「もちろん、イリスもその一人だよ」

『そっか……』

 シズルの言葉に、イリスが少し嬉しそうな顔をする。

『なら、私も一緒に戦うね』

「いや、イリスは他の人たちと一緒に逃げて……」

『ううん、逃げない。だってあれを倒すのは、私たち大精霊の系譜の役目だから。それに……』

 ──私もみんなを守りたいの。だって、この世界が好きだから。

 それは、シズルが初めて聞いたイリスの『声』だった。

「イリス、君は声が……」

「まだ、上手くは話せないけど……ちょっと練習したんだ」

 えへへ、と嬉しそうに笑う。

 そよ風のようにはかないほど薄く、まるで風の妖精がささやくような小さな声。

 それでも風に乗った音はしっかりとシズルの耳に届いてきた。

「私の中のお母さんが言うの……あれは世界の敵。私たちの力は、あれから世界を守るためにあるって……だからシズル、一緒に戦わせて。みんなを守るために」

 丸いすいのように透明な彼女の瞳が、まっすぐシズルをく。

 そこには自分と変わらぬ覚悟が宿っていて、彼女もまた守られるだけのか弱い少女ではない、ということだろう。

 だからシズルはそんな彼女の心に、敬意をもってただ頷くのであった。

 その先に続く『未来』を見るかのように。