14 イクシュナーゼの本気
その日、シャーリーはいつものように朝食の準備をしていた。
リアムとエドワルドはまだ起きて来ていない。
ゼレンシウスは早起きで、ダイニングのソファでくつろいでいた。
(そう言えば、ゼレンシウスは女神イクシュナーゼの伴侶……つまり旦那さんなんでしょ? 今の状況って大丈夫なのかしら?)
イクシュナーゼはゼレンシウスのために世界を滅ぼして創り直したいと考えている。
けれどゼレンシウスはこちら側にいて、シャーリーたちの味方をしているのである。──つまり、イクシュナーゼと対立するような立場になっていると考えられるが、そのあたり、彼はどう思っているのだろう。
(ゼレンシウスが何を考えているのか、よくわからないわね。世界を滅ぼしたくはないみたいだけど……)
長い時間を「循環装置」としてすごしてきた彼の気持ちはわからない。
もともと人間だったらしいゼレンシウスだ。時間の感覚はシャーリーたちと同じはずである。そう考えると、創世の時代から今日までの長い長い時は、彼にとっては苦しかったのではないかと思うのだが、彼は飄々として全然つかめないのだ。
(考えてみたら、食事もとっていなかったのよね。イクシュナーゼが会いに行っていたんでしょうけど、それでも……)
イクシュナーゼ以外とは誰とも会わずに、ずっと地下の鉱石の中で過ごしていた。
(……緑の塔といい、「循環装置」といい、イクシュナーゼはどうして、人が不幸になるような方法でしか世界の存続を思いつかなかったのかしら?)
それは、イクシュナーゼが神様だからだろうか。人と感覚が違うからなのかもしれない。そうかもしれないけれど──、長い時を鉱石の中で過ごしてきたゼレンシウスや、過去に緑の塔に閉じ込められて苦しんだ大勢の魔力持ちのことを考えると、沸々と怒りに似た何かが胸の底から沸き起こって来る。
たった一人で緑の塔に閉じ込められていたアルベールやリアムを知っているからこそ、この苦しみの連鎖を生んだ根本を、どうしても許せなく思うのだ。
女神にとっては人の一生など一瞬なのかもしれない。ましてや緑の塔で過ごす数年など、取るに足らない時間に思えるかもしれないけれど、少しは人の気持ちも考えてほしい。
(まあ、そういう気持ちがわからないから、簡単に世界を滅ぼして創り直せばいいって考えに及ぶんでしょうけどね)
神様は理不尽だ。
前世の聖書に登場した神様も、神話に登場した神様も、理不尽な神様が多かった。
その絶対的な力の前では、人々は蟻のようにちっぽけで、簡単に踏みつぶされてしまう。
「おっと、焦げちゃう!」
考えに没頭していたシャーリーは慌ててオーブンを確認して、ホッと息を吐きだした。
今日の朝食のメインは鮭の西京焼きだ。魚焼きグリルがないのでオーブンで作っているが、味噌を塗ってあるので火加減に注意しなければすぐに焦げてしまうのである。
おかずの味が濃いので主食は白ご飯。エドワルドの好きな味噌汁は、豆腐とわかめでシンプルに。味噌汁にはほんの少し隠し味でおろしショウガも入れた。
それから大根おろしとオクラのさっぱり合え。これは鰹節とほんの少しのだし醬油であっさりした味付けだ。あとはだし巻き卵と、白菜の浅漬けで完成だ。
ここ数日リアムにお茶漬けブームが到来したので、おそらく最後にほしがるだろうから、沢庵や梅干し、キュウリとニンジンの糠漬けも別の小鉢に入れておく。
西京焼きも焼き上がったし、あとは味噌汁の味噌を溶くだけなので、そろそろリアムとエドワルドを起こしに行った方がいいだろうか。
リアムは放っておいても起きてくるだろうが、エドワルドはその日の気分で、起こすまで惰眠をむさぼっているときがあるのだ。
(エドワルド様、昨日は遅くまでゲームしていたから、今日は起きてこない可能性が高そうだものね)
仕方がないなと息を吐いて、シャーリーはキッチンを出ると二人を起こしに行こうと階段を上りかける。
だが、階段の上り途中で、玄関ホールにアデルが現れて、シャーリーは足を止めた。
「アデル様、どうされたんですか?」
今日、朝から来ると聞いていただろうか。
(しまった、朝ご飯が足りない……)
味噌汁などの副菜はたくさん作っているからいいとしても、西京焼きは人数分しか作っていなかった。さっと作れるものを思い浮かべていると、アデルが切羽詰まったような声をあげて、シャーリーは目を丸くする。
「シャーリー、大変なんだ!」
これは何かあったようだ。
アデルの顔色は悪く、かなり動揺しているのがわかる。
シャーリーは頷き、階段を駆け上りながら返した。
「急いでリアム様とエドワルド様を起こしてきます!」
リアムとエドワルドを起こした後、アデルに訊ねたところ朝食はまだだと返って来たので、さっと追加で薄切りの牛肉をすき焼き風に味付けて、朝食をダイニングテーブルに並べた。
アデルが動揺しているようなので、食事を取りながらの方が気分も落ち着くだろう。
全員そろってダイニングテーブルについた時に、エドワルドがアデルだけに出されたすき焼き風に味付けた牛肉を羨ましそうに見ていたから、残っていた分を出してあげる。まったく、エドワルドは朝から食いしん坊である。
「それで姉上、何があったんですか」
ほくほく顔で食事に口をつけながらエドワルドが訊ねると、アデルが味噌汁を一口飲んで、ふぅっと息を吐きだした後で答えた。
「それが、南の大陸の西側に、変な軍隊が現れたそうなんだ」
「変な軍隊……? まさか、戦争がはじまったんですか?」
戦争回避のために、エドワルドの案で精霊たちに緑の蔦を植えてきてもらったはずだ。
戦争をはじめるにも準備が必要なので、今日明日の開戦にはならないと踏んでいた。その間に緑の蔦がうまく機能して、国の滅びが止まれば戦争が回避できるかもしれないと考えていたのに、予想よりもあまりに動きが早い。
シャーリーが食事の手を止めると、リアムもエドワルドも眉を寄せて食べるのをやめる。
ゼレンシウスと精霊たちは食事を続けているが、視線はアデルに向けられていた。彼らも何が起こっているのか気になるようだ。
「それがよくわからないんだ。全員が全身黒い鎧に覆われているそうなんだが、国旗を掲げているわけでも、鎧に紋章が入っているわけでもないらしい。それから、どこから現れたのかもわからないと聞いた。噂に聞くと、突然現れて、襲い掛かって来たそうだ。兵士だけではなく非戦闘員であろうとも容赦なく斬りかかってくるのだと……。そして不気味なのが、殺してもまるで死なないらしい。本当かどうかはわからないけど、情報を集めてきた諜報官によると、そんな噂があるそうだよ」
「殺しても死なない!?」
エドワルドが目を剝いて、リアムがさっとゼレンシウスを見やった。
ゼレンシウスが難しい顔をして顎に手を当てて考え込む。
「……実際に見て見ないとわからないが、本当に不死だと言うのならば、イクシュナーゼが関わっている可能性が高い。おそらくだが、不死なのではなく、そもそも生物ですらないと考える方が正しいかもな」
「生物でない……人ではないということですか?」
そんな馬鹿なとシャーリーは目を見開いたが、ゼレンシウスはあっさり頷いた。
「鎧そのものが動いていると考える方がいいだろう。イクシュナーゼが女神の力で創り出したのだろうな」
「そんなこと、できるんですか!?」
「何を驚いているんだ。現にシャーリーも同じようなことをしているじゃないか」
ゼレンシウスがそう言って、精霊たちに視線を向けた。
「彼らは生きて動いているように見えるが、厳密に言えば生物ではないだろう?」
「あ……」
確かにその通りだ。精霊たちは、シャーリーがゲームに登場するキャラクターを想像して呼び出したものだ。意思があり、食事もとっているが、彼らが「生物」かと聞かれれば即答できないものがあった。
ゼレンシウスが生物でないと断言したからには、彼らはやはりゲームのキャラクターで、生物ではないのだろう。あくまでシャーリーが想像した通り──ゲームの設定どおりの、生物とは別の存在なのだ。
「リアムが奪われ、そして私も地下の装置から解放されたことを知って、イクシュナーゼも手段を変えたのかもしれない。物理的に世の中の生物を消し去ることにしたのかもな。魔力持ちがどこに存在しているか、また次にどこから生まれるかわからないのなら、世界に存在する人間を全員殺してしまえばいい。そういう結論に至ったのだろう」
「そんな……!」
無茶苦茶だ。
シャーリーは愕然としたが、ゼレンシウスは苦笑しただけだった。
「イクシュナーゼにとって、この世界は積み木と同じなんだよ。気に入らなければ崩せばいい。この世界に生きる人々を消し去ることに、何の感慨も抱いていないだろう。そういうものなんだ、神と言うのは。そうでなければ、永遠を生き続けることなんてできない。神は執着しないものなんだ。おそらくだが、イクシュナーゼが執着しているものは、私だけだろうよ」
つまり、ゼレンシウスさえ生きていられればそれでいいという考えなのだろうか。
それ以外は無機質な積み木と同じに見えている、と?
「もちろん、実際に見ていないから、イクシュナーゼが関わっているかいないかはわからない。だが、可能性は高いだろう」
「それについては、イリスに頼んで、シルフに様子を見に行ってもらった。じきに報告があると思う」
アデルが青ざめた顔で言う。
さすがに女神の仕業だとは思っていなかったアデルは、事態が思っていた以上に深刻だとわかって今にも倒れそうな顔色だった。
リアムもエドワルドも、顔色をなくしている。
シャーリーもさすがに血の気が引いた。
女神が本気になったら、もはや人間には太刀打ちできないのではないか。
(アルベール様にも教えてあげないと……)
ゼレンシウスの言う通り、南の大陸で発見された鎧の集団がイクシュナーゼの仕業ならば、いつこちらの──北の大陸にやって来るとも限らない。
教えたところで、女神の勢力に対抗しうる手段はないかもしれないが、ただ滅ぼされるのを待つのは違う気がした。
エドワルドがごくりと息を吞み、ゼレンシウスを見る。
「もし……、もし、本当に女神イクシュナーゼが生み出した軍勢だったとして、対抗手段はあるのか?」
「女神の意思が変わらない限り、一度退けたとしても再び方法を変えて来るだけだろうが、全く手がないわけではない」
「それは何だ!? どうすればいい!?」
ゼレンシウスはシャーリーに視線を向けた。
「簡単なことだ。女神の力に対抗するなら、同じ魔力の色を持ったシャーリーが出ればいい。シャーリーがどこまでできるのかは私にもわからないが、どうやら魔力の使い方はわかっているようだ。イクシュナーゼを足止めするくらいはできるだろう」
シャーリーはぎくりと肩を揺らした。
シャーリーは女神イクシュナーゼと同じ色の魔力の持ち主──つまり、無から有を生み出すことができる力であると言うのは教えられて知っている。
だからと言って、相手は女神だ。シャーリーが対峙して、果たして無事で済むのだろうか。
(しかも、せいぜい足止めできるくらいなんでしょ?)
足止めして、そのあとは?
女神を倒すか引かせることができない限り、どうあってもこちら側が負ける。
まあ、どの道、出向かなくても、女神が人々を殺しつくすことを望んでいるのならば、生き残るすべはないだろうが。
シャーリーがぎゅっと拳を握りしめていると、エドワルドが声を荒らげた。
「ふざけるな! そんなことをすればシャーリーが危険じゃないか!」
「その通りだね。シャーリーをそんな危ない場所へは送れない」
「シャーリーが出向いたところで足止めだけしかできないのならば、行く必要はない。ほかに方法があるかもしれないだろう?」
エドワルドに続き、アデル、リアムもシャーリーをかばうように声をあげる。
シャーリーはアデルたちに視線を向けて、ゆっくりと息を吐きだした。
落ち着いて、冷静になろう。
(最悪、わたしが出るのはいいわ。どこまでできるかわからないけど、何もしなくても殺されるだけだもの。だけど──)
ゼレンシウスは先ほど、重要なことを言った。
「女神の意思が変わらなければ、と言いましたよね? ゼレンシウスは、どうすればイクシュナーゼの意思が変わるか、わかりますか?」
ゼレンシウスはだし巻き卵を口に入れながら、こともなげに答えた。
「簡単なことだ。私が死なない世界に創りかえればいい。そうすれば、イクシュナーゼは止まる」
(まったく、簡単に言わないでほしいわ!)
シャーリーはぷりぷり怒っていた。
朝食後、シルフが戻って来るまでアデルも緑の塔にいると言ったので、食後のお茶を用意した後、シャーリーはキッチンで洗い物中だ。
(ゼレンシウスが死なない世界に創りかえればいいって、無茶言わないでよ!)
女神はそのために世界を創りかえようとしている。そのために一度世界を無に戻すつもりなのだ。
つまりゼレンシウスが言ったことは、女神がしようとしている方法以外──すなわち、世界を無に戻さない方法で、ゼレンシウスが死なない世界を創ればいいと言っているのである。無茶苦茶だ。
ゼレンシウスが死なない世界。それは──
一、魔力がゼレンシウスなしでも自然と循環し、枯渇しないこと。
二、ゼレンシウスが生命維持をする魔力分を確保すること。
この二つが大きな条件となる。
だが、よく考えてほしい。
ゼレンシウスが生命維持に魔力を消費しているため、世界の魔力の総量が減っているのだ。上手く循環方法を見つけたところで、ゼレンシウスが魔力を消費し続ける限り無理なのである。
(ゼレンシウスの生命維持のための魔力……はひとまず置いておくとしても、世界が滅びないように魔力を循環させるのってどうすればいいのかしら。というか、魔力がなくても原子とか分子が消えてなくならなければそれでいいんだけど。大体なんで魔力を使わないと原子や分子が消えてなくなるのかしらね……ん?)
シャーリーはそこで引っかかった。
(この世界には太陽も空気もあるわよね? 体に血が流れているのも一緒で、植物も前世にあったものとほぼ変わらないものばかりだし……、つまりここは、わけのわからない魔力とか緑の塔とかを除けば、前世の環境とさして変わらないのよね?)
人が生きるためには空気──酸素がいる。
紫外線から人や動植物を守るためにはオゾンが必要で、それらを含め、空気をとどめておくために重力がいる。もっと言えば、物質をとどめておくのにも重力が必要だ。
(確か重力って、自転の関係もあるらしいけど、結局のところは天体の重さによって変わるのよね? だから月の重力は地球の六分の一で……)
朝が来て夜が来るのだ。この星が自転しているのは間違いない。だから、重力を考えた際に問題になるのは質量のはずだ。
この星に、地球と同じだけの重力があれば、そもそも魔力なんて存在は必要なかったのではなかろうか。だって、同じだけの重力があれば分子も原子も質量保存の法則に則って世界に留まっていられるはずだからである。
ということは、だ。
(つまり魔力って、重力のかわりをしているんじゃないの?)
ユーグレグース創世記がまさしく本当にあったことならば、イクシュナーゼの創世が失敗したのは、もしかして物質を生んでも、それを維持する環境を作り出す重力がなかったからではなかろうか。
シャーリーは天文学や物理学の専門家ではないので詳しくはわからないが、地球と同一環境にある星であれば生命体が発生してもおかしくないとテレビ番組で見たことがある。
つまりこの星に足りないものをプラスして、地球と同じ環境に整えられれば、魔力なんてものがなくても世界は維持できるのではなかろうか。
(足りないものが重力だとしたら……、ええっと重力は天体の重さだから、この星が軽すぎるってことでいいの?)
魔力が、重力の代わりに地上に物質を引き付ける役割をしていると仮定するなら、つまりこの星を地球に近い質量に変更できれば、魔力は必要ないということにならないだろうか。強引すぎるかもしれないが、仮説としては悪くない気がする。
(大地に魔力を供給しなければいけなかったのは、磁石のように物質──分子とかを引き付ける作用をさせるため。だから魔力がなくなった大地は分子とかを引き付けることができなくなり、宇宙空間に放出され続けて、やがて人も動植物も住めない場所になる。……何も引き付けることができないなら、空気も宇宙空間に消えていくでしょうし)
砂鉄実験のようなものだ。磁石があるところに砂鉄は集まるが、ないところには当然集まらない。物質を引き付ける重力がないところには、何も集まったりしないのだ。だから魔力が供給されていないと、その大地が枯れて国が亡びる。
(そう考えるとしっくりくるわ!)
もちろん、シャーリーが物質を生みだしたり、ゼレンシウスの生命維持に使われたりと、魔力はそれ以外の性質ももっているのだろうが、大地に供給する役割が重力の代わりだとするのならば納得だ。
(大嫌いだった物理とか化学の授業も、役に立つときがあるのね! 必要ない学びはないって本当だったわ!!)
問題は、この星をどのようにして、地球と同じ質量にするかだが──
「わたしにはこの力があるもの。何とかなるはずよ」
それでうまくいくかどうかはわからないが、試してみない手はない。
(そうと決まれば、地球が何でできていたのかを調べなきゃ。できるだけ近い物質を使った方がいいものね!)
確か、地球は水の惑星と呼ばれると同時に、鉄の惑星とも呼ばれているはずだ。
つまり、鉄の含有量が多いのだろう。
「ちょっと記憶があいまいだけど──高校の時の、物理の教科書!」
シャーリーが物理らしいものを学んだのは、後にも先にも高校のときだけだ。
物理の教科書を読めば、きっと知りたいことが書いてあるはずだとシャーリーは指を鳴らした。
シルフが南の大陸の偵察から戻ってきて、シャーリーたちはダイニングに集まった。
先ほど思いついた重力の仮説については、ひとまずみんなにはまだ伏せておくことにした。
仮説は仮説でしかないし、この世界では前世ほど物理や化学は発展しておらず、ましてや地学や天文学については論外だ。なぜなら「この世界はイクシュナーゼが創った」という概念ですべて片付くからである。
まあ実際に神様がいて、神様がこの世界に人々を誕生させたのは間違いないようなので、根本はやはりシャーリーが暮らしていた世界とは違うので仕方のないことかもしれないが。
「シルフ、どうだった?」
アデルがシルフに訊ねると、シルフは難しい顔で頷いた。いつも飄々としている彼女にしては珍しい。
「噂通りだったよ。変な鎧が大群で人を襲っていた。あれは生き物じゃないね。試しにこっそり攻撃して一つをバラバラにしてみたけど、中には何もいなかったし、それどころか、バラバラになっても動いていたよ」
「イクシュナーゼの仕業で決まりだな」
ゼレンシウスが信じられないくらい冷静に判断した。
アデルは蒼白な顔で黙り込み、エドワルドがごくりと唾をのむ。
リアムがダイニングテーブルの上に広げた地図をシルフの方へ向けた。
「その、鎧の軍隊がいたのはどこだった?」
「ええっと、ここだね」
「ビッセリンク国か。……あまり情報がない国だな」
シルフが指をさしたのは、南の大陸の南西の端に近い国だった。以前滅びたと言われている旧ゼラニア大陸の東隣りだ。
「軍の進行方向はわかるか?」
「西に向かって移動していたよ」
「この、ビッセリンクだっけ? この国、結構な軍事力があるみたいで、今のところ国の西付近でその鎧の軍を何とか抑え込んでるって感じだけど、相手は体力とか関係なさそうな鎧のお化け集団だからね。そのうちじり貧になるのはビッセリンクの方だろうね」
「ビッセリンクは、大国であるフランセンと同盟関係にあるはずだ。応援は入るだろうが……それでも、やはり時間稼ぎにしかならないか」
リアムが眉間にしわを寄せて、脳内にある少ない情報をかき集めるように考え込みながら言う。
「その鎧の軍団がどういう動きをしているか、見張ることができればいいんだけど……」
どのくらいの期間でビッセリンク国を突破し、違う国へ向かうのか。どの程度ビッセリンク国が苦戦しているのか。鎧の軍団の強さはいかほどなのか。シルフの話だけでは、情報が少なすぎる。
シャーリーがつぶやけば、シルフが「それなんだけど」とウンディーネを見た。
「さすがにあたしがずっと張り付いて監視するのは疲れるし、いつ女神が襲ってくるかもわからない状況でこっちの守りが手薄になるのも困るでしょ? だから、『水鏡』を応用しようと思うんだけど、どう思う?」
「応用……?」
シャーリーが首を傾げると、シャーリーが呼び出したロールプレイングゲームに夢中のエドワルドがポンと手を打った。
「広域魔法とかいうやつだな! 『プロビデンスの目』とかいう」
(そういえばそんな魔法もあったわね……。でも、それ、かなりマイナーだと思うんだけど)
やたらとストーリーの長いゲームの終盤に、一度だけラスボスを偵察するのに使用する、広域魔法だ。
これの習得には、ある条件をクリアしなくてはならず、少なくとも風の精霊と水の精霊が必要で、主人公のレベルが六十を超えて、さらにいくつかのクエストをクリアしないといけない。
(……知ってるってことは……エドワルド様ったら、いつの間にかもうそんなところまで進んでいたわけ?)
おそらくだが、アルベールの進度を超えている。アルベールが知ったらさぞ悔しがることだろう。
シャーリーがちょっぴりあきれていると、シルフが「そうそう」と頷いた。
「それならここからあっちの様子が監視可能になるよ。一回ウンディーネとあたしで行ってくる必要はあるけど、テレポートを使うからそれほど長い時間はかからないし」
「あちらの様子がわかるのは助かる。……何とかして、打開策を見つけなくてはいけないからね」
アデルが緊張した面持ちで言った。
リアムも、異論はないようである。
「わかった。じゃあ、ちょっと行ってくるよ! ウンディーネ、準備はいい?」
「ええ」
シルフがウンディーネを連れて目の前から姿を消した。
願わくは、ビッセリンクができるだけ長く女神の軍勢を足止めしてくれればいいが──その願いもむなしく、三日後、ビッセリンク国は女神の軍勢によって滅ぼされた。

(ゼレンシウスがいた場所が、世界の中心らしいってシルフは言っていたわよね?)
夜。自室で物理の教科書を開いて、シャーリーはむむっと眉を寄せていた。
教科書によると、地球の中心までの距離は約六千三百七十キロメートル。
シルフがテレポートでゼレンシウスの眠る地下を調べた際に、歩いて向かっていたら何百日もかかっていただろうと言っていた。
地球であれば、一日二十キロメートルから三十キロメートル歩けるとして仮定した場合、三百十八日から二百十二日くらいで中心に到着すると考えられることから、この星と地球の直径はさほど変わらないのかもしれないという結論に至ったのだ。もちろんこれは、シルフに頼んでもう少し詳しく調査してもらった方がいいだろうが。
つまり、重力が足りていないという推測のもと仮定すると、星を構成する密度が低いために質量が足りていないという結論に至るのである。
「ああああああ、普段使わない頭を使ったせいか、ガンガンするわ……」
これが料理研究なら上機嫌でいつまでも続けられるのだが、大嫌いな物理学となると話は別だ。
「でも、そうよね、どれだけの空間が広がっていたのかはわかんないけど、ゼレンシウスがいたあのだだっ広い空間は洞窟だったんだもの。つまり空洞。あれだけの大きさが空っぽなら、密度だって低いはずよ」
あの場所がどのくらいの空洞であるのかはわからないが、中心の洞窟、そして各国の緑の塔から地下に伸びているのであろう階段の空間をすべて埋めてしまえれば、密度問題は解決するのではあるまいか。
「地球の内核は主に鉄で、若干のニッケルを含む……ってことは、鉄でいいでしょ。あの空間全部を鉄で埋めることができれば、この星の質量はぐんとあがるはず」
地球とほぼ大きさも同じ、自転もしていて、太陽もある。あと足りない条件が星の質量であるなら、それを揃えれば、自然と生命を維持するのに必要なだけの重力が発生する──と、思う。
ここまですべてが仮定だが、試してみない手はない。
もしこれで生命維持についてうまくいったならば、あと残る問題はゼレンシウスの生命維持に必要な魔力問題だ。
「シャーリー、何を難しい顔で考え込んでいるんだ?」
「アルベール様!」
すぐ近くから声が聞こえてきたのでハッと顔を上げると、アルベールが立っていた。シルフがテレポートで連れてきてくれたのだろう。
シャーリーが腰かけているベッドの隣に座って、アルベールは物理の教科書を覗き込む。
「それは?」
「これは教科書です。ええっと……前世のときに使っていた」
「へえ」
アルベールは興味深そうな顔をしたが、書いてある文字が日本語だったため読めなかったようだ。肩をすくめて、教科書から目を離した。
「それで、その教科書をどうするつもりなんだ?」
「魔力がなくてもこの世界を存続させられる方法がないか調べていたんです」
「見つかったのか?」
「なんとなく、仮定レベルのものですけど。ただ、この仮定が正しかったとした場合も、イクシュナーゼを止めるもう一つの問題……ゼレンシウスの生命維持の問題が残るんです」
「ああ、魔力か」
「はい。あの、わたしには、魔力がそもそも何なのかが、あまりわかっていなくて」
「そうだな。魔力は本来、神だけが持ち得る力だからな。私たち魔力持ちが持つ魔力は、はるか昔にイクシュナーゼから分け与えられた力の残滓にすぎない」
「神だけが……。イクシュナーゼに分け与えられた残滓……。あの、神様の持つ魔力って、有限なんですか、それとも無限なんでしょうか?」
「無限に決まっているだろう? 永久のときを生きる神だ。その力が有限であればいつか尽きてしまうじゃないか」
(んんん?)
シャーリーはむ? と首を傾げた。
何かがおかしい。
(イクシュナーゼの魔力は無限……)
ならばなぜ、ゼレンシウスはイクシュナーゼではなく世界から魔力を得ていたのか。
ゼレンシウスによると、世界にイクシュナーゼが再び魔力を与えるのはダメらしいが、対象がゼレンシウスでもダメなのだろうか。
イクシュナーゼがゼレンシウスの伴侶で、彼を失いたくないと思っているのならば、イクシュナーゼ本人がゼレンシウスの生命維持に使う分の魔力を分け与えればよかったわけで──
(何かこのあたりにからくりがありそう……)
イクシュナーゼ本人が、ゼレンシウスに魔力を与えられなかった理由は何なのだろうか。
「ねえ、アルベール様、イクシュナーゼはこの世界にいるんですよね。だって、実際に見ましたもんね?」
「ああ、そうだな……」
「神の世界に帰っていないのなら……ゼレンシウスには、イクシュナーゼが直接魔力を与えればいいと思いません?」
アルベールはハッとした。
「確かに!」
これは、ゼレンシウスに確認する必要がありそうだ。
なぜなら、イクシュナーゼ本人がゼレンシウスに魔力を与えていたならば、この世界の魔力の総量は減らなかったはずなのである。
そこまで考えて、シャーリーは「うん?」とまた首を傾げた。
(ゼレンシウスが魔力を吸収して生命維持に使っていたって言ってたけど……使われた魔力って、消えたのかしら? じゃあ、消えた魔力はどこにいったの?)
魔力が何かはわからないが、世界にある物質は、常にめぐるのだ。
例えば人が水を飲んでも、その飲んだ分だけの水が世界から消えるわけではない。
姿を変え、循環し、水はやはり水のまま世界に存在し続けるのである。
消費した分だけその世界から水が消えていれば、やがて世界から水がなくなってしまうのだから。
つまり──ゼレンシウスが消費した分だけ世界にいきわたる魔力は減っているのかもしれないが、消費した魔力はどこかに残っているのではないだろうか。
(それは一体……どこに……)
まだ、ゼレンシウスは何かを隠している。
シャーリーはふと、そんな直感めいたものを覚えた。

「壁に穴をあけようなどと、普通は考えないものだが……これはなかなか面白いな」
シャーリーが作り上げたベランダの菜園で、実っているミニトマトを指先でつつきながらゼレンシウスが笑った。
そうしていると、本当にリアムにそっくりだ。
ビッセリンク国が滅ぼされ、女神の軍勢がフランセン国を襲っている現在、シャーリーたちは悠長に構えていられないのだが、ゼレンシウスにとってはそんなことは些末なことなのかもしれない。
「ゼレンシウス……。ここにはわたしとあなたしかいません。隠し事はなしにしませんか?」
ゼレンシウスの背中を見つめながらシャーリーが問いかければ、彼は微苦笑のような笑みを浮かべて振り返った。
「隠し事、とは?」
「まだ、何か隠していますよね。魔力の……あなたの生命維持のことで」
ゼレンシウスは笑みを浮かべたまま答えない。
シャーリーは質問の仕方を変えた。
「あなたの生命維持に使われた魔力……それは一体どこに消えたんですか? 完全に消えたりなんてしませんよね。だって、世界の魔力だって、使われてもあなたの力でまた巡っているじゃないですか。魔力が同じ質量だけ存在しているのなら、ゼレンシウス、あなたが使った魔力だって、消えてなくなるはずはないんじゃないですか?」
ゼレンシウスはぱちぱちと目をしばたたいた。
「……驚いたな。どうして気がついたんだ? 普通は、そんなこと考えたりしないだろう?」
確かに、物理や化学が発展していないこの世界の住人は、そんな疑問を持たないかもしれない。
だがシャーリーは知っているのだ。
世界に存在する物質は、消費されてもめぐり、その総量を維持し続けることを。たとえそれが、目に見えないものであろうとも。
「わたしはちょっと、変わった存在なので」
「どんなふうに? それを教えてくれるなら、私も答えてあげる気になるかもしれないよ」
シャーリーは肩をすくめた。
この秘密は、アルベールにしか打ち明けていない。
言ったところで荒唐無稽で、正直、信じてくれる人の方が少ないだろう。
打ち明けたところでゼレンシウスが信じるかどうかはわからない。
アルベールと二人だけの秘密だった前世の記憶持ちという事実を、ゼレンシウスに教えるのは少し躊躇いもある。
アルベールと二人だけの秘密が、二人だけのものでなくなるのは、なんだか淋しいとも思う、けれど。
(ゼレンシウスと本音で話をするには、教えるしかないかな)
どこか面白がるようなゼレンシウスの顔が、まるでシャーリーを試しているかに見える。
「……わたしは、わたしがシャーリー・リラ・フォンティヌスに生まれる前の記憶──小日向佐和子という人間だった時の記憶を持っているんです。こことは違う世界の。だからですよ」
さすがに想像し得なかったのか、ゼレンシウスはぱちぱちと目をしばたたき、そしてぷっと吹き出した。
「ああ、なるほど、だからか」
馬鹿にされたと一瞬ムッとしたシャーリーだったが、ゼレンシウスの言葉に逆に虚を突かれる。
(信じたの?)
さすがに、あっさり信用すると思っていなかった。
驚いていると、ゼレンシウスは笑いながら続けた。
「ここには妙なものが多すぎたからな。想像だけで作り上げたのならずいぶん想像豊かな子なんだなと思ったけれど……なるほど、別の世界の記憶をもとにしていると考えれば納得できる」
くすくすとひとしきり笑ったあとで、ゼレンシウスはふと真顔になった。
「いいよ。そんな重大な秘密を打ち明けてくれたんだ、私も真実を話そう」
ゼレンシウスは、ベランダから入り込む日差しに目を細めて、言った。
「魔力は私の中にある。……私はね、おそらく、この世界の魔力をすべて取り込めば、神になれるんだよ」
「……え?」
「まあ、これはイクシュナーゼが言ったことだから、本当なのかどうかは彼女しかわからないけどね」
「ちょ、ちょっと待ってください。意味が……」
シャーリーは混乱した。
人が神になる? それは一体どういうことだろう。
(いやでも、お釈迦様はもともと人だったし。あれ、でも、え……?)
頭を抱えたシャーリーに、ゼレンシウスは口端を持ち上げた。
「これは、私の体質と、イクシュナーゼの伴侶という特殊な立場が影響しているみたいだけどね。生命維持に魔力を消費していると言っただろう? その消費した魔力は、私の中にどんどん蓄積されているんだ。その魔力が一定量を超えたとき──この世界の魔力の総量ほどの魔力を蓄積したとき、私はどうやら神になるらしい。イクシュナーゼがそれに気づいたのが、二年くらい前のことかな。これはイクシュナーゼも想像できなかった、偶然の産物みたいな現象らしいけど」
ゼレンシウスはベランダから出て、日向ぼっこ用にシャーリーが用意していたデッキチェアに浅く腰かけた。
シャーリーが近くの椅子に腰を下ろすと、ゼレンシウスは日差しを眺めながら続ける。
「神になれば、生命維持に魔力を消費しないので不老不死だ。イクシュナーゼと永遠に一緒にいられる。だけどね、これには一つ問題があったんだ。なぜなら、今のまま生命維持に魔力を使いながら循環装置でい続けるとね、世界の魔力をすべて取り込む前に、魔力不足で世界が崩壊するんだよ。そうなれば、私も一緒に死んでしまう」
「待ってください。世界と同じだけの魔力をゼレンシウスが得られればいいのなら、世界の魔力を奪わなくても、イクシュナーゼにもらえばいいじゃないですか」
「シャーリー、物事はそう単純なことではない。人にルールがあるように、神の世界にもルールがあるんだ」
「ルール……?」
「魔力というのは本来、神しか持ちえない力なんだよ。イクシュナーゼは世界の維持のために魔力を使ったが、魔力はね、いわば薬のようなものだ。薬は必要量以上を口にすると、毒にもなるだろう? 魔力とはそういうものなんだよ。人の身には、過ぎた力だ」
「つまり……?」
「イクシュナーゼは、この世界を創ったときに、動植物に害のない量の魔力量を見極めて与えた。魔力は、与えすぎてはいけない。それが神様のルール。つまり、世界の魔力の総量は、イクシュナーゼが当初与えた量を超えてはいけないんだ」
「でも、ゼレンシウスが消費した分の魔力は世界から消えているじゃないですか?」
「消えてはいない。私の中にあると、先ほど言っただろう? 万が一私が命を落とした際は、私に蓄積されている魔力は世界にあふれる。……言いたいことはわかるか?」
「要するに……、イクシュナーゼがゼレンシウスに魔力を与えてしまった場合、あなたが死んだときに過剰な魔力が世界にあふれるってことですか?」
「そういうことだ。そして、それが神の理だ」
(なるほど、だからイクシュナーゼは、与えたくても与えられないのか……)
ただひたすら、世界の魔力を消費してゼレンシウスが神になるのを待つしかない。けれど、このままではゼレンシウスが神になるよりも早く世界が滅びる。──イクシュナーゼが世界を創りかえようとしている理由は、そこにあるということか。
「イクシュナーゼは、何をしようとしているんですか?」
「……一度、世界を滅ぼし、その魔力すべてを私に与えるつもりなんだ。そして、私が神になった後で改めて魔力を世界に与えて創造しなおす。そういう計画らしい。もちろん、私は止めたがね。だが、イクシュナーゼはそんな言葉では止まらないよ。神様は、理不尽で我儘なんだ」
ゼレンシウスが神になった暁には、彼は不老不死となり、死ぬことはなくなる。彼の中に蓄積された魔力があふれ出ることはなくなるから、改めて必要な総量の魔力を与えて創造しなおすというのか。
(……でも、待って)
「ゼレンシウスは、魔力の循環装置だったんですよね? 循環装置がなくなれば、世界は……」
「リアムがいるだろう。イクシュナーゼはリアムを使うつもりだ。そして、私のときとは違い、おそらく世界そのものに組み込むつもりじゃないのか? どうするつもりなのかはわからないが、リアムのような色を持った魔力持ちを見つけては、装置の核となる人物を入れ替えていけば、生命維持に魔力を消費する必要はなくなるな」
「なん……ですって?」
シャーリーはぞっとした。
(そんな……そんなのって)
あまりに理不尽だ。装置に使われる人のことなど、何も考えていない。
いや、人のことなど何も考えていないからこそ、簡単に世界を創りかえようなどと言えるのだ。
「これが真相だ。どうする、シャーリー。イクシュナーゼを止めることができそうか?」
ゼレンシウスは真面目な顔で訊ねた。
女神の計画に反対したということは、彼はこの世界を創り直すことには反対ということで、きっと何とかしてイクシュナーゼを止めたいと考えているのだろう。
それでいて、シャーリーたちに真実を今まで教えてくれなかったということは、彼はイクシュナーゼを止めることは不可能なのだと諦めてもいるのだ。
(でもこれでわかったわ。イクシュナーゼの望みは、ゼレンシウスを神にすることだったのね)
そして、神になりさえすれば、ゼレンシウスの生命維持に、魔力は必要なくなる。──ならば。
「百パーセントうまくいくとは断言できませんけど……、もしかしたら、何とかなるかもしれません」