「リアム様……?」
シャーリーの呼びかけにも、彼は答えない。
ノームがシャーリーの肩から飛び降り、宙に浮かんだ。
「シャーリー、あれ、知り合い?」
「う……うん、知り合い……だと思う」
断言できなかったのは、目の前のリアムが、シャーリーの知る彼の雰囲気からあまりにかけ離れていたためだ。
「本当に知り合い?」
ノームが再度確認してくる。
シャーリーは頷けなかった。
「アレ、何か変だよ。ウンディーネ、わかる?」
「わからないわ。妾が知っている何かじゃないもの」
二人は何を言っているのだろう。「知っている何かじゃない」とはどういうことだろうか。その言い方はまるで──
リアムが一歩こちらへ向けて踏み出した。
その瞬間、ノームがウンディーネの張った防御結界の外へ躍り出る。
「ロックブレット!」
「ダメ!!」
反射的に声を上げたが間に合わなかった。ノームが叫んだ直後、無数の岩の弾丸がリアムに向けて襲いかかる。威力も桁違いの、土の精霊王の魔法だ。シャーリーは蒼白になって悲鳴を上げた。
しかし、岩の弾丸が襲い掛かる直前、リアムが身を翻して部屋から飛び出した。
ノームの放った「ロックブレット」が、部屋の壁に激しく衝突して、扉を吹き飛ばし、壁に無数の大穴をあける。
「逃げた!」
ノームがリアムを追って宙を駆けた。
(リアム様!)
シャーリーもウンディーネとともに駆け出す。
階段を駆け下りると、シャーリーの悲鳴を聞きつけて、ジムの部屋からアルベールが顔を出し、瞠目した。
「え……リアム殿下!?」
階段を猛スピードで駆け下りるリアムに驚くアルベールを守るようにフェンリルが立ちはだかり、「アイスバリア」と唱えて彼の周りに防御結界を張る。
リアムはアルベールのいる二階まで駆け下りると、突然、階段の手すりから階下へ飛び降りた。
そのまま、浴室へ走っていく。
「シャーリー、これはいったい……」
「わかりません! わかりませんけど……とりあえず今は追いかけます!」
「あ、ああ!」
全力で階段を駆け下りて、リアムを追って浴室へ飛び込む。浴室の奥、地下に続く扉が開け放たれていた。
ノームが真っ先にその扉の奥へ飛び込んで、続いてアルベールとフェンリル、そしてシャーリーとウンディーネが続く。
地下一階の泉の奥の扉も開いていたから、リアムは地下二階へ向かったようだ。しかし、地下二階に駆け下りるも、そこにリアムの姿はなく、ノームが魔法陣の上で地団太を踏んでいた。
「ノーム、リ、リアム様は……」
全力で走ったせいで息が切れる。膝に両手をついて、ぜーぜーと肩で息をしながら訊ねると、ノームが小さな手で奥の扉を指した。
「あの奥に消えた! でも開かないんだ!」
「え……?」
地下二階の奥にある扉には鍵がかかっていて、どうやっても開かない扉だ。
アルベールが試しに扉を開けようとするも、ガチャガチャとドアノブが音を立てるだけでピクリともしない。
「ノーム、本当にこの奥にリアム殿下が?」
「うん、消えたよ」
「鍵を開けて入ったってこと?」
「違う。消えたんだ。手をついた途端、文字通り煙みたいに消えちゃった」
「「…………」」
シャーリーとアルベールは顔を見合わせた。
あの姿は、間違いなくリアムのものだった。それなのに、どうしてリアムは何も言わずに消えてしまったのだろう。ウンディーネの言った「知っている何かじゃない」と言う言葉も気になる。
(どういうこと……?)
リアムならば、シャーリーたちの前から逃げるはずがない。
(「知っている何かじゃない」?……リアム様じゃ、ないってこと……?)
シャーリーは茫然と、リアムが消えた扉を凝視した。
「ウンディーネええええええええ!!」
「ええいっ、妾に近寄るな! 暑苦しい!! この筋肉馬鹿め!!」
夕方になって、アデルとエドワルドが戻ってきた。
さっそくリアムのことを報告しようとしたシャーリーだったが、エドワルドとともに戻ってきたイフリートがウンディーネを見た途端に興奮して、ダイニングは大惨事になっている。
(ノームがロックブレットで破壊した部屋を掃除するのも大変だったのに、ダイニングまで……)
追いかけられて怒ったウンディーネがイフリートに向かってウォーターカッターだの、ウォータートルネードだのを発動し、ダイニングの中が瞬く間に水浸しになってしまった。
しかし無駄に頑丈なイフリートは、ウンディーネからの攻撃を受けても、腰に手を当てて「わはははははは」と大笑いをしている。
それがさらにウンディーネの怒りを助長して、収拾がつかない状況に陥っていた。
「……シャーリー、ええっと、彼女はなに?」
アデルが戸惑いながら訊ねる。
「いろいろあって、新しく呼び出した水の精霊王ウンディーネなんですが……イフリートがいたことを、すっかり失念していました」
イフリートはウンディーネが大好きなのだ。完全なる一方通行の片思いだが、イフリートの辞書には失恋とか傷心とか遠慮という単語は存在しないので、相手が怒ろうが困ろうがとにかく押して押して押しまくれの精神で攻めていく。
結果、ウンディーネにめちゃくちゃ嫌われているのである。
(テーブルも絨毯もソファも水浸し……どこでご飯食べようかしら?)
イフリートとウンディーネの騒ぎを、ノームとフェンリルは我関せずで眺めている。
エドワルドに至っては、目の前で繰り出される魔法の数々に興奮状態だ。
「ねえフェンリル、イフリートを氷漬けにできる?」
「無理だな。イフリートは火の精霊王だ。精霊王の中でも攻撃力と防御力はトップクラスだぞ。まともにやりあったら、こっちが負ける」
「そうなんだ……」
イフリートを氷漬けにしておとなしくさせよう作戦は無理らしい。
「じゃあノーム、大きな落とし穴でも作って、イフリートを地下深くに埋められる?」
「できなくはないけど、すぐ出てくると思うよ」
「……そう」
イフリートを埋めよう作戦もダメらしい。
(暑苦しいくせに、無駄にスペック高すぎなのよイフリート!)
ウンディーネも、オールラウンダー型だけあって、すべての能力がほぼ均等だ。そのせいで、攻撃力と防御力に特化しているイフリート相手だと押し負ける。
(どうしたものかしら……)
シャーリーが悩んでいると、ノームがぴょんとシャーリーの肩に飛び乗った。
「イフリートをおとなしくさせたいの?」
「うん。そうしないと終わりそうにないし、ご飯も食べられないもの」
「だったら簡単だよ」
ノームがにーっと笑って、シャーリーの耳元でぼそぼそとささやいた。
「……ほんとにこれでおとなしくなるの?」
「たぶんね」
シャーリーは半信半疑だったが、こほんと小さく咳ばらいをすると、指を鳴らす構えで左手を突きだした。
「イフリート、あんまりうるさいと、消すよ!」
ピタリ、とイフリートが動きを止めた。
シャーリーの肩で、ノームが「ほーらね」と笑う。
イフリートはギシギシと音が聞こえてきそうなほどぎこちない動きでシャーリーを見て、それから「嫌だ」と言うようにぶんぶんと首を横に振った。
「シャーリー、イフリートを消すのはダメだ」
エドワルドが慌てて口を挟む。
シャーリーは腰に手を当ててエドワルドを睨んだ。
「だったら、エドワルド様も笑ってないでイフリートを止めてくれないと困ります! どうするんですか、この部屋!」
「いや、でも、これはどちらかと言えばウンディーネ……」
「イフリートが、ウンディーネを追い掛け回さなければこうならなかったんです!」
「……あ、う……そ、そうだな……」
シャーリーのみならずウンディーネにまで睨まれてエドワルドがバツの悪そうな顔をした。
「とにかく、イフリートはむやみやたらにウンディーネに近づかないでください!」
「そんな殺生──」
「わかった?」
「……う、うむ」
消えたくないイフリートは、しょんぼりと肩を落として頷いた。
ひとまずこれで収拾がついたとシャーリーは息をついて、それから水浸しの部屋の中を見やって、がっくりと肩を落とす。
「……夕食の前に掃除ですね」
水浸しになったダイニングだが、結果、それほど時間もかからず元通りになった。
イフリートが魔法で部屋の中を乾かしてくれたからだ。
イフリートとノーム、フェンリルは一緒に夕食を取ると言ったが、ウンディーネはイフリートと同じ空間にいるのが嫌なようで、ダイニングから出て行ってしまった。
(本来、ノームたちも精霊だから、ウンディーネと同じように食べる必要はないはずなんだけど……当たり前のように食事をするのよね。給食のおばちゃんになった気分だわ)
シャーリーは大食漢のノームとイフリート、フェンリルの前に、ドン! と大皿を置く。いちいちおかわりなんてついでいられないから、彼らの食事は大皿にまとめてだ。
アデルたちの食事はそれぞれ盛りつけたものを並べて、全員が席に着くと、シャーリーとアルベールはさっそく今日の昼に見た「リアム」について説明した。
話を聞いたアデルとエドワルドは瞠目し、それから安堵と心配が混ざったような複雑な表情を浮かべる。
「シャーリー、確かに兄上だったんだよね?」
「姿かたちはリアム様でした。でも、何も言わずに走り去ってしまって……。それに……」
ウンディーネが「知っている何かじゃない」と言ったリアムが、本当に「リアム」なのか、シャーリーには自信がない。
「私も見たが、顔立ちはリアム殿下だった。だが、リアム殿にしてはあまりに様子がおかしかったように思う」
「兄上なら、シャーリーやアルベール殿下を見て逃げるはずがない。だが、シャーリーたちが見たものがリアム兄上でないなら、リアム兄上と同じ顔の別人がいると言うことになる」
エドワルドがとんかつにフォークを突き刺して唸る。
「それに、仮にリアム兄上だと仮定して、兄上は地下二階の模様から姿を消したのではなく、扉に触れて消えるのをノームが見たのだろう? あの扉は鍵がかかっていて開かないし、わたしたちが触れてもそんな反応をしたことがない」
「ウンディーネとフェンリルが迷わず防御結界を張って、ノームが攻撃したのなら、彼らには兄上がシャーリーやアルベール殿下に危害を加えるように思えたのだろう。兄上なら、シャーリーたちに何かするはずがない」
アデルとエドワルドの言葉に、シャーリーは大きく頷く。シャーリーも、リアムがシャーリーやアルベールたちに危害を加えるとはどうしても思えない。
「わからないな。……エドワルド、これは父上に報告がいるだろうか」
「いえ、姉上。このことを父上に報告する場合、ノームたちのことも説明することになります。そうなるとシャーリーの特殊な力のことも伝えなければいけません。さすがにそれはまずいです」
「そうだな……。それに、シャーリーたちが見たものが、本当に兄上だったかどうか……顔立ちが同じでも、さすがに様子がおかしすぎる。もしかしたらまた現れるかもしれないし、しばらく様子を見てみよう」
「はい」
シャーリーとアルベールが昼間見たリアムのことはものすごく気になるが、今ここで話し合ったところで何の結論も出てこない。リアムの件は保留とし、今度はアデルとエドワルドの話を聞くことにする。
「父上とは主に、緑の塔の扱いと、クレアド国の今後について話し合って来た。それからもう一つ、姉上の結婚が決まった」
「え!?」
シャーリーは声を裏返してアデルを見た。
アデルは照れたように頰を染め、エドワルドを軽く睨む。
「わたしのことはあとでいいだろう!」
「そう言うわけにはいきません。緑の塔の扱いは、姉上の結婚問題に大きくかかわりますから」
確かにエドワルドの言う通りだ。アデルの結婚が決まったのならば、アデルをいつまでも緑の塔へ閉じ込めておくことはできない。
「だから、わたしの結婚問題は何も急がなくても──」
「姉上の結婚は、我が国の英雄への褒賞ですよ。何年も待たせるわけにはいかないでしょう? これだけ長い間待たせたんですから、諦めてさっさと嫁ぐべきです」
(褒賞?)
どういうことだろう。
シャーリーが首を傾げると、アデルがますます真っ赤になって俯く。
詳しく知りたくてうずうずしていると、エドワルドが赤くなって照れと戦っているアデルを無視して話を続けた。
「慶事だから、姉上の話からしよう。今回のクレアド国との戦争での我が国の功労者は大きく三人。俺、ラッセル老、そしてレンバード将軍だ」
レンバード将軍とはアデルの片思い相手のヘンドリック・ビル・レンバードだ。
「父上は俺とラッセル老、そしてレンバード将軍の三人に好きなものを褒賞にやると言った。俺はすぐには思いつかなかったから保留にしたが、ラッセル老人は王都に大きな邸を、そしてレンバード将軍は、姉上との結婚を望んだんだ」
さすがにアデルとの結婚は、国王もすぐには頷けなかった。
そこでエドワルドが、かねてからあの二人がお互いに想いあっていることを父王に伝えたところ、二つの条件を飲むのならば認めると回答があったという。
一つは、ヘンドリックを準男爵から一気に伯爵に陞爵させること。
もう一つは、結婚後もアデルを城の敷地内に住まわせること──すなわち、ヘンドリックとアデルの新居を城の敷地内に建てると言うこと。
もちろんヘンドリックはこの条件に異を唱えなかったそうだ。
(準男爵から伯爵まで陞爵……)
三段飛ばしのとんでもない陞爵にシャーリーは驚いたが、王女を降嫁させるとなると、それなりの爵位が必要なのだ。
新居を城の敷地内にという措置については、魔力持ちを確保しておきたいからだろう。
(でも、よかった。アデル様の恋は叶ったんだ……)
ヘンドリックから一度告白されて、断ったアデル。責任感の強いアデルは、緑の塔へ入っている間、彼を縛りつけることはできないと判断して苦渋の決断をした。
でも、王命として降りてくれば、アデルも断ることはできない。自分よりも人を優先する傾向にあるアデルには、逆に命令されるくらいがちょうどよかったのかもしれなかった。
「おめでとうございます、アデル様!」
これが祝わずにいられようか。
シャーリーが笑顔で祝福すると、顔を赤くしていたアデルが急に申し訳なさそうな顔になった。
「シャーリー……でも、わたしが結婚するとなると、緑の塔は……」
「姉上、その話も俺からします。結婚が決まったのにそんな顔では、レンバード将軍が傷つきますよ。レンバード将軍は魔力持ちのことを知らないんですから、変に不安がらせるような顔はしないほうがいいです」
アデルとの結婚後ならばヘンドリックに教えても問題ないそうだが、今の段階では魔力持ちについて教えられないらしい。
「シャーリー、察していると思うが、姉上の結婚が決まった以上、姉上は長くこの塔で暮らすことはできない。おそらくレンバード将軍との結婚は急いでも一年先くらいだろうが、結婚準備などもあるから姉上がここで生活できるのは長く見積もってもあと半年だ」
「逆に半年もいて大丈夫なんですか?」
貴族の結婚準備でも大変なのだ。王族はそれ以上のはずである。
エドワルドは頷いた。
「そのことなのだが、緑の塔の扱いについて三つのことが決まった。一つは、ローゼリア国とブロリア国での人質の交換をやめること。これは、ブロリア国の緑の塔に、第二王子と第四王子が登録されていることが関係する。ブロリア国王がこの二人の王子を生涯塔に幽閉すると決断したからだ。その結果、我が国の王族はブロリア国の塔に入る必要がなくなる。ゆえに、ローゼリア国の緑の塔へは、ローゼリア国の魔力持ちが入る。ここまではいいな」
「はい」
「二つ目は、緑の塔への登録をどうするか、だ。登録は緑の塔へ入ったものを逃亡させないための措置だ。登録しなくとも、緑の塔の中へ入っていれば大地への魔力供給はされる。数十年先のことまではわからないが、父上はこの登録をやめると決めた。つまり、自由に出入りできることになる」
なるほど、そうすればアデルが塔の中にいても、用があれば出かけられるのだ。緑の塔は城の敷地内にあるのだから、自由に出入りできるならば距離的な問題はない。
「そして三つ目。これが一番重要な点かもしれない」
エドワルドはそこで一度言葉を切って、お茶でのどを潤した。
「シャーリーが作った蔦の鉢植えを使って、クレアド国で魔力供給の実験を行う」
「じゃあ……」
「クレアド国の扱いは正直難しい。ローゼリア国とブロリア国の監視下に置かれることになるだろうと父上は予想したが、正直言って、緑の塔が枯れて亡びかけている国なんて誰もほしがらない。そのまま放置して砂漠化するの待つのが罰としては妥当なところだが、せっかく実験にうってつけの国があるんだ。使わない手はないだろう? 協議の結果、サリタ王女がローゼリア国のバックアップを受けて女王として立つことになった。緑の蔦の鉢植えを渡し、一人だけ残っている魔力持ちの赤子の近くに鉢植えを置き、大地に魔力供給が行えるかどうかを確かめる」
魔力供給が行えているかどうかを確かめるのは簡単だそうだ。大地の砂漠化が止り、新しい新芽が芽吹けば、問題なく魔力供給がされていると考えていいらしい。だが、念のため数年は様子を見たいという。
「鉢植えで魔力供給が可能だとわかれば、緑の蔦の鉢植えを八か国同盟の加入国へ配る。それと同時に、この塔を封鎖する予定だ」
「封鎖……」
「塔に閉じこもらずとも問題なく魔力供給が行えるなら、塔を存続させておく必要はないだろう? シャーリーのおかげで快適になったが、王族にとってここはいい感情の持てる場所ではないからな。今後は緑の蔦を増やし、塔の中へ入らずとも魔力供給ができるようになることを目指す。……だが、実験結果が得られるまでは、誰かがこの塔の中にいなければならない」
エドワルドが目を伏せた。
沈痛なその表情に、彼が言おうとすることがわかってシャーリーは苦笑する。
アデルが結婚する以上、エドワルドが言った通り、彼女が塔の中に入れるのは半年が限度だろう。そして、リアムがいない現状で、次期王になる可能性の高いエドワルドを塔に入れることはできない。彼には学ばなければならないことが多くあり、一日に一度顔を出すだけならいざ知らず、一日中塔の中に拘束されるわけにはいかないからだ。
そうなると、おのずと答えは出る。
「そんな顔をしないでください。実験結果が出るまでの数年でしょう? わたしはかまいませんよ」
「シャーリー……」
アデルまで泣きそうな顔をするから、シャーリーは困ってしまう。
もともとアデルについて数年はブロリア国の塔に閉じこもることを覚悟していたのだ。それを思えば、このままローゼリア国の塔で生活することくらいなんでもない。
エドワルドはしばし沈黙して、頷いた。
「ありがとう。父上に伝えておく。……それからシャーリー、今夜、二人きりで話がしたい。いいだろうか?」
シャーリーは目を見張って、それからちらりとアルベールを見たあとで、はい、と小さな声で返事をする。
エドワルドのびっくりするくらい真剣な顔に、シャーリーの心がざわざわとした。
夜──
シャーリーはエドワルドと二人、緑の塔の周辺の森を散歩していた。
シャーリーは緑の塔から出ない方がいいのかもしれないが、エドワルドに誘われ、アルベールからも行ってくるといいと背中を押されて、塔の周辺であればいいだろうと外へ出ることにした。
夜の闇の中、それよりもなお濃くて暗い影を落とす木々の間を、エドワルドと二人歩いて行く。
空から粉雪が舞い落ちていて、コートを着ていても寒い。
緑の塔の中は常に適温に保たれているため、寒さを感じたのは久しぶりだった。
「この辺でいいか」
塔からある程度離れたところで、エドワルドが足を止めた。
隣を歩いていた彼がくるりと体の向きを変えて、シャーリーに向きなおる。体温の高いエドワルドの手が、すっかり冷たくなったシャーリーの小さな手をつかんで、シャーリーはドキリとした。
「シャーリー、以前俺が求婚したことを覚えているよな」
ああ──、とシャーリーは目を閉じる。
二人きりで話がしたいと言われたときから、なんとなく予感はしていた。
求婚されたけれど、シャーリーは今日まではっきりした答えを返せないでいた。
答えを返せば、エドワルドを傷つける気がして言えなかった。
シャーリーはエドワルドの求婚を受け入れるつもりはなかったのに、エドワルドが何も言わなかったから、このままうやむやになればいいとずるいことを考えたときもある。
でも、ずるずると逃げ続けるのはもう終わりにしなければならない。
シャーリーはもう、アルベールへの気持ちを自覚してしまったから。
「シャーリー。もう一度言う。今回は冗談にしないでくれ。……俺は、シャーリー、お前と結婚したい。正直、前回伝えたときは、シャーリーを手放すのが惜しいというくらいの気持ちだった。だからあの時はこの言葉を言わなかったし、言えなかった。でも今ならはっきりと言える。俺はシャーリーが好きだ。シャーリーと、ずっと一緒にいたい。俺じゃダメか?」
真剣で、真摯で、まっすぐなエドワルドらしい求婚だった。
アルベールがいなければ、彼を知らなければ、シャーリーは頷いてしまったかもしれない。
花束も指輪もない。ただの言葉だけで、ここまでシャーリーの心を揺さぶることができるのは、アルベールのほかに彼しかいないだろう。
シャーリーも馬鹿ではない。
自分の置かれた環境からすると、エドワルドを選ぶのが一番幸せになれるだろうことには、薄々気がついている。
アルベールはブロリア国の王になることが決まった。
シャーリーがこの気持ちをアルベールに伝えて、もしアルベールが同じ気持ちを返してくれても、隣国の次期王ともなれば本人たちの意思でどうにかなる問題ではない。
戦争で荒れた国を立て直すのだ。アルベールは自国の中の有力貴族の娘を
そしてシャーリーは貴重な魔力持ちだ。シャーリーが望んだところで、ローゼリア国がシャーリーを他国へ出すとは思えなかった。
だから、これから先も一緒にいられるかどうかわからないアルベールよりも、まっすぐで真剣な気持ちをくれるエドワルドの手を取った方が、シャーリーは幸せになれる。
でもそれではダメなのだと思うあたり、シャーリーは自分が思っている以上に不器用な性格をしているのかもしれなかった。
エドワルドもおそらく、シャーリーがアルベールを想っていることに気がついているだろう。
我儘で無鉄砲なところがあって、無邪気で子供みたいなエドワルドが、実は意外と勘が鋭いのをシャーリーは知っているから。
(アルベール様ではなく俺にしとけって、言われているみたい)
シャーリーが別の人を好きでいるのに、真っ直ぐな言葉をくれるエドワルドの手を、この気持ちを抱えたまま取ることは、どうしてもシャーリーにはできなかった。
たとえこの先、この手を取らなかったことを後悔する日が来たとしても、今のシャーリーが返せる答えは一つだけだ。
「わたし……エドワルド様とは結婚できません」
「……俺と結婚するなら、それを理由に父上を説得すれば俺も緑の塔で生活できる。シャーリーは一人じゃなくなる。それでも?」
「はい」
「それは……アルベール殿下が、好きだから?」
「…………はい」
ここで誤魔化すのはずるいから、シャーリーは素直に頷いた。
エドワルドがぎゅっときつく目を閉じて、それから空を仰いで白い息を吐き出す。
「ふられる覚悟はしていたけど……、やっぱりダメか」
「ごめんなさい……」
「いや。俺も少しずるい言い方をした」
エドワルドは顔を前に戻すと、切なそうな顔で笑う。
「俺と結婚しなくても、俺はシャーリーに会いに緑の塔に行くし、お前を一人きりで淋しく生活させるつもりはない。試すようなことを言って悪かった」
シャーリーは目を見張った。
シャーリーはエドワルドの求婚に応えられなかったのに、彼は以前と同じように緑の塔に会いに来てくれると言うのだろうか。
驚いたまま固まっていると、エドワルドがムッとしたように口を尖らせる。
「なんだ、シャーリー。ふられたからと言ってシャーリーを無視するような男に俺が見えるのか? さすがに傷つくぞ」
「だって……」
エドワルドが薄情な性格ではないことくらいわかっているが、さすがに気まずいだろう。
シャーリーが口ごもると、エドワルドが一度シャーリーの手を放し、改めて手を差し出して来た。
「結婚しなくても、俺とシャーリーは友達だろう?」
「え!?」
王子と侯爵令嬢が、友達!?
そんな恐れ多いこと、あっていいのだろうか。
「違うのか?」
「えっと、え……」
エドワルドは気さくでいい人だし、彼と友人になることが嫌なわけではないけれど、立場的に躊躇いがある。
困惑していると、エドワルドが強引にシャーリーの手を取ってぶんぶんと振った。
「友達だ! 求婚を断られて友達もダメと言われたら俺だって落ち込むぞ!? 友達でいいだろう!?」
「は、はい!」
いいのだろうかと思いつつ、シャーリーは反射的に頷いてしまった。
途端、にぱっと笑うエドワルドについ苦笑が漏れてしまう。
(もっと気まずい雰囲気になると思ったのに)
エドワルドは気を遣ってくれたのだろうか。それとも、本心から友達だと思ってくれているのだろうか。わからないけれど、エドワルドとぎくしゃくした関係にならなくてすんで、シャーリーの胸の中にホッと安堵が広がる。
「お友達、ですね」
「ああ」
シャーリーがおずおずと微笑めば、エドワルドが綺麗な琥珀色の瞳を優しく細めた。
はらはらと舞い落ちる粉雪のせいなのか、まるで外界から遮断された特別な世界のように思える。
(わたし、たぶん、この日のことは一生忘れないと思うわ)
エドワルドの気持ちも、優しさも、全部覚えていよう。
シャーリーはエドワルドに同じ気持ちを返せなかったが、もし今後、彼が困ることがあれば、シャーリーは全力で彼を助ける。
シャーリー個人の力はとても小さくて、何の役にも立たないかもしれないけれど、この先何があってもエドワルドの味方であり続けることを自分自身に誓う。
彼に同じ気持ちは返せなくても、この我儘で優しい王子が、シャーリーはとても大切だから。
その気持ちには噓も偽りもないから──返せない想いの分、シャーリーは彼が望む限り、彼の友人であり続けようと、思った。
シャーリーを緑の塔の玄関まで送ってくれて、エドワルドは雪が舞う中を城に戻っていった。
時計の針はすっかり深夜を指していたが、シャーリーは冷えた体を温めようとキッチンへ向かう。
シャーリーが温かいお茶を準備していると、小さな足音がして、アルベールが入って来た。
「アルベール様、まだ起きていらっしゃったんですか?」
エドワルドの求婚を断って来たからだろうか、アルベールの顔を見るのが後ろめたいような気がして、シャーリーはこぽこぽと小さな音をたてはじめたケトルに視線を落とす。
「お茶、入れるんです。アルベール様も飲みますか?」
努めて明るい声を出せば、アルベールが「うん」と頷いて、シャーリーのすぐ隣に移動して来た。
「エドワルド殿下と、何を話したんだ?」
「あ……」
まだ心の整理がついていないと言うか、断ったのはシャーリーの方なのに胸が苦しいと言うか──、あまりうまく言葉にできそうになくて、シャーリーはぎこちなく笑う。
ちょっと顔をあげると、アルベールの空色の瞳が、不安そうな色を宿して揺れていた。
ここで誤魔化したら、ダメな気がする。
なんとなく、そう思う。
「……お茶、飲みながらお話しします」
シャーリーはティーポットとティーカップを二つ取り出して、丁寧に紅茶を入れる。
ダイニングテーブルに移動して、アルベールと隣り合わせで座った。
「お砂糖入れますか?」
「ああ。……いや、自分でしよう」
アルベールが自分のティーカップに砂糖を一つ落として、スプーンでかき混ぜる。
その様子をぼんやりと見つめていると、アルベールが遠慮がちに手を伸ばしてきて、シャーリーの手を握った。
大きくて温かい手にドキリとして、つい、エドワルドの手と比べてしまう。
アルベールの手はエドワルドよりも繊細な感じがするけれど、剣だこができていて意外と固いのだ。ちょっと前までは心配で不安になるほど細かったのに、いつの間にかたくましくなったアルベールの手に、出会ってから今までの時間の経過を思う。
まだ一年も経っていないのに、本当にいろんなことがあった。
アルベールと出会ったあの日には、想像もできなかった。
(クレアド国と戦争になって、アルベール様が王太子になるなんて、ね)
彼ならいい王になるだろう。
そう思うと同時に、緑の塔という狭い世界の中で彼を独占していられた時間は、もうすぐ終わりを告げるのだと言うことを嫌でも実感させられた。
ウンディーネとフェンリルの『水鏡』があっても、こうして近くで二人きりで向き合って話をする機会は、アルベールがここを出た瞬間になくなってしまう。
そしていずれ、アルベールはブロリア国の王になり、王妃を迎えて──シャーリーは、時間とともに彼への恋心を昇華させるのだろうか。
何も、言えないまま。
「……エドワルド様から、改めて求婚されました」
チクリと痛む胸に顔をそむけるように、シャーリーはぽつりと言う。
カチャンと音がして、アルベールがスプーンをティーカップに入れたまま動きを止める。
「それで…………シャーリーは、なんて答えたんだ?」
「エドワルド様と結婚できません、と」
「断った、のか?」
「はい」
「では──」
きゅっと、シャーリーの手を握るアルベールの力が少し強くなった。
「では、もしも私が同じことを言ったら、シャーリーはどうする?」
ひゅっと、シャーリーは息を吞む。
アルベールはびっくりするほど真剣な顔をしていて、シャーリーは、呼吸の仕方を忘れてしまったようにそのまま固まった。
思いもよらない言葉に頭がついて行かない。
アルベールが何を言っているのか、シャーリーには理解不能だった。
「私が、そなたに結婚を申し込んだら、受け入れてくれるのか?」
黙ったままのシャーリーに、アルベールが言葉をかぶせる。
いつの間に、アルベールはこんなに強い目をするようになったのだろう。
一人にしないでくれと、怯えた子犬のようだった空色の瞳は、びっくりするくらい強くて熱くて、彼はもう、孤独を抱えて生きてきた傷だらけの青年ではなくなったのだと理解した。
否──、もっと前からわかっていた。
アルベールが、ブロリア国を守るために立ち上がると決めたその時から、彼は前を向いて自分の足で未来を切り開くことにしたのだと、シャーリーはどこかで気がついていたはずだ。
側にいてくれと縋るのではなく、真っ直ぐにシャーリーの答えを待つアルベールの姿に、どうしてだろう、一人にはしないと彼に誓った夜を思い出す。
「アルベール様は……国王陛下になられるんですよ」
「ああ」
「国王陛下は勝手に結婚を決めたらダメなんじゃないですか?」
「国王だから、勝手に決められるんだ。最終的に王族の結婚を承認するのは国王だから、私が国王になれば、自分の結婚は自分で承認できる」
「そういうことじゃなくて……」
国にとっての利点とか、いろいろ考えることがあるだろう。
シャーリーはアルベールが好きだけれど、ここでぬか喜びをしてあとで傷つくのは嫌だった。
「シャーリー」
アルベールの声が、熱い。
つながれた手も、燃えるようだ。