サイドストーリー アルベールの決断


 エドワルドとともに塔の外へ出た途端、アルベールは思わず足を止めてしまった。

 上を見上げれば、木々の合間から青空が見える。塔の中にいると季節の感覚がなくなってしまうから気が付かなかったが、すっかり冬のようだった。

 急いでいたとはいえ、上着を着て来ればよかったなと二の腕をこする。けれど首をすくめたくなるようなこの寒さが、心地いいとさえ感じるのは、外の世界から三年近くも隔絶されていたからだろうか。

(……出られた)

 心の中では、もしかしたら二度と外へは出られないかもしれないと思っていた。

 こんな状況でなければ、もっと喜べたのに。

 遠くから微かに響く鳥の鳴き声や、風の音、土の香りに少し乾いた空気。塔の中に入らなければ、それらがこの上なく尊いものだったと、気づくことすらできなかっただろう。

「アルベール殿下、行きますよ」

 エドワルドに急かされて、アルベールはようやく足を動かした。

 外の世界に感動している暇はない。急ぎ母とブレンダン将軍に会わなくては。

(……しかし、あの人が私や母上を逃がそうとするとは、思わなかったな)

 アルベールや母フィリスが、どれほどの不条理にあおうと、父は何もしなかった。目が合えばバツが悪そうに伏せられるだけで、それならばどうして妃の地位など望みもしなかった母を無理やり第二妃に据えたのかと、なじりたくなったことは数知れない。

 父は弱い人だった。弱かったから、誰かに縋りたくて母を選んだのかもしれない。けれどもそうすることで、母がどのような目に遭うか、少し考えればわかっただろう。

 アルベールは物心がつく頃には父に期待することはやめていたし、母は自分一人で守らなくてはならないのだと、自分に言い聞かせてきた。

 その父が、どうにもならない状況になって、アルベールやフィリスを守ろうという姿勢を見せたのが不思議でならない。第二王子や第四王子のように、自分が逃げ出すのでもなく、二人を逃がしてくれと。まるで、今まで何もしてやらなかった息子と妻への、償いのように。

 速足でエドワルドのあとを追いながら、アルベールはぐっと奥歯を嚙む。そんな弱い優しさなど、アルベールはほしくなかった。どうして一緒に戦ってくれと言う一言が、あの人は言えないのだろう。

(死ぬ気なんだろうな、父上は……)

 城に残って、ただ静かに最後の時を待っているのだろう。そんな気がする。そうすることで、アルベールやフィリスが逃げる時間を稼ごうとでも言うのだろうか。

 どうせ書簡をよこすなら、アルベールをそこから出して国に帰還させろと書いてほしかった。国を守るためにともに最後まであがこうと、そう言ってほしかった。

 エドワルドとともにローゼリアの城に駆け込むと、そのままローゼリア国王の私室へ向かう。

 執務室でも謁見の間でもなく、王は私室に母たちを通したらしい。

 王の部屋の扉の前に立っていた兵士が、アルベールの姿を見て驚いた顔をしたけれど、エドワルドはそれを無視して扉に手をかける。

「入りますよ!」

 ノックもなしに、エドワルドが王の部屋の扉を開けた。

 部屋の中にいたローゼリア国王が驚いたように立ち上がった。

 王の前のソファには、三年前から痩せたように見える母が座っていた。アルベールを見て泣きそうな笑みを浮かべるから、アルベールの心がきゅっとなる。しかし、母と感動の再会をしている場合ではない。

 母のうしろには、記憶より少し老けたブレンダン将軍の姿があった。前髪の一部に白髪が見える。三年と言う年月は、短いようで長いのかもしれなかった。

「エドワルド! お前まで来てどうする! 塔の中が……」

「姉上とシャーリーが地下の部屋を使ってこちらの塔に来ています。今朝方、ブロリア国の塔に第二王子と第四王子が押し入って来たそうです」

 エドワルドが手短に説明すると、ローゼリア国王は啞然とした。

 母がわずかに目を伏せて、ブレンダン将軍が怒りのあまり顔を赤く染め上げる。

「……国を捨てて逃げたんですか、あのお二人は……!」

 押し殺した声が震えていた。ブレンダン将軍は昔から正義感の強い男だった。王の命令に従ってフィリスをローゼリア国に逃がすのも、本当は嫌だったはずだ。逃げるくらいなら前線で戦って死ぬことを選ぶような男だから。

 地下の部屋のことは、どうやらブレンダン将軍と母にはすでに説明済みだったようだ。エドワルドを塔に行かせる段階で話していたようである。おそらく、状況によってはアデルたちをローゼリアの塔に避難させるため、ブロリア国の塔が空になる可能性を含めて伝えておいた方がいいと判断したようだった。

「ブレンダン将軍、グレゴリーが死んだそうだ」

 エドワルドが説明していなかった第一王子の死を告げると、母が小さく息を吞んだ。

 ブレンダン将軍が眉をあげ、それからぐっと眉間に皺を刻む。

「……私が王都にいたときより、状況は悪化したということですね」

「そうなるな」

 アルベールは一つ頷いて、ローゼリア国王に向きなおった。

「父からの書簡は読みました。正直戸惑っています」

 ローゼリア国王は微苦笑を浮かべて頷いた。

「こちらもだ。……アルベール殿下や妃殿下を逃がしてやることはもちろんできるが、こちらから護衛に人員を割くことはできぬし、保証してやれるのは国境までだ。そこから先は、そこにいる将軍と、彼が連れてきた兵たちで、自力で逃げてもらうしかない」

「殿下」

 ブレンダン将軍が咎めるような声を出した。わかっている、とアルベールは頷く。

「ブレンダン将軍、連れてきた兵の数は?」

「……三十二です」

 予想していたよりは多かった。だが、ブロリア国に戻って戦況が覆せる人数には程遠い。

「……陛下。無理を承知で頼みます。母だけ、どうにか逃がしてやることはできませんか?」

「アルベール!」

 それを聞いて、母が悲鳴のような声をあげる。

 ローゼリア国王が目を見張って、それから顎を撫でた。

「アルベール殿下はどうなさるおつもりかな?」

「私は国に戻ります」

「死にに行くようなものだと思うが」

「そうだとしても、自分だけ逃げるなんてできませんよ」

 アルベールは王子だ。王子に生まれた身の上を恨んだことは数知れないが、それでも王子だから、国を捨てて逃げるわけにはいかない。けれども母だけは、できれば安全なところまで逃がしてやりたかった。

「なりません、アルベール」

 真っ青な顔で、母が言った。

 一緒に逃げようと言われるだろうか。言われたが、自分はその手を撥ねのけることができるだろうか。母の泣き顔はもう見たくない。これ以上、アルベールのために泣かせたくなかった。

「母上、私は──」

「わかっています。……止めません。でも、わたくしだって、息子を信じてその帰りを待つくらいの我儘は、許されると思いませんか?」

 アルベールは驚いた。行くなと、言われると思った。塔に入ることが決まった日のように、お願いだから行かないでと泣きつかれると思ったのに。

 三年前と、母は少し変わったのかもしれない。今にも泣きそうな顔をしながら、それでも息子を送り出すと言った母は、アルベールの知る母より、ずっと強かった。

 ローゼリア国王がふーっと息を吐いた。

「アルベール殿下の意思は尊重しよう。けれど、無策で突っ込んでいくのは無謀と言うものだ」

「それも、わかっています」

 二週間考えたけれど、まだ戦況を覆せるだけの策を見つけられていない。ブレンダン将軍が率いてきた兵を率いて向かったとしても、何もできずに終わるのがおちだった。

「父上、うちの兵はどれだけ割けるんでしたっけ?」

 それまで黙って聞いていたエドワルドが口を挟んだ。

 ローゼリア国王はじろりとエドワルドを睨んだあと、ため息を吐きつつ答える。

「レンバード将軍の軍が出ると言っている」

「ヘンドリックのところか……、本隊ですか? それとも小、中隊含め、全部?」

「全部だ。逆を言えば、それ以上は出せぬ」

「……なるほど、だったら数は五千と少しってところか」

 アルベールは驚いた。五千と少しの軍勢を動かすということは、ローゼリア国内全体の兵の数を考えると、三分の一は動かすことになる。

 そこまでの軍勢を出してくれるとは思わなかったアルベールは、何度も瞬きをくり返しつつ、ローゼリア国王を見やった。

 王はアルベールの視線に気が付いて苦笑した。

「アデルがあちらの塔にいるからな。……行かせないと言ったら、レンバード将軍は辞表を出してでも単騎で突っ込んで行きそうだったのだ」

「ああ、ヘンドリックは姉上の護衛騎士でしたからね」

 エドワルドが一つ頷いて、アルベールを見た。

「ラッセル老が軍師として立つと言い出したから、この数ならやり方によってはひっくり返せるかもしれません」

「ラッセルが動くと言ったのか?」

「口説くのに苦労しましたけどね。もうろくじじい呼ばわりして煽ったら、最終的に若造に負けるかとすっかり張り切っていますよ」

「……なるほど、それは多少なりとも有利に働きそうだな」

 確か、ラッセルと言うのはエドワルドの教育係だったはずだ。そのラッセルという老人は、エドワルドからもローゼリア国王からも随分信頼されているらしい。

「あのじじいは性格は悪いけど、頭がいいのは確かですからね。戦は力ではなく頭で勝つものだって昨日からずっと地図にしるしをつけて回っていますから、そろそろ名案でも浮かぶんじゃないですか?」

「わかった。……ラッセル老まで引きずり出したのならば、エドワルド、お前が我が軍の総指揮を執るんだな?」

「そうなりますね」

 エドワルドがあっさり頷いたから、アルベールはギョッとした。

「エドワルド殿!?

 エドワルドはニッと笑った。

「悲観するにはまだ早いですよ、アルベール殿。実は昨日、とんでもない名案を思い付いたんです。正直俺は、その名案を試したくて試したくて、うずうずしているんですよ」

 まるで悪戯を思いついた子供のような顔だった。

 ローゼリア軍やエドワルドが動いてくれるのは非常に心強いのだが、アルベールはどうしてか、エドワルドのその「名案」とやらが、ろくでもないもののような気がして、不安を覚えたのだった。